今を去る〇十年前、観光旅行でなく初めてドイツに「滞在」したのは9月始めからだったが、最初何週間か太陽光線が嫌に強い感じがした。何というか、太陽が妙にギラついていて日本のようにカッと全体的に照りつけるのでなく、レーザー光線のようにピンポイント攻撃してくる感じなのだ。気のせいかとも思ったのだが、その時サハラ以南の国から来たアフリカ人も「どうもここは陽の光が強いな」と言っていたのを今でも覚えている。赤道直下のアフリカ人に太陽光線が強いと驚かれたら相当終わっていると思うが、とにかくあながち私の気のせいでもなかったようだ。ドイツは日本よりずっと降水量が少ないからその所為だろうと解釈しているうちに体も慣れたらしく、気にならなくなった。
しかしもう一つ気付いたことがある。なんとなく雲の位置が低い感じなのだ。もちろん雲にもいろいろ種類があるが、日本だったらこの形の雲はもっと高いところにあるんじゃないかというのが頭のすぐ上をたなびいている。天気もとても変わりやすい。日本なら細かい変動はあるにせよ、夏の間はずっと暑く、冬の間は寒い。一旦雨もよいの天気になればまあ2・3日、少なくともその日一日くらいはグジグジしている。それがこちらでは夏でも冬でも一日のうちに10℃くらい気温が変動することもザラだ。天気も一日で猫の目みたいに変わる。日本では雨のあと日が照っても周りの空気や湿っぽいが、こちらは雨の直後でも晴れれば速攻で空気も乾く。おかしな連想だが、まるで「山の天気」なのだ。
まだある。こちらでは日の出と日の入りの際、日本みたいに太陽が赤くならない。太陽ばかりでなく、周りの雲や空があまり赤く染まらない。もちろん太陽が地平線と接するくらい低いときはさすがに赤っぽくなるが、日本ではそれより高度がずっと高いところですでに太陽も周りも空も赤い。赤いから光線も弱い。こちらは早朝や夕方など、太陽の高度が相当低いのにかかわらず真昼時のような光線を放っていて、非常にまぶしい。今でもこの時間帯の太陽光線攻撃には閉口する。顔にまっすぐ強力な懐中電灯でもあてられている雰囲気だ。情緒というものがない。日本では太陽の色は赤なのに欧州では太陽は黄色で表されるのはこんなところにも原因があるのかもしれない。
私はつい最近までこれらも要は湿度の差のせいだと思っていた。空気中を漂う水の分子の数が多ければそれだけ光線は進路を邪魔されるはずだなふふんと勝手に納得していたのである。しかしよく考えてみると、東京の冬のカラカラ天気での湿度だって負けずに低いはずだ。それなのに東京の太陽はこんなギラギラ攻撃をしなかった。冬も早朝は太陽は赤く、夕方はそれ以上に赤くなって沈んでいった。なぜだ。
これを私はドイツの夏と日本の冬では太陽の軌道や頂点の位置が全く違うのだから単純比較はできない、と解釈した。つまり「湿度のせい」で間違いはないのだと。
今までずっとそう思ってきたところ、ある日見る気もなくボーッと見ていたTVで「もし地球が自転をしなかったらどうなるか」とかいう、子供向け理科教室のような話をしていて、その結果の一つとして「赤道近くの高山にいる住民、アンデスの住民などは息ができなくなる。あそこで4~5000mの高さでも空気があるのは赤道付近では遠心力で大気の層が伸びて厚くなっているからだ」と言っているのを聞いて、「ひょっとして太陽ギラギラの原因はこれか?!」とひらめいたのである。
東京は千代田区で北緯35度41分、フランクフルトが北緯50度6分だ。そもそもこの緯度というのが一筋縄では行かず、遠心力で地球も楕円になっているから、赤道との角度で決めるか、地球の重心も考慮に入れるかなどでいろいろ違ってくるから細かく言えばキリがないが、これらの数字はもちろんシンプルに地理緯度のことである。とにかく石のように難い地球が変形するくらいだからその周りの気体はさらに甚だしい楕円形になっているはずだ。面倒だから地球を完全な球と見ることにすると、楕円形の中に球体が入っていることになり、赤道辺りは最も空気層が厚く、緯度が高くなるにつれて大気層も薄くなる。層が薄くなれば紫外線もそれだけ邪魔されずに突入し、しかも途中で散らされないからまっすぐ走って来る。太陽の高度が下がっても、低緯度の地域より空気層が薄いから波長の短い光線も生き残り、あまり赤くならない。これで説明がつくような気がしたのだ。北緯35度の日本人が感じるくらいだから0度の空気に慣れた人はさらに違いを感じるはずだ。
また空気層が薄いということは天井も低いことになる、つまり緯度が低いと天井が高く、緯度が高い地点は天井が低いわけだから、日本で高いところを飛んでいる雲がドイツでは高度が落ちている(感じがした)説明もつく。さらに天井の高い部屋は換気に時間がかかるが、低いと空気の入れ替えもずっと早くできる。天気の変わるスピードの違いはそれではないのか。
もちろん空気の層は薄くても重力と遠心力のバランスが緯度で変わるわけではないから、同じような海抜にいる人の頭上の気圧は変わらない。太陽光線は強いが空気そのものが薄いとは感じなかったのはそのせいだろう。その点で気圧が実際に低くなる「山の天気」とは異なる。
これらを我ながら自己嫌悪に堪えないレベルの稚拙な図にするとこうなる。家に分度器などというものがないのでテキトーに目で角度をつけた。

しかし「そうかこれでわかったぞ」という私のバンザイ気分に水をさす大きな疑問がある。東京はすでに既に結構北の方にあるし、フランクフルトも別にそれほど北にあるわけではない、たかがハバロフスク程度である。つまり東京とフランクフルトの緯度差なんてちっぽけなもんだということだ。上の図では極端に描いたが、大気層の伸びる距離など地球の大きさと比べたら屁のようなものに違いない。そんな極小差をこの鈍感な私が感じ取れるものなのか非常に疑問だ。ひょっとしたら本当にあっさり湿度の問題だけだったのかもしれない。そのアフリカ人も空気が大して暑くないくせに陽だけは生意気にギラギラ照っていたから光線が強いように錯覚しただけかもしれない。つまり「単なる気のせい」という可能性が捨てきれない。
この疑問に決着をつけるには北緯36度と50度地点での地球の回転速度と中心からの距離を(厳密にいえばこれも違っているはずだ)調べて遠心力を計算しさらにそれによって空気層が何メートル伸びるか導き出さないといけない。500mくらいでは人間には差が感じられないだろうから「気のせい」あるいは「原因は他にある」ということになろうが、その前にそんな計算をするにはどこから手をつけてどうやったらいいのかが全くわからないのでこれ以上は勘弁してもらいたい。楕円をドイツ語や英語で Ellipse というが、この語はギリシャ語の ἔλλειψις から来ている、実はそもそもそういう話がしたいばかりに話を振っただけなのである。
ἔλλειψις は本来不足とか不完全とかいう意味で、「細長い」という意味はないから字義通り訳すとしたらEllipse は楕円と言うより欠円だろう。「駄円」とまで言ってしまったら行き過ぎだが。もちろん専門用語などは元の原語に義理立てする必要もないから日本語の造語として「楕円」でもちろんOKで、文句をつけるつもりなど全くない。
この ἔλλειψις が実は言語学のほうにも使われている。これも『148.同化と異化』で出したような語と同様、自然科学と人文科学の用語が交差している例だろう。言語学では「省略」という専門用語になる。ドイツ語では楕円も省略も同じくEllipse というが、英語では紛らわしいためか楕円は Ellipse、省略は Ellipsis と少し語形を変えている。ちょっと手元の言語学事典を引いてみたら、このEllipseの項では様々な言語学者の様々な定義などが紹介され、説明にベッタリ2ページも割いてあったので驚いた。例としては Wo warst du gestern? In Bonn. (「昨日どこに行ってたんだ?ボン。」)などの文が挙がっている(太字が省略文)。
私はずっと長い間、この「省略」という観念を、「もとは完全であった文、つまり文の構成要素が全部律儀に埋まっていた文から、文脈から類推できる構成要素が取り外されてできた形」と理解していた。例えば次のような全てガンガンに埋まっているような文が「元」なのだと思っていたのである。その元の形が発話状況によって欠損するのだと。
山田さんが東京へ行きます。
この文が「誰が東京へ行きますか」という問いの答えとして発話される場合普通「東京へ」は省略される。
山田さんがØ行きます。
頭の中には全ての成分が埋まっている完全な文が出来ていたが、発話の過程で「これはいらんだろ」という成分が切り捨てられる、言い換えると東京へ→Øという流れだ。上の言語学事典にも省略文が現れる条件として当該要素が rekonstruierbar(再現可能)であること 書いてある。東京へ→Ø→ 東京へという図だ。後半のØ→ 東京という部分は聞き手が行うわけだ。
そもそも「完全な文」とは何ぞやということだが、文の必須要素、動詞のバレンツ要素が全部満たされているのが「完全な文」ということになろう。例えば次の文だ。
山田さんが田中さんに花をあげた。
ここでは動詞「あげる」のバレンツ価は3(主格、対格、与格)だが、これが飽和状態だから安定している。このうちのどれかがないと、文脈の助けがない限り文は不安定となる。何もないところからいきなり
山田さんが花をあげました。
と言われるとつい「誰に?」と聞きたくなるのは与格が「あげる」という動詞の必須構成要素だからだ。バレンツ要素が埋まっていないと「いきなり文」は座りが悪い。再現できないからだ。
なお、自動詞だからと言ってバレンツ価が1(つまり主格のみ)とは限らない。「行く」は自動詞だが、バレンツ価は2である。主格の他に向格(『152.Noとしか言えない見本』参照)が必須だからだ。
山田さんが行きました。
と突然いわれれば、普通の人は「何処に?」と聞き返す。
だから「完全な文」とは動詞のバレンツが飽和した状態の文、省略文とはバレンツ要素のどれかが削除された文と定義できる。言い換えると「省略」とは飽和文との差のことだ。始めの方で挙げた文の「東京へ」は向格の必須要素だから、この部分が消えているのは当然「省略」と名付けることができる。
しかし飽和文にはさらに付随要素がくっ付くことができるので注意がいる。共格や動作処格、具格をバレンツとして持っている動詞はない。これらは皆オプションでついているのだ。
山田さんが道端で田中さんに花をあげた。
佐藤さんが地下鉄で東京に行った。
などの「道端で」「地下鉄で」はなくても誰も困らないし、「山田さんが田中さんに花をあげた」と言われても普通特に「何処で?」などと聞いたりしない。これらが拡張要素で文の格となる動詞のバレンツには属していないからだ。「明日」「2月29日に」などの時間表現も任意である。「完全な文」のメンバーではないから、これが消されていても省略ではないことになる。だから「山田さんは明日何で東京へ行きますか?」という問いに
地下鉄で行きます。
と答えたら「東京へ」と「山田さんが」がないのは省略だが、「明日」が消えているのは省略ではないという理屈になる。また同じ問いに
山田さんは地下鉄で東京へ行きます。
というウザい答え方をしたら、「明日」が抜けているのにこれは省略文ではないとしなければいけない。
上でも述べたように私は以前このバレンツ飽和文が出発点で、発話の過程で文脈から見て自明な要素が削除されるのが省略文だと思っていた。それが「あれ、実は逆かな」と最初に思い始めたのは、昔周りの英語学専攻の人たちがやっていた変形生成文法とやらをチラ見したときである。生成文法といってもごく初期の非常に原始的なやつだが(新しいバージョンは難しすぎてよくわかりません)、そこではまず頭の中に作られるのは文法の枠組み、抽象的なセンテンス構造であって、その構成要素はいわばカラの箱だ。その箱に中身を入れる、つまり具体的な単語があてがわれるのは文の生成の最後の段階である。つまり省略文とはもともとあったものが消えたのではなく、文が生焼け(?)のまま出て来てしまったものだという理屈になる。そういえば生成文法系の論文で「構成要素が全部埋まった完全な文」のことを a full-fledged sentence と呼んでいるのを見たことがある。省略文にはまだ全部羽が生えそろっていないのだ。さらに変な譬えだが、半旗のように一旦上まで完全に挙げてから下ろすのではなく、旗が上がる途中で止まっちゃったというイメージ。だから省略されたのは語のほうではなく、語を文のしかるべきシンタクス位置に当てはめるというプロセスそのものである。上の例で言えば「東京へ」がØで代用されたのではなく、Ø が「東京へ」で代用されなかった、という流れだ。上で出したような東京へ→Ø→ 東京へという図式にはならず、前半の東京へ→Ø という部分は最初から存在せず、話者は聞き手に丸投げしているのである。どうもそう考えたほうがいいような気がする。
なぜなら動詞のバレンツ要素のほうでなくその上位の動詞そのものが出てこないことなどもザラだからだ。上述の事典の例をあげる。
Einen schwarzen (Kaffee möchte ich, bitte).
ブラック(コーヒーをお願いします)
Jeden Tag (passiert) ein Streit!
毎日悶着(が起きる)。
バレンツ要素なら再構築が比較的容易だが、動詞が抜けると本来意図していたのと違う動詞が再建される危険性が増す。最初の文も… Kaffee möchte ich, bitte でなく… Kaffee bringen Sie mir, bitte(「(ブラック)コーヒーを持ってきてください」と聞き手が解釈するかもしれない。さらに埋め込み分がスッポリ抜けることもまれではない。ネットで拾った例だが、下の und ob (「って」)というのが省略文だがここで省略されているのは何か。
Hat Liverpool je gegen die SGD (= Dynamo Dresden) gespielt? Und ob, zum Beispiel 1973 und 76 in der Europa League […] oder 1977 in der Champions League […].
リバプールはSGD(ディナモ・ドレースデン)と対戦したことあんの?って、例えば1973年と76年のヨーロッパリーグ(…)とか1977年にチャンピオンズリーグ (…)とか。
省略なしの形は Und ob Liverpool je gegen die SGD gespielt hat(「リバプールがSDGと対戦したことあるのかってあんた」)だが、実はまだこれでも完全な文ではない。これ自体も埋め込み文、つまり文の一部なわけだから、そのまた上位の主文があるはずだ。無理やり再建してみよう。Und ob Liverpool je gegen die SGD gespielt hat, fragst du mich! (「リバプールは SGD(ディナモ・ドレースデン)と対戦したことあんの?ってあんた私に聞くし!」)または Und ob Liverpool je gegen die SGD gespielt hat, weißt du nicht?! (「リバプールは SGD(ディナモ・ドレースデン)と対戦したことあんの?ってあんた知らないの?!」)ということになろうか。
話者がこんなにデカい要素を一旦心の中で語まで含めて全部構築しておいてから、そのせっかく代入した語を発話の過程で「これは言わなくてもわかるだろう」と改めて抜いたのでは手間も時間も無駄すぎる。シンタクスの枠組みだけ暗示して、語の代入は相手に丸投げした方が早いし、相手にとってもそんなものはお安い御用だ。会話の中で文構造や指示対象などのお膳立てはすでに出来ているからだ。多少の自由裁量もコミュニケーションに支障はもたらさない。
さらにこんな状況を考えてみよう。例えば自分の机の上に未知の郵便物が置いてあるのを発見したとき人は何というだろうか。
これは?
この発話で最も重要なのはまさにスッポ抜けた「何ですか?」という部分である。また周りに指示対象物が見当たらないのに「これ」の代わりに「あれは?」という質問を発したら日本人は普通「どうなりました?」「どうなっているんですか?」が省略されていると感じる。「山田さんは?」という振り出しだと「何処ですか?」「来ましたか?」などという解釈が自然だが、「田中さんは任天堂の社員です。山田さんは?」と聞かれれば「もうすぐ来ます」などと答える人はいない。「ソニーです」と言うだろう。
とにかく省略を適切に行うには比較的高度な言語能力が必要だ。昔、「言語学」という学問分野がまだなかったころは省略のテクが修辞学で扱われる一分野だった(現在でもそうだが)のもうなずける。
しかしもう一つ気付いたことがある。なんとなく雲の位置が低い感じなのだ。もちろん雲にもいろいろ種類があるが、日本だったらこの形の雲はもっと高いところにあるんじゃないかというのが頭のすぐ上をたなびいている。天気もとても変わりやすい。日本なら細かい変動はあるにせよ、夏の間はずっと暑く、冬の間は寒い。一旦雨もよいの天気になればまあ2・3日、少なくともその日一日くらいはグジグジしている。それがこちらでは夏でも冬でも一日のうちに10℃くらい気温が変動することもザラだ。天気も一日で猫の目みたいに変わる。日本では雨のあと日が照っても周りの空気や湿っぽいが、こちらは雨の直後でも晴れれば速攻で空気も乾く。おかしな連想だが、まるで「山の天気」なのだ。
まだある。こちらでは日の出と日の入りの際、日本みたいに太陽が赤くならない。太陽ばかりでなく、周りの雲や空があまり赤く染まらない。もちろん太陽が地平線と接するくらい低いときはさすがに赤っぽくなるが、日本ではそれより高度がずっと高いところですでに太陽も周りも空も赤い。赤いから光線も弱い。こちらは早朝や夕方など、太陽の高度が相当低いのにかかわらず真昼時のような光線を放っていて、非常にまぶしい。今でもこの時間帯の太陽光線攻撃には閉口する。顔にまっすぐ強力な懐中電灯でもあてられている雰囲気だ。情緒というものがない。日本では太陽の色は赤なのに欧州では太陽は黄色で表されるのはこんなところにも原因があるのかもしれない。
私はつい最近までこれらも要は湿度の差のせいだと思っていた。空気中を漂う水の分子の数が多ければそれだけ光線は進路を邪魔されるはずだなふふんと勝手に納得していたのである。しかしよく考えてみると、東京の冬のカラカラ天気での湿度だって負けずに低いはずだ。それなのに東京の太陽はこんなギラギラ攻撃をしなかった。冬も早朝は太陽は赤く、夕方はそれ以上に赤くなって沈んでいった。なぜだ。
これを私はドイツの夏と日本の冬では太陽の軌道や頂点の位置が全く違うのだから単純比較はできない、と解釈した。つまり「湿度のせい」で間違いはないのだと。
今までずっとそう思ってきたところ、ある日見る気もなくボーッと見ていたTVで「もし地球が自転をしなかったらどうなるか」とかいう、子供向け理科教室のような話をしていて、その結果の一つとして「赤道近くの高山にいる住民、アンデスの住民などは息ができなくなる。あそこで4~5000mの高さでも空気があるのは赤道付近では遠心力で大気の層が伸びて厚くなっているからだ」と言っているのを聞いて、「ひょっとして太陽ギラギラの原因はこれか?!」とひらめいたのである。
東京は千代田区で北緯35度41分、フランクフルトが北緯50度6分だ。そもそもこの緯度というのが一筋縄では行かず、遠心力で地球も楕円になっているから、赤道との角度で決めるか、地球の重心も考慮に入れるかなどでいろいろ違ってくるから細かく言えばキリがないが、これらの数字はもちろんシンプルに地理緯度のことである。とにかく石のように難い地球が変形するくらいだからその周りの気体はさらに甚だしい楕円形になっているはずだ。面倒だから地球を完全な球と見ることにすると、楕円形の中に球体が入っていることになり、赤道辺りは最も空気層が厚く、緯度が高くなるにつれて大気層も薄くなる。層が薄くなれば紫外線もそれだけ邪魔されずに突入し、しかも途中で散らされないからまっすぐ走って来る。太陽の高度が下がっても、低緯度の地域より空気層が薄いから波長の短い光線も生き残り、あまり赤くならない。これで説明がつくような気がしたのだ。北緯35度の日本人が感じるくらいだから0度の空気に慣れた人はさらに違いを感じるはずだ。
また空気層が薄いということは天井も低いことになる、つまり緯度が低いと天井が高く、緯度が高い地点は天井が低いわけだから、日本で高いところを飛んでいる雲がドイツでは高度が落ちている(感じがした)説明もつく。さらに天井の高い部屋は換気に時間がかかるが、低いと空気の入れ替えもずっと早くできる。天気の変わるスピードの違いはそれではないのか。
もちろん空気の層は薄くても重力と遠心力のバランスが緯度で変わるわけではないから、同じような海抜にいる人の頭上の気圧は変わらない。太陽光線は強いが空気そのものが薄いとは感じなかったのはそのせいだろう。その点で気圧が実際に低くなる「山の天気」とは異なる。
これらを我ながら自己嫌悪に堪えないレベルの稚拙な図にするとこうなる。家に分度器などというものがないのでテキトーに目で角度をつけた。

しかし「そうかこれでわかったぞ」という私のバンザイ気分に水をさす大きな疑問がある。東京はすでに既に結構北の方にあるし、フランクフルトも別にそれほど北にあるわけではない、たかがハバロフスク程度である。つまり東京とフランクフルトの緯度差なんてちっぽけなもんだということだ。上の図では極端に描いたが、大気層の伸びる距離など地球の大きさと比べたら屁のようなものに違いない。そんな極小差をこの鈍感な私が感じ取れるものなのか非常に疑問だ。ひょっとしたら本当にあっさり湿度の問題だけだったのかもしれない。そのアフリカ人も空気が大して暑くないくせに陽だけは生意気にギラギラ照っていたから光線が強いように錯覚しただけかもしれない。つまり「単なる気のせい」という可能性が捨てきれない。
この疑問に決着をつけるには北緯36度と50度地点での地球の回転速度と中心からの距離を(厳密にいえばこれも違っているはずだ)調べて遠心力を計算しさらにそれによって空気層が何メートル伸びるか導き出さないといけない。500mくらいでは人間には差が感じられないだろうから「気のせい」あるいは「原因は他にある」ということになろうが、その前にそんな計算をするにはどこから手をつけてどうやったらいいのかが全くわからないのでこれ以上は勘弁してもらいたい。楕円をドイツ語や英語で Ellipse というが、この語はギリシャ語の ἔλλειψις から来ている、実はそもそもそういう話がしたいばかりに話を振っただけなのである。
ἔλλειψις は本来不足とか不完全とかいう意味で、「細長い」という意味はないから字義通り訳すとしたらEllipse は楕円と言うより欠円だろう。「駄円」とまで言ってしまったら行き過ぎだが。もちろん専門用語などは元の原語に義理立てする必要もないから日本語の造語として「楕円」でもちろんOKで、文句をつけるつもりなど全くない。
この ἔλλειψις が実は言語学のほうにも使われている。これも『148.同化と異化』で出したような語と同様、自然科学と人文科学の用語が交差している例だろう。言語学では「省略」という専門用語になる。ドイツ語では楕円も省略も同じくEllipse というが、英語では紛らわしいためか楕円は Ellipse、省略は Ellipsis と少し語形を変えている。ちょっと手元の言語学事典を引いてみたら、このEllipseの項では様々な言語学者の様々な定義などが紹介され、説明にベッタリ2ページも割いてあったので驚いた。例としては Wo warst du gestern? In Bonn. (「昨日どこに行ってたんだ?ボン。」)などの文が挙がっている(太字が省略文)。
私はずっと長い間、この「省略」という観念を、「もとは完全であった文、つまり文の構成要素が全部律儀に埋まっていた文から、文脈から類推できる構成要素が取り外されてできた形」と理解していた。例えば次のような全てガンガンに埋まっているような文が「元」なのだと思っていたのである。その元の形が発話状況によって欠損するのだと。
山田さんが東京へ行きます。
この文が「誰が東京へ行きますか」という問いの答えとして発話される場合普通「東京へ」は省略される。
山田さんがØ行きます。
頭の中には全ての成分が埋まっている完全な文が出来ていたが、発話の過程で「これはいらんだろ」という成分が切り捨てられる、言い換えると東京へ→Øという流れだ。上の言語学事典にも省略文が現れる条件として当該要素が rekonstruierbar(再現可能)であること 書いてある。東京へ→Ø→ 東京へという図だ。後半のØ→ 東京という部分は聞き手が行うわけだ。
そもそも「完全な文」とは何ぞやということだが、文の必須要素、動詞のバレンツ要素が全部満たされているのが「完全な文」ということになろう。例えば次の文だ。
山田さんが田中さんに花をあげた。
ここでは動詞「あげる」のバレンツ価は3(主格、対格、与格)だが、これが飽和状態だから安定している。このうちのどれかがないと、文脈の助けがない限り文は不安定となる。何もないところからいきなり
山田さんが花をあげました。
と言われるとつい「誰に?」と聞きたくなるのは与格が「あげる」という動詞の必須構成要素だからだ。バレンツ要素が埋まっていないと「いきなり文」は座りが悪い。再現できないからだ。
なお、自動詞だからと言ってバレンツ価が1(つまり主格のみ)とは限らない。「行く」は自動詞だが、バレンツ価は2である。主格の他に向格(『152.Noとしか言えない見本』参照)が必須だからだ。
山田さんが行きました。
と突然いわれれば、普通の人は「何処に?」と聞き返す。
だから「完全な文」とは動詞のバレンツが飽和した状態の文、省略文とはバレンツ要素のどれかが削除された文と定義できる。言い換えると「省略」とは飽和文との差のことだ。始めの方で挙げた文の「東京へ」は向格の必須要素だから、この部分が消えているのは当然「省略」と名付けることができる。
しかし飽和文にはさらに付随要素がくっ付くことができるので注意がいる。共格や動作処格、具格をバレンツとして持っている動詞はない。これらは皆オプションでついているのだ。
山田さんが道端で田中さんに花をあげた。
佐藤さんが地下鉄で東京に行った。
などの「道端で」「地下鉄で」はなくても誰も困らないし、「山田さんが田中さんに花をあげた」と言われても普通特に「何処で?」などと聞いたりしない。これらが拡張要素で文の格となる動詞のバレンツには属していないからだ。「明日」「2月29日に」などの時間表現も任意である。「完全な文」のメンバーではないから、これが消されていても省略ではないことになる。だから「山田さんは明日何で東京へ行きますか?」という問いに
地下鉄で行きます。
と答えたら「東京へ」と「山田さんが」がないのは省略だが、「明日」が消えているのは省略ではないという理屈になる。また同じ問いに
山田さんは地下鉄で東京へ行きます。
というウザい答え方をしたら、「明日」が抜けているのにこれは省略文ではないとしなければいけない。
上でも述べたように私は以前このバレンツ飽和文が出発点で、発話の過程で文脈から見て自明な要素が削除されるのが省略文だと思っていた。それが「あれ、実は逆かな」と最初に思い始めたのは、昔周りの英語学専攻の人たちがやっていた変形生成文法とやらをチラ見したときである。生成文法といってもごく初期の非常に原始的なやつだが(新しいバージョンは難しすぎてよくわかりません)、そこではまず頭の中に作られるのは文法の枠組み、抽象的なセンテンス構造であって、その構成要素はいわばカラの箱だ。その箱に中身を入れる、つまり具体的な単語があてがわれるのは文の生成の最後の段階である。つまり省略文とはもともとあったものが消えたのではなく、文が生焼け(?)のまま出て来てしまったものだという理屈になる。そういえば生成文法系の論文で「構成要素が全部埋まった完全な文」のことを a full-fledged sentence と呼んでいるのを見たことがある。省略文にはまだ全部羽が生えそろっていないのだ。さらに変な譬えだが、半旗のように一旦上まで完全に挙げてから下ろすのではなく、旗が上がる途中で止まっちゃったというイメージ。だから省略されたのは語のほうではなく、語を文のしかるべきシンタクス位置に当てはめるというプロセスそのものである。上の例で言えば「東京へ」がØで代用されたのではなく、Ø が「東京へ」で代用されなかった、という流れだ。上で出したような東京へ→Ø→ 東京へという図式にはならず、前半の東京へ→Ø という部分は最初から存在せず、話者は聞き手に丸投げしているのである。どうもそう考えたほうがいいような気がする。
なぜなら動詞のバレンツ要素のほうでなくその上位の動詞そのものが出てこないことなどもザラだからだ。上述の事典の例をあげる。
Einen schwarzen (Kaffee möchte ich, bitte).
ブラック(コーヒーをお願いします)
Jeden Tag (passiert) ein Streit!
毎日悶着(が起きる)。
バレンツ要素なら再構築が比較的容易だが、動詞が抜けると本来意図していたのと違う動詞が再建される危険性が増す。最初の文も… Kaffee möchte ich, bitte でなく… Kaffee bringen Sie mir, bitte(「(ブラック)コーヒーを持ってきてください」と聞き手が解釈するかもしれない。さらに埋め込み分がスッポリ抜けることもまれではない。ネットで拾った例だが、下の und ob (「って」)というのが省略文だがここで省略されているのは何か。
Hat Liverpool je gegen die SGD (= Dynamo Dresden) gespielt? Und ob, zum Beispiel 1973 und 76 in der Europa League […] oder 1977 in der Champions League […].
リバプールはSGD(ディナモ・ドレースデン)と対戦したことあんの?って、例えば1973年と76年のヨーロッパリーグ(…)とか1977年にチャンピオンズリーグ (…)とか。
省略なしの形は Und ob Liverpool je gegen die SGD gespielt hat(「リバプールがSDGと対戦したことあるのかってあんた」)だが、実はまだこれでも完全な文ではない。これ自体も埋め込み文、つまり文の一部なわけだから、そのまた上位の主文があるはずだ。無理やり再建してみよう。Und ob Liverpool je gegen die SGD gespielt hat, fragst du mich! (「リバプールは SGD(ディナモ・ドレースデン)と対戦したことあんの?ってあんた私に聞くし!」)または Und ob Liverpool je gegen die SGD gespielt hat, weißt du nicht?! (「リバプールは SGD(ディナモ・ドレースデン)と対戦したことあんの?ってあんた知らないの?!」)ということになろうか。
話者がこんなにデカい要素を一旦心の中で語まで含めて全部構築しておいてから、そのせっかく代入した語を発話の過程で「これは言わなくてもわかるだろう」と改めて抜いたのでは手間も時間も無駄すぎる。シンタクスの枠組みだけ暗示して、語の代入は相手に丸投げした方が早いし、相手にとってもそんなものはお安い御用だ。会話の中で文構造や指示対象などのお膳立てはすでに出来ているからだ。多少の自由裁量もコミュニケーションに支障はもたらさない。
さらにこんな状況を考えてみよう。例えば自分の机の上に未知の郵便物が置いてあるのを発見したとき人は何というだろうか。
これは?
この発話で最も重要なのはまさにスッポ抜けた「何ですか?」という部分である。また周りに指示対象物が見当たらないのに「これ」の代わりに「あれは?」という質問を発したら日本人は普通「どうなりました?」「どうなっているんですか?」が省略されていると感じる。「山田さんは?」という振り出しだと「何処ですか?」「来ましたか?」などという解釈が自然だが、「田中さんは任天堂の社員です。山田さんは?」と聞かれれば「もうすぐ来ます」などと答える人はいない。「ソニーです」と言うだろう。
とにかく省略を適切に行うには比較的高度な言語能力が必要だ。昔、「言語学」という学問分野がまだなかったころは省略のテクが修辞学で扱われる一分野だった(現在でもそうだが)のもうなずける。