近所の古本屋でイサク・バーベリ Исаак Бабель の翻訳を見つけた。レクラム版でしかも100ページ足らずの薄い本だったから1€だった。タダみたいなものだ。ところがその後何気なくネット検索してみたらまさにそのレクラム版が39€で売られていたので驚いた。繰り返すが100ページ足らずのレクラム版である。これはいくら何でもボり過ぎではないかと思っていたら数日後7€ほどになった。古本と言うのは値段の上がり下がりが激しいようだ。しかし7€でも高すぎてまだ解せない。
 
私はこれを1€で買った。
Reklam-Babel-bearbeitet
 イサク・バーベリは1894年生まれのロシア・ソ連の作家である。オデッサのユダヤ人の家系だ。代表作に『オデッサ物語』Одесские рассказы(ソ連での出版は1931だが、それ以前、1920年代から個々のエピソードは発表されていた)や『騎兵隊』Конармия(1926年)などがあり、ロシア語の読本などにも取り上げられることがあるので私も『騎兵隊』の中の「塩」Сольというエピソードを露・独二か国語対訳で読んだ。コサックや当地の方言、イディッシュ語などが混じる独特のロシア語だ。
 例えば「七日前に(の)」がсемь дён тому назад となっている。дён は「日」день の複数属格のはずだ。(外国人が習う)ロシア語標準語では дней である。ついでにウクライナ語を調べてみたら複数属格はднів だそうだ。
 複数属格と言えば、生物は対格と属格が同形になるが、на жен наших と書いてあった。「我々の妻たちの方を」で、「妻」が対格だが、標準ロシア語だと жён である。標準形じゃないかと思うかもしれないが、この本は学習者用のリーダーなのでアクセントが入れてあり、普通のテキストでは区別しない е と ё が律儀に書き分けてある。だからこれは標準語のように「ジョーン」と発音せず「ジェーン」になるわけで、やはり方言発音だろう。さらに「ロシア」の対格形が Расею と、アーカニエが思い切り文字化されている。ベラルーシ語の影響でも受けたのかもしれない。ロシア語標準語では Россию だ。それから「あなたの」という所有代名詞の単数対格形が ващу とある。標準系では вашу で、形が似ているから最初誤植かと思ったが、  ващу は2度出てくる。これも本当に当地の発音の癖なのかもしれない。
 また「腕に乳飲み子をかかえて」が  с грудным детём на руках。ということは  детём は「子供」の単数造格だ。標準ロシア語では「子供」の単数(主格)は ребёнок、複数のдети と単語そのものが違う。ребёнок には形としてはребята という複数形があるが、意味が異なり「子供たち」にはならない。дети は形としての単数形そのものがほぼ消滅してしまった。「ほぼ」というのは、古語として、あるいはノン・スタンダードな方言形に дитя あるいは  дитё という形が見られないことはないからである。クロアチア語などの南スラブ語では「子供」の単数形はこれが標準で dete または dijete。дитё の複数造格形 дитями という形も登場するが、これは標準ロシア語では детьми となる。
 もう一つ。с вострой шашкой というのがある。「鋭いサーベルで」だが、形容詞「鋭い」の女性形(「サーベル」は女性名詞)造格は標準語では острой である。つまり prothetic v(「語頭音添加の v 」、『33.サインはV』『37.ソルブ語のV』参照)が現れているのだ。トゥルゲーネフにも見られることは前にも書いたが、この вострый(男性主格)という形は大きな辞書には「地域限定形」として載っている。

 『騎兵隊』(だけでなくバーベリの作品はどれもそうなのだが)は言葉だけでなく構成も独特で、一つ一つの章、エピソードは非常に短い。「塩」もたったの5ページだった。上の1ユーロ本に載っていた『騎兵隊』からの抜粋も皆そのくらいの長さ、中には3ページのエピソードもある。その小さなエピソードを緻密に積み重ねて全体が構成されるが、一つ一つのエピソードに直接のつながりがない。だからこそそのいくつかだけを抜粋して翻訳本にまとめられたのだろうが、とにかくストーリーが「展開していく」という感じがしない。変な譬えだが、一時期のピカソやジョルジュ・ブラックが展開していたキュービズムの絵を見るようだ。一見バラバラな一つ一つのモチーフが全体としては一つの絵になっている。
 上の「塩」は革命兵士が闇で塩を売買しようとした女を撃ち殺す話だが、翻訳のほうにはこんなエピソードもある。「ドルグーショフの死」という題である:主人公が戦場で木の脇に座っている味方の兵を見つける。腹に穴が開いて腸が膝の上に流れ出していた。その兵士は「おい同志、オレのためにちょっと弾を一発使ってくれ。敵が来たらどんな慰み者にされるかわかったもんじゃない。ほれ、ここにオレの書類もあるから持ってってくれ。母に手紙を出してオレがどうやって死んだか報せてやってくれ」と頼むが、主人公にはそれができない。断っていこうとすると瀕死の兵士は「卑怯者、逃げるのか」と呻く。するとそこに退却してきた主人公の知り合いのコサック兵が通りかかる。主人公がその兵士を示すと、コサック兵は一言二言彼と言葉を交わし、手渡されたその軍隊手帳をしまい、その口の中に弾丸を放つ。そして主人公に向かって憎々しげに「失せろ、でないと貴様を殺してやる。貴様には仲間に対する同情というものがないのか」と叫ぶ。戦場での「同情」とはこういうものなのだ。暗然とする主人公に一部始終を見ていた兵士が「まあこれでも食いな」といって林檎を差し出す。

 もう一つの代表作『オデッサ物語』は戦場の話ではないがやはり冷厳な現実描写である。『騎兵隊』もそうだが、バーベリの作品では「ユダヤ人であること」、作者のユダヤ人としてのアイデンティティが色濃く反映されている。『オデッサ物語』も当地のユダヤ人社会の様子が描いたものだ。その一話как это делалось в Одессе(「オデッサの出来事」)はベーニャ・クリークというユダヤ人(裏)社会のドンがいかにして「王様」といわれるまでにのし上がったかが描かれている:
 ベーニャはさるマフィア団のボスのところへ行って自分を売り込む。ボスは「入団試験」としてベーニャにタルタコフスキイという人物の店に強盗に入れと命じる。そのタルタコフスキイには「一人半ユダヤ人」というあだ名がついているのだ。人一倍態度がデカく、誰よりも金持ちで、最も背の高いお巡りよりさらに頭二つ分背が高いからである。縦ばかりでなく横にもデカい。ボスの一味は今までに9回「一人半ユダヤ人」の経営する店に押し入ったことがある。その10回目の押し込み強盗を組織しろと言うのだが、これは新入社員(?)にとっては決して易しい課題ではない。
 ベーニャはその任務を遂行して名を上げるが、押し込みの際、決して殺す気はなかったその店の店員を死に至らせる。ベーニャは嘆き悲しむ年その老いた母親の家へ行き、「おばさん、オレが立派な葬式を出してやる。オデッサ中の者が今までに見たこともないような立派な葬式をあげてやるから堪忍しろ」といって自分の裁量で大葬儀をしてやるのである。以来ベーニャは「王様」と呼ばれるようになる。
 押し込み強盗をする方もされる方も結局皆知り合いというパラレル社会ぶりに驚くが、一人半ユダヤ人のタルタコフスキイは9回(今回で10回)強盗された他に身代金目当てで2回ほど誘拐もされ、さらには「埋葬」されたことさえある。感動するのはその埋葬エピソードだ。原語ではこうなっている。

Слободские громилы били тогда евреев на Большой Арнаутской. Тартаковский убежал от них и встретил похоронную процессию с певчими на Софийской. Он спросил:
- Кого это хоронят с певчими?
  Прохожие ответили, что это хоронят Тартаковского. Процессия дошла до Слободского кладбища. Тогда наши вынули из гроба пулемет и начали сыпать по слободским громилам. Но «полтора жида» этого е предвидел. «Полтора жида» испугался до смерти. И какой хозяин не  испугался бы на его места?

その時スロボダの暴徒がポグロムやって大アルナウタ通りのユダヤ人を襲ったんだよ。タルタコフスキイはそいつらから逃げてな、そいでソフィー通りで歌い手を連れた葬式の行列にでくわした。そこで聞いたのさ;
「歌い手まで連れてこりゃ誰の葬式だい」
行列の者たちはタルタコフスキイの葬式だって答えたのさ。で、行列がスロボダの墓地の入口まで来たと。そこでこっちは棺桶から機関銃を引っ張り出してポグロムに来やがったスロボダの奴らめがけて当たり構わずぶっ放し始めたのよ。「一人半ユダヤ人」もこの展開は予想外でな。死ぬほどぶったまげておった。だがまあそこでたまげない商売人なんていないわな。
(訳:人食いアヒルの子)


死ぬほどたまげたのは一人半ユダヤ人ばかりではない。日本人の私も驚いた。この展開は『続・荒野の用心棒』そのものではないか。偶然にしてはあまりにも共通点が多すぎるし、そもそも「棺桶から機関銃」などという展開はそうそう人がやたらと思いつく代物ではない。映画にはさらに別の箇所で酒場女がフランコ・ネロ演ずるジャンゴの棺桶を見とがめて「誰か中に入ってるの?」と聞く場面がある。主人公はそこで「ジャンゴって奴さ」と自分の名前をいうのだが、このシーンも考えようによれば妙にバーベリのこの部分と平行している。すると何か?映画史上超有名なあのシーンはロシア文学から来ているのか?

世界映画史上あまりにも有名なフランコ・ネロの「棺桶砲」。射撃開始の音より人が倒れだすほうが一瞬早めなところがさすがマカロニウエスタン。
 

実は私は以前の記事でこの武器を安直に「ガトリング砲」または「機関銃」と呼んでしまったが、詳しい知り合いの話によるとそれは間違いだそうだ。ここでフランコ・ネロがぶっ放したのは実は機関銃でもガトリング砲でもない。外見から行けばガトリング砲の前段階である(狭義の)ミトライユーズというタイプだが、それなら撃ち手はハンドルを回して撃つはずなのにそういう撃ち方はしていない。しかもヒキガエルの卵のような弾帯がベロベロくっついていてこれもミトライユーズではありえない。ではガトリング砲なのかというとそうでもない。初期のガトリング砲なら外からでも束ねた銃身が複数確認できるはずだからだ。そしてやはり手回しする。では1880年以降に開発された本当の意味の「機関銃」(マキシム砲)なのかというとこれもあり得ない。だったらああいう風に先っちょにいくつもブサイクな穴が開いているわけがない。機関銃ならば引き金を引けばその間自動的に連続して同じ穴から発射するからだ。
 つまりこれはマカロニウエスタン特有の、実際には存在しないファンタジー砲である。
 原作(?)の『オデッサ物語』のほうは描かれている「オデッサのポグロム」が1905年の出来事だから、ここで棺桶から引っ張り出したのは本当に機関銃 пулемет のはずだ。上述のマキシムかそのコピーの PM1905 に違いない。当時ロシアはマキシムは大量に輸入していたし、ライセンスを取ってから相当手間取った後マキシムそのままの PM1905 重機関銃の自国生産に乗り出したのが奇しくもこの1905年である。

 とにかくこういうシーンをロシア文学から持ち込む可能性のある人が当時『続・荒野の用心棒』のスタッフにいたのかどうか気になったので脚本は誰が書いたか改めて確認してみた。私の記憶では監督セルジオ・コルブッチの弟のブルーノの脚本のはずである。『77.マカロニウエスタンとメキシコ革命』にも書いたようにマカロニウエスタン当時のイタリアの映画界には左側通行の人が多かったからセルジオかブルーノ自身がロシア・ソ連文学を読んでいたのかもしれないと思って確かめてみたら、この映画は共同脚本でコルブッチ兄弟の他にもさらに何人もの人たちが携わっている。フランコ・ロセッティ Franco Rossetti、ホセ・グテッレス・マエッソ José Gutiérrez Maesso、ピエロ・ヴィヴァレッリ Piero Vivarelli、フェリナンド・ディ・レオ Fernando Di Leoなどだが、その中で一番怪しかった(?)のがヴィヴァレッリだ。この人は1949年から1990年までイタリア共産党の党員で、その後なぜかキューバ共産党に鞍替えした。『オデッサ物語』は1946年にイタリア語に翻訳されているから共産党員のヴィヴァレッリがこれを読んでいたかもしれない。
 ピエロの弟はロベルト・ヴィヴァレッリ Roberto Vivarelli といい、ファシズム研究で有名な歴史家として各国の大学教授を務めた人である。そのロベルトが2000年になって著した自伝の中にピエロの話も出てくるが、驚いたことにヴィヴァレッリ兄弟は第二次大戦の終わりにはバドリオ側ではなくイタリア社会共和国側、つまりナチの傀儡政権側の兵士として戦っている。兄弟の父がファシストだったのでそういう教育を受けていたそうだ。しかし1943年当時ピエロは16歳、ロベルトは14歳であるから、これを「黒歴史」扱いすることはできまい。ただ、ロベルトはその自伝の中でイタリア社会共和国を正当化するような発言もしているそうで、一部からは歴史修正主義者と見られているそうだ。それまではロベルトは左派の知識人と見られていたのである。
 残念ながら自伝は翻訳が出ていないので(研究書のほうは英語とドイツ語訳がある)、兄のピエロについてさらに詳しい記述があるかどうか自分で調べることができない。上の引用はドイツ語ウィキペデイアからの孫引きである。ピエロがバーベリの作品を読んでいたのかについても証拠がない。だからあくまで推測の枠は出ないが、家族にインテリ(ロベルト)がいること、自身は共産党員であったことなどから推して、ピエロが棺桶から機関銃シーンをロシア文学の『オデッサ物語』から『続・荒野の用心棒』に持ち込んだ可能性はあると思う。誰かイタリア語のできる西洋史専攻の方がいらっしゃるだろうか。ちょっとロベルトの自伝を覗いてみて何かわかったら報せてほしい。La fine di una stagione という原題である。

 さて話をバーベリに戻すが、1939年3月15日、つまり例の大粛清のときに逮捕され、公式には1941年3月17日に亡くなった(ことになっている)。が、本当にこの日に亡くなったのか疑問だ。おそらく銃殺されたと思われるが、どうやって死んだのかも実はわからない。


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