アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:映画・テレビ > 映画・テレビ一般

 今はもうなくなってしまったのだが、以前、近くに地下一階地上二階のちょっと大きなドラッグ・ストアがあって、二階のフロアがまるまるCDとDVDの売り場になっていた。近くのスーパーに買い物に行こうと思ってうちを出ると、どうもつい途中でここについ寄り道をしてしまうことが多かった。

 ある時また例によって覗き見してみたらセルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』がなんと7.99ユーロで山積みされていたのである。もちろんその場で買ったはいいが、もともと食料品だけを買うつもりで家を出てきたものだから、小銭レベルのお金しか持っておらず、DVDを買うと有り金がほとんどなくなってしまい、食料品は買わずに手ブラで帰るハメになった。また出直すのも面倒だったので、昼は台所に落ちていた食料を適当に食べた。

 ところでこの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』には年齢制限があり、16歳以下は制限されている。ドイツは映画やゲームの年齢制限がちょっと細かくて、無制限、6歳以下は制限、12歳以下制限、16歳以下制限、そして最終的に18禁の5等級に分かれている。18禁とはつまり成人指定だが、日本とは重点が少し違っていて「成人指定」といってもいわゆるアダルト映画、つまり性描写の露骨な映画とは限らないのだ。現に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』では一箇所かなり生々しい性描写があるのに成人指定にはなっていない。性描写に劣らず厳しくチェックされるのは暴力描写で、どぎつい残酷シーンがある映画が成人指定になるのは当然だが、実際に血しぶきが飛ばなくても内容的に暴力を礼賛し暴力による問題解決を奨励しているようなストーリーのものは、女性のヌードなど全く出てこなくても成人指定となる。
 それでブルース・リーの空手アクション『燃えよドラゴン』は成人指定。暴力を礼賛していると見なされるからだ。つまり「アダルト」というのは日本人がすぐ連想するように単に下半身が機能する人のことではなくて、自分の攻撃性をきちんと自分でコントロールできるかどうかのほうが大事、そしてそれができない子供には、暴力に訴えるのが正当な手段だなどと思わせてしまうような内容のほうが性描写などより害になるというわけだ。人をモノとしか思わないような人間になってもらっては困る、というところ。言い換えると「アダルト」とは体でなく頭の成熟度だという理屈。一理あると思う。
 日本では無害扱いされているアクション映画なども人が銃で撃たれるシーンなどはTV放映時にはカットされることが多い。アーノルド・シュワルツェネッガーの『ターミネーター』もしっかり鋏が入っていた。

 これはあくまで私の想像だが、『必殺仕置人』のようなTVシリーズはこちらでは普通のお茶の間用の時間帯では放映できないのではないだろうか。ドイツ語でいうSelbstjustiz(ゼルプストユスティーツ)、暴力による自己裁判を奨励しているからだ。もっともこれは日本でも放映は「お茶の間」より少し遅い夜の10時からだったが。『子連れ狼』も微妙なところで、こちらは放映は9時と子供でも見られる時間帯だった。しかしどちらも後に昼間再放送されたと記憶している。現に私は『子連れ狼』をしっかり全部見ている。ドイツだったら駄目かもしれない。
 同じ理由で、話合いや法による解決を一切試みないですぐ銃に訴えるというやり方を礼賛しているマカロニウエスタンの相当数が成人指定。マカロニウエスタンのガンマンが皆討論を始めてしまったら映画にならないではないか、などという甘い理屈はドイツ人には通用しない。驚くなかれ、私の世代の女性には今日のレオナルド・ディカプリオ(すでにこの人も譬えとしては古いが)と同じくらい人気のあったあのソフトなジュリアーノ・ジェンマの『続・荒野の1ドル銀貨』もこちらでは成人映画だ。これのどこをどう解釈すれば子供の害になると判断されてしまうのか教えてほしい気がするが、この程度で成人指定を食らうのだから、耳が血まみれで切り取られる シーンのある『続・荒野の用心棒』、貧しい人々が人間扱いされず「ゴミ」として虫けらのように殺され、いわんや最後には悪が暴力によって善に勝つというトンでもないストーリーの『殺しが静かにやって来る』などが成人指定と聞いても全く驚かない。むしろセルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』が16歳指定で済んでいるのが不思議なくらいだ。
 ファンの間で「最も強烈なマカロニウェスタン」とお墨付きを貰っている『情け無用のジャンゴ』などは成人指定は言わずもがな、ドイツ製のDVDというものが見つからず、街なかの普通の店などにはとても置かれていないのはもちろん、ネットで買おうとしても(するな)イギリスからの輸入品か、セカンドハンドしかない。しかもそれが中古品のくせに50ユーロもするほど需要と供給のバランスが崩れているのは、ドイツ国内では「危険映画」として販売が自主規制でもされているのか?
 実は私は『続・荒野の用心棒』など小学生頃から平気で見ていた。日本では無制限だったからである。しかしそういえば小学校時代から大学を卒業して後も「人間性に問題がある」の「性格が歪んでいる」のと頻繁に言われたものだ。ひょっとしたらこの映画を小学生のころ見てしまったのも一因なのかもしれない。やはり子供に見せる映画は少し考えたほうがいい。『続・荒野の用心棒』だったからまだ性格が歪む程度で済んだが、『殺しが静かにやって来る』など当時見てしまっていたら完全にトラウマになっていただろう。私がこの映画を見たのはもういい大人になってから、つまりドイツに来てからであるが、ストーリーをすでに知っていたにも関わらずあの凍るようなラストを3日くらい引きずってしまったから。

 とにかく、18歳以下禁止の指定をされてしまった映画だと買うのにちょっと苦労することは事実だ。「あなたはどうやっても18歳未満には見えないから関係ないだろう」というと、それは違う。18禁モノというのは大抵ビデオ屋さんの暗い隅の方にまとめて置かれていて、危なそうなおじさんが日本で言う成人映画、つまりいわゆるピンク映画をいじっていたり、全身刺青の恐そうなお兄さんがホラー映画にじーっと見入っていたりするので、私のような小心者には恐くてとても入って行ける世界ではない。相当気合がいるのだ。
 勇気を出して刺青のお兄さんの横をすり抜け、えいっとばかり目当てのDVDを取り、やっとの思いでレジまで持って行ったら行ったで、パッケージにデカデカと「18禁」とシールが張ってあるものだから、レジの人が「やだわ、この東洋人のおばさん、成人映画なんて買うの?!」とでもいいたげな、うさんくさそうな顔をして私のことをジロジロと見る。たかがジュリアーノ・ジェンマの映画を買うのにここまで苦労しなければいけないなんて本当に暮らしにくい国だ。


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 いつだったかTVでニュースを見ていたら、イタリアの政治家に、名前が -xi で終わっている人がいたのでおやと思った。これはアルバニア語の名前である。-aj で終わっている名前の俳優を一度マカロニウエスタンで見かけたことがあるが、これもアルバニア語だ。どちらも語尾にばかり気をとられて名前そのものは忘れてしまった。メモでもとっておけばよかった。
 『83.ゴッドファーザー・PARTⅠ』の項で述べたようにイタリアは実は多民族国家で、その有力な少数民族の一つが南イタリアのギリシャ人だが、アルバニア人も多い。アルバニア語も少数言語として正式にイタリア政府に承認されている。もっともイタリア人よりも前からイタリア半島に住んでいたギリシャ人と違ってアルバニア人は比較的新しい時代になってから移住してきたのだそうだ。もっとも新しい時代といっても14世紀から15世紀のことだから日本で言えば室町時代、十分古い話ではある。もちろん世界がグローバル化するはるか以前である。
 南イタリアのほかにシチリアにもアルバニア語・アルバニア人地域がある。上述の項で紹介した元マフィアの組員も、自分の家族はギリシャ人、つまりギリシャ語を話すイタリア人だが、近所にはアルバニア人も多くいて両グループ間の抗争が絶えなかったそうだ。地図を見ると確かに両民族の居住地が重なっている。
 アルバニア人はもともとキリスト教徒だった。畢竟ローマ・カトリックのイタリア(当時はイタリアという統一国家はまだなかったが)と精神文化の面で繋がりが強かったらしく、例えばアルバニア語で印刷された最古のテキストは1555年にジョン・ブズク Gjon Buzuku という僧が聖書を訳した188ページのもので、一部破損しているが原本がバチカン図書館に保管されているそうだ。もっともアルバニア語で書かれた、というだけなら1462年の文献が現存しているし、言語についての断片的な記録はさらに古いのがあるから、現存テキスト以前にすでにアルバニア語で書かれた文献自体は存在していたと見られる。しかしそれでも14世紀ごろで、有力な他の印欧語と比べると時代が新しい。
Bozukuによるアルバニア語テキスト。ウィキペディアから。
Buzuku_meshari

 トルコの支配下に入ってからはアルバニアにはイスラム教が広まったが、現在でも人口の20%はギリシャ正教、カトリックも10%ほどいるとのことだ。その10%の中からあの聖女マザー・テレサが出たわけである。
 20世紀になってからもイタリアの皇帝ビットリオ・エマヌエレ3世がアルバニアの皇帝もかねたりしていたから、距離の近いアルバニアからはさらにイタリアへの移住が増えたことだろう。これもいつだったか、ニュースを見ていたら、今日びはイタリアのいわゆる開発の遅れたアプーリア地方の人たちが新天地を求めて逆にアルバニアに渡り、そこで事業を起こしたり工場を建てたりする例が増えているそうだ。人件費が安いからだろう。

 アルバニア語はギリシャ語と同じく一言語で一語派をなしているが、二大方言グループ、ゲグ方言とトスク方言がある。以前にも書いたように(『39.専門家に脱帽』参照)これらの間には音韻的な差があって、トスク方言では r である部分がゲグ方言では n になる。上述の項でも例を挙げたがその他にも「ワイン」という言葉がそれぞれ venë (ゲグ方言)と verë(トスク方言)となっている。さらに元は鼻母音だった â がトスク方言ではシュワーの ë になって、コピュラの âshtë(ゲグ方言)がトスク方言では është。文法にもいろいろ違いがあるそうだ。イタリアのアルバニア語は本来トスク方言に属するが、長く本国を離れていたため独自の発展を遂げた部分も多く、これを第三の方言と見なす人もいる。面白いことに上述のカトリック僧 Buzuku は北アルバニアの出身で訳に使った言語はゲグ方言である。

 また「ギリシャ」という名称がギリシャ本国でなく元来イタリアのギリシャ人を呼ぶものであったのと同様(本国では「ヘラース」、再び『83.ゴッドファーザー・PARTⅠ』参照)、「アルバニア」という名称も実はイタリアやギリシャのアルバニア人のことである。彼らが自分たちをアルバレシュ albëreshë とよんでいたので、イタリアでアドリア海の向こう側の本国まで「アルバニア」と呼び出したのだ。アルバニアではアルバニアのことを「シュキプタール」という。
 アルバニア語はいわゆるバルカン言語連合(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)の中核をなす言語である。早くから言語学者の興味を引いていたようで、1829年にバルカン言語学誕生の発端となった論文を書いたスロベニアの学者コピタルもアルバニア語に言及している。Albanische, walachische und bulgarische Sprache(アルバニア語、ワラキア語、ブルガリア語について)というタイトルの論文だが、すでにバルカン言語連合の中核3言語の相似性を見抜いている。この三言語がシンタクスなどの面で nur eine Sprachform, aber mit dreyerlei Sprachmaterie(言語の形は一つなのに言語素材は三つ)であることを発見したのはコピタル。ついでに言うとこの論文からも判る通り、当時の言語学の論文言語はドイツ語が中心だった。
 そうやって印欧語学者がこの言語をよく知っている、少なくともこれがどういう構造の言語なのかくらいは皆心得ている一方で、アルバニア人やアルバニア文化そのものについての関心は薄く、私も未来系の作り方とか後置定冠詞とかどうでもいいことは授業で教わったがアルバニア人はどういう人たちなのかという肝心なことについては全く無知であった。今でも無知である。この調子だから私はヒューマニストにはなれないのだ(『54.言語学者とヒューマニズム』参照)。
 
 ところが先日、ドイツの大手民放がヴィネトゥ映画3部作(『69.ピエール・ブリース追悼』参照)をこれも3部作のTV映画としてリメイクした。元の映画でオールド・シャターハンドをやったレックス・バーカーもヴィネトゥのピエール・ブリースもすでになくなっていたし、生きていても年をとりすぎていてあのアクション活動は無理だったろうから、現在のドイツの俳優を持ち出してきた。シャターハンドをやったヴォータン・ヴィルケ・メーリング Wotan Wilke Möhring は顔は確かによく見かけるまあ有名俳優なのだろうが、バーカーに比べると容貌がショボすぎる感じで「こんなのがあのシャターハンド?!」と一瞬思ってしまったが(ごめんなさいね)、ヴィネトゥ役をやった人はブリースとはまた違ったカリスマ性があり、若くハンサムで正直驚いた。私はドイツのTV番組は基本的に公営放送のニュースやドキュメンタリー番組と、民放ではマカロニウエスタンしか見ないので、確かに人気俳優などは余り知らない。しかし知らないと言っても顔はどこかで見たことがあるのが普通だったが、このヴィネトゥ役の俳優は全く顔さえ見たことがなかった。どうしてこんなイイ男に気づかなかったんだろうといぶかっていたら、それもそのはず、アルバニアのニク・ジェリライ Nik Xhelilaj という俳優だった。名前に Xh という綴りが入り aj で終わっているあたり、これ以上望めない程アルバニア語である。ジェリライ氏は本国ではスターだそうだ。
リメイク映画「ヴィネトゥ」から。右がドイツの俳優メーリング
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これも「ヴィネトゥ」から
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普通の格好(?)をしたジェリライ氏 http://diepresse.comから
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ニク・ジェリライという俳優は日本ではあまり知られていないだろうからこの際紹介の意味でもう一つオマケの写真
http://media.gettyimages.com
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 氏は顔がイケメンである上に声も涼しげないい声だったが、さらにしゃべるドイツ語がまた良かった。「うまい」というのではない、逆に本物のタドタドしいドイツ語だったのである。それはこういうことだ:
映画などで「外国人」あるいは「当該言語を完全にはしゃべれない」という人物設定にする際、その「不完全な言葉」というのがいかにもワザとらしくなるのがもっぱらである。どう見ても、どう聞いても本当はペラペラなのに意図的にブロークンにしゃべっていることがミエミエなのだ。一番「それはないだろう」と憤慨するのが文法・言い回しなどには取ってつけたような「外国人風の」間違いがあるのに発音は完璧というパターン。あるいは l と r を混同するなどのステレオタイプな発音のクセを 時おり挿入して外国人に見せるという姑息な手段。その際lとrは間違えても CVCC や CCVC のシラブルの方はなぜかきちんと発音が出来、絶対 CVVCVCV や CVCVVCV などにはならない。本当はしゃべれるのにワザとブロークンにやっていることが一目瞭然だ。
 あるいは逆に俳優に訓練を施す余裕がなかったか、俳優に語学のセンスがなくて制作側がサジを投げたか、俳優が大物過ぎて監督が遠慮しデタラメな発音でもOKを出してしまったかして当該言語としてはとうてい受け入れられないような音声の羅列になるとか。そういう場合でもセリフそのものはネイティブの脚本家が書いたものだから発音はク○なのに言い回しは妙にくだけた話し言葉という、目いや耳を覆いたくなるような結果になる。名前は出さないがジェームス・ボンド役として有名なさる俳優がさる映画でしゃべっていたいわゆる日本語なんかも憤死ものだった。
 いずれにせよ、完全な不完全さ、自然な不完全さをかもし出すのは結構難しいのだ。ところが、このジェリライ氏のドイツ語は本当にブロークン、文法も初心者・耳で聞いて言葉を覚えた者がよくやる語順転換、変化語尾の無視などが現れていかにも自然な不完全さなのである。それでいて耳障りではない。顔のハンサムさや声のよさより私はこっちの方に感心した。もっともこれはジェリライ氏の業績・俳優としての技量もさることながら、スタッフの業績でもあるのかもしれないが。
 とにかく「ヴィネトゥ役にアルバニアのスターを起用」ということが珍しかったせいか、結構メディアでも報道されていた。そういえば以前「ヨーロッパで一番ハンサムが多いのは実はバルカン半島」と主張している女性がいたが、このジェリライ氏を見てなるほどと思ったことであった。

 さてそのアルバニア語は、どこかの言語学者も言っていたように、「語学というより言語学的な興味で始める人が多かろう」。印欧語の古いパラダイムをよく残している非常に魅力ある言語である。例として以下に çoj (take away, send) という動詞の変化パラダイムの一部を挙げるが、アオリストや希求法などがカテゴリーとしてしっかり残っており、これと比べるとドイツ語やロシア語などチョロイの一言に尽きる。たかがロシア語の不規則動詞ごときにヒーヒー言っていたり(私のことだ)、変化形を覚えたと言って鼻の穴を膨らませて自慢しているような輩(これも私のことだ)などは、ジェリライ氏に恥じろ。繰り返すが、これは動詞変化のごく一部、動詞部分が直接変化するパラダイムのそのまた一部である。これにまた接続法一連、完了体など助動詞や不変化詞による動詞パラダイム(アオリスト2もそれ)やそもそも受動体(これにもまた直説法現在形、接続法現在形などのパラダイムがオンパレード)などがガンガン加わってくるから、ここに示したのは動詞の変化形全体の10分の一にも満たない。もちろんこれは最も簡単な動詞で、他に不規則動詞も当然ある。ラテン語や現在のロマンス諸語より強烈なのではなかろうか。
Tabelle1-100
Tabelle2-100
Tabelle3-100
「意外法」というのは Admirativ のことである。まだ定訳がないようだが、法(Modus)の一種で、当該事象が愕いたり意外に思うようなことだった場合、この動詞形で表す。アルバニア語はバルカン現象のほかにこの Admirativ を動詞変化のパラダイムとして持っていることでも知られているようだ。
 また現在のロマンス諸語では強烈なのは動詞だけで、名詞の方は語形変化がないに等しいくらい簡略だがアルバニア語は名詞の格変化も思い切り保持している。悪い冗談としか思えない。

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 以前に『ブロークバック・マウンテン』を見たときになぜか突然高校生の時早川文庫で読んだラリイ・マクマートリーの『遥かなる緑の地』という小説を思い出した。プロットというかモティーフに並行するものを感じたからである。何の変哲もない小さな町で一生を過ごした男の回想録。もちろん若いころはいろいろ外に出たり事件もあったが歳を取ると何もかも色あせて、人生の夕暮れになって来し方を回想してほっと溜息をつく。そんな感じである。でもどうしてこの小説が突然心に浮かんだのか自分ではわからないまま、何気なくこの映画のクレジットを見て驚いたの驚かないのって(驚いたのだ)。脚本がまさにそのラリイ・マクマートリイだったのだ。この人が小説家から脚本家に転向していたことをそのとき初めて知ったが、調べてみたら『遥かなる緑の地』も映画化はされている。地味な出来だったので忘れられているが。
 私のような素人は映画というとまず主演俳優、次に監督に目が行き脚本までは気がまわらないことが多いが考えてみれば脚本は映画のいわば素描、設計図である。黒澤明も「映画監督は本が書けなければダメだ」と言っていたそうだし、絵でも画家の特徴が最もよく出るのは素描である。仕上げられた絵だけ見ていてもわからない部分があるだろう。

 さて、私がこのブログで執拗に話題にしている『血斗のジャンゴ』の脚本を書いたのはセルジオ・ドナーティである。マカロニウェスタンの脚本家の最高峰だ。このジャンルの最高傑作として常にトップで言及され、他の作品の追随を許さない『ウェスタン』はドナーティの手によるものだ。あちこち「アヒル検索」(『112.あの人は今』参照)したり、家に落ちていた資料を調べてみると、レオーネは『荒野の用心棒』の脚本を最初このドナーティに打診したが断られたそうだ。でも次の『夕陽のガンマン』ではドナーティを引っ張り込むことに成功した。クレジットでは脚本ルチアーノ・ヴィンツェンツォーニとなっているが、陰でドナーティも協力したらしい。さらに『続・夕陽のガンマン』にもこの人は関わっていて(ここでもクレジットには出ていない)、あの、拷問行為が外にバレないように建物の周りで大音響で音楽を響かせるシーンはドナーティのアイデアとのことだ。その後『ウェスタン』で初めて正規に名前が出たが、『夕陽のギャングたち』を書いたのもドナーティである。
 ソリーマの『復讐のガンマン』、『血斗のジャンゴ』は両方ともドナーティの脚本。つまり『復讐のガンマン』は『続・夕陽のガンマン』の直後、『血斗のジャンゴ』は『ウェスタン』の直前に書かれたのだ。例えば『復讐のガンマン』と『続・夕陽のガンマン』だが、この二つの映画は時期的にほとんど同時に作られている。『続・夕陽のガンマン』は1966年製作で本国(イタリア)公開が1966年12月23日、『復讐のガンマン』が1967年3月3日で、『復讐のガンマン』がたった2ヶ月遅いだけである。ドイツの劇場公開は『復讐のガンマン』の方が半年も早く1967年6月27日、『続・夕陽のガンマン』が1967年12月15日。制作されてからほぼ一年間もどこで何をしていたのかね夕陽のガンマン君たち?

 こういう具合だからドナーティが関与しなかった黒澤のパクリ『荒野の用心棒』以降の作品、『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』(レオーネ)『復讐のガンマン』『血斗のジャンゴ』(ソリーマ)『ウェスタン』(レオーネ)間でモティーフというかストーリーに共通性が感じられるのも根拠のないことではない。どれも主人公が3人いて、誰と誰が実は味方なのかはっきりわからない、というより一応2者がくっついてもう一人と対決する形になっているのだが、この2者の結びつきがうさん臭く、どうもクリアに2対1という把握が出来ない、つまりいわば決闘が三つ巴になっているということである。
 その際ソリーマとレオーネでは三つ巴のパターンがちょっと違い、ソリーマでは最初2対1という形をとっていたのが最後に壊れて最初組んでいた二人のうちの1人が対抗側の1人に回る。『復讐のガンマン』ではウォルター・バーンズ(およびその一味)とリー・バン・クリーフとでトマス・ミリアンを追っていたのが最後でバン・クリーフがミリアンの側についてバーンズ(の前にさらに一味を二人)を撃ち殺すし、『血斗のジャンゴ』では逆にジャン・マリア・ヴォロンテとトマス・ミリアンの二人組みをウィリアム・ベルガーが追うが、最後の瞬間にミリアンがベルガーを守る側に立ってヴォロンテを殺す。
 つまりソリーマでは2対1が1対2になる、あるいはその逆というわけで敵対味方という二項対立自体は比較的はっきりしているが、レオーネではこの2人組そのものの結びつきがユルユルというか「組」になっていないというか、とにかく「2」があくまで暫定的でしかたなくくっついているというニュアンスが濃い。ソリーマとは逆にレオーネではむしろ始め危なっかしかった2人組が最後でやっぱりこの二人はコンビであったことがわかる。いわばソリーマとレオーネでは胡散臭さの方向が逆になっているのだ。それでも『夕陽のガンマン』では仲間割れを起こしながらもイーストウッドとリー・バン・クリーフは結構明確にコンビをなしてジャン・マリア・ヴォロンテと対抗しているが、『続・夕陽のガンマン』だと二人組みの結束が相当怪しくなってきて、組んでいるはずのイーストウッドとイーライ・ウォラックは常に互いをだましあい出し抜きあい、ほとんど敵同士である。この二人と対抗するリー・バン・クリーフとの決闘シーンも2対1というより文字通り三つ巴の決闘。さらにそれが『ウエスタン』になると果たしてチャールズ・ブロンソン&ジェイソン・ロバーツ対ヘンリー・フォンダと言っていいのかさえ怪しくなってくる。かと言って完全な三つ巴でもない。ロバーツが「フォンダ側にはつかない」ということである意味では明確にブロンソン側に立っているからである。しかしフォンダとブロンソンの果し合いには関与していない。
 もっともソリーマの『復讐のガンマン』もリー・バン・クリーフ側のバーンズの周りにさらに何人かくっついていて、そのうちの1人Gérard Herter(本当はGerhard Härtter、ゲルハルト・へルター)演じるフォン・シューレンベルクとリーン・バン・クリーフは最初から仲が悪いから二項対立にちょっとヒビが入ってはいる。しかしそれより興味深いのは、途中で追われる側のトマス・ミリアンが吐くセリフだ。「人間には2つのグループがあるのさ。一つは逃げるほうで他方はそれを追いかけるんだ」。これはレオーネの『続・夕陽のガンマン』でイーストウッドがイーライ・ウォラックに言う、「人間には2種類のタイプがあってな。一方は銃を持っている、他方は穴を掘るんだ」というのとそっくりだ。もしかしたら目潰しシーンのほかにこのセリフもドナーティの発案かもしれない。

『夕陽のガンマン』
一応組んでいる(はず)のイーストウッドとリー・バン・クリーフ
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それと対立するジャン・マリア・ヴォロンテ
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『続・夕陽のガンマン』
胡散臭さ満載のコンビイーストウッドとイーライ・ウォラック。
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そのコンビよりさらに胡散臭い対立側のリー・バン・クリーフ
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『復讐のガンマン』
最初ウォルター・バーンズとリー・バン・クリーフが組んで
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トマス・ミリアンを追うが最後リー・バン・クリーフはミリアン側につく
Millian

『血斗のジャンゴ』
追う側ウィリアム・ベルガーが
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ジャン・マリア・ヴォロンテと共に追われる側だったトマス・ミリアン(右)に命を助けられる。
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『ウエスタン』
そもそもコンビにさえなっていないチャールズ・ブロンソンとジェイソン・ロバーツの「コンビ」
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ブロンソンの仇ヘンリー・フォンダ
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 話が少し逸れるが、このマカロニウェスタンらしからぬ社会的なプロットの『血斗のジャンゴ』でウィリアム・ベルガーのやった役、「ピンカートン探偵社のチャーリー・シリンゴ」というのは実在の人物である。アメリカではワイアット・アープとかあの辺といっしょのカテゴリーで伝説と化している人物だ。奇しくもシリンゴはベルガーの生まれた年、1928年に死んでいる。
 この人はアープや、日本で言えば坂本竜馬のようにTVや映画に何回も描かれている。なんとウィキペディアにも「映画化されたシリンゴのリスト」という項があって、しっかり『血斗のジャンゴ』が載っていた。もっともベルガーのシリンゴには(a fictionalized) Siringoという注がついていたが。別の場所でも「チャーリー・シリンゴはセルジオ・ソリーマの映画でウィリアム・ベルガーによっても演じられている」という記述を見かけたから、ひょっとしたらこの映画は「チャーリー・シリンゴの映画化」というそのことだけで、結構いつまでも名が残るかもしれない。まさかそれを意図的に狙ったわけでもないだろうが。
 さらに話が逸れるが、例のあまりにも有名な『ウエスタン』のメインテーマ。これを作るのにモリコーネが非常に苦しんだことは最近のインタビューでモリコーネ氏自身が語っているそうだ。氏がいつまでも「何もしてくれない」ので、業を煮やしたレオーネは途中で他の人にも作曲を依頼し、そっちを録音するところまで行ったという。だがやっと出来上がってきたモリコーネの作品を聴いてレオーネは半分決まりかかっていた別のスコアをボツにした。そりゃモリコーネのあの曲と比べられたらどんな曲だってボツになるだろう。

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前に書いた記事の図表を画像に変更しました(レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるようなので)。内容も一部不正確だったので直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。


 いつだったかTVでニュースを見ていたら、イタリアの政治家に、名前が -xi で終わっている人がいたのでおやと思った。これはアルバニア語の名前である。-aj で終わっている名前の俳優を一度マカロニウエスタンで見かけたことがあるが、これもアルバニア語だ。どちらも語尾にばかり気をとられて名前そのものは忘れてしまった。メモでもとっておけばよかった。
 『83.ゴッドファーザー・PARTⅠ』の項で述べたようにイタリアは実は多民族国家で、その有力な少数民族の一つが南イタリアのギリシャ人だが、アルバニア人も多い。アルバニア語も少数言語として正式にイタリア政府に承認されている。もっともイタリア人よりも前からイタリア半島に住んでいたギリシャ人と違ってアルバニア人は比較的新しい時代になってから移住してきたのだそうだ。もっとも新しい時代といっても14世紀から15世紀のことだから日本で言えば室町時代、十分古い話ではある。もちろん世界がグローバル化するはるか以前である。
 南イタリアのほかにシチリアにもアルバニア語・アルバニア人地域がある。上述の項で紹介した元マフィアの組員も、自分の家族はギリシャ人、つまりギリシャ語を話すイタリア人だが、近所にはアルバニア人も多くいて両グループ間の抗争が絶えなかったそうだ。地図を見ると確かに両民族の居住地が重なっている。
 アルバニア人はもともとキリスト教徒だった。畢竟ローマ・カトリックのイタリア(当時はイタリアという統一国家はまだなかったが)と精神文化の面で繋がりが強かったらしく、例えばアルバニア語で印刷された最古のテキストは1555年にジョン・ブズク Gjon Buzuku という僧が聖書を訳した188ページのもので、一部破損しているが原本がバチカン図書館に保管されているそうだ。もっともアルバニア語で書かれた、というだけなら1462年の文献が現存しているし、言語についての断片的な記録はさらに古いのがあるから、現存テキスト以前にすでにアルバニア語で書かれた文献自体は存在していたと見られる。しかしそれでも14世紀ごろで、有力な他の印欧語と比べると時代が新しい。
Bozukuによるアルバニア語テキスト。ウィキペディアから。
Buzuku_meshari

 トルコの支配下に入ってからはアルバニアにはイスラム教が広まったが、現在でも人口の20%はギリシャ正教、カトリックも10%ほどいるとのことだ。その10%の中からあの聖女マザー・テレサが出たわけである。
 20世紀になってからもイタリアの皇帝ビットリオ・エマヌエレ3世がアルバニアの皇帝もかねたりしていたから、距離の近いアルバニアからはさらにイタリアへの移住が増えたことだろう。これもいつだったか、ニュースを見ていたら、今日びはイタリアのいわゆる開発の遅れたアプーリア地方の人たちが新天地を求めて逆にアルバニアに渡り、そこで事業を起こしたり工場を建てたりする例が増えているそうだ。人件費が安いからだろう。

 アルバニア語はギリシャ語と同じく一言語で一語派をなしているが、二大方言グループ、ゲグ方言とトスク方言がある。以前にも書いたように(『39.専門家に脱帽』参照)これらの間には音韻的な差があって、トスク方言では r である部分がゲグ方言では n になる。上述の項でも例を挙げたがその他にも「ワイン」という言葉がそれぞれ venë (ゲグ方言)と verë(トスク方言)となっている。さらに元は鼻母音だったâがトスク方言ではシュワーの ë になって、コピュラの âshtë(ゲグ方言)がトスク方言では është。文法にもいろいろ違いがあるそうだ。イタリアのアルバニア語は本来トスク方言に属するが、長く本国を離れていたため独自の発展を遂げた部分も多く、これを第三の方言と見なす人もいる。面白いことに上述のカトリック僧 Buzuku は北アルバニアの出身で訳に使った言語はゲグ方言である。

 また「ギリシャ」という名称がギリシャ本国でなく元来イタリアのギリシャ人を呼ぶものであったのと同様(本国では「ヘラース」、再び『83.ゴッドファーザー・PARTⅠ』参照)、「アルバニア」という名称も実はイタリアやギリシャのアルバニア人のことである。彼らが自分たちをアルバレシュ albëreshë とよんでいたので、イタリアでアドリア海の向こう側の本国まで「アルバニア」と呼び出したのだ。アルバニアではアルバニアのことを「シュキプタール」という。
 アルバニア語はいわゆるバルカン言語連合(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)の中核をなす言語である。早くから言語学者の興味を引いていたようで、1829年にバルカン言語学誕生の発端となった論文を書いたスロベニアの学者コピタルもアルバニア語に言及している。Albanische, walachische und bulgarische Sprache(アルバニア語、ワラキア語、ブルガリア語について)というタイトルの論文だが、すでにバルカン言語連合の中核3言語の相似性を見抜いている。この三言語がシンタクスなどの面で nur eine Sprachform, aber mit dreyerlei Sprachmaterie(言語の形は一つなのに言語素材は三つ)であることを発見したのはコピタル。ついでに言うとこの論文からも判る通り、当時の言語学の論文言語はドイツ語が中心だった。
 そうやって印欧語学者がこの言語をよく知っている、少なくともこれがどういう構造の言語なのかくらいは皆心得ている一方で、アルバニア人やアルバニア文化そのものについての関心は薄く、私も未来系の作り方とか後置定冠詞とかどうでもいいことは授業で教わったがアルバニア人はどういう人たちなのかという肝心なことについては全く無知であった。今でも無知である。この調子だから私はヒューマニストにはなれないのだ(『54.言語学者とヒューマニズム』参照)。
 
 ところが先日、ドイツの大手民放がヴィネトゥ映画3部作(『69.ピエール・ブリース追悼』参照)をこれも3部作のTV映画としてリメイクした。元の映画でオールド・シャターハンドをやったレックス・バーカーもヴィネトゥのピエール・ブリースもすでになくなっていたし、生きていても年をとりすぎていてあのアクション活動は無理だったろうから、現在のドイツの俳優を持ち出してきた。シャターハンドをやったヴォータン・ヴィルケ・メーリング Wotan Wilke Möhring は顔は確かによく見かけるまあ有名俳優なのだろうが、バーカーに比べると容貌がショボすぎる感じで「こんなのがあのシャターハンド?!」と一瞬思ってしまったが(ごめんなさいね)、ヴィネトゥ役をやった人はブリースとはまた違ったカリスマ性があり、若くハンサムで正直驚いた。私はドイツのTV番組は基本的に公営放送のニュースやドキュメンタリー番組と、民放ではマカロニウエスタンしか見ないので、確かに人気俳優などは余り知らない。しかし知らないと言っても顔はどこかで見たことがあるのが普通だったが、このヴィネトゥ役の俳優は全く顔さえ見たことがなかった。どうしてこんなイイ男に気づかなかったんだろうといぶかっていたら、それもそのはず、アルバニアのニク・ジェリライ Nik Xhelilaj という俳優だった。名前に Xh という綴りが入り aj で終わっているあたり、これ以上望めない程アルバニア語である。ジェリライ氏は本国ではスターだそうだ。
リメイク映画「ヴィネトゥ」から。右がドイツの俳優メーリング
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これも「ヴィネトゥ」から
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普通の格好(?)をしたジェリライ氏 http://diepresse.comから
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ニク・ジェリライという俳優は日本ではあまり知られていないだろうからこの際紹介の意味でもう一つオマケの写真
http://media.gettyimages.com
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 氏は顔がイケメンである上に声も涼しげないい声だったが、さらにしゃべるドイツ語がまた良かった。「うまい」というのではない、逆に本物のタドタドしいドイツ語だったのである。それはこういうことだ:
映画などで「外国人」あるいは「当該言語を完全にはしゃべれない」という人物設定にする際、その「不完全な言葉」というのがいかにもワザとらしくなるのがもっぱらである。どう見ても、どう聞いても本当はペラペラなのに意図的にブロークンにしゃべっていることがミエミエなのだ。一番「それはないだろう」と憤慨するのが文法・言い回しなどには取ってつけたような「外国人風の」間違いがあるのに発音は完璧というパターン。あるいは l と r を混同するなどのステレオタイプな発音のクセを 時おり挿入して外国人に見せるという姑息な手段。その際lとrは間違えても CVCC や CCVC のシラブルの方はなぜかきちんと発音が出来、絶対 CVVCVCV や CVCVVCV などにはならない。本当はしゃべれるのにワザとブロークンにやっていることが一目瞭然だ。
 あるいは逆に俳優に訓練を施す余裕がなかったか、俳優に語学のセンスがなくて制作側がサジを投げたか、俳優が大物過ぎて監督が遠慮しデタラメな発音でもOKを出してしまったかして当該言語としてはとうてい受け入れられないような音声の羅列になるとか。そういう場合でもセリフそのものはネイティブの脚本家が書いたものだから発音はク○なのに言い回しは妙にくだけた話し言葉という、目いや耳を覆いたくなるような結果になる。名前は出さないがジェームス・ボンド役として有名なさる俳優がさる映画でしゃべっていたいわゆる日本語なんかも憤死ものだった。
 いずれにせよ、完全な不完全さ、自然な不完全さをかもし出すのは結構難しいのだ。ところが、このジェリライ氏のドイツ語は本当にブロークン、文法も初心者・耳で聞いて言葉を覚えた者がよくやる語順転換、変化語尾の無視などが現れていかにも自然な不完全さなのである。それでいて耳障りではない。顔のハンサムさや声のよさより私はこっちの方に感心した。もっともこれはジェリライ氏の業績・俳優としての技量もさることながら、スタッフの業績でもあるのかもしれないが。
 とにかく「ヴィネトゥ役にアルバニアのスターを起用」ということが珍しかったせいか、結構メディアでも報道されていた。そういえば以前「ヨーロッパで一番ハンサムが多いのは実はバルカン半島」と主張している女性がいたが、このジェリライ氏を見てなるほどと思ったことであった。

 さてそのアルバニア語は、どこかの言語学者も言っていたように、「語学というより言語学的な興味で始める人が多かろう」。印欧語の古いパラダイムをよく残している非常に魅力ある言語である。例として以下に çoj (take away, send) という動詞の変化パラダイムの一部を挙げるが、アオリストや希求法などがカテゴリーとしてしっかり残っており、これと比べるとドイツ語やロシア語などチョロイの一言に尽きる。たかがロシア語の不規則動詞ごときにヒーヒー言っていたり(私のことだ)、変化形を覚えたと言って鼻の穴を膨らませて自慢しているような輩(これも私のことだ)などは、ジェリライ氏に恥じろ。繰り返すが、これは動詞変化のごく一部、動詞部分が直接変化するパラダイムのそのまた一部である。これにまた接続法一連、完了体など助動詞や不変化詞による動詞パラダイム(アオリスト2もそれ)やそもそも受動体(これにもまた直説法現在形、接続法現在形などのパラダイムがオンパレード)などがガンガン加わってくるから、ここに示したのは動詞の変化形全体の10分の一にも満たない。もちろんこれは最も簡単な動詞で、他に不規則動詞も当然ある。ラテン語や現在のロマンス諸語より強烈なのではなかろうか。
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「意外法」というのは Admirativ のことである。まだ定訳がないようだが、法(Modus)の一種で、当該事象が愕いたり意外に思うようなことだった場合、この動詞形で表す。アルバニア語はバルカン現象のほかにこの Admirativ を動詞変化のパラダイムとして持っていることでも知られているようだ。
 また現在のロマンス諸語では強烈なのは動詞だけで、名詞の方は語形変化がないに等しいくらい簡略だがアルバニア語は名詞の格変化も思い切り保持している。悪い冗談としか思えない。

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 以前バルボーニの話をしていたときに思い出したことがある。バルボーニの風来坊シリーズは客足が遠のきかけていた映画ジャンル(マカロニウエスタン)でコメディ路線を打ち出して観客層を広げることに成功し、本来のハード路線を凌駕さえしてしまった。成功の秘訣は男性だけでなく女子供(差別用語)を観客に引っ張りこんだことだが、そういえば似たようなことが昭和の日本でもあったなと思い出したのだ。
 
 昔日本映画には時代劇という人気ジャンルがあったそうだ。「そうだ」と書いたのは私が物心ついたころには時代劇は事実上テレビに移行してしまっていてわざわざ映画館まで出向いて見るものではなくなっていたからだ。時代劇どころか日本映画そのものが衰退していて、邦画といえばピンクかヤクザ。男性ならともかく、とても女性や、ましてや子供が楽しめるものではなかった。それで邦画と聞くと自動的にパスする癖がついてしまい、映画館でみるのは専ら洋モノだった。時代劇映画なんてものはおじさんのみるものだと思っていた。
 だからいわゆる時代劇映画の俳優で顔と名前が一致するのはたった二人だ。「いわゆる」とわざわざ断ったのは時代劇映画を専門にしていた俳優と言いたかったため。現代劇も普通にこなす俳優が時代劇にも出たからと言って「時代劇俳優」とは呼べまい。だから三船敏郎はこのカテゴリーには属さない。その時代劇俳優だが、時々人の口(もっぱらおじさん連中の口)に上るので名前のほうはどこかで耳にした(ような気がする)が顔は知らない、あるいはその逆というわけで、誰が誰なのかわからない。そういう意味で時代劇俳優は二人しか知らない。一人が『201.我が孫よ、日本語に呼格はあるか』でも出した萬屋錦之介で、もちろんTVシリーズ『子連れ狼』でである。映画は見たことがないのだから中村錦之助のほうは全く知らない。もう一人が近衛十四郎。これもテレビの素浪人シリーズで覚えている。最初が『素浪人月影兵庫』という番組で『素浪人花山大吉』がそのあとに続いた。これらはバルボーニが西部劇をパロったのと同じく時代劇のコメディ版で、とにかくムチャクチャ人気を博した。バルボーニの風来坊と同じく家族全体、特に子供を観客層に引っ張り込めたからだ。「親が見ていたのでお相伴で見た」というパターンである。さらに双方主人公は一人ではなくデュオ、お笑いコンビであることも共通している。一方ではバッド・スペンサーとテレンス・ヒル、一方では近衛と品川隆二の二人組だ。

 そこでこれらを思い出したついでに両者を比較して(バッド・スペンサーと近衛十四郎との比較がそもそも成り立つとしての話だが)家族単位で好かれる二人組の条件は何かちょっと考えてみよう。
 まず二人が全くタイプの違うキャラであるということ。同じような人ならそもそもコンビを組む必要がない。それぞれ一人でやればよろしい。デュオを組むからには両キャラが互いに補いあう、色彩学で言う補色、無理やり言語学の用語をもってくるならば(無理しなくていいよ)相補的分布 komplementäre Distribution(『162.書き言語と話し言語』参照)、あるいは補充形 Suppletion的な、異なる要素が組んでガッチリとした全体を構成しているような関係でないといけない。問題はどう違うのかということで、スペンサー&ヒル組は二人の外見が徹底的に不均衡。前者は髭面、頭はボサボサ、縦にもデカイがとにかく横に大きい。差別用語を使ってよければつまり無骨なデブである。これに対して相棒のテレンス・ヒルはスマートでほっそりしたイケメン。ドッシリと構えたスペンサーの周りをチョロチョロする。そういえば大昔に大成功したお笑いデュオ、オリバー・ハーディとスタン・ローレルもこのデブヤセのパターンだった。またテレンス・ヒルのキャラはドッシリスペンサーと違って性格もチャラく、綺麗な姉ちゃんをみるとすぐデレデレしだすがいわゆる女たらしではない。フラれ専門である。これが他のマカロニウエスタンの男性主人公たちと明確に違う点で、女をモノにするのを誇るマッチョではないのである。私はここが家族受けするかしないかの重要な分岐点だと思っている。
 『素浪人』の近衛&品川組は体つきでなく身分で差をつけた。前者は侍、後者は渡世人で、服装や髪型はもちろん歩き方まで全然違う。俳優の年齢も20歳ほど差がある。年かさの近衛の侍が頼りになるタイプで、品川隆二演ずる渡世人、焼津の半次はチャラくて騒々しく姉ちゃんに弱いがフラれ専門と言う点でテレンス・ヒルと一致する。
 次の点はコンビの結束が確かだということだ。上で相補的分布と言ったのはこの点で、これが危なっかしくては子供は安心して見ていられない。マカロニウエスタンには「二人組」そのものはいくらでもいて、上の「二人は違ったタイプ」という上の条件は満たしていることが多いのだが、この第二点ではねられる場合が大半だ。くっ付いている理由に裏がありそう、互いに相手を利用しあっていそうで、いつ何時どちらかが裏切らないとも限らないという雰囲気が漂いすぎる。まさにそれがマカロニウエスタンの「クールさ」なのだろうが、安心感に欠けては健全な家族の娯楽にはなりにくい。その点でレオーネの作品に出てくるコンビは全部不合格、『怒りの荒野』のジュリアーノ・ジェンマとリー・ヴァン・クリーフもダメ、さらに『新・夕陽のガンマン』の二人も「裏」を感じさせるからこれも不安、『血斗のジャンゴ』のヴォロンテとミリアンはもう論外だろう。喧嘩はするがコンビの結びつきに裏がない風来坊シリーズの二人組がやっぱり一番安定している。
 売れる第三点はコンビが「強い」ことだ。最終的には二人総合で無敵に強ければいいのだが、東西ではその配分が違っていて、近衛品川組では品川も弱い訳では決してないが近衛の剣が一方的に強い。素手戦ではまあ互角に近いだろう。スペンサー、ヒルではその逆で素手戦はスペンサーが文句なく強いが、銃の腕前は完全に互角である。しかしどちらも二人合わさると無敵な点は同じだ。子供は(大人だってそうだろう)強い者に憧れる。強い者には憧れるが強がる者は本能的に見抜いて嫌悪感を抱く。「強がる」と「強い」の最大の違いは強がり屋は内心自分が強くないのをよく承知しているということではないだろうか。そのコンプ抑圧が主たる目的になるからどうしても余裕に欠け、他人に対して優しさがなくなる。ドッシリとした安定感が感じられなくなるのだ。こういうタイプは絶対に女子供には好かれない。品川隆二の演ずるキャラは喧嘩早くてすぐ売り出しにかかるが、別にコンプ解消のためではなく、慌て者なだけだからこの強がりにはあたらない。事実子供にも非常に好かれている。
 第四点。コンビが「正しい人」であることだ。俗に言う「弱きを助け強きを挫く」タイプでないといけない。近衛品川側はこの点が非常にはっきりしている。まさに江戸文学の「人情もの」に沿っているわけだ。スペンサー、ヒルは「売春婦の息子たちで職業は馬泥棒」というヒドイ設定なので一見正義の味方感が漂ってこないが、風来坊第一作『風来坊/花と夕日とライフルと…』の冒頭を見れば弱きを助け路線は明かだ。まずスペンサー演じる偽物保安官は無実の嫌疑をかけられたメキシコ人に妙に優しい。態度はブッキラボウだが親切だ。それに対して有力者の後ろ盾を笠に来たチンピラにやはり牢屋中の仲間を釈放しろと迫られたのには銃でお答えする。その仲間と言うのは強姦の嫌疑なのだが、それを釈放しろと言うヤクザ者にスペンサーは言う;「いいか、あいつは選ぶメンドリを間違ったんだ。誰を選ぼうと人の勝手だが、当のメンドリの方がいやだと言ったらそれは強姦と言う犯罪だ。釈放できんね」。正義感あるじゃん。テレンス・ヒルの方も牧場主に苛められている開拓者たちの味方をする。また二人とも子供には優しい。いくら剣や銃が達者でも弱い者いじめしたり金もうけに汲々としているような輩は子供の憧れの対象にはならない。
 第五点。双方「清く」なければいけない。「色と金」への欲望がないのである。さらに露骨に言うと双方モテない。この、いわゆる「色」を感じさせないというのが家族単位で愛されるかどうかのポイントである。これを勘違いしているプロデュ―サーが当時の映画界には多く、事実東映は観客を引っ張り込もうと色と欲、ついでに暴力満載のヤクザ映画を量産した。日本映画ばかりでなく欧米でもストーリーに関係なく唐突に裸の女を登場させたりしていた。しかし観客層は誰が脱いだの脱がないのということしか頭にない盛りのついた雄ゴリラのような男性だけでは決してない。女性や子供、またその子供のよきパパ層はその何倍もいるのだ。冒頭でも述べたように、この「何倍」を取り込んだほうが興行的には成功する。
 双方コンビの若い方はモテようと必死ではないか、色欲があるではないかと反論する人がいるかもしれないが、よく見て欲しい。テレンス・ヒルも品川も相手に好かれようと必死になるだけで女性を支配しようとか意のままにしようという気は全くない。それが証拠に東西風来坊とも金で商売女を買うことは一度もない。また上でも書いたが双方たまにモテてもすぐフラれる。向こうにフラれなくてもこちらから怖気を感じて逃げる。観客はそうやってすぐフラれるのがわかっているから安心して見ていられる。下手に成就して色恋沙汰が発生してはいけないのである。また向こうが嫌がっているのに金や権力でモノにしようとする定番男はマカロニウエスタンにもよく出てくるが、そのタイプの男は素浪人シリーズでは必ず「色キチガイ」と近衛に罵られている。
 私自身は読んでいないが調べたところによると南條範夫の原作では主人公の月影兵庫は若くて色白の美男子でしかも恋愛相手がいるそうだ。TVのプロデューサーがそれでは売れないことを見抜き(慧眼だ)、主人公を40過ぎの中年男にして女の代わりに渡世人を相棒にした。これが的中した。子供には自分のお父さんくらいの年齢の優しくて強いおじさんの方が絶対受ける。惚れた腫れたで騒ぐようなストーリーは好かれない。しかしついに原作から乖離しすぎると作者の南條からクレームが入り設定を変えて新スタートするハメになった。それが途中から「花山大吉」と新シリーズになった原因だそうだ。
 双方「色」にも縁がないが、さらに金にも縁がない。縁もないが欲もない。金がない、金が欲しいといつもピーピー泣いているわりにはたまに金が入ると困っている人に寄付してしまったり(近衛品川組)、強盗をしようとしたら向こうが生活に困っていることを知ってこちらから金を恵んでしまったり(スペンサー、ヒル組)、まあとにかく欲とは無縁な風来坊ぶりである。
 大当たりの第六点は、コンビがいわゆるエスタブリッシュメント側に属しておらず、かつダサいということだ。そしてコンビの一方が自分のダサさを棚に上げて他方のダサさをあげつらうという展開にする。社会地位や金、権力があってはいけないのは当然だが(だから東西共に宿なし風来坊という設定になっている)、一方反エスタブリッシュメントだからと言って「民衆を導く自由の女神」的な高貴さが醸し出されてもいけない。普通にダサくなくてはいけないのである。上品だったり威厳があったりしたら子供には好かれない。しかしまさにここがさじ加減が必要な部分で本当は強いのにそれを隠していることを見る方が露骨に感じるとかえって嫌味になる。謙遜してはいけない、わざと弱そうに見せたりしてはいけない。それは不正直につながり、ある意味コスイからだ。上で「普通に」ダサいと書いたのはこのためだ。子供はそこらへんを敏感に感じ取るから強がるのと同様弱がるのも好かれない。
 スペンサー&ヒルは双方格好が見事に薄汚くてショボい。生家(?)は掘っ立て小屋で母親は売春婦だ。その二人が互いに相手を汚いのマナーを知らないのといがみ合う。どっちもどっちとはこのことだ。そして互いに相手の邪魔になっている。そのやり取りが実に下らない。確かバルボーニ第二作の『風来坊II/ザ・アウトロー』だったと思うがこんなシーンがあった:例によってチンピラと悶着を起こしたテレンス・ヒルにスペンサーが「また喧嘩をやったのか(影の声:お前だっていつもやるだろ)。本当にしょうがない奴だ」と言うとヒル「だってあいつら俺たちの母ちゃんを年寄りの売春婦とか言いやがったんだぜ」、スペンサー「何?(一瞬間が開いて)しかしその通りじゃないか」、ヒル(これも一瞬詰まって)「しかし母ちゃんはまだ年寄りと言うほどの歳じゃないじゃんかよ」、スペンサー(ちょっと考えて)「確かにそうだな」。このナナメ上というかそこじゃない感というか、とぼけた味が作品中に漂っている。
 近衛品川組は西のマカロニウエスタンよりずっと言葉の芸に重点が置かれ(江戸文学や落語の伝統と引いているのかもしれない)、キツイ掛け合いのオンパレードだ。いつか品川隆二がインタビューで話していたが、素浪人の脚本はセリフの応酬だけでト書きが全然なかったんだそうだ。近衛が品川に「その首の上についている頭は何のためにあるんだ。少しは考えろ」、しかしまた別の時は「無理して頭使うなよ。考えても無駄だ」。品川は品川で「いつもオレの金にたかりやがるが今日はそうは行かないぞ。オレは今スッテンテンのオケラなんだ。どうだ参ったか、ザマアみやがれ」。ロジックになっていない。また近衛は品川を「この騒々しいおっちょこちょいはオレの相棒でなあ」、品川は近衛を「このむさ苦しいのはオレの友だちだ」と悪口をいいながら人に紹介する。これらの掛け合いだけで十分目糞鼻糞感が漂うが、素浪人ではこのうえにさらに双方のキャラにシュールなウィークポイントを付加されて互いにそこをつつきあうからたまらない。抱腹絶倒の域に達している。例えば月影兵庫は猫が怖い。普通の人なら思わず撫でたくなるような可愛い子猫でも出ると叫び声を上げへっぴり腰になって逃げる。その度に品川がブツブツ言いながら猫を追っ払ってやる。その品川は蜘蛛が怖い。蜘蛛を見るとこれも絶叫して逃げ、これもその度に近衛が取り去ってやる。双方「世話が焼けるねえ」と愚痴入りだ。何度か猫と蜘蛛がほぼ同時に出没したことがあるが、二人そろっての絶叫シーンに見る方は「イヨッ、待ってました!」と声をかけたくなった。もう一つの近衛キャラ花山大吉は驚くとシャックリの発作が起きて腰に下げた瓢箪の酒を飲まない限り止まらない。また酒の肴にオカラを出されると理性を失う。酒を入れ忘れた近衛のために品川が酒を買いに走り、ベロンベロンの近衛を見て「いじましいねえ」と呆れる。誰が考え出したのか知らないがほとんど天才的なアイデアだ。大酒のみは月影兵庫も同様で「真の侍なら正気を失うほど酔いはせぬ」とたしなめた『七人の侍』の勘兵衛からそれこそ「このバカタレが」とお叱りを受けそうだ。
 また上でも言ったがスペンサーも素浪人も別に自分の強さを隠しているわけではない。双方ゲンコツや剣の技を変に出し惜しみはせず、バンバン見せてくれる。モッタイをつけて能ある鷹は爪を隠すを気取ったりしないのだ。クサい自慢や売り出しも双方日常茶飯事。子供に好かれたかったらこのようなパーッとした明るさは不可欠だ。
 そのパーッと明るい二人組が突っ込みあう。単独ではこういう絶妙なバランスがとれない。それが補色の関係たるデュオである意味だ。スペンサーとヒルはマカロニウエスタン衰退の後、舞台を現代に移してコンビ映画を撮り続け興行的にある程度の成功を見せた。素浪人の方は逆に『花山大吉』終了後、キャラ的にはその路線を引き継いでコミカルな時代劇、『素浪人天下泰平』『いただき勘兵衛 旅を行く』に移行したが人気は出なかった。コンビの片割れ近衛だけしか出演せず、相棒を品川隆二とは別の俳優が務めたからである。後者は相棒役を近衛の息子の目黒祐樹がやるなど話題性には欠けていなかったはずだが、むしろそれが裏目に出たのかもしれない。私はこの番組を見ていないが、こういうのを元来のデュオに対する不実な裏切り行為ととる視聴者は少なからずいるからである。もう一つ、近衛品川の『素浪人花山大吉』の後半から後の番組にかけてデュオの他に三人目のレギュラーが入った。しかもそれが女性であったので上で述べたようなデュオとしての安定度がぐらついた。『花山大吉』では近衛の病気が悪化し番組そのものの存続のために近衛の負担を軽減するという仕方がない理由があったことと(もっとも私はあそこで若い女なんかより気のいい爺さんでも持ってきた方が子供には好かれたと思う)、近衛品川コンビがそれ以前に不動の地位を築いていたので多少の不要分子は入れる余地があったのだろうが、品川の出ない後続シリーズは違う。デュオが弱いところへ不必要な要素まで加わったら煩雑なだけだ。残念だった。
 さて、『素浪人月影兵庫』には第一シリーズと第二シリーズがある。大ブレークしたのは原作と乖離した第二シリーズの方で、私も第一の方はその存在さえ知らなかった。この歳になって東映の公式サイトで第一シリーズを見たのだが、第二とキャラの雰囲気が全く違う。月影兵庫はあくまで豪放磊落、相棒の焼津の半次もいなせな旅ガラスで、第二でのご両人、たかが二十文三十文に汲々とし、酒をタダで飲めるとなると目の色を変えるようなみみっちさ、さもしさが全くない。トレードマークの蜘蛛や猫なども第二シリーズからの登場である。この第一を見て近衛と品川の持つコメディとしてのポテンシャルを見破り、そちらに路線変更した人(多分プロデューサーだろう)は大した目の持ち主だと思う。そういう意味で『素浪人月影兵庫』の第一シリーズはマカロニウエスタンで言えばジュゼッペ・コリッツィの三部作(『173.後出しコメディ』参照)に対応するのではないだろうか。コリッツィ作品ではスペンサー、ヒルは「普通の」マカロニウエスタンキャラを演じていたのである。そのコリッツィの西部劇は今ではバルボーニ映画のブレークの影に隠れてしまっているが、月影兵庫の方もコメディ転換せず第一の路線のままで番組を続けていたらどうだっただろう。第一シリーズは映画で鍛えた東映時代劇のノウハウがそのまま注ぎ込まれたようで非常に面白かったが、第二シリーズほど人気が爆発しただろうか。
 またこれは余談だが、第二に入って原作者からクレームが来る前にも制作者側に「こりゃ原作と離れすぎだな」という自覚と言うか多少の罪の意識があったのではなかろうか。第二のさるエピソードで、キャラの一人が剣の腕を披露したとき、兵庫が「見事な上段霞切り」と褒めるのである。この「上段霞切り」というのは南條の原作『月影兵庫』の巻の一つで青年(!!)兵庫と腰元とのエピソードが描かれ、上で述べたようにプロデューサーからバッサリ切り捨てられた部分である。散々ストーリーが乖離してきたあとになって取って付けたように原作の用語を持ち出す。ひょっとしたらこの時すでに「このままではそのうち原作者から突っ込まれるな」という嫌な予感があって「原作忘れてませんよ」とアリバイ工作したのかもしれない。あるいはこの時点ですでに南條から水面下で抗議が行っていたのか。

西の風来坊、バッド・スペンサーとテレンス・ヒル
SpencerHill
東の近衛十四郎と品川隆二。互いに相手の懐を当てにして居酒屋で酒を食らったはいいが、実は両方ともスカンピンだったという定番な展開。
TsukikageHyogo
『素浪人』は何作か東映時代劇の公式サイトで見ることができる。『月影兵庫』第二シリーズ後半から『花山大吉』の前半にかけてが何といっても絶頂期だろう。



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