アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:語学 > その他の言語

 いつだったか、インドの学校では九九を9×9=81までではなく、12×12=144まで暗記させられる、と聞いていたのをふと思い出して調べてみたら12×12ではなく20×20までだった。「じゅうに」と「にじゅう」を聞き違えたのかもしれない。
 言語によっては12で「2」を先にいうこともあるし、反対に20のとき「10」が前に来たりするからややこしい。また、11と12が別単語になっている言語もある、と言っても誰も驚かないだろう。英語がそうだからだ。英語ばかりでなくドイツ語などのゲルマン諸語全体がそういう体系になっている。ゲルマン諸語で1、2、3、10、11、12、13、 20、30はこんな具合だ。
Tabelle1-81
13からは「1の位の数+10」という語構造になっているが11と12だけ系統が違う。11(それぞれelf, elva, ainlif)の頭(e- あるいはain-)は明らかに「1」だが、お尻の -lf、 -iva、 lif はゲルマン祖語の *-lif- または *-lib- から来たもので「残り・余り」という意味だそうだ。印欧祖語では *-liku-。ドイツ語の動詞 bleiben(「残る」)もこの語源である。だから11、12はゲルマン諸語では「1あまり」「2あまり」と言っているわけだ。
 この、11、12を「○あまり」と表現する方法はゲルマン祖語がリトアニア語(というか「バルト祖語」か)から取り入れたらしい。本家リトアニア語では11から19までしっかりこの「○あまり構造」をしていて、20で初めて「10」を使い、日本語と同じく10の桁、「2」のほうを先に言う。
Tabelle2-81
ゲルマン語は現在の南スウェーデンあたりが発祥地だったそうだから、そこでバルト語派のリトアニア語と接触したのかもしれない。そういえば昔ドイツ騎士団領だった地域には東プロシア語という言語が話されていた。死滅してしまったこの言語をゲルマン諸語の一つ、ひどい場合にはドイツ語の一方言だと思い込んでいる人がいるが、東プロシア語はバルト語派である。
 印欧語ではないが、バルト海沿岸で話されているフィンランド語も11から19までは単純に「1と10」という風には表さない。
Tabelle3-81
11、12、13の-toistaという語尾はtoinenから来ていて、もともと「第二の」という意味。だからフィンランド語では例えば11は「二番目の10の1」だ。完全にイコールではないが、意味的にも用法的にもリトアニア語の「○余り」に近い。「20」のパターンもリトアニア語と同じである。
 
 ケルト諸語ではこの「○余り構造」をしておらず、11、12は13と同じくそれぞれ1、2、3と10を使って表し、一の位を先に言う。
Tabelle4-81
アイルランド語の10、a deichはdéag や dhéag と書き方が違うが単語そのものは同一である。後者では「10」が接尾辞と化した形で、これがブルトン語ではさらに弱まって -ek、-zek になっているが構造そのものは変わらない。それより面白いのは20で、「10」も「2」も出て来ず、一単語になっている。これはケルト祖語の *wikantī から来ており、相当語形変化をおこしているがブルトン語の ugentも同語源だそうだ。印欧祖語では *h1wih1kmt* あるいは h₁wih₁ḱm̥ti で、ラテン語の vīgintī もこの古形をそのまま引き継いだものである。「30」、tríocha と tregont も同一語源、ケルト祖語の *trī-kont-es から発展してきたもの。つまり20、30は11から19までより古い言語層になっているわけだ。これはラテン語もそうだったし、それを通して現在のロマンス諸語に引き継がれている。
Tabelle5-81
当然、といっていいのかどうか、サンスクリットやヒンディー語でも「20」は独立単語である。
Tabelle6-81
ヒンディー語の bīs はサンスクリットの viṃśati が変化したもの。下のロマニ語の biš についても辞書に viṃśati 起源と明記してある。もっともそのサンスクリットは数字の表し方がかなり自由で学習者泣かせだそうだが、学習者を泣かせる度合いはヒンディー語のほうが格段に上だろう。上の11、12、13、それぞれ gyārah、 bārah、tērah という言葉を見てもわかるように、ヒンディー語では11から99までの数詞が全部独立単語になっていて闇雲に覚えるしかないそうだ。もっとも13の -te- という頭は3の tīn と同語源だろうし、15は paṅdrah で、明らかに「5」(pāṅc)が入っているから100%盲目的でもないのだろうが、10の位がまったく別の形をしているからあまりエネルギー軽減にはならない。やはり泣くしかないだろう。
 同じインド・イラニアン語派であるロマニ語の、ロシアで話されている方言では20と30で本来の古い形のほかに日本語のように2と10、3と10を使う言い方ができる。
Tabelle7-81
ドイツのロマニ語方言では30をいうのに「20と10」という表し方がある。
Tabelle8-81
ハンガリー・オーストリアのブルゲンラント・ロマの方言では20と30を一単語で表すしかないようだが、11から19までをケルト語やサンスクリットと違って先に10と言ってから1の位を言って表す。これは他のロマニ語方言でもそうだ。
Tabelle9-81
手持ちの文法書には13がbišutrinとあったが、これは誤植だろう。勝手に直しておいた。他の方言にも見えるが、ロマニ語の30、trianda, trianta, trandaはギリシャ語からの借用だそうだ。
Tabelle10-81
古典ギリシア語では13からは11、12とは語が別構造になっているのが面白い。それあってか現代ギリシャ語では11と12では一の位を先に言うのに13からは10の位が先に来ている。20と30はケルト語と同じく独立単語で、20(eikosi または ikosi)は上で述べたブルトン語 ugent、ラテン語の viginti、サンスクリットの viṃśati と同じく印欧祖語の *(h₁)wídḱm̥ti、*wi(h₁)dḱm̥t または *h₁wi(h₁)ḱm̥tih₁ から発展してきた形である。

 あと、面白いのが前にも述べた(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』)バルカン半島の言語で、バルカン連語連合の中核ルーマニア語、アルバニア語では11から19までがone on ten, two on ten... nine on ten という構造になっている。
Tabelle11-81
11を表すルーマニア語の unsprezece、アルバニア語の njëmbëdhjetë、ブルガリア語の edinadesetはそれぞれun-spre-zece、 një-mbë-dhjetë、edi(n)-na-deset と分析でき、un、 një、edinは1、spre、 mbë、naは「~の上に」、zece 、dhjetë、desetが「10」で単語そのものは違うが造語のメカニズムが全く同じである。さらに実はブルガリア語ばかりでなくスラブ語派はバルカン外でも同じ仕組み。
Tabelle12-81
ロシア語 odin-na-dcat’、クロアチア語の jeda-na-est でもちょっと形が端折られていたりするが、one on ten という構造になっていることが見て取れるだろう。20、30は日本語と同じく「に+じゅう」「さん+じゅう」である。

 ここでやめようかとも思ったが、せっかくだからもうちょっと見てみると、11から19までで、1の位を先に言う言語が他にもかなりある。
Tabelle13-81
ヘブライ語は男性形のみにした。アラビア語の「11」の頭についているʾaḥada は一見「1」(wāḥid)と別単語のようだが、前者の語根أ ح د ‎('-ḥ-d) と後者の語根و ح د ‎(w-ḥ-d) は親戚でどちらもセム語祖語の*waḥad-  あるいはʔaḥad- から。ヘブライ語の אֶחָד ‎('ekhád) もここから来たそうだから意味はつながっている。アラビア語ではつまり11だけはちょっと古い形が残っているということだろうか。
 「11だけ形がちょっとイレギュラー」というのはインドネシア語もそうで、12からははっきり1と2に分析できるのに11だけ両形態素が融合している。
Tabelle14-81
この11、sebelas という形は se + belas に分解でき、se は古マレー語で「1」、インドネシア語のsatu と同義の形態素である。belas は11から19までの数詞で「10」を表す形態素。これもマレー語と共通だそうだ。つまりここでも古い形が残っているということだ。
 さらにコーカサスのジョージア語(グルジア語)も1の位を先に言う。
Tabelle15-81
-meṭi は more という意味の形態素だそうで、つまりジョージア語では11から19までを「1多い」「9多い」と表現していることになり、リトアニア語の「○余り構造」とそっくりだ。「13」の ca- はもちろん sami が音同化して生じた形である。また、ジョージア語も「20」という独立単語を持っていて、30は「20と10」である。

 シンタクス構造が日本語と似ているとよく話題になるトルコ語は11~19で日本語のように10の位を先に言う。その点はさすがだが、20と30は残念ながら(?)日本語と違って独立単語である。20(yirmi)も30(otuz)もテュルク祖語からの古い形を踏襲した形なのだそうだ。
Tabelle16-81
バスク語も10の位を先に言うようだ。能格言語という共通点があるのにジョージア語とは違っている。もっとも30は「20と10」で、これはジョージア語と同じである。
Tabelle17-81
こうして見ていくと「20」という独立単語を持っている言語は相当あるし、数詞という一つの体系のなかに新しく造語されて部分と古い形を引き継いだ部分が混在している。調べれば調べるほど面白くなってくる。今時こういう言い回しが若い人に通じるのかどうか不安だが、まさにスルメのように噛めば噛むほど味わいを増す感じ。数詞ネタでさかんに論文や本が書かれているのもわかる気がする。


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 「お茶」のことをドイツ語でTee、英語でteaといい、語頭が t 、つまり歯茎閉鎖音になっているが、ロシア語だとчай [tɕæj] または[tʃaj]で日本語と同じく破擦音である。ロシア語ばかりではない、ペルシャ語やアラビア語、中央アジア・シベリアの言語でも「茶」は破擦音だ:トルコ語çay、ペルシャ語chāy、キルギス語чай、エベンキ語чаj、ネギダル語чаj、満州語cai、モンゴル語цай。これはどうしてなのかについては学生時代に(つまり大昔に)次のように聞いていた。
 橋本萬太郎氏によれば中国語の「茶」の語頭音は紀元前後には*dra、七世紀にはそり舌閉鎖音*ɖa、十世紀のころに破擦音[ʈʂa]となった。別の資料によれば「茶」の呉音は「ダ」、漢音「タ」、唐音「サ」だから、これが「チャ」と破擦音で発音されたのは漢音の閉鎖音が唐音の摩擦音に移行するまでの期間、紀元後3世紀から7世紀の間ということになり、7世紀にはそり舌ではあるが閉鎖音のɖだったという上の記述より300年ほど時代がずれるようだが、これは当時の日本語の音韻体系のせいである。つまり当時の「ち」「つ」という文字は現代日本語のような破擦音でなく閉鎖音、それぞれti、tuという発音であった。だから「ちゃ」は今の仮名でかくと「テャ」のような発音だったのである。そのころの日本語は今よりもずっと語頭の有声音を嫌った、というより有声・無声を区別しなかったと考えると*ɖaは確かに「テャ」、当時の表記では「ちゃ」と聞こえたと思われる。また「さ」の文字も当時の日本語では破擦音で、今の「さ」よりも「ちゃ」と読んだと思われるそうだから中国語では10世紀に「ちゃ」と破擦音になった、という説明と時期的に合致している。
 茶という植物は前漢の時代から知られていたらしいが、本格的に広まり出したのは唐からで、「茶」の字が定着したのも唐代だそうだ。日本には奈良時代に伝わった。中央アジアへも遅くとも宋の時代には伝播していたらしい。ヨーロッパ人が茶を知ったのはやっと18世紀である。

 この事実を踏まえて言語変化というものがどのように起こるかを考えてみよう。言語内に新しい形が生じた場合、それは当該言語内にいっぺんにどっと広まるのではない。その形が最初に生じた地点からしだいに回りに広まっていくのである。ちょうど池に石を投げ入れると石が落下した点を中心にして波が広がっていくような按配だから、これを「波動説」と呼んでいる。そして石を投げ込んだ地点から波がこちらの足元まで来るのにちょっと時間がかかるように、新しい言語形が周辺部にまで浸透するには随分かかり、周辺部にやっとその形が到達した時にはすでに中心部では別の形が生じていることが多い。また「周辺部」というのは純粋に物理的な距離のせいばかりでなく、間に山があったり川があったりして人が行きにくい辺鄙なところだと、距離的には近くとも新しい形が伝わるのに時間がかかる。人里はなれた周辺部の方言に当該言語の古形が残っていることが多いのはそのためである。
 例えば琉球語の方言には例えば八重山方言など日本語で「は」というところを「ぱ」でいうものがある。花をぱなというのだ。「はひふへほ」は江戸時代まで両唇摩擦音の[ɸ]、ファフィフフェフォだったことは実証されているが、さらに時代を遡って奈良時代以前には「パピプペポ」だったのではないかという説の根拠もここにある。『17.言語の股裂き』で述べた「西ロマンス諸語の-sによる複数主格は古い本来の形でによる複数主格はギリシア語からのイノベーションではないのか」という私の考えというか妄想もこの波動説の考えをもとにしたものである。

 中国語でもアモイ周辺など南部の方言には古い時代の閉鎖音が破擦音化せずに(そり舌性がなくなった上無声音化はしたが)まだ閉鎖音、即ちtで発音されているものがある。そういった方言形ををまずオランダ人が受け取り、そこからまたイギリス人などの欧米人に t の発音が横流しされたため、西ヨーロッパ中でtea だろTeeだろと言うのである。それに対してアジア大陸の人々はきちんと首都の発音を取り入れたから「チャイ」だろ「チャー」というのだ。ちゃんと首都に来て言葉を習え。もっともポルトガル語だけは例外でcháというチャ形をしているが、これはポルトガル人がオランダ人より早い時期に首都まで来て中国人と接したためか、またはゴアで一旦ヒンディー語を通したかのどちらかだろう。多分前者だとは思うが。というのはやはりその頃中国人と接したヴェネチアの商人にも茶をchiaiと伝えている者がいるからである。

 さて、橋本氏はここで、これだけの話だったら何も言語学者がしゃしゃり出るまでもないが、と断って話を続けている。つまりこんな話は誰でもわかっているということか。ここまでで十分面白い話だと思ってしまったドシロートの私は赤面である。
 
 橋本氏はじめ言語学者たちはここでロシア語чайやペルシャ語چایで[tʃaj]と語末に接近音(あるいは「半母音」)の [ j ] がついて、茶という語が「チャイ」というCVC構造になっていることに注目している。この語末の [ j ] がどこから来たのかについての議論がまた面白い。
 まず、村山七郎氏によるとロシア語のチャイは13世紀以降にモンゴル語の「茶葉」cha-yeを取り入れたもの、つまり「イ」は「葉」が退化した形だそうだ。ロシア語がモンゴル語から借用したことを証明する文献も残っている。このモンゴル語形が中央アジアにも広がったため「イ」のついた形になった。
 それに対して小松格氏は、これは中国の「茶」がペルシャ語に借用された際、[tʃa] だったものがペルシャ語の音韻体系に合うように後ろに j がくっついたためと反論している。ペルシャ語がCV型一音節の単語を極端に嫌うためで、本来nā(「竹」)がnāy、pā(「足」)がpāyになったのもこのためである。そしてこのペルシャ語形を通して「茶」という語がロシア語やその他の中央アジアの言葉に広がったためチャがチャイになった、という。
その反論に対して村山氏はさらに反論。pāy の y は付け加えられた接尾辞ではなく、もともとの語幹に帰するもの(*pād > pāy > på(y))、言い換えると変化の方向はpā→pāyではなくてむしろpāy →pāであり、「ペルシャ語でi(またはy)が加えられた」という説は成り立たない。しかもペルシャ語で「チャ」と並んで「チャイ」が現れるのはやっと17世紀になってからであり、時期的にも当てはまらない。さらにペルシア語で15世紀ごろには茶をčayehあるいは čayah とも記していて、これは「茶葉」である。
 この二説間の議論に上述の橋本氏がさらにコメントし、どちらの説にも説明できない部分があることを指摘した:村山説では9世紀にアラビア語ですでにshakhïと言っていた事実を説明できないし(現代では shāī)、小松説だとペルシャよりずっと中国に近くにいる民族の言葉で軒並み i がついていることが説明しにくい。上で述べた言語のほかにウイグル語の早期借用形 tʃaj、カザフ語 хаy、ネネツ語 сяйなどの例が挙げられる。橋本氏はそこで、「チャイ」の「イ」はもともとの中国語の「茶」の古い発音が反映されたもの、そのころは中国語の「茶」の音節がCVCであった証拠であるとした。実際「茶」と同じ韻を持つ単語には様々な方言で-iとして現れるものが多いということである。

 ここで私なんかがそれこそしゃしゃり出てコメントしたりすると言語学者から「顔を洗って出直して来い」といわれそうだが、ちょっと思いついたことを無責任に述べさせてもらいたい。学術的な根拠のない、単なる感想である。
 例えば上に挙げられていた言語のうち、シベリアの言語、エベンキ語やネギダル語、満州語などは距離的には中国に近くともあまり人の交流のない辺境地だったから、茶も古い時代に直接中国から伝わらずにやっとロシア帝国になってからロシア語を通したのではないかと一瞬思いそうになった。別の歴史の本などを読んでみると、唐代に最も中国人と接触のあったのはペルシャ人だそうで、長安にもたくさんペルシャ人が住んでいたらしい。だから「茶」という語が中間の言語をすっ飛ばしてまずペルシャ語に入り、そこを中継してテュルク諸語やモンゴル語に行き、さらにロシア語に入り、そこからシベリアに広まったというのは十分ありえることだ、と結論しそうになったが、ネネツ語сяйが摩擦音[sjaj] を示していて唸った。テュルク諸語の有力言語カザフ語も[x]であって音変化を起こしている。本当にロシア語もペルシャ語を通さず唐音を中国語から直接取り入れたのかもしれない。
でも仮に「イ」のついた「CVCのチャイ」が古い形を反映しているとしたらなぜ頭が閉鎖音ではなくて破擦音になっているのか疑問に思う向きのために橋本氏は先手を打って、茶という言葉の語頭子音が他の言語で破擦音で写し取れないような音であることは少なくとも中国語北方方言では一度もなかった、と主張している。つまりそり舌歯茎閉鎖音が他の言語の話者には破擦音あるいは摩擦音に聞こえた、ということになるのか。
 実は私はこの主張には思い当たることがある。ロシア語のть, дьである。これらは口蓋化された歯茎閉鎖音であるが、私には絶対「ティ」などではなくしっかり破擦音の「チ」に聞こえる。тя 、тю、тёも同様でそれぞれ「チャ、チュ、チョ」に聞こえる。私ばかりではない、そもそもть、дьのついたロシア語の単語を日本語に写し取る際は「チ」と書くではないか。それでговоритьと日本語で書くと「ガヴァリーチ」になる。さらにベラルーシ語ではロシア語の ть が実際に破擦音の ц になっていて、говоритьはベラルーシ語ではгаварыцьである。
 もちろんこれはあくまで「口蓋化閉鎖音」についてで、肝心の歯茎そり舌音の方は私には破擦音には聞こえない。それにいくら茶の古い時代の語頭子音が「破擦音として写し取れないような音ではなかった」としても、橋本氏があげている言語のうち、一つくらいは閉鎖音で表している言語があってもいいのではないだろうか。
 しかしそのまた一方で再現形の*ɖaというのはあくまでも文献や理論から導き出された音で誰も実際の音は聞いた事がない。そり舌が実際の音価だったという直接の証拠はないのである。もしかしたらその音はそり舌の上に口蓋化していたか、思い切り帯気音だったのかもしれない。
 もうひとつ私が思いつくのは、ひょっとしたら「茶」は結構時代が下った唐代になってもCVCだったのかもしれないということだ。上述のヴェネチア形でも後ろに i がついている。もっとも(自分で言い出しておいてすぐその後自分で否定するなら始めから黙っていたほうがよかったような気もするが)さすがにこれは可能性が薄いと思う。中国語学は豊富な文献、優れた研究者、学問重視の伝統に恵まれている。もし中古音時代にCVCだったりしたら誰かがとっくにそんなことは発見していたに違いない。

 と言うわけで「チャイ」の「イ」がどこから来たのかはわからないという結論だった。橋本氏も決して「チャイ」は中国語の古音を反映している、と確固として結論付けたわけではなく、一つの可能性として提案していたに過ぎない。

 この議論はすでに1980年代に交わされていた古いものだが、今現在はどういう結論になっているのだろうと思ってネットなどを見てみたらやっぱり「イ」の出所は不明となっていた。議論そのものはまだ続いているらしい。アモイ方言の閉鎖音はそもそも中国語の古形などではなくてチベット語から入ってきたものだ、という主張も見かけた。それにしてもたかがお茶一杯飲むたびにいちいちここまで深い話を展開していたらおちおちお茶も飲んでいられまい。もっとも日頃からあまりものを考えずチャラチャラ浅い生活している私のような者は猛省すべきだとは思った。


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 うちではARTEというストラスブールに本拠がある独・仏二ヶ国語のTV放送局の番組が入るのだが、そこでJ.L.トランティニャンについてのドキュメンタリー番組を流してくれたことがある。私にとってはちょっと夜遅い時間だった。
 最初「年取ったなあ、この人も」とか思いながら眠い眼をこすりこすり見ていたのだが、氏が「パリの俳優養成所に進学したが、いつまでも南フランスのアクセントがとれなかったこともあって最初教官からは常に見込みがないという評価を受けていた」というフレーズでパッチリ目が覚めてしまった。つまりこの人の母語は俗に言う(正式にもそういう)オクシタン語(またはオック語)ということか、フランス語はL2だったのか、と気になったからだ。
 調べてみたら、トランティニャンはVaucluse県のPiolencという町の生まれで、学校時代は同県南部のAvignonで過ごし、パリに出てきたのはやっと20歳、つまり母語が完全に固まってからである。 
地図を見るとわかるが、トランティニャン氏はオクシタン語地域で生まれ育っている。
Vaucluse県:(ウィキペディアから)
svg

オクシタン語地域:(これもウィキペディアから)
Occitania_blanck_map

 このオクシタン語はすでにダンテが「フランス語とは全く別言語」であることを見抜いている。フランス政府はこの言語がフランス語でないことを(まだ)公式に認めてはいないが、カタロニアでは公式言語、イタリアでは公式に少数言語として認められているそうだ。
 私が日本で学生だった頃は「フランス人(移民とか後から来た人ではなく土着のフランス国民)でフランス語を母語としない者は全体の25%」といわれていたが、先日ちょっと言語学事典でしらべてみたら、オクシタン語を自由に話せる者は300万人ほど、1200万人ほどがPassiveな話者、つまり「聞いて理解できる」そうだ。相当減ってきている。しかし20世紀の初頭までは結構普通に話されていたそうだから、1930年生まれのトランティニャンはこの言語で育ったのかもしれない。ただ当地でも公用語はフランス語だから、もちろんバイリンガルではあったのだろうが。それともオクシタン語の方が優勢言語だったのか?職業上の言語が完全にフランス語になったあとも日常ではオクシタン語を話していたのか?そういうことを番組で報道してくれなかったのが残念だ。
 トランティニャンはそのL2フランス語で俳優業だけでなく、詩の朗読などの文化活動もしているそうだ。ジャック・プレヴェールの詩を朗読している姿が映されていた。文学・文化音痴の私だが、ジャック・プレヴェールの名前だけはかろうじてというか偶然知っていた。一つ彼の詩を覚えている:一人の男が恋人に送るために花市場でバラを買い、金物市場で重い鎖を買った。というストーリー(?)だった。なぜ「重い鎖」なんだ?と私がいぶかっていたらラストが

「それから奴隷の市場に行きました。恋人よ、君を探しに。でも君は見つからなかった」

というものでドキリとした。原文はこれだ。

Pour toi, mon amour

Je suis allé au marché aux oiseaux
Et j'ai acheté des oiseaux
Pour toi
Mon amour

Je suis allé au marché aux fleurs
Et j'ai acheté des fleurs
Pour toi
Mon amour

Je suis allé au marché à la ferraille
Et j'ai acheté des chaînes
De lourdes chaînes
Pour toi
Mon amour

Et je suis allé au marché aux esclaves
Et je t'ai cherchée
Mais je ne t'ai pas trouvée
Mon amour

(Jacques Prévert, Paroles, Éditions Gallimard, 1949, p. 41から引用)

トランティニャンがこれを朗読したのかどうかは知らないが。

 話を戻すが、上述のようにフランスは中央権威主義的な言語政策をとっていることで有名で、国内の土着の少数言語の保護に余り熱心ではなく、例のヨーロッパ言語憲章にも批准はおろか署名さえしていない。アカデミー・フランセーズはすでに1635年に創立されているから、フランスの中央集権的な言語政策は長い伝統があるのだ。一方だからといって積極的に少数言語の撲滅を図ったりしているわけではないから、土着の民族に英語を押し付け、うっかり自分たちの言葉を話した者の口に石鹸を押し込んだり(オーストラリア政府はアボリジニに対してこれをやった)、その土地の言葉をしゃべった生徒の首に方言札をかけて晒し者にしたり(日本人が沖縄の人に対してやった)、民族の言葉を口にしたらスパイと見なしてシベリアに送ったり(スターリンがボルガ・ドイツ人をそう言って威した。『44.母語の重み』参照)した国なんかとは同列に論じることはできない。
 もっともソ連にしても、スターリンの言動とは別に表向きの言語政策そのものは少数民族の言語にむしろ寛容だったと聞いている。特にソ連邦の初期、1920年代には、国歌にもあるようにДружба народов(ドゥルージバ・ナローダフ、「民族間の友情」)を旗印に(だけは)していたから、ロマニ語さえ保護の対象になっていたようだ(『36.007・ロシアより愛をこめて』参照)。フランスと同様、その中央主義的な言語政策の目的は国家言語を「押し付ける」ことではなくあくまで「普及させる」ことにあったようだ。土着の言語の撲滅ではなく、バイリンガルを目的としていたのだろう。

 外国人の語学学習者からすると、この中央主義的あるいは権威主義的な言語政策はむしろありがたい面もあるのだ。規範ががっちり決まっているからである。そういえば私がこちらでロシア語を学んだ時は教師から教科書からまだソビエト連邦の残滓が完全に残っていたが、まず文法だろなんだろに入る前に発音練習をさせられた。特にアクセントのない o を[ʌ]または[ə]で発音するように(『6.他人の血』『33.サインはV』参照)徹底的に仕込まれた。これはモスクワの発音である。これに対してドイツ語は地方分散性が強いから、学習者が舌先の[r]を口蓋垂の[ʀ]に矯正させられたりはしない。方言にも寛容で、TVのインタビューなどでも堂々と丸出し言葉をしゃべっているドイツ人を見かける。時とするとその、ドイツ人がしゃべっているドイツ語に標準ドイツ語の字幕がつく。実は私の住んでいる町で一度全国放送のドキュメンタリー番組が撮られたことがあるのだが、番組に登場する地元の人たちの発話にはすべて字幕がつけられていた。うちは皆ヨソ者なのでまあ標準ドイツ語話者だが、一瞬「げっ、これは恥かしい」と思ってしまった。しかし自分の話す言葉に標準語の字幕をつけられると恥かしい、という発想そのものが言語権威主義に染まっているいい証拠かもしれない、考えてみれば恥かしいことなど何もないのだとも思うが、ドイツ人の知り合いにこの話をしたらその人もやっぱり開口一番「うえー、それは恥ずかしい」と絶叫していたからまあ私だけが特に権威主義思想に侵されているわけでもないらしい。スイスのドイツ語だと字幕では間に合わず、吹き替えされることがある。フランス語などではこういうことはあまりないのではないだろうか。
 実はドイツ語にドイツ語の字幕をつけられるのは方言の話者ばかりではない。外国人が「字幕の刑」に処せられることもある。これもいつかTVで見た光景だが、さるアジア人の男性がインタビューに答えてドイツ語で受け答えしていたが、その発音があまりに悲惨だったためか、局のほうで「これはドイツ語としては通じまい」と判断されたらしく、字幕を出されていた。男性本人はドイツ語のつもりでしゃべっていたのだろうが、その得意げな(失礼)表情と字幕という現実との間の差に、見ているこちらのほうがいたたまれなくなった。局側としては、向こうが気持ちよく話しているのをやめさせては気の毒だから、それがドイツ人に通じるように手助けしたつもりなのだろうが、外国人・非母語者に対しては何か他にやりようがあるのではないだろうか。ネイティブ・スピーカーが字幕をつけられたのは見ても笑っていられるが、外国人が対象だと全然笑えない。


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機種やブラウザによっては図表のレイアウトがグチャグチャになってしまうことがあるので、これから時々古い記事の表部分を画像に変更していきます(最初からそうしろよ)。図表を直すついでに本文も見直しました。原本の古い記事だけ密かに直そうかとも思ったのですが、せっかくなので再投稿します。

この記事と内容が全く同じですのでわざわざクリックするには及びません。(自分で言うな)

 カスティーリャ語(俗に言うスペイン語)とイタリア語は、フランス語、カタロニア語、ポルトガル語、レト・ロマン語、ルーマニア語と共にロマンス語の一派で大変よく似ているが、一つ大きな文法上の相違点がある。

 名詞の複数形を作る際、カスティーリャ語は -s を語尾に付け加えるのに、イタリア語はこれを-iまたは -e による母音交代によって行なうのだ。
Tabelle1-17
これはなぜなのか前から気になっている。語学書では時々こんな説明をみかけるが。

「俗ラテン語から現在のロマンス諸語が発展して来るに従い、複数名詞は格による変化形を失い、一つの形に統一されてしまったが、その際カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした。」

以下はラテン語の第一曲用、第二曲用の名詞変化だが、上と比べると、カスティーリャ語・イタリア語は確かに忠実にラテン語のそれぞれ対格・主格形をとり入れて名詞複数形を形成しているようだ。
Tabelle2-17
カスティーリャ語の他にフランス語、カタロニア語、ポルトガル語もラテン語対格系(-s)、イタリア語の他にはルーマニア語が母音交代による複数形成、つまりラテン語主格系だそうだ。

 しかしそもそもどうして一方は対格形で代表させ、他方は主格形をとるようになったのか。ちょっと検索してみたが直接こうだと言い切っているものはなかった。もっと語学書をきちんとあたればどこかで説明されていたのかもしれないので、これはあくまで現段階での私の勝手な発想だが、一つ思い当たることがある。現在、対格起源の複数形をとる言語の領域と、昔ローマ帝国の支配を受ける以前にケルト語が話されていた地域とが妙に重なっているのだ。

複数主格が -s になる地域と -i になる地域。境界線が北イタリアを横切っているのがわかる。この赤線は「ラ=スペツィア・リミニ線」と呼ばれているもの(下記参照)。ウィキペディアから。
By own work - La Spezia-Rimini LineGerhard Ernst - Romanische Sprachgeschichte[1][2][3], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5221094
758px-Western_and_Eastern_Romania

これが昔ケルト人が住んでいた地域。北イタリアに走る居住地域の境界線が上の赤線と妙に重なっている。これもウィキペディアから。
Von QuartierLatin1968, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=638312
Celts_in_Europe
 面白いことに、北イタリアにはピエモント方言など複数を母音交代で作らず、-s で作る方言が散在するが、この北イタリアは、やはりローマ帝国以前、いやローマの支配が始まってからもラテン語でなく、ケルト語が話されていた地域である。現にMilanoという地名はイタリア語でもラテン語でもない。ケルト語だ。もともとMedio-lanum(中原)という大陸ケルト語であるとケルト語学の先生に教わった。話はそれるが、この先生は英国のマン島の言語が専門で、著作がいわゆる「言語事典」などにも重要参考文献として載っているほどの偉い先生だったのに、なんでよりによってドイツのM大などという地味な大学にいたのだろう。複数形の作り方なんかよりこっちの方がよほど不思議だ。

 話を戻して、つまり対格起源の複数形を作るようになったのはラテン語が大陸ケルト語と接した地域、ということになる。ではどうしてケルト語と接触すると複数形が -s になるのか、古代(大陸)ケルト語の曲用パラダイムはどうなっているのか調べようとしたら、これがなかなか見つからない。やっと出くわしたさる資料によれば、古代ケルト語の曲用・活用パラダイムは文献が少ないため、相当な苦労をして一部類推・再構築するしかない、とのことだ。その苦心作によれば古代ケルト語は大部分の名詞の複数主格に -s がつく。a-語幹でさえ -sで複数主格を作る。しかも複数対格も、主格と同じではないがとにかく後ろに -s をつける。例外的に o-語幹名詞だけは複数主格を -i で作るが、これも複数対格は -s だ。例をあげる。
Tabelle3N-17
つまりケルト語は複数主格でラテン語より -s が立ちやすい。だからその -s まみれのケルト語と接触したから西ロマンス諸語では「複数は -s で作る」という姿勢が浸透し、ラテン語の主格でなく -s がついている対格のほうを複数主格にしてしまった、という推論が成り立たないことはないが、どうもおかしい。第一に古代ケルト語でも o-語幹名詞は i で複数主格を作るのだし、第二にラテン語のほうも o-語幹、a-語幹以外の名詞には -s で複数主格をつくるものが結構ある。つまり曲用状況はケルト語でもラテン語でもそれほど決定的な差があるわけではないのだ。
 しかもさらに調べてみたら、本来の印欧語の名詞曲用では o-語幹名詞でも a-語幹名詞でも複数主格を -s で形成し、ラテン語、ギリシア語、バルト・スラブ諸語に見られる -i による複数形は「印欧語の代名詞の曲用パラダイムを o-語幹名詞に転用したため」、さらにラテン語では「その転用パラダイムを a-語幹名詞にまで広めたため」と説明されている。つまり古代ケルト語の a-語幹にも見られるような -s による主格形成のほうがむしろ本来の印欧語の形を保持しているのであって、ラテン語の -i による複数形のほうが新参者なのである。ギリシャ語もこの -i だったと聞いて、この形は当時のローマ社会のエリートがカッコつけてギリシャ風の活用をラテン語の書き言葉にとりいれたためなんじゃないかという疑いが拭い切れなくなったのだが、私は性格が悪いのか?書かれた資料としては amici タイプの形ばかり目に付くが、文字に現われない部分、周辺部や日常会話ではずっと本来の -s で複数を作っていたんじゃないのかという気がするのだが、考えすぎなのか?

 言い換えると大陸ケルト語と接触した地域は「ケルト語の影響で -s になった」というよりも、印欧語本来の形をラテン語よりも維持していたケルト語が周りで話されていたため、つまりケルト語にいわば守られてギリシャ語起源のナウい -i 形が今ひとつ浸透しなかったためか、あるいは単にケルト語が話されていた地域がラテン語の言語的周辺部と重なっていただけなのか、とにかく「印欧語の古い主格形が保持されて残った」ということであり、「カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした」という言い方は不正確、というか話が逆なのではないか。西ロマンス諸語はラテン語対格から「形をとりいれた」のではない、ラテン語の新しい主格形を「とりいれなかった」のでは。また対格を複数形の代表として取り入れたにしても、主格と対格がどちらも -s で終っていたために主格対格形が混同されやすく、対格を取り入れたという自覚があまりなかった、つまり話者本人は主格を使っているつもりだったとか。-i という形が圧倒的に有力だったらそれを放棄してわざわざ対格の -s に乗り換えるというのは相当意識的な努力(?)が要ると思う。
 
 どうもそういう解釈したからといって一概に荒唐無稽とは言いきれない気がするのだが。というのは当時ラテン語の他にもイタリア半島ではロマンス語系の言語がいくつか話されていたが、それら、たとえばウンブリア語にしてもオスク語にしても男性複数主格は主に -s で作るのだ。これらの言語は「ラテン語から発達してきた言語」ではない、ラテン語の兄弟、つまりラテン語と同様にそのまた祖語から形成されてきた言語だ。主格の -s はラテン語の対格「から」発展してきた、という説明はこれらの言語に関しては成り立たない。
 ギリシア語古典の『オデュッセイア』をラテン語に訳したリヴィウスやラテン語の詩を確立したエンニウスなど初期のラテン文学のテキストを当たればそこら辺の事情がはっきりするかもしれない。

 スペイン語・イタリア語の語学の授業などではこういうところをどう教わっているのだろうか。

 いずれにせよ、この複数形の作り方の差は現在のロマンス諸語をグループ分けする際に決定的な基準の一つだそうだ。ロマンス諸語は、大きく分けて西ロマンス諸語と東ロマンス諸語に二分されるが、その際東西の境界線はイタリア語のただ中を通り、イタリア半島北部を横切ってラ=スペツィア(La Spezia)からリミニ(Rimini)に引かれる。この線から北、たとえばイタリア語のピエモント方言ではイタリア語標準語のように-iでなく-sで複数を作るのだ。
 つまり、標準イタリア語はサルディニア語、コルシカ語、ルーマニア語、ダルマチア語と共に東ロマンス語、一部の北イタリアの方言はカスティーリャ語、フランス語、レト・ロマン語、プロヴァンス語などといっしょに西ロマンス語に属するわけで、イタリア語はまあ言ってみれば股裂き状態と言える。

 こういう、技あり一本的な重要な等語線の話が私は好きだ。ドイツ語領域でも「ベンラート線」という有名な等語線がドイツを東西に横切っている。この線から北では第二次子音推移が起こっておらず、「私」を標準ドイツ語のように ich(イッヒ)でなくik(イック)と発音する。同様に「する・作る」は標準ドイツ語では machen(マッヘン)だがこの線から北では maken(マーケン)だ。これはドイツ語だけでなくゲルマン諸語レベルの現象で、ゲルマン語族であるオランダ語や英語で「作る」を k で発音するのはこれらの言語がベンラート線より北にあるからだ。

この赤線がドイツ語の股を裂くベンラート線(Machen-maken線)。https://de-academic.com/dic.nsf/dewiki/904533から
Ligne_de_Benrath



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表が多すぎて機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるので(私自身は今時スマホを持っていないので自分のブログをスマホでは見たことがない)、図表を画像に変更しました。データがやたらとあるので再確認して、文章も少し直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 いつだったか、インドの学校では九九を9×9=81までではなく、12×12=144まで暗記させられる、と聞いていたのをふと思い出して調べてみたら12×12ではなく20×20までだった。「じゅうに」と「にじゅう」を聞き違えたのかもしれない。
 言語によっては12で「2」を先にいうこともあるし、反対に20のとき「10」が前に来たりするからややこしい。また、11と12が別単語になっている言語もある、と言っても誰も驚かないだろう。英語がそうだからだ。英語ばかりでなくドイツ語などのゲルマン諸語全体がそういう体系になっている。ゲルマン諸語で1、2、3、10、11、12、13、 20、30はこんな具合だ。
Tabelle1-81
13からは「1の位の数+10」という語構造になっているが11と12だけ系統が違う。11(それぞれelf, elva, ainlif)の頭(e- あるいはain-)は明らかに「1」だが、お尻の -lf、 -iva、 lif はゲルマン祖語の *-lif- または *-lib- から来たもので「残り・余り」という意味だそうだ。印欧祖語では *-liku-。ドイツ語の動詞 bleiben(「残る」)もこの語源である。だから11、12はゲルマン諸語では「1あまり」「2あまり」と言っているわけだ。
 この、11、12を「○あまり」と表現する方法はゲルマン祖語がリトアニア語(というか「バルト祖語」か)から取り入れたらしい。本家リトアニア語では11から19までしっかりこの「○あまり構造」をしていて、20で初めて「10」を使い、日本語と同じく10の桁、「2」のほうを先に言う。
Tabelle2-81
ゲルマン語は現在の南スウェーデンあたりが発祥地だったそうだから、そこでバルト語派のリトアニア語と接触したのかもしれない。そういえば昔ドイツ騎士団領だった地域には東プロシア語という言語が話されていた。死滅してしまったこの言語をゲルマン諸語の一つ、ひどい場合にはドイツ語の一方言だと思い込んでいる人がいるが、東プロシア語はバルト語派である。
 印欧語ではないが、バルト海沿岸で話されているフィンランド語も11から19までは単純に「1と10」という風には表さない。
Tabelle3-81
11、12、13の-toistaという語尾はtoinenから来ていて、もともと「第二の」という意味。だからフィンランド語では例えば11は「二番目の10の1」だ。完全にイコールではないが、意味的にも用法的にもリトアニア語の「○余り」に近い。「20」のパターンもリトアニア語と同じである。
 
 ケルト諸語ではこの「○余り構造」をしておらず、11、12は13と同じくそれぞれ1、2、3と10を使って表し、一の位を先に言う。
Tabelle4-81
アイルランド語の10、a deichはdéag や dhéag と書き方が違うが単語そのものは同一である。後者では「10」が接尾辞と化した形で、これがブルトン語ではさらに弱まって -ek、-zek になっているが構造そのものは変わらない。それより面白いのは20で、「10」も「2」も出て来ず、一単語になっている。これはケルト祖語の *wikantī から来ており、相当語形変化をおこしているがブルトン語の ugentも同語源だそうだ。印欧祖語では *h1wih1kmt* あるいは h₁wih₁ḱm̥ti で、ラテン語の vīgintī もこの古形をそのまま引き継いだものである。「30」、tríocha と tregont も同一語源、ケルト祖語の *trī-kont-es から発展してきたもの。つまり20、30は11から19までより古い言語層になっているわけだ。これはラテン語もそうだったし、それを通して現在のロマンス諸語に引き継がれている。
Tabelle5-81
当然、といっていいのかどうか、サンスクリットやヒンディー語でも「20」は独立単語である。
Tabelle6-81
ヒンディー語の bīs はサンスクリットの viṃśati が変化したもの。下のロマニ語の biš についても辞書に viṃśati 起源と明記してある。もっともそのサンスクリットは数字の表し方がかなり自由で学習者泣かせだそうだが、学習者を泣かせる度合いはヒンディー語のほうが格段に上だろう。上の11、12、13、それぞれ gyārah、 bārah、tērah という言葉を見てもわかるように、ヒンディー語では11から99までの数詞が全部独立単語になっていて闇雲に覚えるしかないそうだ。もっとも13の -te- という頭は3の tīn と同語源だろうし、15は paṅdrah で、明らかに「5」(pāṅc)が入っているから100%盲目的でもないのだろうが、10の位がまったく別の形をしているからあまりエネルギー軽減にはならない。やはり泣くしかないだろう。
 同じインド・イラニアン語派であるロマニ語の、ロシアで話されている方言では20と30で本来の古い形のほかに日本語のように2と10、3と10を使う言い方ができる。
Tabelle7-81
ドイツのロマニ語方言では30をいうのに「20と10」という表し方がある。
Tabelle8-81
ハンガリー・オーストリアのブルゲンラント・ロマの方言では20と30を一単語で表すしかないようだが、11から19までをケルト語やサンスクリットと違って先に10と言ってから1の位を言って表す。これは他のロマニ語方言でもそうだ。
Tabelle9-81
手持ちの文法書には13がbišutrinとあったが、これは誤植だろう。勝手に直しておいた。他の方言にも見えるが、ロマニ語の30、trianda, trianta, trandaはギリシャ語からの借用だそうだ。
Tabelle10-81
古典ギリシア語では13からは11、12とは語が別構造になっているのが面白い。それあってか現代ギリシャ語では11と12では一の位を先に言うのに13からは10の位が先に来ている。20と30はケルト語と同じく独立単語で、20(eikosi または ikosi)は上で述べたブルトン語 ugent、ラテン語の viginti、サンスクリットの viṃśati と同じく印欧祖語の *(h₁)wídḱm̥ti、*wi(h₁)dḱm̥t または *h₁wi(h₁)ḱm̥tih₁ から発展してきた形である。

 あと、面白いのが前にも述べた(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』)バルカン半島の言語で、バルカン連語連合の中核ルーマニア語、アルバニア語では11から19までがone on ten, two on ten... nine on ten という構造になっている。
Tabelle11-81
11を表すルーマニア語の unsprezece、アルバニア語の njëmbëdhjetë、ブルガリア語の edinadesetはそれぞれun-spre-zece、 një-mbë-dhjetë、edi(n)-na-deset と分析でき、un、 një、edinは1、spre、 mbë、naは「~の上に」、zece 、dhjetë、desetが「10」で単語そのものは違うが造語のメカニズムが全く同じである。さらに実はブルガリア語ばかりでなくスラブ語派はバルカン外でも同じ仕組み。
Tabelle12-81
ロシア語 odin-na-dcat’、クロアチア語の jeda-na-est でもちょっと形が端折られていたりするが、one on ten という構造になっていることが見て取れるだろう。20、30は日本語と同じく「に+じゅう」「さん+じゅう」である。

 ここでやめようかとも思ったが、せっかくだからもうちょっと見てみると、11から19までで、1の位を先に言う言語が他にもかなりある。
Tabelle13-81
ヘブライ語は男性形のみにした。アラビア語の「11」の頭についているʾaḥada は一見「1」(wāḥid)と別単語のようだが、前者の語根أ ح د ‎('-ḥ-d) と後者の語根و ح د ‎(w-ḥ-d) は親戚でどちらもセム語祖語の*waḥad-  あるいはʔaḥad- から。ヘブライ語の אֶחָד ‎('ekhád) もここから来たそうだから意味はつながっている。アラビア語ではつまり11だけはちょっと古い形が残っているということだろうか。
 「11だけ形がちょっとイレギュラー」というのはインドネシア語もそうで、12からははっきり1と2に分析できるのに11だけ両形態素が融合している。
Tabelle14-81
この11、sebelas という形は se + belas に分解でき、se は古マレー語で「1」、インドネシア語のsatu と同義の形態素である。belas は11から19までの数詞で「10」を表す形態素。これもマレー語と共通だそうだ。つまりここでも古い形が残っているということだ。
 さらにコーカサスのジョージア語(グルジア語)も1の位を先に言う。
Tabelle15-81
-meṭi は more という意味の形態素だそうで、つまりジョージア語では11から19までを「1多い」「9多い」と表現していることになり、リトアニア語の「○余り構造」とそっくりだ。「13」の ca- はもちろん sami が音同化して生じた形である。また、ジョージア語も「20」という独立単語を持っていて、30は「20と10」である。

 シンタクス構造が日本語と似ているとよく話題になるトルコ語は11~19で日本語のように10の位を先に言う。その点はさすがだが、20と30は残念ながら(?)日本語と違って独立単語である。20(yirmi)も30(otuz)もテュルク祖語からの古い形を踏襲した形なのだそうだ。
Tabelle16-81
バスク語も10の位を先に言うようだ。能格言語という共通点があるのにジョージア語とは違っている。もっとも30は「20と10」で、これはジョージア語と同じである。
Tabelle17-81
こうして見ていくと「20」という独立単語を持っている言語は相当あるし、数詞という一つの体系のなかに新しく造語されて部分と古い形を引き継いだ部分が混在している。調べれば調べるほど面白くなってくる。今時こういう言い回しが若い人に通じるのかどうか不安だが、まさにスルメのように噛めば噛むほど味わいを増す感じ。数詞ネタでさかんに論文や本が書かれているのもわかる気がする。


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古い記事ですがちょっと詰めが甘かったので(どうせいつも甘いじゃん)全面的に書き直しました。表も画像にしました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 セルジオ・レオーネ監督の第二作(『ロード島の要塞』を入れれば第三作目)『夕陽のガンマン』の英語タイトルは For a few Dollars more(あともう少しのドルのために)というが、これは現ロマンス諸語のDVDのタイトルなどでは以下のようになっている。
Tabelle1-N29
カタロニア語以外の言語では実際にこういう名前でDVDが出ていたりウィキペディアに項があったりするが、カタロニア語のはちょっと参考のために他の言語のタイトルを翻訳してみたもので、実際にこういうタイトルでDVDがあるわけではない。カタロニア人はスペイン語バージョンを観賞すればいいらしくカタロニア語への具着替えなどはないと見える。

 さてこうして並べて眺めてみるとロマンス語派の言語が二つグループに分けられることがわかる:英語の more にあたる語がイタリア語、フランス語、ルーマニア語ではそれぞれ più, plus, plu と p- で始まり、スペイン語、ポルトガル語、カタロニア語では m- が頭についている(それぞれ más, mais, més)。つまりいわば m- グループと p- グループに別れているのだ。
 調べてみるとまず più, plus, plu はラテン語の plūs から来ているそうだ。これは形容詞 multus「たくさんの、多くの」の比較級。以下に主格形のみ示す。
Tabelle2-N29
比較級は単数形では性の区別を失い、男・女・中すべて plūs に統一されている。原級と比較級・最上級との形が違いすぎるからこれはいわゆる補充形パラダイムという現象だろうと思って調べてみたらまず原級 multus の印欧祖語形は *ml̥tós(「くずれた」「崩壊した」)(!)と推定されている。動詞の分詞だが、その大元の動詞というのが *mel- とされ、これは「心配する」「遅れる」だそうだ。うーん、印欧語祖語というのはジグムント・フロイトの精神分析と同じくらいスリルがある。イタリック祖語まで下るとだと *moltos(「たくさんの」)になるそうだ。
 対して比較級の plūs はイタリック祖語の推定形 *plēōs(「より多く」)で、印欧語祖語に遡ると*pleh₁-yōs。これは分詞ではなく動詞語幹の *pleh₁- に *-yōs という形がくっついたもので、前者は動詞、後者は意味を強める形態素だそうだ。動詞の *pleh₁- は「満たす」。時代を下りに下ったゲルマン語派、古期英語の feolo あるいは fiolu、ドイツ語の viel、オランダ語の veel(「たくさんの」)など皆同源である。この、p から f への音韻推移、印欧語の無声閉鎖音がゲルマン語派で調音点を同じくする無声摩擦音に移行した過程はグリムの法則あるいは第一次音韻推移と呼ばれ、ドイツ語学習者は必ず覚えさせられる(そしてたいていすぐ忘れる。ごめんなさい)。
 ついでに *pleh₁- はサンスクリットでは pṝ-、サルディニア語で prus で、なんと l が r になっているではないか。これでは「 lと r の区別ができない」といって日本人をあざ笑えない。

 この plūs 形に対してスペイン語、ポルトガル語、カタロニア語の mais、más、més 等はラテン語の magis が語源。これは形容詞 magnus「大きい」の比較級からさらに派生された副詞だそうだ。まず元の形容詞 magnus だが、次のように変化する。
Tabelle3-N29
こちらのパラダイムは補充形ではないが、比較級だけ別のタイプの語形変化を見せている。原級と最上級が同じパターンの語形変化というのは上の補充形 multus も同じで、原級と multus と最上級 plūrimusは本来別語であるにもかかわらず、変化のタイプだけは同じだ。そしてそこでも比較級 plūs だけが変な(?)変化をしていて、しかもそれがここの比較級 māior と同じパターンなのがわかる。原級 magnus、比較級 māior のイタリック祖語形はそれぞれ *magnos、*magjōs で、それらをさらに印欧祖語にまでさかのぼるとそれぞれ *m̥ǵh₂nós と *méǵh₂yōs。どちらも「大きい」という意味の形容詞 *meǵh₂- からの派生だが比較級の方はさらに *meǵh₂-  +‎ *-yōs に分解できる。後者は上でお馴染みになった程度を強める形態素だ。
 上で述べたラテン語の magis という形はイタリック祖語でも *magis。比較級 *magjōs の短形、ということはやはり印欧祖語の *meǵh₂-  に遡る。この比較級の中性形が副詞的な使われ方をするようになったものだとのことだ。*magis はイタリック祖語の時代にすでにラテン語 plūs と同じく、単数形に性の区別がなかったと見られ、ラテン語では副詞、つまり不変化詞になっていた。これはあくまで私の考えだが、「男性・女性・中性の形の区別がなくなった」というのは要するに単数中性形だけが残って男性女性を吸収し、さらにそれが副詞として固定したという意味ではないだろうか。ちょっと飛び火するが、「形容詞の(短形)中性単数形が副詞化する」という現象は現在のロシア語でも頻繁に見られるのだ。その際アクセントの位置がよく変わるので困るが。たとえば「良い」という意味の形容詞の長形・短形はこんな感じになる。
Tabelle4-N29
アクセントのあるシラブルは太字で示した。中性単数の хорошо は副詞として機能し、Я говорю хорошо по-русски は「私はロシア語をよく話します」つまり「私はロシア語が上手い」(ウソつけ)。上のplūsもある意味ではこの単・中 → 副詞という移行のパターンを踏襲しているとみなしていいのではないだろうか、文法性の差を失ってしまっている、ということはつまり「中性で統一」ということではないだろうか。と思ったのでplūs の表をそんな感じにしておいた。

さてこの、more にあたる単語が p- で始まるか m- で始まるか、言い換えると plūs 系か magis 系かは『17.言語の股裂き』の項でも述べた複数形の形成方法とともにロマンス語派を下位区分する際重要な基準のようだ。plūs 組はイタリア語、フランス語、のほかにロマンシュ語(pli)、サルディニア語(上述。prus または pius)、イタリア語ピエモント方言(pi)など。同リグリア方言の ciù もこれに含まれるという。magis 組はスペイン語、ポルトガル語、カタロニア語以外にはアルマニア語(ma)、ガリシア語(máis)、オクシタン語(mai)。
 フランス語が plūs 組なのにオクシタン語が magis 組だったりするところが面白いとは思うのだが、実はこの区別はあくまでどちらの形が優勢かということで、形自体は p- も m- もどちらも持っている。つまり plūs 組言語には magis 系の単語が存在しないというわけではないらしい。
 例えばルーマニア語だが、映画のタイトルは上のように plūs 系語が使われている。またそこら辺の翻訳機械で Per qualche dollaro in più を訳させるとタイトル通りPentru câțiva dolari în plus と出てくる。しかし more だけ入れると mai mult と magis 系が出る。どっちなんだと思って別の翻訳機械にかけてみたら Pentru câțiva dolari în plus が出たその下に選択肢として Pentru câțiva dolari mai mult が登場する。上述の分類リストにはリーマニア語が magis 組のほうに載っていた。つまりどっちもアリなんじゃん。
 ポルトガル語でも中世 p- 系の chus という語も使われていたそうだ。chus が p- 形と聞くと意外な気がするが、上記のイタリア語リグリア方言 ciù が p- 起源だそうだから chus が実は P形であってもおかしくない。とにかく最終的には m- 形の mais が優勢になったらしい

 「両方ある」という点では厳密に言えばイタリア語、フランス語もそう。フランス語の mais(「けれど」)はこの magis 起源だそうだ。さらにイタリア語でたとえば nessuno ... mai(「誰も…ない」)、non ... mai(「決して…ない」)、mai più(「もう決して…ない」)などの言い回しで使う、否定の意味を強める mai の元もこれ。最後の例では p- 形と m- 形がかち合っている。mai はさらに疑問の意味も強めることができ、come mai non vieti? は「何だって君は来ないんだ?!」。相当機能変化を起こしてはいるが単語自体はあるのだ。フランス語の mais にあたるイタリア語 ma(「けれど」)も当然同源である。

 話がそれるが、イタリア語の più がフランス語で plus になっているのが私にはとても興味深い。ロシア語に同じような音韻現象があるからだ。
 まず、più の p は後続の母音iに引っ張られて口蓋化しているはずだ。この、本来「口蓋化した p」に円唇母音(つまり u)が続くとフランス語では p と u の間に唇音 l が現れる。ロシア語では例えば「買う」の完了体動詞(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)の不定形は купить(ローマ字では kup'it' と表すが、この「'」が「口蓋化した子音」という意味)だが、これの一人称単数未来形は、理屈では купью(kup'ju)になるはずなのに実際の形は куплю(kuplju)と、どこからともなく l が介入する。対応する有声子音 b の場合も同様で、「愛する」という動詞 любить (ljubit')の一人称単数現在形は、なるはずの形 любью(ljub'ju)にならずに люблю(ljublju)という形をとる。

 というわけでロマンス語派のタイトルは plūs と magi のそれこそ決闘が見られて血沸き肉躍るのに比べゲルマン語派はバリエーションがないので退屈だ。
Tabelle5-N29
デンマーク語、アイスランド語は翻訳機にかけた結果だが、同語源なのは一目瞭然。これらは皆 magis  のところでお馴染みになった印欧祖語形 *méǵh₂s の子孫である。

 ついでにスラブ語もみてみよう。
Tabelle6-N29
クロアチア語ではなぜか a few がスッポ抜けているが、とにかくスラブ語派はゲルマン語派より割れ始めた日が浅いのに more に2グループあることが見て取れる。ロシア語、ウクライナ語、つまり東スラブ語派では b(б)で始まるのに対し、その他の南・西スラブ語派言語は皆 v(в)だ。チェコ語、ブルガリア語、マケドニア語のの more、それぞれ navíc、повече、повеќе の頭についている na- や po-(по-)は、元来前置詞、いわばイタリア語などの de あるいは in に相当するから無視していい。本体はそれぞれ víc、вече、веќе、つまり v 組である。
 分離したのが古いため元の語の原形がわかりにくかったロマンス語派と違ってスラブ語派は語源が一目瞭然だ。瞭然過ぎて決闘という感じがしないためややスリルに欠けるが、ロシア語の больше は「大きい」という形容詞 большой の比較級である。主格形だけ見てみよう。
Tabelle7-N29Tabelle7-N29
この「ボリショイ」という言葉はひょっとしたら最も有名なロシア語の一つかもしれないが、非常に厄介なイレギュラー単語である。まず原級の短形が存在せず別語を持ってきて補充形パラダイムを作る。さらに比較級の長形を持つという稀有な存在。普通はもう比較級を分析的なやり方、英語の more beautiful のように形容詞の原級の前に более をつけて表す。さらに最上級の形成に原級形ではなく比較級の長形を使っている、普通は原級である。「普通の」形容詞、「美しい」と比較するとイレギュラーぶりがよくわかる。
Tabelle8-N29
ウクライナ語も同じメカニズム、「大きい」という形容詞の比較級短形を使うという方法を踏襲しているのは明らかだ。
 次に他のスラブ諸語が使っている  v 系語だが、これも先のロマンス語のように語自体はロシア語にも存在する。выше という語で、これは「高い」という形容詞 высокий の比較級だ。
Tabelle9-N29
最上級に2種あるが、二つ目の形は「大きい」の比較級に対応している。これは本来比較級だったのが最上級に昇格したのか、逆にこれも本来最上級だったのに上の「大きい」では比較級に降格されたのかどちらかだろう。南・西スラブ語では「より大きい」でなく「より高い」を more として使っているわけだ。
 せっかくだから両形容詞の語源を調べたら、「大きい」はスラブ祖語再建形が *velьjь(「大きい」)、印欧祖語形 *welh₁- 。「選ぶ」とか「欲する」とかいう意味だそうだ。本当かよ。「高い」はスラブ祖語の「高度」*vysь から。印欧祖語では *h₃ewps- と推定されるそうだ。うーん…
 とにかくロマンス諸語でもゲルマン諸語でもスラブ諸語でも、どの形容詞から引っ張って来たかという点には差があるが、形容詞の比較級形を持ち出してきて「もっと」の表現に当てているという基本戦略は同じだということになる。

 さて、最初に言ったようにこの映画の日本語タイトルは『夕陽のガンマン』で、印欧祖語もラテン語も比較級もへったくれもなくなっているのが残念だ。ジャンルファンはよく単に「ドル2」とも言っている。セルジオ・レオーネがイーストウッドで撮った3つの作品が「ドル三部作」と呼ばれているからで、一作目(邦題『荒野の用心棒』)と二作目(『夕陽のガンマン』)の原題、それぞれ Per un pugno di dollari と Per qualche dollaro in più に「ドル」という言葉が入っているためである。三番目の『続・夕陽のガンマン』Il buono, il brutto, il cattivo は全然違ったタイトルなのだが、勢いで(?)「ドル3」と呼ばれたりしている。

この項続きます

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