私の住んでいる町はホッケンハイムのすぐ近くである。そう、あのジム・クラークが亡くなったサーキットだ。そもそも私がこの町に来たのもここがホッケンハイムから近かったのも一因なのだが、もう30年近く前こちらに来てすぐ、まだロクにドイツ語もしゃべれず右も左もわからないのにさっそく電車に乗ってホッケンハイムのサーキット見物に出かけた。あの頃は勝手に中に入って散歩ができたが、今はどうなっているのだろう。当時はまだ最寄の駅がちょっとボロかったが、何年か後に電車で通り過ぎたらきれいに改造されていた。
 『38.トム・プライスの死』でも書いたように実は私は1970年代のF1を結構覚えているのだが、世界チャンピオンにもなったJ・ハントとしばらくの間いっしょにマクラレンM23・M26に乗っていたヨッヘン・マスという選手がこの町の出身と聞いていた。一度M大学の学食でさっそくそんな話を隣の人にしたら、「うん、皆マスがここの出身だって言うけど、本当はここの近くのバート・デュルクハイムって小さな町の出なんだよね。まあ、本拠地ここだったみたいだし、住んでたのはこっちだから「M市出身」であながち間違いでもないけどさ」といきなりツーカー話が通じてしまった。日本では「ヨッヘン・マスって誰ですか?」と聞き返されるのがオチだったから、ああ、ドイツに来たんだなあ、としみじみ思ったものだ。

 さて、ジム・クラークといえばロータスである。私よりちょっと年上の方々には、ロータスというと真っ先に「モスグリーン」と連想する人も多いだろうが、大抵の人はM・アンドレッティが運転していた漆黒のJPSロータスを思い浮かべると思う(すでにこれが古いって)。が、77年の富士スピードウェイに限ってロータスが一台真っ赤だったことをご存知だろうか?このときだけロータスに一台だけスポンサーがついてJPS LotusでなくImperial special Lotusだったのだ。ドライバーはグンナー・ニルソンだった。ロニー・ピーターソンもそんな感じだったが、いかにもスウェーデンらしく顔は少し怖かったがおとなしい人だった。
 私は76年、77年とももちろん富士スピードウェイにF1を見に行ったが、雨もよいの76年はメインスタンド付近、秋晴れの美しい日となった77年は最終コーナーのところに陣取った。そこでマシンが次々にやってくるのを見ていたわけだが、全く見慣れないマシンをみつけて驚いた。一周目には何だかわからなかったが、2周めにまた走ってきたときやっとロータスだと見分けがついたのである。でもその赤いロータスに驚いたのは私だけではない。周りで観戦していた人も結構ザワザワしだして、「おい、あれはロータスだぜ!なんと!ロータスが赤いぜ!」と皆口々に興奮して騒いていたから。

ああ懐かしい。これがニルソンの「赤いロータス」。エンジンはフォードV型8気筒であった。
grandprixinsider.comから

1977-nilsson-imperial-lotus-78

 あの頃は本当に牧歌的ないい時代で、エンジンはフォードV8、マトラV12、フェラーリ水平対抗12くらいしかなく、目をつぶって音聞いただけでエンジンがわかったものだ。腹の底にドーンと響いて来るような低音がフォード、頭のてっぺんにキンキン来るような甲高い音がマトラ12、その中間がフェラーリだった。たしかアルファロメオも走っていたはずなのだが、これは全く音が記憶にない。
 マリオ・アンドレッテイ、ジェームス・ハント、パトリック・デパイエやピーターソンは実物に会ったし(ハントは新宿で見かけた)、ジョディ・シェクターには握手してもらった。6輪タイレルP34とかにもベタベタこの手で触ってやった。あまり自慢にもならないが。
 1980年代になると富士スピードウェイにF1が来なくなったのとレースが妙にショー化してきたので興味がなくなった。だからアラン・プロストとかいわれるともう時代が新しすぎてついていけない。私が「フランス人レーサー」と聞いて真っ先に思い浮かぶのはパトリック・デパイエ、ジャン・ピエール・ジャリエ、ジャック・ラフィー、あとフランソア・セヴェールである。当時セナはまだカートに乗っていたし、ロスベルクは父親のほうがF2で走っていた。本当に私は年寄りである。

 「マシンの色変わり」ということでもう一つ思い出すのが、1977年に南アフリカで事故死したトム・プライス選手の乗っていたシャドウというマシンだ。このチームはドン・ニコルズという人がやっていたが、この「シャドウ」というネーミングはどうやってつけたのか、インタビュー記事を読んだことがある。
 このチームの創立は72年、つまりマシンが葉巻型から楔形に移行した頃。マシンはまず空気抵抗をできるだけ抑えなければいけないが、同時に上に舞い上がらないように地面に密着していなければいけないという基本コンセプトが常識になった頃だ。そのときニコルズは考えたそうだ。「空気抵抗がゼロでしかも地面にぴったりつく理想のマシンはつまり「影」ということだ」。それでその理想のマシンを目指していこう、という意気込みで「シャドウ」というチーム名にしたのだと。
 フェラーリとかマクラレンとかチームに自分の名前をつけて自己顕示する輩と比べてすごく哲学的で奥ゆかしいとは思った。ただ残念なことにこのチームはネーミングだけでなく、チームそのものも奥ゆかしい、つまり今ひとつ弱くてとてもフェラーリ・マクラレンとコンストラクターズ・ポイントを争えるようなレベルではなかったから(ごめんね)、私としてはプライスが早いとここんな所やめてロータスかそれこそマクラレンに移ってくれないかと思っていた。本当にプライスがロータスに移りそうだという噂があったそうだ。
 そのシャドウは前年あたりまで黒かったが1977年には新しいスポンサーがついていきなり白くなった。上で名を挙げたジャン・ピエール・ジャリエというのはプライスと黒いシャドウに乗っていたチームメイトである。その白いマシンで事故死したプライスの後釜に来たA.ジョーンズが77年のオーストリアGPで優勝したとき、私は「この勝利は本来プライスに与えられてるはずだったのに」と思った。
 ところで、このジョーンズはその後世界チャンピオンになった人だが、一見「近所の商店街の金物屋のおやじ」、あるいは「麦藁帽子を被り熊手持って干草をつついてる農家のおじさん」という感じで、誰がどう見てもレーシング・ドライバー、いわんや世界チャンピオンになったようには見えない。ここまでレーシング・スーツの似合わない人も珍しいのではないかと思うのだが、そういえば、ジャック・ブラバムもそんな感じだった。オーストラリア人ってこういう「気さくで気のいいおじさん」風の人が多いのだろうか。

トム・プライスの黒いシャドウDN8(only-carz.comより)
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これもおなじくプライス(ウィキペディアから)

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A.ジョーンズの白いアンブロシオ・シャドウ。オーストリアGPの時のもの。シャドウはこの勝利が唯一である。
(gettimages.comより)

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プライスの亡くなった1977年南アフリカGPの次のレースでチームメイトのレンツォ・ツォルツィ(またはゾルジ)が運転したアンブロシオ・シャドウ。プライスは一レースだけしかこのアンブロシオに乗っていないためか写真が見つからなかった。(racer.comから)
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