今はあまり見かけなくなってしまったが1990年代の終わりごろは町の本屋にロシア語の本がよく並んでいた。読む読まない、読める読めないは二の次で「とりあえずロシア語」感覚でバコバコ買ったはいいが、結局いまだに本棚の肥やし状態で鎮座している本が何冊もある。最近その中の一冊、190ページほどの小説を何気なく手に取って読んで見た。そしてロシア文学の傑作に触れたことを知った。私のロシア語だから辞書を引きまくり、時には文法書まで動員して何か月もかかってチンタラチンタラしか進めなかったのも関わらず、その作品は最後まで私を惹きつけ、読ませ続けたのだ。私の持っているのは1995年にフランスで発行されたペーパーバック版。М. Агеев(M.アゲーエフ)という作家によるРоман с кокаином(「コカインの小説」)という作品である。本にはこの小説ともう一作、Паршивый народ(「ろくでなし民族」)という10ページほどの短編が収められている。

Printed in Franceのペーパーバック版の表紙と目次。ロシア語の本は目次が最後に来るのが普通だ。
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 「傑作」と上で言ったのは決して私が勝手に主張しているのではなくてロシア文学研究者などがそう呼んでいるのだ。Роман с кокаиномはアゲーエフのデビュー作で、1934年代にパリで発行されていたロシア語の文芸誌のいくつかで発表された。当時のパリにはソ連からの亡命者や移住者が大勢おり、ロシア語による文化活動も盛んだったのだ。確かソルジェニーツインも第一作をパリで発行しているはずだ。文芸評論家たちはРоман с кокаиномのレベルの高さに呆然としたが、アゲーエフ某などという名前は誰も知らなかった。そこで原稿の送り元の住所が(当時の)コンスタンチノープルになっていたので、ご苦労にも人を派遣して調べさせた結果、この作家の本名はМ.Леви(M.レーヴィ)であることが判明した。判明はしたがアゲーエフにしろレーヴィにしろ全く無名であることは変わらないので「こんな傑作を全く無名の素人作家がいきなりデビュー作で書けるわけがない。このアゲーエフは誰か有名作家の匿名に違いない、レーヴィなどという人物は存在しない」という噂がささやかれることになった。
 1980年代になってフランス語訳が出た。訳者は Lydia Chweitzerリディア・シュヴァイツァーというロシア系のフランス人で(しかも名前から判断するとユダヤ系である)、ある日偶然古本屋でどうも見覚えのあるロシア語の本を見かけ、その本を30年代に既に読んで強烈な印象を受けていたのを思い出した。それで仏語に訳すことにしたそうだ。訳が出ると「アゲーエフの正体」に対する騒ぎがパワーアップして再燃した。特に「このアゲーエフは実はウラジーミル・ナボコフである」と執拗な囁きが消えないので、しまいにはナボコフの未亡人が口をだし「夫はアゲーエフなどというペンネームを使ったことはない。またコカインの経験もない。さらにモスクワに行ったこともなく、そのアゲーエフやらと違ってサンクト・ペテルブルクのロシア語で書いていた」とキッパリNoを突き付けた。確かにРоман с кокаиномの舞台はモスクワで、そこに描かれているのはコカインで身を亡ぼす若い男性の姿だ(下記参照)。それでようやく文芸評論家たちも別の可能性に気が付いた。アゲーエフというのは本当にレーヴィとかいう人物、つまりM.レーヴィは実在の人物なのではないかということだ。そこでロシア文学研究家たちが血眼になって調査した結果、現在はこれがМарк Лазаревич Леви(マルク・ラザレヴィッチ・レーヴィ)というユダヤ系のロシア人であったことがわかっている。
 レーヴィは1898年7月27日(今の暦では8月8日)にモスクワで生まれた。家は毛皮商会に務める裕福な家庭だったが、1904年に父が死ぬと破産状態になった。それでも1912年から1916年までギムナジウムに通い、卒業後モスクワ大学の法学部に入学したが1919年に学業は放棄した。ギムナジウム卒業と同時にプロテスタントとして洗礼を受けている。
 Роман с кокаиномの舞台はまさにこれで、主人公はギムナジウムの学生、1916年の少し前から物語が始まり、ギムナジウムを卒業して大学で法律を学び始めたはいいが、コカインを知って身を亡ぼすのが1919年となっている。また、下でも述べるがクラスメートは皆裕福で何不自由ない生活を謳歌しているのに自分の家だけ経済的に苦しい、けれどそれを表に出すわけにはいかない、畢竟その苦しさは低賃金の仕事をして必死に家計を支えている母親への嫌悪となって吹き出してくる。主人公の母親に対する冷酷さ、憎しみの描写は日本人がロシア語で読んでも心に重くのしかかってくるほどだ。さらにギムナジウム卒業寸前に学校所属の司祭が役割を担ってくるのも作者の洗礼と無関係ではあるまい。
 1923年からAll Russian Cooperative Society Limited という会社で翻訳者として働いた。何語の翻訳かちょっと出ていなかったのだが、ドイツ語ではなかったか。小説にもギムナジウムでドイツ語を学ぶ様子が描かれているし、レーヴィはその後1924年にドイツ(ドイツ帝国)に移住して、働きながらライプツィヒ大学を卒業しているからである(1928年)。また後に見つかったソ連外務省の資料によるとレーヴィはそこで、もうソ連に帰る気はなく国籍もパラグアイ国籍に変えたという。どうしてドイツにいて唐突にパラグアイが出てくるのか全く分からないのだが、とにかくその後語学学校のベルリッツで外国語(ロシア語か?)を教え、1933年にはパリに行ってそこで教鞭を取った。ということはフランス語もできたわけだ。私の個人的なステレオタイプ把握「ユダヤ人=語学の天才」という図式が完全に当てはまってしまっている。
 1930年代の半ばにフランスからトルコに移住した。そこでもやはり外国語(何語だ?)を教えたりフランスの会社で翻訳の仕事をしていたが、1942年、トルコのドイツ大使フォン・パーペンに対する暗殺未遂事件に関与したとしてトルコ政府から「好ましからざる外国人」とみなされ国外退去となる。ソ連国籍者としてソ連に退去させられたのだが、パラグアイ国籍の(はずの)レーヴィがいつどうやってソ連市民に戻ったのかはわかっていない。
 ソ連に戻ったと言っても生まれ育ったモスクワには戻してもらえないでソ連内のアルメニア共和国の首都エレバンしか居住許可が出ず、1973年8月5日に亡くなるまでそこにいた。そこで結婚もし、大学でドイツ語を教えたりして家族以外の外部とはあまり接触のない生活を送ったが、そういう静かな、普通に働き趣味で映画を見たり音楽を聴いたりする生活にも自分のそれまでの人生にも満足していたようで、「人生何でもやってみるもんだよ」と常日頃言っていたという。
 毎年少なくとも一回はエレバンからモスクワを訪問していたそうだが、誰に会いに行っていたのかはわからない。親戚・家族の者はレーヴィがかつて文学作品を発表したことがあるのを知らなかったそうだ。確かにアゲーエフはこの2篇しか作品を発表していない。世の中には知れば知るほどわからなくなる人物がいるものだがこの人はその典型だろう。

本の裏表紙には文学研究者が必死に見つけ出した作者の写真が掲げてある。
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 その謎の人物レーヴィが書いた謎の小説Роман с кокаиномは、一言で言えば、将来に夢が持てずコカインにおぼれて自分の周辺も自分自身も破壊させる学生の話である。4章からなる、一人称語りの小説だ。

第一章:ギムナジウムГимназия
 タイトル通り主人公ヴァジム・マスレニコフの学校生活が語られるが、まず母親に対する冷酷さが凄い。女手一つで息子を金持ち学校に行かせている母親なのに、主人公はその「年寄りでいつもボロを来ている」母親に対して嫌悪しか感じない。「人に知られると恥ずかしいから外で会っても自分に話しかけるな」とまで言う。また早熟で性病にかかったりする。そのうえ自分の性病をわざと人にうつしてやろうと、モスクワの町で罪もない女の子を「ひっかける」。
 次にギムナジウムの生活がエゴロフ、シュテイン、ブルケヴィッツという3人のクラスメートを中心に描かれる。裕福なユダヤ系の子弟が多い。最初エゴロフ、シュテイン、主人公で「成績優秀生徒グループ」を形成していたが、あるときドイツ語の授業でちょっとした出来事が起こる。ブルケヴィッツが皆の前でついクシャミをしたがハンカチを出すのが間に合わず、洟を飛ばしてしまうのだ。ドイツ語教師もクラスメートもそれをからかう。ブルケヴィッツは以来クラスの誰とも全く口をきかなくなり、完全に自分の世界に閉じこもる。そして黙々と一人で努力し、学年の最後にはそれまで学校一優秀な生徒とみなされていたエゴロフを抜いて、最優秀の評判を勝ち取る。それでもブルケヴィッツはクラスメートと話をしない。
 卒業も間近になったある時、その最優秀成績のブルケヴィッツが校内医ならぬ校内司祭にたてつくという大事件を起こす。時は第一次世界大戦。司祭が生徒の間に国への奉仕義務を説教したところ、ブルケヴィッツは堂々と「人を殺せというのがキリスト教徒の義務なのか。そうやって銃後で人に死にに行け、人を殺して来いという自分はいったい国家のために何をしたんだ」と食って掛かる。さあ大変だ。聖職者に異を唱えたりしたら素行点はゼロになる。大学への入学資格も失う。人生そのものがフイになるのだ。主人公は、言うだけ言って外へ飛び出したブルケヴィッツの後を追う。探してみるとブルケヴィッツは隅に座り込み、頭を抱えていた。主人公は慰めるように肩に手を置くのだが、その行為が「純粋な同情だけから出たものではなく、奥底には自分の血の出るような努力を一瞬のうちにフイにしてしまった人間に対する興味の心があった」。
 さらに主人公はすでに階段を上っていた司祭を追って走る。これも「ブルケヴィッツをとりなそうという気はなかった。とにかく条件反射で走ってしまったのだ」。しかし、司祭は血相変えて自分を追ってきた主人公の意図を前者に解釈し、「大丈夫だ。学長に言いつけたりはしない」と保証する。そして自分は息子を戦死させていることを告げる。

第二章:ソーニャСоня
 ギムナジウム卒業から大学入学までの休み期間、金持ちのエゴロフのお相伴をして遊んでいたとき、ひょんなことからソーニャ・ミンツという年上の女性と知り合い、恋に落ちて舞い上がる。ソーニャに会うのが嬉しくて、道行く人々、世界中の人々を抱きしめたいような幸せな気持ちを味わう。しかしそれと同時に母親への冷酷さは度合いを増し、母にはそれ以上のお金は出せないと分かっているのに、「とにかく金が要るんだ、出せ!」と怒鳴りつける。出せないのならそのブローチを売れという。父の形見のブローチで、母が何よりも大切にしているのを知りながら言うのである。ソーニャとのデート代のためだ。見かねた家のお手伝いさんというか乳母がそんなにお母さんを苦しめちゃいけない、ほらこれを持って行きなさいといってお金をくれる。それは乳母が老後のためにと必死で貯めたお金であることを知りながら、乳母の手からむしり取る。
 主人公のソーニャへの愛は激しいものであるがゆえに中々最後の一線を越えることができない。ソーニャと付き合いながら売春婦を買ったりする。それでもソーニャに対して何の罪の呵責も感じない。世界の女性の中で愛するソーニャだけが「人間」で、他は所詮女に過ぎないからだ。しかし女性であるソーニャにとっては世界の男性は皆自分にとって人間であるにすぎず、愛する男性のみが「男」なのだ。主人公にもそれがわかっている。ついにある日、友人エゴロフに部屋を提供してもらってそこにソーニャを誘い、最後の一線を越えようとするが、なぜか体の方は拒否反応を起こし、吐いてしまう。
 ソーニャは耐えがたい侮辱を感じる。それはまるで「キリスト教者がライ病患者に口づけをするときの気持ちにも似て、内心は嫌なのに無理に自分の気持ちを押し殺してやる偽善行為」だからだ。この言葉は章の最後で紹介されるソーニャから主人公へあてた別れの手紙に書いてあることだが、その手紙で、ソーニャが既婚者であったことがわかる。ソーニャの夫はある意味では無神経で鈍感なタイプで、主人公と知り合いになると全く疑いもせずに招待して自分たちの家を案内して回る。そこで自分たちの寝室を見せるのだが、そこで主人公には嫉妬の心が芽生え、それと同時にソーニャに対する官能的な愛というか「劣情」も呼び起こされた。性交渉もするようになったが、同時に愛情も薄くなってしまった。薄れていく愛情を再燃させようと、官能愛にのめりこめばのめりこむほど、愛は薄れていった。最終的にソーニャは「これは愛じゃない、恥辱だ」といって夫のところに帰っていく。この夫もソーニャは愛しておらず、一時は主人公のために捨てようかと考えていたほどなのである。

第三章:コカインКокаин
 相変わらず裕福な友人のお相伴で生活を謳歌していた主人公は大学の仲間からコカインを吸うことを教わる。好奇心で一回だけ吸ったのが依存症になってしまうのだが、その最初の一歩の描写があまりにも見事で微に入り細に入り、作者のレーヴィは少なくとも一回は本当にコカインをやったことがあるのではないかと思わざるを得ない。それともごく身近に常習者がいたのか。例えばコカインの粉は非常に軽いため、主人公は最初息を止めていたはずなのにうっかり鼻息で飛ばしてしまう。コカインに慣れた知り合いがそこで助言していうには、「コカインは軽い粉だから息を止めただけじゃだめだ。あらかじめ肺から息を出し切って吐きたくても息が出ないくらいにしておけ」。
 薬による幸福感。主人公はそれがもっと欲しくなって、夜中に母の寝室に忍び込み、ブローチを盗み出して売人に渡し、さらに薬を求める。大切なブローチをなくして母が浮上に悲しむだろうと考えると、主人公はかえって母に愛情さえ感じる。夜中さんざん吸って朝になってから家に帰ると母親が青い顔をして声を震わせながら「泥棒」と主人公を罵る。主人公は母の顔をぶん殴って家を飛び出し、行くところがなくて友人のエゴロフのところに転がり込む。エゴロフはちょうどこれから恋人といっしょに南ロシアに何か月か旅行に行こうとしていた矢先で、主人公にいくばくか金さえ渡し、自分の家で好きなだけくらしていいと主人公を導きいれる。以後主人公はこの友人の家で、ほとんど外に出ることもなく昼となく夜となくコカインを吸って過ごすのである。

第四章:所感 Мысли
 すでに完全に薬物中毒となった主人公が頭に浮かぶ様々な想いを綴る。
 人が富や名声を求めるのは何のためだろう。幸福になるため、いや正確にいうと「幸福感を味わうため」である。言い換えると幸福は外部で実際に起こる事象によって引き起こされるのではない、それを受け取る人間の人間の心の中にあるのだ。だからもし外部の事象の助けを借りずに幸福(感)を引き起こすことができれば、富や名声など全く不必要ではないか。例外はその名声を得ようと努力する過程そのものが幸福をもたらす場合だが、自分にはそんなものはない。コカインがすでに心に幸福感をもたらしてくれるのだから、自分はもう富だろ社会地位などは必要ない。それで主人公は法律家になるという人生の目的を放棄する。
 人間の魂について。自己犠牲、正義感、同情、隣人愛、そういう崇高な人間性が呼び起こされると必ずそれと同じだけの強さで、真逆の邪悪な感情、残酷さ、冷酷さ、暴力性などがついてくる。この二つはコインの裏表のようなもので分けることができない。崇高な人間性が喚起されるとそれと同時に必ず獣性も浮かび上がる。犯罪の被害者への崇高な正義感・同情が発動されなければ、犯人への暴力性、殺せ殺せの大絶叫も発生しない。民衆の幸福を求めて発生した革命の裏では裏切者扱いされた人々の血が大量に流れる。獣性なしには人間は崇高になれない、獣性に出てこられたくなかったら、人間性を全く放棄しすべてのことに全く無関心でそれこそ動物のように自分のエサだけを考えて暮らしていくしかない。この考えが「ちょうどコカインが体の毒であるように、心の毒として」主人公をむしばんでいく。このモチーフは第二章でも描かれた、一方ではソーニャへの(崇高な)愛と喜び、他方では母親に対する獣性(冷酷さ)、第三章の相手に苦しみを与えるのが愛情であるという部分にもはっきり見て取れる。
 主人公はまた幻想にも襲われ、夢を見る。自分が命じて「家来」に母親を刺し殺させる夢だ。目が覚めると主人公はもう何か月も帰っていない自分(と母)の家に行く。帰ってみると誰もいない。母の寝室も真っ暗である。周りを見回してみるとそこで母が首をつって死んでいた。絶叫しながらも主人公は同時にまた今回も「目が覚める」のではないかという感じを捨てきれない(また読者の方もこれが事実だという明確な答えを与えられない)。またコカインの売人をそこに呼び寄せて吸い続ける。

 主人公の自筆による物語はここで終わり、この後主人公を収容した病院の医者の報告が4ページほど続く。それによると主人公は完全にコカインに犯されていてもう病院では手の施しようがなかったので、どこかのサナトリウムか療養所に行くしかない。しかしそこに入るにはなにがしか社会(=革命)に貢献している人物でないといけない。親戚はいないのか?と医者に聞かれて主人公は答える:母は死んだ。何くれとなく面倒を見てくれた乳母は今はもう自分が人の施しで生きている状態だ。友人のエゴロフは外国に行ってしまった。もう一人の友人ブルケヴィッツは今どこにいるのかわからない。
 すると医者は驚いて「ブルケヴィッツ同志なら現在医者として療養所に務めている。その推薦があれば療養所に入れる」。それを聞くと主人公は医者の「今日はもう遅いし寒いから明日行きなさい」という忠告を無視して外に飛び出していき、翌日の朝12時ごろ死体で発見されブルケヴィッツの病院に運び込まれる。
 所持品には(読者が今まで読んできた)手記があり、そこの最初のページに凍えたような字で「ブルケヴィッツ拒否す」と書かれていた。

 実は第一章のГимназияにはサブタイトルとしてБуркевиц отказал(「ブルケヴィッツ拒否す」)とあるのだが、読者には最後の瞬間までこの意味が分からない。私も「なんだこれは」と読んでいる間中気になっていた。最後の最後に一気に謎が解ける、といいたいところだが、これも母の縊死と同様ブルケヴィッツは本当に拒否したのか、それとも主人公の妄想であったのかわからないのである。

小説の最初のページ。Буркевиц отказалというサブタイトルに読者は最後まで引っかかる。
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 以上がストーリーだが、この小説はその他にもモスクワの凍てつくような冬の描写、登場人物の細かい観察など文体も優れている。その中でも特に心をえぐる文章は縊死した母親を主人公が暗闇で見つけるシーンだろう。

Постель была не раскрыта, пуста. Сразу исчез теплый запах спящего вблизи тела. Но я все-таки присел, повернул голову к шкафу, и вот тут-то, наконец, я увидел мать. Ее голова была высоко, у самой верхушки шкафа, там, где кончалась последняя виньетка. Но зачем же она туда взобралась и на чем она стоит. Но в то же мгновение как это возникло в моей голове, я уже ощутил отвратительную слабость испуга в ногах и в мочевом пузыре. Мать не стояла. Она висела — и прямо на меня глядела своей серой мордой удавленницы.

ベッドは覆いがかかったままだった。誰も寝ていない。そばでしていた眠っている者の体の暖かい臭いはすぐ消えてしまった。それでも僕はベッドに腰をおろして顔を戸棚の方に向けた。するとそこで初めて母が目に入った。顔はとても高いところにあった。戸棚の一番上のほうだった。彫ってある唐草模様の端のところだ。けれどどうしてそんなところによじ登ったのだろう。何の上に立っているのだろう。だがそういう考えが頭をかすめたその瞬間、僕はもう足と膀胱に驚愕が引き起こすむかむかするような脱力感を感じていた。そうだ、母は立っていたのではなかった。下がっていたのだった。そして縊死した者の灰色い面つきをしてまっすぐに僕を見つめていたのだ。
(翻訳:人食いアヒルの子)

 作者の身元詮索の騒ぎのほうが小説そのものをめぐる議論より大きくなってしまったのはある意味不幸なことであった。作者不詳ということで読者の興味を煽った出版社の売らんかな主義作戦というネガティブ評価もないではない。とにかく自分で読んで判断するしかなかろう。

縊死した母親の描写が出てくるのは小説の最後のほうである。
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