今さらこんなことを言うと当たり前すぎてかえって不思議がられそうだが日本語の形容詞は「用言」である。つまり動詞の仲間なのだ。「そんなこと決まってるだろバカ」と私を罵るのはまだ早い、実はこれが印欧語と決定的に違う割と重要なポイントで、確か松本克己教授もこの点を強調していた。なぜ形容詞が用言かというと日本語ではコピュラという動詞がなく、その機能を形容詞そのものが請け負うからだ。たとえば「アヒルはかわいい」という文の直接構成要素は「アヒル」という名詞と「かわいい」という形容詞だけでコピュラなどというつなぎはいらない。丁寧語バージョン「アヒルはかわいいです」では「です」がコピュラと言えないこともないがこの「です」は下記の「だ」と共にせいぜい「助動詞」であり、機能の点でも形の点でも動詞と比べて非常に範囲が限られていて完全に別の品詞だ。早い話が「です」や「だ」じゃあ印欧語のように be ambitious と形容詞にくっついて命令形を作ったり「~こと」と付加して to be ambitious のような不定形表現ができず、本チャン動詞を引っ張り出して助けを借りるしかない。それで命令形は「野心的であれ」「かわいくあれ」となるが、これらの表現はすでにやや文語的で普通の会話では使わない。不定形のほうも「野心的であること」「かわいくあること」と動詞を動員するワザとらしいというか不自然と言うかとにかくこんな言葉使いで会話をする人などいないだろう。動詞なしの「野心的なこと」「かわいいこと」では前者のナ形容詞では「な」はコピュラ「だ」の連体形だとも解釈できるからかろうじて存在を確認できるがイ形容詞では形容詞の連体形があるだけでコピュラなんてものは影も形もない。さらに「だ」なら上記のように何とか命令も不定形もできるが、「です」ではどちらも不可能である。「野心的ですあれ」「かわいいですあれ」は非文だし、「野心的ですこと」「かわいいですこと」は後ろに「おほほ」でもつけてお上品ぶった嫌みな女の発言にしかなり得ない。「野心的なこと」「かわいいこと」とは意味が全然違う。
 要するに「美しい」「おもしろい」「新しい」などのイ形容詞は厳密に言えばそれぞれ beautiful、interesting、new ではなくて be beautiful、be interesting、be new である(ナ形容詞については下記)。イ・ナ共に語形パラダイムの名前も「未然」「連用」「連体」「終止」など動詞とそっくり。さらに動詞に付くのと全く同じ助動詞、例えば「~すぎる」などを付加できる。「美しすぎる」「馬鹿すぎる」「食べすぎる」では最初がイ形容詞、二番目がナ、最後の例が動詞だ。もちろん語形自体は大分違うしパラダイムにしても命令形がなく未然も連用も形が二つに分かれていないなど動詞活用の観念をそのまま持ち込むわけにはいかないが、とにかく動詞の仲間だ。
 ナ形容詞は上で見たようにコピュラ動詞の助けがいるから、明確に用言であるイ形容詞より品詞としては名詞性を帯びる。訳すとしたらコピュラに括弧をつけて「きれい」→ (be) pretty、「馬鹿」→ (be) stupid、「静か」→ (be) silent とでもするべきだろう。理不尽なことにこの名詞に近い形容詞を学校文法では「形容動詞」などと呼んでいる。動詞なのはむしろイ形容詞の方だろう。この「形容動詞」という名称には異を唱える人も昔から多く、私個人も今まで「ナ形容詞」「イ形容詞」という呼び名しか使ったことがない。イとナは活用形も全く違うのでこれらを「形容詞」という一つの品詞としてくくるのは無理がありすぎるという配慮で「形容動詞」という別品詞を掲げたのかもしれないが、それだったら逆にイを「形容動詞」、ナを「形容名詞」とでも呼んだ方が適切なのではないだろうか。「形容名詞」(ナ形容詞)と名詞の差は、それらがそれぞれ別の名詞の付加語になるとき、名詞は属格マーカー「の」をとるのに対して形容名詞にはコピュラ助動詞の連体形「な」がくっつく点だけであって、その他はいろいろ共通する部分が多い。名詞・形容名詞(ナ形容詞)の二品詞にまたがる語もある。例えば「病気」だ。この語は基本的には名詞で a sick man は「病気の人」だが、「病気な人」という表現もできる。後者はむしろカタカナで「ビョーキな人」と書いた方がいいかもしれないがニュートラルに「病人」のことではなく「人格に問題のある人」という隠語だ。全然隠れていないが。逆に「馬鹿」は普通はナ形容詞に分類されるが両品詞にまたがっており、「馬鹿なことを言うな」の馬鹿はナ形容詞だが、「馬鹿は時々真を突くから怖い」「馬鹿のいう事など聞いていられない」の馬鹿は「馬鹿な人」という意味の名詞である。要するにナ形容詞は機能的にも文法的にも名詞とダブる点が多い。これが「形容動詞」などと呼ばれているのはおかしいと言えばおかしい。それともこの名称は「私は馬鹿だ」の「だ」という助動詞を動詞と見なして「(助)動詞を使う形容詞」「(助)動詞によって名詞が形容詞化したもの」ということなのか。しかしよく見てみると実はナの方が形容詞本家なのではないかという思われる節がある。外国語の形容詞を借用する際はナ形容詞になるのが基本だ。「イノセントな」「モダンな」であって、「イノセントい」「モダンい」などという形になることはない。「ナウい」という言葉は now という語が一旦「ナウな」というナ形容詞として日本語に定着した後、わざとギャグ的意味でイ形容詞に変換されたものだ。「挙動不審な」が「キョドい」になるのと同じである。
 いろいろ考え出すとあちらを立てればこちらが立たず的にどうも話が面倒くさくなってくるのでやはりナ形容詞・イ形容詞という名称を使うのが一番無難だと思う。それにナ形容詞にしても語幹そのものは名詞寄りかもしれないが、シンタクス機能の点では動詞に近い。例えば自分自身のバレンツ要素が取れる。「私はアヒルが好きだ」という文では「私」は主文の主語で「アヒル」は形容詞の主語、つまり形容詞に支配されている要素である。その主語もろとも「アヒルが好きだ」全体が形容詞。「私は頭が悪い」だともっとはっきりする。「頭が」は形容詞の支配下、つまり「頭が悪い」全体で形容詞の機能だ。形容詞が主文の主語とは異なる主語を取る構造など日本語では日常茶飯事で、「あいつは手が早い」「老人は朝が早い」「山田さんは字がきれいだ」などいくらでもできる。独自の主語を主格のままで取るなどという芸当は体言には無理だ。その点でも日本語の形容詞は動詞の仲間なのである。
 さて、その主語つき形容詞では主語はつまり形容詞の一部ということだ。だから主文とは別個にまた主語を取ることができるわけ。上の文と同じロジック内容の文をトピックなしの構造にしてみるとよくわかる:「お前、本当に手が早いな」→「おれじゃないよ、あいつだよ、あいつ、あいつが手が早いんだよ。」、「老人が朝が早いのはまあ仕方がないよ」、「この手紙を誰かに清書してもらいたいんだが、誰がいいかな」→「山田さんが字がきれいですよ」。太線は主文の主語、下線部は形容詞の主語で、シンタクスの位置が全然違うのだが、こういうダブル主格を見てヒステリーを起こした印欧語ネイティブがいる。

 印欧語では形容詞は名詞の仲間だ。だから名詞の語形変化と形容詞の語形変化をまとめて「曲用」Deklination という。格・数・文法性によって変化する。動詞の語形変化は「活用」Konjugation といい、時制や法などを表す。日本語の形容詞はどう見ても「活用」だ。動詞を仲介せずに形容詞に直接時制や法のマーカー(下線部)がつく。

きれいだ→きれいだった(時制)、きれいなら(ば)(法)

かわいい→かわいかった(時制)、かわいければ(法)

しかもこのマーカーは動詞につくのと同じマーカーである。上で述べた「~すぎる」もそうだが、動詞と形容詞には基本同じ助動詞がつくのだ。

読む→読ん(時制)、読め、読んだら(ば)(法)

 さらにいわゆる「て形」もそうだ。一つのセンテンスが複数の動詞を含む場合、最後のものだけが時制や法などの最終情報を担う。終止形だ。いわば最後の動詞だけが印欧語でいう定型 finite Form になるわけで、先行する他の動詞は「文はまだ終わっていない」とシグナルを出す「て形」をとる。印欧語だと複数の動詞からなる文で動詞の順番を変えられるが、日本語ではできない。動詞を二つ含む文内の動詞(とその支配要素)をそれぞれ色分けしてみよう。動詞そのものは太字にする。

Ich lese das Buch, schreibe einen Brief.

この本を読んで手紙を書く

二つの動詞句の間にはコンマでなく und(「そして」)という接続が入るのが普通だろうが、比較を簡単にするためコンマでつないだ。ドイツ語だと動詞句を入れ替えても動詞の形は変わらない。もちろん文の意味は変わるが文法的にはOKだ。

Ich schreibe einen Brief, lese das Buch.

日本語はそうはいかない。単に動詞句の位置を入れ変えただけでは非文になる。コンマを入れてもなお不可能、というより余計変になる。

手紙を書くこの本を読んで

青い動詞を終止形、黄色を「て形」にしないと文としては成り立たない。

手紙を書いてこの本を読む

この、最後の語が最終的な機能情報を担うというのは形容詞もいっしょで、最後の形容詞だけが終止形、先行形容詞は「て形」になる。今度は und でつないでみた。

Herr Yamada ist klug und lustig.
山田さんは頭がよくておもしろい

水色と黄色を入れ替える。ドイツ語はそのままでOKだが日本語は形容詞の語形を変化させないと非文。

Herr Yamada ist lustig und klug.
*山田さんはおもしろい頭がよくて
山田さんはおもしろくて頭がいい

上で日本語の形容詞は一つ一つがコピュラ付きと考えるべきだ、と言ったがこれがなかなか呑み込めなかった人がいる。「山田さんは頭がよくておもしろい」の形容詞の順番を入れ替えてみろといったら「山田さんは頭がおもしろくていい」と答えたのだ。ドイツ語の母語者だったが、これはドイツ語では主動詞コピュラが両方の形容詞を支配するので、その勢いで「頭が」が形容詞を二つとも支配すると思ってしまったのだ。さらに「形容詞はそれぞれ独自の主語をとれる」ので、「頭が」は「いい」のみの主語だということがよく理解できていなかったのである。双方の形容詞に主語がついていたらどう答えていたか実験(人体実験かよ)してみたいところだ。

山田さんは目がきれいで顔がかわいい

「きれい」はナ形容詞なのでイ形容詞の「かわいい」とは形が違うが、終止形対「て形」
という原則は変わらない。

山田さんは顔がかわいくて目がきれいだ
*山田さんは顔がかわいい目がきれいで

 もう一つ。これは「形容詞は用言」ということと直接関連性はないだろうが日本語の形容詞は比較級・最上級がなく、形としては原級あるのみ。比較級や最上級は形容詞そのものでなくその性質を帯びている名詞のほうにマーカーをつけて表す。例えばその性質を帯びている度合いが低い名詞に「より」というマーカーをつける。

山田さんは田中さんより親切だ。

という文では田中さんは親切の度合いが低いことになる。この「より」だが、これを格の一つとみなし主格の「が」、対格の「を」と同様、「私より」という「比較格」を提唱している人もいるが、考えてみると「より」は名詞のお尻ばかりでなく、「より少ない」「より美しい」など形容詞の頭にくっ付くことができる。それとも「山田さんより」の「より」と「より美しい」の「より」は別単語と見なすべきなのだろうか。そういえば「より美しい」は「美しい度合いが高い」という意味で「山田さんより」とは逆である。対して「私より山田さんに言ってよ」の「より」はさすがに「私よりきれい」の「より」と別単語とは考えにくい。機能も形容詞の場合と同じ(当該事象に相応しい程度が低い名詞につく)だからこれを格の一つと考えるのはある程度納得が行くのだが、ちょっと他の格マーカーと違った振る舞いをするので私個人は今のところ保留している(『152.Noとしか言えない見本』参照)。

 さて、さらに比較表現では当該特徴の度合いが高いほうの名詞に「~のほう」というマーカーが付くこともある。

山田さんのほうが田中さんより親切だ。

しかしこの「高い度合いマーカー」は必須ではなく、文脈からの比較級判断となることも日常茶飯事だ。

A:山田さんと田中さんとどちらが親切?
B1:山田さんのほうが親切よ。
B2:山田さんが親切よ。

A:鏡よ鏡、白雪姫と私とどちらがきれい?
B1:白雪姫のほうがきれいです。
B2:白雪姫がきれいです。

そもそもこの「のほう」というマーカーは単に当該名詞への指示を強調するのが働きで、本来比較級云々とは関係がない。省略可能なのは当然だろう。そこが「より」とは違う点だ。例えば次の文では「~のほう」は比較などではない。

ちょっと、私のほうを見て!
ちょっと、私を見て!

 比較級がないのだから形としての最上級もなく、最上級を表すには「いちばん」「最も」などの副詞を使う。これらは「より」のように格マーカー(?)でも「~のほう」のような後置詞でもなく、明確に副詞だ。つまり比較級や最上級的意味を表す品詞がバラバラな上省略されることも多いわけで、日本語の形容詞には原級しかないと見ざるをない。表そうと思えば表せるというだけで、単数・複数の場合と同じく文法カテゴリーとしては存在しない。

A:鏡よ鏡、この世で誰が一番きれい?
B1:白雪姫がいちばんきれいです。
B2:白雪姫がきれいです。

カテゴリーとして存在しないからまさに複数・単数の場合と同様、日本語からドイツ語などに訳す際は気をつけないといけない。日本語には単複の区別がないから英語のネイティブなら本能的に複数を使う文脈、たとえば「あなたの趣味はなんですか?」と聞こうとして hobby と単数を使ったりするがそれと同様「この中でどれがいいと思う?」という日本語をドイツ語に訳す際、うっかりすると was meinst du? Welches ist gut? とか原級を使ってしまう。Welches ist am besten と最上級にしないといけない。二つの選択肢を前にして「私はこれがきれいだと思うわ」というなら ich finde dies schön(原級)でなくich finde dies schöner(比較級)だ。

 確かに英語も3シラブル以上の形容詞の比較級・最上級はそれぞれ more と most という副詞をつけて表し、形容詞そのものは変化しない。さらに当該要素の少ない方の名詞に thanという前置詞というか副詞をつけるので、シンタクスの外見上日本語と似ているが(more も than も日本語の「より」に対応するから、This book is more interesting than that one はうるさく訳せば「この本はあの本よりより面白い」であろう)、これは本来から存在していた文法カテゴリーを別の方法で代理させると言う点が、カテゴリーそのものが最初から存在しない日本語との決定的な違いだろう。形としての比較級・最上級はきちんと保っているロシア語でもそれと並行して英語式の比較級・最上級も使われている。後者の方が簡単だ。

 面白いことにコーカサスのナフ・ダゲスタン語群(『169.ダゲスタンの言語』参照)にはナフ語の他は形容詞に原級しかなく、比較表現は名詞の方の格で表すそうだ。日本語みたいだ。クリモフという学者がクリツ語 Kryts language の次のような例をあげている。

Pari Aḥmad-war buduw
パーリはアハマードより年上だ。

bu- が形容詞で「大きい、年上の」、-d- がクラス(=文法性)マーカー、-uw がコピュラの現在形。形容詞は原級である。アハマードの後ろにくっついている -war という形態素が日本語の「より」で、クリモフはこれを「比較格」と名付けている。パーリの方の格の説明はないが、これは絶対格のはずである。わかりきっているからわざわざ言わなかったのだろう。
 クリツ語では比較格を取るが、他のダゲスタン語群 ではこういう時名詞が奪格をとる言語もあるそうだ。英語の from である。そういえば日本語の「より」も「ここより土足禁止」など、奪格めいた意味を持つことが多い。やっぱり日本語のも格の一つと見て保留を解いたほうがいいのか。

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