米国製西部劇と比べるとマカロニウエスタンにはメキシコ人が登場する割合が高いが、これはイタリアやスペインにはそのまま地でメキシコ人が演じられる、というかメキシコ人にしか見えない俳優がワンサといたからだろう。逆にアメリカ人、ということは西部劇の舞台になった当時「アメリカ人」の大部分を占めていた北方ヨーロッパ系のアメリカ人に見える人材の方はやや不足気味で、米国からの輸入(?)に頼るしかなかった。「誰でもいいからアメリカ人を連れてこい」というのが当地での合言葉だったそうだ。ウィリアム・ベルガーなども「アメリカ人に見える」という理由(だけ)でオファ―が来たとか来ないとかいう噂をきいたことがある。それでも「ヨーロッパ系アメリカ人」ならまだフランコ・ネロやテレンス・ヒルなど、少数派とはいえイタリア本国にもやれる俳優はいた。いなかったのがアフリカ系アメリカ人をやれる俳優である。今でこそドイツにもイタリアにもアフリカ系の国民が結構いるが、映画が作られた当時は自国民では絶対に賄えなかった。当時アフリカ系アメリカ人を演じた俳優はほとんどアメリカ市民である。
 一番の大物はウディ・ストロードだろう。レオーネの『ウエスタン』ではちょっと顔を出しただけなのに皆の記憶に残る存在感を示している。コリッツィの La collina degli stivaliとバルボーニのデビュー作 Ciakmull については『173.後出しコメディ』の項で述べたが、この他にも何本もマカロニウエスタンに出ていてほとんど常連の感がある。もう一人の大物はこれもコリッツィのI quattro dell'Ave Maria (1968)(『荒野の三悪党』)で曲芸師のトーマスを演じたブロック・ピータース。『アラバマ物語』で(あらぬ罪であることが明確な)婦女暴行罪の容疑者を演じていた人だ。他にも『復讐のダラス』でジェンマの友人を演じたレイ・サンダース(Rai Saunders または Rai Sanders)などがいる。さらに思い出したが、ずっと時が下ってからのマカロニ・ウエスタン、ルチオ・フルチの『荒野の処刑』I quattro dell'apocalisse (1975)(『155.不幸の黄色いサンダル』参照)にもハリー・バイアド Harry Biardが演じたアフリカ系のキャラがいた。バイアドは例外的にアメリカ人ではなく旧英領ギアナ(現ガイアナ)生まれの英国俳優である。調べて行けばもちろんもっといるが、すぐに思いつく顔といえばこういった名前であろう。

 これらは男性だが、アフリカ系女性陣も負けてはいない。真っ先に思い浮かぶのは何といってもジャンル最高峰の一つである『殺しが静かにやって来る』のポーリーン。夫の敵をトランティニャン演じる殺し屋サイレンスに依頼する寡婦だ。その殺し屋を愛するようになり、あくまでも目的の仇(サイコパスのクラウス・キンスキー)と対決しようとする彼に「もういいから放っておいて。命を粗末にしないで」的なことまで言い出すが、結局二人ともサイコなキンスキーに殺されるという、モリコーネのゾッとするような美しいスコアといい、凍るような雪景色といい、見たら最後、鬱病になりそうな陰気な映画だ。そのポーリーンを演じたヴォネッタ・マッギーはこれがデビュー作だそうで、タイトル部でそう謳ってある。マッギーはその後『アイガー・サンクション』でイーストウッドと共演したりしている。

ヴォネッタ・マッギーはこれ映画初出演。イントロにも書いてある。
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夫の敵討ちを殺し屋サイレンスに依頼
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サイレンスとポーリーンの関係を知らず、無邪気に間に割り込むフランク・ヴォルフ。
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 もう一人思い出すアフリカ系女性は上述の『復讐のダラス』でレイ・サンダースがやったジェンマの親友の妹である。役の名前をアニー・ゴダールと言ったが、その兄、サンダースの役はジャック・ドノヴァンで、苗字が違うのはなぜだろう。既婚と言う設定だったのかもしれないが、夫の話は全く出てこない。アニーを演じたのはノーマ・ジョーダン Norma Jordan というアメリカ生まれの歌手兼女優だが、その後もすっとイタリア生活のようだ。『復讐のダラス』はまず兄のジャックが悪徳保安官に拷問される場面で始まり、そこへやって来た妹のアニーも保安官は乱暴に外に放り出す。それを見かねたアントニオ・カサスが助け起こし、保安官に「善良な市民に何という扱いをするんだ」と抗議するが、これがその後の展開の暗示。このカサス(ジェンマの父)も兄のサンダースも保安官一味に殺される。兄は大統領殺害の犯人に仕立て上げられるのだが、正規の裁判には連邦政府から来た役人が目を光らせているためでっち上げがバレる惧れがあるというのでその前に始末されるのである。そういえば映画ではジョーダンが酒場で歌とダンスをご披露する場面もあるが、むしろこちらの歌の方が本職だ。
 なお1971年にアフリカ系アメリカ人の女優とそのイタリア人の恋人が殺される事件があり、ジョーダンも証人として召喚された。被害者の女優がジョーダンの元ルームメイトだったからだ。殺された女優はティファニー・ホイヴェルドTiffany Hoyveld で、なんと上述のコリッツィの『荒野の三悪党』で、ブロック・ピータースの妻を演じていた人である。

『復讐のダラス』の冒頭、道端に放り出されるノーマ・ジョーダン。左からアントニオ・カサスが手を差しのべて助け起こす。
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映画終盤。兄が殺されたと知ってショックを受ける。
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 ノーマ・ジョーダンも歌が本職だったが、もう一人、女優業に駆り出された歌手がローラ・ファラナ。ヴォネッタ・マッギーもノーマ・ジョーダンも脇役だったが、ファラナはなんと Lola Colt (1967)というマカロニウエスタンで堂々と単独主役を務めている。大したものだ。さすがのウディ・ストロードでさえ単独主役という偉業は達していない。
 Lola Colt のドイツ語タイトルは Lola Colt… sie spuckt dem Teufel ins Gesicht(ローラ・コルト、悪魔の顔に唾を吐く)。「悪魔」というのは敵役の悪漢のあだ名が El Diablo、つまり「悪魔」だからである。この作品はアフリカ系の女性を主役にしたレアなマカロニウエスタンだが、映画そのものは言っては悪いが完璧なまでのBムービー、黒人女性が主役という希少価値がなかったらとっくに忘却の淵に沈んでいたはずだ。もともとの長さは83分のはずだが、私が見たのはその短いのをさらに短縮した77分版。普通は短縮されると作品が損なわれるものだが、この映画にかぎっては何の損害も受けていない、むしろ少しくらいカットしてくれた方が助かったという気がするくらいBである。また普通は映画のストーリーを紹介する場合あまり露骨にネタバレしないように気を付けるものだが、この映画にはそんな気遣いは無用。バレて困るようなネタがないからである。まあとにかくB級映画だ。

 西部のさる町に旅回りの芸人団がやってくる。団員の一人が病気になり、医者にかからせないといけなくなったからだ。この一座の看板娘がローラである。町の人たち、特に気取ったさぁます奥様達は「芸人風情」にいい顔をせず、医者のいる何マイルも先の町へ行けと追い払おうとするが、一人の子供が「昔医学生だった人ならいるよ」と正直にリークしたため、一行は滞在することになる。医学生のほうも一生懸命病人の治療をする。
 病人の看病をしながら留まるうち、ローラはこの町がエル・ディアブロというあだ名の悪漢牧場主に牛耳られていることを知る。「どうして皆で対抗しないのか」との問いには「無理だ。我慢するしかない」という答えが返ってくるのみ。
 その医学生には婚約者がいたがローラの方に靡き、ローラもまた彼を愛するようになる。あまりにも安直かつ予想通りの展開だ。
 そのうち上述の親切な子供がエル・ディアブロの一味に撃ち殺される。ここに至ってローラは町の男どもを前に「あんたがたが弱虫なおかげでこの子は死んだのだ。エル・ディアブロを倒そう」とハッパをかける。住人は奮い立ち、ローラを先頭にエル・ディアブロの屋敷を襲撃し、そこに閉じ込められていた人質を解放する。民衆を率いるローラはまるでジャンヌ・ダルクかドラクロアの自由の女神だが、実際にエル・ディアブロと決闘して殺すのはローラでなく医学生。
 かくて町には平和が戻り、ローラ一行は住民の歓呼を浴びながら去っていく。最初ローラたちを白い目で見たざぁます奥様達も「私たちが間違っていました」と謝罪する。婚約を破棄した医学生はローラを追って一行に合流する。「見知らぬ主人公がどこからともなく町を訪れ、紛争を解決してまたフラリと去っていく」というマカロニウエスタンの定式を一応は踏襲しているが、最後がいくらなんでもメデタシメデタシすぎやしないか。

町に旅芸人が到着。その看板娘ローラ。
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男たちを引きつれて敵の屋敷を襲撃する褐色のジャンヌ・ダルク。
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病人を診察に来た医学生とローラ。
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 Lola Colt のファラナも『復讐のダラスの』ジョーダンもむしろ歌が本業だったため、映画でもそういうキャラ設定で、酒場で歌を披露する場面がある。それに対してマッギーは専業女優でしかも『殺しが静かにやってくる』がデビュー作だったから歌や踊りとは関係のない堅気(といっては失礼だが)の寡婦。しかしストーリーというかキャラ的にはファラナのローラはむしろこちらの方と共通点が多い。Lola Colt では医学生とは敵対していたエル・ディアブロがローラは見染めて言い寄るが、これは『殺しが静かにやってくる』のポーリーンも同様で、キンスキーとツルんでいる町の有力者ポリカット(演じるのはルイジ・ピスティリ)は前々からポーリーンに気があり、弱みにつけこんで意のままにしようとする。ローラはやんわりと、ポーリーンは手酷くという違いはあるが、どちらもこれを拒否する展開は同じだ。もっとも「金と権力をチラつかせて言い寄る嫌みな男に肘鉄を食らわせて貧しく権力もない若者に靡く女性」というのは古今東西頻繁に繰り返されてきたモチーフだから、これを持ってLola Colt と『殺しが静かにやってくる』との共通点、と言い切ることはできまい。だがもう一つオーバーラップする点がある。白人男性と恋仲になるという点だ。これがアフリカ系男性陣とは違う展開で、私の知る限りアフリカ系のキャラクターが白人の女性の恋人になる展開のマカロニウエスタンは見たことがない。俳優としての格は男性陣の方が上なのにである。上述のように男性陣はストロード始め、すでに本国で名をなしていたスターが多い。それに対して女性の方はイタリアに来てからそこでキャリアを開始した人ばかりである。それなのにというかそれだからというか、アフリカ系男性が白人の女性をモノにする(品のない言葉ですみません)展開は皆無なのである。どうもここら辺に隠れた性差(別)あるいは人種差(別)を感じるのだが…

 それにしても『殺しが静かにやってくる』の、主役女性にアフリカ系を持ってくるというアイデアは何処から来たのか。コルブッチはそのためにわざわざ新人女優をデビューさせてさえいるのだ。まさかとは思うが、Lola Colt からヒントを得たとか。映画の出来自体は比べようがないほどの差があるが、製作は Lola Colt のほうが1年早いのである。前にもちょっと出した「棺桶から機関銃」もそうだが、コルブッチの意表を突くアイデアの出所についてはまだいろいろ検討の余地がありそうだ。

 
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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