アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:語学 > ロシア語

 私は昔から「文学」というものが苦手だった(「嫌い」というのとは全然違う、念のため)。文学論・評論の類は書いてあることがまったく理解できない、詩は全然意味がとれない、高校生でも読んでいる日本の有名作家など実は名前さえ知らないことが多かった。
 1965年にノーベル文学賞をとったソ連の作家ミハイル・ショーロホフの短編『他人の血』は、その文学音痴の私が何回となく読んだ数少ない文学作品の一つだ。 一人息子を赤軍に殺されたコサックの農夫が瀕死の重傷を負った若い赤軍兵士(つまり本来敵側の兵士)の命を助け、彼を死んだ息子の代わりにいとおしむようになるが、結局兵士はもと来た所に帰って行かねばならない、という話である。
 以下はまだ意識を取り戻さない兵士を老コサックのガヴリーラがベッドの脇で見守るシーン。昭和35年(51年に第36版が出ている)に角川文庫から発行された『人間の運命・他4篇』からとったもの。「漆原隆子・米川正夫訳」となっているが実際に訳したのは漆原氏だということだ。

 『東風がドンの沿岸から吹き寄せて、黒くなった空を濁らせ、村の上空に低く冷たい黒雲を敷く長い冬の夜々、ガヴリーラは負傷者の横に坐り、頭を両の手にもたせて、彼がうわ言をいい、聞きなれぬ北方の発音で、とりとめもなく何事か物語るのに、聴きいるのだった。』

 次は兵士が去っていくラスト・シーン。

『「帰って来いよう!....」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。 「帰っちゃ来まい!....」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。 最後に、懐かしい薄あま色の頭が、曲がり角のはずれでちらりと見えた。』

 私がこれを読んだのは中学生か高校生になりたての頃だったと思うが、ずっと心に残っていてその後20年くらいたってから、原典をドイツのM大学で見つけた。せっかくだからここで引用するが、上の部分は原語ではそれぞれ以下の通りだ。

『В длинные зимние ночи,когда восточный ветер, налетая с Обдонья, мутил почерневшее небо и низко над станицей стлал холодные тучи, сиживал Гаврила возле раненого, уронив голову на руки, вслушиваясь, как бредил тот, незнакомым окающим говорком несвязно о чем-то рассказывая;』

『-Ворочайся! - цепляясь за арбу, кричал Гаврила. -Не вернется!... - рыдало в груди невыплаканное слово. В последний раз мелькнула за поворотом родная белокурая голова, (...)』

美しいロシア語だ。中でも特に二ヶ所、触れずにはいられない部分がある。翻訳者の鋭敏な言語感覚が現れているところだ。

 まず『聞きなれぬ北方の発音で』の原語はнезнакомым окающим говорком。これは直訳すれば「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音される聞きなれない方言で」。ロシア語をやった者ならすぐ通じると思うが、標準ロシア語では母音oがアクセントのない位置に来た場合「お」でなく軽い「あ」と発音される。テキストにoと書いてあってもaと読まなければいけない。ベラルーシ語だとアクセントのないoは正書法でも発音通りaと書くが、ロシア語は違う。これをそのままoと読むのは非標準語の方言である。この、アクセントのないoを「お」と発音する地域と「あ」と発音する地域の境界線はだいたいモスクワのすぐ北あたりを東西に走っている。つまりモスクワ以北は基本的にo方言ということだ。この短編の主人公はロシア南部のドン・コサックだから完全にa方言区域、oはそれこそ聞いたこともない方言だったに違いない。

 しかしこれをそのまま馬鹿正直に「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音されて」などと訳していたら文学性が消えてしまう。ロシア語の言語地理学を専攻にしている人などは喜ぶかも知れないが、普通の読者はワケがわからず、その場で本を投げているのだろう。「北方の方言」、本当にセンスのいい翻訳だと思う。
 ちなみにロシア語の先生から聞いた話によると、エカテリーナ二世の時代から毛皮などを求めてシベリアに渡っていったロシア人にはこのo方言の話者が多かったそうだ。そういえば『北嵯聞略』にも記録されているようだが、例の大黒屋光太夫がカムチャットカで「鍋」というロシア語котёлを「コチョウ」と聞き取っている。しかしこの単語のアクセントはёにある、つまりoにはアクセントがないからこれは本来「カチョウ」または「カチョール」と聞こえるはずだ。してみるとここで光太夫が会ったロシア人もこの「北方のo方言」の話者だったのかもしれない。

 もう一点。『薄あま色』という表現はбелокурая(ベラクーラヤ)の訳。これは普通に訳せば「金髪・ブロンド」だ。でも「金髪」とか「ブロンド」という言葉はちょっとチャラい感じでハリウッドのセクシー女優などにはちょうどいいかもしれないが、革命に燃える若き赤軍兵士にはどうもピッタリ来ない。男性ばかりでなく、赤軍兵士が女性であっても使いにくいだろう。「薄あま色」とやれば軽さは消えて、孤児として育ち瀕死の重傷を負ってもまだ理想を捨てない若者の髪の色を形容するのにふさわしくなる。逆に(名前を出して悪いが)マリリン・モンローやパメラ・アンダーソンにはこの「薄あま色」という言葉は使えないと思うがいかがだろうか?


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 SF作家アイザック・アシモフの本で私が一番好きなのが実は自伝だ。肝心のSFの方は、『我はロボット』はさすがに小学生の頃(一回だけ)読んだが『銀河帝国の興亡』も『夜来たる』もまだ読んでいない。なのでとても「アシモフの読者です」とはいえないが、自伝だけは繰り返し読んだ。アシモフ博士をロール・モデルとして勝手に尊敬しているのだが、私なんかに尊敬されて博士も相当迷惑していたのでなかろうか。
 それにしてもアシモフ氏と私と比べてみると(比べること自体が侮辱かもしれないが)愕然とする。これでも同じ人類なのか。

1.博士は米国徴兵検査で計ったとき、知能指数が167とかあっていっしょに検査を受けた者の中では全米一だったそうだが、私はいつだったか就職試験で知能検査のようなものをされたとき、試験を受けた200人以上のなかで(人事部の人曰く)「文句なく最低点」を取ってしまったという折り紙つきの頭の悪さだ。

2.博士はボストン大学医学部教授と作家の二つの職業を両立しつづけ、世界人名事典などにも名前が載っているセレブだが、私の名などせいぜい高校・大学の卒業者名簿の隅のまた隅にしか載っていない。しかもその名簿も会費を払わずにいるため私の手元には届かない。

3.博士は若くして化学の博士号を取ったが、私は高校の授業で「アルファケトグルタル酸」という名前がおかしくて笑いの発作を起こし、化学の先生にどやされた大馬鹿だ。中学の時はメスシリンダーという器具の名前を教わり、さっそく「オスシリンダー」とギャグを飛ばそうと思ったら、理科の先生に「この器具の名前を言うと毎年必ず「オスシリンダー」と突っ込んで来る人がいますが、その駄ジャレはとっくに古くなってますからもうやめなさいね」と先手を打って牽制されてしまった。駄ジャレの先を越されるとさすがに見苦しい。

 こうやって比べていると、私などうっかりすると「人類の出来損ない」あるいは「害虫」として間引き・駆除されてしまいそうな案配だが、でも私を駆除するのはちょっと待ってほしい。たった一つ、ほんとうにたった一つだけ私のほうがアシモフ大博士に勝っている部分があるのだ。 それはロシア語動詞アスペクトだ。

 アシモフ氏はロシア(当時のロシアは現在のウクライナもベラルーシも含んでいた)生まれだが、3歳のときアメリカに移住したのでロシア語は出来なかった。ご両親の母語もロシア語でなくイディッシュ語だったそうだ。アシモフ氏自身はイディッシュ語・英語のバイリンガルだが、妹と弟はもう英語だけのモノリンガルだったという。家族の中で母語が変遷してしまった。この辺の話もとても興味深いが、とにかくアシモフ氏は大人になってからロシア語をやろうとして文法書を買ったと自伝にある。
 名詞の変化・動詞の活用を息も絶え絶えでクリアし、11章の「動詞アスペクト」まで来た時点でついに堪忍袋の尾が切れ、本を壁に叩き付けてロシア語を止めてしまったとのことだ。

 ロシア語は英語やドイツ語のように「行く」ならgoあるいはgehenと覚えればいいというものではない。はしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアをなしていて、「行く」ならgo-1とgo-2の二つの動詞を覚えないといけない。1と2は使い方が決まっていて、同じgoでも1と2を間違えると文の意味が全然違って来てしまう。おまけに1と2は形に決まりがない、つまりどちらか一方を覚えればそこから自動的に他方を派生できるというワザが効かないので、闇雲に覚えるしかないのだ。例として次のようなペアを挙げてみる。それぞれ左が1、右が2だ。不定形が示してあるが、英語では一つの動詞ですむところがロシア語では動詞がそれぞれ二つあること、またその二つの動詞の形には一定の決まりがないことが見て取れるだろう。

записывать - записать (登録する)
кончать – кончить (終える)
махать – махнуть (振る)
говорить – сказать (話す)
делать – сделать (する)
читать – прочитать (読む)
писать – написать (書く)
идти – пойти (歩く)
избегать – избежать (避ける・逃れる)

ここでアシモフ氏は本を投げたが、私はまさにこのアスペクトという文法カテゴリーに魅せられて、それまで名詞や動詞の変化形が覚えられずにいいかげんもう止めようかと思ってたロシア語を続ける気になったのだった。

 ちなみにどの動詞をもってペアとなすかというのには決まりというか基準があって、ある過去形の文をいわゆる歴史的現在(presens historicum)に変換したとき使われる動詞同士(これは別にわざと駄ジャレを言っているのではない)をアスペクトのペアとみなすことになっている。歴史的現在とは過去の出来事を生き生きと描写するテクだが、この基準を提唱したのは私の記憶によればマースロフという言語学者だ。
 
 それは具体的に言うとこういうことだ。まず英語だが、普通の言い方と歴史的現在とでは次のように同じ動詞の現在形と過去形を使う。

And then Spartacus turned to the south and after three days arrived in Syracuse.
→ それからスパルタクスは南に向かい、三日後にシラクサに到達した。

And then Spartacus turns to the south and after three days arrives in Syracuse.
→ それからスパルタクスは南に向かい、三日後にシラクサに到達する。
(歴史的現在)

 しかしロシア語だと、英語でturned, turns あるいはarrived, arrivesと同じ動詞が使われる部分で、それぞれ違う動詞が使われる。上の英語をロシア語で表すとそれぞれ次のようになる。太字の語を注目。

И тогда Спартак повернул на юг и за три дня добрался до Сиракуз.

И тогда Спартак поворачивает на юг и за три дня добирается до Сиракуз.
(歴史的現在)

повернул поворачивает がそれぞれいわばturn-2とturn-1、добралсядобирается がarrive-2とarrive-1に当たり、ペアをなしている。2の動詞はどちらも過去形、1のほうはどちらも現在形だ。上の表の動詞もそうだが、2のグループの動詞をロシア語文法では「完了体動詞」、1を「不完了体動詞」と呼んでいる。
 つまりこれらペアは活用などによって一方から他方が作られるのではなくて動詞そのものが違い、両方がまたそれぞれ独自に活用するのだ。 例えばповернул (turned)とповорачивает (turns)は、

不定形 поворачивать (to turn-1) (不完了体)
3人称単数男性:
поворачивал(過去)
поворачивает(現在)
удет поворачивать(未来)

不定形 повернуть (to turn-2) (完了体)
3人称単数男性:
повернул(過去)
現在形なし
повернёт(未来)

完了体動詞повернуть (turn-2)の方には現在形がない。

 これはこう考えるとわかりやすいかもしれない。
 「過去形」とか「未来形」とかは動詞の活用のカテゴリーであって、元の動詞は同じ一つの動詞だ。それに対して例えば名詞のカテゴリー「男性名詞」、「女性名詞」は一つの名詞を変化させて作られるのではなく(男性名詞から女性名詞を派生させることもなくはないが、これはむしろ例外現象だ)、元々の名詞がカテゴリー分けされている。 そこからそれぞれ、対格形fだろ複数形だろの語形変化を起こすわけだ。ロシア語の完了体動詞・不完了体動詞も言ってみれば「男性動詞」、「女性動詞」のようなものだ。

  私はまさにここ、アシモフ氏の挫折の原因となった部分で逆に切れそうになっていた堪忍袋の尾がつながったのである。一寸の虫にも五分の魂というか、私がアシモフ大博士に勝っている部分だってあるのだから、すぐには私を始末せずにまだしばらくはこのまま生かしておいてもらいたい。


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 非人称文といったらいいか不特定主語文といったらいいか、動作主体をボカす表現がある。例の英語のThey say that he is stupid.というタイプのセンテンスだ。ドイツ語にもロシア語にもこの手のものがあるが、私にはこれが非常に難しい。文構造の上では主語が現れているのに意味の上では「ない」からである。

 英語のThey say that...などは主語が複数表現だから動詞sayも複数形、これに相当するドイツ語のMan sagt, dass...(One says that...)ではsagtは単数3人称形だ。日本語だといちいちtheyだろmanだろ主語を持ち出さなくてもセンテンスとして成り立つので「彼は馬鹿だと言っている」で済むし、そもそも動詞に複数・単数の区別がない。ロシア語ではthey say thatは複数形でговорят, что(ガヴァリャート・シュト)とやるのが普通だ。говорятが動詞「言う」の複数3人称形、чтоがthatである。主語を特に書く必要がない、つまりsay thatまたはsagt, dassと主語抜きで言えるのが一見日本語と似ているようだが、数と人称は動詞の変化形でしっかりと表現されているので、始めからそういうものが存在しない日本語とは根本的に違うのである。またロシア語ではときどき単数形も使われる。ただし英語もドイツ語も主語(they, oneあるいはman)が人間であることを想起させるのに対しロシア語の単数非人称表現の方は動詞が中性形になる、つまり主語は非生物なのだ。その意味では構造的にはit says thatと対応している感じ。
たとえば、

Рабочий пробил стену.

という文では主語はРабочий(ラボーチイ、「労働者」)という男性名詞の単数主格形、пробил(プラビール) が「孔を開けた」という意味の動詞の過去形で主語に呼応して単数男性形、стену(スチェヌー)が「壁」という女性名詞の単数対格形だから、この文は「労働者が壁に孔を開けた」という意味だ。
 これをを非人称文にして単に「壁に孔を開けた」と言いたい場合、上で述べたように2通りのやりかたがある。

1.Пробили стену.
2.Пробило стену.

1はいわば(They) drilled through the wall、2が(It) drilled through the wall。どちらも主語それ自体は表されていない(これを仮に「ゼロ主語」と呼んでおこう)が、動詞Пробили (プラビーリ)とПробило(プラビーロ、正確にはプラビーラ)のほうがそれぞれ複数と単数中性形になっているので必要ないからだ。

 問題はここからなのである。
 
 1のほうは動詞が複数形であることによってすでにゼロ主語が複数の動作主、つまり人間、少なくとも意志を持った主体(これを[+ human]あるいは[+ animate]と表しておこう)であることが暗示されているから、ここにさらに「によって」という斜格で動作主を表示できないことはすぐわかる。具体的に言うと(They) drilled through the wall by themというセンテンスは成り立たない。動作主がダブってしまうからだ。
 でも2の方はどうか。ここではゼロ主語は中性だからつまり[- human] あるいは[- animate]、属性が違うから理屈の上では動作主を斜格で上乗せできるんじゃないか、という疑問が浮かんでしまった。いわばIt drilled through the wall by themだ。ここで主格のitと斜格のthemは指示対象が同一ではないのだからダブらないのではないか。

 この英語のセンテンスが成り立つか成り立たないかはひとまずおいておいて(成り立たない!下記参照)、ロシア語の方の考察を続けると、ちょっと不自然なロシア語かもしれないが次のような受動態をつい類推してしまう。受動形も上のゼロ主語センテンスも「注意の焦点を動作主である主語から孔をあけられた壁のほうに向かわせる」ことが目的なのだから。

3.Стена была пробита бомбой.
4.Стена была пробита рабочим.

Стена(スチェナー)が「壁」の主格形、была пробита(ブィラ・プロビータ)が「孔をあける」の受動形で「孔をあけられた」。「によって」をロシア語では名詞の造格という格で表し、3のбомбой(ボーンバイ)、4のрабочим(ラボーチム)がそれぞれ「爆弾」、「労働者」の造格形。主格形はそれぞれбомба(ボーンバ), рабочий(ラボーチイ)である。だからギンギンに直訳すると3が「壁が爆弾によって孔をあけられた」、4が「壁が労働者によって孔をあけられた」。
 実際「爆弾」の造格形を上の1と2の文に付加して、

5.Пробили стену бомбой.
6.Пробило стену бомбой.

というセンテンスが成り立つ。どちらも「爆弾によって壁に孔を開けた」という表現である。5では動詞が複数形(Пробили、プラビーリ)、6では単数中性形(Пробило、プラビーロ)であることに注目。上で検討した理由により5から類推した

7.Пробили стену рабочим.

という構造は成り立たないだろうが、6から類推した、2に動作主を造格で付加したセンテンス、

8.Пробило стену рабочим.

は、成り立つのではないか。
 
 そこまで考えた私が、自らのセンテンス分析能力に自己陶酔さえしながらチョムスキー気取りで最後列から手を上げて「先生! Пробило стену рабочимとは言えないんですか?」と、デカい声で質問したとたん、地獄のような笑いの竜巻が教室中を吹き荒れた。「爆笑」などという生やさしいものではなかった。

私は何をやってしまったのか。

 英語でもドイツ語でも受動態文で動作主と手段を表すにはそれぞれby (ドイツ語ではvon)とwith (ドイツ語ではmit)と別の前置詞を使い分けるが、上述のようにロシア語はどちらも名詞の造格形で表す。で、私はここで「労働者壁に孔を開けた」と言ってしまったのである。
 つまりドリルの先っぽに作業員を一人はめ込んで人間孔搾機として使用した訳だ。そんなことをしたらヘルメットは割れ頭蓋骨は砕け、飛び散る脳髄であたりは血まみれのほとんどホラー映画の世界になること請け合いだ。あのスターリンだってそこまではやらなかっただろう。
 
 結局、属性の如何にかかわりなく一センテンス内では深層格(deep cases)あるいは意味役割(semantic roles。最近の若い人はθ役割とかワケのわからない名で呼んでいるようだが)はダブれないというとっくに言われていることをいまさら思い知っただけというつまらないオチで終わってしまった。
 それはこういうことだ。ここでは文構造内にすでに「動作主格(Agent)」という深層格、あるいはθ役割がすでに形式上の主格(ここではゼロ代名詞)で現れているわけだからそこにまた具格(スラブ語では「造格」)を上乗せしたら、その具格で表される深層格はすでに主格で場所がふさがっている動作主格ではなく「その他・残り」、つまり道具格でしかありえなくなる。上で挙げた英語It drilled through the wall by themが成り立たないのも、一つの文構造の中にitとthemで動作主格が2度現れてしまうからだろう。わかりやすく言えばこれは指示対象云々でなく純粋に文構造内部の問題だということか。全然わかりやすくなっていないが。
 さらに今さら思い当たったのだが、1、2のような能動態の非人称文のそもそもの役割は「動作主体をボカす」ということなのだから、一方でこの構造をとって動作主体をボカそうとしておきながら、他方でわざわざ造格の動作主体をつけ加えたりしたらやっていることが自己矛盾というか精神分裂というか、θ役割など持ち出さなくてもちょっと考えれば成り立たないことはわかりそうなものだった。

 しかしそうやって笑いものになるのは私だけではない。

 英語でもドイツ語でも「○○で」、つまり手段と、「○○といっしょに」、つまり同伴はどちらもwith やmitで表すが、ロシア語だと前者は上記の通り名詞の造格で、後者は造格に前置詞 с(ス)を付加して、と表現し分ける。そこでドイツ人には「壁に爆弾で孔を開けた」と言おうとして、

Пробили стену с бомбой.

と前置詞つきで言ってしまう者が後を絶たない。上の5と比較してほしい。これだと「爆弾といっしょに壁に孔を開けた」、つまり「作業員と爆弾はお友達で、仲良く工事作業にいそしんだ」という意味になってしまい、やっぱりロシア人から鬼のように笑われる。人の事を笑えた立場か。
 この「お友達爆弾」をドイツ人はよほど頻繁に爆発させてしまうと見え、с を入れられるたびにロシア人の先生はまたかという顔をして悲しそうに首を振る。まったく油断も隙もない。もっともドイツ人学生の名誉のために言っておくと、с で道具や手段を表すことも実際にはあるらしい。辞書には рассматривать с лупой (「ルーペで観察する」)という例が載っていた。これは外国語、フランス語などからの影響かなんかなのだろうか。手段を表すのに前置詞を使わないのがロシア語本来の形であることには変わりないとしても、ひょっとしたらそのうちこのお友達爆弾のほうも手段を表す形として許されるようになるかもしれない。


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 何気なく17世紀の初頭に書かれたロドリゲスの『日本語小文典』(もちろん翻訳をだ。そんな古い、しかもポルトガル語の原本なんか読めるわけがない)を見ていたら、ちょっと面白いことに気付いた。「お」と「を」を区別せずにどちらも vo、「う」を単に v と、v を使って表記してあるのだ。 例えば「織物」を vorimono、「己」を vonore、丁寧語の「御」が vo、「馬」が vma、「訴え」が vttaeだ。
 これは日本語の音が当時そうなっていたというより、単なる表記の仕方の問題だろうが、東スラブ諸語では実際に v 音が語頭に付加される(これを prothetic v 、「語頭音添加の v 」という)から面白い。これが本当の「サインはV」だ。(今時「サインはV」などというギャグを飛ばすと年がバレる、といいたいところだが、年がバレるも何もそもそももう誰もこんなTVシリーズなど知らないだろうから単に素通りされる可能性のほうが高いと思う)。

 例えばロシア語の川の名前 Волга(Volga)はもともとスカンジナヴィア系の Олга(Olga)という名前だったのに в (v) が語頭付加されたものだ、と聞いたことがある。また、トゥルゲーネフのНесчастливая(『不しあわせな女』)という小説に вотчим(votčim、「義父」)という単語が出てくるが、これは辞書に出ている普通の形は отчим(otčim)。これなど明らかに prothetic v だろう。

 ベラルーシ語などはこの prothesis(「語頭音付加」)の現れ方が体系的で、語頭の後舌円唇母音にアクセントがあった場合は в (v) が規則的に付加される。例を挙げると
Tabelle1-33
ベラルーシ語では対応するロシア語の単語に対して語頭に в (v) が立っていることがわかるだろう。なお、око (oko、目)という語はロシア語では古語化していて現代語で普通に目を意味するときはглаза(glaza)という語を使う。もっとも歌の文句などちょっと文学的なニュアンスにしたいときは古語のоко を使うことがある。例えば『バルカンの星の下で』という歌があったが、その第一行目が

Где ж вы, где ж вы, очи карие
あなたはいずこ、あなたはいずこ、茶色の瞳(の人)よ

という歌詞だった。очи(oči)というのは око(oko)の複数形である。

 後舌円唇母音が語頭にたってもアクセントがなければ в (v) が付加されないのが本来なのだが例外的にアクセントのない語頭の円唇母音にprothesic v が現れることがある。
 例えばベラルーシ語の вусаты (vusaty、「髭の(ある)」)という形容詞ではアクセントのある母音は а (a) であって у (u) ではないから、本当は в が添加されずに усаты(usaty)になるはずだ。それなのになぜここで в が付加されているのか。この形容詞の語幹となった名詞の вус(vus「髭」、ロシア語の ус (us) に対応)にすでに в が付着している、つまり元の語がすでに в 付きなので、そこから派生した語から今更 в を取り払うことができないからだ。
 
 さらにロシア語に対するベラルーシ語の特徴として次のようなものがある。ロシア語では r 音に口蓋音・非口蓋音、俗に言う軟音・硬音の2種類あるが、ベラルーシ語では r に口蓋・非口蓋の弁別的対立が失われて硬音の r しかない。だからロシア語では口蓋化している р(r)で発音する音(r’ または rjで表わす)がベラルーシ語では対応する非口蓋化音になる。日本語表記も加えてみる。

ロシア語
Я говорю. (ja govorju、ヤー・ガヴァリュー、「私は話す」)

ベラルーシ語
Я гавару. (ja gavaru 、ヤー・ハヴァルー

ロシア語の有声軟口蓋閉鎖音、つまり г  (g) はベラルーシ語では有声軟口蓋摩擦音、国際音声字母IPAで [γ] になると教わったが、実際の発音を聞かせてもらった限りでは無声軟口蓋摩擦音 [x]、あるいは無声喉頭摩擦音 [h] にしか聞こえなかった。内心「あれ?」と思っていたら、いつだったかオリンピックでベラルーシの選手にOlhaという名前の人を見た。これは明らかにロシア語のОльга(Ol’ga)だ。ロシア語のgがベラルーシ語の英語表記ではhになっている、ということはつまりベラルーシ語の г は英語話者にも h に聞こえるということで特に私の耳が悪いからでもないと思う。

 目のいい人はさらにお気づきになったかもしれないが、ベラルーシ語はいわゆる аканье(アーカニエ、『26.その一日が死を招く』の項参照)を律儀に文字化する。アーカニエとはロシア語でアクセントのない o が a と発音される現象のことだが、発音は a でも文字では o と表記する。上のロシア語 говорю が、「ゴヴォリュー」でなく「ガヴァリュー」と発音されるのはそのせいだ。もっとも o が弱化して出来た「ア」はロシア語ではクリアな [a] とは発音せず、強勢のあるシラブルの直前では [ʌ]、それ以外では [ə] となるのに対しベラルーシ語ではきちんと [a] で発音されると聞いた。ただし自分の耳で確認はしていない。

 とにかくベラルーシ語ではアクセントのない o は発音どおり a と書く。だから上の гавару (gavaru) では母音が発音どおり а と書いてあるのだ。вока (voka) 「目」とか вуха (vucha、ch は [x]、「耳」) とかいう綴りはロシア語だと間違いだが、ベラルーシ語では正書法通りである。書き間違いではない。まあ、覚えやすいと言えばこちらの方が覚えやすいが、私は「ここは а だったっけか、о だったっけか」と年中わからなくなる学習者泣かせのロシア語の綴りの方が味があると思う。 

 またベラルーシ語では ŭ(英語の w) と l の交代が見られる。 ロシア語と比べてみるとさらに面白い。ベラルーシ語の ŭ はロシア語の l だけでなく v、v'、u とも交代するのだ。まさに七変化だ。下に例を挙げるが「ベ」がベラルーシ語、「ロ」がロシア語だ。
Tabelle2-33
Tabelle3-33
 ベラルーシ語ではロシア語の前置詞 в (v) は基本 у (u) になる(下から3番目の例 паехаў ён у чыстае полеと一番下の例 поехол Илья в Киевの下線部を比較)。ところが、この前置詞が母音の後に来る場合は ў (ŭ ) になるのだ(下から二番目の例文と比較。Iлля は Illja で、最後の音が母音)。

 そういえばもう20年近く前、ドイツ語の授業で「人食いアヒルの子さんの als は aus に聞こえる」と発音を直されたことがあって、l と u という組み合わせに意外な気がしたのを覚えている。l と u は他の言語でも交代しやすいのかもしれない。
 もっとも l は o とも交替しやすそうだ。セルビアの首都は Beograd とも Belgrad とも言う。さらにロシア語の был (byl、「~だった」、男性単数形)はセルビア語(あるいはクロアチア語)では bio で、ここでも l と o が対応している。

 実は面白いことにベラルーシ語には prothetic i (「語頭音添加の i 」)がある。トルコ語などにもこれがある。イスタンブールの「イ」は後から付加された母音で、これは本来「スタンブル」だったそうだ。 ロシア語と比べてみよう。
Tabelle4-33
 さて、アザレンカというテニスの選手がいるが、この人はベラルーシ出身だ。ウィキペディアにあるこの名前の原語ベラルーシ語バージョンとロシア語バージョンを比べてみると次のようになるが、この短い名前の中に今まで述べてきたロシア語とベラルーシ語の重要な音韻対応のうち3つもを見ることが出来る。下の太字の部分を比べてみてほしい。 j は英語の j ではなく、ドイツ語読みの j、つまり英語なら y である。

ベラルーシ語
Вікторыя Фёдараўна Азаранка
Viktoryja Fёdarna Azaranka
ロシア語
Виктория Фёдоровна Азаренко
Viktorija Fёdorovna Azarenko

 1.ロシア語の歯と下唇による有声摩擦音 в (v) がベラルーシ語では特定の環境では摩擦性が弱まり半母音ў (w)となる。それでベラルーシ語のФёдараўна(フョードラナ)はロシア語ではФёдоровна(フョードロナ、o が上述のようにアーカニエを起こすので正確にはフョードヴナ)。

2.ベラルーシ語ではロシア語と違い р (r) に口蓋・非口蓋の音韻対立がないのでロシア語では ри (ri) と ры (ry) を区別するところがどちらも  ры (ry) となる。ロシア語バージョンの ре (re) がベラルーシ語で ра (ra) と書いてあるが、 е の前に立つ р (r) は口蓋音と決まっているので р (r) に口蓋音がないベラルーシ語では r の後に е が来られない。そこで e の代わりに先行音を口蓋化しない母音の a が来ている。実はベラルーシ語にもロシア語にも「先行音を口蓋化しない e」というのがあるのだが(э (ė) がそれ)、 どうして ė  でなく a になっているのかは正直よくわからない。まあ言語とはそういうものなのだろう(なんといういい加減な)。

3.ベラルーシ語ではアーカニエを文字化するのでФёдараўна Азаранкаと、ロシア語ではアクセントのない母音 o が来ているところがが全部 a で書いてある。

 こういう風に教科書など話にだけしか聞いたことのなかった事柄の実際例に遭遇すると嬉しくなってしまうのは私だけではあるまい。


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 もう大分前の本ではあるが、今でも時々別宮貞徳氏や河野一郎氏などの翻訳批評をパラパラめくり読みする。しかし実は私にとってこれらは面白いとばかりは言いきれないのである。別宮氏に「こんな英語のレベルは中学生。大学の学部どころか高校入試試験も通るまい」などとボロクソ言われている誤訳例の相当部が私だったら絶対やってしまいそうなものなので、読んでいて冷や汗の嵐だからだ。私は今まで自分の英語力は高校一年生レベルくらいはあるだろうと自惚れていたが、最近怪しくなってきた。実は中学生レベルなんじゃないのか?
 例えば別宮氏だったと思うが、下の英語を訳した翻訳者をケチョンケチョンにけなし、「よくこれで翻訳をやろうなんて気になるものだ」とまで罵倒しているのだが、ハイ、私もやってしまいました。

invasion ... from the Adriatic coast to the north

これを私はこの(駄目)訳者と同じく、しっかり「アドリア海沿岸から北へ向かった侵略」だと解釈してしまった。ところがこれは「こんなものは中学一年で皆習う」もので、

on the north of
in the north of

と同じく

to the north of

も「北方の、北にある」という意味だから、ここは「北方のアドリア海沿岸から(南方に向かった)侵略経路」とのことだ。つまり私の語学は中学レベルか。これを誤訳したヘボ訳者と私の違いは、私が自分は英語は(英語も)苦手である、と少なくとも自覚だけはしていることくらいだ。
 さて、こういう風に話題をそらすと自分のヘボ英語に対する負け惜しみのようで恐縮だが、このtoの話は非常に興味深いと思った。英語のtoに対応するドイツ語の前置詞zuにも「移動の方向・目的地」のほかに「いる場所」の意味があるからだ。

例えば

Ich fliege zu den USA.
飛行機でアメリカに行く

ではzuは目的地を示すが、

Universität zu Köln
ケルン(にある)大学

は存在の場所である。ただしネイティブによるとドイツ語では東西南北にzuは使えず

* Die Stadt ist zum Norden Mannheims
この町はマンハイムの北にある

は非文で、この場合はinを使って

Die Stadt ist im Norden Mannheims

と言わなければいけない。でもそういえば日本語では助詞の「に」は「東京に行く」と「東京にいる」の両方に使えるではないか。

 まあかように私は英語が出来ないのだが、逆方向、日本語のトンデモ英語訳の例のほうにはそのさすがの私でも笑えるものがたくさんある。どこで聞いたか忘れたが「あなたは癌です」を

You are cancer.

といったツワ者がいるそうだ。「お前は日本の癌だ」などという意味ならまあこれでいいかもしれないが、いくらなんでもこれは普通の人なら

You have cancer.

くらいはいうのではないだろうか。これがロシア語では『42.「いる」か「持つ」か』の項でも述べた通りゼロ動詞を使って

У меня рак.
by + me (生格) + cancer
私には癌がある → 私は癌です。

である。ついでにI am cancerはゼロコピュラで

Я - рак
I(主格)+ cancer

となる。それでさらに思い出したが、「春はあけぼの」という日本語を

Spring is dawn.

と直訳した人がいるそうだ。その調子で行ったらレストランで「私はステーキだ」と注文する時

I am a steak

とでも言う気か。レストランに行って自分のほうが食われてしまうなんてほとんど『注文の多い料理店』の世界ではないか。「春はあけぼの」は

In spring it is the dawn that is most beautiful.

と訳さないといけない。英語は印欧語特有の美しい形態素パラダイムをほとんど失っているので、こういう長ったらしい言い方しか出来ないのだ。本当に印欧語の風上にもおけない奴だ。ところがロシア語だとこれが

Весною рассвет
spring(単数造格) + dawn(単数主格)

とスッキリ二語で表せてしまう。私みたいな語学音痴だとうっかりどちらも主格を使って

Весна рассвет
spring(単数主格) + dawn(単数主格)

とかやってしまいそうで怖いが(I am cancerを笑えない)、それにしてもこのシンタクスの美しさはどうだろう。印欧語特有の上品さを完全に保持している。英語にはロシア語の爪の垢でも煎じて飲んで欲しいものだ。

 さらにロシア語では日本語の「私には○○と思われる」を日本語と同じく動詞「思う」を使って

Мне думается, что...
me(与格) + think(3人称現在単数)-再帰代名詞 + that

と言えるのである。英語やドイツ語だとここでthink(ドイツ語ではdenken)ではなく、「見える」とか「現れる」、seem、erscheinen、vorkommenを使うだろう。ここで動詞の後ろにくっ付いている-ся(母音の後だと-сь)というのは再起表現で大まかに言うと英語の-self、ドイツ語のsichに当たるのだが、ロシア語ではこの形態素が英独の再帰代名詞よりずっと機能範囲が広く、受動体や、この例のように自発的意味も受け持つのである。例えば;

受身のся
能動態
Опытный шофёр управляет машину.
experienced  + driver(単数主格)+ steers + machine(単数対格)
→ 経験のある運転手が自動車を操縦する

受動体
Машина управляется опытным шофёром.
machine(単数主格)+ steers itself + experienced + driver(単数造格)
→ 自動車が経験のある運転手に操縦される

可能のся
平叙文
Больной не спит.
patient(単数主格)+ not + sleep
→病人は眠らない

可能表現
Больному не спится.
patient(単数与格)+ not + sleep himself
→病人は眠れない

自発のся
平叙文
Я хочу спать
I(単数主格)+ want + to sleep
→私は眠りたい

自発表現
Мне хочется спать.
me(単数与格)+ want itself + to sleep
→私は眠い

 
上述のдумается(不定形はдуматься)もこの自発タイプと見ていいと思う。これら3つの用法、つまり受身、可能、自発の表現が日本語の「れる・られる」といっしょなのが面白い。

受身の「れる・られる」
能動態
議論する
受動体
議論される

可能の「れる・られる」
平叙文
よく眠る
可能表現
よく眠られる

自発の「れる・られる」
平叙文
昔の事を思い出す
自発表現
昔の事が思い出される

と、いうわけで私はロシア語はシンタクスが特に好きである。なのにいつだったか、よりによってロシア語のネイティブが日本語の「私には~と思われた」をIch dachte, dass...(I thought that...)と誤解釈しているのを見たことがあり、せっかく母語にМне думается, что...という素晴らしい表現があるのにこりゃ灯台下暗しじゃないかと思った。


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 いわゆる学校文法では「数詞」が独立した品詞として扱われることが多いが、この数詞というのは相当なクセ者だと思う。それ自体が形の点でもシンタクス上でも名詞と形容詞の間を揺れ動くので、勘定されるほうの名詞との結びつきも複雑になるからだ。
 例えば次のセンテンスだが、

Ten soldiers killed a hundred civilians with twenty guns.

この英語だけ見ると一見 soldiers、civilians、guns の深層格はそれぞれ主格、対格、前置詞格あるいは具格だと思う。 ところが soldiers、civilians などの名詞がここで主格や対格に立たない言語は印欧語族にはゴマンとある。ロシア語だと、

Десять солдат убило/убили сто гражданских людей двадцатью ружьями.
ten + soldiers + killed + hundred + civilian + people + twenty + guns

ここでは数詞の後の soldiers、civilian people(太字)が複数属格(ロシア語文法では「生格」)である。つまりдесять(「10」)、сто(「100」)は普通名詞的なのだ。名詞がもう一つの名詞を修飾する場合、一方が属格になる、つまり「山田さんの家」と同じ構造だ。一方対格と主格以外では数詞が名詞の格と一致する。まるで形容詞のように呼応するのである(下記参照)。いずれにせよロシア語ではこれらの「数詞」は立派に格変化を起こす:десять(主格・対格)→десяти(生・与・前置格)→десятью(造格)あるいはсто(主・対格)→ста(生・与・造・前置格)。実はこういう数詞・名詞の格構成はサンスクリットの昔から印欧語族ではむしろ一般的だ。

サンスクリットでは:
1.数詞1-19が形容詞的に用いられ、その関係する名詞の性・数・格と一致する(つまり数詞も立派に格変化する)。
2.20-99、100、1000等は名詞として扱われ、これの付随する名詞は同格に置かれるか、あるいは複数属格となる。

古教会スラブ語では:
1.1~4は形容詞的特性、つまり付加語扱い。「1」では名詞は単数同格、「2」とは双数(両数)同格、3~4で複数同格、5以上から複数属格。
2.数詞の活用は、1~2が代名詞活用、3が名詞i-活用、4が子音活用とi-活用の混同タイプ、5~9だと活用だけでなく品詞も形容詞でなく名詞扱いでi-活用統一。

ロシア語では上にもあるように、主格と対格で数詞の披修飾名詞が属格になり、その他の格では披修飾名詞と数詞が同格だ。それで最初の例文の中の двадцатью ружьями(下線部)は数詞と名詞のどちらも造格になっている。つまりサンスクリットと同じく名詞が数詞と同格におかれるか、あるいは名詞のほうは複数属格に立つという二つのパラダイムが共存しているわけだ。
 対してラテン語では数詞は不変化「形容詞」とみなされたそうで現在の英語やドイツ語といっしょだが、それでもさらに調べると tantum(たくさんの)、plus(より多くの)などの数量表現では披修飾名詞は複数あるいは単数属格になるというから、数詞も名詞的な特性を完全には失っていない。

plūs pecūniae
more + money(複数属格)

『30.あともう少しのドルのために その2』の項で出したイタリア語の例

un po' più di libri
a + few + more + of + books

も di が入るから属格表現の仲間だとみなしていいのではないだろうか。もっとも例えばラテン語のquīdam(「いくつかの」)は「dē または ex」という前置詞がその後に来た後名詞の奪格を取るそうなので、このdi libriも本来は奪格なのかなとは思う。いずれにせよここでラテン語の属格・奪格形がとろけて一緒になってしまい、格機能が統合されていった様子がよくわかる。
 さらにやっぱりそこの項で出したロシア語

На несколько дрлларов вольше
on/for + some + dollars(複数属格) + more
(For some dollars more)

の「ドル」も複数属格である。

 ドイツ語もよくみると結構面白いことになっていて、数量表現が名詞的特徴を示すことがある。たとえば「多くの私の学生」は

* viele meine Studenten
many + my(複数主格) + students

と「私の学生たち」を主格にすることはできず、披修飾名詞を属格にしないといけない:

viele meiner Studenten
many + my(複数属格) + students

イタリア語と同じくここで各変化による属格でなく前置詞のvon(英語のof)を使って

viele von meinen Studenten
many + of + my(複数与格) + students

ということもできるが、これは上の例と比べて「日常会話的」とのことである。

 英語ほどひどくはないとはいえ、ドイツ語も格変化を捨てまくって堕落したがやっぱりまだまだ印欧語なのである。もっとも日本語でも「私の学生の多く」と「学生」を属格にできるが。
 数詞でも同じことが言えて、

* zwei meine Studenten
two + my (複数主格) + students

zwei meiner Studenten
two + my (複数属格) + students

meine zwei Studenten
my (複数主格) + two + students

*のついた2例では数詞が形容詞としての特性を示すため、いわゆる determinator、つまり「私の学生」というDPを支配する所有代名詞 meine の前に出られないが、披修飾名詞が属格の構造では数詞はそれ自体が事実上名詞であるからそこにまたDP、つまり「私の学生」がくっ付くことができる、と純粋にシンタクスの問題として説明することができるが、もっと見ていくと(しつこいなあ)、実は事はそんなに簡単ではないことがわかる。なぜなら

alle meine Entchen
all(複数主格) + my(複数主格) + ducklings

というフレーズは数量表現がdeterminatorの前に来てしかもそのdeterminatorが主格なのに許されるからである。ネイティブに説明を求めたら「1.この表現は子供の歌だからそもそも俗語的だし、2.alleという表現で表現された数量は閉じられたものであるからdeterminatorの限定的な意味と衝突しないからなんじゃないの?」と言っていた。限定非限定の意味の差が決定権を持っている例は他にもあって、例えば

meine viele Studenten
my(複数主格) + many(主格) + students

ということはできるが、

*meine einige Studenten
my (複数主格) + some(主格) + students

とは言えない。meineの持つ限定的意味とeinige(「(不特定の)いくつかの」)の非限定的な意味合いが衝突するからだろう。viel(「たくさんの」)だと「いくつか」より非限定性がはっきりしていないから限定のdeterminator、所有代名詞と共存できるのだと思う。
 シンタクスだけで全てを説明するのはやはり無理があるようだ。

 さて本題だが、ロシア語学習者泣かせの問題として2、3、4では披修飾名詞が変な形をとる、ということがある。英語やドイツ語では2以上になると披修飾名詞は一律複数主格なので何も苦労がないのだが、ロシア語はそんなに甘くない。ちょっとくらべてみてほしい。比べやすいようにロシア語はローマ字にしてみた。
Tabelle1-58
数が2から4までだと名詞が特殊な形をしているのがわかるだろう。これを語学書などでは「ものがひとつの時は名詞は単数主格、2から4までは単数属格(太字)、5以上になると複数属格(下線)をとる。20までいくとまた1から繰り返すので21の机では名詞が単数主格である」、と説明してある。パラダイムをみてみると確かになるほどとは思う。
Tabelle2-58

私の語学の教科書にもそう書いてあったのだが、そのときのロシア人の教師が運悪く言語学系であったため(『34.言語学と語学の違い』参照)、そこで私たち向かって堂々とこういった。

「語学の入門書とか文法書には「2、3、4は名詞の単数属格をとる」と書いてあったりしますが、これはデタラメです。そう説明しないと初心者が混乱するからです。この形はロシア語では失われてしまった古い双数形が残ったものです。」

古教会スラブ語 plodъ(「果実」)のパラダイムを調べてみると、o-語幹では確かに双数主格と単数属格が同形に見える。
Tabelle3-58
それでは2、3、4、のあとに来る名詞の形が単数生格でなく双数主格だとどうしてわかるのか。実は「2」のあとに来る形と単数生格ではアクセントの位置が違うのである。たとえば、шаг(シャーク、「歩、歩調」)の単数生格はшагаで、アクセントは最初のаにあるから「シャーガ」。対して「二歩」はдва шагаだが、アクセントが2番目のаに来て「シャガー」となる。同じくчас(チャース、「1時間」)の単数生格は часа(チャーサ)だが「3時間」は три часа(トリー・チャサー)だ。つまり字に書くとアクセントが表せないから同じに見えるがこの二つは本来全然違う形なのだ。
 これを「単数生格」とデタラメな説明をする語学教師あるいは教科書を、イサチェンコという言語学者が著書の中で「言語事実を強姦するに等しい」とまで言って怒っていた。しかしたかがこれしきのことで強姦呼ばわりされていたら、そこら辺のいわゆる「よくわかる○○語」「楽しく学べる○○語」の類の語学書には強姦魔がいくらもいる。私もさるドイツ語の楽しい入門書で不規則動詞について「日頃よく使う道具はあまり使わない道具より消耗が激しいでしょう。それと同じく日頃よく使う動詞は形が崩れやすいんですよ」とわかりやすい説明をしているのを見たことがあるが、これなんか強姦殺人級の犯罪ではないだろうか。話が全く逆の上に、ドイツ語ばかりでなく、他の言語も不規則動詞は「規則動詞より変化が早かったため」と一般化されてしまいかねないからである。
 使用頻度の高い「基本動詞」が不規則動詞であることが多いのは変化に曝された度合いが規則動詞より強かったからではなくて、その逆、それらが頻繁に使われるため、古い形がそのまま引き継がれて変わらずに残ったからだ。言語が変化し、動詞のパラダイムが変わってしまった後もそれらがまさに頻繁に口に上るそのためにパラダイム変化を被らなかったからである。たとえばロシア語で take という意味の不規則動詞の不定形は взять だが、定形・現在時称だと возьму(一人称単数)、возьмёшь(2人称単数)などとなって突然鼻音の м (m) が現われ学習者はビビる。しかしこれは規則動詞より形が崩れたからではなくて、ロシア語の я が古い時代に鼻母音だった名残である。つまり不規則動詞のほうが古い形を保っているのであり、規則動詞がむしろ新参者なのだ。

 語学書やいいかげんな語学教師のデタラメな強姦罪に対して声を上げたロシア語の先生は勇気があるとは思うが(女の先生だった)、実は一つだけ疑問が残った。残念ながら私のほうに勇気が欠けていたのでその場で質問しそこねたためいまだに疑問のまま残っているのだが、

「2の後の名詞が双数主格なのはわかるが、どうして3と4まで双数になっているのか。」

この記事を書く機会にちょっと調べてみたのだがはっきりその点に言及しているものが見つからなかった。かろうじて次のような記述を見かけたが説明としてはやや弱い。

Под влиянием сочетаний с числительным два аналогичные формы появились у существительных в сочетаниях с числительными три и четыре

数詞の2との組み合わせに影響され、そこからの類推によって数詞の3と4と結合する場合も名詞が同様の形をとるようになった。

上の古教会スラブ語の説明にあるように、3と4は本来複数主格だったはずである。5からは複数属格だったから形が違いすぎて類推作用が及ばなかったのはわかるが、3と4で双数主格が複数主格を食ってしまったのはなぜなのかどうもわからない。やっぱりあの時勇気を出して先生に聞いておけばよかった。


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