言語学にダイクシス Deixis という言葉がある。「直示」と訳されているようだが、素直に(?)「ダイクシス」という借用語を使ったほうが通りがいいのではないだろうか。この Deixis とは何ぞやについては言語学、言語哲学、果てはガチの哲学者たちが様々に定義や議論をしていて細かく考え出すと際限がなくなるが、普通の人が普通にのほほんと理解しているのは指示対象(シニフィエ)が発話状況に完全に依存している語または表現(つまりシニフィアン)のことだ。
 例えば「アヒル」という語は Deixis でない普通の単語だが、仮に私が池のほとりで山田さんと立ち話をしながら「あら、アヒルがいる」と言い、山田さんがそれを受けて「あら本当。アヒルだわね」と発言した場合、「アヒル」という語が指し示すのは同じアヒルである。さらに私が後でそのアヒルを思い出し、「アヒルさん、可愛かったわねえ」と山田さんに確認をとった場合も「アヒル」という語の指示対象は同じだ。また「アヒルはカモを飼い慣らした鳥である」という発言の「アヒル」は具体的な一羽のアヒルではなく、種としてのアヒル全般を示すが、これを私でなく山田さんが言っても指示対象は変わらない。
 それに対して Deixis は指示対象が発話状況によって完全に変わる。例えば私が10月10日に「今日」と言った場合、「今日」が指し示すのは10月10日だが、同じ語を10月11日に言えば指示対象は10月10日でなく11日だ。同じく10月10日に「明日」と言ったらそれは10月11日という意味だが、10月11日に「明日」と言えばそれは10月12日を意味する。
 さらに私が「私」といえばその指示対象は私だが、山田さんが「私」と言えば指示対象は山田さん。同じく私が「あなた」と言えば私の対話の相手だが、その相手が「あなた」という言葉で指し示すのは私である。「ここ」とか「そこ」なども同じく Deixis だ。
 つまりダイクシスにはいろいろ種類があることがわかる。「今日」「昨日」「明日」「来年」などを時間のダイクシス temporale Deixis、「私」「あなた」は人称のダイクシス personale Deixis、「ここ」「そこ」は場所のダイクシス lokale Deixis というが、その他にテキスト内のダイクシス innertextliche Deixis というダイクシスもある。それぞれいろいろと面白い現象があるのでちょっと見てみたい。

 まず時間のダイクシスだが、日本語では時間の表現に時間処格のマーカー「~に」をつけるものとつけないものがある。これは当該表現がダイクシスであるかないかの差だ。

私は10月10日に赤坂見附へ行きました。
私は昨日赤坂見附へ行きました。

「昨日」はダイクシスなので「に」がつかない。時間表現が複数の語から成る場合は最後の語が非ダイクシスならば最初の語がダイクシス、つまり全体としてはダイクシスでも「に」がつく。

私は来月の14日赤坂見附へ行きます。
私は来年の10月10日赤坂見附へ行きます。

例えば「来月の14日に」という句(太字)はダイクシス表現の「来月」が属格あるいは限定格(『152.Noとしか言えない見本』参照)をとって「14日」に接続する構造で、全体として一つの単位をなしているが、ヘッド名詞「14日」が非ダイクシスなので格マーカー「に」がつく。これを考えると上で述べたような「最後の語が非ダイクシス」という説明は不正確で、「ヘッド名詞が非ダイクシスならば」と言うべきだろう。単純に語の順番の問題ではなく、シンタクスの位置が重要なわけだ。当該表現が文の直接構成要素、つまり動詞のバレンツ構成要素である場合にのみダイクシスか否かが区別される。だから例えばここで「来月」が「14日」の支配を抜け出て直接動詞に支配されるようなシンタクス位置に上がってくると基本通り「に」なしの副詞句となる。

私は来月14日赤坂見附へ行きます。
私は来年10月10日赤坂見附へ行きます。

この場合の「来月14日に」は先の例と違って全体として一つの単位ではない。「来月」と「14日」はそれぞれ独立に副詞として働く二つの単位で、図で表すとそれぞれまあこうなる。

私は AV[来月の14日に] 赤坂見附へ行きます。
私は AV1[来月]  AV2[14日に] 赤坂見附へ行きます。

では「14日に」に「に」がつかなくても許されてしまうのはなぜか。

私は来月14日赤坂見附へ行きます。
私は来年10月10日赤坂見附へ行きます。

これはダイクシス云々とはメカニズムが違い、それこそ「省略」で、次のような文が許されるのと同じである。

私映画見たのよ。
山田さんと東京行くの。

ここでも本来あるべき「を」や「へ」が省略されているが、律儀に格マーカーをつけてそれぞれ「映画を」「東京へ」と言っても間違いではない。ダイクシスに「に」をつけると非文になるのとそこが決定的に違う。

* 私は昨日に本を読みました。

 さて、さる日本語の教科書で「毎日」と「明日」「昨日」「おととい」が同列に扱われ、

私は毎日勉強します。
私は明日勉強します。
私は昨日勉強しました。
私はおととい勉強しました。

と同じ文型になっていた。「毎日」だけがダイクシスではないのに「に」がつかない。もっとも「毎日」「毎月」などは発話時点を起点とした前後という風にダイクシスを拡大解釈できないことはないだろうが、やはり「明日」や「来週」と同列には置けまい。シンタクス上の振る舞いが違うからである。「毎日」「毎月」などは非ダイクシス表現の付加語になることができない。

私は来月の14日に赤坂見附へ行きます。(上述)
* 私は毎月の14日に赤坂見附へ行きます。

「毎月」は動詞が直接支配される位置にしか立てない。

私は来月14日に赤坂見附へ行きます。(上述)
私は毎月14日に赤坂見附へ行きます。

つまり「に」がつかないのはダイクシスの他にもあるということだ。それは何か。私の個人的な解釈だが(それともどこかの日本語の教科書にすでに説明されているのだろうか)、時間軸に固定されていないことを示す表現(temporally indefinite、『178.日本語のアスペクト表現 その2』)には「に」が つかない。「いつか」にも「に」がつかないのは同じ理由だろう。面白いことに「固定」が問われるのは時間のみで固定されてなくでもそれが場所だと処格マーカーがつく(太字)。

ガーン、どこかに財布を置いてきちゃった!
あの人とは以前どこかで会ったな…

また「朝」「昼」「晩」などの表現に「に」をつけないほうがずっと座りがいいのは、これらの時間は範囲があいまいで「非固定」あるいは「時間的に非限定」のニュアンスが強いからだろう。11時30分は朝なのか昼なのか、午後3時はまだ昼なのかは人によって意見が分かれる。「午前」「午後」のほうはニュアンスとしてはともかく、一応時間の範囲が定義されているから「に」との親和性が遥かに高くなる。

?? 朝に起きたらもう陽が高かった。
朝起きたらもう陽が高かった。

午前に一度買い物に行きましたが、午後にまた行きます。
午前一度買い物に行きましたが、午後また行きます。

私の感覚では両方とも「に」がつかないほうが座りがいいが、「午前」と「午後」は「に」がついてもOKである。「朝に」のほうが明らかに許容度が低い。
 曜日に「に」がつかないことがよくあるのもこの「時間的な非限定性」のせいだろう。曜日は循環するからである。もちろん日付だって毎月循環し、月は毎年循環する。しかし日付は月と言うさらに大きな単位にはっきり組み込まれおり、月が替われば循環はまた最初から始まる。年も一月からまた開始されるので、時間軸上の位置は固定している。これに反して曜日はそうはいいかない。月や年など大きな単位とは無関係に自分勝手に循環する。だから非限定・非固定のニュアンスが生じやすく、「に」なしで使われやすいのだろう。もっともその「非限定」はあくまでニュアンスであって「いつか」のように明確に意味に組み込まれているわけではないし、ダイクシスでもないから「に」をつけても非文にはならない。

私は日曜日に山田さんのところへ行きます。
私は日曜日山田さんのところへ行きます。

後者だと「毎週日曜日」という意味合いが強まる。

 ダイクシスと時間軸上の位置がはっきりしていない時間表現には格マーカー「に」がつかない、裏返すと時間表現に「に」がつくのは発話時点に関係なく時間軸上の一定点にはっきりと固定された表現だということになる。

 次に人称と場所のダイクシスだが、日本語ではこの二つの表現手段が交差している。「ここ(こちら)」「そこ(そちら)」「あそこ(あちら)」は場所のダイクシス表現ではあるが、純粋に話者との物理的な距離を表しているのではない。東京にいる話者がロンドンにいる人と電話で話している場合、ロンドンの天気について「そちらの天気はどうですか」ときく。東京は「こちらは暑いです」だ。しかしそこで現在ウラジオストークに住んでいる共通の知り合いが話題に上ったとしよう。その場合は「あそこも戦争になっちゃって大変そうですねえ」だ。ウラジオストークは東京からはロンドンより近いのにである。「これ」「それ」「あれ」についても同様で、例えばこういう状況を想定して欲しい。私は山田さんとテーブルを挟んで面と向かって話している。山田さんも私も手に花を持っている。でも山田さんはその手をテーブルの上に乗せているので花と私の顔との距離は20cmだ。一方私も花を持っているが私の方は手を下にダラッと垂らしているので花との距離は80cmである。つまり山田さんの花の方が物理的には私の花より近いところにある。それでも私は山田さんの花を「その花」、遠い自分の花を「この花」という。自分の花は顔からは離れているが自分の手とはくっ付いているから「この」なのだという理屈も成り立つが、では私が一旦自分の花を1mほど離れた隣のテーブルに置いてから、山田さんと話を始めたとしよう。それでも私は対面テーブル上の山田さんの花を「その花」というし、後方の花は「この花」と表現する。その際指でその花を指し示すだろうが。つまり「ここ」「これ」は一人称のダイクシス「私」と同機能、「そこ」「それ」は二人称、「あそこ」「あれ」は三人称なのである。だから「ちょっとこちらに来てください」を please come to this direction などとはさすがの私でも英訳しない。Please come to me だ。逆にいわゆる人称表現を使うと日本語はむしろ不自然だ。例えば次のような文だが:

こちらで全て準備してからそちらに送ります、あちらにもこちらから送っておきますのでそちらは何もなさらなくていいですよ。

これを

私たちで全て準備してからあなたに送ります、彼にも私たちから送っておきますのであなたは何もなさらなくていいですよ。

と人称表現を使うと安物の日本語の教科書かグーグル直訳の日本語のようで、普通に日本人が会話で使う表現から乖離している。私個人も「あなた」という言葉は滅多に使わない。渡辺吉鎔 氏によると韓国語も指示代名詞は「これ」「それ」「あれ」と同様三分割で、やはり人称代名詞を場所表現で代用させる場合が多いそうだ。

 最後のテキスト内のダイクシスというのは要するに照応(『148.同化と異化』参照)のことだが、指示が言語外には出ず、あくまでテキスト内、つまり言語内に留まる場合である。お前は何を言っているんだと罵られそうなので順を追ってみていきたいが、まず Brian is my friend. The man is very smart. を考えて欲しい。 Brian と the man は同じ対象を指示しているが、その際指示対象は言語外の実際の人物だ。図に描くとこうなる(もうちょっとまともな作図はできないのか)。
Schema1-191
以下の文でも同様の図式となる。

赤坂見附は青山一丁目の次の駅です。赤坂見附には日比谷高校があります。
schema2-191
最初の「赤坂見附」という言葉も二番目の言葉も言語外の赤坂見附と言う実際の場所を指示している。では次の二文の違いはどこにあるのか。

赤坂見附は青山一丁目の次の駅です。ここに日比谷高校があります。
赤坂見附は青山一丁目の次の駅です。そこに日比谷高校があります。

最初の文の「ここ」(太字)は言語外の場所を直接指示しているのではなく、聞き手が当該の場所にいることを想定し、「さあこの場所だよ」と言っている。「さあこの場所だよ」と言われて自分の周りをみればおや今自分は赤坂見附にいる。そして自分の今いる(と想定された)場所に日比谷高校がある、と発言者は表現しているのだ。つまり場所のダイクシスで、図にすると以下のようになる。
Schema3-191
それに対して「そこ」は場所ではなく、前に発言された「赤坂見附」という言葉自体を指している。指示対象シニフィエは言語外の赤坂見附と言う場所ではない、先行する「赤坂見附」という言語記号シニフィアンである。これがテキスト内ダイクシスだ。「次の停車は表参道です。そこで千代田線に乗り換えてください」の「そこ」も同じくテキスト内ダイクシスである。
Schema4-191
 次に「私はそう思う」と言う場合は既に発言された内容を示し「私はこう思う」では思った内容がその直後に来ること多いので、「そう」は前方照応「こう」は後方照応(『148.同化と異化』参照)とまとめたくなるが、上で述べた事柄に似て「そう」と「こう」では指示のメカニズムが微妙に違うと感じている。「私はこう思う:云々」と言うとき聞き手は一旦自分の周りを見ろと指示される。それで聞き手がキョロキョロとあたりと見回しているところにさあこれだ見ろとばかり発言内容が来るわけだ。ただし上の赤坂見附の場合と違って視点のある場所は言語内であるが。そして「こう」は後から来る内容ばかりでなく「とにかく山田は馬鹿だ。オレはこう思うね」などでは「こう」の指示内容が「山田は馬鹿だ」ということもありうる、つまり前方照応もできるが、「そう」はそうはいかず(お前はダジャレを言っているのか)前方照応しかできない。「オレはそう思うね。とにかく山田は馬鹿だ。」だと「そう」の内容は「山田は馬鹿だ」ではない。さらにひとつ前の発言である。
 面白いことに英語では「こう」にあたるthis のほうが前方照応・後方照応の二刀使いで「そう、ああ」の that のほうが前方照応オンリーだそうだ。指示される内容をイタリックで表す。

This is what he said, „How foolish she was!“ (後方照応)
He has apologized; this shows that he is sorry. (前方照応)

Who will do it? That is the question. (前方照応オンリー)

これは『22.消された一人』でも名前を出した安井稔教授の指摘である。とにかくダイクシスは「場所」「人称」「照応」の表現手段がいろいろ交差していて、言語哲学だけでなく言語比較の点でも面白い。

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