前にも少し名前を出したソ連の作家アンドレイ・プラトーノフだが、私は最初岩波文庫の翻訳で短編をいくつか読んだ。中央アジアを舞台にした作品だったが、特に変わったストーリーでもないのにちょっとゾッとしたのを覚えている。さらに訳の日本語がおかしい気がした。言葉がおかしいというより、別宮氏あたりから悪訳と言われそうな文章で例えば「普通の人ならこういう時こういう言葉は使わないだろ」という不協和音がそこここに感じられてどうもすんなりと読めなかったのだ。しかし訳したのは名の通った一流の訳者だったので、どうも腑に落ちなかった。
 その後ずっと経ってからロシア語ネイティブの人となぜかプラトーノフの話になった時、そのネイティブ氏が「プラトーノフの文章は全然読めない。あのロシア語はおかしい。とにかく文章に入っていけない。とっつくことができない」と言い出した。そこでようやくプラトーノフはロシア語自体が「普通じゃない」ことを知ったのである。「普通の人ならこういう時こういう言葉は使わない」のは日本語訳のせいではなかった。訳者はそういう原語に合わせてわざととっつきにくい日本語にしたのかもしれない。

 ドイツではすでに1990年に大きなプラトーノフ全集が出ているのだが、その後すぐ(と言っていい)1999年にレクラム文庫からいくつかの短編の訳が出た。日本は外国文学の古典の訳が同時に数種出たりするが、こちらは一度訳が出たら容易には新訳が出ない。訳文が古くなってそれ自体の現代語訳がいるようになったとか、重訳していたのを原語からの直訳にするとか、新たな原稿が見つかったりして原語自体の編集が必要になったとか何か大きな理由がいる。1990年に訳が出たのに1999年にはもう別訳というのは異例といっていい。当時スラブ語学の教授がこれをいぶかって「前の訳がよほど悪かったのかな」と首をかしげていた。

1990年版のドイツ語訳プラトーノフ全集の一巻。
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そのあと程なくしてレクラム文庫から短編がいくつか改めて翻訳されて出版された。
platonov-reklam

 レクラム版は短編数編のみの翻訳だったが、2016年になってプラトーノフの代表作Котлован『土台穴』(ドイツ語でDie Baugrube)が再翻訳された。Котлованの訳者はガブリエレ・ロイポルトGabriele Leupoldという人だが、その翻訳が非常に高い評価を受け、当時の全国紙の文芸欄に大きく取り上げられた。ロシア語の文学が文芸欄に取り上げられること自体珍しいのにその上トルストイやパステルナーク、ナボコフなどと比べると一般の知名度がはるかに低いプラトーノフが文芸欄に載ったので私は驚いた。

Leupold訳の新しいDie Baugrube。2019年にペーパーバック版が出された。これはペーパーバック版のほうの表紙。
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 その訳業が高く評価されたのは「翻訳不可能なものを翻訳した」からである。プラトーノフのロシア語は翻訳不能とみなされていたのだ。もちろん大体の内容やストーリーを写し取ることはできるだろう。だからこそ今までにも翻訳そのものはあった。だがその文体の「普通じゃなさ」、ネイティブにさえあんなロシア語は読めないと言われた特殊な言葉使い、語の周辺にうごめく連想体系を外国語に再現なんてできるわけないと思われていた。もちろんあらゆる翻訳はあくまで近似値に過ぎないから本当の意味での翻訳というのはそもそも不可能だが、その近似値にさえ行きつけない作品があるということだ。
 プラトーノフの長編小説がそこまで近づきにくかったのには大きい理由が二つある。一つは当時のソ連社会の特殊性と閉鎖性。ソルジェニーツインのように社会や政府から具体的に恐ろしい制裁を受けたものの記録からは外部の者にもその特殊性(または恐ろしさ)が伝わる。しかしそういうはっきりした事象には現れない、社会全体に蔓延していた雰囲気は代表する事象がないだけに外の者にはわからない。秘密警察が怖いなどという具体的で理由がはっきりしている恐怖感でない、ただ暮らしているだけで感じる形のない不安は外の者には伝わりにくい。
 つぎに上の事とも関連するが新しい社会をまっさらな状態から作り上げるのを目標としたソ連の革命政府が行った言語革新のせいで、ロシア語はそれまで培ってきた伝統から切り離され人工的で不自然な言い回しや言葉が生まれた。いわば言語の孤児化、言語破壊である。プラトーノフはその破壊され孤児となった言語を用いた。だからロシア語のネイティブにさえも入っていけなかったのだ、それまでの伝統から引き離されたのは単語そのものばかりではない、語の背後に広がっている連想体系まで変えられた。社会の閉鎖性が言語にまで持ち越されたのである。
 さらにプラトーノフは詩も書いていたくらいだから言語感覚が非常に鋭利で、暗喩などの言語戦術、文学戦術を駆使している。例えば『31.言葉の壁』で言及した『名も知らぬ花』では、花というロシア語が男性名詞であることが大きな意味を持ってくる。例に出したドイツ語訳は上で述べた1990年版の全集に入っていたものだが、何も考えずにこれを女性名詞にしている。もっとも言語の芸術である文学作品とは多かれ少なかれそういうもので、当該社会や歴史のことが広く知られ、普通に自然言語で書いてあっても文学作品(詩だけではなく散文もそうだ)の理解、ましてや他言語への移植は難しいが、その上さらにその社会を実際に経験している者にしか理解できないような言語体系で微妙な言語戦術を駆使されたらもうお手上げだ。そのお手上げを翻訳したロイポルト氏が高い評価も受けるわけだ。
 私は氏のDie Baugrubeを読んでみたが、噛み砕きにくいドイツ語で読むのに骨が折れる。「それはあんたのドイツ語能力がないからだろ」と言われそうなので念のためこれを読んだドイツ語ネイティブに聞いてみたが、やはり「二度読んでいちいち考えないと文の意味が分からない非常に疲れるドイツ語」とのことだった。読むと疲れるというのはロシア語のネイティブの感想と同じで、その意味では氏のドイツ語訳は成功しているのだ。
 しかし当時の社会から生まれた特殊な言葉の意味、またロシア語そのものから来る連想については翻訳そのものでは移しきれず多くの注釈が付加されている。これも別宮氏だったと思うが(それとも河野三郎氏だったかもしれない)注釈に頼る翻訳は悪訳、文学の翻訳というものは本来妙な説明なしで原語を移植する、ある意味文化の移植であるべきだと言っていた。注釈があると文章の流れが著しく阻害されるからでもある。しかしそれには限界があるようだ。Котлованは言葉だけによる翻訳が可能な限界を超えているのではないだろうか。それに面白いことにこの小説では注釈が全然「流れを著しく阻害」していない。本テキストそのものが十分とっつきにくいので、途中で注釈を読みながら進んでもあまりスピードに差がないのだ。まあとにかく読みにくい文章だった。

 Котлованで描かれているのは社会主義建設期、よそ眼にはまだ新社会への希望をもっていたはずの時期に建物の建設に携わっている労働者たちである。労働者たちは後続の世代、自分たちの子供たちの幸福のために自分を犠牲にして働いている。階級の敵、今まで不公正の原因になっていた金持ち・搾取階級の人たちを抹殺するのも未来のためには仕方がない、そう思っている。
 しかしそれなのに彼らの心には何かぽっかりと穴が開いている。主人公の一人はどうしても「真実」が見つからず、その空しさを忘れるためか夢遊病者のようにただただ仕事に熱中している。建設を指揮する技師もうつ状態で死ぬことばかり考えている。
 そもそも「建設」というが、いったい何を、どういう建物を建てているのかはっきり描かれていないのだ。ただ皆でやたらと穴を掘り、時々近くの村へ行って集団化のために農民が今まで飼っていた家畜を押収する仕事を助けたりする。当時わずかながらも自分の財産であった牛馬が取り上げられて国家管理となった農家(零細農家もいた)は抗議のため、国に取り上げるくらいならと家畜を全部屠殺 したそうだ。そのためソ連国内に一時にどっと肉が出回って値段が暴落したりしたというが、そういう背景知識は注で詳しく説明してくれている。時は冬で、降り積もった真っ白い雪の上には家畜の死体に群がってきたハエが点々と黒いシミを作っている。壮絶な光景だ。
 そこに未来世代の代表として小さな少女が登場するが、この少女はまだ小さいのに二言目には「ブルジョアどもを皆殺しにしちゃおうよ」とかそういう言葉を吐く。少女は自分の母親が悲惨な死に方をするのを見とるのだが、その母のことも「ブルジョア」などと呼ぶなど、普通小さな子供が親の死に臨んでとる態度ではない。労働者たちはこの子供を非常に大切にして可愛がるが、この子に本当に幸せは訪れるのか、労働者たちの献身的な働きには何か意味があるのか、読むほうは考えざるを得ない。結局何もかもが大いなる「無」に向かって進んでいるだけではないのか。そういう予感が読者の背筋を冷たくするのである。少女は結局死んでしまうが、そのほうがこの子にとっては救いではなかったか。そう思わせるのだ。
 しかし無に向かっているのは社会主義社会だけの話なのか。結局人間の作る社会など全ていつかは崩壊し、無に帰するだけではないのか。
 似たような感じは上で述べた日本語翻訳で『ジャン』Джан、『粘土砂漠』Такырという中編を読んだときも抱いた。ストーリーそのものはいわばハッピーエンドなのにやたらと重苦しいのである。別に大悲劇が起こったりはしていないのになにかがズッシリと心にのしかかってくるのだ。

 さらにプラトーノフの文体がこの重苦しさに拍車をかける。ちょっとКотлованの冒頭部を見てみるとその消化の悪さがわかると思う。まず2016年のロイポルト氏のドイツ語訳。

Am dreißigsten Jahrestag seines persönlichen Lebens gab man Woschtchew die Abrechnung von der kleinen Maschinenfabrik, wo er die Mittel für seine Existenz beschaffte. Im Entlassungsdokument schrieb man ihm, er werde von der Produktion entfernt infolge der wachsenden Kraftschwäche in ihm und seiner Nachdenklichkeit im allgemeinen Tempo der Arbeit.

原文は以下のようになっている。

В день тридцатилетия личной жизни Вощеву дали расчет с небольшого механического завода, где он добывал средства для своего существования. В увольнительном документе ему написали, что он устраняется с производства вследствие роста слабосильности в нем и задумчивости среди общего темпа труда.

その個人的な人生の30回年めの日に、ヴォシチョフには今まで自分の存在手段を得ていた小さな機械工場から決算書が手渡された。その解職通知書にはこう書いてあった、ヴォシチョフは内面の出力虚弱性の増加および作業の共通テンポにおける瞑想癖のため生産活動から除外すると。

消化困難な文章が3言語も並ぶと壮観だ。翻訳というのは普通このような文章にならないよう噛み砕くべきなのだがプラトーノフではそれをしてはいけない。1990年のドイツ語訳もやはり消化困難文だが、「存在手段」die Mittel für seine Existenz が「生計」Unterhalt となるなど、上と比べるとややマイルドである。

Am Tag der dreißigsten Wiederkehr seines Eintritts ins persönliche Leben wurde Wostchew aus der kleinen Fabrik, wo er sich bislang seinen Unterhalt verdient  hatte, entlassen. Im Kündigungsschreiben hieß es, man müsse ihn aus der Produktion entfernen im Hinblick auf seine zunehmende Körperschwäche und wegen Grübelns inmitten des allgemeinen Arbeitstempos.

それにしても普通の小説なら

30歳の誕生日にヴォシチョフは今まで働いていた小さな機械工場から解雇通知を受け取った。作業の速度が遅いのと、皆が同じテンポで仕事をしているのに彼だけ考え事をしすぎる、というのが理由だった。

とでも書くところだ。ほかにもこの手の訳ワカメな文章がたくさんある。

 ロイポルト氏訳では言葉遊び、暗喩などはいくらか注で説明してくれているが、その注自体ある程度ロシア語の知識がないと理解できないのではないだろうか。例えばロシア語の硬音記号についてこんな会話がある。

– Авангард, актив, аллилуйщик, аванс, архилевый, антифашист! Твердый знак везде нужен, а архилевому не надо!
...
– Зачем они твердый знак пишут? – сказал Вощев.
...
– Потому что … и твердый знак нам полезней мягкого. Это мягкий нужно отменить, а твердый нам неизбежен: он делает жесткость и четкость формулировок. Всем понятно?

 - Avantgarde, aktiv, Akklamateuer, Avance, Agitator, Antifaschist! Das Härtezeichen muss überall stehen, nur bei Avance nicht!

- Warum schreiben sie das Härtezeichen? , - sagte Woschtschew.
...
- Weil … das Härtezeichen uns nützlicher ist als das weiche. Man sollte gerade das Weichheitszeichen abschaffen, das harte ist uns unausweichlich: es bringt Strenge und Klarheit der Formulierungen. Ist das allen verständlich?

「前衛、活動分子、拍手要員、前金、扇動要員、アンチファシスト! 至る所に硬音記号がいるぞ、 扇動要員 だけ必要ない!」

「どうして硬音記号を書くんだ?」 ヴォシチェフが言った。

「…硬音記号のほうが軟音記号より役に立つからだ。この軟音記号という奴は廃止すべきである。だが硬音記号は必要不可欠なのだ:硬音記号は書式に峻厳さと明瞭さをもたらすのである。全員わかったか?」

一行目からソ連の特殊用語の羅列である。аллилуйщик と архилевый (下線)は結構大きな辞書を見てもでていない。 Аванс(太字)は本来「前金」だが、この文脈で前金という言葉はおかしいからソ連では何か他の意味に転換されているのかもしれない。全員にはわからない。
 さて、この部分の主要テーマ(?)は硬音記号で、Leupold氏はこの部分に次のような注をつけているが、やっぱりわからない人がいるのではないだろうか。

Das Härtezeichen, das im Russischen vor allem im Wortauslaut nach Konsonanten stand und dessen ‚harte‘ Aussprache bezeichnete, wurde 1918 abgeschafft – anders als Weichheitszeichen, das eine ‚weiche‘ Aussprache des vorangehenden Konsonanten bewirkt.

ロシア語で、特に語末で子音の後に立ち、その「硬い」発音を示していた硬音記号は1918年に廃止された - 先行する子音を「柔らかい」発音にする軟音記号はこれと違って残った。

そこで人食いアヒルの子がしゃしゃり出るが(引っ込め!)、まず「硬い発音」と言われても一般の人には通じまい。これは口蓋化されていない子音ということで、ロシア語では例えば日本語の有声⇔無声、中国語や韓国語の帯気⇔無気(『126.Train to Busan』参照)の如く、口蓋化と非口蓋化という要素が弁別的に働く。そこで非口蓋化音には子音の後に硬音記号 ъ、口蓋化音は軟音記号 ь をつけて表していた。つまり「柔らかい発音」というのは口蓋化子音のこと。1918年以降は語末の非口蓋化音にいちいち硬音記号を付加するのをやめて、「何の記号もついていなければその子音は非口蓋音」と規則を統一し、口蓋化子音のほうにのみ軟音記号を付加することにしたのである。だからプーシキンの『エヴゲーニィ・オネーギン』はプーシキンの時代にはЕвгеній Онѣгинъと書いたが、今は硬音記号をつけなくていいからЕвгений Онегинとなる。ѣ や і の文字はロシア語では廃止された(後者はウクライナでは今でも使っている)。革命後しばらくたっていたはずなのにニコライ・トゥルベツコイがこの旧かな使いをしていたことは『134.トゥルベツコイの印欧語』で述べた。そこでは「言語連合」の複数生格形がязыковыхъ союзовъと記してある(現代の綴りではязыковых союзов)。これら語末の硬音記号を廃止して語末の子音が口蓋化音である場合にだけ特に軟音記号をつけることにしたのだ。それで「石」はкаменьと綴る。最後の音が口蓋化音。上のオネーギンと比べてみてほしい。それぞれ ъ と ь が語末についているが形が似ているから目が悪いとほとんど区別がつかない。どちらが一方をつけなくしたほうがよほど見やすい。
 ではなぜ硬軟両記号のどちらかを残すのに硬音でなく軟音のほうを残したか(ただし現在でも形態素の分かれ目を示すなど、特殊な場合には硬音記号は使われている)。これは硬軟どちらが有標で、どちらが無標なのかという問題だろう。日本語でも無標の無声子音はそのままで、対応する有標の有声子音のほうだけ濁点をつける。「かきくけこ」が「がきぐげご」になるのだ。これと同じメカニズムで、ロシアでは口蓋化音が有標だから特に軟音記号をつける。これが自然だ。硬音記号のほうを残して有標の軟音記号を廃止しろというのは自然に逆らい、ネイティブの言語感覚からもトゥルベツコイの音韻論からも正反対の方向を向いている。こういう「わかってない」指導者で社会はどこに向かっていくのだろう。しかも革命政府が硬音記号を廃止したのだからこれにイチャモンをつけるのは本来反革命ではないのか。いったい何がしたいのか。そもそも硬音記号と軟音記号とどちらが「役に立つか」などという議論や主張がそれこそ何の役に立つのか。より良い社会建設という目的が不毛で些末な文字論に堕ちていっている。
 話を戻すが上の Авангард, актив, аллилуйщик, аванс, антифашистは非口蓋化音にいちいち硬音記号をつけるとそれぞれАвангардъ, активъ, аллилуйщикъ, авансъ, антифашистъとなるはずだ。 архилевый だけ硬音記号がいらないのは最期の音は半母音で口蓋・非口蓋の区別がない、というのはこの音は何もしなくても口蓋化音でこれを非口蓋化することが物理的に不可能だからである。その点確かにこの発言者のいう通りなのだが、こういう妙に細かい部分で無駄に正確な描写をされると些末性がますます強調されて見える。

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