ドイツに住んでいるためかこちらの新聞でも結構取り上げられているロシアの作家ウラジーミル・ソローキンの День опричника を読んでみた。イワン雷帝下の強烈な専制政治が現代に敷かれていると想定した強烈なディストピア小説だ。タイトルの「オプリチニク」とはオプリチナのメンバーという意味で、そのオプリチナは雷帝が考案し全国に張り巡らされた今でいう秘密警察。歴史用語である。ただし小説は当時のロシア社会にひっかけているだけで舞台設定は2027年、つまりSF小説だから現代オプリチニクはスマホで連絡しあうし、馬でなく車に乗り、飛行機で移動する。専制体制それ自体もさることながら、特権階級として甘い汁を吸わされ積極的にそれを支えているオプリチニクたちやその他の「上級国民」、君主とその家族、つまりそこに住む人間の醜悪さがこれでもかと描かれている。いわゆる全体主義国家を揶揄したディストピア小説というとオーウェルの『動物農場』を思い出すが、やはり専制(に近い)政治が引かれている国の内部を知っている作家が書くと迫力が違う。下手に読むと真剣に気分が悪くなるかもしれないので単純に「お薦め」はできない。

下で述べる通り小さな薄い本だが、読むのに非常に手間取った。
den-opricnika
 そもそもこの作品はタイトルが示す通り、『イワン・デニーソビッチの一日』的な「日常の一日」を描いたものである。たった一日で読む方はすでに吐き気がしてくるくらいだから、こういう日常を百万・一千万単位の国民が毎日何年も送っている社会はそれこそ魔窟であろう。
 
 出だしのエピソードからして、いわゆる「反体制一家」の家をオプリチニク軍団が襲って、一家の主の男を首吊りにし、その妻をオプリチニクみんなで輪姦した後実家に追放、子供たちは取り上げて、相応しくない思想成分を払拭すべく体制派の一家の養子に出すか、国家施設に預けられる。これはまさに今回の戦争でロシア兵がウクライナの民間人相手にやった行為ではないか。小説が書かれたのは2006年で、ウクライナ戦争勃発どころか、クリミア併合さえ起きていなかったころである。ソローキンは予知能力でもあるのか?
 ここで凄いのは主人公が女を強姦しながら、反体制思考の女に体制側の男の精液を注入して反日じゃなかった反露思想を洗浄するのが国家を守るためになると本気で信じていることだ。オプリチニクたちは君主を崇拝していて、君主が何かいうたびにその慧眼に感涙をそそぐ。君主様のためなら喜んで命を捧げるそうだ。俗に言う思考停止状態なのだが、考えてみるとこういう輩は何もロシア特産ではない。某前大統領を神のように崇め、顔を見ると涙ぐまんばかりに狂喜する人たちは本国ばかりでなく、日本にもいる。自分は当地に住んだこともなく、もちろん英語もできないのに全く関係ない国の前大統領を必死で庇うその姿、これはいったい何なんだと思う。特定の党、特定の政治家を「支持」の域を遥かに超えて崇拝しだす人たち。そしてそれを支持しない人たちを非国民の嫌なら出ていけのと罵る。こういう人たちは何処の国にもいる。『オプリチニクの日』が怖いのはこの万国共通性のためだ。専制君主下のロシアの醜悪さが実は他人ごとではないからだ。
 またこの国の住民は常に外側の敵に怯えている。西側がツルんでロシア分割を企んでいるという妄想から逃れられない。その内心の恐怖を小説に出てきた映画の中のセリフがよく表している:

Восток — японцам, Сибирь — китайцам, Краснодарский край — хохлам, Алтай — казахам, Псковскую область — эсгонцам, Новгородскую — белорусам.
(東は日本人に、シベリアは中国人に、クラスノダール地方はウクライナ人に、アルタイはカザフ人に、プスコフ県はエストニア人に、ノブゴロド県はベラルーシ人に。)

ウクライナ人にロシア固有の領土を持っていかれると恐怖しているあたり、ウクライナ戦争に関してロシアが今展開している主張と被る。この  хохлам(単数男性形 хохол)というのはウクライナ人、昔でいう小ロシア人に対する蔑称で、当地のコサックのヘアスタイルに起因する。話が飛ぶが『10.お金がないほうが眠りは深い』でも出したガルシンの『あかい花』にもこの言葉が使われていて、神西清の日本語訳ではルビを使って「ウクライナ人(とさかあたま)」、ドイツ語訳ではKleinrusse (「小ロシア人」)と訳されていた。

 ソローキンに戻るが、つまり悪い事は全て「西側」「グローバリズム」のせい。西側に理解を示す国民は外国の工作員、犯罪を犯す人は外国人の手先。そういう不純分子国民を(女を輪姦したりして)一掃するのが名誉ある純粋ロシア民族としての神聖な義務である。またしてもこれはウクライナ戦争に際して自国で展開しているプロパガンダと完全に被る。実はこれに近い発言を時々日本のSNSなどで見かけるのだが…何か犯罪を犯した人がいると必ず「犯人は日本人か?」とコメントしだす人がいる。報道元が容疑者の名前を伏せると「犯人は在日か?」、名前を出したら出したで「通名だな」。また同胞がちょっと政府に反対の声を挙げれば、「外国かぶれ」「日本の伝統から逸脱」と胡散臭がる。要は素直にお上に従わないような国民は「純粋な日本人じゃない」ということだ。「純粋〇人」といういやらしい言葉は『オプリチニクの日』にも出てくる。主人公のオプリチニクが空港で隣の女性がオプリチナの「業績」を描いたプロパガンダ映画を一生懸命見ているのが女性としては珍しかったため興味が湧いてその顔をつくづく眺めてみると、その顔は Не очень красивое, но породистое(特別美人ではないが、純血人種のものだ)。しかしその純血種女性は反体制分子として一掃された一家の生き残りだったことがわかる。純血日本人にだって現政権や天皇制にさえ反対している人はいるし、ナチス・ドイツのころにもユダヤ人を匿い、ナチスに抵抗した「純血ゲルマン人」はいたのだから不思議ではない。こういう純血種を純血種に相応しい正しい道に引き戻し、不純物は除去するのがオプリチナの仕事である。自分たちがいなくては君主は偉大なるロシアを築き上げることができない、オプリチナとはなんと偉大な仕事だろう。
 ああそれなのに、ソローキンの描く偉大なロシアは実は中国とズブズブで、経済的には完全に依存している。車も中国製、日常品や食料にいたるまで、メイド・イン・チャイナだ。君主様の最も親しい友人の一人も中国人で、何かとその便宜を測ってやっている。君主の二度目の妻の子供たちは中国語がペラペラだ。中国語は最も将来性のある外国語なのである。とにかく小説中に中国語がたくさん出てくる。この調子では偉大な純血大国家ロシアは中国の属国になるのではないか、と思わせるほどだ。

 さらに、これもロシアだけの現象ではないが、オプリチニク、つまり君主に盲従し不純分子の駆除が神聖な義務だとマジで思っているナショナリスト極右はズバリマッチョである。男根がついていることを誇り、女性は一段下の人間。最初に男だけ首吊りにして女は強姦だけで助けてやった(?)のも別に人道的配慮からではない、女を男と同等な生物と見ていないからである。殺す価値もないというワケ。それが証拠に困ったことがあって必死にオプリチニクに助けを求めて来た女性にはケンモホロロの対応、自分に跪いて懇願する女性の胸をブーツの先で蹴り上げて「失せろ!」と追い返そうとする。しかしその女性はロシアで有名なバレリーナ、君主もそのファンであるプリマドンナの知り合いで、そのバレリーナが直接コンタクトして来たのでまあ聞き届けてやるが、あくまで「まあ」であって、ロシア一のそのプリマドンナに対しても上から目線は相当露骨だ。
 男根 love(ああ気持ち悪い)の極めつけはラスト近くのシーン。オプリチニクたちの大集会である。ボスの大邸宅のサウナに集合した配下のオプリチニクたちが当然真っ裸で、中国製の怪しげなヤクを使って男根を隆々と光らせたところで(男根は本当に光を放って輝く)、まず第一のボスの右腕オプリチニクがその突起して巨大化したペニスをボスの肛門に突っ込む。次に別のオプリチニクが右腕の肛門に突っ込む。何番目かには主人公のオプリチニク氏も前の人の肛門に突っ込む。そしてその肛門には後続のペニスが突っ込まれる。そうなってオプリチニクが全員ペニスと肛門で数珠つなぎになった状態を「芋虫」というが、これが「俺たちは男だ!」という意気を示す神聖な儀式なのである。
 やってる本人たちは男の誇りに輝いている(つもり)かもしれないが、部外者はとしてはこんなものをたとえば食事中には読みたくない。

    さてそうやってオプリチニクの「平凡な一日」が終わる。主人公は疲れてベッドに入るが、読者のほうがもっと疲れる。そこで最後っ屁といっては下品に過ぎるが、一発また女は肉便器という思想の登場だ。女性の召使が甲斐甲斐しくオプリチニク氏の世話を焼くが、この召使(なんて言葉はすでに死語か)が主人公に性的奉仕もし召使側もそれで当然と思っていることがプンプンと匂う上に、ちょっと嫉妬しつつ「今日もさぞたくさんの反体制女に精液を注入なさったんでしょうね…」的なことを言う。つまり男根信仰、精液注入こそ男の仕事という価値観が女のほうにまで内在化されているのだ。しかしまたしてもこういう女性の存在はロシアだけの現象ではない。極右男性にチヤホヤされたいばかりにマッチョ思想に組し、同性の性犯罪の被害者を責める、そしてそれが何かカッコいいことだと思っているナショ女性はどこの国にもいる。日本にももちろんいるし、アメリカにもいる。

 この小説に描かれている醜悪さはプーチン下のロシアだけのものではない、ある意味ユニバーサルで、だからこそ読者も食欲が減退するのだ。ひょっとしたらこういう社会を本気でユートピアと見なすナショ氏が自国内にもいそうでゾッとするのである。

 さてこの本はサイズは小さく活字は大きく、しかも223ページしかなかったが、私は全部読むのに2ヵ月もかかってしまった。ロシア語がトゥルゲーネフだのプーシキンだのより遥かに難しかったのだ。理由の一つが「オプリチナ」始めロシア史の専門用語が多く、普通の辞書には載っていないこと。トゥルゲーネフなら一般用のランゲンシャイトの露独辞典と博友社の日露辞典のコンビで大体足りるのだが、今回はそれでは全く歯が立たず普段文鎮代わりにしている(『1.悲惨な戦い』参照)ロシア語の広辞苑、Ожегов のロシア語詳解辞典を引っ張り出した。これなら確かに単語ははるかにたくさん載っている。小さな辞書には載っていない「口語的表現」も比較的多く取り上げてある。載ってはいるのだがその語の説明もロシア語だから辞書を引くのに辞書がいるというたらい回し状態になった。しかしそのオジェゴフにすら載っていない単語が頻繁に登場するので途方に暮れた。あまりにもそういう場合が多いのでさすがに「これはおかしい」と思い、ふとたまたま持っていた「タブー語辞典」を開けてみた。言ってはいけない、知っていてはいけない語、オマ〇コとかチ〇コとかそういうレベルの語が集めてある影の必殺辞書である。それを開けてみたらまああるわあるわ、今までどうしても見つからなかった語がバンバン載っている。それからは見つからない語が出ると「これはそういう言葉なんだな」と思って無視することにした。こういうエゲツない語彙はソローキンの文体の特色だそうだ。
 その禁止用語の濃度が特に高かったのは、ドストエフスキイの『罪と罰』をパロった部分だ。まずドストエフスキイの原文だが:

Удар пришелся в самое темя, чему способствовал ее малый рост. Она вскрикнула, но очень слабо, и вдруг вся осела к полу, хотя и успела еще поднять обе руки к голове.
(老婆の背が低かったことで、打撃はちょうど頭のてっぺんに当たった。叫び声を上げたが、弱々しいものだった。そして、かろうじて両手を頭に向かって持ち上げることはできたものの、いきなり体中が床に崩れ落ちた。)

これがソローキンではこうなっている。原文がほとんど埋没しているので見やすいように色をつけた。空色の部分がそれだ。青以外が追加されている部分だが、そのうち黄色でマークしてあるのは普通に辞書に載っている単語。残るノーマークの語は基本的に「そういう言葉」だと思っていい。もちろん上品な一般辞書には載っていない。

Охуеный удар невъебенного топора пришелся в самое темя триждыраспронаебаной старухи, чему пиздато способствовал ее мандаблядски малый рост. Она задроченно вскрикнула и вдруг вся как-то пиздапроушенно осела к непроебанному полу, хотя и успела, зассыха гниложопая, поднять обе свои злоебучие руки к хуевой, по-блядски простоволосой голове...

 また『オプリチニクの日』では詩がたくさん登場する。登場人物が詠んだという設定ではあるが、これらもネイティブなら、いやネイティブでなくても真面目に文学を勉強した者なら「こりゃプーシキンのあれだな」とか「レールモントフだな」とか「マヤコフスキイをパロったんだな」とか「本歌」がわかるのかもしれない。私は全然わからなかった。実は上の『罪と罰』も「これはドストエフスキイの『罪と罰』の下品なパロディ」と小説に書いてあったからそれをもとに原文を探し出せたのであって、私が自分で見破ったのではない。
 さらに我ながら自分にはわかってないんだろうなと思ったのはオプリチニクたちの冗談というかギャグである。時々会話のロジックが追えないことがあったのだが、これは多分彼らが内輪の冗談を言っていたんだろうと思う。これもネイティブ(や、真面目に勉強した人)にはちゃんと通じるに違いない。通じない私が自分でわかったギャグはこれだけである。主人公が古いブロンズの銅像をみながら独り言をいう。

В его времена пробок автомобильных не было. Были токмо пробки винные...
(この時代には自動車のプロープカなんてなかった。あったのはワインのプロープカだけだプッ。)

これはプロープカという語にひっかけた寒いギャグで、これには「渋滞」という意味、英語でいう jam と「栓」という二つの意味がある。あまりにも寒すぎて日本人にも見抜かれてしまった。
 もう一つたまたま知っていた例だが、「君主に反抗する奴はトレチャコフスキイ美術館に行ってこの絵を見て自分がどうなるか考えてみるんだな」的なコンテクストで Боярына Морозова という絵のタイトルを出しモチーフを説明するが、その描写によってそれがたまたま自分の知っている絵だと分かった。タイトルの方は知らなかったが、イワン雷帝より少し後の時代に皇帝による教会の儀式の改革に反対して処刑された貴族モロゾフの妻が橇で引きまわされるシーンを描いたものである。

君主様のいう事に反対するとこのように処刑されるぞという教訓のためオプリチニクがお薦めする絵。お上に逆らうのは止めましょう。
Авторство: Василий Иванович Суриков. ogHGQgd1Ws9Htg — Google Arts & Culture, Общественное достояние, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13502454から

Vasily_Surikov
 放送禁止用語や背景知識が辞書に載っていないのは当たり前だが、別にタブー語でもなさそうなのに載っていないことばもあった。特定の地方限定か、正書法を無視して口語の発音通りに書かれていて辞書には拾ってもらえなかったと見える。例えばнегоже というのは нигде か негде(nowhere)のことかなと見当がつくこともあったが(ハズしていたら失礼)、わからないままな単語も多かった。ネイティブならどれも一発でわかる違いない。またтокмо という語が頻繁に登場し、これは только(only)かもしれないとは思ったが、使われている文脈に(たいていはтолько 解釈で通じたが。上のギャグもその意味で通じる)только ではなさそうなものもあったので保留している。

 標準ロシア語と違った東スラブ語の形が登場するのもおもしろかった(『145.琥珀』参照)。ウクライナ語なら東スラブ語形が正規の形とされているから目立つが、ロシア語も表には出てこないだけで実は裏では東スラブ語形と南スラブ語形のダブルがかなり蔓延しているのかもしれない。逆に標準ロシア語では東形を使うのに、ソローキンでは南形になっているのもあった。これら非標準形はオジェゴフの辞書に「もう一つの形」として出ているのも少なくなかったが、辞書にはなくて南形に再構築してみて「ああこれか」とピーンとくる語もあった。例えば враг(南形) → ворог(東形)(「敵」)、голос(東形)→ глас(南形)(「声」)、 волос (東形)→ влас(南形)(「髪」)。それぞれ後者がソローキンに使われていた形である。また другой(「別の」)が「第二の」の意味で使われていたこともあった(『156.3番目の正直』参照)。放送禁止用語よりこっちのほうがよほど勉強になるのではないだろうか。まあ放送禁止用語なんか勉強しない方が無難だが。

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