マリア Maria という名前があるが、これをナワトル語で Malintzin という。後ろについた -tzin というのはいわば丁寧語の接尾辞で、日本語で言えば「お」だろうか。江戸時代に例えば「シマ」という名前の女性を「おシマさん」と呼んだようなものだ。-in は多分ナワトル語の音韻か形態素を整える働きだろうから、つまり Maria は Malia。要するにナワトル語は l と r の区別をしないのである。日本語やアイヌ語と同じだが、流音が一つしかない言語は別に珍しくはなく、東アジアの言語は韓国語から中国語からモンゴル語から皆そうだ。太平洋の向こう側ではナワトル語の他にケチュア語もこのタイプである。
さらにナワトル語にはソナント以外には有声子音がない。b、d、g、z がないのである。ないというより無声子音と有声子音の音韻対立がないといったほうが正確だろう。ナワトル語には無気と帯気の対立もないから、「l と r の区別がない」と言う点ではお友達であった中国語、韓国語とは袂を分かつ。日本語には無気と帯気の区別がない点ではお友達だが、その代わりb、d、g、z などの有声子音を区別する。するはするがこれら有声音は本来の日本語には存在しなかったのではないかと言う言語学者は少なくない。これらの音は中国語の影響によって後から生じたというのである。それが証拠にb、d、g、z などの音は「ば・だ・が・ざ」というように元の文字「は・た・か・さ」に濁音を付加して表す。無声子音の方がデフォなのだ。だから日本語も昔はナワトル語とお友達だったのかもしれない。
これらの「流音が一つ」、「無声と有声の対立がない」「無気と帯気の対立がない」という特徴を今に至るも保ち続けている言語はアイヌ語だ。それでふとナワトル語とアイヌ語はすごいお友達なのではないかと思った。スケールの大きな話だ。それだけに一掃アイヌ語が消滅寸前なのが残念でならない。
ところがさらにナワトル語の入門書を読み進んで文法に行くと、両言語の類似点は「ふと」どころではなさそうなことがわかる。どちらもいわゆる抱合語 polysynthetic languages で、動詞の語幹を核にして人称表現、時表現などがベタベタ頭や尻にくっつき、動詞が肥大するのである。「いわゆる」と言ったのは、この抱合語という用語の意味が毎度のことながら言語学者によって少しずつ違うので、細かくこだわりだすと先に進めなくなるからだ。ここでは一般に把握されている意味での抱合語という大雑把な把握でお許し願いたい。
前にもちょっと述べたが、ナワトル語は動詞に人称接頭辞がついて「語形変化」する。まずバレンツ価1,つまり主語だけを要求する ēhua(「出発する」)という自動詞を見てみたい。

â という表記は母音の後ろに声門閉鎖音が続くという意味で(『200.繰り返しの文法 その1』参照)、複数形のマーカーである。接頭辞として付加される人称形態素だけとりだすと以下のようになることがわかる。3人称では単複共にゼロマーカーとなる。

(i) と母音を括弧に入れて挿入したのは、動詞が子音で始まる場合は i が挿入されるからだ。ナワトル語は語頭には連続子音を許さないからである。例えば miqui(「死ぬ」)という動詞は次のようになる。

二人称複数形に i がついていないのは mm という子音連続が語頭に立たないからだ。
次にバレンツ価2,主語と目的語を取る他動詞だが、主語を受け持つ接頭辞に目的語を表す接頭辞をつける。ということは主語マーカーと動詞との間にさらなる人称接頭辞が挟まってくることになる。今度はまず最初に人称形態素だけ取り出して表にしてみよう。

主語と目的語が一致する場合は普通の人称接頭辞とは別の再帰接頭辞を使うので n(i)- +-nēch-、t(i)- + -mitz- などの組み合わせはあり得ない。3人称だけは「彼が彼を」と言う場合、主語の彼と目的語の彼は違う人物であり得るのでOKだ。itta(「見る」)という動詞で見ると:

ここでは主語が単数の場合のみ示したが、複数主語の場合は上で見たように動詞の最後に声門閉鎖音が入るから、「彼らが彼を見る」は quittâ、「彼らが彼らを見る」は quimittâ。また「彼」は「彼女」でもあり得るのだが、面倒くさいので「彼」に統一した。
では主語や目的語が代名詞でなく普通の名詞の場合はどうするのか。例えば「その男が死ぬ」などである。そういうときは動詞の外側に拡張子(?)として名詞を立てる。動詞の接頭辞と名詞とが呼応することになる。
ø-miqui in tlācatl
3.sg-die + the + man
その男が死ぬ
動詞の現在形は英語で言う現在進行形の意味にもなれるので、「その男が死んでいっている、死にそうだ」ともとれる。3人称の主語が単複共にゼロマーカーをとることは上で述べた。「その男たちが死ぬ」なら名詞と動詞が複数形(『200.繰り返しの文法 その1』参照)になる(太字)。
ø-miquî in tlācâ
3.pl-die + the + men
その男たちが死ぬ
自動詞なら拡張名詞が必要になるのはゼロマーカーの3人称のときだけだから、語順を除けば the man dies や the men die といった英語などと一見並行しているように見えるが、文構造の本質は全く異なる。他動詞では3人称の目的語が拡張名詞と接頭辞が呼応することになる(太字)。比較のためまず主語が接頭辞のみの一人称の例をみてみよう。
ni-qu-itta in calli
1.sg-3.sg-see + the + house
私が家を見る。
主語も目的語も3人称になると当然拡張名詞が二つになる。
Ø-qu-itta in cihuātl in calli
3.sg-3.sg-see + the + woman + the house
その女が家を見る。
基本語順は VSO なのがわかるが、目的語が不定名詞だと目的語が前に来てVOSになる。
Ø-qui-cua nacatl in cihuātl
3.sg-3.sg-see + meat + the + woman
その女が肉を食べる
さらにトピック化した名詞(主語でも目的語でも)は動詞の前に来たりするのでややこしいが、どちらの名詞も不定形だったり逆に双方定型だったりして意味があいまいになるそうなときは主語名詞が先行するのが普通だ。もっともどうしようもない場合もある。
Ø-qui-tlazòtla in pilli
3.sg-3.sg-love + the + child
は「彼がその子を愛する」なのか「その子が彼を愛する」なのかわからない。文脈で判断するしかない。
動詞接頭辞としてはこれらの人称代名詞のほかにも someone、something を表すものや再帰接頭辞、また方向を表現するものなどあって順番も決まっているのだがここでは省く。
さて上で述べたようにアイヌ語も動詞に人称を表す接頭辞がつく。以下はちょっと資料が古いのだが、金田一京助、知里真志保両氏による。まず主語マーカーを見てみよう。上のナワトル語と比べてほしい。

アイヌ語には雅語と口語の二つのパラダイムがあり、口語では一人称複数形に包含形と除外形の区別がある(『22.消された一人』参照)。日本語なら文語と口語の違いだろうが、文語、ファーガソンの言うHバリアントは必ずしも「書き言葉」とは限らない。文字を持たない言語にも古い形が口伝えで保存され、場所を限って使われ続けることがあるのだ。「口承の文語」というわけだが、いろいろな言語でその存在が確認されている。どちらにせよ形態素の形そのものがナワトル語とは全然違うので両言語間のいわゆる「親族関係」やらを云々することはできまい。だが、3人称はゼロマーカーという点が全く同じで感動する。次に目的語の接頭辞だが、目的語についても3人称がゼロマーカーになる点が上のナワトル語と異なる。

まず主語、目的語の両方を持つ他動詞の構造を見てみよう。主語の接頭辞の次に目的語接頭辞が続き、最後の動詞語幹が来る。ナワトル語にそっくりだ(繰り返すが似ているのは構造だけで形態素そのものの形は全く似ていない)。kore(「与える」)という動詞で見ると:

「彼が彼(ら)に与える」の形は資料にはなかったので私が再構築したものである。次に口語だが雅語と比べてイレギュラーな点がいくつかある。

「私があなたに与える」は資料では確かにこの表のようになっていたのだが、e-kore の誤植かもしれない。事実 e-kore-ash という方言形があるそうだ。「彼が彼(ら)に与える」は上と同様私の勝手な判断である。大きく目を引く点は、主語が一人称で目的語が2人称の場合は一人称主語が脱落する。しかしここには出さなかったがその2人称目的語が尊敬形、-i- だと主語は脱落しない。この一人称は別の所でもおかしな挙動をし、例えば自動詞ではナワトル語と違って一人称主語マーカーが後置される。つまり接頭辞でなく接尾辞になるのだ。それで「入る」という動詞 ahun の雅語一人称単数「私が入る」は ahun-an。口語だと定式通りku-ahun である。ではこの一人称主語接尾辞は雅語だけの現象かと言うとそうではなく「私が笑う」は mina-an、nina が「笑う」だ。
次に3人称の主語や目的語が普通の名詞だったらどうなるのか。アイヌ語も拡張子がつく。「私が酒を飲む」は:
sake a-ku
sake + 1.sg-drink
「あなたが猫を追う」は:
meko e-moshpa
cat + 2.sg-hunt
主語も目的語も3人称の場合は動詞が裸になる。
Seta meko noshpa
dog + cat + ø-ø-hunt
犬が猫を追う
基本的にはナワトル語と同じだ。ただアイヌ語は語順がナワトル語よりやや厳しいらしく、拡張子もSOVの一点張りらしい。
さて上の「与える」という動詞の例だが、ちょっと待てと思うのではないだろうか。「与える」はバレンツ価が3,主語と間接目的語の他に「何を」、つまり直接目的語がいるからだ。残念ながら金田一氏の本にはそこの詳しい説明がなかったのでちょっとこちらで勝手にナワトル語から類推して考えてみよう。
上で見たようにナワトル語の(アイヌ語も)人称接頭辞や名詞には格を表す形態素がない。だから対格目的語も与格目的語も要するに目的語、形の上での区別はないが「目的語を二つとる動詞」はある。ナワトル語文法には bitransitive (二重他動詞?)という言葉が使ってあるが、その代表が「与える」 maca だ。「私があなたにそれを与える」という場合、「私」という接頭辞が先頭、次に「あなた」が来て3番目に3人称単数の接頭辞が来るはずなのだが、目的語接頭辞は二つつくことはできないという規則があり、3番目に来るはずだった目的語3人称の接頭辞は削除される。事実上「私-あなた-動詞」という形になるわけだ。与えられたものが名詞である場合は拡張子がつく。例えば
Ni-mitz-maca in xōchitl
1.sg.-2.sg-give + the + flower(s)
は「私があなたに花をあげる」という意味になる。「花」という名詞(太字)は動詞内に呼応する要素を持たない。また花の受け取り手が「その女性」である場合は本来「私-彼女-それ-動詞」だが、「私-彼女-動詞」になり、拡張子が二つつく。
Ni-c-maca in cihuātl in xōchitl
1.sg.-3.sg-give + the + woman + the + flower(s)
「その女性」だけが動詞内に呼応要素を持ち、「花」は相変わらず宙に浮く。また3人称が主語のときは主語がゼロマーカーだから、目的語接頭辞が一つつくだけ。
Qui-maca in Pedro cōzcatl in cihuātl
ø-3.sg-give + the + Pedro + jewellery + the + woman
ペドロがその女性に宝石をあげる。
拡張子が3つ付加されているが、「宝石」は不定形だから「その女性」の前に来る。
実は3人称の目的語が複数だった場合は複数マーカーだけ残ったりするのだが、もうこれで十分だと思うので(すでにゲップが出ている)それは無視し、基本の「2番目の目的語接頭辞は削除される」という原則にのっとってアイヌ語の「与える」kore の使い方を類推してみよう(アイヌ語ではそもそも3人称は常にゼロマーキングだが)。主語が一人称単数だと「私があなたに酒をあげる」は口語ではこうなるのではないだろうか。
Sake echi-kore
前述のように一人称単数主語は口語ではイレギュラーだが、雅語だと接頭辞が二つ、拡張子はつくが動詞内に呼応する要素がないという原則通りの形になるだろう。
sake a-e-kore
「あなたが私に酒をくれる」ならこうなりそうだ。
sake e-en-kore
問題は拡張子が二つ以上重なったらどうなるかだ。例えば「パナンペが私に酒をくれる」「パナンペが美智子に酒をあげる」はそれぞれ
Panampe sake en-kore
Panampe Michiko sake kore
とでも言うのだろうか。知っている人がいたら教えてほしい。
前に松本克己教授が日本語、アイヌ語、さらに太平洋の向こう側のナワトル語、ケチュア語も含めた環太平洋の諸言語には一定のまとまりがあり、これによって日本語とアルタイ語は明確に袂を分かつと主張していたが、こういうのをみるとなるほどと思う。
さらにナワトル語にはソナント以外には有声子音がない。b、d、g、z がないのである。ないというより無声子音と有声子音の音韻対立がないといったほうが正確だろう。ナワトル語には無気と帯気の対立もないから、「l と r の区別がない」と言う点ではお友達であった中国語、韓国語とは袂を分かつ。日本語には無気と帯気の区別がない点ではお友達だが、その代わりb、d、g、z などの有声子音を区別する。するはするがこれら有声音は本来の日本語には存在しなかったのではないかと言う言語学者は少なくない。これらの音は中国語の影響によって後から生じたというのである。それが証拠にb、d、g、z などの音は「ば・だ・が・ざ」というように元の文字「は・た・か・さ」に濁音を付加して表す。無声子音の方がデフォなのだ。だから日本語も昔はナワトル語とお友達だったのかもしれない。
これらの「流音が一つ」、「無声と有声の対立がない」「無気と帯気の対立がない」という特徴を今に至るも保ち続けている言語はアイヌ語だ。それでふとナワトル語とアイヌ語はすごいお友達なのではないかと思った。スケールの大きな話だ。それだけに一掃アイヌ語が消滅寸前なのが残念でならない。
ところがさらにナワトル語の入門書を読み進んで文法に行くと、両言語の類似点は「ふと」どころではなさそうなことがわかる。どちらもいわゆる抱合語 polysynthetic languages で、動詞の語幹を核にして人称表現、時表現などがベタベタ頭や尻にくっつき、動詞が肥大するのである。「いわゆる」と言ったのは、この抱合語という用語の意味が毎度のことながら言語学者によって少しずつ違うので、細かくこだわりだすと先に進めなくなるからだ。ここでは一般に把握されている意味での抱合語という大雑把な把握でお許し願いたい。
前にもちょっと述べたが、ナワトル語は動詞に人称接頭辞がついて「語形変化」する。まずバレンツ価1,つまり主語だけを要求する ēhua(「出発する」)という自動詞を見てみたい。

â という表記は母音の後ろに声門閉鎖音が続くという意味で(『200.繰り返しの文法 その1』参照)、複数形のマーカーである。接頭辞として付加される人称形態素だけとりだすと以下のようになることがわかる。3人称では単複共にゼロマーカーとなる。

(i) と母音を括弧に入れて挿入したのは、動詞が子音で始まる場合は i が挿入されるからだ。ナワトル語は語頭には連続子音を許さないからである。例えば miqui(「死ぬ」)という動詞は次のようになる。

二人称複数形に i がついていないのは mm という子音連続が語頭に立たないからだ。
次にバレンツ価2,主語と目的語を取る他動詞だが、主語を受け持つ接頭辞に目的語を表す接頭辞をつける。ということは主語マーカーと動詞との間にさらなる人称接頭辞が挟まってくることになる。今度はまず最初に人称形態素だけ取り出して表にしてみよう。

主語と目的語が一致する場合は普通の人称接頭辞とは別の再帰接頭辞を使うので n(i)- +-nēch-、t(i)- + -mitz- などの組み合わせはあり得ない。3人称だけは「彼が彼を」と言う場合、主語の彼と目的語の彼は違う人物であり得るのでOKだ。itta(「見る」)という動詞で見ると:

ここでは主語が単数の場合のみ示したが、複数主語の場合は上で見たように動詞の最後に声門閉鎖音が入るから、「彼らが彼を見る」は quittâ、「彼らが彼らを見る」は quimittâ。また「彼」は「彼女」でもあり得るのだが、面倒くさいので「彼」に統一した。
では主語や目的語が代名詞でなく普通の名詞の場合はどうするのか。例えば「その男が死ぬ」などである。そういうときは動詞の外側に拡張子(?)として名詞を立てる。動詞の接頭辞と名詞とが呼応することになる。
ø-miqui in tlācatl
3.sg-die + the + man
その男が死ぬ
動詞の現在形は英語で言う現在進行形の意味にもなれるので、「その男が死んでいっている、死にそうだ」ともとれる。3人称の主語が単複共にゼロマーカーをとることは上で述べた。「その男たちが死ぬ」なら名詞と動詞が複数形(『200.繰り返しの文法 その1』参照)になる(太字)。
ø-miquî in tlācâ
3.pl-die + the + men
その男たちが死ぬ
自動詞なら拡張名詞が必要になるのはゼロマーカーの3人称のときだけだから、語順を除けば the man dies や the men die といった英語などと一見並行しているように見えるが、文構造の本質は全く異なる。他動詞では3人称の目的語が拡張名詞と接頭辞が呼応することになる(太字)。比較のためまず主語が接頭辞のみの一人称の例をみてみよう。
ni-qu-itta in calli
1.sg-3.sg-see + the + house
私が家を見る。
主語も目的語も3人称になると当然拡張名詞が二つになる。
Ø-qu-itta in cihuātl in calli
3.sg-3.sg-see + the + woman + the house
その女が家を見る。
基本語順は VSO なのがわかるが、目的語が不定名詞だと目的語が前に来てVOSになる。
Ø-qui-cua nacatl in cihuātl
3.sg-3.sg-see + meat + the + woman
その女が肉を食べる
さらにトピック化した名詞(主語でも目的語でも)は動詞の前に来たりするのでややこしいが、どちらの名詞も不定形だったり逆に双方定型だったりして意味があいまいになるそうなときは主語名詞が先行するのが普通だ。もっともどうしようもない場合もある。
Ø-qui-tlazòtla in pilli
3.sg-3.sg-love + the + child
は「彼がその子を愛する」なのか「その子が彼を愛する」なのかわからない。文脈で判断するしかない。
動詞接頭辞としてはこれらの人称代名詞のほかにも someone、something を表すものや再帰接頭辞、また方向を表現するものなどあって順番も決まっているのだがここでは省く。
さて上で述べたようにアイヌ語も動詞に人称を表す接頭辞がつく。以下はちょっと資料が古いのだが、金田一京助、知里真志保両氏による。まず主語マーカーを見てみよう。上のナワトル語と比べてほしい。

アイヌ語には雅語と口語の二つのパラダイムがあり、口語では一人称複数形に包含形と除外形の区別がある(『22.消された一人』参照)。日本語なら文語と口語の違いだろうが、文語、ファーガソンの言うHバリアントは必ずしも「書き言葉」とは限らない。文字を持たない言語にも古い形が口伝えで保存され、場所を限って使われ続けることがあるのだ。「口承の文語」というわけだが、いろいろな言語でその存在が確認されている。どちらにせよ形態素の形そのものがナワトル語とは全然違うので両言語間のいわゆる「親族関係」やらを云々することはできまい。だが、3人称はゼロマーカーという点が全く同じで感動する。次に目的語の接頭辞だが、目的語についても3人称がゼロマーカーになる点が上のナワトル語と異なる。

まず主語、目的語の両方を持つ他動詞の構造を見てみよう。主語の接頭辞の次に目的語接頭辞が続き、最後の動詞語幹が来る。ナワトル語にそっくりだ(繰り返すが似ているのは構造だけで形態素そのものの形は全く似ていない)。kore(「与える」)という動詞で見ると:

「彼が彼(ら)に与える」の形は資料にはなかったので私が再構築したものである。次に口語だが雅語と比べてイレギュラーな点がいくつかある。

「私があなたに与える」は資料では確かにこの表のようになっていたのだが、e-kore の誤植かもしれない。事実 e-kore-ash という方言形があるそうだ。「彼が彼(ら)に与える」は上と同様私の勝手な判断である。大きく目を引く点は、主語が一人称で目的語が2人称の場合は一人称主語が脱落する。しかしここには出さなかったがその2人称目的語が尊敬形、-i- だと主語は脱落しない。この一人称は別の所でもおかしな挙動をし、例えば自動詞ではナワトル語と違って一人称主語マーカーが後置される。つまり接頭辞でなく接尾辞になるのだ。それで「入る」という動詞 ahun の雅語一人称単数「私が入る」は ahun-an。口語だと定式通りku-ahun である。ではこの一人称主語接尾辞は雅語だけの現象かと言うとそうではなく「私が笑う」は mina-an、nina が「笑う」だ。
次に3人称の主語や目的語が普通の名詞だったらどうなるのか。アイヌ語も拡張子がつく。「私が酒を飲む」は:
sake a-ku
sake + 1.sg-drink
「あなたが猫を追う」は:
meko e-moshpa
cat + 2.sg-hunt
主語も目的語も3人称の場合は動詞が裸になる。
Seta meko noshpa
dog + cat + ø-ø-hunt
犬が猫を追う
基本的にはナワトル語と同じだ。ただアイヌ語は語順がナワトル語よりやや厳しいらしく、拡張子もSOVの一点張りらしい。
さて上の「与える」という動詞の例だが、ちょっと待てと思うのではないだろうか。「与える」はバレンツ価が3,主語と間接目的語の他に「何を」、つまり直接目的語がいるからだ。残念ながら金田一氏の本にはそこの詳しい説明がなかったのでちょっとこちらで勝手にナワトル語から類推して考えてみよう。
上で見たようにナワトル語の(アイヌ語も)人称接頭辞や名詞には格を表す形態素がない。だから対格目的語も与格目的語も要するに目的語、形の上での区別はないが「目的語を二つとる動詞」はある。ナワトル語文法には bitransitive (二重他動詞?)という言葉が使ってあるが、その代表が「与える」 maca だ。「私があなたにそれを与える」という場合、「私」という接頭辞が先頭、次に「あなた」が来て3番目に3人称単数の接頭辞が来るはずなのだが、目的語接頭辞は二つつくことはできないという規則があり、3番目に来るはずだった目的語3人称の接頭辞は削除される。事実上「私-あなた-動詞」という形になるわけだ。与えられたものが名詞である場合は拡張子がつく。例えば
Ni-mitz-maca in xōchitl
1.sg.-2.sg-give + the + flower(s)
は「私があなたに花をあげる」という意味になる。「花」という名詞(太字)は動詞内に呼応する要素を持たない。また花の受け取り手が「その女性」である場合は本来「私-彼女-それ-動詞」だが、「私-彼女-動詞」になり、拡張子が二つつく。
Ni-c-maca in cihuātl in xōchitl
1.sg.-3.sg-give + the + woman + the + flower(s)
「その女性」だけが動詞内に呼応要素を持ち、「花」は相変わらず宙に浮く。また3人称が主語のときは主語がゼロマーカーだから、目的語接頭辞が一つつくだけ。
Qui-maca in Pedro cōzcatl in cihuātl
ø-3.sg-give + the + Pedro + jewellery + the + woman
ペドロがその女性に宝石をあげる。
拡張子が3つ付加されているが、「宝石」は不定形だから「その女性」の前に来る。
実は3人称の目的語が複数だった場合は複数マーカーだけ残ったりするのだが、もうこれで十分だと思うので(すでにゲップが出ている)それは無視し、基本の「2番目の目的語接頭辞は削除される」という原則にのっとってアイヌ語の「与える」kore の使い方を類推してみよう(アイヌ語ではそもそも3人称は常にゼロマーキングだが)。主語が一人称単数だと「私があなたに酒をあげる」は口語ではこうなるのではないだろうか。
Sake echi-kore
前述のように一人称単数主語は口語ではイレギュラーだが、雅語だと接頭辞が二つ、拡張子はつくが動詞内に呼応する要素がないという原則通りの形になるだろう。
sake a-e-kore
「あなたが私に酒をくれる」ならこうなりそうだ。
sake e-en-kore
問題は拡張子が二つ以上重なったらどうなるかだ。例えば「パナンペが私に酒をくれる」「パナンペが美智子に酒をあげる」はそれぞれ
Panampe sake en-kore
Panampe Michiko sake kore
とでも言うのだろうか。知っている人がいたら教えてほしい。
前に松本克己教授が日本語、アイヌ語、さらに太平洋の向こう側のナワトル語、ケチュア語も含めた環太平洋の諸言語には一定のまとまりがあり、これによって日本語とアルタイ語は明確に袂を分かつと主張していたが、こういうのをみるとなるほどと思う。