どれか一つ戦争映画を紹介してくれと言われたら私はエレム・クリモフ監督のソ連映画『Иди и смотри (「Come and see」)』(1985)を勧める。第二次世界大戦時のベラルーシにおけるパルチザン対ドイツ軍の戦いを描いたもので、ソビエト・ロシアの芸術の伝統をそのまま引き継いだような大変美しい映像の映画である。ストーリーにもわざとらしい勇敢なヒーローは出てこない。使用言語の点でもロシア語のほかにベラルーシ語を聞くことができるから面白いだろう。
タイトルの『Иди и смотри』だが、Иди(イジー)とсмотри(スマトリー)はそれぞれидти (イッチー、「行く」)、смотреть (スマトレーチ、「見る」)という動詞の単数命令形だ。どちらも不完了体の動詞なので(『16.一寸の虫にも五分の魂』の項参照)ロシア語をやった人はひっかかるだろう。
普通「なんか外がうるさいわね。ちょっと行って見て来てよ」という場合は完了体動詞の命令形を使い、「пойди и посмотри」(パイチー イ パスマトリー)とかなんとか言うはずだ。授業でも「通常命令形は完了体を使う」と教わる。 なぜここでは対応する不完了体動詞が使われているのか。
不完了体の動詞の命令形の用法の一つに、「相手が躊躇していたり、遠慮していたりするのを強く促す」あるいは「一度中断した行為の再開を促す」という働きがあるのだ。つまり命令・要求の度合いが強く、「何をグズグズしてるんだ? 早く作業に取り掛かれ!」「途中で止めるな、続けろ」というニュアンスだ。以下の例では最初のget upが普通に完了体動詞、二つ目が強い要求の不完了体命令形となっている。
Встань, ну вставай же!
起きる (完了体・命令) + さあ + 起きる(不完了体・命令) + 強調
起きろ、やい、さっさと起きろってば!
前にも取り上げたショーロホフの『他人の血』にも不完了体の命令文が使われる場面がある。革命時の内戦で赤軍と戦うために出かけていった一人息子が帰ってくるのをコサックの老夫婦が首を長くして待っているが、何の知らせもない。いや、風の噂は届いていた。息子の部隊はクリミア半島で全滅した、と。ある日息子といっしょに同じ村から出征して同じ部隊にいた知り合いが帰って来る。その知り合いが老夫婦を訪ね、息子が戦死した模様を伝えるのである。父親のほうは感情を押し殺してその報告に耳を傾け続けるが、母親のほうは堪えられない。途中で叫びを上げて泣き出してしまう。その母親を父親は「黙れ」と怒鳴りつけ、ひるんで黙ってしまった知り合いに対して「さあ、しまいまで言ってくれ」とうながすのである。まさにそこで不完了体動詞の命令形が使われているのだ。
Ну, кончай!
さあ + 終える・最後までやる(不完了体・命令)
これが単なる「しまいまで言え」だと完了体を使うから
Кончи!
終える・最後までやる(完了体・命令)
となる。息子の死を告げかねて言いよどむ訪問者をこの父親が促す場面が他にもあるが、そこでもやはり動詞は不完了体だった。
また不完了体動詞の命令形には「ずっとその行為をやり続けろ」というニュアンスを帯びることがある
смотрите всё время в эту сторону!
見る(不完了体・命令形・複数) + すべて + 時間 + ~の中に + この + 側
ずーっとこっちの側を見てなさい!
さらに「繰り返してその行為をやりなさい」という時にも不完了体動詞で命令する。
Учите новые слова регулярно!
覚える(不完了体・命令) + 新しい + 単語 + 規則的に
規則的に新しい単語を覚えなさい!
いずれにせよ、不完了体動詞の命令形には「普通以上の」意味あいがあるのだ。
だから『иди и смотри 』はcome and seeと訳して間違いではないが(「行く」がcomeになっていることはここでは不問にする)、単に「行って、そして見ろ」ではなくて、目を背けたくなるようなドイツ軍の蛮行、女・子供まで、いや「劣等人種ロシア人をこれ以上増やさないように」優先的に女子供を虐殺していったドイツ軍の、とても正視出来ないような狂気をその目で見るがいい、見続けるがいい」という非常に強い重いニュアンスだと私は解釈している。
それあるにこの映画の邦題は『炎628』という全く意味不明なものになっているのだ。628というのは当時ドイツ軍に焼き払われたベラルーシの村の数だが、いきなりそんな数字をタイトルに持って来たって観客に判るわけがないではないか。こんな邦題をつけた責任者には「ワースト邦題賞」でも授与してやるといい。これからも映画の芸術性を隠蔽し、客足を遠のかせるような立派なタイトルをドンドン付けていってほしいものだ。
もっとも論文などで「○○参照」という時もсм.、つまり不完了体のсмотритеを使う。これは皆私のように「注」を読むのをめんどくさがって大抵すっ飛ばすので「見ることを強く要求」されていると解釈することもできるが、当該行為を「抽象的に指示」するときは不完了体を使うから、まあこれは別に「横着しないで注もちゃんと読みやがれ」と怒られているわけではないようだ。ほっ。
さて、肯定の命令形では今まで述べたように完了体動詞がデフォ(言語学用語では「無標」)で、強いニュアンスを伴う不完了体動詞が有標だが、これが「~するな」という否定の命令になると逆に不完了体動詞のほうがデフォ、完了体動詞が有標となるから怖い。
完了体の否定命令を使うと、警告の意味がある、つまりその行為が本当に行なわれてしまいそうな実際的な危険性がある、というニュアンスになるのだ。たとえば普通に「その本をなくすなよ」と言いたい場合は不完了体を使って
Не теряй эту книгу!
否定 + 失くす(不完了体・命令) + この本を
この本失くさないで!
だが、相手が本当に失くしそうな奴だったりしてこちらに一抹の心配があり、特にクギを指しておきたい場合は完了体で命令するのだ。
Не потеряй эту книгу, она из библиотеки.
否定 + 失くす(完了体・命令) + この + 本を + それ + ~から + 図書館
この本失くすんじゃないぞ、図書館から借りたんだから。
このように肯定の命令では完了体動詞がデフォ、否定の命令では不完了体がデフォなわけだが、これが以前に『16.一寸の虫にも五分の魂』で述べた「歴史的現在と過去形」と共にいわゆるアスペクトのペアを決める際の助けになっている。同じ事象をニュアンスなしで肯定と否定の命令で言わせ、肯定命令で使われた動詞と否定命令で使われた動詞をペアと見なすのである。
このアスペクトのペアというのはロシア語文法の最重要項目のひとつであり、大学では大抵語学そのものと平行して特に動詞アスペクトだけをみっちり仕込まれる授業をうけさせられる。必須単位である。これがわからないとロシア語の文章を正しく理解することができないからだ。文の意義だけ取れても意味が取れなければ特に文学のテキストを解釈するには致命的だろうし、日常会話でもいわゆる空気が読めずに困るだろう。
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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タイトルの『Иди и смотри』だが、Иди(イジー)とсмотри(スマトリー)はそれぞれидти (イッチー、「行く」)、смотреть (スマトレーチ、「見る」)という動詞の単数命令形だ。どちらも不完了体の動詞なので(『16.一寸の虫にも五分の魂』の項参照)ロシア語をやった人はひっかかるだろう。
普通「なんか外がうるさいわね。ちょっと行って見て来てよ」という場合は完了体動詞の命令形を使い、「пойди и посмотри」(パイチー イ パスマトリー)とかなんとか言うはずだ。授業でも「通常命令形は完了体を使う」と教わる。 なぜここでは対応する不完了体動詞が使われているのか。
不完了体の動詞の命令形の用法の一つに、「相手が躊躇していたり、遠慮していたりするのを強く促す」あるいは「一度中断した行為の再開を促す」という働きがあるのだ。つまり命令・要求の度合いが強く、「何をグズグズしてるんだ? 早く作業に取り掛かれ!」「途中で止めるな、続けろ」というニュアンスだ。以下の例では最初のget upが普通に完了体動詞、二つ目が強い要求の不完了体命令形となっている。
Встань, ну вставай же!
起きる (完了体・命令) + さあ + 起きる(不完了体・命令) + 強調
起きろ、やい、さっさと起きろってば!
前にも取り上げたショーロホフの『他人の血』にも不完了体の命令文が使われる場面がある。革命時の内戦で赤軍と戦うために出かけていった一人息子が帰ってくるのをコサックの老夫婦が首を長くして待っているが、何の知らせもない。いや、風の噂は届いていた。息子の部隊はクリミア半島で全滅した、と。ある日息子といっしょに同じ村から出征して同じ部隊にいた知り合いが帰って来る。その知り合いが老夫婦を訪ね、息子が戦死した模様を伝えるのである。父親のほうは感情を押し殺してその報告に耳を傾け続けるが、母親のほうは堪えられない。途中で叫びを上げて泣き出してしまう。その母親を父親は「黙れ」と怒鳴りつけ、ひるんで黙ってしまった知り合いに対して「さあ、しまいまで言ってくれ」とうながすのである。まさにそこで不完了体動詞の命令形が使われているのだ。
Ну, кончай!
さあ + 終える・最後までやる(不完了体・命令)
これが単なる「しまいまで言え」だと完了体を使うから
Кончи!
終える・最後までやる(完了体・命令)
となる。息子の死を告げかねて言いよどむ訪問者をこの父親が促す場面が他にもあるが、そこでもやはり動詞は不完了体だった。
また不完了体動詞の命令形には「ずっとその行為をやり続けろ」というニュアンスを帯びることがある
смотрите всё время в эту сторону!
見る(不完了体・命令形・複数) + すべて + 時間 + ~の中に + この + 側
ずーっとこっちの側を見てなさい!
さらに「繰り返してその行為をやりなさい」という時にも不完了体動詞で命令する。
Учите новые слова регулярно!
覚える(不完了体・命令) + 新しい + 単語 + 規則的に
規則的に新しい単語を覚えなさい!
いずれにせよ、不完了体動詞の命令形には「普通以上の」意味あいがあるのだ。
だから『иди и смотри 』はcome and seeと訳して間違いではないが(「行く」がcomeになっていることはここでは不問にする)、単に「行って、そして見ろ」ではなくて、目を背けたくなるようなドイツ軍の蛮行、女・子供まで、いや「劣等人種ロシア人をこれ以上増やさないように」優先的に女子供を虐殺していったドイツ軍の、とても正視出来ないような狂気をその目で見るがいい、見続けるがいい」という非常に強い重いニュアンスだと私は解釈している。
それあるにこの映画の邦題は『炎628』という全く意味不明なものになっているのだ。628というのは当時ドイツ軍に焼き払われたベラルーシの村の数だが、いきなりそんな数字をタイトルに持って来たって観客に判るわけがないではないか。こんな邦題をつけた責任者には「ワースト邦題賞」でも授与してやるといい。これからも映画の芸術性を隠蔽し、客足を遠のかせるような立派なタイトルをドンドン付けていってほしいものだ。
もっとも論文などで「○○参照」という時もсм.、つまり不完了体のсмотритеを使う。これは皆私のように「注」を読むのをめんどくさがって大抵すっ飛ばすので「見ることを強く要求」されていると解釈することもできるが、当該行為を「抽象的に指示」するときは不完了体を使うから、まあこれは別に「横着しないで注もちゃんと読みやがれ」と怒られているわけではないようだ。ほっ。
さて、肯定の命令形では今まで述べたように完了体動詞がデフォ(言語学用語では「無標」)で、強いニュアンスを伴う不完了体動詞が有標だが、これが「~するな」という否定の命令になると逆に不完了体動詞のほうがデフォ、完了体動詞が有標となるから怖い。
完了体の否定命令を使うと、警告の意味がある、つまりその行為が本当に行なわれてしまいそうな実際的な危険性がある、というニュアンスになるのだ。たとえば普通に「その本をなくすなよ」と言いたい場合は不完了体を使って
Не теряй эту книгу!
否定 + 失くす(不完了体・命令) + この本を
この本失くさないで!
だが、相手が本当に失くしそうな奴だったりしてこちらに一抹の心配があり、特にクギを指しておきたい場合は完了体で命令するのだ。
Не потеряй эту книгу, она из библиотеки.
否定 + 失くす(完了体・命令) + この + 本を + それ + ~から + 図書館
この本失くすんじゃないぞ、図書館から借りたんだから。
このように肯定の命令では完了体動詞がデフォ、否定の命令では不完了体がデフォなわけだが、これが以前に『16.一寸の虫にも五分の魂』で述べた「歴史的現在と過去形」と共にいわゆるアスペクトのペアを決める際の助けになっている。同じ事象をニュアンスなしで肯定と否定の命令で言わせ、肯定命令で使われた動詞と否定命令で使われた動詞をペアと見なすのである。
このアスペクトのペアというのはロシア語文法の最重要項目のひとつであり、大学では大抵語学そのものと平行して特に動詞アスペクトだけをみっちり仕込まれる授業をうけさせられる。必須単位である。これがわからないとロシア語の文章を正しく理解することができないからだ。文の意義だけ取れても意味が取れなければ特に文学のテキストを解釈するには致命的だろうし、日常会話でもいわゆる空気が読めずに困るだろう。
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