何の気なしに同化と異化という言葉をネットで検索してみたら唐突にアデノシン三リン酸とかクエン酸回路が出てきたので驚いた。自然科学でもこの言葉を使うとは知らなかった。今までこの二つは完全に人文科学・言語学オンリーの用語だと思っていたからである。生物学では同化はanabolism、異化はcatabolism の訳語だそうだが、言語学の同化・異化はそれぞれassimilation、dissimilationの訳語である。ところがこの原語のassimilation、 dissimilation のほうも自然科学で使われているらしい。世界は意外なところで意外な交差をしているものだ。そういえば上のanabolism、catabolism という言葉を見るとanaphora、 cataphoraという用語を連想する(これは本当に純粋に言語学系の用語である)。ギリシャ語起源の単語だ。英文法でやらされた前方照応、後方照応というアレであるが、次のような例を見つけた。下線部が照応される対象、太字が照応する側である。

前方照応:
1. Several people approached. They seemed angry.
2. When Mary saw John, she waved.
3. Roman Jakobson was one of the founders of Prague School of linguistics. In 1941 he moved to America.

後方照応
1. Listen to this: John’s getting married.
2. When she was young, Mary’s father would always travel in a straight line through a forest if they became lost.
3. When he arrived home, John went to sleep.

 同化と異化の話に戻るが、同化とは当該言語音が周りの音声環境の影響を受けてそれと似た音になること、異化は逆に当該言語音が周りの音声環境に反抗して同じ音がわざわざ違う音になることである。同化はメカニズム的にわかりやすく例も非常に多い。ロシア語などはこの同化現象が規範文法にまでなっていて、学習者は練習させられる。「右に倣え」という言葉で表現されるように、無声子音が有声子音の前に来ると対応する有声子音になり、逆に有声子音が無声子音の前にくるとやはり後発(つまり右)の子音に引っ張られて無声化するのだ。例えば、вокзал(「駅」)では k が z の前で g になって [vɐɡˈzal]、футбол(「サッカー」)では t が b の前で d になって [fʊdˈbol]、逆に водка(「ウォートカ」)だと д (d)  k の前に来るから t となり [ˈvotkə]、немножко(「少し」)では ж ([ʐ])  が k の前で [ʂ] になるから [nʲɪmnoʂkə] と発音する。
 こういう、先行する音が後から来る音に影響される同化を「逆行同化」regressive Assimilationという。方向としては後戻りだからだ。マリア・シュービガーMaria Schubigerはその著書『音声学入門』Einführung in die Phonetik(1977年のちょっと古い本だが)で英語のnewspaperの例を挙げている。newspaperの発音は頻繁に[ˈnjuːspeɪpə] 、つまり s が無声になることがあるが、「ニュース」を単独で発音すると[nuːz] あるは [njuːz] で、最後の s は必ず有声子音だ。newspaperの s が「ニューペーパー」と無声音になるのは後続の無声子音 p に引っ張られるからである。もう一つシュービガーの挙げているのは one more。これらの単語を別々に発音するとそれぞれ [wən]、[moə] あるいは [moɚ] だが、「もう一つ」と一気に言うと[wəmmoə] と、n が m になる。これも後ろの [moɚ] に影響された逆行同化だ。
 これらを逆行同化と呼ぶのは先行する音が後続音に影響するというのが本来の順序だという意識があるからだろう。まあそれもそうだ。その「本来の」方向の同化をで順行同化 progressive Assimilationと呼んでいる。またまたシュービガーの例だが、ドイツ語の haben 「持つ」は大真面目に発音すると[haːbən] だが、普通の会話ではあいまい母音が抜けて [haːbn] となる。が大抵はそこで止まらないでさらに[haːm̩] にまで進む。n が m になるのは、歯茎閉鎖音鼻音 nの調音点が先行する両唇音 b に影響されて調音方法と鼻音という点はそのままに、調音点だけ両唇となったからだ、つまり m である。また英語のobserve で s が有声になって[əbˈzɝv] のようになるのは s が前の有声子音 b に影響されたためだ。順行同化である。さらに相互同化 reziproke Assimilation というのまである。二つの音が互いに影響しあって別の第三の男(唐突に寒いギャグを飛ばすな)、いや第三の音になる現象だ。例えば「魚」は古高ドイツ語では fisk といったが、現在のドイツ語では Fisch [fɪʃ] である。これは s と k が互いに影響しあったためで、k は s の影響を受けて口室の開きかたが狭くなると同時に s も k に引っ張られて調音点が後ろの方に移動した。そして出来上がったのが [fɪʃ] というわけである。
 これらの同化作用には同化が規範として決まっている、つまり必ずやらなければいけないものと(verbindliche Assimilation)、やらなくてもいいもの(unverbindliche Assimilation)とがある。上のロシア語の例などは前者、newspaper の例は後者であろう。
 また同化は隣接の音にばかり誘発されるとは限らない。少し離れた子音に影響されることもある。これを離隔同化(Fernassimilation)と言って、英語の文 I must dashが[aɪ  məs(t) dæʃ] でなく[aɪ  məʃ(t) dæʃ] になったりするのがその例。mustの s がシラブルを一つ挟んだ dash の sh に影響されて音価が変わったのだ。さらに私は「スクリーンショット」の略称「スクショ」をシュクショと発音している人を見たことがあるが、これも離隔同化である。離隔逆行同化だ。ドイツ語のウムラウトもこの離隔逆行同化で、「客」Gast の複数形では母音が「エ」になってGäste だが、これは古高ドイツ語時代にはgasti だったのが、最後の狭母音につられて語幹の「ア」の開口度が狭まったためである。離隔順行同化の例はトルコ語などのいわゆる母音調和に見ることができる。


 いずれにせよ、同化という現象は物理的に発音しやすいようにするわけだからまあ素直なメカニズムである。素直でないのが異化だ。これは近接の似た音や同じ音をわざわざ違わせる現象だ。いわば音を割るのである。なぜわざわざそんなことをするのか不思議な気もするが、その「そんなこと」はいろいろな言語で頻繁にみられるから、裏には何か人間の共通した心理があるのだろう。
 例えば英語の標準語で「名前」nameは [neɪm] と発音するが、俗語というかあまり上品とは見られていない発音では [naɪm] になることがある。e の口の開き方が増して a となり後続の狭母音 ɪ との差が大きくなったのだ。さらに「パイプ」、「家」は昔 pipe [pi:p]、hus [hu:s]  で長母音だったが、それが今ではそれぞれ二重母音でpipe [paɪp]、house [haʊs ]  と発音するのも異化の結果である。houseは綴りから推すと前は[hɔʊs] とか [hoʊs] とかいう発音だったのではないだろうか。異化の度が次第に進んでいっているのだ。またオーストラリアの英語を聞いていると day が die に、 me が my に聞こえることがあるがこれも異化であろう。
 日本語のアクセントの記述説明にも異化の観念が使われているのを見たことがある。「箸」や「今」など、第一モーラにアクセントが来て第二モーラで音調が下がる単語では、第一モーラの音の高さが語中のモーラにアクセントがくる語、例えば「赤坂見附」の「(あ)かさかみ(つけ)」よりさらに高くなることがあるそうだ。つまり次で落ちるための助走をつけるといおうか、第一モーラと第二モーラの音の高さの差がわざわざ拡大されるのである。また東京方言でアクセントが第一モーラに来ない場合、本来「高高」となるはずの第一モーラ・第二モーラの音調パターンが強制的に「低高」とさせられること自体が verbindlich な異化現象だと言っていたのをどこかで読んだことがある。ちょっとその資料が今見つからないのでうろ覚えで申し訳ない。
 この異化にも離隔異化というのがある。シュービガーの例では、イタリア語の「木」、lbero がある。これはラテン語の arbor から来ているもので、 l は本来 r だったのが同じ音が一つの単語内に連続するのが嫌がられて r が l になったのだ。同種の例にドイツ語、英語のそれぞれ Pilger、pilgrim(「巡礼」)の l が挙げられる。これはラテン語では peregrinus で r だった。r と l を区別しない日本語でこれをやっても無駄な努力ではあったろうが、異化によって音が割れた例である。

 この同化・異化に関して以前から気になっていたのだが、ドイツ語で「1と2」eins und zwei [aɪ̯ns ʊnt tsvaɪ̯]というとき「1」が時々  [aɪ̯nts] になる。これは「2」の最初の破擦音に引っ張られた離隔逆行同化だと思っていた。上の I must dash と同じ理屈である。ところが一度ネイティブにそう言ったら反論された。そうじゃない、eins は単独で発音してもつい [aɪ̯nts] になってしまう。Gans (「ガチョウ」)の s も ts になったりするから ganz (「全体の」)と時々区別がつかなくなる。これはむしろ前の n に引っ張られたのだと思う。n は閉鎖音だからすぐ次の摩擦音 s を発音する段になってもまだ舌の閉鎖が取れずにいて摩擦音の閉鎖性が加わる、つまり破擦音の ts になるんだ、と。なるほどそうかもしれない。私も向こうも別に他の音声環境といろいろ比べてみて s が ts になりやすい度合いの統計をとったりしたわけではないから本当はどっちなのかわからない。興味のある人がいたら(いなさそうだが)ちょっと実験してみて結果を知らせてほしい。自分でやらなくて申し訳ない。

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