アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:ヨーロッパ > ヨーロッパ一般

 EUに属している国の国民にとって最高位の選挙は国会議員選でなくEU議会議員選挙である。
裁判についても日本なら最高裁が判決を出したらそこで決定だがEUではさらにその上のEU法廷というものがあるから、最高裁の判決がひっくり返ることもある。つまり一国といえども好き勝手がやれないわけで、ナショナリストがEUを目の敵にするのはこの点にもあるわけだ。確かにちょっと外から批判されただけで「ここは〇〇だ、内政干渉すんな」と敏感に騒ぎ出すタイプの人には耐えられないだろう。
 さてこのEU議会選だが、毎回投票率がいまひとつ低い。どうもEUというと雲の上過ぎて実生活とあまり直結していないからかもしれない。前回は確か投票率が50%を割っていた。私はまじめな市民なので(どこが?)どんなものにしろ今まで選挙に棄権したことがない。今回のEU議会選もきちんと票を入れた。地方議会選も同時にやったので、二つの選挙に投票することになった。
 
 有権者には選挙日のかなり前に通知が来るのでその手紙と身分証明書を持って指定の投票所に行く。この通知は郵便での投票や指定以外の投票所での投票を望む場合の申し込み書も兼ねている。選挙日の相当前に来るからついなくしたり忘れたりしそうになる。現に投票所で通知を提出してくださいと言われて「え?そんな手紙貰いましたっけ?」と言い放っていた人がいた。係の人も一瞬天を仰いでいたが、幸いなくした人用に予備の書類があるらしく、他の係りのところに行って記入してもらい事なきを得ていた。もっともこれはなくした人がきちんと身分証明書を提示したからである。さすがに身分証明書を忘れたら家まで取りにやらされるのではないだろうか。通知には投票所と日にちが書いてあるから「そんな手紙」の存在さえ忘れている人がなぜきちんと期日に所定の場所に来たのかという疑問がわくが、これは選挙の通知と別個に地方選の立候補者のリスト(後述)が前もって送られてくるからである。そこに選挙日が書いてある。また投票所も何十年も変わらないから選挙しなれた人なら自動的にそのいつもの投票所に行く。もっとも選挙しなれた人がどうして通知の存在が頭から抜けたのか謎だが、これも選挙に行くことが完全にルーチンワーク・デフォになっているとその当たり前のことを通知されてもいちいち覚えていられなくなるのかもしれない。ヤコブソンの言う「無標」unmarkedである。

私のところに来た選挙通知。
wahlbenachrichtigung1

裏は郵便投票などの申請用紙となっている。
wahlbenachrichtigung2

 投票所でEU議会候補のリストを渡されるが、これは党単位である。立候補した党がずらっと並んでいるやたらと長いリストをくれるので、その中の一つにマークを入れるのだ。雨後のタケノコのように湧いて出た泡沫政党が多くて「なんじゃこりゃ?」とスリル満点なリストである。私はさる大手の党に入れたが、ここは今回EU中で大躍進した。極右の天敵となった党だが、選挙後に大学の人にちょっと「何処に入れましたか?」と聞いてみたら聞く人聞く人この党で笑った。そういえば大きな大学のある町はどこもここの党が強い。
 また今回は投票率も「前回と比べて飛躍的に伸びて」、60%強だったそうだ。確かに前回の50%に比べれば飛躍的に高いがそれでも60%というのは低くないか?

 さて上にも書いたようにここは地方選挙も同時に行った。一つ一つの選挙をバラバラにやると効率が悪いからまとめられるものはまとめるのだ。この地方選挙はEU議会選と違って投票の仕方がやたらと複雑である。だから投票所で混乱しないようにあらかじめ候補者リスト(つまり投票用紙)を配り、票の入れ方も詳しく指示し、選挙者がすでに家で投票用紙に記入して来られるようにしてある(上記参照)。投票所ではその用紙を渡すだけでいいが、前もって準備させるだけあってこの投票方法がまた複雑だ。順を追って説明すると次のようになる。
1.リストは全部で13ページあり、切り離せるようになっている。
2.それぞれ1ページに1政党の候補者がリストアップされている。つまり候補政党は13あるわけだが、1政党ごとに48人まで候補者が認められている。小政党だとその48人を集められないところもあって立候補者が4人の政党などもある。もちろん普通の党なら48人書いてある。
3.投票者は全部で48ポイントまで投票権(投票点?)を持つ。
4.ある党の立候補者に全員票を入れたい人(つまり党単位に投票したい人)は、当該政党のページを切り離して全く何も書かずに投票箱に入れる。暇だったら候補者の名前の脇に全員1と書き込んで出してもいい。これで合計48ポイントとなる。
5.党単位でなく人物単位で投票したい人もいる。そういう場合は複数の党のページを切り離して当該候補者の脇に1と書き込み、切り取った複数ページを渡す。うっかり48人以上の人に票を入れてしまったらポイント制限に引っかかって無効票となる。
6.この人物には特に当選してもらいたい、と思っている人もいる。そういう人は一人の候補者に3点まで投票することができる。つまり1点、2点、3点というグラデーション投票が可能なのである。この場合も投票したい候補者のいる政党ページをすべて切り離して名前の脇に1、2、3などの数字を書き込む。合計点が48を超えたら無効票である。例えば全員に3点投票したら16人しか選べないのだ。

Did you understand?

 私は前回は候補者単位で投票したので電卓で合計点を確認しながら書き込んだが今回は党単位、さる政党のページを白紙で出した。EU議会とは別の党である。

投票用紙にはこんな手紙が添えられている。
brief


 地方選リストは選挙通知のずっと後から来るし、ボッテリとぶ厚い手紙なのでさすがに貰ったことを忘れる人はいないだろう。もっともそれでも貰ってから投票日までに時間があったのでちょっと各々の候補政党の様子を見てみた。立候補した13の政党とはつぎのようなものである。
SPD(社会党・革新)
CDU(キリスト教民主党・保守)
GRÜNE(緑の党)
Freie Wähler(大政党に属さないやや保守系の人の集まり)
AfD(極右)
Die Linke(共産党)
FDP(ネオリベ)
MfM(中流層市民のためのローカルな政党)
NPD(ズバリナチ。まだいたとは驚き)
Die PARTEI(言っていることが玉虫色でよくわからないローカル政党)
MVP(名前からすると多分保守系のローカル政党)
Tierschutzpartei(動物保護政党)
BIG(候補者が全員トルコ系の名前の政党)

そこであまり意味はないが立候補者に博士号持ちがどのくらいいるかどうか調べてみた。立候補者の住所と職業はリストに記されるが学歴は特に発表されない。が前にも書いたようにドイツでは博士号を取るとDr. という称号を前につけたのが正式な名前となるので、例えば Dr. Robert Müllerとなり、すぐわかるのだ。結果はこうなった。
SPD                    8人→16.6%
CDU                   6人→12.5%
GRÜNE              5人→10.4%
Freie Wähler       8人→16.7%
AfD                      2人→4.2%
Die Linke             3人→6.3%
FDP                     9人→18.8%
MfM                    0人→0%
NPD                    0人→0%
Die PARTEI        0人→0%
MVP                   0人→0%
Tierschutzpartei 0人→0%
BIG                    0人→0%

ネオリベのFDP(太字)が最も多いが、ここは医者とか弁護士、または経済経営学の大学教授などに支持者が多いのでまあうなずけるところだ。しかしいわゆる全国政党なら庶民・労働者の政党にさえ結構博士持ちがいることがわかる。『96.日本は学歴社会か』でも述べたが、ドイツには博士号持ちがウジャウジャいるので昔日本で言われていた「末は博士か大臣か」という言葉は意味を持たない。博士など全然「偉い人」ではないからである。ついでにいえば大臣というのもあまり偉い人という連想がない。立法にしろ行政にしろ、政治家はあくまで国民の公僕という意識が強く「ちゃんと仕事しろコラ」とハッパをかけられる存在だ。日本だって最近はそうだろう。しかし博士がやたらといるからといってさすがに国民の16%はいまい。やはり政治は学歴の高い者がある程度牛耳っているようだ。ドイツ(だけではあるまいが)の学歴社会ぶりを垣間見る思いである。

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 2020年7月6日の朝、いつものように起きてメールを見ようと思い、いつものようにドイツテレコムのメインサイトに行ったら、そこのニュース速報にEnnio Morriconeとあるのが目に止まった。つい一ヵ月ほど前にモリコーネがジョン・ウィリアムズとともにスペインのアストゥリアス皇太子賞を取ったと聞いていたので一瞬またなにか賞を取ったのかと思い、改めて記事の見出しに目を向けたとき、飛び込んでいたのはtot 「死去」という言葉だった。そこで私が感じたこと、陥った精神状態は、誇張でも何でもなく全世界でおそらく百万人単位が共有していると思うから、わざわざ「呆然とした」とか「目の前が真っ暗になった」とか「心にポッカリ穴があいた」とか「鬱病になりそうになった」とか陳腐な表現をここでする必要もあるまい。してしまったが。
 新型コロナがイタリアで猛威を振るっていた時何より心配だったのがモリコーネのことだったが、直接の死因となったのは数日前に転倒して大腿骨を折った事故だそうだ。ローマの病院に運ばれ、そこで亡くなった。報道によれば最後まで意識ははっきりし、その時が来たことを自分でもはっきり自覚して家族に別れの言葉を残していった。極めて尊厳に満ちた最期だったそうだ。
 モリコーネが晩年ドイツで行ったインタビューの記事をいくつか読んだが、その中でインタビュアーは「マエストロは少し足元がおぼつかないようだったが頭の方はhellwachだった」と言っていた。hellwachは独和辞典には「完全に目覚めている、油断のない」というネガティブイメージの訳語が出ていたりするが、これは「頭がものすごく冴えている」という意味である。

 ドイツではモリコーネの名前と最も強固に結びついているのは何といっても『ウエスタン』のハーモニカだ。『続・夕陽のガンマン』のコヨーテが引用されることもあるが、あの『ウエスタン』のメロディは高校の音楽の教科書に使われているのさえ見たことがある。モリコーネ自身はこれに不満で、あちこちのインタビューで「ドイツではどうして西部劇だけしか思い出してもらえないんでしょうね。西部劇の曲は私の作品の8%しか占めてないんですよ」とぼやき、とうとうドイツであんまり『ウエスタン』を聴かされすぎたのでもう自分でもあの曲は聴きたくないとまで言っていたそうだ。
 亡くなった次の日新聞という新聞に追悼記事が出たが、ローカル紙の多くはブロンソンに撃たれた直後のヘンリーフォンダや、幼い頃のブロンソン(でなく子役)が肩に兄を載せて必死に立ち、脇でフォンダがせせら笑っているあの残酷なシーンなどを載せていた。ここでもモリコーネと言えば『ウエスタン』なのである。マエストロが見たら目をそむけたくなったかもしれない。ドイツを代表する全国紙のフランクフルター・アルゲマイネ紙さえそのシーンを第一面に出していたが、もう一つの全国紙、うちでとっている『南ドイツ新聞』ではさすがにブロンソンのカラー写真などは出さずにマエストロの写真だけだった。丁寧にその業績を掲げてあった。しかしいくつかの民放TV局が特別番組と称して放映したのはやっぱり『ウエスタン』だった。そのワンパターンさに私でさえ食傷していたところ、このブログでも時々言及したことのあるストラスブールに本拠のある独仏バイリンガルの公営放送局ARTE(つまりそこら辺の民放と比べるとずっと程度が高い放送局)が追悼番組として『夕陽のギャングたち』を流すと言ってきた。この選択はさすがだと思った。
 もっとも『夕陽のギャングたち』もレオーネの西部劇なので「たった8%」に入っていることには変わりがない。『荒野の用心棒』をいまだに心のモリコーネとしている私なんかはどうすればいいんだろう。

あまりにも有名な『ウエスタン』の鳥肌が立つほど素晴らしい決闘シーン。コメントを見るとモリコーネと聞いて『ウエスタン』を思い浮かべるのは決してドイツ人に限らないようだ。上で「食傷」と書いてしまったがワンパターンにこの映画を持ち出す人の気持ちもわかる。名作すぎるのだ。
 
 

 ツイッターやネットサイトの書き込みで多くの人が言っていた。「モリコーネ氏は91歳という高齢ではあった。でもそれでも亡くなったと聞くと大ショックだ」と。私もそうだ。『荒野の用心棒』から氏の音楽を聴いている。ただしこの曲を始めて聴いたのは映画の劇場公開時よりはやや遅れた時期で、映画を見ずにあのテーマ曲をどこかで何かの機会に耳にしてビックリしたのである。繰り返しになるが、私は音楽の素養は全くない。視覚人間である。しかしこれを聴いたとき私には曲が「見えた」のだ。あまり驚いたのでその時のことをまだ思えている。それ以来耳でなく目に訴えてきた音楽は聴いたことがない。とにかく物心がついたころからモリコーネの曲を聴いて育った、言い換えるとモリコーネの音楽を知らなかった頃の記憶がないわけだから、知り合いでも家族でも何でもないのにマエストロが精神生活の一部、人生の一部になってしまっていたことには変わりがない。私の年代の人にはそういう人が多いはずだ。「さようならマエストロ。いつまでも忘れない。本当にありがとう」で済ますことができないのである。いわば自分の精神生活の一部が死んでしまったからだ。CDがあるから曲を聴いて偲ぼうとかそういうレベルではない。「この曲を作った人が私と一緒の世界で生活している」という感覚で子供の頃から何十年もやってきた。「もうこの人はこの世にいないのだ」、急にそういう転換ができない。これを受け入れられるまでにまだ相当かかる。そういう(やや年をとった)人が少なくともルクセンブルクやアイスランドの総人口よりは数がいると私は思っている。

 その日スーパーに買い物に行ったとき、時々イタリア語を話しているのを聞いていた店員さんを見かけた。どうしても黙っていられなくなって「すみません。イタリアからいらっしゃったんですか?」と確認をとったらそうだというので、「作曲家のエンニオ・モリコーネを御存じでですか」と聞いてみた。すると即通じて「ああ、亡くなってしまいましたね。本当に残念です」と返ってきた。さらに向こうのほうがこんな東洋人のおばさんがエンニオ・モリコーネを知っていることに驚いた風で、「氏を御存じなんですか」と聞いてきた。知っているも何も、私がこうやってヨーロッパに居ついてしまった一因が氏のサウンドトラックである。私の他にも、というより私なんかまったく敵わないような筋金入りのファンが東洋の小国日本にはたくさんいるのだ。
 その次の日、今度はイタリアの知人からメールが来た。本件の用事はまったく別のことだったが、追伸で「モリコーネが亡くなったことを聞きましたか?」といってきた。肝心の本件は無視して「全く意気消沈しています」とすぐ返信した。
 
 そうやって人と話をしたり、ネットや新聞で追悼記事を読んだりしているうちに徐々にではあるが、氏が死去したという事実を受け入れられるようになってきた。しかしそうなってくると心に穴を開けられて動転し無感覚だったのが、だんだん悲しく寂しくなってきた。麻酔が解けて感覚が戻ってきたためだんだん痛くなってくる、あの感じである。しかも感覚が戻ってきたらショックのため忘れていたことを思い出してしまった。この文章の最初の最初に述べたアストゥリアス皇太子賞である。この賞の授与式は10月の終わりに行われるのだ。モリコーネの誕生日の直前である。6月に受賞が決まったとき担当者が打診したところ、モリコーネからは「歳で旅行するのはきついができるだけ式には出席するようにするから」という答えが返ってきていたそうだ。92歳の誕生日プレゼントになっていたはずなのに。授賞式には誰が行くのだろう。本当に残念で悔しくてならない。「事実を受け入れられない」がまたぶり返してしまった。

 マエストロの名前はラテン文学を確立したローマの詩人クイントゥス・エンニウスにちなんだのだろうが、芸術・文化界へに与えた影響は元祖のエンニウスに勝るとも劣るまい。まさにマエストロにふさわしい名前ではないだろうか。

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以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによってはグチャグチャになるので、図表を画像に変更していっています。誤打(あるある!)の訂正や文章の見直しもしています。米国で昔「インディアン」と言っていたのを今はそうせず「ネイティブ・アメリカン」と呼ぶのと似て「ジプシー」という言葉は今は使いません。「ロマ」と言います。

内容はこの記事と同じです。

 何年か前にこちらで結構大騒ぎになったニュースがある。ギリシアのロマ居住区で両親とは全く似ていない金髪の少女がみつかったため、親だと自称するロマ夫婦にほとんど自動的に「誘拐・人身売買の手先」の疑いがかかり、少女は保護された、という事件である。
 そのロマ夫婦は最初から、知り合いのブルガリアのロマが、産んだはいいが経済的に自分達では育てられないからと言ってこちらに預けてきたのだ、と主張し続けていたが、当局はそれを信用せず、行方不明となっている子供のリストなどを大掛かりに検索して徹底的に調査した。しかしそのロマの夫婦があっさりと「そんなに疑うのだったらその預け元のブルガリアの知り合いの携帯番号があるからそっちにあたってくれ」と主張するので、調べたらそのロマは始めから本当のことを言っていたのである。
 この事件で心ある人の議論になっていたのは、ロマとみると誘拐の犯罪のとすぐ連想するヨーロッパ社会の暗部であった。ギリシアにもロマ出身の政治家がいて(私の知る限りでは1990年代にスペイン国籍のロマのEU議員がいたし、現在でもハンガリー国籍のEU議員がいる)、真っ先にそのことを問題にしていた。
 期を同じくしてアイルランドでもロマの家庭に金髪の少女がいるのが見つかり、当局はその少女を保護したが、DNA鑑定をしてみたら本当にそのロマの子供だったのだ。そのロマはきちんと社会に溶け込んで仕事もしている普通の市民だった。

ヨーロッパ社会もまだまだだ。

 ロマの言語を「ロマニ語」というが、この「ロマニ」(romani)というのは「ロマの」という形容詞の単数女性主格である。なぜかというとこれはもともと romani čhib(「ロマの言語」)という言葉からとったもので、čhib というのが「言語」という意味の女性名詞なので、それに呼応して形容詞のほうも女性単数になっているからである。この形容詞の男性形は romano で、男性名詞 kher(「家」)にかかると romano kher(「ロマの家」)。私の家の近くに州のロマの本部、というか文化・情報センターがあるが、ここの名称が romano kher となっている。
 そのロマニ語の話者はヨーロッパ全体で推定1000万人という。リトアニア語・スウェーデン語など下手な国家言語より規模の大きい大言語である。もっともこの1000万というのがあまり正確な数字ではない。ロマニ語がもう話せなくなっているロマがいる一方でロマ出身ということを隠しておきたいがために実はロマニ語を話せるのに話せないことにしている人などもいて正確な統計が出せないからだ。しかしこの1000万と言う数字が本当ならばロマニ語はカタロニア語を抜いてヨーロッパ最大の少数言語ということになる。以前は最大の少数言語はカタロニア語だったが、ルーマニア・ブルガリア始めバルカン諸国がEUに加わったためロマニ語話者の人口が一気に増大し、カタロニア語はその地位を奪われたわけだ。

 本などにはいたるところに「ロマは北インド起源」と書いてある。でもそれを証明する歴史的文献などは存在しない。彼らがインド起源であるというのは純粋に比較言語学上で証明されたものだ。19世紀にヨーロッパで比較言語学が発展してすぐに関心をロマニ語に向けた学者もいた。バルカン言語学で有名なミクロシッチもその一人であるが、この人の名前は教科書などには普通フランツ・ミクロシッチと書いてある。が、彼はスロベニア人であって、当時そこがオーストリア領であったため本来「フラーニョ」という名前をドイツ語風にして名乗っていたのだ(『36.007・ロシアより愛をこめて』の項参照)。ついでに言うと例のイヴ・モンタンもトリエステ生まれで、スラブ系の「イヴォ」が本名である。
 話が逸れたが、そのミクロシッチ、サンドフェルド(本国デンマーク語ではサンフェルというのだろうか)などの当時の大言語学者達が印欧諸語に対する膨大な知識を駆使して来る日も来る日も詳細に比較していった結果ロマニ語の起源がわかったのだ。
 ロマは元の元の大元は中部インドにいたものが、一旦北インドに移住してそこにしばらく住み、9世紀ごろにアルメニアとかあそこら辺のルートを通って、遅くとも11世紀にはビザンチンに入り、そこでタップリギリシャ語の影響を受けた後、14世紀ごろにヨーロッパ各地に散り始めたというが、本にはしごくあっさり書いてあるそういうことも歴史文献などに出ていたのではなく、すべて比較言語学で理論上出された結果である。例えばロマニ語にはアラビア語起源の借用語が非常に少ない、ということから民族移動のルートがアラビア語の話されている地域とあまり接触しない北の方を通った、と推定されるのだ。
 ドイツには15世紀からロマが住んでいたらしい。ドイツにロマが住んでいたことを述べている最初の文献は1408年にヒルデスハイムという町で書かれた文書だそうだ。

 以下にインド・イラニアン語派の言語とロマニ語で1から10までと100をなんというか挙げてみたが、互いによく似ている。「ドマリ語」というのは中近東に住んでいる同民族の言語である。
Tabelle1-50
(ここでxというのはあくまで [x]、つまり軟口蓋で出す摩擦音のことで「クス」とか「エックス」ではない)

 しかし実は別にミクロシッチほどの専門家でない、私のような素人目にもロマニ語はインドあたりの起源なのではないかと薄々感じることができる。この言語は音韻上、無気音と帯気音を弁別するからだ。これらは今のヨーロッパ内の印欧語ではアロフォンだ。帯気音は子音の後ろに h をつけて表すが例えばロマニ語には次のようなミニマル・ペアがある。
Tabelle2-50
また日本の印欧語学者泉井久之助氏は

Dadeske hi newi gili

というロマニ語の例を挙げているが、dadeske は「父」の与格、hi が英語の is、newi が「新しい」、gili が「歌」で、「父には新しい歌がある」。だからロマニ語は『42.「いる」か「持つ」か』の項で述べたようないわゆるbe言語なのである。

 さらに、件のギリシャのロマ夫婦の知り合いがブルガリアのロマだった、ということも考えてみると含蓄がある。ギリシアとブルガリアのロマはいわゆる「バルカングループ」という方言グループを形成しているから、ギリシャとブルガリアのロマは話が通じたのだろう。ルーマニア、セルビアのロマとなると「ヴラフ・ロマ」という別の方言グループに属しているから、相互理解はそれほどすんなり行かなかったのではないだろうか。ハンガリーと一部のオーストリアのロマは「中央グループ」という方言、ドイツのシンティ、フランスのマヌシュは「北方言群」に属すそうだ。

 ことほど左様な大言語なのに、その割にはロマニ語学習者が少ない、というか「ほとんどいない」のには原因がある。一つは上でも述べたように「方言差が大きく、中心となる言語ヴァリアントがない」ことがロマニ語の保護、特に文書化を妨げているからだ。特に強力な中央方言がないためにラテン文字で書くにしてもドイツ語風にするのかフランス語読みにするのか、クロアチア語表記で書くのか統一することができない。語彙や文法でも差が激しいので「ロマニ語文法」として一つにまとめるのが非常に難しい。さらにドイツのシンティなどは文書化・文法書の発刊そのものに反対している(下記参照)。
 理由の二つ目はロマニ語を話す人々に対する偏見。事実ナチの時代にはロマは「劣等民族」として虐殺された。
 三つ目の理由は、ロマ自身がその言語を外部のものに教えたがらないからだ。当然だ。何世紀もの間、周り中から敵意ある目で見られ(その被抑圧ぶりはユダヤ人の比ではない)、あろうことか組織的に虐殺されたりしたら、絶対に周りに対してオープンになどなれない。ナチスの時代には「言語調査」と称してロマのところへやってきて、収容所送りにする下準備したりした御用学者もいたそうだから。
 私自身一度どこかのネットサイトでシンティ、つまりドイツのロマが「ロマニ語を教わりたい」というドイツ人の書き込みに対して「やめてくれよ。ロマはよそ者に言語を漏らしたりしないよ。言語は私たちが誰からも奪われることがなかった唯一のものなんだ。」とレスしているのを目撃したことがある。もっともそれに対して別のロマが「そういう心の狭いことを言うからいつまでも差別されるんだ」と反論していたが。

 そういった事情にもかかわらず、ロマニ語の文法書なども細々と出てはいる。多くはドイツのロマニ語ではなく、抑圧経験がそれほど強烈ではなかったため、比較的オープンなカルデラシュというセルビアのロマグループの言語を基礎にしたものだそうだ。
 その文法書などにも、そして他の研究書などにも「ロマは『あまりにも理解できる理由によって』自分達の言語が記述されることには否定的である」と書かれている。この『あまりにも理解できる理由によって』という言い方に、こんなに魅力的な研究対象に対して手を出すことが許されない、しかもそれは自分達のせいなのだ、というヨーロッパの言語学者の自責の念をヒシヒシと感じるのだが。うめき声が聞こえてくるようだ。

 私は「語学をやる」というのは基本的にこういうこと、相手の最も繊細な部分に土足で突っ込んでいくことだと思っている。だから手軽な学習書を買い集め、「こんにちは」とか「さようなら」とかしゃべって見せて外国人に通じたと言って悦に入る、すぐに「○○語が出来ます」とかエラそうに言い出す、こういうチャライ態度にはちょっと抵抗を感じる。


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 1970年代に入るとマカロニウエスタンは完全に衰退期に入っていた。本来ジャンルのウリであった「残酷描写・復讐劇」ではやっていけなくなっていたのだ。そりゃそうだろう。キャラもストーリーもあれだけワンパターンな映画が1964年(『荒野の用心棒』が出た年)から5年以上もぶっ続けに大量生産されていったらさすがに飽きる。このマンネリ打開策には『173.後出しコメディ』でも書いたが3つほどパターンがあった。一つは残酷描写をさらに強化したサイコパス路線で観客をアッと言わせる作戦(本当の意味では「打開」と言えないが)。2つ目が真面目な社会派路線で、メキシコ革命などをモチーフにした。最後がコメディ路線で本体の暴力描写を放棄するやり方である。最初の二つはすでに最盛期にその萌芽が見える。フルチなど後にジャッロに進む監督が早い時期にすでにマカロニウエスタンを撮っているし、ソリーマなど第一作からすでにメキシコ革命は主題だ。ヴァレリもケネディ暗殺という政治的なテーマを扱っている。またそもそもレオーネやコルブッチでクラウス・キンスキーの演じたキャラはサイコパス以外の何物でもない。
 これらに対して喜劇路線は出現がやや遅く、やっとジャンルが本来の姿、血まみれ暴力路線で存続するのが困難になってきた70年代に入ってからだ。代表的なのがエンツォ・バルボーニの「風来坊シリーズ」で、遠のきかけていた客足をジャンルに引っ張り込んだ。オースティン・フィッシャー Austin Fisher という人が挙げているマカロニウエスタンの収益リストがあって、100位まで作品名が載っているが、それによると最も稼いだマカロニウエスタンというのは用心棒でもガンマンでもなく風来坊である。ちょっと主だったものを見てみよう。タイトルはイタリア語原語でのっていたが邦題にした。邦題がどうしてもわからなかったもののみもとのイタリア語にしてある。またフィッシャーは監督名を載せていないのでここでは色分けした。赤がバルボーニ、青がレオーネ、緑がジュゼッペ・コリッツィ(下記)である。
Tabelle-208
目を疑うような作品が15位に浮上しているのが驚きだが、とにかくバルボーニが次点のレオーネに大きく水をあけて一位になっているのがわかる。日本とは完全に「マカロニウエスタン作品の重点」が違っている感じだが、違っているのは日本の感覚からばかりではない。ヨーロッパでの現在の感覚からもやや乖離している。今のDVDの発売状況や知名度から推すと『続・荒野の用心棒』の収益順位がこんなに低いのは嘘だろ?!という感じ。また『殺しが静かにやって来る』が登場しないのも理解の埒外。だからこのリストが即ち人気映画のリストにはならないのだが、それでもバルボーニ映画がトップと言うのは結構ヨーロッパの生活感覚(?)にマッチしている。こちらではマカロニウエスタンと聞いて真っ先に思い浮かんでくるのはバッド・スペンサーとテレンス・ヒルで、イーストウッドなんかにはとても太刀打ちできない人気を誇っているのだ。いまだにTVで繰り返し放映され、家族単位で愛され、子供たちに真似されているのはジャンゴやポンチョよりスペンサーのドツキなのである。
 さる町の市営プールが「バッド・スペンサー・プール」と名付けられたことについては述べたが(『79.カルロ・ペデルソーリのこと』参照)、つい先日もスーパーマーケットでスペンサーをロゴに使ったソーセージを見つけた。二種類あって一つはベーコン&チーズ風味、もう一つはクラコフのハム味だそうだ。私は薄情にも買わなかったので味はわからないが、スペンサーの人気が衰えていないことに驚く。これに対し、例えば棺桶ロゴ、ポンチョロゴのポテトチップとかは見かけたことがない。

バッド・スペンサーマークのソーセージをどうぞ。https://www.budterence.de/bud-spencer-lebt-weiter-neue-rostbratwurst-und-krakauerから
bud-spencer-rostbratwurst

 この監督バルボーニについてはすでに何回もふれているが、ちょっとまとめの意味でもう一度見てみたい。

 既述のようにバルボーニはカメラマン出身だ。セルジオ・コルブッチがそもそもまだサンダル映画を作っていた頃からいっしょに仕事をしていて、『続・荒野の用心棒』ばかりでなくコルブッチが1963年、レオーネより先に撮った最初のマカロニウエスタン『グランド・キャニオンの虐殺』Massacro al Grande Canyon もバルボーニのカメラだった。つまりある意味マカロニウエスタン一番乗りなのだが、実は「一番乗り」どころではない、ジャンルの誕生をプッシュしたのがそもそもバルボーニであったらしい。インタビューでバルボーニがこんな話をしている。

当時カメラ監督やってたときね、撮影の同僚といっしょに映画館で黒澤明の『用心棒』(1960)を見たんですよ。二人とも非常に感銘を受けてね、その後セルジオ・レオーネに会ったとき信じられないくらい美しい映画だからって言ったんですよ。で、冗談でこのストーリーで西部劇が作れるんじゃないかとも。それだけ。けれどレオーネは本当にその映画を見に行って一年後に『荒野の用心棒』としてそのアイデアを実現させましたね。

ここでバルボーニ自身がメガフォンを握っていたら映画の歴史は変わったかもしれないが、その時点では氏はまだ監督ではなかった。とにかくコルブッチ以外の監督の下でも西部劇を撮り続け、1969年にイタロ・ジンガレッリ Italo Zingarelli の『5人の軍隊』も担当した。これは丹波哲郎が出るので有名だが、他にも脚本はダリオ・アルジェント、音楽モリコーネ、バッド・スペンサーも出演する割と豪華なメンバーの作品だ。製作もジンガレッリが兼ねていたが、このジンガレッリは風来坊の第一作を推した人である。

 大ブレークした『風来坊/花と夕日とライフルと…』(1970)はバルボーニの監督第二作で、第一作は Ciakmull - L'uomo della vendetta という作品だが、一生懸命検索しても邦題が見つからなかった。ということは日本では劇場未公開なのか?だとしたらちょっと意外だ。確かにバカ当たりはしなかったようだが(興行成績リストにも出ていない)、音楽はリズ・オルトラーニだし、スターのウッディ・ストロード、カルト俳優ジョージ・イーストマンが出る結構面白い正統派のマカロニウエスタンだからである。タイトルは「チャックムル - 復讐の男」で、チャックムルというのがレオナード・マンが演じる主人公の名前だが、気の毒にドイツではこれが脈絡もなくジャンゴになっている(『52.ジャンゴという名前』参照)。

 Ciakmull のドイツ語タイトル。勝手にジャンゴ映画にするな!
chiakmull-deutch
主役のレオナード・マン。しかしまあこういう格好をしていればジャンゴにされるのも致し方ないかも…
Leonardo-Mann
 さる町で銀行強盗団が金の輸送を襲う際、護衛の目を逸らすために刑務所に火をつける。ここには犯罪者だけでなく精神病患者も収容されていて、その一人が記憶を失い自分が誰だかわからなくなっていた男であった(これが主人公)。主人公と同時に3人脱獄するのだが、そのうちの一人が主人公が来た町の名を小耳に挟んでいて、さらに強盗団のボスもその町の者であることがわかり、他の3人はその金を奪うため、主人公は(金はどうでもよく)自分の記憶を取り戻すため、一緒にその町に向かう。
 目ざす町ではボスの一家と主人公の家族が敵対関係にあって、詳細は省くが最終的に仲間の3人はボスの一家に殺され、生き残った主人公(徐々に記憶も蘇る)がボスと対決して殺す。しかし実は主人公の弟こそ、主人公の記憶喪失の原因を作った犯人であることがわかる。この弟に主人公は殺されかけ、生き残ったがショックで記憶を失ったのだ。兄のほうが父に可愛がられるのでやっかんでいたのと、実は兄は父の実子ではなく、母親が暴漢に強姦されてできた子だったのだが、妻を愛していた父は我が子のように可愛がってきたのだった。結局主人公はこの弟も殺し(正当防衛)、実の親でないと分かった父を残して去っていく。『野獣暁に死す』と『ガンマン無頼』と『真昼の用心棒』と『荒野の用心棒』を混ぜて4で割ったような典型的マカロニウエスタンのストーリーである。
 上述のインタビューによると、バルボーニはジャンル全盛期にカメラマンをやっていた時からすでに金と復讐というワンパターンなモチーフに食傷しており、ユーモアを取り入れたほうがいいんじゃないかと常々思っていたそうだ。それで監督の機会が与えられた時、プロデューサーにそういったのだが、プロデューサーは「観客は暴力を見たがっているんだ」と首を縦に振らなかった。結果として Ciakmull は陰鬱な復讐劇になっている。

 しかし次の『風来坊/花と夕日とライフルと…』ではコミカル路線を押し通した。書いてもらった脚本をジンガレッリのところに持ち込むと「そのうち見ておくから時間をくれ」との答えだったが、バルボーニが家に帰るや否や電話をよこして「撮るぞこれ!主役は誰にする?!」と聞いて来たそうだ。そこでテレンス・ヒルとバッド・スペンサーがいいといった。上のリストを見てもわかるようにジュゼッペ・コリッツィの作品は結構当たっていたからそれを見てスペンサー&ヒルのコンビすでに目をつけていたのだろう。ジンガレッリは速攻で脚本を二人に送り、バルボーニはその日の21時にまた事務所に呼び戻されて詳細面談。次の日から製作がスタートしたそうだ。
 この作品ではストーリーから「復讐」「暴力」というテーマが抜けている:テレンス・ヒルとバッド・スペンサーは兄弟で、それぞれ好き勝手に別のところで暮らしていたが、あるときある町でかち合ってしまう。スペンサーは馬泥棒を計画していてその町の保安官に化けて仲間と待ち合わせしていた矢先だったから、ヒルの出現をウザがるが結局一緒に働こう(要は泥棒じゃん)ということになる。その町にはモルモン教徒の居住地があったが、やはりこれも町の牧場主がそこの土地を欲しがってモルモン教徒を追い出そうとさかんに嫌味攻勢をかけている。しかしヒルがそこの2人の娘を見染めてしまいスペンサーもこちらに加勢して牧場主と対決(殴り合い)する羽目になる。
 ヒルはモルモン教徒の仲間に入って2人の娘と結婚しようとまでするが(モルモン教徒は一夫多妻です)、彼らが厳しい労働の日々を送っていることを知ってビビり、去っていくスペンサーを追ってラクチンなホニャララ生活を続けていくほうを選ぶ。
 ストーリーばかりでなく絵そのものも出血シーンもなく銃撃戦の代わりにゲンコツによる乱闘。それもまるでダンスみたいな動きで全然暴力的でない。これなら子供連れでも安心して観賞できるだろう。

『風来坊/花と夕日とライフルと…』はお笑い路線
Emiliano-Trinita-I
 とにかく chiakmull と『風来坊/花と夕日とライフルと…』は製作年がほとんど同じなのにこれが同じ監督の作品かと思うほど雰囲気が違っている。それでもよく見ると共通点があるのだ。その一つが主人公たちがポーク・ビーンズ(ベーコン・ビーンズ?)をほおばるシーンで、『風来坊/花と夕日とライフルと…』でもテレンス・ヒルがやはりポーク・ビーンズをがつがつ平らげるし、『風来坊 II/ザ・アウトロー』はスペンサーが豆を食べるシーンから始まる(その直後にテレンス・ヒルもやってきてやはり豆を食う)。以来この「豆食い」がスペンサー&ヒルのトレードマークになったことを考えると chiakmull ですでに後のバルボーニ路線の萌芽が見えるといっていいだろう。

レオナード・マン(後ろ姿)演ずるチャックムルたちの豆食い
Chiakmull-Bohnen
『風来坊/花と夕日とライフルと…』ではテレンス・ヒルが豆を食う。
Trinita-I-Bohnen
『風来坊 II/ザ・アウトロー』でも冒頭でスペンサーが豆を食う。
Trinita-II-Bohnen
 もう一つはお笑い路線とは関係がないが、銃撃戦あるいは決闘のシーンのコマ割りである。 chiakmull では強盗団のボスが奪った金を腹心の仲間だけで独占しようとしてその他の配下の者を皆殺しにするのだが、その銃撃戦の流れの最中にバキバキとピストルのどアップ画面が挿入される。こういう時銃口を大きく写すのはよくあるが、ここではそうではなくて銃を横から見た絵、撃鉄やシリンダーがカシャリと動く絵が入るのである。Chiakmull のこの場面は戦闘シーンそのものの方もカメラというか編集というかがとてもシャープでずっと印象に残っていた。調べてみたら Chiakmull で編集を担当したのはエウジェニオ・アラビーソ Eugenio Alabiso という人で『夕陽のガンマン』や『続・夕陽のガンマン』も編集したヴェテランだった。
 この「銃を横から写したアップの挿入」というシーケンスは『風来坊/花と夕日とライフルと…』でも使われている。スペンサーのインチキ保安官にイチャモンをつけて来たチンピラがあっさりやられる場面だが、その短い撃ち合いの画面にやはりピストルの絵が入るのだ。Chiakmull と『風来坊/花と夕日とライフルと…』ではカメラも編集も違う人だからこれは監督バルボーニの趣味なのではないだろうか。

Chiakmull の銃撃戦。普通の(?)の画面の流れに…
Chiakmull-Schiessen-1
バキッとピストルのアップが入り…
Chiakmull-Gun-1
Chiakmull-Gun-2
その後戦闘シーンに戻る。
Chiakmull-Schiessen-2
するともう一度今度は逆向きに銃身のアップ
Chiakmull-Gun-3
Chiakmull-Gun-4
すぐ再び戦闘シーンに戻る。
Chiakmull-Schiessen-3

『風来坊/花と夕日とライフルと…』では「抜け!」と決闘を挑んだチンピラがスペンサーに…
Trinita-I-spencer
Trinita-Gun-1
Trinita-Gun-2
Trinita-Gun-3
撃ち殺される。
Trinita-Schiessen
 さて、お笑い2作目『風来坊 II/ザ・アウトロー』は上記のように1作目以上にヒットした。ここではスペンサー・ヒル兄弟が瀕死の(実はそう演技してるだけ)父の頼みで、兄弟いがみ合わずに協力して立派な泥棒になれと言われ、努力はするがどうも上手く行かない。勝手に政府の諜報員と間違われてドタバタする話である。売春婦だという兄弟の母親が顔を出す。確かにまああまり上品ではないが陽気で気のよさそうなおばちゃんだ。
Trinita-II-Mama
 3作目『自転車紳士西部を行く』はテレンス・ヒルだけで撮ったコメディで、アメリカで死んだ父の土地を相続しにやって来た英国貴族の息子を、父の遺言によってその友人たち(西部の荒くれ男)が鍛えてやる話だ。その息子がテレンス・ヒルだが、詩を詠みエチケットも備えた、要するに粗野でもマッチョでもない好青年で文明の利器、自転車を乗り回している。この作品は製作が1972年だから、例の『ミスター・ノーボディ』の直前である。テレンス・ヒルを単独で使ってコメディにするというアイデアはバルボーニから来ているのかもしれない。なおこの映画では英国紳士のテレンス・ヒルがやっぱり豆を食う。

自転車をみて驚く西部の馬。
Trinita-III-Fahrrad
英国貴族(テレンス・ヒル)もやっぱり豆を食う。
Trinita-III-Bohnen
 『風来坊』のヒットによってバルボーニはすでに死に体であったジャンルに息を吹き込んだ。バルボーニのこのカンフル剤がなかったらマカロニウエスタンは70年代半ばまでは持たなかったはずだ。『自転車紳士西部を行く』がなかったら最後のマカロニウエスタンとよく呼ばれる『ミスター・ノーボディ』も製作されていなかったかもしれない。
 しかしカンフル剤はあくまでカンフル剤であって、病気そのものを治すことはできず、70年代後半には結局衰退してしまった。バルボーニはマカロニウエスタンが消滅した後もスペンサー&ヒルでドタバタB級喜劇(西部劇ではない)を作り、未だに「バッド・スペンサー・コレクション」などと称してソフトが出回っている。でもマカロニウエスタンが暴力のワンパターンに陥ったのと同様、今度はこのドツキがマンネリ化してしまった。バルボーニ自身それがわかっていたようで「制作者はちょっと映画がヒットするとまたこういうのを作ってくれとすぐいいやがる。想像力ってもんがないんだな」とボヤいている。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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