前回の続きです。

 今度は動詞に現れる畳音についてふれてみたい。繰り返すが今まで出した日本語の例は「反復」だがこちらは立派な「畳音」である。
 
 例えば古典ギリシア語では完了体をこの畳音によって形成する。直説法能動体一人称単数形で見てみよう。
Tabelle1-205
太字の部分が畳音部だが、そこに音韻規則があって単に頭のシラブルを繰り返せばいいというものではないことがわかる。まず母音が ε(e) になり、子音連続の場合は最初の子音だけが繰り返され、帯気音は対応する無気音になる(θ は今の英語の th の音ではない。帯気の t である)。語頭の子音が ρ(r)だと頭に ε を添えた上子音の ρを繰り返す。表の ίπτω(「投げる」)がその例だ。ριρῑφα とかなんとかにならないあたり、さすがソナントと言おうか、r が母音とみなされているサンスクリットみたいで感動するが、だからと言って ρρῑφα にもなりきれず、頭にε という母音の助走をつけないと走り出せないところが実に面白い。この ε のような現象は加音あるいはオーグメントと呼ばれている。過去完了は全動詞にこのオーグメントが現れているのがわかる。なお「投げる」の過去完了形だけ語尾が違うのであれと思うが他の動詞、例えば「追う」の過去完了にも ἐδεδῐώχη と並んで ἐδεδῐώχειν という形があるので統一はとれている。また「投げる」だけ過去完了で ἐρρῑ́μμην と子音に μ(m)が現れているのはこの動詞の過去完了形が他の動詞のように能動態語幹からでなく中動態語幹から作られるかららしい。どうもやたら細かいところが気になって恐縮だが。
 語頭に母音が来る動詞ではその母音が長音化する。その際音価が変わることがあり、ε 、ι、ο、υ がそれぞれ η、ῑ、ω、ῡ になるのは単なる長音化ということでいいが、α が η になり、αι と ᾳ(つまりᾱ ι )はῃ(つまり ηι)、ε υ は ηυ、ου は ωυ になる。上の「公言する」がそれだ。動詞が長母音で始まる場合はそれ以上伸びない。「若盛りである」が例だが、いろいろ調べてもなぜかこの動詞の過去完了形がみつからなかった。知っている人がいたら教えてきて頂けるとありがたい、この母音を伸ばすやり方もオーグメントである。元の動詞の頭が母音の場合、同じ母音をオーグメントすればそれは要するに母音の畳音ということか。
 もちろん畳音やオーグメントだけで完了体を作るわけではなく、語尾変化もするし過去完了に見られるように畳音にさらにオーグメントが付加されたりする。

 さて、さすが古典ギリシア語と並ぶ印欧語の大御所だけあってサンスクリットでも畳音は大活躍だ。古典ギリシア語と同様完了体(単純完了体)に畳音が現れる。ギリシャ語と統一がとれていなくて申し訳ないが、動詞語幹と能動態完了形3人称単数を示す。さらに私はデーバナーガリーが読めないので(ププッ)ローマ字表記。
Tabelle2-205
ここでもやはり帯気音は無気化する。k や h が口蓋化していたり、やはり単に頭を繰り返すだけではない。「見る」dṛś- と「なす」kṛ- の頭は一見子音連続のようだが、サンスクリットでは ṛ(シラブル形成の r) は母音扱いなので、これらは「子音連続の場合は最初の子音だけ繰り返す」例にはならない。これらは例にはならないが、ギリシャ語同様「最初の子音だけ繰り返す」という原則が働いていることは他の例が示している(下記)。
 サンスクリットにはさらにアオリストにも畳音を使う形成パターンもある:śri-(語幹)→ aśiśriyat(アオリスト能動態三人称複数)(「赴く」)、dru- → adudruvat(「走る」)。「~もある」と書いたのは他にもいろいろアオリストのパターンがあるからだが、とにかくここでは連続子音の最初の子音だけが重なっている。オーグメントが現れているが(黄色)、これはギリシャ語のアオリスト直説法能動態もそうだ。ただしギリシャ語では畳音は出ない:πέμπω(「送る」、一人称単数直説法能動態現在)→ πεμψα(同アオリスト)。
 サンスクリットで面白いのは、畳音で特定のアクチオンスアルト(『194.動作様態とアスペクト その1』参照)を表現する語幹を作ることだ。「強意」と呼ばれ、当該動作が強い強度で、または反復して行われるアクチオンスアルトである。完了体やアオリストと同じく畳音だけでなくそれ用の形態素もつくが、この場合はアクチオンスアルト的に中立な語幹から別の語幹が作られるので、新規作成の語幹も現在形、完了形、アオリストなど思い切りパラダイム変化する。それら新規作成語幹がさらに完了形やアオリストになったらどうなるのかと一瞬心配したが、完了形もアオリストも畳音を使わないパターンを使うそうだ。それはそうだろう、畳音がまた畳音になったら際限がない。
Tabelle3-205
いくつかの動詞はすでに上で挙げているが、母音が変化すること、k や g が硬口蓋化することなど基本原則は同じようだ。「行く」でわかる通り鼻音が畳音部に残っていたり、「落ちる」で畳音と元の語幹の間にさらに -ni- という要素が入ってきたりいろいろ注意点はあるが、全体として畳音性は明確に見て取れる。あまり明確にわからないのは意味の方で、例えば「与える」という動作を強度に行うというのはどういう風になるのかちょっと想像しにくい。贈り物を顔に向かってぶん投げるのかとも思ったが、これらは皆「反復によって強度が強まる」という解釈なのかもしれない。

 サンスクリットからとんでもないところに飛び火するが、実はナワトル語も畳音で「強意」を表す。しかもここの動詞畳音は変な子音変化のない実に明快な畳音だ。『200.繰り返しの文法 その1』で述べたようにナワトル語には名詞、形容詞、数詞にCV: 型、CV’ 型の畳音が現れるが、同じパターンを動詞でも使う。このCV: 型畳音によって強意表現をする。

tzàtzi(「叫ぶ」)
Huel tzā-tzàtzi
(well + R:-shout)
彼は非常に大声で叫んでいる

nānquilia(「答える」)
Mācamo xi-nēch--nānquili
(don’t + optativ-1.sg-R:-answer)
私に口答えするな(積極的に・元気よく答えるな)

nōtza(「呼ぶ、話しかける」)
Àmo, zan ni-mitz--nōtza
(no + just + 1.sg-2.sg-R:-speak to)
いや、私は君に真剣に話しかけているんだ

ichtequi(「盗む」)
N-on-ī-ichitequi in cuezcoma-c
(1.sg-go there-R:-steal + the + corn bin-lokativ)
私はよくトウモロコシの壺の中のものを盗みに行く

à という母音が ā になっている、つまり純粋に a →  ā じゃないじゃないかと思われるかもしれないが、これは表記のせいで à は a の後に声門閉鎖音という子音が来るという意味だから(『200.繰り返しの文法  その1』参照)母音そのものは単なる短い a であって、 ā は CV: ということで間違いない。「叫ぶ」でわかるようにもとの母音が長い場合はそれ以上伸びず長母音が繰り返される。ギリシャ語と同じだ。「盗む」で短母音 i に律儀に長母音 ī が追加されて母音が3つ分になっているのが可愛い。これはまさに「反復による強意」だろう。
 ナワトル語のこれらの意味を見ていると、上のサンスクリットの「強意」の具体的な意味までなんとなくわかるような気がして来ないだろうか。

 次にCV’ 型畳音だが、名詞にこの型の畳音を付加すると分配的意味になるのは『200』で見た。実はこれが動詞にも同じ手が使われる。

Ō-ni-c--tec xōchitl
(perfect-1.sg-3.sg-R’-cut.past)
私はいろいろな花を切り取った

これはいろいろな花をそれぞれチョキンチョキンと切り取ったということだ。この分配動詞を上の CV: 型・強意動詞と意味を比べてみると面白い。それぞれ上が CV: 型、下段が CV’ 型畳音である。

zaca(「運ぶ」)
Ni-tla--zaca
(1.sg-something.sg-R:-transport)
私はたくさんの物を運ぶ

Ni-tla--zaca
(1.sg-something.sg-R’-transport)
私は物をそれぞれ別の場所に運ぶ

xeloa(「分割する」
Ni-c--xeloa in nacatl
(1.sg-3.sg-R:-carve.sg +  the + meat)
私は(大量の)肉を切り分ける

Ni-c--xeloa in nacatl
(1.sg-3.sg-R’-carve.sg +  the + meat)
私は肉を切り分け(てそれぞれ別の人に与え)る

tlaloa(「走る」)
Mo-tlā-tlaloâ
(reflexiv-R:-run.pl)
彼らは懸命に走る

Mo-tlà-tlaloâ
(refexiv-R’-run.pl)
彼らは互いにそれぞれの方向に走(って離れ)る

母音が少しくらい長いか短いか、声門閉鎖が入るか入らないかでこの意味の差だ。たかが l と r の区別くらいで泣いている場合じゃないぞ日本人、と言いたいところだが、驚くなかれナワトル語にも l と r の区別がなく、Maria という名前が Malintzin になる。-tzin というのは大切なものを表す、いわば敬語的接尾辞である。
 まだある。前回ちょっと述べたようにCV’ 型畳音は分配態のほかに弱化態を表すことがあるのだ。ただしこれも畳音を動詞に効かせる点が日本語と違う。

pāqui(「喜ぶ」)
Ni--pāqui
(1.sg-R’-rejoice.sg)
私はとても幸せだ

huetzca(「笑う」)
Àmo tlà-toa, zan huè-huetzca
(negation + something-say + only + R’-laugh)
彼は何も言わないでただ微笑んでいる

さらに日本語の「白」→「白々しい」に似てCV’ 型畳音で元の動詞の意味が変わってしまうこともある。

cua(「食べる」)
Mitz-cuà-cuā-z in chichi
(2.sg-R’-eat.Future + the + dog)
その犬は君を噛もうとしている
(犬が人肉を喰らおうとしているわけではない)

chīhua(「する」)
Mo-chì-chīhua
(reflexiv-R’-do)
彼は準備している、着飾っている

もう一つ、ナワトル語動詞には CV 型畳音というものがある。あるはあるが、これは非常に限られた動詞にしかつかず、しかも畳音の共通な意味機能が特定しにくいのでここではスルーするが、一つだけ笑っちゃう機能がある。動詞でなく名詞につく「フェークを表すCV型畳音」だ。それで conētl(「子供」)にCV型畳音を加えて coconētl にすると子供のフェーク、つまり「人形」という意味になる。

 最後に思い出したがナワトル語も動詞の活用にオーグメントがつくことがある。例えば「見る」は itta の主語が一人称単数、目的語が単数三人称(ナワトル語では動詞が目的語によっても変化する)の過去形は niqtittac で、「私がペドロを見た」は

ni-qu-itta-c in Pedro
(1.sg.-3.sg.-see-Pret + the + Pedro)

だが、ここにさらに ō- というオーグメントをつけて ō-ni-qu-itta-c in Pedro と言うことも頻繁だ。このō- がつくと当該事象が終了し、その結果が現在まで影響しているという意味合いになるそうだ。ロシア語の完了体のイメージである。だからというとおかしいが、いわゆる未完了過去 imperfect には ō- がつかない。

cocoa(「病気にする」)
Yālhua mo-cocoā-ya in Pedro;
in nèhuatl ō-no-c-on-itta-c
(yesterday + Refl-make sick-imperfect + the + Pedro;
augment-1.sg-3.sg-go there-watch-past)

ペドロは昨日病気だったよ。
私が彼んとこ行って会って来たもん。

-ya というのが未完了過去を作る形態素だが、ここにはオーグメントは追加できない。他方私がペドロに会ったという動作は一回きりですでに終了しているから過去形にオーグメントをつけて表すのである。もう少し例を見てみよう。

mati(「知っている」)
Àmo ni-c-mati-ya in āc amèhuāntin.
(negation + 1.sg-3.sg-know-imperfect + that + who + you.pl)
私はあなたたちが誰なのか知らなかった。

mōtla(「石を投げる」)
Inin pilli quim-mōtla-ya in chichi-mè
(this + child + 3.pl-throw stone-imperfect + the dog-pl)
その子は犬たちに石を投げていた。

ロシア語の完了体・非完了体と比べてみると、ナワトル語動詞のこの使い方は実にわかる気がするではないか。

 それにしてもサンスクリット・古典ギリシア語、ついでにロシア語と古典ナワトル語ではお互いこれほど無関係、無接触な言語はないといっていいほど離れている。なのに微妙にチラチラ共通点が顔を出すあたり、やはりあらゆる人類言語には何かしら共通点がある、底を流れるロジックは人類共通なんじゃないかと思わせる。私は昔生成文法で盛んに言われていたいわゆる UG、ユニバーサル文法にはむしろ懐疑的なのだが(あらゆる人類言語に共通するような文法規則をスコンスコン記述するなど人間の頭では不可能だと思っている)、脳という身体器官は人類共通なのだからそこここに比較可能な現象が現れるのもまあ当然と言えば当然だとは思う。
 念のため言っておくが、だからといって「だからナワトル語とサンスクリットは親類言語ナンダー」とか馬鹿なことを言い出すのは絶対慎まなければならない(そういう人が本当にいそうで怖いが)。これはあくまで偶然である。偶然だからこそ面白いのだ。

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