昔ソ連という国があったころ、こういうジョークを聞いたことがある。

フルシチョフ(なんて知っている人はもう少数派だろうなあ…)が中国を訪問して党大会か何かで演説を行った。まず氏が30分ほどロシア語で演説した後、通訳氏が立ってきてそれを中国語に言い換えた。たった一言。
「チン」(とフルシチョフには聞こえたのである)
割れるような拍手。フルシチョフ氏はロシア語だと30分かかる内容が中国語では一言でいい表せることに驚愕しながらも拍手に気をよくして続きの演説を行った。1時間ほどかかった。通訳氏がまた出てきて訳す。また一言。
「チン・ワン」
怒涛のような拍手。驚きを隠してフルシチョフはさらに二時間ほど話し続け、演説を締めくくった。通訳氏。
「チン・ワン・ラ」
会場が崩れるような拍手。フルシチョフは気をよくしながらも中国語が伝達できる情報量に驚いて、後のパーティー会場でそのことを別の中国人に告げた。するとその中国人が教えてくれた。
「いや、最初の「チン」は「たわごとだ」、次の「チン・ワン」は「ひどいたわごとだ」、最後の「チン・ワン・ラ」は「ひどいたわごとが終わった」と言ったんでさぁ」

私の聞いたのは「フルシチョフが」というバージョンだったが、これのスターリン・バージョンというのは成り立たないと思う。怖すぎるからだ。「フルシチョフが」なら笑えるが「スターリンが」だとその場で通訳から聴衆から大虐殺されたというオチになりそうでそれこそオチオチ聞いていられない。でもさらに考えてみるとたわごとだと言われても割れるような拍手をしなければならない、いや自動的に割れるような拍手をしてしまう聴衆の態度のほうもそれはそれでちょっと怖い。
 
 これはジョークだから本当に「チン」が30分ぶんのロシア語の情報量に匹敵したわけではないが、それほど極端でなくてもある言語では延々と単語を連ねなければ表現できない意味が別の言語では一言で済んでしまう、ということはよくある。『149.ピアスのない鼻』でも出したネズ・パース語の例だが、ʔiná:tapalayksaqa という一つの単語が日本語では「私はしゃべっているうちに自分の話していることが正しいのかどうかわからなくなってしまった」という意味になる。すごい情報量だが、いわゆる包括タイプの言語には似た例が多くていちいち感心する。包括語というより包括語的な言語といったほうがいいだろうがアイヌ語の動詞も凄い。金田一京助氏と知里真志保氏は次のような例を挙げている。
 まず shi-ram-sui-pa という単語だが、shi- は「自身」、ram- は「心」、sui-pa は「何回となく揺り動かす」という意味の形態素で、語全体の意味は「とつおいつ思いめぐらす」。これを起点としてさらに形態素を追加することができて、例えば yai-(「自身」)と追加して yai-ko-shi-ram-sui-pa となると「自らとつおいつ思いめぐらす」。ko- というのは日本語の助詞、英語の前置詞のような働きをする形態素(金田一氏は指相接頭辞と名付けている)で、「~とともに」「~をもって」「~によって」「~について」といったような意味で、それがここでは「自身」にかかって yai-ko- となり、「自分自身に対して→自ら」。ここでは「自身」も動詞内にあるからまだわかりやすいが、「~について」の内容が動詞の外にある場合でもこの ko- 自体は動詞から出ていかない。日本語の格助詞や英語・ドイツ語の前置詞と大きく違う点だ。たとえば「そのことについてあなたが私に嘘をいう」は neampe  e-i-ko-sunke で、 neampe が「そのこと」である。しかし「~について」のほうはしっかり動詞の中に組み込まれている(太字)。また目的語が動詞の前に来ていることがわかる。それにしてもこれでPPなどという構造を設定できるのか心配だが、まあ余計なお世話だろうから「とつおいつ」の例に戻ると、「私がいろいろなことについてとつおいつ思いめぐらす」も usa-orushpe  a-e-yai-ko-shi-ram-sui-pa と2語になって usa-orushpe が「いろいろなこと」である。ただ  ko- がすでに yai- でふさがっているためか、「~について」を表す別の指相接頭辞 e- がさらに動詞に抱合されて(太字下線)usa-orushpe を受けている。またここで動詞の語頭に立つ形態素 a- は主語が一人称、つまり「私」であることを示している。上の「嘘を言う」e-i-ko-sunke ではこの部分が e- となっているが(太字)、これは主語が二人称だという印である。次の i- は目的語(いわゆる対格でない間接目的語も含む)が一人称であるというマーカーだ(下線)。例えば a-e-kore は a- が主語が一人称、e- 目的語が二人称ということになるから、「私があなたに与える」、これが e-i-kore となると e- で「主語は二人称」、i- で「目的語が一人称」、つまり「あなたが私に与える」である。二人称は主語・目的語のマーキング時に位置を変えるだけで形そのものは変わらないが、一人称のほうは位置だけでなく形も変わっていることがわかる。3人称はゼロマーキングになるそうで、「私が彼に与える」は a-kore、「彼が私に与える」は i-kore。二人称が形の区別がないから「あなたが彼に与える」も「彼があなたに与える」も e-kore。念のため繰り返すが、これらはあくまで「動詞の活用」であって人称代名詞は他にちゃんと存在する。
 日本人がこういう動詞活用を見ると驚くが、ひょっとすると日本語の動詞形をドイツ語・英語の母語者から見るとこんな感じに見えるかもしれない。例えばドイツ語では種々の法や文のタイプの違いなどは本来独立単語の動詞を助動詞としてつけたり語順を変えたりして表すが、日本語だと自立性の極端に低い助動詞だろ助詞を動詞の後ろにベチャベチャくっつけるから動詞そのものが膨れ上がっているように見えるだろう。実際外国人向けの日本語の教科書などは助詞や助動詞をひっくるめて「動詞形」として説明されることが多い。

Er möchte arbeiten. He wants to work.
(彼は)働きたい。
Er möchte nicht arbeiten. He does not want to work.
(彼は)働きたくない。
Er wollte arbeiten. He wanted to work.
(彼は)働きたかった。
Er wollte nicht arbeiten. He didʼnt want to work.
(彼は)働きたくなかった。
Er muss arbeiten. He must work.
(彼は)働かなければいけない。
Er braucht nicht zu arbeiten. He does not need to work.
(彼は)働かなくてもいい。
Er hätte gearbeitet. He would have worked.
(彼は)働いただろう。
Er wird arbeiten. Heʼll work.
(彼は)働くだろう。
Arbeitet er? Does he work?
(彼は)働きますか。
Wollte er nicht arbeiten? Didnʼt he want to work?
(彼は)働きたくなかったですか。
Er arbeitet doch! But Heʼs working!
(彼は)働いてますよ!
Er arbeitet, oder?! He is working, isnʼt he?
(彼は)働いてるんでしょ?

訳も例文自体もちょっと不自然だが、英語やドイツ語でキッチリ複数語になっているところが日本語だと(事実上)一単語、つまり動詞の「語形変化」で表されているのはわかる。向こうから見ると動詞が妖怪変化しているように見えるのではないだろうか。

 ここのドイツ語(や英語)のように当該単語の語形変化でなく、他の単語を補助につけて法や時制、シンタクス構造などを表す方法を analytischer Satzbau 、分析的文構造という。文という部分(Satz )を太字にしたのはこの analytischer という言葉が言語類型論に使われて analytischer Sprachbau 「分析的言語」という言い回しが存在するのでそれと区別するためだ。分析的言語というのはいわゆる孤立語のことと考えていい。ドイツ語始め印欧諸語は逆である。分析的文構造の逆、法そのほかを語形変化自体で表すやりかたは synthetischer Satzbau「統合的文構造」である。印欧語は本来このタイプが主流で(だから印欧語は「統合的言語」にタイプ分けされているのだ)動詞ばかりでなく、名詞の格、シンタクス上の機能も統合的に表していたが、時代が下るにつれて名詞や動詞の語尾が喪失していき当該単語のみではそれらが表現できなくなってきたのでそれを補うために別単語を持ち出してきたのである。例えばドイツ語は名詞自体ではもう格をマークすることができず、冠詞などというものをつけるようになった。今でも名詞だけでやっていける正統派のロシア語などと比べるとある意味腑抜けた言語である。
Tabelle-161
さらにドイツ語は具格表現ではそのフヌケ冠詞をつけてもまだ足りず、さらに前置詞まで持ち出して来なければならない。印欧語の風上にも置けない言語だ。しかし残念ながらそのロシア語も動詞は法や時制を表すのに分析的なやり方を取るばかりか、分詞を除いた動詞定形の変化形そのものの数が事実上過去、非過去(不完了体動詞は現在形、完了体動詞は未来形と呼ばれるが、この二つは同形である)、命令の3つだけになってしまった。同じスラブ語でもクロアチア語は直説法現在、非完了過去、アオリスト、命令をなどをまだ動詞変化パラダイムとして保持しているし、未来形の一つは助動詞をまるで膠着語のように動詞の後ろにつけるのでまるで語形変化のように見える:glȅdaću(一人称単数)、glȅdaćeš(2人称単数)、glȅdaće(3人称単数)、glȅdaćemo(1人称複数)、glȅdaćete(2人称複数)、glȅdaće(3人称複数)。クロアチア語から見たらロシア語が印欧語の風上に置いてもらえなくなるかもしれない。
 ラテン語もこの動詞の変化パラダイムをよく保持しているが、さらにさすがその子孫だけあって現在のロマンス諸語は(名詞変化の方はスカスカになっているくせに)動詞の活用形が複雑だ。例えばスペイン語は統合的な動詞変化形が8つある。上で述べたようにロシア語には3つ(例えば不定形взять(「取る」)、直説法非過去 возьмёт、過去 взял、命令 возьми、どれも3人称単数、さらに過去形は男性形)、ドイツ語は直説法現在、過去形、接続法I式、接続法II式、命令の5つしかない(例えば不定形 sterben(「死ぬ」)、直説法現在 stirbt、過去 starb、接続法I式 sterbe、接続法II式 stürbe、命令stirb、3人称単数)。比べてスペイン語は不定形 amar(「愛する」)、直説法現在 ama、直説法線過去 amaba、直説法点過去 amó、直説法未来 amará、直接法過去未来 amaría、接続法現在 ame、接続法過去 amara/amase、命令 ame の8形。もちろんこの他に種々の助動詞を付加して作る分析的パラダイムがあるが、それがまた8つ、分詞が現在と過去の2つ(これはドイツ語やロシア語と同じだ)。面白いことに英語のような進行形があり、作り方もコピュラ estar + 現在分詞で、構造的に英語と並行する。いや英語がロマンス語と並行しているといった方がいいかもしれない。ドイツ語では現在進行形は動詞の単なる現在形、ロシア語も不完了体動詞の現在形で作る。
 もっとも形は並行しているが、その使用範囲はスペイン語と英語では少し違うようで、例えば『続・荒野の用心棒』の主題曲の歌詞

Django, after the shower the sun will be shining.

がスペイン語では単なる未来形で訳されて

Después de la tormenta, el sol brillerá.

と一語になっているのを見かけた。原誠氏によると「スペイン語は英語ほどには進行形を使いたがらず、「彼らは到着しつつある」と言いたい場合でも、ふつうなら llegan でよく、無理に están llegando という現在進行形を用いる必要はない」とのことで、これもそれで説明できそうだ。スペイン語の直説法現在・直説法未来形は英語よりも意味の担当領域が少し広いのだろう。

ロッキー・ロバーツの英語の歌にスペイン語の字幕がついた『続・荒野の用心棒』のオープニング


 スペイン語(やイタリア語、フランス語、ルーマニア語)のお母さんのラテン語も法や時制などを動詞の統合的活用で表現するのでこれをドイツ語に訳そうとすると動詞一単語では済まない。法や時制ばかりでなく、ラテン語は人称による形の違いも明確なので代名詞の主語が抜けてもいい。英語やドイツ語だといちいちウザい主語を補って訳さないといけない。『12.ミスター・ノーボディ』でも述べように『殺して祈れ』という映画のタイトルの原題は Requiescant というラテン語の動詞だが、これは requiesco という動詞の能動態接続法現在3人称複数形だ。requiescant in pace(安らかに眠りますように)というフレーズで墓碑に使われる動詞形で、希求法のニュアンスだ。その「接続法現在」はドイツ語では接続法I式に対応するが、requiesco にあたるドイツ語の動詞 ruhen では複数3人称で直説法と接続法I式がどちらも ruhen と同形になってしまっている上、接続法I式そのものが現在は間接話法を表すのが主機能で、接続法、ましてや希求法的意味合いはほとんど表現することができない。「ほとんど」と書いたのは「~万歳」という固定したフレーズで「生きる」leben の接続法I式を使うからである。例えば「レーニン万歳」は「レーニンが長生きしますように」で、lange lebe Lenin である。lebe というのが接続法I式の3人称単数形。この決まりきった言い回し以外では単なる動詞の接続法I式で希求は表せない。そこで分析的なやり方をとり、別の本来「好む」という意味の動詞 mögen を助動詞として持ってくる。この助動詞をまた接続法I式で使う。形の上では mögen も複数3人称では同形となるのだが、この動詞の接続法い式は希求表現ができる。それで3人称に対する命令、要求、希望を表現するのによく使われるのだ。3人称に対しては命令法がないからだ。またそこでさらに念のため接続法であるということを強調するため動詞を文の最初に持って来る。クエスチョンマークがつかないから疑問文と間違えられることはない。さらにまたこれが祈りのフレーズであることを強調するため in pace にあたる部分を付加する。こうやってラテン語では動詞一つで済んでいるのを訳して出来上がったタイトルが Mögen sie in Frieden ruh’n である。大変な手間だ。墓碑の requiescant in pace のほうはずばり命令形を使って Lass sie ruhen in Frieden(let them rest in peace)というドイツ語になり、「させる」 lassenが単数命令形になっているが、これは神への呼びかけを du で行うからである。

懐かしや、その昔日本で使っていたラテン語の教科書の動詞変化表。だいぶ黄ばんでいる…
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