プラーグ学派のテーマ・レーマ理論では「伝達価値の高いもの(レーマ)は基本的に文の最後に来る」と言っていた。「基本的に」という注意書きがついているのは、詳細にデータを検討すると逆方向のものもゴロゴロみつかるためだ。別にそれに忠義立てしたわけではないが、前にシャウミャンの話をしたとき、最も主張したかったのは実は最後にチョチョッとつけた情報構造理論についての段で、特に「日本語の授業で助詞の「は」は既知の情報を表わすなどという説明をする人はアンポンタン」という部分である。どこがアンポンタンなのかもシャウミャンの項で述べておいたがあれじゃああまりにもはしょり過ぎだと自分でも思うので、ここでそのテーマをチョチョッと繰り返すことにした。
 
 次の文はソルジェニーツィンの『ガン病棟』の翻訳の最初の文である。

ガン病棟はすなわち第13病棟だった。

これが始まりなのだからガン病棟は既知の情報などではない。それなのにしっかり「は」でマークしてある。もっとも既知論者はこういうかも知れない:「この小説のタイトルが『ガン病棟』だ。だから表紙で言及してあり、その意味で既知である」。あっそ。こじつけ感は否めないのだがまあ認めるとしよう。ではタイトルのない発言はどう解釈したらいいのだろう。

地球は青かった。

これも既知論者は比較的簡単に説明できる。「地球と言う存在は皆知っている。すでに指示対象が背景知識として存在しているという意味で既知」。この理屈で次の、これも小説の最初の文に「は」がついていることも説明できる。

春はあけぼの。

「春」という概念は誰でも頭に持っており、その意味で既知である。あっそ。では次の文はどうだろう。

吾輩は猫である。

この発言者は私の知り合いでも何でもないので誰なのか私には特定できない。その意味で私の「背景知識」にはこの指示対象は存在しない。もちろん既に言及された人物でもない。作者の夏目漱石は誰でも背景知識として持っているという詭弁も通じない。この人物(猫)は夏目漱石ではないからだ。そこで既知論者は言うかもしれない:「吾輩」「ここ」「きのう」など指示対象が発言者や発話状況に依存することが前提となっているDeixis、直示表現はいわばその意味の軸・指示の出発点の存在そのものが既知。あっそ。

 これらの説明はある程度は「あっそ。なるほど」とは思うのだが、既知論者が既知という概念を玉虫色に変化させていることがわかるだろう。「は=既知」という図式を放棄したくないばかりに「既知」の意味範囲のほうを都合によって好き勝手に拡大解釈している感がある。
 しかし実はこの玉虫色の中に重要なポイントが隠れている。「既知」にはいろいろな段階があって「既知対未知」という単純な二項分割にはならないということだ。この「既知の程度」を言語学ではreferential status 「指示のステータス」というが、これにはいろいろな段階がある。段階分けのしかたや設置する段階数はもちろん学者によって異なるが、ここでは大言語学者人食いアヒルの子に従って次のような6つの指示のステータスを区別してみよう。1が最も既知の度合いが高く、6が一番低い、言い換えると未知の度合いが強い指示対象である。

1.記憶の焦点:
指示対象はたった今テキスト・発話の場に導入された。
2.活性状態;
指示対象は生々しく記憶に残っている。
3.半活性状態:
指示対象が以前に言及されたことを(ぼんやりとでも)思い出すことができる。
4.非活性状態だが特定可能:
言及の記憶はないが言語外状況などの助けによって当該指示対象がわかる。
5.特定不可:
文脈などの助けがあっても指示対象を特定できない。
6.エンプティな指示対象:
指示対象が存在せず、その補充を求める。

指示対象はこれらの段階の違いによって異なる言語形式で表わされる。例えば1と2は英語やドイツ語では人称または指示代名詞を使う。3,4になると定冠詞付きの名詞で表わす。5が不定冠詞と名詞。6は疑問代名詞で対象を指示する。それに対して日本語では1はゼロ代名詞、2から4までは指示代名詞(これ、それ、あれ)または指示代名詞に名詞をつけて表わす(この犬、その犬、あの犬)。5では名詞の前に「ある」や「さる」がつく(ある人、さる町など)。または「なにか」「どれか」など疑問代名詞に「か」をつけた形で表わされることもある。6は英語と同じく疑問代名詞だ。ロシア語でも1はゼロで表わし、2では指示代名詞、это や этот が使われることが多い。3になると英語などと違って定冠詞のないロシア語では(裸の)名詞句を使うが、もちろんこれも「そういう場合が多い」であってキッチリ決まっているわけではない。定冠詞がないから5でも3と同様名詞を使ったりするからだ。その代わりというのも変だが、ロシア語では「なにか」「だれか」をさらに細分する。例えば「なにか」ではчто-то と что-нибудь を明確に区別し、前者は現実に存在はするが発話者が特定できない対象物、後者はそれが存在するかしないかに対してさえ発話者が不確実な対象物である。「昨日田中さんがなにか言ってました」のなにかは前者、「田中さんはなにか言ってましたか?」のなにかは後者である。「(なんでもいいから)なにかおいしいものを持ってきてください」も後者だ。後者はいわば5と6の中間的と言えるかもしれない。6はロシア語でも疑問代名詞である。
 上のガン病棟や地球や春は4ということになるだろう。ここで既知論者は「そうか、じゃあ4までが「は」の範囲なんだな」と早合点しそうだが、そうは問屋が下ろさない。まず1を考えて欲しい。屁理屈を言えば記憶の焦点に立つ指示対象、つまり既知の指示対象には「は」がつかない。ゼロ形を使うから「は」のつけようがないからだ。まあそりゃあまりにも屁理屈だと言われるとその通りだが、ちょっとこういう発言を考えてみて欲しい:「1.昨日友だちが来たんだ。2.アメリカに行ってたんだ。3.いろいろ話をしてくれたよ。」ここでは「友だち」が焦点なので、2と3ではゼロ形で指示してある。指示ステータス表現の図式通りだ。次にその焦点対象を全部「は」で表わしてみよう:「1.昨日友だちが来たんだ。2.その友だちはアメリカに行ってたんだ。3.その友だちはいろいろ話をしてくれたよ。」2では焦点対象(既知)を「は」で表わしており、既知論者の主張する通りである。だが3はどうだ。私の感覚ではこの文はウザ過ぎて容認不可である。ここでは「友だち」は焦点ステータスを持続している、つまり普通の焦点以上に焦点で、そのスーパー既知の対象に「は」がついているのだから既知論者の理屈では何の問題もないはずだ。それなのにどうしてこの文はウザいのか?それともこれは「は」の問題でなく単に焦点をゼロ形で表わしていないからなのか。それでは焦点対象に「は」をつけないで比べてみよう:「1.昨日友だちが来たんだ。2.その友だちがアメリカに行ってたんだ。3.その友だちがいろいろ話をしてくれたよ。」 まさにその「焦点がゼロで表わされていない」という理由で2はボツである。上の「その友だちは」の方はOKなので、ここまでだったら既知論者の主張が正しい。しかし焦点がスーパー化している3になるとそうはいかない。文のウザさはむしろ「は」より小さくなる。2を図式通りゼロで表わしてみるとさらにはっきりする。次のうち、どちらが座りがいいだろうか:「1.昨日友だちが来たんだ。2.アメリカに行ってたんだ。3.その友だちはいろいろ話をしてくれたよ。」、「1.昨日友だちが来たんだ。2.アメリカに行ってたんだ。3.その友だちがいろいろ話をしてくれたよ。」 私の感覚では後者、スーパー焦点に「は」がついていないほうが座りがいい。少なくとも既知の度合いが最も高い対象物に「は」がつかないことなど日常茶飯事なのだ。これが一つ。
 逆に既知度の低い、上述の段階で言う5と6にも実は「は」をつけることができる。私自身時々「ある人」「あるところ」など5の対象物に「は」がついているのを見かけるが、ガン病棟も次のような出だしで始めることができる(ただし文学性はソルジェニーツィンより劣る)。

あるガン病棟には13号棟という番号が振ってあった。まったく縁起の悪い話だ。

また次のような会話は十分可能である。

「私また試験に落ちてしまいました(涙)」
「まだ2回目でしょ?平気ですよ。ある人は5回も落ちたそうですから。」

この「あるガン病棟」や「ある人」は少なくとも発話者には特定できるから当てはまらない?ガン病棟はそうかもしれない。しかし後者の例では慰めている人は5回落ちた人を直接知っておらず「誰か5回落ちた人がいる」という話をまた聞きしただけかもしれないではないか。さらに次の例はどうだろう。

あれをやるな、これをやるなって、うるさいな、じゃあ何はやっていいんだ?!

疑問代名詞にも「は」をつけられないことはないのである。さらに私の言語感覚では次の文は完全にOKである。

昨日の集まりね。誰は来て誰は来なかったのか、ちょっと表にでもしてくれない?

この場合は「誰が」と「が」を使ってもいいが、上の「あれをやるな」の文は「何がいいんだ」と「が」をつけるとむしろ許容度が下がる(一番いいのは「じゃあ何ならやっていいんだ?!」と「なら」を使うことだろう)。
 確かに指示のステータスの低い対象物に「は」をつけられるのは限られた文脈だ。限られてはいるが理論的には可能なのである。「は」は未知のものにもつけられる、これが二つ目だ。

 次に既に上でちょっと出したが、「既知の対象にも「は」がつかないことも多々ある」ことをもう一度見てみよう。これは「未知の対象物にも「は」はつけられる」ことといわば裏表の現象である。以下はたしか久野暲の出していた例だが、

強盗が僕の家に入った。その強盗が僕にピストルを突き付けて金を出せと言った。

焦点の「強盗」に「は」がついていないのに、久野氏ばかりでなく私の感覚をもってしてもこの文は完全にOKである。どうしてここは「強盗」なんですかと聞かれたら既知論者はどう説明するのだろうか。「この文章は正しくない、「は」をつけるべきだ」とか規範文法精神を丸出しにして以下のように無理やり訂正でもさせるか。

強盗が僕の家に入った。その強盗は僕にピストルを突き付けて金を出せと言った。

私の日本語感覚では(うるさいな)こんな訂正など余計なお世話、いや害にしかなっていない。要するに「は」がついているからと言って既知とは限らないし、ついていないからといって未知とは限らないのだ。既知論者はどうやってこのオトシマエをつけるのか。ここはやはり「既知」の観念を玉虫色操作したりの妙なアリバイ工作などせずに「実は「は」は指示のステータス、つまり既知・未知の区別とは理論的に無関係です」とさっさとゲロしてしまった方が楽ではないのか。

 では「は」とは何なのか。「は」がテーマ・主題マーカーとも呼ばれているように、話者が「当該対象物と関連させてセンテンスを発話します」、「この発話は当該対象物についてです」とシグナルを出すためにつけるのだ。それ以上でも以下でもない。そして『175.私は猫です』でも書いたようにそのトピックは本来格に中立であると同時に指示のステータスにも中立なのである。
 ではなぜ「は」は既知の対象物などという誤解が生じたのかというと、既知の対象物がトピックになりやすい傾向が確かにあるからだ。このメカニズムも1980年代に言語学者らがとっくに説明している。全く未知の対象物をいきなりトピックにすると聞き手には二重の負担がかかる。つまり1.その対象物が存在するものとして自分の記憶の場に書き込まねばいけない、2.さらにその、今自分で書き込んだばかりの対象物をトピックとして引っ張り出さないといけない。これを譬えるとフォルダ(トピック)とファイル(センテンス内容)を同時に作成するようなもので、聞き手はまず新しいフォルダを自分の頭の中に用意したのち、その真新しいフォルダに発話内容を入れる、二度手間である。
 このような、話者側が「聞き手はこの対象物は記憶にはない」とわかっていながら敢えてそれをトピックマークする行為を日露混血の言語学者オルガ・ヨコヤマ氏は imposition、「押し付け」と呼んでいる。上でも出した例、小説などの場合は受け取る側(読者)にその準備ができているから(だからこそ本を開いたのだ)トピックを押し付けても問題ないが、日常会話は事情が異なる。余計な負担をかからないように、相手がこちらの情報を自分がすでに持っているフォルダに入れられるよう配慮してやるか、せめてまずこちら側からこういうフォルダを作れと指示して下準備させてからそこに入れる情報を伝える、これが普通だ。だからトピックは既知の対象であることが多いのである。しかしこれはあくまで傾向であって、定義として持ち出すことはできない。凶悪犯罪者の90%が男性だからと言って「男性」という言葉を「犯罪を犯しやすい性」などとは定義できないのと同じことだ。そしてトピック=既知が傾向でしかないことも1980年代にチェイフやラインハルトなどの学者が見抜いている。未だにこれを定義と混同する人がいるのはなぜだろう。それとも言語学はその後「やはりトピックは既知の対象と定義すべきだ」という流れに変わったのだろうか。
 
 理論上は無制限デスマッチだからこそ、何をトピックにするか、適切な対象物をトピックマークできるかによってその人の言語・会話能力が露見するのである。自己裁量、自由意志だからこそ余計にそこで日本語能力が問われるのだ。自分はなぜこの対象物をトピックマークするのか、なぜこの対象物は焦点なのにトピックとしないのか、自分で理由がわかっていなければいけない。母語者はたとえ人には説明できなくてもわかってはいる。前にも出した例だが、「どなたが山田さんですか?」との問いに「私山田です」と言って手を上げる人など日本語の母語者にはいない。「既知の対象には(自動的に)「は」をつける」などとアンポンタンな教師に刷り込まれてしまうとこんな簡単な事すら永久にできるようにならない。またちょっと高度だがやはり母語者なら絶対ハズさない例としてさらにこんな状況を想像してみてほしい:私は山田さんという人とアポがあるので、指定の時間に山田さんの事務室に行った。ところがドアをノックしても誰もいない。あれと思っていたらちょうどそこに山田さんの同僚田中さんが通りかかった。田中さんは私が山田さんとアポがあることを知っている。そこで田中さんが私にいう。「あっ、山田さんは今来ます。ごめんなさい、ちょっと物を取りに行ったんですよ。」
 以前これとそっくりな状況になったことがある。ただし通りかかったのは田中さんではなく日本語がペラペラの外国人である。その人はマジに日本語がペラペラだったが、そこで私にこういったのだ;「あっ、〇さん今来ます。」 これも日本語の母語者ならまず言わない。なぜか。
 山田さんのドアをノックしている私を見れば「山田さん」という対象物が私にとって指示のステータスの頂点に立つことは明白だ。だからそこで通りがかりの人もそれを汲んで「山田さん」をフォルダ(トピック)にしたのだ。「あなたが山田さんとアポがあることは知ってますよ、ですからその山田さんに関する情報(=今来ます)をどうぞ」というシグナルである。このフォルダなしに「山田さんが来ます」といわれるとまるで私のアポとは関係のない別の山田さんが来たような感じで「それがどうした」と思いかねない。
 
 こういう「は」の本質は母語者には深く染みついている。知らずにうっかり間違った敬語を使ってしまう日本人などいくらもいるが、文脈にふさわしくない「は」を知らずにうっかり使ってしまう日本人はいない。使うとすればそれはわざと、例えば会話を打ち切りたいと暗示するシグナルとしてとかである。

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