「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を翻訳して紹介しています。下のインタビュー記事は2016年7月9日の南ドイツ新聞印刷版とネット版に同時にのったものですが、「フェルンヴェー」というドイツ語など、当ブログの記事『3.噂の真相』のテーマと関連しているのでご紹介します。ネットのでなく新聞の記事のほうをもとにしましたので、レイアウトなどちょっと違っているところがあります。
元の記事はこちら
200万年前にはすでに前時代の人類が「世界征服」への道を歩みだした。それがあったからこそ現代の人類に進化することができたのだ、というのが古代人類学者のフリーデマン・シュレンクの説。
フリーデマン・シュレンク氏は古代人類学者で、ハイデルベルク科学アカデミーのROCEEH(The Role of Culture in Early Expansion of Humans)という研究プロジェクトの主任の一人である。
南イタリア・アプーリアのGrotta del Cavalloで発見された乳歯は現人類の体の一部としてはヨーロッパで最も古いものである。4万5千年から4万3千年まえのものと見られている。
南ドイツ新聞
そもそもどうして人類は移動を始めたんでしょうか?
フリーデマン・シュレンク
私たち古代人類学者は「移動」とはいいません。「生存権の拡大」といいます。一世代ごとにほんの何キロメートル四方かずつ広げていったんですね。初期の人類には目的地なんてなかった。道程そのものが目的だったんです。この生存圏の拡大というのがまさに人類の特徴。すでに600万年前には前人類がアフリカの熱帯雨林を出てサヴァンナに入ったんですから。その新しい生活場所で直立歩行を進化させていったんです。もっともそれはほんとうにゆっくりした歩みで、それから初めてアフリカから出たのはやっと200万年くらい前ですが。
そのままそこにいてもよかったのでは?
その通りです。けれど、では人類にとって移動というのが目新しいことだったかというとそんなこともないんですよ。手に入れたい資源を求めて何キロも歩いたりしてましたからね。食料が不足すればもっと遠くまで行って交換したし。季節ごとに移動する動物を追いかけたりとかも。人口が多くなっていったのも要因の一つかもしれません。けれど頭脳の発達も大切な点でね、人類はそのおかげで道具を使うようになったし周りの環境に左右されることも少なくなって、新しい土地に居住できるようになったと。一方そのおかげで、自分たちの道具に依存する度合いが強くなってしまいましたが。
どこか特別なルートというものがあったのでしょうか?
ありました。移住は多くが海岸沿いのルートを通りました。あるいは川に沿うとか。回廊状の森が隣接しているような川ですね。移動の道筋になるようなところはいろいろと条件を満たしていないといけません。水や食物、道具つくりの材料になる地下資源がないといけない。あと保護物もいる、寝場所用に木があったりとか。後には戦略上の考慮なんかも役割を演じるようになりましたね。周りの土地の状況がよく見渡せるようなところが選ばれたりしたんです。
具体的にはどんな道筋があったんでしょうか?
アフリカを出るのには4つのルートが可能です。第一は筏のような乗り物でジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に行くもの。第二の道は島をいくつか渡って南イタリアに到達するもの。事実そこで140万年前の道具が見つかっていますが、これらが北から移動してきた人々のものではないことは確実です。第三のルートは現在のイスラエルとレヴァントを通るもの、そして第4がアラビア半島を通過してコーカサスと東南アジアに行くものです。それらの回廊地帯にしても居住にむいていた時期というものがありまして、気候が決定的な役割をはたしていたんです。降水量に大きな揺れがあったりしましたからね。それが植生に大きな影響を与えていました。洪積世にはこれがまた何回も変化しましたし。
どれくらいの数の人間が移動していったんですか?
当時世界の人口がどのくらいあったかは見積もるのが難しい。1万1500年前に定住が始まったときはおよそ700万人ほど人間がいたようです、20万年前にホモ・サピエンスという種が発生した時どのくらいいたのかはわかりません。彼らは4~50人の群れになって移動したようです。でもその群れは固定したものではありませんでした。群れの間に結びつきがあったにちがいない、でなければすぐ近親相姦になってしまいますからね。
過去20万年のあいだで、特に移住が盛んだった時期などはあったのですか?
いくつか波がありました。それぞれが違った方向に進んだと思われます。その際道具を組み合わせてまた新しい道具を作る技術(根も切り株も掘り起こせるように斧と鋤を組み合わせたものとかね)が一役買ったのかどうか、私たちとしても知りたいところです。人類は資源を使うのにどんどん柔軟のあるやりかたをするようになっていった。それでいろいろな可能性が広がりました。
新しい生活圏がさらなる進歩をうながす、などということもあったのではないですか?
当然ありましたよ。フィードバックがあったんですから。文化、体格、知能というのは外界と接触しながら発展しますからね。精神の広がりが人類を移動に駆り立てるということもありますよ。そういうのを全部ひっくるめた人類の全体的な行動が生き残りのチャンス、将来の可能性を決めるんです。
最初に移住した人々は好奇心に駆り立てられたのでしょうか?
もちろん好奇心は大事。人間はいつも周りの環境を発見しようとしますから。どうやって生活圏を勝ち取って行ったらいいのか、ということについても彼らはたいてい計画というか何か具体的な戦術がちゃんとあったにちがいない、と私は思っています。
フェルンヴェー(見知らぬ土地への憧れ)のようなものがあったんでしょうか?
フェルンヴェーって、外界、どこか世界の果てではどんなことになっているのかなと想像してみることから始まるじゃないですか。当時すでに世界中の離れた地域とモノの交換なんかをしていたとすれば、フェルンヴェーとあってもおかしくないでしょう。中国の真珠とかインドのお茶とかが西アフリカにまでやってきていたら、想像がかきたてられもしたでしょう。遠くの地域とモノの交換をするようになるとそこでフェルンヴェーも生じたんじゃないでしょうか。
でもいろいろな道具を実際に交換したりすることとかもあったのでは?
ありました。たとえば槍の穂先なんか交換していました。あと、装飾品とか彩色用の色素とかも。そういうことはすでに15万年前のアフリカで、ホモ・サピエンスがその大陸を出ないうちからやっていました。交易所がいくつもあって、そこを通したんです。遠隔地との交易というのは中国とかヨーロッパではじまったことじゃありません。そもそも遠くの地域と交流するようになって文化の交流も始まったんです。ホモ・サピエンスが発生してすぐのころにまで遡れることなんですよ。それが現人類の最初の「拡大」ということですね。「拡大」というのは、だからまず頭の中で起こったんです。いつのころか空間的な拡大が続きました。そういう意味ではフェルンヴェーも発生源はアフリカですね。
移住していった者と残ったとの間にコンタクトはあったんでしょうか?
そう、モノの取引や交換は人間が広がっていく際強力なサポートになりました。あと遺伝学上でも交流があったことがわかってきました。人類とネアンデルタール人との間にも文化交流があったという証拠も見つかりました。それでこそ我々の種は生存しているんです、どころか結局それが私たちのような種族が誕生した、今のような新しい文化が発生した、それらの原因なんですね。
もうちょっと詳しく説明してください。
チンパンジーも群れで生活していますし、道具も作ります。つまりある種の文化は持っているんです。けれど我々人類とは決定的な違いがある:チンパンジーはその文化を自分たちの地域的に限定された群れの内部でしか伝承していきません。初期の人類の自然淘汰の際に決定的に有利に働いたのが、自分たちの成果を種族全体に伝えることが出来た、ということです。経験を分かち合う、知識を交換したり伝承したりする、そういうことです。それで初めて私たちは人類と言う種となったんです。
そうなるといわゆる開かれた態度がなければどうにもなりませんね。こんにちの移住問題の専門家もそれが移民を社会にうまく適合させるためのカギとみていますが。
もちろんです。道具つくりの技術がいかにして伝えられていったかについては証拠が出せますよ。ある考え方、思想、経験とかが伝えられていって、別のしかるべきところに収まる。こういうことは他の種にはありません。人類のカギとなる特徴なんです、交換・交流という能力は。まさにそこからです、ホモサピエンスがこんにち世界中で示しているバイオカルチャー面での多様性が生じたのは。経験を交換しあうこと、これはこんにちでも原則なんです。けれど今日びはどんどん壁が築かれて交流が邪魔されていっている感じですね。人類にとってこれは致命的なんですよ。
インタビュアー: フーベルト・フィルザー
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200万年前にはすでに前時代の人類が「世界征服」への道を歩みだした。それがあったからこそ現代の人類に進化することができたのだ、というのが古代人類学者のフリーデマン・シュレンクの説。
フリーデマン・シュレンク氏は古代人類学者で、ハイデルベルク科学アカデミーのROCEEH(The Role of Culture in Early Expansion of Humans)という研究プロジェクトの主任の一人である。
南イタリア・アプーリアのGrotta del Cavalloで発見された乳歯は現人類の体の一部としてはヨーロッパで最も古いものである。4万5千年から4万3千年まえのものと見られている。
南ドイツ新聞
そもそもどうして人類は移動を始めたんでしょうか?
フリーデマン・シュレンク
私たち古代人類学者は「移動」とはいいません。「生存権の拡大」といいます。一世代ごとにほんの何キロメートル四方かずつ広げていったんですね。初期の人類には目的地なんてなかった。道程そのものが目的だったんです。この生存圏の拡大というのがまさに人類の特徴。すでに600万年前には前人類がアフリカの熱帯雨林を出てサヴァンナに入ったんですから。その新しい生活場所で直立歩行を進化させていったんです。もっともそれはほんとうにゆっくりした歩みで、それから初めてアフリカから出たのはやっと200万年くらい前ですが。
そのままそこにいてもよかったのでは?
その通りです。けれど、では人類にとって移動というのが目新しいことだったかというとそんなこともないんですよ。手に入れたい資源を求めて何キロも歩いたりしてましたからね。食料が不足すればもっと遠くまで行って交換したし。季節ごとに移動する動物を追いかけたりとかも。人口が多くなっていったのも要因の一つかもしれません。けれど頭脳の発達も大切な点でね、人類はそのおかげで道具を使うようになったし周りの環境に左右されることも少なくなって、新しい土地に居住できるようになったと。一方そのおかげで、自分たちの道具に依存する度合いが強くなってしまいましたが。
どこか特別なルートというものがあったのでしょうか?
ありました。移住は多くが海岸沿いのルートを通りました。あるいは川に沿うとか。回廊状の森が隣接しているような川ですね。移動の道筋になるようなところはいろいろと条件を満たしていないといけません。水や食物、道具つくりの材料になる地下資源がないといけない。あと保護物もいる、寝場所用に木があったりとか。後には戦略上の考慮なんかも役割を演じるようになりましたね。周りの土地の状況がよく見渡せるようなところが選ばれたりしたんです。
具体的にはどんな道筋があったんでしょうか?
アフリカを出るのには4つのルートが可能です。第一は筏のような乗り物でジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に行くもの。第二の道は島をいくつか渡って南イタリアに到達するもの。事実そこで140万年前の道具が見つかっていますが、これらが北から移動してきた人々のものではないことは確実です。第三のルートは現在のイスラエルとレヴァントを通るもの、そして第4がアラビア半島を通過してコーカサスと東南アジアに行くものです。それらの回廊地帯にしても居住にむいていた時期というものがありまして、気候が決定的な役割をはたしていたんです。降水量に大きな揺れがあったりしましたからね。それが植生に大きな影響を与えていました。洪積世にはこれがまた何回も変化しましたし。
どれくらいの数の人間が移動していったんですか?
当時世界の人口がどのくらいあったかは見積もるのが難しい。1万1500年前に定住が始まったときはおよそ700万人ほど人間がいたようです、20万年前にホモ・サピエンスという種が発生した時どのくらいいたのかはわかりません。彼らは4~50人の群れになって移動したようです。でもその群れは固定したものではありませんでした。群れの間に結びつきがあったにちがいない、でなければすぐ近親相姦になってしまいますからね。
過去20万年のあいだで、特に移住が盛んだった時期などはあったのですか?
いくつか波がありました。それぞれが違った方向に進んだと思われます。その際道具を組み合わせてまた新しい道具を作る技術(根も切り株も掘り起こせるように斧と鋤を組み合わせたものとかね)が一役買ったのかどうか、私たちとしても知りたいところです。人類は資源を使うのにどんどん柔軟のあるやりかたをするようになっていった。それでいろいろな可能性が広がりました。
新しい生活圏がさらなる進歩をうながす、などということもあったのではないですか?
当然ありましたよ。フィードバックがあったんですから。文化、体格、知能というのは外界と接触しながら発展しますからね。精神の広がりが人類を移動に駆り立てるということもありますよ。そういうのを全部ひっくるめた人類の全体的な行動が生き残りのチャンス、将来の可能性を決めるんです。
最初に移住した人々は好奇心に駆り立てられたのでしょうか?
もちろん好奇心は大事。人間はいつも周りの環境を発見しようとしますから。どうやって生活圏を勝ち取って行ったらいいのか、ということについても彼らはたいてい計画というか何か具体的な戦術がちゃんとあったにちがいない、と私は思っています。
フェルンヴェー(見知らぬ土地への憧れ)のようなものがあったんでしょうか?
フェルンヴェーって、外界、どこか世界の果てではどんなことになっているのかなと想像してみることから始まるじゃないですか。当時すでに世界中の離れた地域とモノの交換なんかをしていたとすれば、フェルンヴェーとあってもおかしくないでしょう。中国の真珠とかインドのお茶とかが西アフリカにまでやってきていたら、想像がかきたてられもしたでしょう。遠くの地域とモノの交換をするようになるとそこでフェルンヴェーも生じたんじゃないでしょうか。
でもいろいろな道具を実際に交換したりすることとかもあったのでは?
ありました。たとえば槍の穂先なんか交換していました。あと、装飾品とか彩色用の色素とかも。そういうことはすでに15万年前のアフリカで、ホモ・サピエンスがその大陸を出ないうちからやっていました。交易所がいくつもあって、そこを通したんです。遠隔地との交易というのは中国とかヨーロッパではじまったことじゃありません。そもそも遠くの地域と交流するようになって文化の交流も始まったんです。ホモ・サピエンスが発生してすぐのころにまで遡れることなんですよ。それが現人類の最初の「拡大」ということですね。「拡大」というのは、だからまず頭の中で起こったんです。いつのころか空間的な拡大が続きました。そういう意味ではフェルンヴェーも発生源はアフリカですね。
移住していった者と残ったとの間にコンタクトはあったんでしょうか?
そう、モノの取引や交換は人間が広がっていく際強力なサポートになりました。あと遺伝学上でも交流があったことがわかってきました。人類とネアンデルタール人との間にも文化交流があったという証拠も見つかりました。それでこそ我々の種は生存しているんです、どころか結局それが私たちのような種族が誕生した、今のような新しい文化が発生した、それらの原因なんですね。
もうちょっと詳しく説明してください。
チンパンジーも群れで生活していますし、道具も作ります。つまりある種の文化は持っているんです。けれど我々人類とは決定的な違いがある:チンパンジーはその文化を自分たちの地域的に限定された群れの内部でしか伝承していきません。初期の人類の自然淘汰の際に決定的に有利に働いたのが、自分たちの成果を種族全体に伝えることが出来た、ということです。経験を分かち合う、知識を交換したり伝承したりする、そういうことです。それで初めて私たちは人類と言う種となったんです。
そうなるといわゆる開かれた態度がなければどうにもなりませんね。こんにちの移住問題の専門家もそれが移民を社会にうまく適合させるためのカギとみていますが。
もちろんです。道具つくりの技術がいかにして伝えられていったかについては証拠が出せますよ。ある考え方、思想、経験とかが伝えられていって、別のしかるべきところに収まる。こういうことは他の種にはありません。人類のカギとなる特徴なんです、交換・交流という能力は。まさにそこからです、ホモサピエンスがこんにち世界中で示しているバイオカルチャー面での多様性が生じたのは。経験を交換しあうこと、これはこんにちでも原則なんです。けれど今日びはどんどん壁が築かれて交流が邪魔されていっている感じですね。人類にとってこれは致命的なんですよ。
インタビュアー: フーベルト・フィルザー
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