記事の図表を画像に変更し、レイアウトと文章にも少し手を入れました。ロシア語学をやらされていると何かのついでにコーカサスやシベリアの少数言語の話が出てくることがあります。そういえばトゥルベツコイも博士論文はカレワラの研究だった記憶が…
世界には狭い地域に言語がたくさん集中している地域がある。アマゾン流域(狭くないが)やパプア・ニューギニアなどが有名だが、カスピ海と黒海の間のコーカサス地方も昔から有名だ。すでに紀元前7世紀にはギリシャ人が当地の言語の多さを報告しているとのことだ。その後ローマ人やペルシャ人による報告が続き、勘定された言語数は70から300の間を動いていたそうだが、現在では40から50くらい言語という線に落ち着いている。「くらい」というのはもちろん独立言語と方言の区別(『111.方言か独立言語か』参照)が学者によって違うからだ。100の単位で言語があるアマゾンやニューギニアと比べたら少ないが、そのかわりここは本当に地域が狭い。
コーカサスには土着のいわゆる「コーカサスの言語」とともに印欧語のアルメニア語やオセチア語、トュルク語のアゼルバイジャン語なども話されているが、これらは後からこの地に入ってきたものらしい。さらにアラム語の方言(言わずと知れたセム語である)を話す人々がジョージアやアゼルバイジャンにいるそうだ。シリアからでも移住してきたのだろうか。オセチア語はスキタイ語の末裔という説がある。東イラニアン語族である。『164.Лишний человек(余計者)とは何か』で述べたレールモントフの『現代の英雄』も舞台がコーカサスだが、そこではオセチア人もチェルケス人もアゼルバイジャン人も一律に「アジア人め」と罵倒されている。土着のコーカサスの言語は印欧語やセム語、テュルク諸語と明確に異なる能格言語だが、大きく分けて3つのグループに分類できる。アブハズ・アディゲ語群、カルトヴェリ語群、ナフ・ダゲスタン語群という。これらはそれぞれ北西コーカサス語群(または単に「西コーカサス語群」)、南コーカサス語族、北東コーカサス語族(または「東コーカサス語群」)と呼ばれることもあるが、この呼び方はむしろ不適切。そもそもこれらの言語があくまで「語群」であり、印欧語レベルの正確さでは「語族証明」ができていない。それでもグループ内の言語同士でなら語彙や文法構造などにある程度の共通性が見られるそうだが、グループ間では差異が激しく、これを単に「コーカサス語群」としていっしょくたにするのは無理がある。昔言われたウラル・アルタイ語群という名称のごとく非常に誤解を招きやすい。
さらにややこしいのが、この「コーカサスの言語」の話者がコーカサス外にも結構いることである。中東やトルコのあちこちに結構散らばっており、バルカン地域にまで話者がいるそうだ。おかげで話者数の把握がいま一つ難しい。そのうちの一つ、トルコで話されていたウビフ語(アブハズ・アディゲ語群)は現在は残念ながら死語になってしまった。
コーカサスの言語状況。ウィキペディアから
3つの中で一番研究が進んでいるのは大言語のジョージア語(グルジア語、『51.無視された大発見』参照)を含むカルトヴェリ語群で、研究が進んでいるどころか、現在でもコーカサスの言語の研究書がジョージア語で書かれている、つまり研究する側の言語でもある。歴史的に見てもジョージア語、特にその文字は文化語として周りのコーカサス語群にも影響を与え、例えばナフ・ダゲスタン語群のウディ語は7世紀から9世紀にかけてすでに文字化の試みがあるがジョージア文字とアルメニア文字を取り入れている。さらにチェチェン語も12世紀~15世紀にかけてキリスト教とともに(当時はチェチェン人もキリスト教徒だったということか)ジョージア文字、ジョージア語を書き言葉として受け入れたので、こんにちでもダゲスタンにはジョージア語の碑文が約50残っている。現在ジョージア語だけで話者400万人から500万人いるが(他にもカルトヴェリ語群には十万単位の話者がいる言語がある)、話者数だけでなく歴史文化的にも上でも述べたように他の言語に影響を与えた大言語だから、もちろん自分の言語も立派に文字化していてすでに5世紀から碑文があり、通時的研究や古い形の再現が可、ということは共時的な方言研究にも利がある上、書き言葉の伝統があるのですでに古い昔から自語の研究そのものも進んでいた。19世紀になって西欧から比較言語学者が参入してきた時もしばらくは主たる関心がジョージア語だった。
19世紀の後半から20世紀前半になると言語の記述研究が盛んになり、 他の2言語群の記述も始まったが、アブハズ・アディゲ語群の方が進んでいる。上のレールモントフにも出てきたチェルケス人の言語もこのグループだが、これらの言語は母音音素が少ないので有名だ。例えばアブハズ語の母音音素は a と ǝ の二つ。音声上現れるその他の母音は皆このどちらかのアロフォンなんだそうだ。他の言語も皆似たり寄ったりで多くて3母音。その代わり子音音素がやたらと多く、ウビフ語(上述)は少なくとも80,アブハズ語の一方言では67の子音音素があるという、ちょっと信じがたい強烈な音韻構造である。話者数は最も多いカバルド語(東チェルケス語)で100万人ちょっと(別の資料では約70万人。どっちなんだ?!)、あと十万単位の話者を持つ言語が2・3あるがカルトヴェリ語群と比べるといかにも少数言語っぽい感が否めない。
ナフ・ダゲスタン語群はアブハズ・アディゲ語群よりさらに記述研究がやや遅れをとっているらしい。これは第一にナフ・ダゲスタン語群の言語数が多い上に方言間の乖離が激しく方言か独立言語か決めるのが難しいのも原因だろう。チェチェン語など話者数が100万に届こうかという言語もあるが、話者数万、いや数千という言語がやたらとバラバラあって把握に苦労する。この時期にトゥルベツコイもコーカサスの言語の音韻構造の記述研究に手を染めている(『134.トゥルベツコイの印欧語』)。研究プロジェクトなどもソ連内外でいろいろ立ち上がったそうで、例えばモスクワのロモノソフ大学が60年代から70年代にかけてダゲスタンの言語のフィールド調査を行っている。
このブログでも今まで何の気なしにコーカサスの言語についてチョチョッと述べたりしたことがあるが、ジョージア語以外に名前を出した、チェチェン語(『53.アラビア語の宝石』)、タバサラン語(『107.二つのコピュラ』、『7.「本」はどこから来たか』などは別に意図したわけではないが 偶然このナフ・ダゲスタン語群だ。そういえばこの「ダゲスタン語」でちょっと思い出した。学生の時にロシア語学の演習でA. Кибрик(A. Kibrik)という人の論文を読まさせられた。テーマは指示対象の照応関係のことかなんか、つまり言語理論系の論文だったのだが、その時何の気なしにカタログでA. Кибрикの名前を検索したところこの名前でダゲスタンの言語について多くの論文が発表されていることがわかった。一方ではダゲスタンの言語、他方ではロシア語の指示対象照応とはまた研究範囲の広い人だと驚いたら実はダゲスタン言語のキブリーク氏は指示対象キブリーク氏の父親だった。ダゲスタン氏はアレクサンドル・キブリーク、指示対象氏はアンドレイ・キブリークという。もちろんダゲスタン氏も言語理論の論文は書いているが、記述系と説明系・生成系では同じ「理論」でも分野が全く違う。ついでにダゲスタン氏の父、指示対象氏の祖父は有名な芸術家だそうだ。文化人一家である。上述のロモノソフ大学のプロジェクト要員にもキブリークの名前が上がっている。
そのナフ・ダゲスタン語群だが、上にも書いたように内部で結構言語がバラけている上、ナフ・ダゲスタンとダブルネームになっているだけあってナフ語群とダゲスタン語群の間にはさらに一線あるそうだ。アヴァール語などには古い試みもあるらしいが本格的な文字化はやはり20世紀になってからで、1928年からラテン文字による文字化が試みられた。それが1936年から38年にかけてキリル文字にとってかわられた。チェチェン語、イングーシ語、アヴァール語などその際「標準語化」もなされたという。なお、念のため補足しておくがここの「アヴァール語」というのは民族・言語的に昔ロシアにステップから攻め込んできたアヴァール人(『165.シルクロードの印欧語』参照)とは別人28号(こんなギャグを知っている方まだいますか?)である。
音韻構成が気になるが、 ナフ・ダゲスタン語群はアブハズ・アディゲ語群と比べると母音の数が多い。アヴァール語の一方言では3つ、a、i、u で(コザソフКодзасовという学者はa、i、u、e、oの5つと言っている)、この3つはナフ・ダゲスタン語群の全ての言語にあるが、普通はこれよりずっと母音音素が多い、特にナフ語群は多くチェチェン語で33。平均すると10から15の母音音素がある。3から急に増えるのは短母音と長母音を区別したり、二重母音を持っていたりする言語があるからだ。「母音が10」でも私などには十分多いが、それに加えてアブハズ・アディゲ語群ほどではないが子音も多い。アグール語で73,チェチェン語で40から50,タバサラン語が55以上。困ったことにこれらの数字は資料や学者によって少なからぬバラツキがあり、あまりキッパリとした数値ではないのだがとにかく「子音が多い」ことだけは確かである。これは例えば閉鎖音でいわゆるfortis、lenisを音韻的に区別したり放出音があったりするせいだ。声門、咽頭音もある。流音が6つある言語もあるそうで、日本人に喧嘩を売っているとしか思えない。
アグール語2方言の音素。子音がやたらと多い。А.Е. Кибрик и С. В. Кодзасов, 1990. Сопоставительное изучение дагестанских языков Имя.Фонетика. p.338, 339から
アクセントについてはキブリークがダゲスタンの言語の過半数が高低アクセントを持っていると書いている。残念ながらその高低アクセントが日本語のように超分節なものか中国語のようなシラブル内のものか明確に区別されていない。そしてシラブル単位の高低アクセントを持つ言語は少数の例外を覗いてсловесное ударение(「語アクセント」)を欠くとあるのだが、これは単語ごとに決まった強弱アクセントのことだろうか。その例外の中にアヴァール語が入っているが、そこでは高低を区別するのはアクセントのある母音のみだそうだ。つまりちょうどクロアチア語のような感じなのだろう。そのアヴァール語にはアクセントの違いだけで意味(というより文法機能)が変わる例がある:rúġnal「傷、複数・絶対格」対 ruġnál「同単数・属格」。似たような例はなぜかロシア語やクロアチア語にもあった(『58.語学書は強姦魔』、『90.ちょっと、そこの人!』参照)。
さらにナフ・ダゲスタン語群は音素も多いが名詞の語形も多い。ここばかりでなくアブハズ・アディゲもカルトヴェリも日本語やトルコ語に似た膠着語タイプで、名詞の尻尾に複数マーカーや格マーカーがくっつくのが基本だが、屈折タイプの変化がないわけではない。チェチェン語で「風」の絶対格は muoχ だが、属格になると meχ-in で 、属格を示す接尾辞がついているほかに語幹の母音が交替しているのがわかる。同様にアヴァール語の「豆」holó の能格形は halí-cā という。
このグループの言語の格の数であるが、以前にも述べたようにタバサラン語で62(別の資料では48)、もっともチョロいアグール語で28。たかがドイツ語の4格で死にそうになっている人にとっては命の危険さえありそうだが、これはドイツ語では前置詞が担っているような機能を全て格変化が受け持つからだ。日本語だって格を勘定すれば13くらいにはなる。だが一方それでも13にしかならないから諸事情を差し引いてもやっぱり40以上の格というのは割と恐怖である。特に処格、つまり位置関係を表わす格がいくつかのグループに分けられ、それぞれのグループがまた細分化するので格数が何倍にも増殖する。例えばラク語では名詞に -χ というマーカーがつくと「対象物の裏側」という意味になるが、この「裏側」(以下太字)にさらに細かい空間表現が加わる;q̅at̅lu-χ が基本の「家の後ろ(で)」、q̅at̅lu-χ-un とそこにさらに格マーカー(下線)がつくと「家の後ろへ」、q̅at̅lu-χ-unmaj と別の格マーカーがついて「家の後ろへ向かって」、q̅at̅lu-χ-uχ だと「家の後ろをわきを通り過ぎて」、q̅at̅lu-χ-a(tu) で「家の後ろから(こちらへ)」。これらがいわば -χ グループだが、同じことが別のグループでも繰り返される。別のグル―プ-w (以下太字)を見てみよう。これは「対象物の内部」を表わすグループだ。まず q̅at̅lu-w-u が基本形の「家の中(で)」。-χ と比べると母音 u が加わってはいるが、-χ の基本形と構造的に対応している。さらに q̅at̅lu-w-un 「家の中へ」、 q̅at̅lu-w-unmaj「家の中へ向かって」、q̅at̅lu-w-uχ「家の中を通り過ぎて」、q̅at̅lu-w-a(tu)「家の中から」という風に上と全く同じ格マーカーがつく(下線)。整然とした非常に美しい構造だ。タバサラン語も同じようなメカニズムである。ここで -χ あるいは -w と -un、-unmaj、-uχ、-a(tu) をそれぞれ別の格と見れば画数は2+4=6,もしく基本形を「ゼロ形態素が加わったもの」とみなして2+5=7だが、合体した形、例えば -χ-un を一つの格と見れば2×5=10格を区別しないといけない。この場合はゼロ形態素を必ず認める必要がある。そしてこの「グループ」は二つだけではないから足し算と掛け算の差はもっと広まるだろう。格数の報告に揺れがあるのはそんなことも原因だと思う。
処格が膨大過ぎるからか、ナフ・ダゲスタン語群の文法記述では「格」そのものを基本格(または文法格)と処格とに分けて考えているが、その「普通の」格、基本格には、絶対格、能格、与格、属格、さらに言語によっては具格などが加わる。他にもいろいろバラバラと基本格と処格の中間的な格があるそうだがこの際すっ飛ばして、基本格だけちょっと見てみると面白い現象がある。元になる語幹が二つあることだ。上で述べた比較的性格が温厚な(?)アグール語の基本格を見てみよう。
まず第一次的には絶対格と能格の区別が格変化の出発点になっていることがわかる。その他の格の形は皆能格を基礎にしてそこにさらに接尾辞(太字)を加えて形造られたものだ。これがどうして面白いかというと、『65.主格と対格は特別扱い』で述べたロマニ語の格パラダイムと並行しているからだ。ただしロマニ語は印欧語なので第一次の分岐が絶対格対能格でなく主格隊対格で、対格以外の斜格が対格を出発点にしている点が違っている。前に出したロマニ語の例から単数の主・対・与・属格を繰り返してみる。属格は披修飾名詞が男性単数の場合の形だけ挙げた。
格パラダイムの二重構造が鮮明だ。もちろんダゲスタンの言語とロマニ語では系統が全く違うからこれは単なる他人の空似ではあろう。しかし偶然は偶然としても気にはなる。
このアグール語の例はマゴメドフという人の報告だが、前述の父キブリークはアグール語の一方言がgag → gagá (能格)というパラダイムを持っていると報告している。元の形 gag が主格と呼ばれているが、これは絶対格のことなのか、それともジョージア語のように主格と絶対格が併用されているのか。さらにタバサラン語の一方言に gagá→ gagá-ji(能格)というそっくりな形があるそうで、非常に面白い。
キブリークの挙げているダルギン語の格の説明では「絶対格」でなく「主格」номинативといっている。А.Е. Кибрик и С. В. Кодзасов, 1990. Сопоставительное изучение дагестанских языков Имя.Фонетика. p.283から
能格については前にもいくつか言語の例をあげたが(『51.無視された大発見』参照)、さらにちょっとアヴァール語を見てみよう。wac̄as̄ χur bekḷana
brother-Erg.Sg + field-Abs.Sg. + plow-Past
兄(弟)が畑を耕した
dic̅a wac̅ wec̅ula
I-Erg. + brother-Abs.Sg. + praise-Pres.
私が兄(弟)を褒める
「耕す」も「褒める」も他動詞だが、「兄」が前者では主語、後者では目的語である。主語が能格、目的語が接尾辞なしの絶対格形になっているのがわかる。これだと主格と対格みたいだが、自動詞と比べてみると能格性がはっきりする。
dun wuq̅̇ula
I-Abs. + sink.Pres.
私がどっかり倒れこむ。
ここでも「私」は主語だが動詞が自動詞なので他動詞「褒める」の場合とは格が違い、絶対格をとっている。他動詞の主語なら能格だ。「私」は名詞でなく代名詞なので語形変化のメカニズムがやや異なっている。また英語の break のように同じ動詞が他動詞であったり自動詞であったりすることがあるが、その場合もきれいな能格構造になる。
dic̅a ġweṭ bekana
I-Erg. + tree-Abs.Sg. + break-Past.
私が木を折った。
ġweṭ bekana
tree-Abs.Sg. + break-Past.
木が折れた。
つまり「折る」と「折れる」の違いだが、「折れる」の主語が「折る」の目的語と同じ格をとるのだ。
もう一つ気になるのが文法上の性の数だが、アグール語など性を区別しない言語もあるが、たいていは2つから(タバサラン語の北方方言)8つ(ナフ語群)の文法性を区別する。アヴァール語は3つ、ラク語は4つ、チェチェン語は6つとなっている。だから「性」というより名詞の「クラス」または「カテゴリー」と呼ばれる。動詞や形容詞がそれに応じて呼応するのだ。一番多いのが文法性が4つあるパターンだそうだ。男性、女性、生物と特定の物質、その他という4つのカテゴリーである。ヒナルーグ語もこのパターンだが、「男」「少年」などが「男性」、「女」「娘」などが「女性」、「鶏」「蛇」が第三の 「生物と特定の物質」なのはわかるが、なぜか「橋」もここのクラスに入っている。「その他」には「仕事」「石」「眼」という雑多な名詞が属している。
ところでこの4つの名詞性というのは以前見たブルシャスキー語(『144.カラコルム・ハイウェイ』)もそうで、上のロマニ語との並行性は偶然としか考えられないが、ブルシャスキー語との類似性の方は完全にシカトもできないのではないだろうか。ブルシャスキー語も能格言語だし、しかも絶対核の語尾はゼロ、能格には -e がついて上述のキブリーク報告のアグール語と形がよく似ている。
またダゲスタンの言語は一人称複数の代名詞に包括的 inclusiveと除外的 exclusive(『22.消された一人』参照)を区別する:アヴァール語でni(包括)対 niž(除外)、タバサラン語で ixu あるいは uxu(包括)対 iču あるいは uču(包括)など。
とにかく言語的には本当に面白い地域で、いくら大詩人のレールモントフだからと言ってこれらの言語を話す人々を簡単に「アジア人め」の一言で片づけて欲しくない。