アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ: 絵画・芸術・音楽

 厳密に言うとドイツ語には日本語の「科学」に相当する言葉がない。強いていえばWissenschaft(ヴィッセンシャフト)が「科学」に相当するが、これはむしろ「科学」より広い「学問」という意味だ。日本語だと「科学」というと自然科学が連想されがちだが、ドイツ語では「自然科学」(Naturwissenschaft)、「人文科学」または「精神科学」(Geisteswissenschaft)、どちらも「科学」で表すから「科学者」(Wissenschaftler)といえば物理学者も文学研究者も含まれる。つまりドイツ語には自然科学だけを暗示する「科学」という言葉はない。だからあまり「文系・理系」とすぐ人を二分割でカテゴリー化することもあまりない。
 さらにドイツ語の「人文科学」と日本語の「文系」はちょっとニュアンスが違っている感じで、日本語の「文系」という言葉を聞くと私は文字通り「文学」を思い浮かべるが、ドイツ語でGeisteswissenschaftといわれると真っ先に神学を連想する。ためしにドイツ語ネイティブに聞いてみたら人文科学の代表は「哲学だろ」とのことであった。さらにこのネイティブは続けて、「数学なんてのも本当はこの「人文科学」(あるいは「精神科学」)の最たるもんだろ。ほとんど外界と接触しないんだからな。そもそも今の自然科学だって哲学から発展してきたものだし。まあこんな2分割にはあまり意味がないんじゃないの?」と言っていた。

 実は私が最初入学した大学の学部もこの2分割からハズれていたのである。文系でも理系でもない、私は本来「美系」なのである。芸術学部だ。入試の2次試験は石膏デッサンと色彩構成の実技だった。

 家がビンボーだったので、私は「大学は国立・現役」が至上命令だった。しかも帰省にあまりお金がかからないように東京近郊という条件付きだ。高い私立大学、国立でも遠い大学は始めから視野の外。まあ、一浪くらいなら「おっとすべっちゃった」で許して貰えたかもしれないが、2浪3浪が標準の大学は除外。いわゆる英才教育などとも無縁の環境だったから、有名な芸術家の子弟で高校生のころから各種展覧会に出品するような半プロの受験生がいる東京藝術大学など絶対無理。
 それについて恐ろしい話をきいたことがある。ある年、藝大入試のデッサンの実技試験の課題として、ビニール袋に入ったブルータス像が出たそうだ。なぜ石膏像をビニール袋に入れたりするのか?

「だってブルータス像なんて受験生は何十回もデッサンして練習してるだろう。普通に出したりしたら目をつぶってても描けちゃうからそんなんじゃ全然差が付かないんだよ。」

完全に世界が違う。

 そこで藝大以外の国立の美術学部ということになるが、国立で美術学部をかかえている大学というと大きな総合大学しかなかった。
 当時国立には共通一次試験というものがあったので、私は「普通の勉強」の方も結構まじめにやった。通っていた都立高校が一応受験校だったので周りに引っ張られたし、私自身も人に禁止されるまでもなく浪人したくなかったのだ。実は中学の時も高校の時もさる国立大学の付属校を受けて2回ともボツっており、「行くのはいつも第二志望」という人生展開に嫌気がさしていて、いいかげん大学くらいは第一志望にいきたい、という思いが切実だった。合格発表の会場で自分の受験番号が張り出されていないというあのイヤーな体験は2度もすれば十分だ。

 というわけで私は普通の受験勉強の大変さも人並みには経験していると思うし、試験に落ちたときのショックもよくわかるのだが、実技試験はある意味では勉強よりキツいのでこの機会に言わせて欲しい。
 一番きついのは、実技にはカンニングとか速習・早分かりとかいうワザが通用しないことだ。試験場ではもちろん隣の人のデッサンなど見放題、カンニングし放題である。でも上手い人の絵を見てマネしたからと言ってこちらのデッサンの腕が上がるなどということはあり得ない。むしろ逆。人の真似などしたら、線は不自然になるしパースは狂うしで余計ギコギコになり、受かるものも受からなくなる。受かるものさえ受からなくなるのだからもとから受かるかどうか危ないものはさらに合格が遠のくこと請け合いだ。どんなに頭でわかっていても、手が動かなければ、自分の目でパースが見えなければ、そして紙の上に光を写し取ることができなければどうしようもないのだ。受験準備中も「飛躍的に力が伸びる」などということもない。いわゆる「ヤマかけ一発勝負」なども利かない。つまり運的要素がまったく機能しないので、本当に自分の持っているもので勝負するしかないのだ。

 そうやって受かった美術学部を私は2年で出てしまった。理由はいろいろあった、と言いたいところだが実は単純で、一言で言うと絵をやる覚悟・根性が足りなかった、ということだろうか。はっきり「才能がなかった」と言ってもいい。単に大学入試に通るだけなら「絵を描くのが好き・ちょっと人より上手い」レベルでいいかも知れないが、問題はその後なのだ。大学を卒業する、いや卒業後もそれでやっていくにはただ好きなだけでは駄目だ。どうしてもこれを描きたいという内部からの衝動がなければ無理。単にチョコチョコ小手先の基本技術だけ身に付け、小器用にちょっとした絵がかける程度の甘い根性ではやっていけない。私にはその内部からの衝動が決定的に欠けていた。こういうと負け惜しみのようだが自分は絵でやっていける技量はない、と気づいたことだけでもまあ美系に行ってよかった、いい人生の勉強になったと思ってはいる。せっかく人生で初めて「第一志望」に入れたのに結局落ちこぼれてしまったのは残念ではあるが。

 ところでその私のいた大学だが、芸術学部が体育学部とくっついていて、第二外国語や教育原理の授業などがいっしょだった。ここの体育学部というのがまたレベルが高く、日本一など序の口、オリンピックで金メダルをとった体操選手が当時教授をしていたと記憶している。つまり大学中で最も剛健な者と最も軟弱な者がかたまっていて、その中間、「普通の人間」がいない環境だったのだ。「文系・理系」とかそういうカテゴリーを超越した一種独特なシュールな雰囲気が漂っていた。
 後にそこを出て同大学の「普通の」学部(人文学類)に転学したが、そのとき周りの学生が皆あまりにも上品でおとなしく、行儀がいいので驚いたものだ。なるほど普通の人間とはこういうものかと感心した。そしてそのまま落ちこぼれどころか結局最後まで人間にさえなれないまま卒業してしまったのである。気分はほとんど妖怪人間だった。そういえば最近顔も似てきたような気がする。ただし同性の「ベラ」のほうではなくて「妖怪人間ベム」のほうにである。


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 この際だから年をバラすが(何を今更)、小学校の頃だからもう半世紀近く前にもなろうというのに、モリコーネの『さすらいの口笛』を初めて耳にした時の驚きをまだ覚えている。
 私は本来音楽の感覚や素養というのものが全くない。例えばマドンナとかいう歌手の名前と顔はかろうじて知っているが曲はひとつも知らない。その他のミュージシャンについては推して知るべしで、名前は聞いたことがあっても顔も曲もわからない。ロッド・スチュアートとジャッキー・スチュアートの区別がつかない(この二人顔が似ていないだろうか?)。最近のミュージシャンで顔も曲もある程度心得ているのはABBAだけである。それも全く「最近の」歌手でないところが悲しい。
 前にも書いたとおり(『11.早く人間になりたい』参照)、私は視覚人間である。小中学校のころ、クラスメートがどこかの歌手のコンサートに行ったりレコード(その頃はまだレコードだった)を買ったりしているとき、私は専ら小遣いを美術館通いに使っていた。上野の近代西洋美術館にはよく行ったし銀座の画廊などにも時々行った。銀座の東京セントラル美術館が開催したデ・キリコ展は2回も足を運んだ。俗に言うこましゃくれたガキだったのである。音楽を鑑賞する能力のないこましゃくれたそのガキが、なぜモリコーネだけは聴いて驚いたかというと曲が直接視覚に訴えてきたからだ。私には『さすらいの口笛』を聴いた瞬間、夜になって暗く涼しくなった砂漠を風が吹いている光景がはっきりと見えた。この「視覚に訴える」というのはたとえば例のEcstasy of Goldでもいえることで、コンサートなどではやらないことが多いが、サントラだと曲の最後の部分に金箔が宙を舞っているような「音響効果」がはいる。私はこの部分が一番好きだ。また『殺しが静かにやってくる』では雪片が空を漂っているのが目の前に浮かび上がってくるし、『復讐のガンマン』(『86.3人目のセルジオ』参照)では遠くにシエラ・マドレの山脈がかすんでいるのがわかる。それも映画のシーンとは無関係に曲自体が引き起こす視覚効果として作用するのだ。
 だから私は映画を見たら音楽が素晴らしかった、というのではなく逆にモリコーネの音楽を聞いて度肝を抜かれたのでマカロニウエスタンを見だした口である。マカロニウエスタンの後期作品、『夕陽のギャングたち』とか『ミスター・ノーボディ』あたりになると、音楽を音楽として鑑賞する能力のない私にはキツくなってくる。しかしモリコーネがヨーロッパを越えて世界的に評価され出したのはそこから、私にはキツくなってからだ。だから他のモリコーネのファンの話についていけなくて悲しくなることがある。まともなファンなら音楽の素養があるのが普通だから、『ミッション』や『海の上のピアニスト』、『ニュー・シネマ・パラダイス』を論じはじめたりするので私には理解することができないからである。私がモリコーネの曲を半世紀以上聴き続けているのに自分で「モリコニアン」だと自称できないのはそれが原因だ。その資格がないような気がするのだ。私にとっての心のモリコーネはいまだに『さすらいの口笛』だからだ。
 ただ、前に新聞の文芸欄で、ということはちゃんと鑑賞能力のあるコラムニストが書いていたということだが、そこでモリコーネの音楽を評して「催眠術効果」と言っていた(『48.傷だらけの用心棒と殺しが静かにやって来る』参照)。確かChi maiをそう評していたと記憶しているが、なるほど私は小学生の頃まさにその催眠術にかけられて以来いまだに覚めていないわけだ。Chi maiもそうだが、『血斗のジャンゴ』のテーマ曲の催眠術効果も相当だと思っている。
 
 さて、そうやって小学生の頃から音楽というとモリコーネとあとせいぜいソ連赤軍合唱団くらいしか聴かない私は周りから「典型的な馬鹿の一つ覚え。ここまで音楽の素養のないのも珍しい」と常に揶揄され続けてきた。私自身もこのまま音楽鑑賞の能力ゼロのまま、馬鹿のままで死ぬことになるだろうと覚悟していたのだが、運命の神様がそれを哀れんででもくださったか、よりによって私の住んでいるドイツのこのクソ田舎の町にモリコーネがコンサートにやってきたのである。家の者が街角でポスターを見たと言って知らせてくれたのが半年ほど前だが、最初私はてっきりまたからかわれたのだと思って、「いいかげんにもうよしてちょうだい!」と情報提供者を怒鳴りつけてしまった。それが本当だと知ったときの驚き。気が動転してチケットを買うのが2・3日遅れた。金欠病なので一番遠くて安い席を買ったが、販売所のおねえさんが私が最初くださいと言った席を見て、そこだと確かに少し近いが角度が悪いのでこっちにしたほうがよく見えますよと同じ値段の別の場所を薦めてくれた。それをきっかけに雑談になったが、なんとこの人は日本に観光旅行にいったことがあるそうだ。そうやって受け取ったチケットに印刷してあるEnnio Morriconeという名前を見たらもう頭に血が上り、次の瞬間上った血が一気に下降して貧血を起こしそうになった。家では「半年も先で大丈夫なのか。」と言われた。「大丈夫」って何がだ?
 でも私自身最後の最後まで半信半疑だったのは事実である。『さすらいの口笛』を日本で聴いてから半世紀近く経って、さほど大きくもないドイツの町でその作曲家に遭遇できるなんて話が出来すぎだと誰でも思うだろう。そういえばコンサートの一週間ほど前にイタリアン・レストランに行く機会があったが、そこの従業員がイタリア人だったので(ドイツ語に特有の訛があったのですぐわかった)、勘定を済ませた後おもむろに「あのう、質問があるんですが。エンニオ・モリコーネって知ってますか?」と聞いてみたら「知っているどころじゃない、スパゲティウエスタンは私の一番好きな映画ですよ」といいだして話がバキバキに盛り上がってしまい、私の同行者たちは茫然としていた。ただこの人はモリコーネがこの町にやって来るということは知らなかったので、教えてあげたついでにチケットを買ったんだと自慢してやった。私自身が半信半疑なのを吹き飛ばしたかったのである。

チケットを手にしてもまだ信じられなかった。情けないことに一番安い席である。
ticket-Morricone-Fertig

 しかしその日3月9日マエストロは本当にやってきた。随分年を取っていた。もっとも世の中には年を取ると若い頃の顔の原型をとどめないほど容貌が変わってしまう人がいるが、そういう意味ではマエストロは本当に変わっていなかった。
 話に聞いていた通り立ち居振る舞いに仰々しいところが全くない人だった。ミュージシャンだろ指揮者だろがよくやるように、観客に投げキッスをしたり手を振ったり、果ては頭の上で手を打って見せて暗に観客に拍手を要請したりという芝居じみた真似は一切しない。普通に歩いてきて壇上に上がり、黙々と指揮をして一曲済むたびにゆっくりと壇から降りて聴衆に丁寧なお辞儀をする。そしてさっさとまた指揮に戻る。終わると普通に歩いて退場する。それだけだ。指揮の仕方も静かなもんだ。髪を振り乱したりブンブン手を振り回したりしない。とにかく大袈裟なことを全くしない。感動して大歓声を挙げる観客とのコントラストが凄い。
 次の日の記事にも書いてあったが映画音楽を演奏する際は壇上のスクリーンにその映画のシーンを映し出したりすることが多い。私の記憶によればジョン・ウィリアムズのコンサートにはクローン戦士だろダースベイダーだろのコスプレ部隊が登場して座を盛り上げていた。マエストロはそういうことも一切させない。スクリーンには舞台が大写しにされるだけ。間を持たせる司会者さえいない。つまりコンサートを子供じみた「ショウ」や「アトラクション」にしないのだ。いろいろと盛りだくさんにとってつけて姑息に座を盛り上げる必要など全くない。あえて言えばそういうことをやる人とは格が違う感じ。

 さて、コンサートでは『続・夕陽のガンマン』『ウエスタン』、『夕陽のギャングたち』をメドレーでやってくれた。『ミッション』で〆てプログラムを終了したが当然のことに拍手が鳴り止まず、アンコール三回。本プログラムにもあったEcstasy of Goldをもう一度やってくれた。私としてはさらにもう一度これを聴きたかったところだ。とにかく拍手をしすぎてその翌日は一日中掌と手首の関節が痛かった。また、席が遠いため双眼鏡を持っていってずっと覗いていたため目も疲れて翌日は視界がずっとボケていた。やれやれ、こちらももう若くはないのだ。

 コンサートの詳しい経過などはネットや新聞にいくらでも記事があるので今更ここでは述べないが、一つ書いておきたい。アンコールの3曲目にかかる直前、マエストロが壇上に楽譜を開いてから、突然「あれ、これでよかったかな皆さん?」とでも言いたげに観客の方を振り返ったのである。観客席からは笑いが起こった。それは「ひょうきん」とか「気さく」とかいうのとはまた違った、何ともいえない暖かみのある動作だった。小さなことだが非常に印象に残っている。
 このやりとりを私はこう考えている。モリコーネのコンサートでは曲の選択の如何にかかわらず、必ずといっていいほど後から「あの曲をやってほしかった」とか「この曲が聴きたかった」というクレームをつける人が現れる。まあ500もレパートリーがあるのだからそれも仕方がないかもしれないが、私は自分の知っている曲だけ聴きたいのだったらコンサートなんかに来ないで家でCDでも聴いていればいいのにと思う。好きな曲をやってくれなかったからといってスネるなんてまるでおやすみの前にママにお気に入りのご本を読んでくれとせがむ幼稚園児ではないか。それを世界のマエストロ相手にやってどうするんだ。少なくとも私は自分のお気に入りの曲を聴くために行ったのではない、モリコーネを見にいったのだ。そこで自分の知らない曲をやってくれたほうがむしろ世界が広がっていいではないか。
 そういう選曲についてのクレームというかイチャモンにモリコーネ氏は慣れっこになっていたに違いない。それで「これでよかったかな」的なポーズをとって見せたのではないだろうか。そして数の上から言えば私のような「モリコーネの音楽そのもの」を鑑賞しに来る観客の方が圧倒的に多いだろうから、「ははは、いますよねそういう人って。どうか何でも演奏して下さい、マエストロ」という意味合いで笑いが起こったのではないだろうか。

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 ビリー・ワイルダーの古典映画『失われた週末』を見たのは実はつい最近(と言っても何年か前だが)だ。レイ・ミランドのハンサムさに驚いた。この人は70年代の『大地震』のおじいさん役などでしか見たことがなかったのである。もちろんおじいさんになっても容貌の整っているのは変わらないから「この人は若い頃はさぞかし」と感じてはいたが、それ以上のさぞかしであった。

 兄弟の世話でからくも生活しているアル中の売れない作家(ミランド)の悲惨な話である。とにかくこの主人公は「まともな生活」というものが出来ずに経済的にも日常面でも兄弟に頼りきりなのだが、問題はその「兄弟」である。英語ではもちろんbrotherとしか表現できないからどちらが年上だかわからない。でも私は始めからなぜかこの、主人公とは正反対の真面目できちんとした勤め人の兄弟がダメ作家の弟と以外には考えられなかった。自分でもなぜそういう気がするのかわからないでいたら、ワイルダーが映画の中でその疑問に答えてくれた:二人の住むアパートの住居の壁にゴッホの絵が2枚かかっていたのである。
 たしか有名な『ひまわり』ともうひとつ。そうか、この兄弟はヴィンセント・ファン・ゴッホとその弟テオだったのだ。ファン・ゴッホが生活力というものがまるでなく、経済的にも精神的にも生涯弟のテオにぶら下がりっぱなしだったのは有名な話だが、兄のファン・ゴッホが死んで、弟はこれでいわば重荷、といって悪ければ義務からある程度解放されてホッとできたかと思いきや、兄を失った悲しみで半年後に自分も世を去ってしまった。外から見れば負担にしかみえないようなその兄はテオにとっては生きがいだったのである。
 なのでこのファン・ゴッホの絵を見れば「ああこの世話人は弟なんだな」と納得すると思うのだが、日本語の映画名鑑の類にはどれもこれもアル中作家が「兄の世話になっている」と書いてある。これを書いた人たちは壁の絵に気づかなかったのか、気づいてもそんなものはストーリーには関係ないと思ったか、ヴィンセントとテオを知らなかったかのどれかである。あるいは「年長のものが年下の者の世話をする」という日本の年功序列的考えが染み付いていて「世話」と見て自動的に年長者と連想したのかも知れない。

 このbrother・Bruderあるいはsister・Schwester(『42.「いる」か「持つ」か』参照)というのは最も日本語に翻訳しにくい言葉の一つ(二つ)なのではないだろうか。逆方向は楽チンだ。兄も弟もまとめてbrotherでいいのだから。ドイツ語や英語が母語の人には「兄・弟」の観念自体が理解できないのがいる。私が「日本語では年下のbrotherと年上のbrotherは「家」と「石」みたいに全く別単語だ」というと彼らは最初ポッカーンとした顔をしてしばらく考えているが、大抵その後「じゃあ双子とかはどうなるんですか?」と聞いてくる。あまりにも決まりきった展開なので答える私もルーチンワークだ。「あのですね、日本を含めた東アジアでは双子と言えどもいっぺんには生まれないんですよ。そんなことは人体構造的に不可能です。数分、いや数秒差であっても片方が先です。そして数秒でも先に生まれればそっちが兄です。ミリ秒単位で同時に出てこない限りどちらが上かはすぐわかるでしょうが」。実はそこで「それともヨーロッパの女性はミリ秒単位で子供を同時に出せるんですか?」と聞き返してやりたいのだが、若い人にはあまりにも刺激が強すぎるだろうからさすがにそこまでは突っ込めないでいる。でも全く突っ込まないのもシャクだから、「子供の頃、英語やドイツ語で兄と弟を区別しないと聞いて、なんというデリカシーのない言語だと驚いたときのことをよく覚えています。「父」と「叔父」を区別できない言語を想像していただくとこのときの私の気持ちがわかっていただけると思います」と時々ダメを押してやっている。

 さて、「映画の壁の絵」に関して最も有名な逸話といえばなんと言っても「聖アントニウスの誘惑」だろう。1947年にモーパッサン原作の『The Private Affairs of Bel Ami』という映画が製作されたが、プロデューサーも監督も絵画の造詣が深く、壁にかける絵を募集するためコンテストを行なった。そこでテーマを『聖アントニウスの誘惑』と決めたのである。12人のシュールレアリズム画家が応募し、一位はマックス・エルンストの作品と決まった。エルンストのこの絵を知っている人も多いだろうが、当選したエルンストの絵より有名なのが落選したサルバトール・ダリの『聖アントニウスの誘惑』だろう。ポール・デルヴォーもこのコンテストに参加している。

参加者の12人とは以下の面々である:

Ivan Albright (1897–1983)
Eugene Berman (1899–1972)
Leonora Carrington (1917–2011)
Salvador Dalí (1904–1989)
Paul Delvaux (1897–1994)
Max Ernst (1891–1976)
Osvaldo Louis Guglielmi (1906–1956)
Horace Pippin (1888–1946)
Abraham Rattner (1895–1978)
Stanley Spencer (1891–1959)
Dorothea Tanning (1910–2012)

(Leonor Fini (1908–1996))

最後のFiniという画家は参加申し込みはしたが、作品が締め切りまでに提出できなかったそうなので括弧に入れておいた。イヴ・タンギーかデ・キリコが参加しなかったのは残念だ。『101.我が心のモリコーネ』でも述べたようにデ・キリコは私は中学一年の時に銀座の東京セントラル美術館というところで開かれた個展を見にいって以来、私の一番好きな画家の一人である。ちなみにそのときは地下鉄代を節約するため銀座まで歩いていった。どうも私は前世はアヒルかガチョウの子だったらしく、中学生・小学生のとき、つまり人生で最初に出合った音楽や絵のジャンルがいまだに好きである。「刷り込み」を地でいっているわけだ。モリコーネのさすらいの口笛はいまだに聴いているし、うちの壁にはデ・キリコの絵(のポスター)が掛かっている。もっとも映画制作時の1947年といえばキリコはすでにあのシュールな絵を描くのを止めてしまっていた頃か。

 絵の話で思い出したが、日本でメキシコの画家というと誰が思い浮かんでくるだろうか。まずディエゴ・リベラとシケイロス、あとルフィーノ・タマヨ(この人の個展も私が高校生の頃東京でやっていたのを覚えている)だろう。こちらではリベラ、シケイロスより先にフリーダ・カーロが出てくる。以前町の本屋にカーロの画集がワンサと並んでいた時期があるが、リベラのはあまり見かけなかった。日本では「リベラの妻も画家だった」であるが、こちらでは「リベラは画家カーロの夫である」という雰囲気なのである。彼らをテーマにした例の映画でも主役はサルマ・ハイエク演ずるカーロのほうだった。映画のタイトル自体『フリーダ』である。
 今更だが、日本とヨーロッパでは同じものでもいろいろ受け取り方が違うものだ。


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 2020年7月6日の朝、いつものように起きてメールを見ようと思い、いつものようにドイツテレコムのメインサイトに行ったら、そこのニュース速報にEnnio Morriconeとあるのが目に止まった。つい一ヵ月ほど前にモリコーネがジョン・ウィリアムズとともにスペインのアストゥリアス皇太子賞を取ったと聞いていたので一瞬またなにか賞を取ったのかと思い、改めて記事の見出しに目を向けたとき、飛び込んでいたのはtot 「死去」という言葉だった。そこで私が感じたこと、陥った精神状態は、誇張でも何でもなく全世界でおそらく百万人単位が共有していると思うから、わざわざ「呆然とした」とか「目の前が真っ暗になった」とか「心にポッカリ穴があいた」とか「鬱病になりそうになった」とか陳腐な表現をここでする必要もあるまい。してしまったが。
 新型コロナがイタリアで猛威を振るっていた時何より心配だったのがモリコーネのことだったが、直接の死因となったのは数日前に転倒して大腿骨を折った事故だそうだ。ローマの病院に運ばれ、そこで亡くなった。報道によれば最後まで意識ははっきりし、その時が来たことを自分でもはっきり自覚して家族に別れの言葉を残していった。極めて尊厳に満ちた最期だったそうだ。
 モリコーネが晩年ドイツで行ったインタビューの記事をいくつか読んだが、その中でインタビュアーは「マエストロは少し足元がおぼつかないようだったが頭の方はhellwachだった」と言っていた。hellwachは独和辞典には「完全に目覚めている、油断のない」というネガティブイメージの訳語が出ていたりするが、これは「頭がものすごく冴えている」という意味である。

 ドイツではモリコーネの名前と最も強固に結びついているのは何といっても『ウエスタン』のハーモニカだ。『続・夕陽のガンマン』のコヨーテが引用されることもあるが、あの『ウエスタン』のメロディは高校の音楽の教科書に使われているのさえ見たことがある。モリコーネ自身はこれに不満で、あちこちのインタビューで「ドイツではどうして西部劇だけしか思い出してもらえないんでしょうね。西部劇の曲は私の作品の8%しか占めてないんですよ」とぼやき、とうとうドイツであんまり『ウエスタン』を聴かされすぎたのでもう自分でもあの曲は聴きたくないとまで言っていたそうだ。
 亡くなった次の日新聞という新聞に追悼記事が出たが、ローカル紙の多くはブロンソンに撃たれた直後のヘンリーフォンダや、幼い頃のブロンソン(でなく子役)が肩に兄を載せて必死に立ち、脇でフォンダがせせら笑っているあの残酷なシーンなどを載せていた。ここでもモリコーネと言えば『ウエスタン』なのである。マエストロが見たら目をそむけたくなったかもしれない。ドイツを代表する全国紙のフランクフルター・アルゲマイネ紙さえそのシーンを第一面に出していたが、もう一つの全国紙、うちでとっている『南ドイツ新聞』ではさすがにブロンソンのカラー写真などは出さずにマエストロの写真だけだった。丁寧にその業績を掲げてあった。しかしいくつかの民放TV局が特別番組と称して放映したのはやっぱり『ウエスタン』だった。そのワンパターンさに私でさえ食傷していたところ、このブログでも時々言及したことのあるストラスブールに本拠のある独仏バイリンガルの公営放送局ARTE(つまりそこら辺の民放と比べるとずっと程度が高い放送局)が追悼番組として『夕陽のギャングたち』を流すと言ってきた。この選択はさすがだと思った。
 もっとも『夕陽のギャングたち』もレオーネの西部劇なので「たった8%」に入っていることには変わりがない。『荒野の用心棒』をいまだに心のモリコーネとしている私なんかはどうすればいいんだろう。

あまりにも有名な『ウエスタン』の鳥肌が立つほど素晴らしい決闘シーン。コメントを見るとモリコーネと聞いて『ウエスタン』を思い浮かべるのは決してドイツ人に限らないようだ。上で「食傷」と書いてしまったがワンパターンにこの映画を持ち出す人の気持ちもわかる。名作すぎるのだ。
 
 

 ツイッターやネットサイトの書き込みで多くの人が言っていた。「モリコーネ氏は91歳という高齢ではあった。でもそれでも亡くなったと聞くと大ショックだ」と。私もそうだ。『荒野の用心棒』から氏の音楽を聴いている。ただしこの曲を始めて聴いたのは映画の劇場公開時よりはやや遅れた時期で、映画を見ずにあのテーマ曲をどこかで何かの機会に耳にしてビックリしたのである。繰り返しになるが、私は音楽の素養は全くない。視覚人間である。しかしこれを聴いたとき私には曲が「見えた」のだ。あまり驚いたのでその時のことをまだ思えている。それ以来耳でなく目に訴えてきた音楽は聴いたことがない。とにかく物心がついたころからモリコーネの曲を聴いて育った、言い換えるとモリコーネの音楽を知らなかった頃の記憶がないわけだから、知り合いでも家族でも何でもないのにマエストロが精神生活の一部、人生の一部になってしまっていたことには変わりがない。私の年代の人にはそういう人が多いはずだ。「さようならマエストロ。いつまでも忘れない。本当にありがとう」で済ますことができないのである。いわば自分の精神生活の一部が死んでしまったからだ。CDがあるから曲を聴いて偲ぼうとかそういうレベルではない。「この曲を作った人が私と一緒の世界で生活している」という感覚で子供の頃から何十年もやってきた。「もうこの人はこの世にいないのだ」、急にそういう転換ができない。これを受け入れられるまでにまだ相当かかる。そういう(やや年をとった)人が少なくともルクセンブルクやアイスランドの総人口よりは数がいると私は思っている。

 その日スーパーに買い物に行ったとき、時々イタリア語を話しているのを聞いていた店員さんを見かけた。どうしても黙っていられなくなって「すみません。イタリアからいらっしゃったんですか?」と確認をとったらそうだというので、「作曲家のエンニオ・モリコーネを御存じでですか」と聞いてみた。すると即通じて「ああ、亡くなってしまいましたね。本当に残念です」と返ってきた。さらに向こうのほうがこんな東洋人のおばさんがエンニオ・モリコーネを知っていることに驚いた風で、「氏を御存じなんですか」と聞いてきた。知っているも何も、私がこうやってヨーロッパに居ついてしまった一因が氏のサウンドトラックである。私の他にも、というより私なんかまったく敵わないような筋金入りのファンが東洋の小国日本にはたくさんいるのだ。
 その次の日、今度はイタリアの知人からメールが来た。本件の用事はまったく別のことだったが、追伸で「モリコーネが亡くなったことを聞きましたか?」といってきた。肝心の本件は無視して「全く意気消沈しています」とすぐ返信した。
 
 そうやって人と話をしたり、ネットや新聞で追悼記事を読んだりしているうちに徐々にではあるが、氏が死去したという事実を受け入れられるようになってきた。しかしそうなってくると心に穴を開けられて動転し無感覚だったのが、だんだん悲しく寂しくなってきた。麻酔が解けて感覚が戻ってきたためだんだん痛くなってくる、あの感じである。しかも感覚が戻ってきたらショックのため忘れていたことを思い出してしまった。この文章の最初の最初に述べたアストゥリアス皇太子賞である。この賞の授与式は10月の終わりに行われるのだ。モリコーネの誕生日の直前である。6月に受賞が決まったとき担当者が打診したところ、モリコーネからは「歳で旅行するのはきついができるだけ式には出席するようにするから」という答えが返ってきていたそうだ。92歳の誕生日プレゼントになっていたはずなのに。授賞式には誰が行くのだろう。本当に残念で悔しくてならない。「事実を受け入れられない」がまたぶり返してしまった。

 マエストロの名前はラテン文学を確立したローマの詩人クイントゥス・エンニウスにちなんだのだろうが、芸術・文化界へに与えた影響は元祖のエンニウスに勝るとも劣るまい。まさにマエストロにふさわしい名前ではないだろうか。

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 ドイツに住んでいるためかこちらの新聞でも結構取り上げられているロシアの作家ウラジーミル・ソローキンの День опричника を読んでみた。イワン雷帝下の強烈な専制政治が現代に敷かれていると想定した強烈なディストピア小説だ。タイトルの「オプリチニク」とはオプリチナのメンバーという意味で、そのオプリチナは雷帝が考案し全国に張り巡らされた今でいう秘密警察。歴史用語である。ただし小説は当時のロシア社会にひっかけているだけで舞台設定は2027年、つまりSF小説だから現代オプリチニクはスマホで連絡しあうし、馬でなく車に乗り、飛行機で移動する。専制体制それ自体もさることながら、特権階級として甘い汁を吸わされ積極的にそれを支えているオプリチニクたちやその他の「上級国民」、君主とその家族、つまりそこに住む人間の醜悪さがこれでもかと描かれている。いわゆる全体主義国家を揶揄したディストピア小説というとオーウェルの『動物農場』を思い出すが、やはり専制(に近い)政治が引かれている国の内部を知っている作家が書くと迫力が違う。下手に読むと真剣に気分が悪くなるかもしれないので単純に「お薦め」はできない。

下で述べる通り小さな薄い本だが、読むのに非常に手間取った。
den-opricnika
 そもそもこの作品はタイトルが示す通り、『イワン・デニーソビッチの一日』的な「日常の一日」を描いたものである。たった一日で読む方はすでに吐き気がしてくるくらいだから、こういう日常を百万・一千万単位の国民が毎日何年も送っている社会はそれこそ魔窟であろう。
 
 出だしのエピソードからして、いわゆる「反体制一家」の家をオプリチニク軍団が襲って、一家の主の男を首吊りにし、その妻をオプリチニクみんなで輪姦した後実家に追放、子供たちは取り上げて、相応しくない思想成分を払拭すべく体制派の一家の養子に出すか、国家施設に預けられる。これはまさに今回の戦争でロシア兵がウクライナの民間人相手にやった行為ではないか。小説が書かれたのは2006年で、ウクライナ戦争勃発どころか、クリミア併合さえ起きていなかったころである。ソローキンは予知能力でもあるのか?
 ここで凄いのは主人公が女を強姦しながら、反体制思考の女に体制側の男の精液を注入して反日じゃなかった反露思想を洗浄するのが国家を守るためになると本気で信じていることだ。オプリチニクたちは君主を崇拝していて、君主が何かいうたびにその慧眼に感涙をそそぐ。君主様のためなら喜んで命を捧げるそうだ。俗に言う思考停止状態なのだが、考えてみるとこういう輩は何もロシア特産ではない。某前大統領を神のように崇め、顔を見ると涙ぐまんばかりに狂喜する人たちは本国ばかりでなく、日本にもいる。自分は当地に住んだこともなく、もちろん英語もできないのに全く関係ない国の前大統領を必死で庇うその姿、これはいったい何なんだと思う。特定の党、特定の政治家を「支持」の域を遥かに超えて崇拝しだす人たち。そしてそれを支持しない人たちを非国民の嫌なら出ていけのと罵る。こういう人たちは何処の国にもいる。『オプリチニクの日』が怖いのはこの万国共通性のためだ。専制君主下のロシアの醜悪さが実は他人ごとではないからだ。
 またこの国の住民は常に外側の敵に怯えている。西側がツルんでロシア分割を企んでいるという妄想から逃れられない。その内心の恐怖を小説に出てきた映画の中のセリフがよく表している:

Восток — японцам, Сибирь — китайцам, Краснодарский край — хохлам, Алтай — казахам, Псковскую область — эсгонцам, Новгородскую — белорусам.
(東は日本人に、シベリアは中国人に、クラスノダール地方はウクライナ人に、アルタイはカザフ人に、プスコフ県はエストニア人に、ノブゴロド県はベラルーシ人に。)

ウクライナ人にロシア固有の領土を持っていかれると恐怖しているあたり、ウクライナ戦争に関してロシアが今展開している主張と被る。この  хохлам(単数男性形 хохол)というのはウクライナ人、昔でいう小ロシア人に対する蔑称で、当地のコサックのヘアスタイルに起因する。話が飛ぶが『10.お金がないほうが眠りは深い』でも出したガルシンの『あかい花』にもこの言葉が使われていて、神西清の日本語訳ではルビを使って「ウクライナ人(とさかあたま)」、ドイツ語訳ではKleinrusse (「小ロシア人」)と訳されていた。

 ソローキンに戻るが、つまり悪い事は全て「西側」「グローバリズム」のせい。西側に理解を示す国民は外国の工作員、犯罪を犯す人は外国人の手先。そういう不純分子国民を(女を輪姦したりして)一掃するのが名誉ある純粋ロシア民族としての神聖な義務である。またしてもこれはウクライナ戦争に際して自国で展開しているプロパガンダと完全に被る。実はこれに近い発言を時々日本のSNSなどで見かけるのだが…何か犯罪を犯した人がいると必ず「犯人は日本人か?」とコメントしだす人がいる。報道元が容疑者の名前を伏せると「犯人は在日か?」、名前を出したら出したで「通名だな」。また同胞がちょっと政府に反対の声を挙げれば、「外国かぶれ」「日本の伝統から逸脱」と胡散臭がる。要は素直にお上に従わないような国民は「純粋な日本人じゃない」ということだ。「純粋〇人」といういやらしい言葉は『オプリチニクの日』にも出てくる。主人公のオプリチニクが空港で隣の女性がオプリチナの「業績」を描いたプロパガンダ映画を一生懸命見ているのが女性としては珍しかったため興味が湧いてその顔をつくづく眺めてみると、その顔は Не очень красивое, но породистое(特別美人ではないが、純血人種のものだ)。しかしその純血種女性は反体制分子として一掃された一家の生き残りだったことがわかる。純血日本人にだって現政権や天皇制にさえ反対している人はいるし、ナチス・ドイツのころにもユダヤ人を匿い、ナチスに抵抗した「純血ゲルマン人」はいたのだから不思議ではない。こういう純血種を純血種に相応しい正しい道に引き戻し、不純物は除去するのがオプリチナの仕事である。自分たちがいなくては君主は偉大なるロシアを築き上げることができない、オプリチナとはなんと偉大な仕事だろう。
 ああそれなのに、ソローキンの描く偉大なロシアは実は中国とズブズブで、経済的には完全に依存している。車も中国製、日常品や食料にいたるまで、メイド・イン・チャイナだ。君主様の最も親しい友人の一人も中国人で、何かとその便宜を測ってやっている。君主の二度目の妻の子供たちは中国語がペラペラだ。中国語は最も将来性のある外国語なのである。とにかく小説中に中国語がたくさん出てくる。この調子では偉大な純血大国家ロシアは中国の属国になるのではないか、と思わせるほどだ。

 さらに、これもロシアだけの現象ではないが、オプリチニク、つまり君主に盲従し不純分子の駆除が神聖な義務だとマジで思っているナショナリスト極右はズバリマッチョである。男根がついていることを誇り、女性は一段下の人間。最初に男だけ首吊りにして女は強姦だけで助けてやった(?)のも別に人道的配慮からではない、女を男と同等な生物と見ていないからである。殺す価値もないというワケ。それが証拠に困ったことがあって必死にオプリチニクに助けを求めて来た女性にはケンモホロロの対応、自分に跪いて懇願する女性の胸をブーツの先で蹴り上げて「失せろ!」と追い返そうとする。しかしその女性はロシアで有名なバレリーナ、君主もそのファンであるプリマドンナの知り合いで、そのバレリーナが直接コンタクトして来たのでまあ聞き届けてやるが、あくまで「まあ」であって、ロシア一のそのプリマドンナに対しても上から目線は相当露骨だ。
 男根 love(ああ気持ち悪い)の極めつけはラスト近くのシーン。オプリチニクたちの大集会である。ボスの大邸宅のサウナに集合した配下のオプリチニクたちが当然真っ裸で、中国製の怪しげなヤクを使って男根を隆々と光らせたところで(男根は本当に光を放って輝く)、まず第一のボスの右腕オプリチニクがその突起して巨大化したペニスをボスの肛門に突っ込む。次に別のオプリチニクが右腕の肛門に突っ込む。何番目かには主人公のオプリチニク氏も前の人の肛門に突っ込む。そしてその肛門には後続のペニスが突っ込まれる。そうなってオプリチニクが全員ペニスと肛門で数珠つなぎになった状態を「芋虫」というが、これが「俺たちは男だ!」という意気を示す神聖な儀式なのである。
 やってる本人たちは男の誇りに輝いている(つもり)かもしれないが、部外者はとしてはこんなものをたとえば食事中には読みたくない。

    さてそうやってオプリチニクの「平凡な一日」が終わる。主人公は疲れてベッドに入るが、読者のほうがもっと疲れる。そこで最後っ屁といっては下品に過ぎるが、一発また女は肉便器という思想の登場だ。女性の召使が甲斐甲斐しくオプリチニク氏の世話を焼くが、この召使(なんて言葉はすでに死語か)が主人公に性的奉仕もし召使側もそれで当然と思っていることがプンプンと匂う上に、ちょっと嫉妬しつつ「今日もさぞたくさんの反体制女に精液を注入なさったんでしょうね…」的なことを言う。つまり男根信仰、精液注入こそ男の仕事という価値観が女のほうにまで内在化されているのだ。しかしまたしてもこういう女性の存在はロシアだけの現象ではない。極右男性にチヤホヤされたいばかりにマッチョ思想に組し、同性の性犯罪の被害者を責める、そしてそれが何かカッコいいことだと思っているナショ女性はどこの国にもいる。日本にももちろんいるし、アメリカにもいる。

 この小説に描かれている醜悪さはプーチン下のロシアだけのものではない、ある意味ユニバーサルで、だからこそ読者も食欲が減退するのだ。ひょっとしたらこういう社会を本気でユートピアと見なすナショ氏が自国内にもいそうでゾッとするのである。

 さてこの本はサイズは小さく活字は大きく、しかも223ページしかなかったが、私は全部読むのに2ヵ月もかかってしまった。ロシア語がトゥルゲーネフだのプーシキンだのより遥かに難しかったのだ。理由の一つが「オプリチナ」始めロシア史の専門用語が多く、普通の辞書には載っていないこと。トゥルゲーネフなら一般用のランゲンシャイトの露独辞典と博友社の日露辞典のコンビで大体足りるのだが、今回はそれでは全く歯が立たず普段文鎮代わりにしている(『1.悲惨な戦い』参照)ロシア語の広辞苑、Ожегов のロシア語詳解辞典を引っ張り出した。これなら確かに単語ははるかにたくさん載っている。小さな辞書には載っていない「口語的表現」も比較的多く取り上げてある。載ってはいるのだがその語の説明もロシア語だから辞書を引くのに辞書がいるというたらい回し状態になった。しかしそのオジェゴフにすら載っていない単語が頻繁に登場するので途方に暮れた。あまりにもそういう場合が多いのでさすがに「これはおかしい」と思い、ふとたまたま持っていた「タブー語辞典」を開けてみた。言ってはいけない、知っていてはいけない語、オマ〇コとかチ〇コとかそういうレベルの語が集めてある影の必殺辞書である。それを開けてみたらまああるわあるわ、今までどうしても見つからなかった語がバンバン載っている。それからは見つからない語が出ると「これはそういう言葉なんだな」と思って無視することにした。こういうエゲツない語彙はソローキンの文体の特色だそうだ。
 その禁止用語の濃度が特に高かったのは、ドストエフスキイの『罪と罰』をパロった部分だ。まずドストエフスキイの原文だが:

Удар пришелся в самое темя, чему способствовал ее малый рост. Она вскрикнула, но очень слабо, и вдруг вся осела к полу, хотя и успела еще поднять обе руки к голове.
(老婆の背が低かったことで、打撃はちょうど頭のてっぺんに当たった。叫び声を上げたが、弱々しいものだった。そして、かろうじて両手を頭に向かって持ち上げることはできたものの、いきなり体中が床に崩れ落ちた。)

これがソローキンではこうなっている。原文がほとんど埋没しているので見やすいように色をつけた。空色の部分がそれだ。青以外が追加されている部分だが、そのうち黄色でマークしてあるのは普通に辞書に載っている単語。残るノーマークの語は基本的に「そういう言葉」だと思っていい。もちろん上品な一般辞書には載っていない。

Охуеный удар невъебенного топора пришелся в самое темя триждыраспронаебаной старухи, чему пиздато способствовал ее мандаблядски малый рост. Она задроченно вскрикнула и вдруг вся как-то пиздапроушенно осела к непроебанному полу, хотя и успела, зассыха гниложопая, поднять обе свои злоебучие руки к хуевой, по-блядски простоволосой голове...

 また『オプリチニクの日』では詩がたくさん登場する。登場人物が詠んだという設定ではあるが、これらもネイティブなら、いやネイティブでなくても真面目に文学を勉強した者なら「こりゃプーシキンのあれだな」とか「レールモントフだな」とか「マヤコフスキイをパロったんだな」とか「本歌」がわかるのかもしれない。私は全然わからなかった。実は上の『罪と罰』も「これはドストエフスキイの『罪と罰』の下品なパロディ」と小説に書いてあったからそれをもとに原文を探し出せたのであって、私が自分で見破ったのではない。
 さらに我ながら自分にはわかってないんだろうなと思ったのはオプリチニクたちの冗談というかギャグである。時々会話のロジックが追えないことがあったのだが、これは多分彼らが内輪の冗談を言っていたんだろうと思う。これもネイティブ(や、真面目に勉強した人)にはちゃんと通じるに違いない。通じない私が自分でわかったギャグはこれだけである。主人公が古いブロンズの銅像をみながら独り言をいう。

В его времена пробок автомобильных не было. Были токмо пробки винные...
(この時代には自動車のプロープカなんてなかった。あったのはワインのプロープカだけだプッ。)

これはプロープカという語にひっかけた寒いギャグで、これには「渋滞」という意味、英語でいう jam と「栓」という二つの意味がある。あまりにも寒すぎて日本人にも見抜かれてしまった。
 もう一つたまたま知っていた例だが、「君主に反抗する奴はトレチャコフスキイ美術館に行ってこの絵を見て自分がどうなるか考えてみるんだな」的なコンテクストで Боярына Морозова という絵のタイトルを出しモチーフを説明するが、その描写によってそれがたまたま自分の知っている絵だと分かった。タイトルの方は知らなかったが、イワン雷帝より少し後の時代に皇帝による教会の儀式の改革に反対して処刑された貴族モロゾフの妻が橇で引きまわされるシーンを描いたものである。

君主様のいう事に反対するとこのように処刑されるぞという教訓のためオプリチニクがお薦めする絵。お上に逆らうのは止めましょう。
Авторство: Василий Иванович Суриков. ogHGQgd1Ws9Htg — Google Arts & Culture, Общественное достояние, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13502454から

Vasily_Surikov
 放送禁止用語や背景知識が辞書に載っていないのは当たり前だが、別にタブー語でもなさそうなのに載っていないことばもあった。特定の地方限定か、正書法を無視して口語の発音通りに書かれていて辞書には拾ってもらえなかったと見える。例えばнегоже というのは нигде か негде(nowhere)のことかなと見当がつくこともあったが(ハズしていたら失礼)、わからないままな単語も多かった。ネイティブならどれも一発でわかる違いない。またтокмо という語が頻繁に登場し、これは только(only)かもしれないとは思ったが、使われている文脈に(たいていはтолько 解釈で通じたが。上のギャグもその意味で通じる)только ではなさそうなものもあったので保留している。

 標準ロシア語と違った東スラブ語の形が登場するのもおもしろかった(『145.琥珀』参照)。ウクライナ語なら東スラブ語形が正規の形とされているから目立つが、ロシア語も表には出てこないだけで実は裏では東スラブ語形と南スラブ語形のダブルがかなり蔓延しているのかもしれない。逆に標準ロシア語では東形を使うのに、ソローキンでは南形になっているのもあった。これら非標準形はオジェゴフの辞書に「もう一つの形」として出ているのも少なくなかったが、辞書にはなくて南形に再構築してみて「ああこれか」とピーンとくる語もあった。例えば враг(南形) → ворог(東形)(「敵」)、голос(東形)→ глас(南形)(「声」)、 волос (東形)→ влас(南形)(「髪」)。それぞれ後者がソローキンに使われていた形である。また другой(「別の」)が「第二の」の意味で使われていたこともあった(『156.3番目の正直』参照)。放送禁止用語よりこっちのほうがよほど勉強になるのではないだろうか。まあ放送禁止用語なんか勉強しない方が無難だが。

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