外国語をやっていると、時々日本語の感覚では全く別の観念が一つの単語としていっしょになっているので驚くことが多い。例えばpoorという語に「貧しい」と「かわいそうな」という意味があると聞いて「そんな馬鹿な。貧しいとかわいそうじゃ意味が全然違うじゃないか」と戸惑ったのは私だけだろうか。この二つは英語だけでなくドイツ語でもロシア語でも同単語になっている。前者がarm(アルム)、後者はбедный(ベードヌィ)である。だからドストエフスキーの小説の題名は「貧しき人々」とも「哀れな人々」とも訳せるわけだ。
 また、ショーロホフの『静かなドン』の原題はтихий Донだが、ここで「静かな」と訳されているтихий(チーヒィ)は「ゆっくりとした」という意味もあるからこれは「ゆっくりと流れるドン」あるいは「たゆとうドン」とでも訳してもよかったのではないだろうか。もっともドイツ語でも「静かなドン」(Stille Don)と訳してあるが。それにしても「ゆっくり」と「静か」がいっしょになっているロシア語に驚く。
 が、こんなことで驚いていたらロシア語はやっていられない。なんと「夢」と「眠り」が区別されずに一つの単語になっているのだ。Сон(ソーン)という言葉がそれである。実はロシア語ばかりでなくスペイン語でも眠りと夢はいっしょで、sueñoである。ではロシア語やスペイン語で「夢のない眠り」はどう表現したらいいのか気になって仕方がない。
 もっともロシア語のсонが表す「夢」はあくまで寝ているときにみる夢であって「将来の夢」という場合の夢はмечта(メチター)とまったく違う言葉を使う。日本語では両方とも「夢」で表すと聞いたらきっとロシア人は「そんな馬鹿な。Сонとмечтаじゃ意味が全然違うじゃないか」と怒り出すに違いない。スペイン語のsueñoは睡眠中の夢も希望の夢も意味する。この点では日本語をいっしょだ。ドイツ語は睡眠Schlaf(シュラーフ)と夢Traum(トラウム)が別単語な上、後者が寝ている時の夢も希望も表すから日本語といっしょである。

 しかしだからといってドイツ語に気を許してはいけない。上で述べたarmのほかにも落とし穴があるからだ。
 以前なんとかいう長官が「自衛隊は暴力装置」と言ったとか言わなかったとか、その通りだとかそれは間違いだとかが議論になったことがあるが、その議論の中で「マックス・ウェーバーも警察や軍隊を暴力装置と呼んでいる」と引き合いに出している人がかなりいた。しかしウェーバーが「暴力装置」などと言ったはずはないのだ。なぜならばウェーバーは日本語などできなかったからである。というのは揚げ足取りにすぎるが、問題はここで「暴力」と訳されているGewalt(ゲヴァルト)というドイツ語である。このGewaltは「暴力」などよりもずっと意味が広く、「権力」あるいは「権力行使」という観念も表す。というよりむしろそういうやや抽象的な意味のほうがメインで、gesetzgebende Gewalt(「法律をつくるゲヴァルト」)は「立法権」、richterliche Gewalt(「裁判官のゲヴァルト」)は「司法権」、vollziehende Gewalt(執行するゲヴァルト))は「行政権」、Gewaltentrennung (「それぞれのゲヴァルトの分離」)で「三権分立」、さらにelterliche Gewalt(「親のゲヴァルト」)は「親権」で、親が子供に往復ビンタを食らわしたりすることではない。
 さらに日本語の「暴力」には「暴力団」という言葉があることからもわかるように「犯罪」「悪いこと」というニュアンスがある。ここから派生した「暴力的」という形容詞にもはっきりとネガティブな色合いが感じられ、こういう人は「頭や言葉では相手に勝てないと思うとすぐに手が出る未熟な男(女にもいるが)」である。
 Gewaltにはこのニュアンスがない。「権力」「強制権」の意味も無色に表しているが、この言葉にはその他にも「通常の程度を遥かに超えるもの」、「非常に強力なもの」という意味があって、Naturgewaltで「自然の威力」、höhere Gewaltは言葉どおりに訳せば「より高いゲヴァルト」で日本語の「暴力」という観念にしがみ付いていたら理解できないが、これは「不可抗力」という意味である。また「ゲヴァルト=暴力」という図式だとWiderstand gegen die Staatsgewaltは「国家の暴力に対する抵抗」とでも訳さねばならず、まるで圧政に対して立ち上がる革命活動のようだが、これは単なる「公務執行妨害」。ついでにドイツ語ネイティブに「神のゲヴァルト」、göttliche Gewaltという言い方は成り立つかどうか聞いてみたところ間髪をいれずOKが出た。Gewaltから発生した形容詞gewaltig(ゲヴァルティッヒ)は「暴力的」などではなく「すさまじい」。つまりドイツ語のGewaltには日本語の「暴力」のようなケチくさい意味あいはないのである。
 だからマックス・ウェーバーの暴力装置神話もちょっと気をつけないといけない。氏が軍隊を暴力装置と呼んでいる、と言っている人はひょっとしたらPolitik als Beruf(「職業としての政治」)で出てくるHauptinstrument der Staatsgewaltという言葉を「国家暴力の主要な装置」と読み取ったのではないだろうか。これはむしろ「国家権力施行のための主要な道具組織」であろう。またウェーバーは「装置」にあたる意味ではInstrumentよりApparatという言葉のほうを頻繁に使い、その際国家のプロパガンダ機構など、つまり言葉どおりの意味での「暴力」を施行しない組織も念頭においているではないか。さらに私は「軍隊・警察はGewaltの道具組織(そもそもInstrumentまたはApparatをこの文脈で「装置」と訳すのは不適切だと思う)である」とキッパリ定義してある箇所をみつけることができなかった。もちろん、ウェーバーがそう考えていることはそこここで明らかにはなっている。しかし「軍隊・警察は権力の道具となる組織」というのはむしろ単なる言葉の意味の範囲にすぎず、ウェーバーがわざわざ言い出したことではない、というのが原文をザッと見た限りでの私の印象である。念のため再びネイティブに「Instrument der Staatsgewaltってなあに?」と無知を装って(装わなくても無知だが)質問してみたところ、「警察とかそういうものだろ」という答えが帰ってきた。このネイティブはウェーバーなど読んだことがない。「軍や警察は権力施行のために働く機構である」などということは当たり前すぎてわざわざ大仰に定義する必要などないのだ。
 私はドイツ国籍を取ったとき、何か宣誓書のようなものにサインした。そのときいかにも私らしく内容なんてロクに読まずにホイホイサインしてしまったのだが、その項目の一つに「私はドイツのStaatsgewaltを受け入れます」というのがあったこと(だけ)は覚えている。これは決してお巡りさんや兵隊さんに殴られても文句を言うなということではない。国が私に対して強制権を施行してくるのを認めます、という意味だ。「税金なんて払うの嫌です」とかいって払わないでいれば国は権力を施行して私を罪に問う。私が人を殺せば国は私を刑務所に送り込む。国がそういうことをするのを認めよ、という意味である。

 と、いうわけでこのGewaltに関してはドイツ語のほうが意味が広いわけだが、日本語の単語のほうが守備範囲が広いこともある。「青」という語が有名で、「青葉」「青リンゴ」「青信号」という言葉でもわかるように日本語「青」にはやや波長の長い緑色まで含まれる。ドイツ語のblau(ブラウ、「青」)には緑は入らないから木の葉やリンゴ、信号などは緑としかいえない。もちろん、だからといって日本人が青と緑を識別できないわけではない。子供に絵をかかせれば花の茎や木の葉は皆きちんと緑色に塗っている。
 それで思い出したが、ある時物理学者が信号無視で捕まり、警官に「あまりスピードを出しすぎたため信号の光がドップラー効果を起こし、赤が青(つまり「緑」)に見えてしまった」と言い訳したそうだ。何十億光年も先にあるクエーサーが赤方偏移を起こしたという話は聞くが、信号機が青方偏移したなんて聞いたことがない。どんだけ超スピードの乗用車なんだか。そんなんじゃ仮に信号無視は見逃してもらえたとしてもそのかわりスピード違反でやっぱり罰金は免れまい。

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