前回の続きです。

 ロシア語では不完了体の中立動詞から接頭辞の付加によって様々な完了体アクチオンスアルト動詞が派生され、そのうちのいくつか、たいていは一つだけが元の動詞のアスペクトペアになる。ではそこでペア選考に落ちた他の完了体動詞はどうなるのか。全員不完了体のペアもなく孤独な人生を送るのかというとそうではない。今度は逆に完了体の動詞を起点にして不完了体動詞のペアを作ることができるからだ。これを「二次的不完了体動詞形成」sekund're Inperfektivierung というが、それには反復態形成の形態素 -ива-、-ыва- あるいは -ва- を使う。不完了体の動詞から反復態が作られるのは「アクチオンスアルト形成」だが、完了体のアクチオンスアルト動詞からこれらの形態素が派生するのは反復態ではなく「不完了体アスペクト」ということになる。つまり -ива-、-ыва-、-ва- には反復態形成と不完了体形成という二つの違った働きがあって、どちらの機能かは派生元の動詞で決まるわけだ。文章で説明するとややこしいので先に挙げた петь(「歌う」)とписать(「書く」)の例を表にしてみよう。
Tabelle1-195
アスペクトペアを同じ色に塗ってみた。петьпропетьспетьзапеватьзапетьпопеватьпопеть はそれぞれ前者が不完了体、後者が完了体のアスペクトペアである。次にこれも前述の писатьを見てみよう。
Tabelle2-195
上の петь(「歌う」)と違ってズバリな反復態、писывать という形が存在しない。これは限定態пописать の不完了体ペア пописывать が二重機能をに担っていて писать の反復態はこちらの形で表すからだ。もう一つ、прописать が本当に孤独な人生を送らされている。прописывать という形自体は存在するのだが、これは持続限界態動詞のペアとはならない。というのは прописывать には二つの意味があるからだ。一つがここで述べている持続限界態というアクチオンスアルト動詞で、表す事象そのものは писать と変わらない。もう一つは接頭辞によって動詞の意味自体が変わり「処方箋を出す」「居住証明を発行する」という別の完了体動詞になる。これはもうアクチオンスアルト表現ではなくて語の派生だ。不完了体 прописывать はこの派生動詞のペアであって、アクチオンアルト動詞のほうとはくっつかないからこちらは独身のままとなる。常に二次的不完了体動詞形成作戦が効くとは限らないらしい 。もう一つの例が прочитать(「読む」)という完了体動詞である。この動詞も多義で、一つは читать (「読む」)という不完了体動詞の真正結果態で、これはめでたく читать のアスペクトペアに選ばれている。もう一つは持続限界態で、このほうの прочитать からは 上の独身 прописать と違って二次的不完了体動詞形成ができ、прочитывать  という不完了体ペアが作られる。つまりここは читать → прочитать → прочитывать というホップ・ステップ・ジャンプ的な一つの3段階過程ではなく、 читать → прочитать、 прочитать → прочитывать というそれぞれ別個の2つの過程と解釈しなければいけない。この прочитать(「読む」)の二つの機能の方は少なくとも両方アクチオンスアルトだが(真正結果態と持続限界態)、 прописать ではアクチオンスアルトなのは一方だけだ(持続限界態)。不思議なのは прописать (「書く」)も прочитать(「読む」)も双方持続限界態なのに「読む」だけが二次的不完了体動詞形成を許すことだが、これはもしかすると「処方する」のほうの прописать が頻度的に持続限界態に比べて圧倒的に優性で、後者が隅に追いやられてしまった、つまり使われなくなってしまったからかもしれない。それで辞書には「持続限界態の不完了体ペア」は確かに載っていないが、прописывать を敢えて持続限界態の意味で例えば歴史的現在で使ったらロシア人はきちんとアクチオンスアルトとして理解するのかもしれない。つまり理論的には存在するのかもしれないと思ったので、上で「常に二次的不完了体動詞形成作戦が効くとは限らないらしい 」といい加減な書き方をさせてもらった(するな)。
 実はその二次的不完了体動詞形成にはまだ先がある。例えば крыть(「覆う」)という不完了体の動詞からоткрыть(「開ける」)という完了体動詞が派生される。意味を見ればわかるようにこれは別動詞の派生だ。当然(?)ここから二次的不完了体動詞形成によって不完了体のペア、открывать(「開ける」)が作られる。ここからさらに分配態  пооткрывать(「次々に(全部)開ける」)が形成される -ыва- が入っているので不完了体のように見えるが完了体である。さすがにここからさらにしつこく  пооткрывавать などという不完了体形成は不可能で、この分配態氏は独身のままとなる。
 この二次的不完了体形成によって作られたペアは接頭辞ペアと違って純粋なアスペクトペアとされる。しかしロシア語のアスペクトペア(『16.一寸の虫にも五分の魂』『95.シェーン、カムバック!』参照)には接頭辞によるもの(上で述べたようにこのペアにはアクチオンスアルトと言う不純物が混じっている)、二次的不完了体形成によるもの(純粋なペア)の他にもう一つ、全く違った動詞がペアを組む場合がある。говорить - сказать(「話す」)、брать - взять(「取る、掴む」)(それぞれ前者が不完了体)がその代表例だがこれらは純粋ペアなのだろう。イサチェンコが特に言及していないのはそんなこと当たり前だからかもしれない。

 このように一見ややこしくはあるのだがロシア語では少なくともアクチオンスアルトとアスペクトの区別は極めてクリアなのがわかる。イサチェンコは完了体・不完了体、アクチオンスアルト、二次的不完了体動詞形成の全体像を次のような図にまとめている。поиграть とあるのは покрыть の誤植だろう(赤線)。

Isačenko, A.V. 1995. Die russische sprache der Gegenwart.München, p.418から
isacenko
点線で囲った領域がアクチオンスアルト形成、実線がアスペクト(ペア)形成の領域だ。細い矢印は別単語の形成、太い矢印がアスペクトペア形成(二次的不完了体動詞形成)、矢印なしの細線がアクチオンスアルト形成過程である。

 さてここで一点注意を要するのが、ロシア語では英語やドイツ語、日本語のような「表現しようと思えばできる」というのでなく、アスペクトが強制的な文法カテゴリーであることだ。だからロシア語でいうアスペクトの意味とはアスペクトという文法カテゴリーの意味ということ。カテゴリーを持たない言語でアスペクトやアクチオンスアルトの観念を把握定義する場合、二つの区別があいまいになるのは仕方がない。考えようによればアスペクトの意味、「事象を外から見るか、内部方見るかの違い」も一つのアクチオンスアルトと言えないこともないからだ。それでもこの二つの違いに敏感でない言語ではやはりアクチオンスアルトの観念が語彙形成の領域にまで拡大適用されることがある。上で見たように同じ接頭辞でも動詞そのものの意味に食い込む場合と意味内容にはふれない場合があり、少なくともロシア語学でのアクチオンスアルトはあくまで後者のことなのだがこの二つの区別がゴッチャになるのだ。言い換えると動詞の表す事象そのものの中にすでにアクチオンスアルトを見ることになる。前項の最初に出したような「語彙的アスペクト」というアクチオンスアルトの別名(繰り返すが私はこういう言い方を最近まで知らなかった)があるのもうなずける。これも前記事の筆頭に挙げた言語学事典に挙げてある例を見てみるとはっきりする。例えば entbrennen(「燃え上る」)を起動態としてあるのはロシア語と平衡している。brennen(「燃える」)というシンプレックスがあるし、接頭辞によってアクチオンスアルトが付加されているからだ。しかし同時に füllen(「満たす」)、arbeiten(「働く」)という単純形の動詞がそれぞれ faktiv、durativ というアクチオンスアルトとされている。ロシア語学にこの発想はあるまい。さらに「ドイツ語には確かに動詞を二つのカテゴリー、不完了体-完了体、あるいは継続/反復-終了/完成のきっちり区分けする仕組みはないが、haben や sein のと動詞の分詞との組み合わせによって表せる」とあり、アスペクトとアクチオンスアルトが区別されていないことが明かだ。さらにその際 stehen(「立つ」)が前者、そこから派生した動詞の entstehen(「起る、発生する」)が後者とされているが、entstehen は語の意味自体が変わっているのでアクチオンスアルトとは言えない。語彙、アスペクト、アクチオンスアルトの区別があいまいになっていて、これではイサチェンコに怒鳴りつけられそうだ。
 寺村秀夫氏もこの3つの区別があいまいになっていたことがある。『日本語のシンタクスと意味』の中で佐藤純一氏を引用して「接頭辞や接尾辞により派生的にアスペクト的意味を表す場合」の例として英語の recall、ドイツ語の erfinden(「発明する」)、日本語のブッ倒すを挙げていたのだ。英語、ドイツ語はアスペクトでもアクチオンスアルトでもなく、それぞれ call や finden(「見つける」)とは意味の異なる別動詞の派生である。日本語のブッ倒すについては下でまた述べるが、アスペクトではなく「倒す」からのアクチオンスアルト形成だ。引用元の佐藤純一氏の論文を読んでいないので、ロシア語学者である佐藤氏が元の論文ではもっと詳細にアスペクトの観念を定義し、件の例はあくまで注意書きつきで出したのを寺村氏が端折ったか(こちらの可能性が高いと思う。なぜなら佐藤氏は「アスペクト意味」という微妙な言葉を使い、ずばりアスペクトとは言っていないからである)、それとも佐藤氏が本当に、語形成、アスペクト、テンス、アクチオンスアルトを明確に区別していなかったのかわからないが、とにかくこの場では混同されている。
 その「ブッ倒す」だが、この種の派生は特に日常会話的表現で多くみられる。佐藤氏・寺村氏は「ヒッパタク」という例も挙げていたが、ちょっと思いついただけで次のようなものがある。

「飛ばす」→「ぶっ飛ばす」「すっ飛ばす」「かっ飛ばす」
「殴る」→「ぶん殴る」
「回す」→「ぶん回す」
「キレる」→「ブチ切れる」
「飛ぶ」→「ぶっ飛ぶ」「すっ飛ぶ」

これらのアクチオンスアルトを名付けるとしたら intensive A.、「強化態」だろう。「強調態」と言ったほうがいいかもしれないが、当該事象の程度あるいは事象に対する話者の心理的圧迫度が強まっている。これは小さなことだが「ぶっ飛ばす」/「すっ飛ばす」対「かっ飛ばす」の間には目的語の意味の違いがあるようだ。前者は飛ばされる対象物、例えば野球のボールなどが目的語に来るが、後者は何者かを飛ばす行為によって得られた結果が目的語となる。私の感覚では「ホームランをかっ飛ばす」「走者一掃のヒットをかっ飛ばす」とはいえるが「球をかっ飛ばす」というと少しおかしい。逆に「ボールをぶっ飛ばす」「手が滑ってバットをすっ飛ばした」とはいえるがホームランはすっ飛ばせない。そういう小さな違いはあるがまあアクチオンスアルトはいっしょに「強調態」でいいのではないだろうか。
 起動態は日本語では動詞の連用形に助動詞の「~だす」や「~始める」とつけて表現する。「読みだす」「読みはじめる」または「話しだす」「話しはじめる」などだ。この起動態はロシア語でもドイツ語でも比較的クリアに定義できるようだ。いわゆる瞬間動詞からも起動態は作れる。例えば「死に出す」「死に始める」は多くの個体が次々に死んでいき始めたという意味で可能だ。
 起動と違って終了するほうはいろいろニュアンスの違いがあって亜種がいくつもある。ロシア語でも終了を表す結果態には様々な亜種があることは前項で見たとおりだ。日本語では連用形に「~おわる」をつけた形、「読み終わる」や「食べ終わる」は終了態(terminative A.)だろうが、「終了」という基本の意味は変わらなくても「読みとおす」「話しとおす」などは持続限界態(perdurative A.)ということになろう。「読みきる」「食べきる」に対しては前項に出さなかったがイサチェンコが総体態(totale A.)というアクチオンスアルトを掲げている。事象または行為が 対象を全て網羅したので結果としてそこで事象が終了するものだ。
 さらに連用形+「~すぎる」は超過態とでも言ったらいいのだろうか。これはロシア語では слишком(too much)などの副詞で表すしかないが、日本語では動詞そのもののアクチオンスアルトとして表現できる。もっと面白いのが連用形+「~てみる」だろう。

「ちょっとその映画を見てみたが面白くなかった」
「この本、クソ面白いから読んでみて」
「あそこには一度行ってみたことがあるけど何もなくてつまんなかった」

これらの形は「ちょっと」という副詞と相性がいいので私は最初アクチオンスアルトは限定態(delimitative A.)か減少態(attenuative A.)かと思い、早とちって人にもそう説明してしまった。現象態というのはやはり前項には出さなかったがイサチェンコの提唱で、限定態が時間的に限られているのに対して当該事象や行為の程度そのものが弱まる、ロシア語では限定態と同じく по- という接頭辞をつけて表すことが多い。しかしよく考えるとこの日本語形は単に程度が弱まり時間的に限られるのではない、その行為・事象の対象あるいは結果に対する話者が判断というニュアンスが入る。だから限定態・減少態とは別のアクチオンスアルトを特にこれ用にデッチあげたほうがいいような気がする。「判断態」あるいは「保留態」とでもいおうか。
 このように日本語は助動詞によるアクチオンスアルト形成が結構体系的だ。接頭辞の場合のように一つの形態素がいろいろなアクチオンスアルトを代表すると同時に同じアクチオンスアルトが複数の接頭辞で表されるとかいうことがない、言い換えるとアクチオンスアルト対表現手段の対応が多対対でなくほぼ一対一対応をなしている。接頭辞のほうも形と機能がそれほどバラけているわけではない。これらを体系的にまとめてみると面白い研究になると思う。それともすでに誰かがやっているのだろうか?日本語はアスペクトとアクチオンスアルトの違いがあいまいなのが残念だがアクチオンスアルトそのものの表現法はロシア語よりむしろ整然としているのではないだろうか。
 面白いところではコーカサスのナフ・ダゲスタン語群の一つレズギ語に -ar-un という接尾辞を動詞につけて反復態を形成する例があるそうだ。qun(「飲む」)、raχun(「話す」)からそれぞれ qun-ar-un(「何回も飲む、たくさん飲む」)、 raχun-ar-un(「何回も話す、たくさん話す」)という動詞ができる。反復態と強化態を兼ねたようなアクチオンスアルトか。他のアクチオンスアルトの例もあるが、日本語やロシア語のような体系的な動詞パラダイムにはなっていないらしい。でも言語ユニバーサルに面白い研究課題ではあると思う。

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