前回の『閑話休題⑬』のパートⅡです。
下の記事も2021年5月30日の南ドイツ新聞に載っていたものです

ヘレロとナマにたいするジェノサイドから117年

文:ベルント・デリース
原文はこちら。すべてタダで読めます。

 ヘレロが全て射殺されたり砂漠に追いやられ、そこで渇きのため悲惨な死に方をしたあと、兵士には詩的創作の時間があった。「死にゆく者のあえぎの声と怒りの叫びが果てしない土地の崇高な静けさの中に響き渡った」と兵士の一人は日記に記している。何万人ものヘレロが砂漠で死んでいった。死体の多くは何メートルも深い穴で見つかった。人々は水を得ようとして生き埋めになったのだ。ベルリンの参謀は1904年のウォーターベルクの戦いのあと満足げにこう記している:「ドイツが武力をもって開始したことを水のないオマヘケ砂漠が終わらせてくれるだろう。つまりヘレロ民族の絶滅である。」(人食いアヒルの子注;何の因果か『113.ドイツ帝国の犯罪』で出した引用文と完全に重なっている。ひょっとしてこのデリース氏は私の記事を読んだのか?!まさか)。
 これが近代で最初のジェノサイドとなったが、その「近代」ももう100年以上前のことである。ドイツが殺人行為の謝罪補償を言い出すまでにそんなにも長い時間がかかったのだ。連邦大統領フランク・ヴァルター・シュタインマイヤーがナミビアの議会の前で謝罪し、今後数十年間に11億ユーロを社会プロジェクトのために拠出することになった。
 結局ドイツはここまで謝罪が遅くなることも謝罪せねばなるまい。これほど時間がかかったのは、ホロコーストの陰で他の犯罪行為がかすんでしまったここもあるだろう。また少なからぬ人がずっと「ドイツの植民地主義者はアフリカでは確かに誤りを犯し残酷なこともしたかもしれないが、フランス人やイギリス人、ベルギー人に比べたらずっとマシだ」という見解だった。未開民族に文明を持ち込んでやったじゃないか;汽車も船もボーリングのレーンも。
 こういう自称「親切な」植民地支配国という像が生じたのは自国の過去と徹底的に向き合わなかったからである。プロイセンが今のガーナに要塞を作らせ、そこから奴隷を船に積み込んだことを誰が知っているだろう。植民地時代の歴史処理ということを連邦政府は連立契約に織り込んだがそうこうするうちにも大フリーデンスブルク要塞は荒廃していく。
 ナミビアでのジェノサイドは人道上、道徳上の問題ではなく常に法的な問題として処理されてきた。苦しんでいる他の民族がいるのだからとにかく判例を作らないようにと。しかしそれと同時に他国を指さし、アルメニア人に対するトルコの行為をジェノサイドといって排斥する政治だった。
 さて、ナミビアのヘレロとナマに対する和解提案であるが、それが成功するかどうかについてはまだ何も言えない。交渉の責任者に言わせればドイツはぎりぎりのところまで、いやその限界以上の譲歩をした。ヘレロ側の代表にはその申し出を受け入れた者もいるが、それでは足りないという人たちもいる。もっと高額を要求する声、自分たちに直接賠償金を払えという声も少なくない。ドイツが直接ヘレロと交渉せずにナミビア政府を通したことに対する批判もある。べルリン政府の言に寄れば、代表者とは全て話をしている、ナミビア側に誰と誰を代表団に入れろと指図することはできない、とのことだ。
 とにかく傷害を謝罪しないまま何十年も過ぎたわけで、署名で一件落着というわけにはいかない。これは和解の始まりであって、終わりではないのだ。

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