アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:ヨーロッパ > その他の国(含非ヨーロッパ)

 ドイツ語ディアスポラは結構世界中に散らばっているが、アメリカのペンシルベニアやルーマニア(それぞれ『117.気分はもうペンシルベニア』『119.ちょっと拝借』の項参照)の他に、アフリカ南端のナミビアにドイツ語話者がいることは知られている。このナミビア・ドイツ人は現在のナミビアが「南西アフリカ」と呼ばれたドイツ帝国の植民地だったときに(「支配者」として)移住してきた人たちの子孫だが(『113.ドイツ帝国の犯罪』参照)、ドイツが第一次世界大戦に負けた後も出て行かなかった直接の子孫だけではなく時代が下ってから新たにやってきた人たちもいる。大抵はいまでも大土地所有者で政治的・経済的にも影響力の強い層である。

ナミビアにはこのようなドイツ語の看板・標識がゴロゴロある。ウィキペディアから。
NamibiaDeutscheSprache

 ナミビアの公用語は英語だが、正規の国家語national languageとして認められているのは全部で8言語ある。まず原住民の言語には(面倒くさいので日本語名は省く)Khoekhoegowab、OshiKwanyama 、Oshindonga、Otjiherero、RuKwangali、Siloziの6言語があり、後ろの5つはいわゆるバントゥー語グループ、最初のKhoekhoegowabはコイサン諸語のひとつでコイサンのなかで最大の話者を持ち、約20万人の人に話されているとのことだ。以前にも言及したナマという民族がこの言語を話し、語順は日本語と同じSOV。音韻については資料によってちょっと揺れがあるのだが、8母音体系で音調言語。少なくとも3つ(資料によっては4つ)の音調を区別する。基本的な(?)印欧語のように文法性が3つ。またさすがにコイサン語だけあって、クリック音がある:子音が31あるが、そのうちの20がクリック音、11が非クリック音である。さらに人称代名詞に exclusive と  inclusive の区別(『22.消された一人』参照)があるというから非常に面白い言語である。
 OshiKwanyamaとOshiNdongaは相互理解が可能なほど近く、この二つはOshiwamboという共通言語の方言という見方もある。例えばOshiKwanyamaでgood morningはwa lele po?、OshiNdongaではwa lala po?で、そっくりだ。前者はナミビアのほかにアンゴラでも話されていて話者はナミビアで25万、アンゴラで約40万強ということになっているが、この話者数は資料によって相当バラバラなのであまり鵜呑みにもできない。どちらも母音は5つで(この点ではスタンダードな言語である)、コイサンと同様音階を区別するそうだ。クリック音がないのが残念だがその代わりにどちらにも無声鼻音がある。無声鼻音といえば以前に一度ポーランド語関連で話に出したが、ポーランド語ではあくまで有声バージョンのアロフォンだったのに対し、ここでは有声鼻音とそれに対応する無声鼻音が別音素である。とても私には発音できそうにない。
 さらにバントゥー諸語は名詞のクラスがやたらとあることで有名で、これらの話者から見たらせいぜい女性・中性・男性の3つしかない印欧語如きでヒーヒー言っている者など馬鹿にしか見えないだろう。OshiKwanyamaとOshiNdongaは名詞に10クラスあり、それに合わせて形容詞から何から全部10様に呼応する。そこにさらに単数と複数の区別があり、さらに格が加わるといったいどういうことになるのか、考えただけで眩暈がする。クラスの違いは接頭辞によって表され、Oshi-という接頭辞のついた語は第4クラスの名詞だそうだ。
 Otjihereroは以前に書いたドイツ帝国の民族浄化の対象となったヘレロの言葉で、話者数は15万から19万人。名詞のクラスは10、そしてotji-というのは上のoshi-と同様、第4クラスのマーカーだ。形がよく似ているのがわかる。また余計なお世話だがナミビア大学にはKhoekhoegowab、Oshiwambo、Otjihereroの課程がある

ナミビア大学で学べる言語。この他にスペイン語も学べる。思わず留学したくなる。
uniNamibiaBearbeitet

 RuKwangaliもまた バントゥー諸語だが、クリック音が一つある。この、語族を越えて同じ音韻現象が見られる例として有名なのはドラビダ語のタミル語と印欧語のヒンディーに双方そり舌音があることだが、まあこれも一種の言語連合現象(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)とみなすべきなのだろうか。他にバントゥー語でクリック音を持っている言語にIsixhosaがあるが、この言語ができる学生に会ったことがある。ドイツ人の学生だったが、南アフリカだかナミビアに留学したことがあるそうで、Isixhosaを話せ、クリック音を発音して見せてくれた。将来はあの辺の言語に携わりたいと言っていたが、今頃本当にナミビア大学にいるかもしれない。
 話を戻してRuKwangaliだが、5母音体系で子音は18あるそうだ。音階は高低の二つ。さらに語順はSVOで名詞のクラスは上の言語よりさらにひどく(?)18である。話者は約13万人とのことだが、これもあまり正確な数字ではないのではなかろうか。
 最後のSiloziは話者数7万人~15万人(実に幅の広い記述だ)とのことだが、言語の構造そのもの(挨拶やお決まりのフレーズを紹介していたものは少しあったが)については簡単に参照できる資料が見つからなかった。上の言語も皆そうだが、ハードな研究者、研究書はいるしある。しかし予算が0円・0ユーロの当ブログのためにそれをいちいち取り寄せるのも割に合わないような気がしたのでこの程度の紹介で妥協してしまった。また世界中の言語の概要を紹介しているEthnologue: Languages of the worldというサイトが有料になってしまっていて参照できない。貧乏で申し訳ない。

 さて、これらの現地語と比べると面白さやスリルの点で格段に落ちるが、アフリカーンス、ドイツ語、英語(公用語。上述)もナミビアで正式に国家の言語として認められている。ドイツ語が国家レベルの正規な言語として認められているのはヨーロッパ外ではこのナミビアだけだ。地方レベルでならブラジルやパラグアイでも承認されているし、隣の南アフリカでは少数言語として公式承認されているが、これは「国家の言語」ではない。ナミビアでドイツ語を母語としているのは2万人から2万5千人ぽっちしかおらず、この点では上の6言語より少ないが、話者が政治経済の面でまあ嫌な言い方だがいわば支配者層なので、強力な言語となっている。
 遠いナミビアに、ドイツ語を母語として生まれ育ち、民族としては完全にドイツ人なのにドイツという国に行ったことがないまま人生を終える人が「ぽっち」と言っても万の単位でいるのだ。これらドイツ系ナミビア人は首都のヴィントフックWindhoek(しかしこのWindhoekという地名自体は皮肉なことにドイツ語でなくアフリカーンス語であるが)に特に多いとはいえ、ナミビア全土にわたって広く住んでいて、たとえ見たこと・訪れたことがなくてもドイツ本国の存在を強く意識し、文化面でも言語面でもドイツとのつながりを失うまいと努力している。
 特にドイツ語による学校教育が充実していて、今ちょっと調べた限りではドイツ語で授業を行なっている正規の学校が13ある。私立が多いが国立校もあるし、いくつかはドイツ本国から経済援助を受けている。有名なのがヴィントフックにある「私立ドイツ高等教育学校」Deutsche Höhere Privatschule (DHPS)で、幼稚園から高校卒業までの一貫教育を行なっている。1909年創立というから、なんと植民地時代から続いているのである。さらに上述のナミビア大学でも授業の一部をドイツ語で行なっている。とにかくドイツ語だけで社会生活をまっとうできるのだ。さらにドイツ語の新聞も発行されている。「一般新聞」Allgemeine Zeitungという地味な名称だが、これも1916年創刊という古い新聞だ。電子版のアーカイブで過去の版が読めるようになっていてちょっと感動した。
 ドイツ本国の側にもゲッティンゲンに本部を置く「ドイツ・ナミビア協会」Deutsch-Namibische Gesellschaft e.Vという民間組織がありナミビアとの文化交流のためにいろいろなプロジェクトを立てている。会員は現在1500人だそうだからこういうのもナンだがあまり大きな組織ではないようだ。
 なお、変なところに目が行ってしまって恐縮だがナミビア大学や「一般新聞」のインターネットのサイトのドメインが「.na」、つまりナミビアのドメイン名になっていたのにゾクゾク来た。私立ドイツ高等教育学校とドイツ・ナミビア協会はドメイン名が「.de」、つまり平凡なドイツ名だったのでガッカリである。

Windhoek中央駅。真ん前にトヨタの車が止まっているのがちょっと興ざめ。ウィキペディアから。
Gare_de_Windhoek

 さて、このようにナミビアではドイツ系国民が常に本国を意識し、言語や文化を継承しようと努力しているが、では本国の一般ドイツ人はドイツ系ナミビア人のことをどう思っているのか。試しにドイツ人二人にドイツ人はどのくらいドイツ系ナミビア人のことを知っているのか、またドイツ語がナミビアの正規の国家語であることを知っているか聞いてみたら、バラバラに訊ねたにも関わらずほとんど同じ答えが帰ってきた:「普通のドイツ人はそもそもナミビアなんて国知らないだろ」さらに「なんでそんなところにドイツ人がいるんだよ。」とまるで私の方が血迷ってでもいるかのような按配になってきた。最初に「アフリカ南端のナミビアにドイツ語話者がいることは知られている」と書いたが訂正せねばなるまい。知っているのは関係者と日本人だけのようだ。
 ナミビア・ドイツ人の方も自分たちの存在が本国ではあまり知られていないのがわかっていて不公平感を持っているのか、本国ドイツ人に対する感情がちょっと屈折している気がした、と上述のIsixhosaができる学生が話していたことがある。ナミビアのドイツ語は学校教育が発達していることもあるのだろう、基本的には美しい標準ドイツ語だがそれでも語彙使いで本国から来たとすぐバレるのだそうだ。すると引かれたりからかわれたりする。もちろんイジメとか排除とか陰険なことはされないがまあ間に線が入ることが多いのだそうだ。
 ルーマニアのドイツ語のところでも引用したAmmonという学者が次のような「ナミビア・ドイツ語」の語彙を挙げている。
abkommen: (激しい降雨のあと)カラカラに乾いた水路に突然強い水流がくること
                 例えばein Rivier kommt abという風に使う
Bakkie, der: ピックアップ・トラック、プラットホームトラック
Biltong, das:(味付けした)乾燥肉
Bokkie, das:  山羊
Boma, die: ズック地で区切った野生動物を入れておく(暫定的な)檻
Braai, der: グリルパーティー
Dagga, das: マリファナ、ハシッシュ、大麻
Damm, der: ダムを作った一種の貯水池
Despositum, das:(貸家・貸し部屋の)敷金
Einschwörung, die: 就任宣誓
Gämsbock, der: オリックス
Gehabstand, der: 骨を折らなくても徒歩でいける距離
Geyser, der: お湯をためておく装置、ボイラー
Kamp, der: 柵で囲った平地
Kettie, der: パチンコ
Klippe, die: 石
Küska, der: Küstenkarneval「海岸のカーニヴァル」の略語
Magistratsgericht, das: 最も下位の刑事・民事裁判所
Oshana, das: 南北に走る浅い排水溝と北ナミビアの真ん中にあるくぼ地
Panga, der/die: 山刀、なた
Permit, das: 役所が(請願書に対してだす書面での)許可証
Ram, der: 去勢されていない雄羊
Rivier, das: 干上がった川底
Shebeen, die:(多くの場合非合法の)小さな酒場または許可は貰っている、貧しい地区に
       あるトタン葺きなどの簡単なつくりの小屋の酒場
Straßenschulter, die: 砂利または砂が敷かれた、舗装道路の底
trecken: 引く(牽引する)
VAT: 英語のValue added tax(「付加価値税」)の略語
Veld, das: 開けた広い土地、サバンナ
Vley, das: 雨季に水がたまるくぼ地
Zwischenferien, die: 6月か12月にある短い(大抵一週間の)学校休み

 先のルーマニア・ドイツ語と比べると牧畜や動物に関係する用語が多い。また英語やアフリカーンス(多分地元の言語からも)からの借用が目立つ。たとえば「オリックス」(太字)というのはガゼルの一種で、別名としてゲムズボックという名称も動物学では使われているらしいが、これは本来アフリカーンスで(gemsbok)、そこからドイツ語に借用されたものである。一番最初の動詞 abkommen (太字)は単語自体は本国ドイツ語にもあるが、意味が乖離して本国では見られない使い方をされている例だ。見ていくといろいろ面白い。

これがゲムズボック。ウィキペディアから。
800px-Oryx_Gazella_Namibia(1)

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 中国とパキスタンを結び、途中標高4714mの高所を通る国道35線は俗にカラコルム・ハイウェイと呼ばれている。1980年代に開通した。この国道のほとりにフンザHunza渓谷という谷があるが、ここで話されているのがブルシャスキー語(アクセントは「ル」にあるそうだ)という言語である。

カラコルム・ハイウェイ。Hunza や Nager (Nagar)という地名が見える。
Karakoram_highway.svg

 谷の一方がフンザ、川を挟んだ向こう側がナゲルNager という地名で、いっしょにされてフンザ・ナゲルと呼ばれていることが多い。しかしこの二つはそれぞれ別の支配者(ブルシャスキー語でtham)に統治される独立国であった。両国間での戦争さえあったそうだ。1891年にイギリスの支配下に入り1947年に自主的にパキスタンへの併合の道を選んだ。長い間君主国としての独立性を保っていたが、ナゲルは1972年フンザは1974年に王国としての地位を失い単なるパキスタン領となった。フンザには約4万人、ナゲルにもほぼ同数のブルシャスキー語話者がいると見られる。両者間には方言差があるが相互理解には何ら支障がない。ナゲルの方が保守的だそうだ。例えばhe does it をナゲルではéću bái といってéću が動詞本体、báiはいわば助動詞だが、これがフンザでは合体してéćái または éćói という形になっている。同様にyou have done it はナゲルでétu báa、フンザでétáa または étóo となる。母音の上についている「´」はアクセント記号だが、フンザではこの短い単語にアクセントが二つある、ということは山が二つあることになるわけでいかにも元は二つの単語だったと思わせる。また本来同じ母音が二つ連続していたのがフンザでは一母音に短縮され、ナゲルで「一ヵ月」は hísa-an というのにフンザでは hísan と母音が縮まっている。語彙の点でもいろいろ相違があるらしい。
 このフンザとナゲルの他にもう一つブルシャスキー語地域がある。フンザ渓谷の北西約100kmのところにあるヤスィンYasinという辺境の谷がそれ。ここの方言はフンザ・ナゲルとはさらにはっきり差があり、フンザ/ナゲル対ヤスィンという図式になるそうだ。それでもやはり相互理解の邪魔にならない程度。このヤスィン方言の話者は昔ナゲルから移住してきた人たちの子孫、つまりヤスィン方言はナゲル方言から分かれたものらしい。いくつかの資料から分かれた時期は16世紀ごろと推定できる。南米スペイン語と本国スペイン語との違い同じようなものか。またヤスィン方言はフンザよりさらに語尾や助詞・助動詞の簡略化が進んでいるとのことだ。オランダ語とアフリカーンスを思い出してしまう。ブルシャスキー語の話者の総数はおよそ10万人だそうだから、単純計算でヤスィン方言の話者は2万人ということになる。でも「10万人」というその数字そのものがあまり正確でないようだから本当のところはわからない。
 ちょっとこの3つの方言を比べてみよう。
Tabelle1-144
「目」と「肝臓」の前にハイフンがついているのは、これらの語が単独では使われず、常に所有関係を表す前綴りが入るからだ(下記参照)。全体的にみると確かにナゲル→フンザ→ヤスィンの順に形が簡略化していっているのがわかる。また、フンザの「目」の複数形などちょっとした例外はあるにしてもヤスィンとフンザ・ナゲル間にはすでに「音韻対応」が成り立つほど離れているのも見える。しかし同時にこれらのバリアントが言語的に非常に近く、差異は単に「方言差」と呼んでもいいことも見て取れる。確かにこれなら相互理解に支障はあるまい。またナゲル→フンザ→ヤスィンの順に簡略化といっても一直線ではなく、例外現象(例えば下記の代名詞の語形変化など)も少なくないのは当然だ。

ブルシャスキー語の話されている地域。上がウィキペディアからだが、雑すぎてイメージがわかないのでhttp://www.proel.org/index.php?pagina=mundo/aisladas/burushaskiという処から別の地図を持ってきた(下)。
Burshaski-lang

burushaski

 ブルシャスキー語の研究は19世紀の半ばあたりから始まった。周りと全く異質な言葉だったため、当時植民地支配していたイギリス人の目に留まっていたのである。最初のころの研究書は量的にも不十分なものだったが、1935年から1938年にかけて出版されたD. L. R. Lorimer 大佐による全3巻の研究書はいまだに歴史的価値を失っていない。氏は英国人で植民地局の役人だった。しかし残念ながらこれもこんにちの目で見るとやはり音韻面の記述始め語彙の説明などでも不正確な面がいろいろあるそうだ。1930年代といえば今の構造主義の言語学が生まれたばかりの頃であるから仕方がないだろう。
 その後も研究者は輩出した。例えば Hermann Berger の業績である。ベルガー氏は1957年からブルシャスキー語に関心を寄せていたが、1959年、1961年、1966年、1983年、1987年の5回、現地でフィールドワークを行い、その結果をまとめて1998年に3巻からなる詳細なフンザ・ナゲル方言の研究書を出版した。一巻が文法、2巻がテキストとその翻訳、3巻が辞書だ。最後の5回目のフィールドワークの後1992年から1995年まで現地の研究者とコンタクトが取れ手紙のやり取りをして知識を深めたそうだ。その研究者はデータを集めたはいいが発表の きっかけがつかめずにいて、理論的な下地が出来ていたベルガー氏にその資料を使ってもらったとのことだ。ヤスィン方言についてはすでに1974年に研究を集大成して発表している。
 最初は氏はブルシャスキー語の親族関係、つまりどの語族に属するのかと模索していたようで、一時はバスク語との親族関係も考えていたらしいことは『72.流浪の民』でも紹介した通りであるが、その後自分からその説を破棄しブルシャスキー語は孤立語としてあくまで言語内部の共時的、また通時的構造そのものの解明に心を注ぐようになった。1966年の滞在の時にはすでにカラコルム・ハイウェイの建設が始まっていたので外国人は直接フンザ・ナガル渓谷には入れずラーワルピンディーというところまでしか行けなかったそうだが、そこでインフォーマントには会ってインタビュー調査をやっている。1983年にまた来たときはハイウェイがすでに通っていたわけだが、あたりの様子が全く様変わりしてしまっていたと氏は報告している。

 さてそのブルシャスキー語とはどんな言語なのか。大雑把にいうと膠着語的なSOVの能格言語であるが(大雑把すぎ)、特に面白いと思うのは次の点だ。

 まずさすがインド周辺の言語らしくそり舌音がある。[ʈ, ʈʰ,  ɖ,  ʂ, ʈ͡ʂ ,  ʈ͡ʂʰ,  ɖ͡ʐ , ɻ] の8つで、ベルガーはこれらをそれぞれ ṭ, ṭh, ḍ, ṣ, c̣, c̣h, j̣, ỵ と文字の下の点を打って表記している。それぞれの非そり舌バージョンは [t, tʰ, d, s, t͡s,  t͡sʰ, d͡ʑ , j]、ベルガーの表記では t, th, d, s, c, ch, j, y だ。最後の y、 ỵ の非そり舌バージョンは半母音(今は「接近音」と呼ばれることが多いが)だが、これは母音 i のアロフォンである。つまり ỵ は接近音をそり舌でやるのだ。そんな音が本当に発音できるのかと驚くが、この ỵ は半母音でなく子音の扱いである。また t, tʰ, d  の部分を見るとその音韻組織では無気・帯気が弁別性を持っていることがわかる。さらにそれが弁別的機能を持つのは無声子音のみということも見て取れ、まさに『126.Train to Busan』で論じた通りの図式になってちょっと感動する。

ベルガーによるブルシャスキーの音韻体系。y、w はそれぞれ i、u  のアロフォンということでここには出てこない。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.13 から
burushaski-phoneme-bearbeitet
 しかしそり舌の接近音くらいで驚いてはいけない。ブルシャスキー語には文法性が4つあるのだ。これはすでにLorimer が発見してそれぞれの性を hm、hf、x、y と名付け、現在の研究者もこの名称を踏襲している。各グループの名詞は語形変化の形が違い修飾する形容詞や代名詞の呼応形も異なる、つまりまさに印欧語でいう文法性なのだが、分類基準は基本的に自然性に従っている。hm はhuman masculine で、人間の男性を表す語、人間でない精霊などでも男性とみなされる場合はここに属する。hf はhuman feminine、人間の女性で、男の霊と同じく女神なども hm となる。ただし上で「基本的に」と書いたように微妙な揺れもある。例えばqhudáa(「神」)は hm だが、ことわざ・格言ではこの語が属格で hf の形をとり、語尾に -mo がつくことがある。hf の bilás(「魔女」)は時々 x になる(下記)。この x 、 y という「文法性」には人間以外の生物やモノが含まれるが両者の区別がまた微妙。動物はすべて、そして霊や神で性別の決まっていないものは x 。これらは比較的はっきりしているが生命のない物体になると話が少し注意が必要になる。まず卵とか何かの塊とか硬貨とか数えられるものは x、流動体や均等性のもの、つまり不可算名詞や集合名詞は  y になる。水とか雪とか鉄とか火などがこれである。また抽象名詞もここにはいる。ややこしいのは同じ名詞が複数のカテゴリーに 属する場合があることだ。上で挙げた「揺れ」などではなく、この場合は属するカテゴリーによってニュアンスというより意味が変わる。例えば ráac̣i は hm なら「番人」だがx だと「守護神」、ġénis は hf で「女王」、y で「金」となる。さらに ćhumár は x で「鉄のフライパン」、y で「鉄」、bayú は x だと「岩塩」、つまり塩の塊だが y では私たちが料理の時にパラパラ振りかけたりする砂状の塩だ。
 もちろん名詞ばかりでなく、代名詞にもこの4つの違いがある。ヤスィン方言の単数形の例だが、this はそれぞれの性で以下のような形をとる。hf で -mo という形態素が現れているが、これは上で述べた -mo についての記述と一致する。
Tabelle2-144
フンザ・ナゲルでは hm と hf との区別がなくh として一括できる。
Tabelle3-144
 さらに動詞もこれらの名詞・代名詞に呼応するのは当然だ。

 上でブルシャスキー語は膠着語な言語と書いたのは、トルコ語のような真正の膠着語と違って語の後ろばかりでなく接頭辞が付きそれが文法上重要な機能を担っているからだ。面白いことに動詞に人称接頭辞が現れる。動詞の人称変化の上にさらに人称接頭辞が加わるのだ。例えば werden (become) という自動詞では動詞本体の頭に主語を表す人称辞がついて

i-mánimi → er-wurde (he-became)
mu-mánumo → sie-wurde (she-became)

となり、動詞の語形変化と接頭辞で人称表現がダブっているのがわかる。もっともブルシャスキー語は膠着語的な言語だから、上の例でもわかるように「動詞の人称変化」というのは印欧語のような「活用」ではなく動詞本体に接尾辞がつくわけで、つまり動詞語幹が前後から挟まれるのだ。これが単語としての動詞でシンタクス上ではここにさらに主語(太字)がつく。

hir i-mánimi → der Mann wurde (the man became)

だからこの形は正確にいうと der Mann er-wurde (the man he-became) ということだ。一方他動詞の場合は、「能格言語」と聞いた時点ですでに嫌な予感がしていたように人称接頭辞が主語でなく目的語を表す。

i-phúsimi → er ihn-band (he him-bound)
mu-phúsimi → er sie-band (he her-bound)

ここにさらに主語と目的語がつくのは自動詞と同じだ。

íne hir i-phúsimi → er band den Mann (he bound the man)

直訳すると er ihn-band den Mann (he him-bound the man) である。ここまでですでにややこしいが問題をさらにややこしくしているのが、この人称接頭辞が必須ではないということだ。どういう場合に人称接頭辞を取り、どういう場合に取らないか、まだ十分に解明されていない。人称接頭辞を全く取らない語形変化(語尾変化)だけの動詞も少なからずある。また同じ動詞が人称接頭辞を取ったり取らなかったりする。そういう動詞には主語や目的語が y-クラスの名詞である場合は接頭辞が現れないものがある。また人称接頭辞を取る取らないによって意味が違ってくる動詞もある。人称接頭辞があると当該行動が意図的に行われたという意味になるものがあるそうだ。例えば人称接頭辞なしの hir ġurċími (der Mann tauchte unter/ the man dived under) ならその人は自分から進んで水に潜ったことになるが、接頭辞付きの hir i-ġúrċimi (何気にアクセントが移動している)だとうっかり足を滑らして水に落っこちたなど、とにかく外からの要因で起こった意図していない潜水だ。他動詞に人称接頭辞がつかないと座りの悪いものがあるのはおそらくこの理由による。上で述べたように他動詞だから接頭辞は目的語を示すわけだが、その目的語から見ればその作用は主語から来たもの、つまり目的語の意志ではないからだ。逆に自動詞に接頭辞を取ると座りが悪いのがあるが、それは意味そのものが「座る」とか「踊る」とか主語の主体性なしでは起こりえない事象を表す動詞だ。さらに人称接頭辞のあるなしで自動詞が他動詞に移行する場合もある。例えば接頭辞なしの qis- は「破ける」という自動詞だが接頭辞がつくと i-qhís- で、「破く」である。
 もうひとつ(もういいよ)、名詞にもこの人称接頭辞が必須のものがある。上述のハイフンをつけた名詞がそれで、「父」とか「母」などの親族名称、また身体部分など、持ち主というかとにかく誰に関する者や物なのかはっきりさせないとちゃんとした意味にならない。例えば「頭・首」は-yáṭis だが、そのままでは使えない。a-yáṭis と人称接頭辞 をつけて初めて語として機能する。上の動詞で述べた接頭辞 i- は hmで単数3人称だが、このa-  は一人称単数である。これにさらに所有代名詞がつく。jáa a-yáṭis となり直訳すると mein ich-Kopf (my I-head)、「私の頭」である。これに対し他の名詞は人称接頭辞がいらない。jáa ha で「私の家」、「家」に接頭辞がついていない。しかし持ち主がわからず単にa head または the head と言いたい場合はどうするのか。そういう時は一人称複数か3人称複数の人称接頭辞を付加するのだそうだ。

 極めつけというかダメ押しというか、上でもちょっと述べたようにこのブルシャスキーという言語は能格言語(『51.無視された大発見』参照)である。自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格(絶対格)になり他動詞の主語(能格)と対立する。ベルガー氏がバスク語との関係を云々し、コーカサスの言語とのつながりをさぐっている研究者がいるのはこのためだろう。ブルシャスキー語は日本語などにも似て格の違いを接尾辞でマークするので印欧語のように一発できれいな図表にはできないが(要するに「膠着語的言語」なのだ)、それでも能格性ははっきりしている。絶対格はゼロ語尾、能格には -e がつく。

自動詞
hir i-ír-imi
man.Abs + hm.sg.-died-hm.sg
der Mann starb (the man died).

他動詞
hír-e gus mu-yeéċ-imi
man.Erg + woman.Abs + hf.sg-saw-hm.sg
Der Mann sah die Frau (the man saw the woman)


ブルシャスキー語の語順はSOVだから、他動詞では直接目的語の「女」gus が動詞の前に来ているが、これと自動詞の主語hir(「男」)はともにゼロ語尾で同じ形だ。これが絶対格である。一方他動詞の主語はhír-e で「男」に -e がついている。能格である。人称接頭辞は上で述べた通りの図式だが、注意すべきは動詞の「人称変化」、つまり動詞の人称接尾辞だ。自動詞では接頭、接尾辞ともに hmの単数形で、どちらも主語に従っているが、他動詞では目的語に合わせた接頭辞は hf だが接尾辞の方は主語に呼応するから hm の形をとっている(下線部)。言い換えるとある意味では能格構造と主格・対格構造がクロスオーバーしているのだ。このクロスオーバー現象はグルジア語(再び『51.無視された大発見』参照)にもみられるし、ヒンディー語も印欧語のくせに元々は受動態だったものから発達してきた能格構造を持っているそうだから、やっぱりある種のクロスオーバーである。

 ところで仮にパキスタン政府がカラコルム・ハイウェイに関所(違)を設け、これしきの言語が覚えられないような馬鹿は入国禁止とか言い出したら私は絶対通過できない。そんな想像をしていたら一句浮かんでしまった:旅人の行く手を阻むカラコルム、こんな言語ができるわけなし。


ブルシャスキー語の格一覧。Kasus absolutusが絶対格、Ergativが能格。
Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.63 から
burushaski-Kasus-bearbeitet
そしてこちらが人称接頭辞一覧表。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.90 から
burushaski-praefixe-bearbeitet
ベルガー氏が収集したフンザ方言の口述テキストの一つ。ドイツ語翻訳付き。「アメリカ人とK2峰へ」。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil II Texte mit Übersetzungen. Wiesbaden:Harrassowitz: p.96-97 から
burushaski-text-bearbeitet


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 前にちょっと出したインド領アンダマン諸島に住んでいるセンティネル人もそうだが、いわゆる未接触部族と言われる人々がいる。「いわゆる」と前置きしたのはこの言葉が厳密に定義されたものではない上に、あくまで外部側の一方的視点に根ざしている語だからである。一般に理解されている意味では「最初から外部世界と接触を保つことをを拒否するか、あるいは一旦外部と接触したのち、自ら進んで孤立した生活を続けるかそこに戻った人々」のことだ。
 2007年に先住民族の権利に関する国連宣言が出されて先住民族が同化を強制されず異なった独自の民族として自由に生活する権利を保証されたが、アメリカ大陸にもIACHR (Inter-American Commission on Human Rights)という組織がある。先住民族との接触事件はヨーロッパが世界征服を始めた時点から頻繁に起きているが、ほぼ全部が散々な結果に終った。先住民の土地に勝手にドカドカ入り込み、資源を奪い、挙句は先住民を支配したり奴隷化したりするのは論外だが(その「論外」がむしろスタンダードだった)、侵入者にたとえ悪気がなくても彼らが持ち込んだ疾病のせいで免疫のない住民が全滅したりほぼ全滅する憂き目を見た。たとえば宣教師などは意図としては「住民が神の子として幸せになれるように」するつもりだっただろうし(少なくとも一部のまじめな宣教師は)、また支配者側には先住民を「文明化」して生活を楽にしてあげようとしたのだろうが、住民の側は病気は持ち込まれるわ、今までの生活の伝統を急に破壊されるわで身体的にも精神的にもとてつもない打撃を受けた。いまだにアボリジニや米あるいはカナダ領のイヌイットにはアルコール中毒患者が多いのを見ても外部者の無神経さがいかに大きな破壊的作用をもたらすかわかる。例えばこの未接触部族の一番多い国はアマゾン熱帯雨林の半分以上を領土にかかえるブラジルだが、1500年ごろには当地にはおよそ1000部族、2百万から4百万人ほどの先住民族がいたと見られる。ところが5世紀を経た現在では先住民族は40万人、知られている限りでは220部族となってしまった。ブラジルの全人口の0.2%とかその辺である。
 そういう反省から国連でもIACHR などの組織でも、住民がその民族として生きる権利を最重要視して同化政策などはとらないことにした。もっともその原理を遂行するのにはいろいろ実際的な問題があるようで、そう理想的にばかりはいっていないらしい。1980年代の半ばになっても、外部から来た森林伐採者と何人か「ちょっと」接触したペルーのナワ族(メキシコのナワとは別でまたの名をヤミナワYaminawáと呼ばれる人たち)が居住地に風邪を持ち帰って60%の部族民が亡くなるという事件が起こっている。
 上記のブラジルには1967年からFUNAI(Fundação Nacional do Índio、国立先住民保護財団)という政府組織があって、アマゾンの先住民族の保護にあたっている。FUNAIには元になった組織がある。SPI(Serviço de Proteção ao Índio、インディオ保護業務)といい、1910年に創立されて先住民の保護にあたっていたが創立者の死後いわば組織が堕落し、業務員による賄賂事件や性的虐待が続いたので解体され、今のFUNAIにとってかわられた。私がニュースなどを見てみた限りではFUNAIはきちんとした仕事を行っており、活動内容も透明である。もちろん批判もある。FUNAIはあくまでブラジル政府下の組織だから、時とすると政府の方針に従ってしまい、先住民を十分に保護していないなどだが、これも上記のような「実際的な問題」であって、組織そのものの欠陥とは言えないのではないだろうか。
 他の国の他の先住民保護組織もそうだがこのFUNAIも1980年の終わりごろからその保護政策が方向転換した。外から人を送り込んでその部族を助けたり妙な〇〇人文化センターなどを建てたりする余計なお世話をしないことにし、先住民とコンタクトせずに保護することにしたのだ。これは前に出したセンティネル人に対するインド政府の態度も同じである。部族民とコンタクトせずにどうやって保護するのか。まず、周囲の住民の報告などから当地には先住民族が住んでいる(らしい)ことがわかる。報告を受けたらFUNAIは当地に専門家を送り、存在を確認する。この「専門家」というのが大事で、接触していいのは人類学者や言語学者、医者などから構成されるチームであって、素人がシャシャリでてはいけない。存在が確認されたら当該民族の住んでいる地域を「進入禁止」として、周りの住民が勝手にドカドカ入れないようにする。ただ、当該民族がすでに周囲の住民や特に牧畜業、大規模な農家の侵入によって存続が危ぶまれるような場合は例外的に介入し、その民族を別の安全な地域に移動させたりする。さらにこれも例外的に向こうのほうが周囲の住民に近づいてきて交流を求めたりしたら、応じなければいけない。いずれにせよコンタクトは極めて慎重に、専門家によってのみなされるべきで、その際も決してパターリズムに陥ってはいけない。あくまで向こうの意思に従うのでないといけない。
 ブラジル政府は1988年に憲法で先住民が自分たちのアイデンティティに従って、同化を強制されることなくその民族として生きる権利を保証した。2009年にはFUNAIの権限が強化されたが、現ボルソナロ政権でまた先住民の立場が危なくなってきているようだ。

 そのFUNAIの接触報告は時々ニュースも流れてくる。例えば2014年に周囲の住民から見知らぬ人たちが作物を奪いマチェットその他の工具を持って行ってしまうとの報告を受けたFUNAIが現地に人類学者のホセ・カルロス・メイレレスJosé Carlos Meirellesを始めとした専門家を送り、そこでその非接触部族をカメラに捉えた。エンビラ川Rio Enviraの上流、ペルーとの国境近くの、両国にまたがる先住民保護地域にあるシンパティアSimpatiaという村である。1988年まではそのあたりの地域には白人は全く住んでいなかったが、そのあと木を伐採しに来たり地下資源を掘りに来たりコカインを栽培しに来たりする(もちろんいずれも不法侵入)白人が先住民を追い出し、時として殺戮したりし始めたそうだ。

その非接触民族との邂逅が行われたのはブラジルとペルーにまたがる保護区。マクイーン氏のドキュメンタリ(下記)から
simpatia4

人類学者ホセ・カルロス・メイレレス氏(ウィキペディアから)
José_Carlos_Meirelles,_2013_(cropped)

 最初の邂逅時は向こうの言語がわからず、メイレレス氏が聞き取れたのは「帽子」、シャラという言葉だけであった。私はその様子をストラスブールのTV局ARTEが流したドキュメンタリ番組で見たのだが、そこにはその非接触部族が村の家々に入り込んで勝手に服や工具を持ち出していく様子が映っている。FUNAI側が何とかしてコミュニケーションをとろうと必死になっているのも見て取れる。ドキュメンタリの制作者はアンガス・マクイーンAngus MacQueenという英国の映画作家。そのあとFUNAIはそうやって「接触してしまった」部族の居住地を確保して隔離し、服や食料を提供して周囲の村から略奪しなくてもいいようにした上健康検査なども行って保護した。全部で34人の部族民がその居住地で暮らすようになった。邂逅地シンパティアからさらに何時間もエンビラ川をさかのぼった処である。隔離したのは上記にも書いたように外部と少しでも接触すると、こちらのなんでもない病気が感染して致命的な結果になる懼れがあるからだ。

FUNAIが発表した、邂逅の模様を映すビデオ


 最初の邂逅から9ヵ月後にマクイーン氏の一行は、ブラジル政府の許可を得てその居住地を訪れた。言語的に近いヤミナワ族(上記)を通訳として2名連れてメイレレス氏に同行して貰った。その通訳を通して彼らの話を聞いたのだが、ドキュメンタリの最初の邂逅時の映像についている字幕も多分その2名の通訳が訳したのだろう。部族の人たちの話によると、彼らが住んでいた保護地に不法に侵入してきた「白人」から、攻撃を受け埋葬しきれないほどの人が殺されたので、もとの部族は四方八方に逃げ回って散り散りになり、彼らも逃げてきたとのことである。その殺戮はどうもペルー側で起こったらしい。昔からそこに住んでいる彼らにとってはもちろんベル―とブラジルの国境など存在しない。それで他の者にその「邪悪な人間」について警告もしようと思ったそうだ。彼らは自分たちをサパナワ族と名乗った。
 集団の指揮をとっていたのはシナと名乗る比較的若い男性だったが、ジャングルでの生活についていろいろと語っている。とにかく夜は満足に眠れた事がない。いつ誰に、または何に襲われるかわからないのでおちおち寝てなどいられないのだ。実際この人の祖母はジャガーに食われてしまったそうだ。雨が降り続くと獲物がないから4日くらい何も食べ物がないことなど日常茶飯事だった。
 またこの人は人を殺している。自分の村が襲われた時、部族を守るために「白人」を矢で射殺したそうだ。またこの人たちが「人の物を勝手にとってはいけない」という感覚を持っていないのは、ドキュメンタリの最初で人の村に勝手に入ってきて服を堂々と持って行ってしまうのを見てもわかる。彼らは以前から「白人」が服を着ていろいろな道具を持っているのを見かけて、自分たちもああいう服が欲しいと思っていた。欲しかったから当然それを盗み、皆で着ていたら、ほぼ全員病気になって死者まで出たと話している。メイレレス氏が最初に彼らが村の住民の物を持って行くのを見て必死に止めたのも「汝盗むなかれ」だからではなくて服から病気が感染する懸念があったからである。事実メイレレス氏が奥の居住地を訪れたときは女性の一人がひどい膀胱炎にかかっていた。

 メイレレス氏は非接触部族とのコンタクトは向こう側ばかりでなく、こちら側にとっても常に危険があることを語っている。最初の邂逅の直後が一番危ない。彼らに殺される危険性があるからだ。この20年間にFUNAIの職員がすでに100人以上邂逅した後非接触部族に殺されているそうだ。先住民からすれば、自分たちの土地に侵入してきて最初はいい顔をしていてもやがて仲間を虐殺しだす白人とFUNAIの白人の区別がつかないからだ。メイレレス氏自らも矢を射かけられたり襲われたりする目に何度も遭っている。別の資料によると一度など身内を守るために襲撃してきた先住民族の一人を殺めなければいけなかった。それが生涯のトラウマになっている。そういうことを淡々と話すメイレレス氏はいわゆる文明人がよくやるように昔ながらの生活をしている人々を変に牧歌的に理想化して見てもいなければ、逆に「未開人」だといって見下してもいない。この、文明化した現代の人間が「未開の」人々にたいしていだく傲慢な考えを嫌悪する態度は以前にアイザック・アシモフからも感じたことがある。古代エジプトのピラミッドの設計の正確さや、ペルーの巨大壁画(これらの人々は「未開」とは言えないが現代ほど科学技術や知識が発達していなかったことは確かだ)を見て「技術的に遅れていた当時の人々がこんな正確なものを造れるわけがない。宇宙人の仕業ではないのか」などと言い出す輩(おっと失礼)に対して「自分たちに理解できないことを遅れているはずの人たちが成し遂げるとすぐそういう発想をする人たちは肝心なことを忘れている。技術的に遅れていようが我々より知識がなかろうが、脳そのものは変わらないのだ。私たちの大部分が理解できないようなことを理解できる人は当時からいたのだ。」と怒りをぶつけていた。非接触部族にしても、私なんかより語学や数学の才能がある人などいくらもいるはずだ。
 メイレレス氏は彼らの事を単に「異なった生活様式」と言っているが、その「異なった生活様式、異文化」を見下すのと逆にやたらと憧れるのとは結局コインの裏表で、地に足が付いていない、さらに言ってよければ無責任な精神的自慰行為だと私は思っている。『138.悲しきパンダ』でもちょっと述べたが、異民族に自分たちの文化を押し付けて同化を強制しそれを「発展の手助け」と思うのも、勝手なイメージで「〇〇文化大好き」などと横恋慕しだすのも根は同じで、相手を血の通った自分たちと同等の人間だとは思っていない。だから私はアニメだけ見て「日本大好き」とかドイツ人に言ってこられても全然嬉しくも感謝する気にもなれない。
 メイレレス氏は違う。氏はドキュメンタリーの最後のほうで、「非接触部族を保護するのは彼らをガラスの箱に入れて標本さながらに昔ながらの生活をさせることではない。」とはっきり言っている。つまり自分たち用の見世物として永久保存するためではないのだ。部族を存続させるのが最大の目的で、そのため接触には細心の注意を払うが、それによって向こうの生活が良くなり、精神的にも部族としてのアイデンティティが保たれ、向こうもそれを望むなら伝統を捨てて習慣を変えるのに反対する理由は何もない。「サパナワ族はもう昔の裸には戻りませんよ(シナ本人も「服を着る習慣がついてしまうともう裸なんか恥ずかしくって」と言っている)。考えてもご覧なさい。今回サパナワが私たちの前に出てきて接触を求めなかったら、彼らはジャングルの中で全滅しその存在すら永久に知られずに終ったかも知れない。生活を変えたおかげで34人全員生き残っているんです。彼らに文明化を完全に拒否しろと命令することは出来ない。文明と衝突するのは危険な過程だし死人も出るだろう。でもそれが生きるということだ。彼らの子供たちはやがて書くことを覚え、大学に行くものだって出るだろう。環境に従って誰でも変わっていく。それが現実だ。」

子供は学習が早い。つい先日まで衣料さえ知らなかったのにもうカメラを抱えてジャングルを撮影し始めたサパナワ族の子供
kamera2

 さらに私は個人的に、人間の頭の出来は文明人だの未開人だのとは関係ないという当たり前の事実をもっともヒシヒシと感じるのは言語においてだと思っている。このブログでも時々「先進国ほど技術が発達していない」人々の言語に言及してきたが、どれもこれも難しい文法ばかりである。こういう凄い文法の言語を彼らは子供でもマスターしているのだ。いくら宇宙船の操縦ができて、やたらと難しい哲学論争ができて、グルメで金持ちで高尚な趣味を持っていても、これらの文法がスース―理解できる助けにはならない。難しいものは難しいのである。
 このドキュメンタリではヤミナワ族が助けてくれたからなんとかサパナワとも意思の疎通が取れた。そのヤミナワ人がサパナワ語とポルトガル語間を通訳する様子などもう神業としか思えない。その神業の助けが全くないといくら先進国から来た人でもお手上げだ。そういう、全く話の通じない非接触部族と接触した例はいくつかある。例えば1980年代に非接触部族の男性が2名現れたが、彼らの言語は周りの他の部族と完全に異なっていて、複数の先住民の言語ができる言語学者のノルバウ・オリベイラNorval Oliveiraが30年かけても十分にわからなかったそうだ。名前もわからないからこちら側で勝手にアウレAure、アウラ Aurá と呼んで、彼らに居住地を与えようとする試みは全て失敗に終わった。行く先々で人に害を加えたりものを盗んだり、トラブルがたえなかったらしい。結局亡くなるまでオリベイラ氏が保護したそうだ。これは日本のNHKで放映されたと教えてもらったが、残念ながら私はこちらにいるので見ていない。

メイレレス氏に同行したヤミナワ族の通訳
dolmetscher

 サパナワ族の話に戻るが、マクイーン氏はメイレレス氏らと分かれたあとペルー側に入ってもともとサパナワと同じ部族だったという別の人たちと遭っている。定住してキャッサバの栽培などで暮らしていたが、その人たちにメイレレス氏が撮影したビデオを見せたところ「この人たちは個人的には知らないが、話す言葉はすべてわかる」と答えた。さらに「リーダーがこんなに若い人というのは解せない。年配者が全員殺されたんじゃないか」とも言っていた。そのペルーの人たちはジャングルから出てきて生活を始めたが、奥のジャングルにはまだ親戚身内が住んでいるそうだ。「こっちに出てきて私たちと同じ暮らしをしたらいいのに」とその「親戚」は言っていた。
 ペルー側でも非接触民とその地に住む人たち(白人でなく定住生活に入った先住民であることが多い)との間に死人さえ出る争いが起こるそうだ。人を殺され家畜を奪われた村人は当然非接触民に報復したくなるだろう。双方にとって本当に危険で困難な過程である。

 なお最初に述べたようにFUNAIは「生活を変えるのに反対しない」からと言って自分の方から同化を促して生活を変えさせるようには絶対働きかけない。基本は「存在を確認したらその地区を立ち入り禁止にして外部と接触させない」やり方をとる。それでも外部から文明人はドンドン押しかける。先住民を邪魔だと言って殺したり追い出したりする。これが続けばいくらFUNAIが保護しても「いずれは非接触民族はいなくなるだろう。もうこの流れは止まらない。」とメイレレス氏でさえ言っている。文明とは何のためにあるのか、人間とは何か。

ARTEが流したドキュメンタリのフランス語版



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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下の記事は2021年11月20日の南ドイツ新聞印刷版とネット版に同時にのったコロナの陰謀論者についてのインタビュー記事です。ネット記事のタイトルは「馬鹿が大流行」というものでした。

全部見るにはアーカイブの有料使用者となるか、無料の「14日間お試し期間」に登録する必要があります。でもサイトをクリックするだけなら別にお金をとられたりしません
念のため:私はこの新聞社の回し者ではありません。

文:ナディア・パステガ

南ドイツ新聞:
カストナー先生、先生の新刊のように馬鹿について本を書く方と言うのはつまり自分は馬鹿だと思っていないということですよね。ご自分は選ばれた人の一員とお考えですか?

カストナー:
もちろん私だって日々の事項で時々馬鹿をやらかさない訳じゃありませんよ。

例えば?
この間スピードを出しすぎて罰金を取られました。

馬鹿はIQの問題じゃない、計算ができるとか外国語をマスターしてるとかそういう問題じゃないと先生はお書きになってますが。「馬鹿」とはつまり心のあり方ということでしょうか。
事実を無視する傾向ですね。長い目で見ない、その場で見かけだけのメリットのみ頭に置いて、長い目で見ると自分にも他人にもネガティブな結果になるということを無視するんです。馬鹿な人たちは自分たちを全体構成の一つと見ることができない、常に自分の関心事を真っ先に持ち出すんです。

ドナルド・トランプは馬鹿ですか?
いいえ、氏は経済史家のカルロ・マリア・チポラなら強盗とか犯罪者と呼んでいたところですね。トランプは状況を厳しく分析して、特定の戦術を使えばほぼ確実に成功すると結論しました。そしてその戦術を効果的に使いましたよ。

それでファンの群を大量に引き寄せたと。
頭がいいからと言って必ずしもモラルがあるわけじゃないですからね。トランプは他人の害を徹底的に自分のメリットになるようにしたんですよ。

世界史上最も馬鹿なのは誰だとお考えになりますか?
そりゃ候補が多すぎて答えにくいですよ。まあでもヒトラーはチャンスがあるでしょう。とにかく何百万人も絶滅させて世界大戦を引き起こし自分に対しても他人に対しても最大級の損害をもたらしましたからね。

馬鹿への対処法とは何でしょうか?馬鹿に付ける薬はない、と言われますが。
馬鹿を事実として受け入れるんです。馬鹿を計算に入れておくことですね。

高学歴はどうも特効薬にはならないようですね。例えばISの宗教原理主義に加担したのは教養のない単純な人たちとは限りませんでした。
馬鹿な人たちの主要パラメーターは、自分たちの立場を最優先させて他は全て無視することです。今のコロナ・パンデミックでも言ってる人がいるじゃないですか、私はずっとこのままでいるつもりだって。

どういうことですか?
二言目には「自分のことは自分で責任を取る」って言いますよね。何なんですかねこれは。

何なんでしょうか?おっしゃってください。
自分のことだけ気を付けて他は見ない、ってことですよ。隠者か何かで洞穴で完全に孤立した生活しているならそれでいいでしょうよ。それなら自分の責任は自分でとる、他人のことは構わない、でいいと思いますよ私は。でも私は大きな社会に接触している訳でね、そうなると自分の責任は自分で云々なんて完全にばかげてます。コロナの蔓延のおかげで馬鹿のネタにこと欠きませんよ。

というと?
例えば休暇でエキゾチックな国に旅行するときはワクチン打ちますよね。しっかり副作用があるのにです。出回っているB型肝炎のワクチンなんか、今みたいに広く使われるようになる前にテストした人の数なんて今のコロナワクチンに比べたら微々たるものですよ。現在コロナワクチンが嫌だと泣きごとを言ったりワーワー反対している人で、当人が今までにとっくに打って貰って(しまって)いるワクチンがどういう科学的に基盤に立っているのか詳しく調べてみた人なんか誰もいません。

コロナワクチン反対者は馬鹿だということですか?
そう言わざるを得ませんわね。

でも先生、そんなことをおっしゃってしまったら社会の溝が深まってしまうのではないですか?全く接点のない二つの世界が対峙していることになってしまいますよ。ワクチン支持者と反対者と。両者間の対話ができないじゃないですか。
しなくても構いませんよ。

はあ?!
対話の用意ができているというのは基本的に肯定すべきだし、いいことですよ。でもそれは双方に容易ができている場合に限るんですよ。それ以外は、まあ、目的もなく結論も出っこない独り言の組み合わせと言ったがいいですね。そういう「自分の意見の権利」と「自分の事実の権利」をゴッチャにするような人たちとは議論しないほうが時間も手間も省けるし、イライラしなくてもすみますよ。対話の場を開いて置くべきとか思うのは甘い。政府はただビシッと決めればいいんです、最新の科学的根拠に基づいてね。

ずっと正しいと信じられてきたのに実は逆だと証明されてしまった科学知識をそれまで正しいと信じていた人たちは馬鹿と呼べるんでしょうか?
いいえ。科学を信じること自体は馬鹿じゃありません。科学は常に動いてますからね。それぞれの研究の最新状況が最良の情報ですが、それだってさらに流れてます。常に新しい知識が入ってきますから。科学と言うのは物事は常に流動し見方は常に変化する、というのが前提ですから。

でも科学者や専門家の信頼性に一部傷がつきましたが。なぜでしょう?
多分理由はずっとさかのぼれるんでしょうが、特にトランプ政権と例の言語道断なオールタナティブ・ファクトって標語ではっきりしましたよ。オールタナティブ・ファクトなんてものはありません。ファクトか、さもなければファクトを無視するばかげた見方かです。以前は少なくとも大学で学び、その事柄に精通し、自分が何の話をしているのかちゃんわかっている人たちがいました。他の人は嘴を入れるのを控えるか、専門家のいう事を信じたものです。そのうち専門家は嘘つきだとか堂々と公共の場で言えるようになってしまいました。陰謀論信奉へスタンバイですよ。

そのご説明がつきますか?
世の中がどんどん複雑さを増して来たために陰謀論スタンバイが強化されたのは確実ですね。陰謀論が包括的なものであればあるほど、世の中のことを一発で説明してくれるようなものであればあるほど、その陰謀論は魅力が増しますから。そうやって専門家に不信を抱き、ファクト後の事実とかオールタナティブ・ファクトとかしゃべっているうちに基本的な雰囲気が出来上がってしまったんですよ。その雰囲気に誘導されて人々は何かのトンデモ理論をベースにして自分たちの見解とやらをでっちあげ、ファクトからの自由と見解の自由とを混同するようになったんです。

「なすすべなし」という感じですが…
この間さるネットビデオを見たんですよ。そこで誰かが、ワクチンとともに地球外生命体の蜘蛛の卵が体内に注入される、それが我々を体中から食いつくすぞと主張してまして。これは本当に「もうどうしようもない」ですよ。これ以上馬鹿げた話がありますか?!

誰もが自分の信じたいことを信ずる、という訳ですね。
でも馬鹿をあんまり自由にさせたり、特に権力を与えてはいけません。でないと危険です。馬鹿が自分たちに害を与えるのは我々の自由社会では法律違反じゃありませんが、他の人にまで害を与えるとなると話は別、全く冷静に落ち着いて受け入れてなんていられませんよ。

どういうことなんでしょうか?
コロナの話ばかりしてもいられないから別の話ですけど、ドイツの「祈祷師」で医者のリューケ・ゲールト・ハーマーが胡散臭い考案をして、おかげで1995年にガン患者の子供をもう少しで死なすところでしたよね。自分の治療法が見込みありと言い含めて、長い間両親の目をすっかりくらまして妨害しました。

先生のいう馬鹿ですが、増えてるんでしょうか?
馬鹿は大流行してます!本当に驚きますよ。どれだけ多くの領域で、人々が実は全然持っていないくせに能力知識を持ってるつもりになっているか。例えば洗濯機が壊れたらごく当然のことながら専門家を呼んできますよね。なのに明らかにそれより複雑なテーマについては自分は何もかも知っている・わかっているという顔をしだす人がたくさん。そういう遊び場の一つでポピュラーなのが医学ですよ。今日び自称専門家がもうウジャウジャいます。全く知識に基づいていない「フィーリングで」男性にも女性にもアドバイス。作家のチャールズ・ブコフスキイが表現してますね:頭のいい人たちが疑問懐疑にとらわれている一方、馬鹿は自信に満ちている、それが問題だって。馬鹿が馬鹿なのを恥じなくなったんですよ。

そういうお考えはどこから?
例えば「私はそれは知らない」って誰かが言ってたのを最後に聞いたのはいつですか?しばらく前にオーストリアにはさるラジオ番組がありましてね、道端で人にいろいろ聞くんです。例えばこんな質問:ここでインターネットに接続できるかのは何処か教えて戴けませんか? いやもう呆れますよ。どれだけ大勢の人が答えたか:ええ、教えてあげましょう。ここに沿ってずっと行ってね、向こうの角を左に曲がって三番目の角を右、とか。そう言うかわりに「いえ知りません」っていう人がいない。最近はもう何かを知らないっていうのがすっかり流行遅れになってしまいました。

馬鹿を測るのにどんな基準がありますか?
馬鹿度が測定できる、と言い切るのはまあ思い上がりでしょう。そんなことできませんよ。今日に至るまで頭の良さというのがきちんと定義で来てないんですし。まあでもフィーリングで感じた事実だの本能・直感だのをすぐ持ち出して直感こそ本質的な知識のソースだなどと言い出す人は確実に馬鹿と呼んでいいでしょう。

直感が非常に役立つ生活の場もあるのでは?
そうかもしれません。例えば好感とか反感とかの事柄ではね。でも事実の判定となると直感は危険ですよ。しばらく前にオーストリアのカプルーンの氷河に敷いた鉄道で悲惨な事故がありましたが、そこで事故の起こったトンネルを本能的に上の方に逃げた人はほとんど亡くなりましたね。それは間違いなんですよ、火は上の方に向かって燃えていくんですから。なのに皆上の方、光の方に逃げるという本能があったんです。

先生は犯罪心理学者として刑事裁判で鑑定人をなさり、重犯罪人とも関わっていらっしゃいますね。馬鹿は悪ということでしょうか?
そういうことが多いです。自分の欲求を差し当たって満足させるという短いスパンでしか見ないんですよ。犯罪の多くで悲劇なのは、後から見ればその犯罪行為は全く無意味で嘆かわしいだけだったということです。ミステリアスなことなんてありません。悪には魅惑的なところなんてない、単に馬鹿なだけです。

先生はメディアで「アムシュテッテンの化け物」と呼ばれたヨゼフ・フリッツルの裁判の鑑定人でしたね。フリッツルは自分自身の娘を24年間地下室に閉じ込めて、日常的に強姦し子供を7人産ませました。先生から見てフリッツルはどんな人でしたか?
文句をつけるところはありませんでしたよ。対話には協力的だったし、無作法でもありませんでした。私の質問にもできるだけ答えようとしてくれました。ああいう行為を起こさせたのは、他人に絶対的な権力をふるいたい、性的享楽を味わうだけ味わいたい、そういう欲求でした。自分で言っていましたよ、私は生まれたときから強姦犯なんだって。感情面では全然激しさのない人でした。単に何年も何年も同じことを続けただけなんです。

頻繁に引用されているアルベルト・アインシュタインの言葉がありますね。宇宙と同じくらい無限なものがある、それは人類の馬鹿さだ、という。今自分は馬鹿と関わりあってるなということはどうやったらわかるんでしょうか。
その人物にとって非は常に他人にある、ということでですね。何かうまく行かないことがあっても絶対自分の責任ではない。自省することがありません。馬鹿じゃない人は時には「自分がいつも一番賢い行いをするとは限らない」と思い当たりますよ。

先生ご自身の例では?
まあ、たとえばですね、今すぐ片づけたほうが利口だなということを先延ばしにしてしまう時とか。あと、よく考えずに早とちりでものを言ってしまうとかですね。で、あとから考えるんです、「やらなきゃよかった」って。

ハイディ・カストナーの人物紹介
ハイディ・カストナー氏(59)は心理学と神経学の専門医で、2005年からオーストリア東部のリンツでケプラー大学病院の法医学科の医長をしている。法心理学者として、世に知られている犯罪者を数多く鑑定してきた。中でも世界的に有名なのはヨゼフ・フリッツルの事件で、フリッツルは自分自身の娘を24年間地下室に幽閉し、日常的に強姦し、子供を7人も作っている。カストナー氏は作家としても名を成した。2014年に氏の『怒り』を出版、最近では新刊の『馬鹿』が出た。2015年にはオーストリア共和国への貢献によって名誉賞金賞が送られた。


人食いアヒルの子のコメント:
「コロナは嘘」論者については最近こういうニュースがあった。コロナは陰謀・嘘と信じて疑わないある人が、当然ながらワクチンも打っていなかったので感染し、重症病棟に運び込まれた。ところが本人もその家族も「これはコロナではない」と言い張り、主張し続け、とうとうその人は「オレはコロナじゃない、コロナなんて存在しない」と言いながら亡くなった。病院で必死にその人を治療した医者やスタッフの無力感はすさまじく、スタッフの一人は「ここまで来ると狂気だ」と言っている。
この狂気はどこから来るのだろうか。


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 私はウルグアイ人の有名人は3人しか知らない。一人はサッカー選手の噛みつきスアレス(『124.驕る平家は久しからず』参照)である。もう一人は最も貧しい大統領、ムヒカ氏、そして3人目が俳優のジョージ・ヒルトンだ。前の二人はともかく3人目のジョージ・ヒルトンは一部のファンしか知らないのではないかと思っていたが、亡くなったとき全国紙の『南ドイツ新聞』にまで(小さいとはいえ)記事が出たので驚いた。他にネットなどでも報道していたからこちらでは相当有名だったようだ。ピーター・フォークの訃報は南ドイツ新聞には全く出なかったのだから。

 そのヒルトンだが、マカロニウエスタンのスターである。本名をホルヘ・ヒル・アコスタ・イ・ララJorge Hill Acosta y Laraという。俳優ではないが『続・荒野の用心棒』の主題曲を手がけた作曲家のルイス・エンリケス・バカロフは南米アルゼンチンの出身。 ヒルトンもまたヨーロッパに来る前にウルグアイからアルゼンチンに渡ってそこで俳優活動をしていた。60年代にアルゼンチンからイタリアに渡った映画人は他にも結構いたそうだが、なぜミリアンのようにアメリカに行かなかったのか。ヒルトンは2002年にさるインタビュー記事でそれを聞かれてあっさり「英語がよくできなかったからだ」と答えている。イタリア語ならスペイン語の母語者には簡単にマスターできるだろう。
 ヒルトンはモロにラテン系の容貌のイケメンである(『104.ガリバルディとコルト36』参照)。マカロニウエスタンに起用された時は最初からすでに(準)主役で(下記参照)、その後も順調に主役街道を歩んでいる。今勘定してみたが、1977年までに21本のマカロニウエスタンに出演し、その後(というより途中から)やっぱりジャッロに流れて晩年はTVで活動していた。上のインタビュー記事では最近仕事が全然ないとかボヤていたそうだが、知名度は落ちていなかったようだ。ドイツの新聞にまで訃報が載ったくらいだから本国イタリアではさらに人気があったのだろう。実際イタリアではインタビュー「記事」ではなくTVのインタビュー番組に出ているのを見かけた。全部イタリア語だったので残念ながら内容は理解できなかったが。
 大抵の人にとってヒルトンは「マカロニウエスタンのスター」だが、本人は馬に乗ったり撃ち合いをしたりは好きではなく、そもそも西部劇というジャンルが嫌いでそういう映画は見ないと記事で言っていた。自分は本来舞台俳優、それも喜劇役者だと。でもまさにその西部劇でいい演技してたじゃないですかとインタビュアーに突っ込まれて、そりゃ俳優ですもん、ギャラを貰えば役を演じるのが商売だと返していた。私もこのインタビュアーと同意見で、顔と言いスタイルと言い、この人は絶対西部劇向きであると思う。

 ヒルトンの出演したマカロニウエスタンを全部見ていってもキリがないから私の記憶に残っているものだけちょっとあげてみよう。まず一作目の『真昼の用心棒』である。『155.不幸の黄色いサンダル』でも述べたが、ジャッロで有名なルチオ・フルチが監督し、主演は『続・荒野の用心棒』ですでにスターとなっていたフランコ・ネロ、サイコパスな悪役を務めるのが『シェルブールの雨傘』のニノ・カステルヌオーヴォである。クラウス・キンスキーなどと違ってカステルヌオーヴォは容姿がまともすぎてそのままでは異常者に見えないためか、常に顔をゆがめ口を半開きにして変な笑いを浮かべ首を横っちょに傾けて異常ぶりを強調している。ちょっとわざとらしすぎる気がした。キンスキーのように普通にしていてもサイコパスに見えるならそれもいいが、そうでない場合は素直に「一見普通に見えるが実はサイコパス」という怖さを狙った方がいいのではないだろうか。もっともマカロニウエスタンだから分かりやすさを第一にしたのかもしれないが。
 ストーリ―は一言でいうとカインとアベルの如く、パパに十分愛されなかったサイコなカステルヌオーヴォが暴走して町を恐怖に陥れ、まともな息子のほうのフランコ・ネロに殺される話である。ヒルトンはネロの異母兄弟で、最初自暴自棄になって酒におぼれていたのが結局兄に協力するという、非常に分かりやすい話だ。冒頭に出てくるカステルヌオーヴォのニヤケ顔を見ればもうある程度ストーリー展開が予想できる。さらにこれも以前に述べたが、フランコ・ネロが主人公を演じてしまったため本来はトムという名前だったのがドイツではジャンゴとなり、タイトルは Django – Sein Gesangbuch war der Colt(「ジャンゴ-その歌の本はコルトだった」)だ。勘弁してほしい。
 それまでは気にも留めなかったが改めて映画を見直してみるとヒルトンはその酔っ払いぶりなど確かにコメディアンなような気もしてきた。また中盤に馬の横っ腹にずり落ちてその姿勢を保ったまま「ヘーイ、ジェントルメン!」と敵をおちょくりながら撃ちまくるシーンがある。これもそれまでは単純にカッコいいと思って見ていただけだが「馬に乗ったりするのは好きじゃない」というヒルトンの言葉を鑑みると、このシーンは本人がやったのかスタントマンがやったのか気になりだした。肝心の馬の横乗り場面は遠景で顔が見えないからだ。ここだけスタントマンなのか。それとも本当に「乗馬が嫌い」なヒルトンがこんなことをやらされたのか。そういえばヒルトンは上の記事でも監督のルチオ・フルチについてあまりいい発言をしていなかった。エンツォ・カステラーリなどに比べるとフルチは神経質で意地が悪かったそうだ。

『真昼の用心棒』のジョージ・ヒルトン
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ヘーイ、ジェントルメン! これはジョージ・ヒルトン本人かスタントマンか。
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 そのいい人だったというカステラーリの作品が『黄金の3悪人』Vado... l'ammazzo e torno(1967年)である。ヒルトンの役の名は「ストレンジャー」(全然「名前」じゃないじゃん)である。これもドイツ語版ではやめてほしいことにジャンゴになっている(ドイツ語タイトルは Leg ihn um, Django「殺っちまえジャンゴ」)が、フランチェスコ・デ・マージが作曲してラウールが歌うテーマ曲の歌詞が Stranger, stranger, what is your name? とかあるのをどうしてくれるんだ。そこで my name is Djangoと答えろとでもいうのか。シマラナイ話だ。それでもとにかくこの映画がヒットしてヒルトンは名をあげその後の主役街道の発端となった。盗まれた大金をめぐって賞金稼ぎ(ヒルトン)と最初彼に狙われていたお尋ね者(ギルバート・ローランド。本名 Luis Antonio Dámaso de Alonsoというメキシコ出身の米国俳優。下記参照)と盗まれ元の銀行の行員(エド・バーンズ。当時は割とアメリカで人気があったようだが、その後転落した)が三つ巴の競争を展開するという、ステレオタイプなマカロニウエスタンのストーリーである。さらにこの映画は既に冒頭のシーンで誰が見てもレオーネの3部作のイーストウッドとリー・ヴァン・クリーフが演じたキャラクターとさらに『続・荒野の用心棒』のフランコ・ネロの服装まで持ち出してパクった三人の男が登場するなど、作品全体がパクリの嵐である。また私は知らなかったというか気が付かなかったがVado... l'ammazzo e torno というタイトルも『続・夕陽のガンマン』でイーライ・ウォラックがイーストウッドに言った「行って殺して帰って来るわ」というセリフを引用したものだそうだ。パクリにしても芸が細かすぎる。ヒルトンが演じたクールな賞金稼ぎというキャラもマカロニウエスタンの定番でイーストウッドやフランコ・ネロとは雰囲気が違うからまだいいようなものの新鮮味はあまりない。一方でこれが撮られた1967年の頃はまだジャンルが衰退期には入っていなかったから面白いは面白い。ストーリーもどんでん返しの連続で退屈はしない。ラストがまた『続・夕陽のガンマン』のもじりでちょっとフザケすぎなんじゃないかとも思うが(ラスト自体はつまらないオチである)、ヒットしたのも納得できる出来ではある。マカロニウエスタンの平均水準は越えているだろう。

さすがにこのパクリはやりすぎなのではないだろうか。『黄金の三悪人』の冒頭
Pubblico dominio, https://it.wikipedia.org/w/index.php?curid=1240716

Vado,l'ammazzo_e_torno_i_3_banditi
この『黄金の三悪人』の後、ヒルトン主演で大量のマカロニウエスタンが制作された。最も頻繁に組んだのがカルニメオという監督でこの人がヒルトンで撮った西部劇が6本あり、特に1970年から1973年の間に集中している。これらカルニメオ他の作品も何本か見ているがあまり印象に残っていない。「ジャンゴ」の他にサルタナという名の主人公役の映画もあり、面白くなかったのが記憶に残っている。

 その「あまり印象に残っていない」の「あまり」、つまり印象に残っている側の映画が上の2本の他にさらに2本ある。その一つが『真昼の用心棒』の一年あと、『黄金の3悪人』と前後して撮った作品Ognuno per séだ。ジョルジョ・カピターニGiorgio Capitaniという監督がアメリカからヴァン・ヘフリンを呼び、『黄金の3悪人』にも出ていたギルバート・ローランドを起用し、ヒルトンの他にクラウス・キンスキーを出演させた映画で、ドイツ語のタイトルをDas Gold von Sam Cooper(「サム・クーパーの黄金」)というがこれがまさにストーリーである。
 ヘフリンの演じる主役サム・クーパーはほとんど人生を賭けて金を探していたがある日本当に大金鉱を掘り当てる。しかしその採掘場から金を町に運ぶまでが砂漠を通り強盗が跋扈する非常に危険な道のりで、一人で運搬するのは無理だ。誰か信頼のおける相棒の助けがいる(実際最初一緒に金を探していた相棒は金が見つかったとたん独り占めしようとしてヘフリンを殺しにかかった)。そこで昔子供の頃自分が面倒を見ていた若者をメキシコから呼び寄せる。この若者がジョージ・ヒルトンだが、これがしばらく会わないうちに意志の弱い、小ずるくて信用できない人物になり下がっていた。しかもヒルトンにはその友人とかいう怪しげな人物がくっ付いてくる。これがキンスキーで、この二人がホモセクシャルな関係にあることは明確だ。この二人のヤバさに気付いたヘフリンは町にいた昔の友人に話を持ちかけて安全措置をとる。この昔の友人がローランドだが、昔ヘフリンに裏切られたことがあるので半信半疑だ。だからこちら側もヘフリンに対して安全措置を取り、殺し屋をやとって自分たちの一行の後を追わせる。つまり誰も彼も自分の事しか考えず、好き勝手なことをやっているのである。だからイタリア語のタイトルが Ognuno per sé(everyone for himself)というのだ。
 一行は(合わせて4人だから英語のタイトルが The Ruthless Four)は長い旅の後金鉱に着き金を堀りだす。その間キンスキーとヒルトンで独り占め計画を練り、まずローランドを殺し2対1とこちらの有利にしておいてからヘフリンを始末しようということになる。何回か試みて失敗した後、キンスキーがついにローランドを撃ち殺そうとして反対に殺される。そこでキンスキーを庇おうとしてローランドに銃を向けたヒルトンはヘフリンに殺される。
 ヘフリンとローランドは昔のわだかまりも溶け帰途につくが、最初ローランドが雇っておいた殺し屋が相変わらずヘフリンの命を狙ってくる。「もういいから帰れ」と言われて引き下がる殺し屋ではないから今度はローランドはヘフリンと共にその殺し屋たちと対峙しなければならない。その銃撃戦でヘフリンは脚に負傷し、ローランドは胸に弾丸を受けて死ぬ。
 ヘフリンは一人で金を抱えて町に戻る。金持ちにはなった。が、友人も人への信頼も失い、孤独であった。

ジョージ・ヒルトンとクラウス・キンスキー。キンスキーはカステルヌオーヴォと違ってわざわざサイコを演じる必要がない。そのままでも十分異常に見える。
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ラスト近くのヴァン・ヘフリンとギルバート・ローランド
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 私はこれが自分の見たヒルトンのマカロニウエスタンではベストだと思う。『シェーン』にも出ていた名優ヘフリンが見事に映画全体を引っ張り、ローランドのおじさんぶりもまたいい味だ。音楽はカルロ・ルスティケリで、これもよかった。カピターニはこれ一本しかマカロニウエスタンをとっていないが、ジャンルの平均水準を明らかに上回る出来である。ブーム後もTVなどで堅実に仕事を続け、2017年に亡くなっている。1927年生まれだから長生きだ。「堅実な作り」、これがこの作品のキーワードだろう。変に奇をてらったり内輪受けの悪ふざけがない。もしかするとそのカルト性のなさのせいかもしれないが、日本では劇場公開されなかった。受けないと思われたのだろうか。

 もう一つのお薦めヒルトン映画が Los deseperados(「絶望した者たち」、ドイツ語タイトル Um sie war der Hauch des Todes「その周りには死の息吹が漂っていた」)だが、これも日本未公開だ。1969年にスタッフもキャストもほぼ全員スペイン人で制作された作品で、監督は Julio Buchs(フリオ・ブ…最後の子音は何と読むんだ?)。この監督もマカロニウエスタンはこれ一作である。残念ながら1973年に46歳の若さで亡くなった。Buchs が脚本家出身で、自分の監督した映画では脚本も自分で書いていたそうだ。
 Los deseperadosでのヒルトンにはカステラーリやカルニメオなどの作品のようなチャラさが全くない。陰鬱な作品だ。南北戦争で南軍兵士のウォーカー(ヒルトン)は故郷に残してきた妊娠中の恋人が死にそうだとの連絡を受けて、休暇を願い出るが許可されず、軍を脱走する。ヒルトンは何度もその父(何とアーネスト・ボーグナイン)に結婚を願い出ていたのだが、父はヒルトンを徹底的に嫌っていて許しが出なかった。故郷に帰るとその町にはコレラが発生してロックダウンされている。娘が死の床についていると聞いて一目会わせてくれというヒルトンの懇願を聞かず、父はたった今生まれたばかりの子供をヒルトンに投げつけて(?)、もう二度と来るなと家から追い出す。乳飲み子のためにミルクをくれと周りの村々で懇願して回るがコレラの発生した町から来たということで誰も助けてくれない。子供はとうとう死んでしまう。
 ここからがヒルトンの悲劇的な復讐劇の開始だ。なぜ悲劇なのかと言うと主人公が憎しみのために人格的にも破滅していくからだ。最初まだ息のある敵兵を墓に投げ込んで生き埋めにしろという上官の命令を拒否するほど気骨のあったヒルトンが最後には単なる人殺しに転落する。脱走した時の仲間やそこら辺のごろつきと共に強盗団を組織して、まず子供を見殺しにした村の住人を皆殺しにするのだ。ボーグナインにも迫るが米国で当局に追われてメキシコに逃げる。有力者であるボーグナインは米国の当局を通してメキシコ側の軍隊にも要請し、ヒルトン一味を始末してくれるように取り計らう。自分もメキシコに赴くがそこでヒルトンの一味に殺される。だがその後通報を聞いてやって来たメキシコ軍の集中砲撃をうけ、ヒルトン一味も全員無残な死を遂げる。

Los deseperados のジョージ・ヒルトン。とにかくチャラさが全然ない。

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上官からまだ息のある捕虜を生き埋めにしろと言われて命令拒否。
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娘に合わせてくれと必死の懇願。ボーグナインとヒルトン
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それが強盗団のボスに転落する。
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ラスト。メキシコ軍の集中砲火を受ける直前。
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 最初高潔であった者が運命の残酷さに押しつぶされて破滅するという、まるでギリシャ悲劇にでも出て来そうなまさにタイトル通りのストーリーだ。病気の感染を恐れて人を見殺しにするのは南北戦争時というよりヨーロッパのペスト流行時を想起させ、他のマカロニウエスタンとは明らかに毛色が違う。ジョージ・ヒルトンはこういうシリアスな役もこなすのである。そのヒルトンに浅いステレオタイプのジャンゴばかり演じさせるのは人材の無駄遣いではないのか。この作品と上のOgnuno per sé を見ていると特にそう思う。

 実はヒルトン自身もこの映画が好きだそうだ。こういう役の方が本来自分向きだと言っている。監督の Buchs とはいっしょに仕事するのが楽しかった。また映画の役の上では徹底的に憎みあっていたがボーグナインも、仕事仲間としては気持ちよく共同作業ができる人だったらしい。
 もうひとつ、以前この Los deseperados はルチオ・フルチの監督だというフェイク情報が流れたことがあったが、ヒルトンがそれをきっぱり否定した。

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 1492年は受験生泣かせの年で(誰が泣くか)世界史で重要な出来事が3つも起こった。その一はコロンブスのアメリカ大陸到着(一部には新大陸発見などという名称も使われているようだが、いくら何でも先住民に失礼すぎやしないか)、その二がレコンキスタの完成(グラナダ王国の滅亡)、その三がアントニオ・デ・ネブリハによる『カスティーリャ語文法』Gramática de la lengua castellana の出版である。
 ネブリハの『カスティーリャ語文法』は長い間ヨーロッパで唯一の書き言葉・文化語であったラテン語の位置が各国言語、つまり口語にとって変わられていく重要な一歩となった。その序文でネブリハはこの本を大国となったカスティーリャの女王イザベラに捧げ、新たにその支配下にはいった(カスティーリャ語を母語としない)民がこの素晴らしい支配者の言語が使えるようになるための手助けになろうと言っている。またそこで述べられているネブリハの言語観は今でも通じる近代的なもので、この文法書は 今から見ると言語学史上の金字塔であった。
 私はその『カスティーリャ語文法』について大きく誤解していた点が二つある。まず、私はこれがあたかも1957年に出版されたチョムスキーの Syntactic Structures のごとく出版と同時にセンセーションを巻き起こしたのかと思っていた。ところが実はそうではなかったらしく、ネブリハの生存中当書はほとんど人の目を引かず、やっと18世紀になってから第二版が出たそうだ。ダイグロシア崩壊期によくある「下品な口語なんかに文法もクソもあるか」というお決まりの批判にも晒された。そもそもネブリハはラテン語の専門家で、直前の1486年に『ラテン語入門』Introductiones latinae という本を出版している。こちらの方は売れに売れて16世紀だけで59版刷られたそうだ。「金字塔」という評価はずっと後になってからなされたのである。
 二つ目の誤解は、「新たに女王の支配下に入った民」と聞いてアメリカ大陸の先住民が思い浮かんでしまい、植民地の支配を容易にするためにカスティーリャ語を押し付ける手助けにこの文法書を捧げたのかと思っていたことだ。こちらの誤解の方がずっと程度が馬鹿で我ながら赤面に堪えない。ちょっと考えてみればわかりそうなものだった。
 『カスティーリャ語文法』が出版されたのは1492年8月18日である。その直前、やっと8月3日にコロンブスが航海に出発したのだから、当然その時点では植民地もアステカ人やインカ帝国への虐殺・支配はまだ影も形もない。コロンブスのバハマ到着が10月12日、その地でいろいろ探検して、スペインに帰って女王に航海の結果を報告したのは翌年1493年3月である。しかもコロンブス本人は死ぬまで自分の行った地はインドか中国だと思っていたのだし、ネブリハも確かに文法書の出版は1492年だが原稿そのものはそのずっと以前から着手していただろうから、「女王支配下の新住民」がアメリカ大陸の先住民を指していたはずはない。
 この「新たに支配下に下った住民」というのはイベリア半島の住民のことである。ロマンス語を母語としない住民、つまりアラブ人とユダヤ人のこと以外あり得ない。グラナダ王国が陥落したのは文法書が出る前の1492年6月2日だがそれ以前にイスラム側はジワジワと領土を失っていっていた。しかし領土が失われ支配者が入れ替わっても住民まで入れ替わったわけではない。早とちりな誤解への反省の意味を込めてちょっとイスラム支配下のスペインの歴史や言語構成、住民構成はどうなっていたのか見直してみた。

 本題に入る前に確認しておきたいことが何点かある。第一点が「レコンキスタ」、「再征服」という命名にそもそも問題があることだ。複数の歴史家がそう言っている。この言葉から連想されるのはキリスト教徒が団結してムスリム支配のイベリア半島を北からジワジワ取り戻していったという図である。しかし実情は全然違う。領土の奪回を狙ったイベリア半島のキリスト教領主は別に「キリスト教の地」を回復しようなどという意図はなく、単に自分の領土、自分の勢力を拡張したかっただけで宗教の事など頭になかった。現に隣のキリスト教領主の領地を奪い取るために仲良しの(?)イスラム教領主の助けを借りたり同盟を結んだりする、またはその逆が日常茶飯事だったそうだ。当地ではキリスト教徒とイスラム教徒は小競り合いはあってもきちんと共存していたである。
 「レコンキスタ」という言葉に暗示される「キリスト教対イスラム教」という間違った対立図式を無理やりイベリア半島にまで当てはめようとしたのは13世紀の初頭エルサレムを取り戻せと十字軍にハッパをかけたローマ教皇インノケンティウス3世あたりらしいが、とにかく「レコンキスタ」という用語は後から人為的にイベリア半島に投影された観念なので不適切だそうだ。
 もっとも十字軍などキリスト教側が狂信化していった時期にはイベリア半島のほうもアラブ人でなくベルベル人の支配下にあって、このベルベル人はアラブ人より宗教的寛容度がずっと低かったようだ(下記)。それで対立図式が当てはまりやすい状況ではあったらしい。

 第二の確認事項は、アラビア文化とイスラム教は区別して考えないといけないことだ。言い換えると「アラブ化」は「イスラム化」とイコールではないということである。イベリア半島にイスラム教徒がやってきたのは711年、イスラム教が起こった622年から100年も経っていない。軍の大部分を構成するベルベル人を率いていたアラブ人が携えてきた文化は「イスラム文化」ではなく「アラブ文化」である。アラブ人が武力だけでなく文化の面でも世界最高のレベルに達したのは確かにイスラム教をかすがいとして諸部族が統一され、領土がアラビア半島外に広がってから、ウマイヤ朝がダマスクスに、アッバース朝がバグダッドに中心を定めてからだろう。そこでインド、古代ギリシア、メソポタミアなどの知の遺産に触れて高度な文化を築き上げた。だがそれ以前、イスラム帝国がまだアラビア半島から出ない頃にすでにアラブ人たちは詩などの言語の文化を発達させていた。酒を愛し、愛の歓び悲しみを歌う高度な言語文化、そういう下地があったからこそ他の文化に触れて自然科学や数学・哲学を自分たちのものとして消化し、自らの文化をドッと開花させられたのだ。野蛮人だったら(差別発言失礼)そこで相手の高度な文化に飲み込まれて自分たちの文化のほうは消滅させてしまうのがオチだ。イベリア半島に伝わったのはこういうアラブの豪族文化であって必ずしもイスラム文化ではない。だからこそイベリア半島には「アラブ人化したキリスト教」が大量にいたのである(下記)。

 第三点。「スペイン人」、つまり「イベリア半島人」としてのアイデンティティはいつ生じたのか。ローマ帝国時代は自分たちをローマ人と思っていたろうが(もちろんバスク人などローマ以前からの先住民はいた)、帝国崩壊後、5世紀から6世紀にかけてゲルマン民族の西ゴート人がやって来て支配者となる。だからスペイン語にはロドリゲス、ゴンザレス、エンリケス、アルバレスなど一目でゲルマン語だとわかる名前が多い。だがそのゴート人は上層部に限られ、当時300万人ほどとみられるヒスパノ・ロ―マ人に対してゴート人はたった15万人くらいで、しかも被支配者の文化に飲み込まれてキリスト教となり言語も速攻でロマンス語に転換してしまった。(ということはゴート人はさすがゲルマン人だけあって「蛮族」だったわけですかね)
 歴史家の意見が分かれるのはここからで、伝統的なスペイン史観では、西ゴート人支配下で「イベリア半島人」(原スペイン人)というアイデンティティが生じていたが、8世紀の初頭にアラビア人が「押し入ってきたので」住民は自分たちのアイデンティティを守るべく立ち上がってレコンキスタに持って行った、ということになる。この歴史観を取っている人には例えばサンチェス・アルボルノス Claudio Sánchez-Albornoz などがいる。もう一つは、西ゴート人支配の頃にはまだまだ「イベリア人または(原)スペイン人」としての一体感などなかった、それが生じたのはアラブ人の支配下でイベリア半島が統一されてから、特にああ懐かしや高校世界史で習ったアブド・アル・アフマーン一世下のウマイヤ朝がスペインをまとめてから、そこで初めて自分たちは同一民族であるという意識が生まれたのだという見解。つまりアラブ文化はイベリア半島人の血肉だということだ。近年はこちらの見解の方が優勢だそうで、カストロ Américo Castro などの学者が唱えている。
 
 四つ目の点は、上記の三点全部に関連することだが、イスラム教は本来他の宗教、キリスト教とユダヤ教に対して非常に寛容だったことだ。このこと自体ははさすがに現在の欧州では(まともな教養の人は)皆知っている。知っているは知っているが時とすると忘れそうになる人もいるので再確認しておく必要がある。イスラム教徒はキリスト教徒、ユダヤ教徒を「啓典の民」ahl al-kitāb と呼んで一目置き、支配地でも宗教の自由を完全に認め、種々の宗教儀式を遂行するのにイチャモンなどつけなかった。ただ他宗教の教徒は人頭税を払わないといけなかったようだ。
 ウマイヤ朝期に首都コルドバでさかんにムスリムをディスっていたキリスト教徒 Eulogius という人物でさえ「このクソ宗教への改宗を強要されたりはしていない」と言っている。後にイスラム教国のグラナダ王国が陥落したとき、キリスト教の支配者がその地に残っていたイスラム教徒に「改宗するかスペインから出ていくか」の二者選択を迫ったのとは対照的である。時代が下ってバルカン半島を支配していた時もイスラム教支配者は基本的に他宗教に寛容であった。そうでなかったらボスニア・ヘルツェゴビナ、シリア、果てはエジプトに現在でも大量のキリスト教徒が暮らしているわけがない。とっくに殲滅されていたはずである。特に成立して間もないイスラム教に支配されていたいイベリア半島にはこの「みんないっしょ」感覚があったらしい。それで上述のように「スペイン人としての一体感はイスラム支配下で発生した」と主張する歴史家もいるのだろう。

 この「イスラム支配下のスペイン」のことを「アル・アンダルス」という。歴史用語である。

 さてそれらの確認事項を踏まえてアラブ人の到来からネブリハの文法書出版に至るまでのイベリア半島の歴史をごくかいつまんで追ってみた。
 上述のようにイベリア半島はラテン語崩れのロマンス語を話すいわばヒスパノ・ローマ人を少数のゴート人の貴族が支配している状態だった。ガッチリ統一された国家でなく諸侯のバラバラ支配だったので結束が弱く、あっという間にアラブ人に入られたのである。711年、アラブ人の将軍ムーサー・イブン・ヌサイルの代理ターリク・イブン・ジヤードが7000人のアラブ人兵士と5000人のベルベル人の兵士を率いてやってきた。それでスペインの最南端が「ターリクの山」、ジャバル・アル・ターリクと呼ばれているのだ。もちろんこれがジブラルタルという名前の語源である。続いて将軍自身もさらに18000人ほどの増強兵力(その多くはベルベル人)を率いて上陸し、あっという間にイベリア半島を支配した。支配者アラブ人の人口は兵士や、後からやってきたその家族を入れても5万人ほどだったのではないかと思われる。それに対してヒスパノ・ロ―マ人は五百万人から六百万だったと、上述とは別の歴史家の推定している(やはり人によってばらつきがあるようだ)。
 ゴート人なんかの文化にはほとんど影響を受けなかったヒスパノ・ローマ人も、このアラブ人の文化は自分たちを遥かに凌駕していることに気づきたちまち影響された。ヒスパノ・ローマ人の四分の一が一世代内でイスラム教に改宗、10世紀には四分の三、後のグラナダ王国では住民の大半がイスラム教徒だったと推定される。この人たちは muladíes、ムラディと呼ばれた。また上述のようにイスラム教徒は他宗教に寛容だったのでキリスト教徒のままでいた住民も少ないとは言えなかった。これを mozárabes、モサラベという。「アラブ人のようになった人たち」という意味だ。モサラベはイスラム教は取り入れなかったが、アラブ文化には強烈に影響された。上述のように「イスラム化」には何世紀かかかっているが「アラブ化」は速攻だったようだ。すでに9世紀にコルドバのアルバロ Álvaro(名前からするとこの人はゴート人である)とかいうモサラベ人がボヤいている:「最近の若いもんはラテン語もよくできないくせにアラビア語の詩だの寓話だのをありがたがり、イスラムの哲学神学の本ばっか読みやがる。アラブ人の言語文学を勉強し過ぎてキリスト教のこと書くのにまでアラビア語の文章語を使いおって、ああ嘆かわしい」
 身近な者がどんどんアラブ化していくのに危機感を持ったのはアルバロばかりではなかったらしく、不満の矛先をイスラム教徒に向けて悶着をおこすこともあったらしい。居辛くなって9世紀ごろからまだアラブ人に支配されていないイベリア半島の北の方に移住する者もいた。もともと人のあまり住んでいなかったところで、支配しても得になりそうになかったのでアラブ人に無視されていたのである。後にここから「レコンキスタ」が始まった。

初期のアル・アンダルス。ウィキペディアから。
By Al-Andalus732.jpg:Q4767211492~commonswiki (talk · contribs)EmiratoDeCórdoba910.svg:rowanwindwhistler (talk · contribs)derivative work: rowanwindwhistler (talk) - Al-Andalus732.jpgEmiratoDeCórdoba910.svg, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=59750789
Al-Andalus732.svg
 ウマイヤ朝に続くコルドバ・カリフ国の終わりごろ、11世紀の初頭から国が分裂しはじめ、小国相対するいわば戦国時代になった。これをターイファ tā’ifa 時代という。面白いことにこの、政治的に不安定だった時期に優れた詩人や思想家・芸術家が続出した。諸侯が権力を誇示するために武力をひけらかすばかりでなく、競って芸術の擁護者たろうとしたからである。セビーリャのアル・ムタミド・イブン・アッバード al-Mu'tamid ibn Abbad など自らが詩人である領主もいた。
 一方このターイファ諸侯が周りとの戦いのためアフリカからベルベル人の傭兵をさかんに呼び寄せたことから政治状況がさらに不安定になった。ベルベル人がアラブ人に取って代わってアル・アンダルスを支配するようになったからである。この時期にやってきたベルベル人は、ムーサー・イブン・ヌサイルやウマイヤ朝のアラブ人と共に来たベルベル人とは分けて考えないといけない。前者はイスラム教徒だったばかりでなくアラブ文化にも同化していたが、後者はアラブ化はせずイスラム教だけ取り入れた集団であったからだ。背景となったアラブ文化、その寛容さや享楽的な背景なしでイスラム教だけ取り入れたらどうなるかは簡単に想像がつく。彼らは今でいうイスラム原理主義だった。キリスト教に対するのと勝るとも劣らない批判の目をアル・アンダルスの「堕落した」イスラム教徒に向けた。例えばそこでよく詠まれていたペルシャのイスラム神学・哲学者アル・ガザーリー al Ghazālī の著書を焚書に処したりしている。またコルドバ・ウマイヤ朝やカリフ国がダマスクスやバグダッドの当時世界最高の文化と密接な交流があったのに対し、ベルベル人の臍の緒は常に北アフリカと繋がっていた。11世紀からアル・アンダルスを支配したベルベル人の王国アルモラヴィド朝もその後継者のアルモハード朝も首都はイベリア半島にでなく、モロッコのマラケシュにあったのだ。このベルベル人支配の下でキリスト教モサラベ人はコルドバ・カリフ国より格段に居辛くなった。「居辛く」というより追放令も出たそうだ。そのモサラベの脱出先、北の方も北の方で上述のように十字軍のころ、キリスト教側も狂信的になっていたころである。しかもピレネーの向こう側から助っ人がワンサとやってきた。ボソング Georg Bossong という史学者はこの状況を「ヨーロッパ化したキリスト教とアフリカ化したイスラム教、つまり十字軍とジハードの衝突」と言っている。この二者がアル・アンダルスを引き裂いたのである。
 言い換えると、もし「イスラム教がイベリア人のアイデンティティを分断した」とどうしても考えたいのなら、それはアラブ人のことではない、(第二波の)ベルベル人である。そして文明文化をもたらしたアラブ人は「イベリア人」の側なのだ。
  そういえば昔当時のスペインを題材にした(という)『エル・シド』という映画があったが、あれも注意しないと解釈を誤る。原作の叙事詩にすでに脚色があることに加え、映画も原作に忠実とは言い難く、しかもご丁寧にキリスト教スペクタクル映画の定番チャールトン・ヘストンが主役なので、どう見ても「イスラム教と戦ったレコンキスタのキリスト教英雄伝」にしか見えない。しかし実際のエル・シド、Rodrigo Díaz de Vivar あるいは Ruy Díaz de Bívar はむしろターイファの騎士で、カスティリアのキリスト教領主から、サラゴサのイスラム教領主へ転職し(これはあくまで「転職」であって裏切りとかそういうものではなかった。上述のようにアル・アンダルスではユダヤ教もキリスト教もイスラム教も「みんないっしょ」だったからである)、その領主に何年も忠実に使えている。そして共にバレンシアに攻め入ってきたアルモラヴィド人(ベルベル人)と戦ったのである。この映画のラストをおぼろげに覚えているが、エル・シドの死体が馬に乗せられて戦場を駆け抜けるとき(あらネタバレ)、ターバンを巻いた兵士たちが畏怖の念に憑かれてサーッと引いていく。あれらの兵士はアラブ人ではない、北アフリカの「異民族」ベルベル人のはずだ。これを単純に「イスラム戦士」といっしょくたな解釈をしてはいけない。

アルモラヴィド朝の領土。首都はスペインでなくモロッコのマラケシュにあった。
https://historiek.net/al-andalus-het-spanje-der-moren/74627/から

Het-imperium-van-de-Almoraviden
 さてこのベルベル人は戦いでは勇敢、宗教的には生真面目だったが、政治の駆け引きや人民の統治能力がなく、どんどんその領土を失っていった。キリスト教徒の南進によって、その領土内には大量のイスラム教徒が居残ることになる。彼らは町の中心部からは立ち退かされたが、領内に住むこと自体は許され、宗教の自由も認められた。これらのイスラム教徒を mudéjares、ムデハルという。「居住を許された者」という意味だ。このムデハルも言語や文化の面でキリスト教側に大きな影響を及ぼした。
 13世紀半ばにはセビーリャがキリスト教徒の手に落ち、イベリア半島はほとんどキリスト教側の支配下に入った。その「ほとんど」を維持し、1492年まで200年に渡ってイスラム教の王国として持ちこたえ、高度な文化を維持したグラナダのナスル朝はアラブ人の国である。武力ではなく政治手腕で持ちこたえた国だったが、とうとうグラナダの陥落する時がやってきた。最後の王アブー・アブダラー Abū ʿAbdallāh はキリスト教側の降伏要求に応じて1492年1月2日宮殿の鍵を手渡したのである。王はグラナダから追われ最後に峠から町を一瞥して溜息をついた。その峠が現在 El Suspiro del Moro「ムーア人の溜息」と呼ばれる場所である。それを見て王の母が言ったそうだ:「何を女みたいにメソメソしているの?町を取られたってあなた、それを守り切れなかったのはあなたでしょ」。もちろんこれは単なる伝説である。
 細かい事を言えばアブー・アブダラーはアラブ人であってムーア人、つまりベルベル人ではなかったはずだが、グラナダ王国の時期には北から「居辛くなった」ムデハルが多数う移住してきてある程度均等な社会を構成しており、住民レベルではアラブ人とベルベル人の区別は薄れていたそうだ。
 溜息の後アブー・アブダラーは北アフリカに渡り、モロッコのフェズで不幸な生活を送りそこで死んだ。

(前置きだけで記事が終ってしまいました。この項続きます。)

「レコンキスタ」進行の様子。最後の砦グラナダ王国も1492年陥落した。
http://ferdidelange.blogspot.com/2018/05/reconquista-van-miquel-bulnes-is.htmlから

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