1984年にミハイル・ショーロホフが亡くなったとき日本の新聞でも結構大きく報道されていたのを覚えているが、ノーベル賞をもたらしたその代表作『静かなドン』についてはとにかくいろいろと議論があった。特にその剽窃問題についてである。
 発端の一つとなったのがソ連体制、またショーロホフも含めた体制内作家を蛇蝎のように嫌っていたソルジェニーツインが1974年にニューヨークタイムズに発表した、『静かなドン』の真の作者はフョードル・クリューコフ Фёдор Крюков というコサックであるという主張である。これはソルジェニーツィンが藪から棒に考えついたわけではない。他にもショーロホフの剽窃を疑っている研究者はいた。その1人、歴史家のイリーナ・メドヴェージェヴァ=トマシェフスカヤ Ирина Медведева-Томашевская とはソルジェニーツィンも連絡を取っているが、メドヴェージェヴァ氏はソルジェニーツィンが件の記事を公にする前、1973年に亡くなっている。ソ氏はこれで世界中にセンセーションを起こしショーロホフ、ひいてはソ連の作家同盟の信憑性に大打撃を食らわせるとふんでいたが、ソ連側がそれを徹底的にシカトする作戦にでたので話があまり大きくならず、いわば爆弾は不発に終わった。ただ文学研究者など専門家の間では議論が続き、1977年にノルウェーの Geir Kjetsaa(何と読むのかよくわからないがゲイル・ヒェツォとかいう感じになるらしい)という学者がクリューコフとショーロホフの文章をコンピューター解析にかけて、この二人は文体から言って別人であるという結果を出したりしている。しかし確かに「原作はクリューコフではない」かもしれないが、ショーロホフが他のところからも剽窃していないという証明にはならない。『静かなドン』の元の原稿や資料などは革命戦争や大粛清、また第二次世界単線などで消失してしまい、剽窃にせよ自筆にせよ証明ができないのである。証明はできないが、当時の友人知人などの証言や細々と残る資料などから推してショーロホフが様々な源泉からその文章を持ってきたことは確実だ。
 実は『静かなドン』が発表された1929年当時にすでに剽窃問題が持ち上がっている。ショーロホフはそれ以前にはドン・コサックをテーマとするいくつかの短編しか書いておらず、作家としてまだ発展途上であった。それらの短編のあと中間をすっ飛ばしていきなり『戦争と平和』と比べられる長さの超大作を、年齢もまだ20台初めの若者が書けるものなのだろうかという疑いが浮上したのだ。調査団が組織されて調査にあたったが、そこでは一応『静かなドン』は確かにショーロホフの手によるものという結果がでた。これについてはいくつか考慮しておきたい点がある。まず、当時のソ連の著作権法では作家が別の著者の文章を使ってもそれが当該作家自身の芸術の完全な構成部分として全体構成に寄与していれば剽窃と見なされなかった。『静かなドン』は大量の資料をもとにして書かれた小説だが、多少原本資料と小説の文章が似すぎていても、それがしっかり小説の構成部分になっていれば元の資料の著者がその作家を剽窃で訴えても勝ち目はなかったのである。そういえば、ちょっと連想が飛躍するが山崎豊子も自分の体験よりも資料に頼って作品を書くタイプで、何度か盗作で訴えられている。それではショーロホフはその資料を何処から入手したのか。これは氏が小説を書くために自分から「取材」したのではなく、革命戦争のどさくさで資料の方から偶然によって氏の手に落ちてきたものである。敗走する白衛軍コサックたちが残していったのだ。ショーロホフはその資料を見て、自分がこれを残さなかったらこれらの文章は全く日の目を見ずに霧散してしまう、コサックの姿が誰にも知られず歴史の影に埋もれてしまうという危機感から、それを小説として書き残そうとしたという説もある。
 ショーロホフにコサックに対する特別な思い入れがあったことは事実のようだ。氏は南ロシアのコサック地域居住地にあった(公式発表によれば)クルジンスコエという村に生まれた。父(実は養父)は色々な仕事についたり農業も営んだりして特に裕福ではないにせよ生活苦にあえいでいる層ではなかった。母はコサックの血は引いていたそうだが家庭そのものはコサックには属していない。それでも周りのコサック、というよりその人々も含めて自分の生まれて育った土地というものに非常に愛着を持っていたらしい。後にソ連で立派な「上級国民」、裕福層になってからも他の作家と違ってモスクワには住まず、生涯生まれ故郷のビョーシキ Вёшки に住み続けた。地元の人たちのためにいろいろ貢献もしている。
 『静かなドン』がスターリンの気に入られ、その保護を受け特権を与えられてまあ物質的にはのうのうと暮らしていたので誤解されるが、ショーロホフは決して「スターリンの犬」ではなかった。1932年から33年にかけてショーロホフの地元、現在のウクライナやコーカサス地方で農民の強制集団化により農業が壊滅して百万の単位で人が餓死していったとき、氏は自分のネームバリューを利用してスターリンに直訴し、中央から送られてきて餓死寸前の農民からさらに穀物を没収していく冷血役人の行為を止めさせ、さらに農民への援助物資を送らせている。大粛清時にも言われなく逮捕された知り合いや、自分の名前を頼って助けを求めてきた地元の人たちに手を差し伸べている。もちろんいくらショーロホフでも無罪にはできなかった。でも少なくとも逮捕されたそれらの人たちの消息を調べて家族に伝えてやったり、裁判をやり直しするように取り計らったり精いっぱいの助力はしたのである。例えばプラトーノフ(『31.言葉の壁』『159.プラトーノフと硬音記号』参照)の15歳の息子が突然行方不明になり消息が全くわからなくなったときも、その子が秘密警察に逮捕されたことを調べだして伝えてやったりしている。
 大粛清の際ライバルに命を狙われたこともある。その時は「ショーロホフを消せ」と命令を受けたその人がショーロホフにチクり、モスクワに逃がしてやった。モスクワで氏はスターリンに直接訴えてライバルのほうを左遷させた。
 それにしてもショーロホフはなぜ昔の仲間でも容赦なく粛清したスターリンに最後まで粛清されなかったのか。これは氏が上手く立ち回ったというより、逆にあまり上手く立ち回ろうとしなかった、できなかったかららしい。一度側近からショーロホフは危ないと耳打ちされた時「あいつは政治については全くの子供で無害だ」と言って話に乗らなかったそうだ。つまりショーロホフは自分の地位を脅かせるような人物ではない、人畜無害と判断されていたのである。中央に出たがらないでド田舎のビョーシキに生涯引っ込んでいることも幸いしたのだろう。
 とはいえ周りの者が次々に消えていき、油断すると自分もいつ何時という恐怖を抱えて生活するのは精神衛生に破壊的作用をもたらすことは容易に想像できる。1930年代に『静かなドン』の挿絵をかきその後アメリカに移住したセルゲイ・コロリコフ Сергей Корольков というイラストレーターも、ショーロホフは大粛清の間に人間が変わってしまったと回想していたそうだ。また自分が正しいと思っている共産主義政府の蛮行(ホロドモール)を目の当たりにしてその無謬性に一抹の疑問も抱く。抱くが当時すでにその体制の中で特権階級として根を下ろしてしまった自分はそういう疑問を全て抑圧するしかない。もちろん人の心の中など外からは絶対わからないが、とにかくショーロホフが1930年ごろからすでに酒浸りになっていたのは事実である。そのアル中ぶりについては守護神スターリンもやや持て余しており、氏が後にノーベル賞を受けたりして外国に出ざるを得なかった際は、アル中とバレないように立ち居振る舞いの監視役をつけていたそうだ。
 さらに作家活動のほうも停滞した。『静かなドン』とそれに平行して書いた『開かれた処女地』で一躍政府公認の国民的作家となったはいいが、その後が全然続いていない。その『静かなドン』ですら15年もかけてやっとのことで仕上げたのだ。仕上げた後もスターリンの顔色をうかがって何回も文章や内容を修正している。大粛清の後の第二次世界大戦・独ソ戦の際は大祖国戦争を題材にして『静かなドン』級、いやトルストイの『戦争と平和』に匹敵するような大小説を書くようスターリンに要求され、書く書くと返事しながらついに果たせなかった。従軍記者として戦場の軍人などの取材もし、ある程度資料はたまったはずだが、「国民的作家」ショーロホフに何かあったらと直接弾の飛び交う戦線には行かせて貰えなかったらしい。でも理由はそれだけだろうか。トルストイだって実際にはナポレオン戦争を経験していない。「なぜショーロホフは書かないのだ。ひょっとして実は書ないのか?」という周りの暗黙の疑問・プレッシャーに本人が気付かないわけがない。それがさらに氏を酒に走らせた。
 どうも徐々にスターリンの寵は衰えだしてはいたようだが、それが決定的にならないうちにスターリンが死んだ(もっともスターリンがさらに長生きしていたらショーロホフは没落したかというとそうも思えない。そのまま国民的作家としての生活は保てたろう)。次のフルシチョフは徹底的に反スターリンだったが、上手く取り入った。いや、「取り入った」というのは正しくない。すでに氏の知名度が高すぎて今更消しにくかった上、氏は基本ノンポリ無害で別に消す必要もなかったと言った方がいいかもしれない。

ビョーシキのショーロホフ宅を訪問したフルシチョフ。フルシチョフの服のダサさが目を射る。
https://тихий-дон.com/news/media/2019/8/30/istoricheskaya-data-hruschyov-v-gostyah-u-sholohova/から
Scholochov-und-chruschtschev
 フルシチョフの下でショーロホフは『人間の運命』(1956)という短編を発表した。同作品は『6.他人の血』でも紹介した日本語の翻訳集に収められている。革命戦争を描いた他の短編と違い独ソ戦が舞台でドイツ軍の捕虜になりあらゆる辛酸を舐めながらソ連に生還した兵士の姿を描いたものだ。自分は生還しても家族はすべて失い(つまり全員ドイツ人に殺され)絶望の淵に立つが、偶然会ったみなし児を引き取って育てることに人生の意義を見いだす。失った息子の代わりに他人の子供に愛情を向けるというパターンが『他人の血』を想起させる。ショービニズムとかわざとらしいというのでは決してないが、私はこの作品が(他の短編と違って)何かの型に従っている、言い換えるとこの作品は何かの意図、文学作品をそのもの以外の目的で書かれたのではないかという印象を受けた。作品の成立事情をみていくとやはり明確な目的があったようだ。
 事の起こりはワシリー・クダーシェフ Василий Кудашев というショーロホフの親しい友人が独ソ戦の初期に志願していってしまったこと。その後部隊が全滅し、クダ―シェフの生死もわからくなっていた。そういう折に従軍記者をしていたショーロフはヤコフ・ジノヴィエヴィッチ・フェリドマン Яков Зиновьевич Фельдман(?)という、ドイツ軍に囚われて脱走してきた一士官の話を耳にした。自分の友人に照らし合わせてその捕虜の話が鮮明に記憶に残ったのである。さらに戦争が終わった後、クダ―シェフの妻が「クダ―シェフは1941年に戦死したのではなく、ドイツ軍に捉えられて強制収容された」という内容の手紙を受け取っていたと聞いた。それ以上の情報は全くなく、クダ―シェフも帰ってこなかった。ショーロホフの脳裏には捕虜を英雄として描いた作品を書こうという望みがよぎったが、その時点ではそれは不可能だったのである。
 スターリン下のソ連では敵の捕虜になった兵士は裏切者の烙印を押され、おめおめとソ連に帰ってきたりすれば収容所行きか銃殺、家族まで「スパイの仲間」の烙印を捺されて様々な嫌がらせを受けたそうだ。「生きて俘虜の辱めを受けず」はソ連の方が徹底している。その裏切り者を英雄視などする作品を書いたら作家まで危ない。
 その流れが変わり、捕虜の名誉回復が行われたのはフルシチョフになってからである。1956年、ジューコフ元帥の要求に従ってスターリン時代に裏切者扱いされていた捕虜を名誉回復するための委員会が設置され、ヒトラーの捕虜収容所生活を勇敢に耐え抜いた捕虜が英雄として扱われることになった。ショーロホフはそれを聞いてすぐに『人間の運命』を書き上げた。スターリンにやいのやいの催促されていた独ソ戦一大ページェントはとうとう仕上げ(られ)なかったのに比べてあまりにも露骨なスピード差だ。しかし、いざそれを発表しようとしたらどこの出版社でも二の足を踏まれた。ジューコフ元帥の委員会があってもまだまだ巷にはスターリン下の雰囲気が一掃できておらず、また『人間の運命』の主人公が捕虜生活で故国の家族に想いを馳せるのはソ連兵士のストーリーとして女々しすぎると思われたらしい。
 そこでショーロホフはフルシチョフに直訴して出版許可を願い出た。その場ではフルシチョフと馬が合ったらしい。双方ツンと上品ぶった「インテリ」が嫌いで、あまり上品ではないギャグや小話を飲み食いしながら楽しむタイプだったそうだ。氏が『人間の運命』の概要を説明しはじめるとフルシチョフは速攻でOKを出し鶴の一声で出版を取り計らってくれた。やはりこの作品には「(自分の個人的な友人も含めた)捕虜の名誉回復」というはっきりした目的があったのだ。その目的が史実を覆い隠してしまったようで、小説でソ連に帰還した主人公は丁重に扱われているのは事実と違う、ドイツ軍の捕虜になったのなら処罰されたはずだ、と出版後に批判も受けた。

 『人間の運命』は1959年にセルゲイ・ボンダルチュクが映画化した。陰影の濃いすばらしい名作だ。原作に忠実だが一カ所原作にはない部分があった。主人公ソコロフ兵士が他のソ連兵と共に捕虜となったとき、「怪我人はいないか」と同胞の間を聞いて回る軍医がいてソコロフも肩が脱臼していたのを直してもらう。捕虜になってまでも仲間の心配をする、これこそ軍医だと感激するのだが、原作ではその軍医のエピソードはそこで終わりだ。その後ドイツ軍が捕虜を整列させて何人かを全く無作為に選び出し、「ユダヤ人だろう」と決めつけて銃殺する場面があるが、映画ではその軍医が殺された中に入っている。これはショーロホフでなくボンダルチュクあるいは脚本ユーリー・ルキンの筆だ。

「怪我をしているのか、同志?」。主人公ソコロフ(左)はやはり捕虜になっていた軍医に肩の脱臼を治してもらう。
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「ユダヤ人だな?」ドイツ軍の将校は全く無作為にその軍医を選び出す。
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軍医は逍遥として銃殺される。
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 その『人間の運命』を最後に、亡くなるまでショーロホフはまとまった作品を発表していない。スターリンとの約束した戦争小説は晩年に断片は書いて出版社に持ち込んだが拒否された。政治的な配慮ではなくて作品そのものが出版に耐えるレベルに達していなかったらしい。アル中の方も死ぬまで治らなかった。
 ではショーロホフはお上の注文に応じてお望みの作品を全部ゴーストライターに注文して書かせるか他人の文章をコピペするしか能のない三文作家だったのか?そんな作家にうっかりノーベル賞を与えてしまったスウェーデン人はいい面の皮だったのか?インゴルト Felix Philipp Ingold というスイスの作家などはそもそも作家としてのショーロホフは存在しないとまで主張している。あれはソ連政府がプロパガンダのため文才も教養もないそこら辺のアル中労働者(ショーロホフ)に白羽の矢を立て、その人が書いたことにしてクリューコフからブルガーコフから果てはプラトーノフまで、あちこち集めてきた文をつぎはぎして出版させ「プロレタリアートのトルストイ」という存在をでっち上げたのだと。『静かなドン』ばかりではない、それ以前に書いた初期作品まで氏の手によるものではないと。つまり、ショーロホフはマリオネット、体制が作り上げた幻影である。この主張はさすがにそこまで言うかと思うのだが、例えば私の手元にある「肖像画付きロシア作家事典」Russische Autoren in Einzelportraits にはアイトマートフやアナトリー・キムまで載っているのにショーロホフもファジェーエフも名前が出ていない。
 一方でアメリカの歴史学者バック Brian J. Boeck は剽窃行為は指摘しながらも氏の文才は否定していない。私の意見もこちらに近い。全く文才がなかったらあちこちの文章をつぎはぎして1人の主人公をめぐるストーリーとして小説にまとめ上げることさえできないからだ。私にいくらドーピングしたところで100mを10秒で走ることなど永久にできないのと同じだ。スターリン体制下でショーロホフは自分が本来持っていたその才能を十分に開花させることができなかった。上述のように大粛清や戦争中は大半のエネルギーを「生き残ること」、「友人知人を生き残らせること」に費やし創作にエネルギーを回せなかったからだ。またソ連のお囲い作家になってしまった以上プラトーノフのように野に下ることもできなかった。やればできないことはなかったろうが、ショーロホフは体制側につきその地位名声を利用して自分の身の周り、自分の近所の人たちを擁護する道を選んだ。事実ビョーシキ地方の人たちはひっきりなしに氏を頼って押しかけて来たそうだ。
 それにこれも上述のようにショーロホフはスターリンや政府に盲目的に媚びへつらっていただけではない。単純に飼い殺しの運命に身をゆだねていたわけではないのだ。自らの作品路線を貫こうとしたはしたのである。例えば『静かなドン』には敵側のコサックの軍人をポジティブに描きすぎているという批判が起きた。白衛軍の将校を勇敢で道徳的な人物として描くのは何事かと。その時氏は「その勇敢な白衛軍を打ち破った赤軍はそれ以上に勇敢で道徳的だという意味だ」と理屈をこねて承知させた。コサックに対する自分の愛着を貫いたのだ。『人間の運命』については上述の通りである。書けと言われた「一大戦争ロマン」を仕上げられなかったのも、捕虜を勇敢な兵士扱いしないようなストーリーにはできなかったかもしれない。それがやっと名誉回復できた時には自分の才能の方が枯渇していて短編にしかならなかったのだろうか。
 ショーロホフ自身も自分が書けなくなっていることを気に病んではいたようだ。上述のバックは自著のショーロホフの伝記 Stalin’s scribe でこんなエピソードを紹介している:1967年、ソ連の若い作家たちの集会の席でショーロホフが突然「皆さん、私は実際にいい作家なんですよ」と言い出した。ソ連政府に名を守られた国民的大作家としてのショーロホフしか知らない世代の人たちがそんな当たり前のことを言われて面喰いつつも、それを請け合うと氏は言ったそうだ。「いや君らはわかってない。私は『るり色のステップ』Лазоревая степь を本当に自分で書いたんだよ」。『るり色のステップ』は上述の『他人の血』と共に1926年の短編集に収められている作品である。どうしてそこで『静かなドン』でなく『るり色のステップ』を持ち出したのか本当のところはもちろんわからない。その初期の才能を正しい方向に持っていけなかった自分自身への嘆きなのか。
 バックはその箇所で『るり色のステップ』とはいったい何なのかについてわざわざ説明を入れ、手腕よく構成された短編だが「今はもう忘れられている」 Now it was forgotten. (p. 306) と書いている。ちょっと待て、ショーロホフと言えば『静かなドン』でも『開かれた処女地』でもなく、初期の短編が一番好きでいまだに時々読んでいる私をどうしてくれるんだとは思った。

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