私は昔から「文学」というものが苦手だった(「嫌い」というのとは全然違う、念のため)。文学論・評論の類は書いてあることがまったく理解できない、詩は全然意味がとれない、高校生でも読んでいる日本の有名作家など実は名前さえ知らないことが多かった。
1965年にノーベル文学賞をとったソ連の作家ミハイル・ショーロホフの短編『他人の血』は、その文学音痴の私が何回となく読んだ数少ない文学作品の一つだ。 一人息子を赤軍に殺されたコサックの農夫が瀕死の重傷を負った若い赤軍兵士(つまり本来敵側の兵士)の命を助け、彼を死んだ息子の代わりにいとおしむようになるが、結局兵士はもと来た所に帰って行かねばならない、という話である。
以下はまだ意識を取り戻さない兵士を老コサックのガヴリーラがベッドの脇で見守るシーン。昭和35年(51年に第36版が出ている)に角川文庫から発行された『人間の運命・他4篇』からとったもの。「漆原隆子・米川正夫訳」となっているが実際に訳したのは漆原氏だということだ。
『東風がドンの沿岸から吹き寄せて、黒くなった空を濁らせ、村の上空に低く冷たい黒雲を敷く長い冬の夜々、ガヴリーラは負傷者の横に坐り、頭を両の手にもたせて、彼がうわ言をいい、聞きなれぬ北方の発音で、とりとめもなく何事か物語るのに、聴きいるのだった。』
次は兵士が去っていくラスト・シーン。
『「帰って来いよう!....」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。 「帰っちゃ来まい!....」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。 最後に、懐かしい薄あま色の頭が、曲がり角のはずれでちらりと見えた。』
私がこれを読んだのは中学生か高校生になりたての頃だったと思うが、ずっと心に残っていてその後20年くらいたってから、原典をドイツのM大学で見つけた。せっかくだからここで引用するが、上の部分は原語ではそれぞれ以下の通りだ。
『В длинные зимние ночи,когда восточный ветер, налетая с Обдонья, мутил почерневшее небо и низко над станицей стлал холодные тучи, сиживал Гаврила возле раненого, уронив голову на руки, вслушиваясь, как бредил тот, незнакомым окающим говорком несвязно о чем-то рассказывая;』
『-Ворочайся! - цепляясь за арбу, кричал Гаврила. -Не вернется!... - рыдало в груди невыплаканное слово. В последний раз мелькнула за поворотом родная белокурая голова, (...)』
美しいロシア語だ。中でも特に二ヶ所、触れずにはいられない部分がある。翻訳者の鋭敏な言語感覚が現れているところだ。
まず『聞きなれぬ北方の発音で』の原語はнезнакомым окающим говорком。これは直訳すれば「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音される聞きなれない方言で」。ロシア語をやった者ならすぐ通じると思うが、標準ロシア語では母音oがアクセントのない位置に来た場合「お」でなく軽い「あ」と発音される。テキストにoと書いてあってもaと読まなければいけない。ベラルーシ語だとアクセントのないoは正書法でも発音通りaと書くが、ロシア語は違う。これをそのままoと読むのは非標準語の方言である。この、アクセントのないoを「お」と発音する地域と「あ」と発音する地域の境界線はだいたいモスクワのすぐ北あたりを東西に走っている。つまりモスクワ以北は基本的にo方言ということだ。この短編の主人公はロシア南部のドン・コサックだから完全にa方言区域、oはそれこそ聞いたこともない方言だったに違いない。
しかしこれをそのまま馬鹿正直に「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音されて」などと訳していたら文学性が消えてしまう。ロシア語の言語地理学を専攻にしている人などは喜ぶかも知れないが、普通の読者はワケがわからず、その場で本を投げているのだろう。「北方の方言」、本当にセンスのいい翻訳だと思う。
ちなみにロシア語の先生から聞いた話によると、エカテリーナ二世の時代から毛皮などを求めてシベリアに渡っていったロシア人にはこのo方言の話者が多かったそうだ。そういえば『北嵯聞略』にも記録されているようだが、例の大黒屋光太夫がカムチャットカで「鍋」というロシア語котёлを「コチョウ」と聞き取っている。しかしこの単語のアクセントはёにある、つまりoにはアクセントがないからこれは本来「カチョウ」または「カチョール」と聞こえるはずだ。してみるとここで光太夫が会ったロシア人もこの「北方のo方言」の話者だったのかもしれない。
もう一点。『薄あま色』という表現はбелокурая(ベラクーラヤ)の訳。これは普通に訳せば「金髪・ブロンド」だ。でも「金髪」とか「ブロンド」という言葉はちょっとチャラい感じでハリウッドのセクシー女優などにはちょうどいいかもしれないが、革命に燃える若き赤軍兵士にはどうもピッタリ来ない。男性ばかりでなく、赤軍兵士が女性であっても使いにくいだろう。「薄あま色」とやれば軽さは消えて、孤児として育ち瀕死の重傷を負ってもまだ理想を捨てない若者の髪の色を形容するのにふさわしくなる。逆に(名前を出して悪いが)マリリン・モンローやパメラ・アンダーソンにはこの「薄あま色」という言葉は使えないと思うがいかがだろうか?
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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1965年にノーベル文学賞をとったソ連の作家ミハイル・ショーロホフの短編『他人の血』は、その文学音痴の私が何回となく読んだ数少ない文学作品の一つだ。 一人息子を赤軍に殺されたコサックの農夫が瀕死の重傷を負った若い赤軍兵士(つまり本来敵側の兵士)の命を助け、彼を死んだ息子の代わりにいとおしむようになるが、結局兵士はもと来た所に帰って行かねばならない、という話である。
以下はまだ意識を取り戻さない兵士を老コサックのガヴリーラがベッドの脇で見守るシーン。昭和35年(51年に第36版が出ている)に角川文庫から発行された『人間の運命・他4篇』からとったもの。「漆原隆子・米川正夫訳」となっているが実際に訳したのは漆原氏だということだ。
『東風がドンの沿岸から吹き寄せて、黒くなった空を濁らせ、村の上空に低く冷たい黒雲を敷く長い冬の夜々、ガヴリーラは負傷者の横に坐り、頭を両の手にもたせて、彼がうわ言をいい、聞きなれぬ北方の発音で、とりとめもなく何事か物語るのに、聴きいるのだった。』
次は兵士が去っていくラスト・シーン。
『「帰って来いよう!....」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。 「帰っちゃ来まい!....」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。 最後に、懐かしい薄あま色の頭が、曲がり角のはずれでちらりと見えた。』
私がこれを読んだのは中学生か高校生になりたての頃だったと思うが、ずっと心に残っていてその後20年くらいたってから、原典をドイツのM大学で見つけた。せっかくだからここで引用するが、上の部分は原語ではそれぞれ以下の通りだ。
『В длинные зимние ночи,когда восточный ветер, налетая с Обдонья, мутил почерневшее небо и низко над станицей стлал холодные тучи, сиживал Гаврила возле раненого, уронив голову на руки, вслушиваясь, как бредил тот, незнакомым окающим говорком несвязно о чем-то рассказывая;』
『-Ворочайся! - цепляясь за арбу, кричал Гаврила. -Не вернется!... - рыдало в груди невыплаканное слово. В последний раз мелькнула за поворотом родная белокурая голова, (...)』
美しいロシア語だ。中でも特に二ヶ所、触れずにはいられない部分がある。翻訳者の鋭敏な言語感覚が現れているところだ。
まず『聞きなれぬ北方の発音で』の原語はнезнакомым окающим говорком。これは直訳すれば「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音される聞きなれない方言で」。ロシア語をやった者ならすぐ通じると思うが、標準ロシア語では母音oがアクセントのない位置に来た場合「お」でなく軽い「あ」と発音される。テキストにoと書いてあってもaと読まなければいけない。ベラルーシ語だとアクセントのないoは正書法でも発音通りaと書くが、ロシア語は違う。これをそのままoと読むのは非標準語の方言である。この、アクセントのないoを「お」と発音する地域と「あ」と発音する地域の境界線はだいたいモスクワのすぐ北あたりを東西に走っている。つまりモスクワ以北は基本的にo方言ということだ。この短編の主人公はロシア南部のドン・コサックだから完全にa方言区域、oはそれこそ聞いたこともない方言だったに違いない。
しかしこれをそのまま馬鹿正直に「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音されて」などと訳していたら文学性が消えてしまう。ロシア語の言語地理学を専攻にしている人などは喜ぶかも知れないが、普通の読者はワケがわからず、その場で本を投げているのだろう。「北方の方言」、本当にセンスのいい翻訳だと思う。
ちなみにロシア語の先生から聞いた話によると、エカテリーナ二世の時代から毛皮などを求めてシベリアに渡っていったロシア人にはこのo方言の話者が多かったそうだ。そういえば『北嵯聞略』にも記録されているようだが、例の大黒屋光太夫がカムチャットカで「鍋」というロシア語котёлを「コチョウ」と聞き取っている。しかしこの単語のアクセントはёにある、つまりoにはアクセントがないからこれは本来「カチョウ」または「カチョール」と聞こえるはずだ。してみるとここで光太夫が会ったロシア人もこの「北方のo方言」の話者だったのかもしれない。
もう一点。『薄あま色』という表現はбелокурая(ベラクーラヤ)の訳。これは普通に訳せば「金髪・ブロンド」だ。でも「金髪」とか「ブロンド」という言葉はちょっとチャラい感じでハリウッドのセクシー女優などにはちょうどいいかもしれないが、革命に燃える若き赤軍兵士にはどうもピッタリ来ない。男性ばかりでなく、赤軍兵士が女性であっても使いにくいだろう。「薄あま色」とやれば軽さは消えて、孤児として育ち瀕死の重傷を負ってもまだ理想を捨てない若者の髪の色を形容するのにふさわしくなる。逆に(名前を出して悪いが)マリリン・モンローやパメラ・アンダーソンにはこの「薄あま色」という言葉は使えないと思うがいかがだろうか?
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