ちょっと前の記事の続きです。

 日本語に戻るが、念のため言っておくと日本語の「山々」はあくまで反復であって畳音ではない。シラブルでなく語や形態素が繰り返されるからだ。これも人からの指摘だが、複数表現の他に文語で言えばシク活用タイプの形容詞で頭を反復するものがある。面白いことに繰り返される部分は2モーラである場合が圧倒的に多い。「うやうやしい」「おどろおどろしい」「おもおもしい」「かるがるしい」「ぎょうぎょうしい」「しらじらしい」「すがすがしい」「ずうずうしい」「そうぞうしい」「そらぞらしい」「たけだけしい」「たどたどしい」「どくどくしい」「なまなましい」「にくにくしい」「ばかばかしい」「まめまめしい」「みずみずしい」「ものものしい」「よそよそしい」「よわよわしい」「わかわかしい」などたくさん思いつくが、よく見てみると造語のパターンでグループ分けできそうなことがわかる。まず元の2モーラだけでもそのまま形容詞として成り立つもの。ここでは下線を引いたが、「おもおもしい」に対して「重い」、「かるがるしい」に対して「軽い」など元のイ形容詞が存在する。こういったイ形容詞の語幹反復では、元の2モーラ語幹の形容詞の意味がやや弱まる。「わかわかしい」は本当に若いというより「ちょっと若っぽい」あるいは「若く見える」ということだ。動作様態(『194.動作様態とアスペクト その1』参照)でいえば弱化態 Attenuativ である。第二のグループは元の言葉が存在するが、それがイ形容詞でなくてナ形容詞あるいは名詞であるもの(太字)。「どくどくしい」は明らかに名詞の「毒」からの派生だし、「ばかばかしい」の元はナ形容詞の「馬鹿な」である。これもやはり弱化態で、例えば「ばかばかしい」はズバリ馬鹿なのではなく、「ほとんど馬鹿」「馬鹿に見える」「馬鹿のようだ」だ。第三のグループは今は元のイ形容詞が存在しないが、「シク活用」の時代にはそれがあったもの。太字に下線を引いたが、「すがし」「たけし」という語は存在した。だからこれも造語のメカニズムとしては弱化態形成とみなしていいと思う。最後のグループが反復形でしか存在しない形容詞であるが、これにさらに2種あって、一つはもとの語が存在したかもしれないが、反復形が著しく意味転換を起こして、元の形容詞、名詞(あるいは動詞?)から独立してしまったもの。「うやうやしい」「おどろおどろしい」がこれだろう。もう一つは擬態語から発展してきたんじゃないかと思えるものだが、どちらも元の言葉がわからないのだからこれらのグループの間にきっちり境界線を引くことはむずかしい。その中でも「しらじらしい」は、意味転換しているのに元の語が(「白」)透けて見えるという例だ(黄色でマーク)。
 そういえば色彩名称が繰り返されて「赤々」「白々」「黒々」「青々」といった副詞を作る場合があるが、この反復ができるのは『166.青と緑』でも述べた「元々日本語にあった基本の色彩名称」に限る、というのが面白い。「緑々」「紫々」「黄々」という言葉は存在しない。ここでも「白」はやはり母音交代しているが、さすが音が交代しているだけあって(?)、「白」だけ他の三つとは意味合いが異なる。「赤々」「黒々」「青々」は弱化態でなく分配態と見なせる。「青々」というのは草や木の一本一本、葉の一枚一枚が青(緑)という意味だし、「赤々」は炎の一つ一つが赤い結果全体として火が赤い、あるいは空のここかしこがそれぞれ赤い、つまり each、every という意味合いが明確だ。「黒々」も同じで空だったら一部分、森だったら木の一本一本が黒いというニュアンスだ。しかし「しらじら」は違う。これは「白みがかって」「白っぽく」という弱化態である。少なくとも私の感覚では「空が赤々と燃えている」と言われると空のここかしこに色合いの差、赤さの差がある光景が思い浮かぶが、「空が白々と明るくなる」では空全体が同じような色合いでボーッと白くなっているニュアンスだ。

 このように日本語では反復によって弱化態を表すことがあるが、スリルのあることにナワトル語にも(日本語と違って反復でなく)畳音によって弱化態を形成するメカニズムや畳音によって元の語の意味が変わってしまう例が存在する。ナワトル語の場合は名詞や形容詞でなく動詞に畳音が現れるのだが、その話をする前にここでもうちょっと日本語の擬態語を見てみたい。

 日本語では擬態語にも反復構造が顕著だがここでの反復は複数でも弱化態でもなく、つまり語レベルではなく音韻レベル、2モーラを2つ重ねたフットを重ねて2×2=4モーラ・2フットに整えるというのが主目的なのではないだろうか(厳密にいえばフットは必ず2モーラとは限らないが)。日本語は「パーソナルコンピューター」→「パソコン」、「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」→「あけおめ」「ことよろ」など2フットが大好きだから。その際有声音と無声音のペア構造になっていることがあり、有声音のほうは印象がダントツに悪い。さすが有声音を「汚い音・濁った音」と名付ける日本語だ。昔は日本語の子音は鼻音と流音の他は無声音だけだったのではないかと囁かれるのもむべなるかな。「有声子音がない」のはアイヌ語もそうだし、実はナワトル語もそうである。まあちょっと日本語のペアを見てみよう。

キラキラ:純真な子供の澄んだ瞳が輝く
ギラギラ:血走った強姦犯人が女性を見る時の目の光り方

サラサラ:美しいお肌
ザラザラ:荒れ果てたお肌

コロコロ:軽やかに車輪が回転する
ゴロゴロ:今一つ重そうに回転する

ピチャピチャ:アヒルの子が水をはね散らす
ビチャビチャ:豚の子が泥水をはね散らす

シトシト:恵みの雨
ジトジト:しつこく降るウザい雨

これらの擬態語は品詞としては副詞だが、ナ形容詞に品詞転換することができる。面白いことに元来の副詞でいる時はアクセントが第一モーラに来るのに、ナ形容詞になるとアクセントが中和される。その中和されたアクセントは、ナ形容詞形をさらに連用形にして二次的に再び副詞にしてももう戻ってこない。わかりやすいように高部を、低部を黄色で表してみよう。

まず元の副詞は…

星がラキラ光る。
目が血走ってラギラ光る。
春の小川はラサラ行くよ。
砂まみれで肌がラザラする。

これらをナ形容詞にして付加語に使うと…

ラキラな
ラギラな目つき
ラサラなお肌
ラザラなお肌

付加語だとちょっと不自然な日本語になるものもあるので、述語にしてみよう。アクセントは中和されたままだ。

星がラキラだ
目つきがラギラだ
お肌がラサラだ
お肌がラザラだ

これを「星がラキラだ」と元のままのアクセントで言うとおかしい。おかしくないという人はこれを「「星がキラキラØ」だ」といわば埋め込み文と解釈しているから、言い換えると何らかの動詞が省略されているからである。
 次にこれらのナ形容詞を連用形にして品詞としては副詞に戻してみよう。一番上の元の副詞と比べてみて欲しい。アクセントが相変わらず中和されたままなのがわかる。

星がラキラに光る。
目が血走ってラギラに光る。
春の小川はラサラに流れる。
砂まみれで肌がラザラになった。

これに対して元々の副詞に「~と」をつけてもアクセントは中和されない。

星がラキラと光る。
目が血走ってラギラと光る。
春の小川はラサラと流れる。
砂まみれで肌がラザラとする。

これは要するに「~に」はナ形容詞の一部、つまり語尾であるのに対して「~と」は副詞本体とは別語だからだろう。言い換えると「キラキラに」は一語だが「キラキラと」は「キラキラ+と」の二語。この「~と」は多分 Complementizer、つまり「山田さんはハンサムだと思います」の「と」と同じ語だと思う。「キラキラ」は副詞なのだから共格マーカーの「~と」がつくわけがない。
 またナ形容詞として固定してしまった「繰り返し語」、例えばカツカツなどには語尾のない副詞形が存在しない。下の*マークのついた文は非文である。少なくとも最初のカツカツとは意味がズレる。

予算がツカツになった。
*予算がツカツとなった。
*予算はツカツ減った。

 これらの擬音語も上で見た形容詞もそうだが、日本語にシラブルレベルでの畳音がなく語レベル、形態素レベルでしか反復しないのはもしかしたら日本語ではフットという単位が強固に効いているからかもしれない。そういえば色の繰り返しに「赤」「白」「黒」「青」しかなく、「黄」や「紫」はできないというのも外来語のなんのというより前者の語幹が1フットという単純な発音の問題なのかとも思う。

この項続きます

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