外国語の教科書で「こんにちは」や発音練習といった舌の訓練のあと最初に出てくる構文は「A = B」のコピュラ文ではないだろうか。古い話だが中学の英語の教科書も最初の文は this is a pen だったし、ドイツ語でも Christoph ist Student(「クリストフは学生です」)とかそういうものだった記憶がある。これは学ぶべき外国語というのが大抵英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語等の印欧語だった時代(今でもそうだが)の教科書構成をそのまま非印欧語にも持ち越したからではないだろうか。印欧語ではコピュラは動詞だからまずその最重要な動詞を覚え、次の段階で「読む」とか「見る」など頻繁に使われる動詞に進む。後者が先で不規則動詞のコピュラはその少し後という構成の教科書もあるが、極めて早い段階で I am a cat というタイプの文が出てくることには変わりない。コピュラ文はもっとも構造の単純な文だからである。
それでもロシア語はちょっと注意を要する。現在形のコピュラが省略されて主語と Prädikatsnomen のみの文となるからだ。それで A is B は単に間にハイフンをいれたA – Bという形になる。「私はカモメ」は я – чайка で、я が「私」、чайка が「カモメ」、どちらも主格である。ところが A is in B などもコピュラがないわけだから同様に主語と述部だけからの構成となり「彼はアメリカにいる」は он в Америки だが、そういう場合は述部に前置詞が現れる上、ハイフンをつけないのすぐわかる。またコピュラ動詞が「存在する」という意味で使われる場合もハイフンをつけない。例えば мне сто лет(「私は100歳です」←「私には100年ある」)では「私」が与格、「100年」が主格。さらに『107.二つのコピュラ』でも書いた通り過去形では Prädikatsnomen が造格になることもあるが、過去形だとコピュラを省略しないのでやはり区別がつく。注意は要するが文構造の解釈そのものは難しくない。
なおここで Prädikatsnomen とわざわざドイツ語にしたのはキッチリした訳語がないからだ。「述部」あるいは「述語」と言ってしまうとコピュラ以外の動詞、例えば I read a book の read a book が当てはまり、これは他動詞と目的語だ。上の в Америки も「述部」である。コピュラ以外の動詞がカテゴリに入ってしまうことは「補語」という用語ともそうで、They call him Django の Django は「補語」だが Prädikatsnomen ではない。「コピュラ動詞が「存在する」の意味でなく使われている文の主語以外の部分」をビシッと表わせる語がない。「述詞」という語が一番ふさわしいかもしれないが、中国語にそういう言葉があり(当然)意味が違うので誤解を招く。Prädikatsnomen と呼ぶしかない
さてその「A = B」は日本語でも最初に練習させられる。「私は学生です」「私は田中です」「あの方は佐藤さんです」などだ。持って行き方としては印欧語の教科書と並行していてある意味とっつきやすいのだが、実は重大な問題があると私は思っている。「私は田中です」は Ich bin Tanaka あるいは I am Tanaka ではないからだ。
自己紹介や「あなたはどなたですか?」と聞かれたときの I am Tanaka は「私は田中です」でよろしい。そしてそれがまあスタンダードな発話状況だから「I am Tanaka = 私は田中です」という図式が印欧語の母語者にこびりついてしまう。しかし例えばこういう状況を想像して見てほしい:部屋に何人か人がいる。そのうちの一人が田中さんであることが私にはわかっている。しかしどの人だかわからないので聞く、「どなたが田中さんですか」または「田中さんはどなたですか?」。すると一人が手をあげて I am Tanaka と答える。これは「私は田中です」ではない、「私が田中です」だ(「私です。」「田中は私です」などの回答もありうるがここでは省く)。前者の「私」はトピック、後者は単なる主格である。つまり日本語では疑問代名詞で聞かれた要素、いわば変数に代入する定数はトピックにしてはいけない。別の言い方をすれば語用論でのサブジェクトと文法上のサブジェクトを日本語では明確に区別し、ここを間違えると会話が躓く。
例えば「どなたが田中さんですか」と聞いたとき誰かが「私は田中です」と言ったとしよう。これは厳密に見ると非常に失礼な発言である。まず第一に「誰が田中か」という質問に答えていない。答えに「誰」に代入できる情報がないからである。第二に相手の質問を無視したうえ、自分が新しいトピックを立ててしまっている。つまり「誰が田中かなんてことより私が自分について話します」というシグナルだからだ。もちろん「田中」という名前が共通しているから聞いた方も意味を汲んで、「あんたのことなど聞いてない」とは思わない。「私は田中です」を「私が田中です」と解釈し直して会話は修復できる。それでも修復作業は必要なわけで、とにかく一瞬会話の流れがモタつくことは確実だ。
最初に「I am Tanaka =私は田中です」が定着してしまい、トピックを見るとパブロフの犬のように自動的に文の主語、つまり主格と解釈する癖がついてしまったりトンチンカンな所でいつも「は」をつけられたりするとモタつくのは一瞬では済まない。石ころだらけの道、バグまみれのプログラムのようで会話が途中でアベンド(なんて言葉をご存知の方まだいますか?)する。
この辺は最初にガンと釘を刺しておいた方がいいのではないだろうか。『58.語学書は強姦魔』でだしたロシア語の先生ではないが、下手に事実を説明すると初心者が混乱するからと言って黙っていることはかえって不親切なのでは?「変数に代入する定数はトピックマークしてはいけない」「トピックは格については中立で自動的に主格解釈してはいけない」、この2点だけはなるべく早い時点ではっきりさせておくべきだと思う。第二点の「トピックは格について中立」についてはちょっと学習の進んだ時点で習うは習うが、やはり最初にいっておいたほうがいいのではないだろうか。でないと後になって「その本は昨日読みました」という文にぶつかったとき、頭で説明は理解できても最初にプリントされた「は=主語・主格」という呪縛から逃れきれないからだ。それこそ「初心者が混乱する」。始めからしつこく「トピックは格が表現されていないからトピックを見たら必ずセンテンス全体を見まわしてその格を再建しろ」と脅して(?)おくのはむしろ今後のためだ。例えば
ではトピックの「本」は対格で「を」で代用しても文のロジックは変わらない。
その本をもう読みました。
また「電車は遅れています」のトピック「電車」は主格で
電車が遅れています。
と同じロジックである。『65.主格と対格は特別扱い』でも述べたが、主格と対格がトピックになる場合は必ず格マーカーが削除される。
基本構造:その本をもう読みました
→ トピックマーク:*その本をはもう読みました
→ 格マーカー削除:その本(を)はもう読みました
→ 出来上がり:その本はもう読みました
変形生成文法の安物バージョンみたいな図式で恐縮だが、中間の「その本をはもう読みました」は非文である。主格も同様で、
基本構造:電車が遅れています
→ トピックマーク: *電車がは遅れています
→ 格マーカー削除:電車(が)は遅れています
→ 出来上がり:電車は遅れています
主格対格以外の斜格ではトピックマーカーと格マーカーが共存できる。
田中さんには昨日会いました。
ハイデルベルクには昨日行きました。
地下鉄ではアメリカまで行けません。
ここでは煙草が吸えます。
ここにはスーパーができます。
田中さんとは明日話します。
トピックはそれぞれ与格、方向格、具格、動作処格、存在処格、共格である(『152.Noとしか言えない見本』参照)。私の感覚では共格はトピックと共存できるどころか、共存しないとおかしい。
田中さんは明日話します。
だと田中さんが主格なのか共格なのかわからない、というより主格解釈が強すぎて共格解釈が成り立ちにくい。呼格についても前に少し述べたが(『90.ちょっと、そこの人!』参照)、トピックの格中立性が飲み込めていないと
田中さんは日本人ですか?
という文が多義であることがわからない。主格解釈と呼格解釈が可能だからだ。つまり Is Mr. Tanaka a Japanese? と Mr. Tanaka, are you a Japanese? の違いである。言い換えるとトピックのある文は厳密には全て省略文なのである。コピュラ文に戻ると、「私が田中です。」は素直に
I am Tanaka.
だが、「私は田中です」は
About me, (I am ) Tanaka.
で、括弧内は言語そのものには表現されない聞き手による解釈・再構築で、つまり後から加えられた部分。語用論に属するもので言語の構造そのものには属していない。聞き手はいちいち言語状況によってこの部分を再構しないといけない。同様に「その本はもう読みました」は
About the book, (I) already read (the book) yesterday.
で括弧内は聞き手が付け加えたもの。さらに「田中さんは日本人ですか?」は
About Mr, Tabaka, (are you) a Japanese?
括弧内の再構に加えて指示対象の同定が出来ないといけない。つまり「田中さん」と「あなた」、ということは聞き手にとっての「私」が同一のシニフィエであることが理解できないといけない。これを普通
About Mr, Tabakai, (are youi) a Japanese?
と表し、名詞の後ろに小さくつけた i が i = i という意味に同一指示対象であることを示している。
とにかく「は」が出てきたら文の残りをよく見て格構造を再構しろというのが日本語の始めの一歩。これがわからないと全く先に進めない。はずなのである、本当は。
もっともこの「トピックの格構造を再構しろ」という言い方も実はそれこそ「初心者を混乱させないように」簡単にはしょって説明する言い方で、理論的にはトピックと残りの文の間にはロジック関係、つまり格の関係すらもない。『99.憲法9条を考える』でも出した久野暲の例だが、
太郎は花子が家出した。
という文。普通の人なら非文解釈をするだろう。しかし太郎と花子が夫婦であると知っている人にとってはこの文はOKとなる。「太郎」と「花子が家出した」の関連性が見て取れるからだ。私はこれがトピック、「は」の本質であると思っている。トピックと残りの文を結び付けられるかは厳密には個々の状況、個々の話者にのみかかっていて、文法上の関連性はない。ただ、「結びつけやすさ」にいろいろな段階があるだけである。トピックが文の中の一要素、特に力の強い主格と解釈できる場合は誰にでも容易に意味がとれる。それで教科書の最初にも「私は田中です」が出てくるのだ。それが対格、与格と順位が落ちるに従って関連付けがしにくくなり、しまいには上の太郎と花子の例のように特定の知識がないと関連付けができなくなる。しかしそれはあくまで実際の言語運用上の問題であって、文法上の問題ではない。
これは日本人にも関連付けが難しい例だが、三上章(だったと思う)の有名なセンテンス、「僕はうなぎだ」は普通の日本人なら背景知識がなくてもすぐにわかる(『49.あなたは癌だと思われる』参照)。レストランでメニューを決めるとき、一緒にいた人が「君は何にする?」と聞く。それに答えて「僕はウナギだ」「私はステーキよ」「俺はビールだ」。皆普通に言っている。上で述べたようなパブロフの犬にはこんな簡単な文がわからないから「君はウナギか、じゃあ出身地は浜名湖なのか」とか聞いてきかねない。ここの「僕、私、俺」は主格ではない。無理やり格を考えろと言われたらまあ「与格」とかの解釈もできないことはないが、これも久野暲の文と同じく、トピックは文の格構造の要素ではないと見たほうがいいだろう。(What) I (want to eat), is eel という省略文だ。このタイプの文は日本語にはゴロゴロあって、
春はあけぼの
(In) spring (it is) the dawn (that is most beautiful).
チョコレートは明治
(The best) chocolate is (made by) Meiji.
括弧の中は「聞き手の解釈」である。言い換えると「あとから付け加えられた部分」であって、もともと文の一部であったものが文構造内のノードをよじ登ってトピック・ポジションまで出てきたという生成文法系の人がやる解釈とは実は方向が逆なのではないだろうか。文の構成要素とは関係なく最初から与えられたトピックを受け取った聞き手が文の中を探し回り、該当する要素があればそれをトピックと解釈する、特に該当する要素がなければないで文全体の記述内容の意味となんとか結びつける。私はそれがトピックだと思っている。
ここまでで普通の印欧語話者は十分キツイと思うが、さらにトピックばかりでなくコピュラ文のPrädikatsnomen の方も基本的に格に中立と強調しておかないと、
私は学生がです
山田さんは今アメリカにです。
試験は12月15日にです。
と述部にウザい格マーカーをつける羽目になる。特に二番目の文は「山田さんは今アメリカです」正しく言われると理解できない人もいる。この文が Mr. Yamada is now (in the) US.と、述部の格(処格)が表現されない構造であることが心にしみ込んでいないからだ。アメリカならまだいいが、これが
山田さんは今福島です。
になると山田さんは今福島という名前になっているのかと勘違いしかねない。
なお上で「基本的には」と書いたのは一部の斜格が強調表現として Prädikatsnomen に現れ得るからだが、
コンサートはハイデルベルクでですよ。
東京に行ったのは飛行機でです。
試験は12月15日に東京でです。
それでもロシア語はちょっと注意を要する。現在形のコピュラが省略されて主語と Prädikatsnomen のみの文となるからだ。それで A is B は単に間にハイフンをいれたA – Bという形になる。「私はカモメ」は я – чайка で、я が「私」、чайка が「カモメ」、どちらも主格である。ところが A is in B などもコピュラがないわけだから同様に主語と述部だけからの構成となり「彼はアメリカにいる」は он в Америки だが、そういう場合は述部に前置詞が現れる上、ハイフンをつけないのすぐわかる。またコピュラ動詞が「存在する」という意味で使われる場合もハイフンをつけない。例えば мне сто лет(「私は100歳です」←「私には100年ある」)では「私」が与格、「100年」が主格。さらに『107.二つのコピュラ』でも書いた通り過去形では Prädikatsnomen が造格になることもあるが、過去形だとコピュラを省略しないのでやはり区別がつく。注意は要するが文構造の解釈そのものは難しくない。
なおここで Prädikatsnomen とわざわざドイツ語にしたのはキッチリした訳語がないからだ。「述部」あるいは「述語」と言ってしまうとコピュラ以外の動詞、例えば I read a book の read a book が当てはまり、これは他動詞と目的語だ。上の в Америки も「述部」である。コピュラ以外の動詞がカテゴリに入ってしまうことは「補語」という用語ともそうで、They call him Django の Django は「補語」だが Prädikatsnomen ではない。「コピュラ動詞が「存在する」の意味でなく使われている文の主語以外の部分」をビシッと表わせる語がない。「述詞」という語が一番ふさわしいかもしれないが、中国語にそういう言葉があり(当然)意味が違うので誤解を招く。Prädikatsnomen と呼ぶしかない
さてその「A = B」は日本語でも最初に練習させられる。「私は学生です」「私は田中です」「あの方は佐藤さんです」などだ。持って行き方としては印欧語の教科書と並行していてある意味とっつきやすいのだが、実は重大な問題があると私は思っている。「私は田中です」は Ich bin Tanaka あるいは I am Tanaka ではないからだ。
自己紹介や「あなたはどなたですか?」と聞かれたときの I am Tanaka は「私は田中です」でよろしい。そしてそれがまあスタンダードな発話状況だから「I am Tanaka = 私は田中です」という図式が印欧語の母語者にこびりついてしまう。しかし例えばこういう状況を想像して見てほしい:部屋に何人か人がいる。そのうちの一人が田中さんであることが私にはわかっている。しかしどの人だかわからないので聞く、「どなたが田中さんですか」または「田中さんはどなたですか?」。すると一人が手をあげて I am Tanaka と答える。これは「私は田中です」ではない、「私が田中です」だ(「私です。」「田中は私です」などの回答もありうるがここでは省く)。前者の「私」はトピック、後者は単なる主格である。つまり日本語では疑問代名詞で聞かれた要素、いわば変数に代入する定数はトピックにしてはいけない。別の言い方をすれば語用論でのサブジェクトと文法上のサブジェクトを日本語では明確に区別し、ここを間違えると会話が躓く。
例えば「どなたが田中さんですか」と聞いたとき誰かが「私は田中です」と言ったとしよう。これは厳密に見ると非常に失礼な発言である。まず第一に「誰が田中か」という質問に答えていない。答えに「誰」に代入できる情報がないからである。第二に相手の質問を無視したうえ、自分が新しいトピックを立ててしまっている。つまり「誰が田中かなんてことより私が自分について話します」というシグナルだからだ。もちろん「田中」という名前が共通しているから聞いた方も意味を汲んで、「あんたのことなど聞いてない」とは思わない。「私は田中です」を「私が田中です」と解釈し直して会話は修復できる。それでも修復作業は必要なわけで、とにかく一瞬会話の流れがモタつくことは確実だ。
最初に「I am Tanaka =私は田中です」が定着してしまい、トピックを見るとパブロフの犬のように自動的に文の主語、つまり主格と解釈する癖がついてしまったりトンチンカンな所でいつも「は」をつけられたりするとモタつくのは一瞬では済まない。石ころだらけの道、バグまみれのプログラムのようで会話が途中でアベンド(なんて言葉をご存知の方まだいますか?)する。
この辺は最初にガンと釘を刺しておいた方がいいのではないだろうか。『58.語学書は強姦魔』でだしたロシア語の先生ではないが、下手に事実を説明すると初心者が混乱するからと言って黙っていることはかえって不親切なのでは?「変数に代入する定数はトピックマークしてはいけない」「トピックは格については中立で自動的に主格解釈してはいけない」、この2点だけはなるべく早い時点ではっきりさせておくべきだと思う。第二点の「トピックは格について中立」についてはちょっと学習の進んだ時点で習うは習うが、やはり最初にいっておいたほうがいいのではないだろうか。でないと後になって「その本は昨日読みました」という文にぶつかったとき、頭で説明は理解できても最初にプリントされた「は=主語・主格」という呪縛から逃れきれないからだ。それこそ「初心者が混乱する」。始めからしつこく「トピックは格が表現されていないからトピックを見たら必ずセンテンス全体を見まわしてその格を再建しろ」と脅して(?)おくのはむしろ今後のためだ。例えば
その本はもう読みました。
ではトピックの「本」は対格で「を」で代用しても文のロジックは変わらない。
その本をもう読みました。
また「電車は遅れています」のトピック「電車」は主格で
電車が遅れています。
と同じロジックである。『65.主格と対格は特別扱い』でも述べたが、主格と対格がトピックになる場合は必ず格マーカーが削除される。
基本構造:その本をもう読みました
→ トピックマーク:*その本をはもう読みました
→ 格マーカー削除:その本
→ 出来上がり:その本はもう読みました
変形生成文法の安物バージョンみたいな図式で恐縮だが、中間の「その本をはもう読みました」は非文である。主格も同様で、
基本構造:電車が遅れています
→ トピックマーク: *電車がは遅れています
→ 格マーカー削除:電車
→ 出来上がり:電車は遅れています
主格対格以外の斜格ではトピックマーカーと格マーカーが共存できる。
田中さんには昨日会いました。
ハイデルベルクには昨日行きました。
地下鉄ではアメリカまで行けません。
ここでは煙草が吸えます。
ここにはスーパーができます。
田中さんとは明日話します。
トピックはそれぞれ与格、方向格、具格、動作処格、存在処格、共格である(『152.Noとしか言えない見本』参照)。私の感覚では共格はトピックと共存できるどころか、共存しないとおかしい。
田中さんは明日話します。
だと田中さんが主格なのか共格なのかわからない、というより主格解釈が強すぎて共格解釈が成り立ちにくい。呼格についても前に少し述べたが(『90.ちょっと、そこの人!』参照)、トピックの格中立性が飲み込めていないと
田中さんは日本人ですか?
という文が多義であることがわからない。主格解釈と呼格解釈が可能だからだ。つまり Is Mr. Tanaka a Japanese? と Mr. Tanaka, are you a Japanese? の違いである。言い換えるとトピックのある文は厳密には全て省略文なのである。コピュラ文に戻ると、「私が田中です。」は素直に
I am Tanaka.
だが、「私は田中です」は
About me, (I am ) Tanaka.
で、括弧内は言語そのものには表現されない聞き手による解釈・再構築で、つまり後から加えられた部分。語用論に属するもので言語の構造そのものには属していない。聞き手はいちいち言語状況によってこの部分を再構しないといけない。同様に「その本はもう読みました」は
About the book, (I) already read (the book) yesterday.
で括弧内は聞き手が付け加えたもの。さらに「田中さんは日本人ですか?」は
About Mr, Tabaka, (are you) a Japanese?
括弧内の再構に加えて指示対象の同定が出来ないといけない。つまり「田中さん」と「あなた」、ということは聞き手にとっての「私」が同一のシニフィエであることが理解できないといけない。これを普通
About Mr, Tabakai, (are youi) a Japanese?
と表し、名詞の後ろに小さくつけた i が i = i という意味に同一指示対象であることを示している。
とにかく「は」が出てきたら文の残りをよく見て格構造を再構しろというのが日本語の始めの一歩。これがわからないと全く先に進めない。はずなのである、本当は。
もっともこの「トピックの格構造を再構しろ」という言い方も実はそれこそ「初心者を混乱させないように」簡単にはしょって説明する言い方で、理論的にはトピックと残りの文の間にはロジック関係、つまり格の関係すらもない。『99.憲法9条を考える』でも出した久野暲の例だが、
太郎は花子が家出した。
という文。普通の人なら非文解釈をするだろう。しかし太郎と花子が夫婦であると知っている人にとってはこの文はOKとなる。「太郎」と「花子が家出した」の関連性が見て取れるからだ。私はこれがトピック、「は」の本質であると思っている。トピックと残りの文を結び付けられるかは厳密には個々の状況、個々の話者にのみかかっていて、文法上の関連性はない。ただ、「結びつけやすさ」にいろいろな段階があるだけである。トピックが文の中の一要素、特に力の強い主格と解釈できる場合は誰にでも容易に意味がとれる。それで教科書の最初にも「私は田中です」が出てくるのだ。それが対格、与格と順位が落ちるに従って関連付けがしにくくなり、しまいには上の太郎と花子の例のように特定の知識がないと関連付けができなくなる。しかしそれはあくまで実際の言語運用上の問題であって、文法上の問題ではない。
これは日本人にも関連付けが難しい例だが、三上章(だったと思う)の有名なセンテンス、「僕はうなぎだ」は普通の日本人なら背景知識がなくてもすぐにわかる(『49.あなたは癌だと思われる』参照)。レストランでメニューを決めるとき、一緒にいた人が「君は何にする?」と聞く。それに答えて「僕はウナギだ」「私はステーキよ」「俺はビールだ」。皆普通に言っている。上で述べたようなパブロフの犬にはこんな簡単な文がわからないから「君はウナギか、じゃあ出身地は浜名湖なのか」とか聞いてきかねない。ここの「僕、私、俺」は主格ではない。無理やり格を考えろと言われたらまあ「与格」とかの解釈もできないことはないが、これも久野暲の文と同じく、トピックは文の格構造の要素ではないと見たほうがいいだろう。(What) I (want to eat), is eel という省略文だ。このタイプの文は日本語にはゴロゴロあって、
春はあけぼの
(In) spring (it is) the dawn (that is most beautiful).
チョコレートは明治
(The best) chocolate is (made by) Meiji.
括弧の中は「聞き手の解釈」である。言い換えると「あとから付け加えられた部分」であって、もともと文の一部であったものが文構造内のノードをよじ登ってトピック・ポジションまで出てきたという生成文法系の人がやる解釈とは実は方向が逆なのではないだろうか。文の構成要素とは関係なく最初から与えられたトピックを受け取った聞き手が文の中を探し回り、該当する要素があればそれをトピックと解釈する、特に該当する要素がなければないで文全体の記述内容の意味となんとか結びつける。私はそれがトピックだと思っている。
ここまでで普通の印欧語話者は十分キツイと思うが、さらにトピックばかりでなくコピュラ文のPrädikatsnomen の方も基本的に格に中立と強調しておかないと、
私は学生がです
山田さんは今アメリカにです。
試験は12月15日にです。
と述部にウザい格マーカーをつける羽目になる。特に二番目の文は「山田さんは今アメリカです」正しく言われると理解できない人もいる。この文が Mr. Yamada is now (in the) US.と、述部の格(処格)が表現されない構造であることが心にしみ込んでいないからだ。アメリカならまだいいが、これが
山田さんは今福島です。
になると山田さんは今福島という名前になっているのかと勘違いしかねない。
なお上で「基本的には」と書いたのは一部の斜格が強調表現として Prädikatsnomen に現れ得るからだが、
コンサートはハイデルベルクでですよ。
東京に行ったのは飛行機でです。
試験は12月15日に東京でです。
などの文では、最初の文は最後に助詞の「よ」をつけたことでもわかるように、「他の町ではなくてハイデルベルク」「念を押しておきたいがハイデルベルク」という強調表現、二番目の文は名詞化の助詞「の」があるやはり強調表現、最後は Prädikatsnomen に異なった二つの格が現れるのでそれをはっきりさせるためで、安易な言い方で申し訳ないがいわゆる有標表現ではないだろうか。