クロアチア語は発音でえらく苦労した。

 例えばクロアチア語には /i/ という前舌狭母音、つまりロシア語でいう и しかないのに n という子音そのものには口蓋音・非口蓋音(硬音・軟音)の区別があるのだ。クロアチア語ではそれぞれ n、nj と書いてそれぞれロシア語の н と нь に対応するのだが、その後に /i/ が来たときの区別、つまり ni と nji の発音の区別が結局最後までできなかった。日本語ではどちらも「ニ」としか書きようがないのだが、ni をロシア語式に ни (ニ)と言うと「それでは nji に聞こえます」と怒られ、それではと ны (ヌィ)と言うと「なんで母音のiをそんな変な風に発音するんですか?」と拒否される。「先生、ni と nji の区別が出来ません」と泣きつくと、「仕方がありませんねえ、では私がゆっくり発音してあげますからよく聞いてください」と親切に何度も両音を交互に発音してくれるのだが、私には全く同じに聞こえる。 
 さらにクロアチア語にはロシア語でいう ч に硬音と軟音の区別がある、つまり ч と чь を弁別的に区別する。これも日本語ではどちらも「チ」としか言いようがない。ロシア語では ч は口蓋音、いわゆる軟音しかないからまあ「チ」と言っていればなんとなく済むのだが、クロアチア語だと「チ」が二つあって発音し間違えると意味が変わってくるからやっかいだ。ロシア語をやった人なら、「馬鹿な、もともと軟音の ч をさらに軟音にするなんて出来るわけがないじゃないか」と言うだろうがそういう音韻組織になっているのだから仕方がない。č が ч、ć が чь だ。
 私はこの区別もとうとうできるようにならなかった。例えば Ivić というクロアチア語の苗字を発音しようとすると、講師からある時は「あなたの発音では Ivič に聞こえます。それではいけません。」と訂正され、またある時は「おお、今の発音はきれいな Ivić でした」と褒められる。でも私は全然発音し分けたつもりはないのだ。何がなんだかわからない、しまいには自分がナニしゃべっているのかさえわからなくなって来る。

 反対にクロアチア人の学生でとうとうロシア語の мы (ムィ、「私たち」)が言えずに専攻を変えてしまった人がいる。南スラブ語と東スラブ語間では皆いろいろ苦労が絶えないようだ。

 ところで、古教会スラブ語は「スラブ祖語」だと思っている人もいるが、これは違う。サンスクリットを印欧祖語と混同してはいけないのと同じ。古教会スラブ語はれっきとした南スラブ語族の言語で、ロシア語とは系統が異なる。ただ、古教会スラブ語の時代というのがスラブ諸語が分離してからあまり時間がたってない時期だったので、これをスラブ祖語とみなしてもまああまり支障は出ないが。
 東スラブ語は過去2回この南スラブ語から大波を受けた。第一回目が例のキリロス・メトディオスのころ、そして2回目がタタールのくびきが除かれて中世セルビア王国あたりからドッと文化が入ってきたときだ。
 なので、ロシア語には未だに南スラブ語起源の単語や文法組織などが、土着の東スラブ語形式と並存している。日本語内に大和言葉と漢語が並存しているようなものだ。
 さらに、南スラブ語は常に文化の進んだ先進地域の言語であったため、この南スラブ語系統の単語や形態素は土着の東スラブ語形にくらべて、高級で上品な語感を持っていたり、意味的にも機能的にも一段抽象度が高かったりする。例えば合成語の形態素として使われるのも南スラブ語起源のことが多い。日本語でも新語を形成するときは漢語を使う事が多いのと同じようなものだ。
 
 ちょっと下の例を比べてみて欲しい。оло (olo) という音連続は典型的な東スラブ語、ла(la) はそれに対応する南スラブ語要素だが、語源的には同じ語がロシア語には南スラブ語バージョンのものと東スラブ語バージョンのものが並存し、しかもその際微妙に意味が違ったり合成語に南スラブ語要素が使われているのがわかると思う。
Tabelle1-56
 さらにいえば、ウクライナ語は昔キエフ公国の時代に東スラブ語文化の中心地だったためか、ロシア語よりも南スラブ語に対する東スラブとしての抵抗力があったと見え、ロシア語よりも典型的な東スラブ語の音韻を保持している部分がある。例えばロシア語の名前Владимир(ヴラジーミル)は南スラブ語からの外来名だ。この愛称形をВолодя(バロージャ)というがここでも上で述べた南スラブ対東スラブ語の典型的音韻対応 ла (la) 対 оло  (olo)が現れているのが見て取れるだろう。この、ロシア語ではВладимирとなっている名前はウクライナ語ではВолодимир (ヴォロジーミル)といって正式な名前のほうでも оло  という典型的東スラブ語の形を保持している。
 この、南スラブ語の la や ra がそれぞれ olo や oro になる現象をполногласие (ポルノグラーシエ、正確にはパルナグラーシエ、「充音現象」)と言って、東スラブ語の特徴である。「難しくてオロオロしてしまいそうだ」とかギャグを飛ばそうかと思ったが馬鹿にされそうなのでやめた。いずれにせよполногласие の л (l) をр (r) と間違えないことだ。

 古教会スラブ語のアクセント体系がどうなっていたかはもちろん直接記録はされていないが、現在の南スラブ語を見てみればある程度予想はつく。以下は南スラブ語の一つクロアチア語とロシア語の対応語だが、これを見ればおつむにアクセントのある上品な南スラブ語が東スラブ語ではアクセント位置がお尻に移動しているのがわかる。アクセントのあるシラブルは太字で表す。 さらに比較を容易にするため、ロシア語もローマ字で示してみた。
Tabelle2-56
 この、「おつむアクセントは上品、お尻アクセントは俗語的」という感覚は人名の発音にも見られるそうだ。例えばイヴァノフ (Иванов)という名前は ва にアクセントが来る「イヴァーノフ」と но に来る「イヴァノーフ」という二種類の発音の仕方があるのだが、「イヴァーノフ」の方が上品で古風、つまりなんとなく由緒あり気な感じがするという。
 それを知ってか知らずか、神西清氏はガルシンの小説『四日間』(Четыре дня)の主人公を「イヴァーノフの旦那」と訳している。貴族の出身という設定だったので、由緒ありげな「イヴァーノフ」のほうにしたのかもしれない。「イヴァノーフ」では百姓になってしまい、「旦那」という言葉と折り合わなかったのか。
 この苗字の元になった名前「イヴァーン」(Иван)のアクセントは ва (ヴァ)にあるのだから、最初は苗字のほうもイヴァーノフだったはずだ。その後ロシア語の言語体系内でアクセントの位置がドンドン後方にずれていったので、イヴァノーフという発音が「普通」になってしまった。さらにウルサイことを言えば、この名前の南スラブ語バージョン Ivo (イーヴォ)はアクセントが「イ」に来るし、セルビア語・クロアチア語でも Ivan を I にアクセントを置いた形でイーヴァンと発音する。つまりそもそものИванという名前からしてロシア語ではすでにアクセントが後ろにずれているのだ。Ивановではその、ただでさえずれているアクセントをさらにまた後方に横流ししたわけか。もうこれ以上は退却できない最終シラブルにまで下がってきている。いわば背水の陣だ。


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