「~ている」という助動詞がアスペクト表現であることは知られている。私は今まで大雑把に次のような説明をしていた:「~ている」は正反対のアスペクトを表わす。現在進行体 progressiver Aspekt と完了体 perfektiver Aspekt で、「基本的には」継続動詞、事象が「読む」とか「見る」など当該事象が時間の幅を持つ事象を表わす動詞に「~ている」がついたら現在進行体、瞬間、つまり「死ぬ」「結婚する」など、始まったとたんにすぐ終了するような事象を表わす動詞についたら完了体だと。ただもちろん「その本はもう読んでいます」など、継続動詞でも実は完了体になるので、本当はそうきっぱりとは行かないことは言っておく。さらにうるさく言えば「現在進行体」はアスペクトではなく動作様相Aktionsart なのでロシア語をやっている人から突っ込まれそうだが(下記)、それについては黙っておく。
 しかししばらく以前からこれは安易すぎるのではないかと自分でも不安になってきていたため、先日寺村秀夫氏の『日本語のシンタクスと意味Ⅱ』を借りだして確認してみた。本来とっくに読んでいなければいけないはずの古典を今頃読んですみません。著者の寺村氏には直接お目にかかっている。大学時代に先生の授業をとっていたのだ。微妙に関西訛のあるダンディな先生で授業も面白かった。

 そもそもアスペクトというのは何なのか?コムリー Comrie という言語学者は「ある事態の内部的な時間構成のいろいろな見方」と定義しているそうだ。それが継続しているのか、完了しているのかいないのか、一回きりのものか繰り返されるのものか、そういった相の違いということで寺村氏も基本的にはこの見方を踏襲し、テンスが事象を点として見るなら、アスペクトは事象は幅として見るものだとしている。プロセスの中の時間のどういう位置にあるのかを表わそうとするものであると。もっともロシア語学者のイサチェンコはこういう違いはあくまで動作様相であってアスペクトではないと強調している。英語や日本語はロシア語のようにきっちり二分割でパラダイム化しテンスと独立したアスペクト体系がないので、アスペクトの観念の把握にいろいろ「不純物」が混入しやすいのかもしれない。でもライヘンバッハ Reichenbach というこれも有名な学者(三たびすみません。まだ原本読んでいません)の図式などはとてもクリアで日本語の説明にも使えそうだ。Reichenbach もテンスとアスペクトをいっしょにして論じているが、その際 Speech time、 Event time、 Reference time を基準として設定している。Speech time は発言が行われた時点、 Event time は当該事象が起こった時点で、この二つはわかりやすいが、これらとReference time を分けたのが非常な慧眼だ。これは当該事象が言語化された時点、観察された時点である。Speech time、 Event time、 Reference time をそれぞれS、E、Rとし、英語のSimple Past、Present Perfect の時系列を図示するとこうなる。< という印は閉じたほうにある事象が開いているほうより時間的に先行するという意味である。

Simple Past
I saw John
E = R < S

Present Perfect
I have seen John.
E < R = S

つまり Simple Past では当該現象が発生時点と同時に観察され、しかる後に発話されているのに対し、Present Perfect だと事象発生の後に観察・言語化されそれと同時に発話されていること、言い換えると完了体の本質は E < R ということだ。S の位置は問わない。この差と対応するドイツ語の構造、Ich sah Hans と Ich habe Hans gesehen はこの微妙な差をほとんど失ってしまい、単なるスタイルの差、あるいは方言差になってしまった。単純過去は「古風な響きで会話にはあまり使わない。それでも北ドイツの方では時々会話でも使っている」とのことである。だからということもないのだろうが、英語のSimple Past と Present Perfect の差が「いくら説明してもらってもよく呑み込めない」と言っていたドイツ人がいた。さてこの図式で現在進行形を表わすと

Sam is working.
E = R = S

で、三つがすべて同時である。では Sam was working はどうなるのか?私は上でも白状したようにReichenbach も Comrie も読んでいないので、勝手に自分で好きなように図式化させてもらうが、これは E = R < S としかやりようがなく、Simple Past といっしょになってしまう。これを防ぐには Simple Past の R をニュートラルにする、つまりSimple Past では Reference time は問わないとして、E (= R) < S とR を括弧にでもいれることだ。問わないわけだから状況によっては Simple Pastで E < (R =) S と事実上 Present Perfect と同じ時系列パターンを表わせることになる。
 これを日本語に当てはめてみると、

太郎に会った。E (= R) < S
太郎に会っている。E < R = S

太郎は結婚した。E (= R) < S
太郎は結婚している。E < R = S

となり、過去形(た形)と「~ている形」の違いが一応それらしく図式化できる。さらに面白いことに「た」が E < (R =) S のほうも表わせることを寺村氏は指摘している。この例は金田一春彦氏も引用しているが、

1.もう昼飯を食べたか。
2.きのう昼飯を食べたか。

の「た」を比べると前者は完了体アスペクト、前者が単純過去である。それが証拠にこの二つの質問に否定で答える場合、形が異なる。

1への答え;いや(まだ)食べていない/食べない。
2への答え:いや、食べなかった。

1に対しては皆本能的に完了アスペクト表現をとり、1の質問に「いや、食べなかった」で答えるとおかしい。もう一つ、

3.彼の話はよくわかったか?
4.私のいいたいのはこれこれだ。どうだ、いい加減にもうわかったか?

では、3に対しては「いや、よくわからなかった」と過去形で答え、4には「いや、まだわからない」と現在形で答えるのが普通だ。皆アスペクトの違いがよくわかっているのだ。図示すると

1と4:E (= R) < S
2と3:E < (R =) S

ということになろう。ここで R の括弧を外したい場合、つまりR を明確に可視化したい場合に「~ている」などの動詞を付加して完了体アスペクト表現をとる。
 その完了体としての「~ている」だが、瞬間動詞だけが完了体になるのではない。継続動詞に「~ている」をつけて完了体を表わすなど皆普通にやっている。

手紙はもう書いている。
その映画は以前見ている。
あの人はロシア語を勉強しているからキリル文字がスラスラ読めるんだよ。

など、いくらでも言える。その際、主語でなく目的語のほうに視点が行くと「~てある」も使える。

手紙はもう書いてある。
宿題はやってあるから、遊びに行っていいでしょ?

だから瞬間動詞であろうが継続動詞であろうが自動詞の完了体表現には「~てある」は使えない。

邪魔者は消している。
邪魔者は消してある。
邪魔者は消えている。
*邪魔者は消えてある。

さて、ここではトピックマーカーを使ってあるので不明瞭になってしまっているが、この「邪魔者」の格はなんだろうか?「~ている」の文では明らかに対格だ。上の「ロシア語を勉強しているから云々」の例でもわかる。他の二つも格構造的には「手紙をもう書いている」、「その映画を以前見ている」だ。対して「~である」の場合は主・対どちらの解釈も成り立つ。

邪魔者が消してある。
邪魔者を消してある。

これは多分シンタクス構造の差で、生成文法もどきにオシャレな図示をするとそれぞれ

NP{邪魔者が}  VP [ V1{消して} V2 {ある}]。
NP {ZERO} VP [VP1 [NP {邪魔者を} V {消して}] VP2{ある}]。

とかなんとかとなる。つまり主格だと「邪魔者」が「消してある」という複合動詞全体にかかり、対格だと邪魔者はまず「消して」のみにかかり、それから両者いっしょに「ある」にかかるということだろう。「寿司が食べたい」と「寿司を食べたい」の差もこれだと私は思っている。ただこの「~てある」では主語にゼロ以外立つことができない。「~たい」では「私が寿司を食べたい」と普通の名詞が主語に立てるのと大きな違いだ。
 また場合によっては目的語に焦点をあてた「~ある」でないと非常に座りの悪い文になる。比較のため目的語を対格にそろえるが、後者は少し変だ。

戸を開けてある。
戸を開けている。

なぜ後者はおかしいのだろう。これは完了体というアスペクトの本質的な意味と関わってくるようだ。またロシア語を引っ張り出すが、ボンダルコという学者によるとロシア語の完了体アスペクトの動詞が共通に持っている意味は「新しい状況の出現」だそうだ。寺村氏も日本語のアスペクト表現を検討してそれに近いことを言っている。「戸を開けてある」では焦点の戸にとって確かに「開いている」という新しい事態が出現している。対して「戸を開けている」だと焦点の主語(ここではゼロ主語になっているので仮に「私」としておこう)にとっては何も新しい事態が発生していない。「手紙を書く」ならまだある意味業績が一つ加わったと解釈もできようが、戸を開けたからといって誰も感心などしてくれない。この点が「私はロシア語をやっている」との違いである。そこでは「私」の語学能力が増している。「私はロシア語をやってある」はどうか。新しい事態は「私」でなくむしろロシア語の方に起こる。ロシア語が「私ができる言語リスト」あるいは「今日やったことのリスト」に付け加わったのだ。

 せっかく引っ張り出したのでもう少しロシア語との比較を続けるが、ロシア語の不完了体動詞にはちょっと面白い機能がある。「結果の取り消し」だ。例えば次の文はどちらも「私は窓を開けた」だが、

Я открыл окно.
I + opened-完了体+ window

Я открывал окно.
I + opened-不完了体 + window

完了体では窓は今開いているニュアンスだが、不完了体だと一度開けた窓が今はまた閉まっている、つまり「開ける」の結果を取り消す意味合いになる。狭い意味の結果ではないが、効果が取り消される、つまり当該行為が無に帰してしまった場合も不完了体を使う。

Утром мы открывали окно, но сейчас в комнате опять душно.
朝窓を開けたが、もう今部屋の中がムンムンする。

それと対応するかのように、日本語でも結果を取り消すような表現が「~ている」の後に続くと少しおかしい。

窓を開けたが、外の音がうるさいんでまたすぐ閉めた。
窓を開けてあるが、外の音がうるさいんでまたすぐ閉めた。
朝窓を開けているが、もう今部屋の中がムンムンする。

さらに

彼は結婚したがすぐ離婚した。
彼は結婚しているがすぐ離婚した。

という比較でも後者、完了体アスペクトを使うと変だ。

上でも述べたように「た」でも完了体を表わせないことはない。ないがここでの「た」は「わかったか→わからない」と違って完了体と解釈することはできない。しかし完了体の助動詞を過去形にしていわば過去完了的意味にすると一応結果が取り消せる。

窓を開けてあったが、外の音がうるさいんで閉めた。
彼は結婚していたが離婚した。

これは結果として生じた状態、「開いている」と「結婚している」が既に過ぎ去ったことなので、取り消しが割り込める隙が生じる。しかしその際ある程度の時間的距離が必要で上でやったように「すぐ」という副詞を使うと許容度が減少する。

窓を開けてあったが、外の音がうるさいんですぐ閉めた。
彼は結婚していたがすぐ離婚した。

 これもロシア語だが、不完了体による結果の取り消し機能の例としてこんな文があった。本がソ連時代のものなので「同志」である。

Товарищ заходил ко мне, но меня не было дома.
comrade + called on-不完了体  + to + me, bur + me + not + was + at home
同志が私の家に立ち寄った。でも私は家にいなかった。

Ко мне зашёл товарищ, и мы смотрели с ним телевизор.
to + me + called on-完了体 + comrade, and + we + watched + with+ him + television
同志が私の家に立ち寄った。それでいっしょにテレビを見た。

不完了体動詞の заходил(不定形は заходить)では立ち寄ったという行為が無駄になり、完了体 зашёл (不定形 зайти)では同志が首尾よく私に会えている。

 私は最初、というよりここでこうやって改めて日本語と比べてみるまでロシア語不完了体動詞の取り消し機能はロシア語のカテゴリー体系、全動詞が完了か不完了かにきれいに2分割されているからだと思っていた。動詞は必ずどちらかに属するのだからこれは欠如的対立(『128.敵の敵は友だちか』参照)ということで、不完了体の本質は「完了体ではない」ところにある。事実ロシア語学者には完了体は有標、不完了体は無標とズバリ定義している人が何人もいる。つまり行為の結果が残っている場合は完了体を使うのだから、そこで敢えて完了体を使わず不完了体を使うということはまさに完了体ではない、とわざわざ表明したいということ、言い換えると完了体ではない→結果が出ていないという暗示だ。不完了体は本来なら別に結果を否定したりしない。「どっちでもいい」はずである。その「どっちでもいい」動詞に取り消しのニュアンスを生じさせたのはロシア語の欠如的対立カテゴリーであると。
 しかし今上で見たように動詞が全然2分割などされていない日本語でも「完了体アスペクトであることが明確でない動詞形は結果の取り消しと親和性が高い」となるとこれは動詞カテゴリーだけが原因でもないようだ。
 実は私は30年くらい前からロシア語不完了体の取り消し機能はロシア語動詞が欠如的対立をなしているからだという主張をどこかのスラブ語学の専門雑誌にでも投稿しようかと思っていたのをどうも面倒くさいので放っておいたのだが、ひょっとしたら私はとんでもなく間違っていたのかもしれない。放っておいてよかった。それにしてもここはだんだんその種の、生まれるに至らなかったいわば「水子論文」の供養ブログと化しつつある。

 (この項まだ続きます。続きはこちら

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