私はガルシンと言うロシアの小説家の作品が好きだ(『10.お金がないほうが眠りは深い』参照)。ガルシンは33歳で夭逝(自殺)したうえ精神を病んでいたので長編小説は書いていない。発表された作品の数も少ない。同じく若くして死んだプーシキンやレールモントフ、またはゴーゴリと違ってロシア近代文学を切り開いたりはしなかったし、トルストイ、ドストエフスキイ、トゥルゲーネフと違って世界中の人々をロシア文学に釘付けにしたりはしなかった。言い変えるといわゆる「ロシア文学の金字塔」にはならなかったのである。その作品はどれも繊細でつつましく、ロシア語は平坦で変にひねった言い方やこれ見よがしの表現などもなく、また大仰に人生哲学を繰り広げたり人間の業の深さをギューギュー突き詰めたりもしない。無理解な人、鈍感あるいは不愛想な人は登場するが本当に意地の悪い人、真正の悪人は出て来ない。ガルシンをもし他の誰かと比べるとするならチェーホフだろう。
『あかい花』Красный цветок と言う作品が特に有名だが、これは癲狂院(死語か)に入れられた患者の話である。主人公は現実との接触をほとんど失っており、頻繁に狂躁の発作に襲われているが、何かの折には一瞬正気が戻る。そういう精神疾患の患者の心の内部描写の正確さが精神医学者からも絶賛された。狂躁に襲われた主人公は夜も眠らず、昼はあちこち動き回って体力を消耗し、体重も減って命の危機に至る。そうやって衰弱していく中で患者はふと病院の庭に咲いている赤いケシの花を見つけ、それを悪の象徴と思い込む。世の中のため、人のためにと花を一つ一つつぶしていくのだが、病院の看護人には赤い花は邪悪の象徴などではないから、患者がむやみやたらに綺麗な花をムシリとっているとしか見えない。当然のことながらそれをやめさせようとする。それでも患者は「悪との戦い」を止めない。とうとう最後の花をもぎ取ってそれを手にしたまま衰弱死する。その死に顔は安らかで満足感に満ちていた。私はこれを読んだとき何か厳粛な気持ちになったのだが、その理由の一つが、上でも言ったように作品には嫌な奴が一人もおらず、基本的には皆この患者に親切だということだ。19世紀ロシアの癲狂院のことだからもちろん脳のCTスキャンもないし、抗うつ剤もない、現在の目から見れば間違った治療をしているかもしれない。だが医者は患者のために当時としてはそれなりのことをする。患者が狂躁のため衰弱し、命の危険が生じると、「徘徊を止めさせないと死んでしまう。暴力には訴えたくないのだが、やむを得ない、縛ろう」と躊躇しつつ患者を縛る。この縛るというのはもちろん江戸時代の捕り物のように後ろ手に縄でギリギリ縛ることではなく、狭窄衣を着せるという意味である。治療の時も上から目線で患者に対したりしない。看護人たちも患者たちをウザがって放置したり、わざとつらく当たったり、自分の権力を振り回したりは全くせず、まあ良心的だ。『カッコーの巣の上で』のあの看護婦とはエライ違いだ。なんというか、作品のトーンが全体的に清らかなのである。私はこの清浄ぶりがまさにガルシンだと思っている。
ガルシンはロシア帝国南部のエカテリノスラーフ県、現ウクライナ領のドニエプロあたりの生まれで、作品中には時々その故郷の言葉、つまりウクライナ語がでてくる。例えば『あかい花』でも癲狂院で働いている人のなかにウクライナ語の話者がいる。狭窄衣を着せられた主人公がそこから抜け出て暴れはじめたとき、看視人が駆けつけてくるシーンはこうなっている。
__ О, щоб, тоби!.. __ закричал вошедший сторож. __ Який тоби бис помагае! Грицко! Иван! Идите швидче, бо вин развязавсь.
「うわっ、こりゃお前…」、入ってきた看視人は叫んだ。「どんな悪魔がお前を手伝ったんだ!グリツコ!イワン!はやく来い、奴が抜け出たんだぞ!」
地の文はロシア語だが、看視人の発言はウクライナ語(太字)である。ウクライナ語だがロシア語の正書法で表記してある。現在のウクライナ語の正書法では次のようになる。黄色の部分が「ロシア語表記のウクライナ語」と違っている箇所。
О, щоб, тобі!.. … Який тобі біс помагаэ! Грицко! Иван! Ідіть швидче, бо він розв'язавсь.
ロシア語に直すとさらにこうなるが、気になる点がいくつかある。
О, чтобы, тебе!.. … Какой тебе бес помагает! Грицко! Иван! Идите быстрее, ибо он развязался.
まず「来い」、つまり「来る」あるいは「行く」の命令形2人称複数、一番上の例(ロシア語表記のウクライナ語)で Идите(下線)となっている形だが(不定形はそれぞれ идти と іти )、これをそのままウクライナ語表記にすれば Ідіте(下線)となるはずだ。ところがウクライナ語ではіти の複数命令形がロシア語と違うので語末が母音ではなく子音の ть になる。言い換えるとガルシンの原語ではこの部分は「ロシア語表記のウクライナ語」ではなくガチのロシア語、つまり話者が言語転換しているのである。 Идите を太字にしなかったのはそういう理由だ。もうひとつ、ウクライナ語の розв'язавсь、「ガルシン表記」の развязавсь(「ふりほどく」)だが、これを見るとウクライナ語では単数男性の過去形はロシア語のような -л(-l)でなくまるで分詞形のような -в(-v)をつけて作ることがわかる。 調べてみたら女性単数や中性単数、複数の過去形はウクライナ語でもロシア語と同じく -л(-l)が現れるそうだ:それぞれрозв'язала、розв'язало、розв'язали。さらに最後尾の再帰代名詞だが、ガルシンでは -сь(-s’)とあるが、先行の音が -в(-v)、つまり子音なのだからここは -ся(-sja)がついて развязався、ウクライナ語正書法で розв'язався となるはずなのではないか、これは誤植ではないかと思って別のテキストに当たってみたがやっぱり развязавсь とある。ではこれはガルシン自身のウクライナ語が間違っていたのかとしつこく追及してみると驚くなかれ、ウクライナ語では先行音が子音だろうが母音だろうが -сьでも -ся でもいいそうだ。ということは例えば過去形女性単数にрозв'язалась だけでなく розв'язалася という形も許されているということだ。ロシア語だったらここは -сь 一本鎗である。そうしてみると上で私が「ロシア語だ」と言った Идите についても使用例は見つけられなかったが実はウクライナ語でもІдіть の他に Ідіте という形も許されているのかもしれない。
なおこのウクライナ語の部分を名訳で知られた神西清は次のように訳している。
「ひゃあ、このやつがれ!…」と、はいって来た看視人がわめきたてた、「なんたる悪魔が助(す)けおったぞな?グリッコやい、イヴァンやい! いそぎ来(こ)うよう、抜け出おったがな。」
ウクライナ語は南スラブの語の影響を受ける以前の東スラブ語に特徴的な古い部分を残している。それで少し古風な感じのする言い回しで訳したのだろうが、まさに名人芸という他はない。
とにかく客観的に見ればこの主人公は全く役にも立たないことに命をかけて無駄死にしたことになる。「死をかけた努力が結局何にもならなかった、または無駄な目的のために命をかける」、これが『あかい花』の主モチーフだが、ガルシンがその3年前に発表した『アッタレア・プリンケプス』Attalea princeps (ロシア人はアッタレア・プリンツェプスと発音する)でもそのモチーフが扱われている。
『アッタレア・プリンケプス』はメルヘン風の作品で。舞台は町の植物園、その温室の中の草や木が登場人物(?)だ。主人公はその木々の中でもずば向けて背の高い棕櫚の木で、その学名がアッタレア・プリンケプスというのだ。アッタレアは背が高いだけに温室のガラス天井を通していつも空がよく見え、ガラスを通してでなく自分の目でその青い空が見たくてたまらない。故郷ブラジルでのように直接外の空気に触れあたたかい雨に打たれてみたくてたまらない。実際あるときブラジルから客が来てアッタレアを見てまるで同郷人に遭ったように懐かしがり、アッタレアを「本名」で呼んでいく。本名と言うのは勝手にヨソからきた学者がつけていったラテン語の名前でなく、現地の人が現地の言葉で呼んでいた名前である。
そこでアッタレアは天井に届くまで背を伸ばし、さらに幹や葉でガラスを押し割って外に出ようとする。アッタレアは周りの草木たちにも「いっしょにやろう」と誘うが皆は温室の生活に満足しきっており、誰も同調しないばかりか、自由になろうとするアッタレアを гордячка(「高慢な女」)とののしる。ただ一人、温室の地面を隠すためだけに植えられていたみじめなつる草がアッタレアを応援するが、いっしょに行動を起こす力も勇気もない。
アッタレアはあらゆる力をふり絞って背を伸ばし、痛いのをこらえて傷だらけになりながらとうとうガラス天井をぶち破って外に頭を出すが、そこは凍えそうに寒く(ロシアの秋ですからね)、まわりの景色も陰気で何もいいことなどない。アッタレアは только-то?「これだけのことだったのか」と後悔するが元に戻るすべもない。根元から斬り倒されて植物園の裏庭に捨てられてしまう。唯一の友だちのつる草もいっしょに引っこ抜かれて廃棄される。
主人公の名前 Attalea princeps はキリル文字でなくラテン文字で記されている。-a で終わっているから女性名詞扱いということになるし、さらにロシア語で「ヤシ、棕櫚」は пальма で幸い女性名詞だからアッタレアという名前と文法性が整合するので誰がどう見てもこの主人公は女性である。それはいいのだが、ロシア語では普通名詞ばかりでなく固有名詞も格変化する。Attalea という名前も格変化させられているのか、それともラテン文字表記だから格変化は勘弁してもらっているのか。そこをちょっとチェックしてみると、まずアッタレアは大抵の場合主格で出てくる。例えば繋辞文の述部あるいは主部や、動詞の主語としてである。
Это — Attalea princeps.
this + (is) + Attalea princeps-主
これはアッタレア・プリンケプスだ。
… отвечала Attalea.
answered + Attalea-主
…とアッタレアは答えた。
そもそも Attalea という形はラテン語女性単数の主格だし、ロシア語でもそうだからこれをモロに使って問題ない。問題は Attalea が斜格になる場合だ。例えば「AをBと名付ける」という文ではAは対格、Bは造格になる。次のような例があるが、Attalea は造格のはずだ。
… ботаники называют ее Attalea
… botanist + name + her-対 + Attalea- 造
植物学者はそれ(その棕櫚)をアッタレアと呼ぶ。
つまりラテン語表記の Attalea は形としては主格のままで格変化していない。本来ならばここで造格語尾をとり、Attaleей という形になるはずだからだ。
ところが生格、対格、与格では格語尾が変化している。
Она могла только ... обвить-ся около ствола Attaleи
she + could + only … entwine-herself + around + trunk + Attalea-生
彼女(つる草)は…アッタレアの幹の周りに絡みつくことしかできなかった
все … начали доказывать Altaleе, что ...
all … + began + prove + Attalea-与 + that …
皆アッタレアに…ということを証明しようとし始めた。
но все-таки сердили-сь на Attale'ю ...
but+ nevertheless+ anger-themselves + on + Attalea-対
けれど(皆)アッタレアに腹を立てていた。
造格だけ語尾変化しなかったのは「名付ける」という動詞のせいだろう。上で述べたように「AをBと名付ける」という場合、確かにBは造格が基本だが固有名詞、特に外国語っぽい名前の時は主格になることもないではないからだ。面白いことにこれもちょっと他のテキストをあたってみたらここで引用したテキスト以外は皆語尾変化から解放されて一律 Attalea になっていた。語尾変化させているほうがガルシンの原語に近いと思うのだが、どうだろう。
さて『アッタレア・プリンケプス』も『あかい花』も「無駄死に」を描いているのだが、物語の構造と言うか登場人物設定では正反対ともいえる点がある。
まず『アッタレア・プリンケプス』の主人公は周りの住人(?)から抜きんでている存在だ。背は高く美しく、道徳的にも毅然としている。だから周りからは妬まれる。『あかい花』の主人公、精神病院の患者は全く逆で、周りから蔑まされるとまでは行かないが(患者が蔑まされてはいない、という点にガルシンらしさを感じたことは上で述べたとおりである)、少なくとも周りと同等には見られていない。いわば周りより下に位置する存在だ。
そして「皆より上」なアッタレアが命をかけてでも得ようとした目的、「自由」は結局自分のためである。自分の目で空が見たかった、外に出たかったのだ。もちろん自由は自分のためだけではない、他人もそれで幸せになると思ったから周りにも誘いをかけたので、決して自分のためだけ考えていたわけではない。わけではないが、第一の動機は自分であった。そういえば「死んでもいいから自分自身の目で見てみたい」と望んでやっぱり死んでいった人はもう一人いる。『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーで、氏も生命維持装置を外せば死ぬとわかっていながら、最期に機械を通さず自分の目でルークを見たがった。
話を戻すが、自分の望みのために命をかけたアッタレアに対し『あかい花』の患者は自分のことなど少しも考えていない。あくまで世のため人のため、周りを救うために自分の命を犠牲にしようという意図だった。もちろん社会が邪悪から解放されれば結果として自分も解放されるが、第一の動機は他者の幸福である。
第三の違いは、目的達成の後アッタレアは後悔しながら死んでいくが、患者の方は自分に満足した安らかな死だったという点だ。
ではガルシンは「他のために自分を犠牲にすれば満足して死ねる」と言いたかったのか。そうとは思えない。生きていることがそもそも苦しみでしかなく、短い生涯を通じて必死に生存の意味を問い続けたガルシンがそういう安直な答えを打ち出すはずがない。自己犠牲を貫徹して安らかに死んだのは狂人なのだ。現実を認識する力がない。アッタレアが後悔した、というより後悔「できた」のは自分の目的が実はトンチンカンであったと把握するだけの認識能力があったからだ。つまり前者の安らかな死はいわば「知らぬが仏」である。それならガルシンは「自分の死の無意味さを知らないまま安らかに死ぬのと、無意味さを正しく把握して後悔して死ぬのとどちらがいいか」という問いを投げているのか。回りくどくて申し訳ないが、どうもそうとも思えない。
確かにガルシンの作品には何も考えずにじっと我慢の子で人生の重みを背負っていく人たち、誠実に必死に生きている人たちがよく登場し、優しく描かれている。『10.お金がないほうが眠りは深い』で出した『信号』の主人公もそのタイプだし、『あかい花』や『アッタレア・プリンケプス』と共に代表作とみなされている『4日間』に出てくる兵士たちも皆そんな感じだ。主人公は祖国のために命を捧げる気で戦場に赴き、大怪我をして4日間も動けずに戦場に横たわる。隣には自分の殺した敵兵の死体が横たわっている。主人公はそこで故郷のこと、敵兵への同情、自分が殺人者となってしまった事への後悔など様々思いをめぐらすのだが、最後には味方の部隊が見つけてくれて病院に送られる。その衛生兵、医者などの親切で誠実なこと、読んでいるほうまで心底胸をなでおろす。さらにもう一つの作品『従卒と士官 』の従卒も人生の重みに黙々と耐えている。それらガルシンの描く市井の人々には何というか、気高ささえ感じるほどだ。しかしそれらの人々は幸せなのか。否である。逆に理想を抱いて無駄死にするアッタレアや病人は不幸な人生だったのか。これも否である。つまりガルシンはどちらの生き方が幸福か、どちらが人間のあるべき人生かという類の(説教臭い)問いを発しているわけではないのである。
ガルシンは(神西清の言葉によれば)「異常にとぎすまされた道徳的敏感さ」によって善良な人たちが幸せでないのを見て取ったが、その良心の持って行き場がない。誰一人として理解してくれる者がいないのである。社会も微動だにしない。かといって良心のほうを捨て去ることはガルシンにはできなかった(それをする人は世の中にはゴマンといる。私も人のことは言えないが)。結局そのために自分が破滅するしかない。これも神西清のことばだが、ガルシンは「その病身の身をもってあの窒息せんばかりの空気のなかに、一点の弱々しくはあるが曇りない良心の灯をよく守り通した」のである。