「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。

下の記事は2021年5月30日の南ドイツ新聞印刷版とネット版に同時にのったものです。当ブログの記事『113.ドイツ帝国の犯罪』『休題閑話⑫ 煙は立つが火が出ない』を書いた時点では「まだ」でしたが、このたびドイツ連邦政府が当時のドイツ領南西アフリカ、現ナミビアの現地人に対する虐殺行為を正式にジェノサイドと認定しました。ナミビアに今後30年間にわたって11億ユーロの支援金を払っていくことになりました。

新聞には一面全部使っていくつも関係記事が掲載されましたが、これはそのうちの一つです。

手っ取り早く血を流して解決
ドイツの植民地の歴史に対する態度が非常に変化した理由


文:クルト・キスター
原文はこちら。残念ながら全部見るのは有料ですがクリックしただけでお金を取られたりしませんので安心して覗いてください

 比較的短時間ではあったが血にまみれたドイツの植民地政策の歴史は、連邦共和国で(時々そういう声も聞こえてくるが)「無かったことにされていた」わけではない。ただドイツがナチスの時代に行った世紀の大犯罪があるので背景に追いやられてはいた。議論そのものは止んではいなかったといえよう。もっともその議論も長い間第二次世界大戦時のドイツの民族撲滅政策との関連で行われ、歴史学者とマスコミとの論争も、ヘレロやナマに対するジェノサイドやマジ・マジ反乱がある意味ユダヤ人へのジェノサイドやポーランド人やロシア人の大量殺人への発端だったのか否かという点に終始した。また他方では西ドイツでもいくつかの界隈で厳格ではあるが公正な「ドイツ領南西アフリカ」の植民者、あるいは1918年までは自称無敵であった「ドイツ領東アフリカ」のレトフ・フォアベック将軍配下の軍隊という神話の余韻が長く残っていた。
 ひょっとしたらさる記念碑がたどった運命が植民地時代の遺産がどう処理されていったかを見るいいアネクドート、いい見本になるかもしれない:1909年に当時の植民地ドイツ領東アフリカの首都ダレスサラームに帝国弁務官ヘルマン・フォン・ヴィスマンの像が建てられた。1889年に今日のタンザニアで起こった蜂起を残酷に鎮圧した人である。第一次世界大戦後東アフリカの新しい委任統治者となったイギリス人が像を戦利品としてロンドンに持って行った。1921年にドイツに返還され、1922年にハンブルクの大学の近くに設置された。ヴィスマン像はそこで20年間、植民地政策を擁護しその復活を求めて(いわゆる植民地歴史修正主義)植民地政策を祝う催しの中心に鎮座していた。
 1945年4月の爆撃の際ヴィスマンは台座から転げ落ちたが、1949年その栄光ある帝国弁務官は再びそこに据えられた。50年代は西ドイツで現在の問題の克服のほうが近過去・最近過去より重要な課題と見なされていたため、ヴィスマンも全く問題なくそのまま高座に居残った。しかし1961年からその像に対する抗議運動が特に学生の間で執拗に展開されるようになる。1967年と1968年の2回記念像は引きずり降ろされ、その2回目以降はもう戻されずにベルゲドルフの地下に置かれ、おりおり展示もされた-ただし不遜と犯罪のシンボルとしてである。
 ドイツの植民地支配史の捉え方は目まぐるしく変化した。それには連邦共和国での「沈黙の」50年代以降の社会変化が一役買っている。68年の出来事もその一環だ。アフリカやアジアで植民地が次々に独立していったこともあって注視せざるを得なくなったのだ。
 西ドイツの左党の一部は60年代70年代にいわゆる第三世界での種々の解放活動に携わってきた:それは一方では反植民地主義が動機になっているが、他方では東西対抗とも大きな関連性がある。冷戦時にアフリカ・アジアの若い国々が再び旧宗主国に政治利用されたのである。全体的に言ってドイツ民主共和国では連邦共和国より植民地主義の研究がはっきりしていたが、当地では植民地主義が資本主義後期の帝国主義の一環として理解されていたためである。
 80年代の連邦共和国は再び燃え上って力を持ってきた民族社会主義との対決、特にホロコースト問題との対決に明け暮れた。植民地についての論争は消えはしなかったが、ナチスの犯罪の原因追及の一部としてなされるようになる。またドイツの植民地主義というテーマに対する姿勢、もしくはそれに対する関心度は政治上の立場の問題でもあった:左党は関心が強い。保守と右翼は第一次大戦以前のドイツの植民地の歴史はまさに「歴史(過去のこと)」、つまりとっくに過ぎたこととみなしている。
 冷戦後は連邦共和国で植民地史の捉え方に新たな変化が見られた。それは一つには「文化闘争」あるいは「グローバル化」などの見出しでまとめらる事象と関連している;もう一つには2001年9月11日のテロ以降、またそのあとアラブの春が広範囲で挫折してからは現在というものをよりよく理解するために事件を歴史の流れのなかで捉えろという、事象の歴史的関連性が関心の中心になってきたためだ。かつての植民地大国、イギリスやフランス、またはアメリカ合衆国やブラジルのような、かつて奴隷がいた国々のこんにちの社会機構は植民地主義と密接に結びついている。(大雑把に言って)南から北へという移民の流れの大きな部分が植民地化および脱植民地化の結果から生じたのだ。
 いずれにせよ自国の植民地政策への関心の大きさはこんにちのドイツは戦後最大といっていい。120年前のドイツ人の入植者や兵士の態度・行動は特に現在のナミビアとタンザニアでレイシズムや正義という大きなテーマの一環となっている。ソーシャルメディアの恩恵を受けてそれらはほとんどグローバルレベルで強い影響力があり、植民地主義の捉え方を根本から変えてしまったらしい。そのことは連邦政府が今ヘレロとナマの代表者の要求を飲んだことをみてもわかる。
 すでに10年前フォン・トロータ将軍とその自衛軍の犠牲になった者の子孫は基本的には現在のと同じ内容の訴えを起こしていた。しかしこんにちでは植民地時代の犯罪とその犯罪の現在への意味の捉え方が違っている。ドイツの外相がジェノサイドを認めたばかりでなく、民俗学博物館をめぐる論争がおき、遺物が返還され、ストリートの名前が変更されたことなどにもその変化は見てとれる。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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