ロマニ語話者が言語調査をしに来た言語学者に拒否的な態度をとることがあると『50.ヨーロッパ最大の少数言語』で述べたが、アイヌ語の話者にも日本人の言語学者に対してそういう態度をとる人がいたらしい。当時発行されていた『月刊言語』という雑誌にアイヌの人がそういう趣旨の投稿をしていたのを実際見たし、言語学者側の服部四郎氏もアイヌ語をフィールドワークした際、言語学者たちがアイヌ語の調査をするのは本を出したり講演したりしてお金を儲けるためだと誤解する人がいなくはなかった、と述べている。月刊言語の投稿の執筆者も「ほとんどは学者先生の富と名声を築くために行われた作業…モノでも扱うような見下げた態度で」とのべている。しかし残念ながらこれは誤解である。なぜなら言語学者が本を書いたりたまに講演などしても全くお金など儲からないからだ。下手をすると出版費用は学者持ち、学会での講演だってむしろするほうが参加費や会費を払うものなのだ。そもそも言語学という分野そのものがマイナーであって、そんな分野で本など出しても金にも話題にもならない。1980年代にシュメール語が能格言語だという世界級の発見がなされた時のマスコミの冷たさをみてもわかる(『51.無視された大発見』参照)。構造主義の考え方にしても人類学者が使いだしてからやっと世間の人たちにも広がったが、その元の元の大元であるトゥルベツコイやヤコブソンの言語学・音韻論などはほとんど無視されている。普通の頭を持っている人は金や名声が欲しかったら絶対言語学などやらない、経済経営学かIT工学でも専攻するだろう。
 非母語者による言語記述を母語者が見るとある種の違和感を感ずることは確かにある。それで上述のアイヌの人も別箇所でその記述は「水分も血液も無くなった死体を解剖するような、血も涙も無い干涸びた学説ばかり」と言いたくなったのだろうが、これもある意味では誤解で、まさにその「違和感」が非母語者による言語記述のレゾン・デートルなのである。母語者が無意識にやっていることを可視化されると誰でも「えっ?」と思うからだ。あまりにも無意識にやっていたので母語者が見落としていること、また逆に規範文法に目をくらまされて見えないでいた言語事実も非母語者は見落とさないからだ。「日本語は外から見るとこういう言語である」、それを知る必要があるのだ。むしろ「干涸びた」無味乾燥な記述でなければいけないのである。ラテン語文法を核にして日本語を記述したロドリゲスの日本語文典などいまだに十分読むに耐えるのはそのためだ。

 しかし反面、ロマニ語やアイヌ語の話者の気持ちはよくわかる。言語学でなく語学のほうでそういう感じをもたされることが少なくないからだ。一言でいうと「母語をダシにされる屈辱感」である。日本国内の留学生や外国人の会社員が日本語を勉強したり、言語学者が自分の研究のためにアイヌ語をやったりする場合はある意味自分の生活がかかっているわけだから本当に当該言語を覚えようと思っている。真剣さの程度はやや落ちるが大学の第二外国語もまあ単位、ことによると卒業がかかっているのでついていこうとする。それに対して日本国内にいるのでもなく、単位がかかっているわけでもなく、職業的興味もないのに単なるファッションで日本語をやりに来る人もいる。そういう人はそもそも真剣に語学の勉強などやる気がない。あくまで「お楽しみ」でしかないのだ。
 彼らはごく簡単な日本語のフレーズ、「こんにちは」とか「さようなら」とか「〇〇をください」などの決まり文句を口にして日本語をしゃべっている気になりたいだけなので、
ちょっとでも難い話、例えば文法のことになるともう勉強する気が失せる。「日本語にとても興味がある」といってやってきて、文字を見せられたら「これ、本当に覚えなければいけないんですか?」と驚き次から消えた人がいる。文字や文法ばかりではない、発音もそうだ。「もう〇年間日本語をやりました」というのに「はい」「今」「何」がどうしても言えずにいた人がいたから(それぞれ「灰」、「居間」、「ナニ」になってしまう)、ちょっと練習してもらったらむくれられた。むくれられるだけならまだいい方で、「どうしてそんな高低アクセントがあるんですか日本語は?!」とか「アクセントなんて方言差があるし、意味はコンテクストから判断できるからやらなくていいと前の先生に言われました!」とか食ってかかられたことさえある。やってできないのではない、最初から練習する気がないのだ。またやらせるほうだって怖い顔をして命令したわけではない。一生懸命身振りもまじえ、にこやかな顔をしてお願いしたのだ。
 こういう、ファッション語学者は実はまじめに勉強したい人の足も引っ張っている。少し前に村上春樹がエッセイで書いていた。スペイン語を勉強しにいったら、クラスのメンバーの一人がこのタイプの皆の邪魔にしかならない「たまんない男」で、そのために氏はそのクラスでのスペイン語学習そのものを放棄してしまった。講師にはまったく不満はなかったが、これでは勉強にならないと思ったそうだ。私の知り合いも夜の学校でヒンディー語を勉強していたところ、クラスの皆から「先生が厳しすぎる」と文句が出たそうだ。その先生は熱心な先生で宿題なども出し、次回にその宿題をベースにして授業を始めるので家できちんと勉強してこないとついていけない。そうしたら生徒側から「私たちは楽しみのために勉強しているんだ。宿題なんか出されたら全然楽しくない」と声があがったというから驚く。知り合いその人は「私は勉強したいから宿題はむしろ歓迎」といったら今度はクラスメートからガリ勉とかなんとか言われたという。お楽しみが欲しかったら語学の勉強などしないでビールでも飲みに行けばいいのに、と思うのだが。
 これを例えると、パンダが大好きな人がいて、ぬいぐるみを集めたり写真を見たりするが、生物としてのパンダの姿は全く見ようとしないようなものだ。エキゾチックでキャーカワイイという自分のイメージを膨らませたいだけで、真剣に生態を研究したり、時々自分の手を切りながら笹を集め糞の掃除をして飼育したりする、つまり本当にパンダとかかわる気は全くない。下手をすると本物のパンダはぬいぐるみほどモフモフしていないからイメージを壊されるといって邪魔にしかねない。つまりパンダ、あるいは日本語をダシにして精神的自慰、といって悪ければ自己陶酔しているだけである。教える側にも相手のエキゾシズム自慰に便乗しているような感じの人がたまにいる。動物園訪問者のイメージ通りに芸をしてやる悲しきパンダだ。『127.古い奴だとお思いでしょうが…』でも述べたように私がエキゾチックジャパンを不自然に強調して相手のぬいぐるみ願望に訴えるタイプの教科書が嫌いなのもそのためだ。自らをキャーカワイイ的見世物として提供する。これは自分の尊厳を自分で貶めていることにはならないのか。「需要に合わせる」ということなのだろうか。考え込んでしまう。

 さらにこのダシが自慰を超えてマウンティングの材料になることがある。自慰なら基本自分一人でやっているから怒るのは今更発音を直されたりしてその行為を邪魔されたときだけなので放っておけるのだが、マウンティングになると黙ってそばに立っているだけで巻き込まれる。「ワタシ日本語やっているのよ、できるのよ」という自慢話の聞き役をやらされるのだ。自慢を聞かされるのは全く日本語のできない人たちであることが多いが、時によるとネイティブまでがサンドバックにさせられることがある。経験したことはないだろうか、自称「すでに日本語をやったことがある」学習者が日本語の授業にやってくる、それはいいのだがその意図はさらに勉強を進めることではなくて周りの(初心者学習者に)「どうだ私はできるだろう」と見せびらかしたい、講師に「本当にお上手ですね」とほめてもらいたいことにあるのが露骨に感じ取れるタイプの学習者を。上で述べた人もひょっとしたら「あなたの日本語は完璧だ、よくできる」と言ってもらうつもりだったのがアテが外れてムッとしたのかもしれない。講師が日本語非母語者だったら、「あの先生は私より日本語ができない」とかなんとか人のせいにすることもできただろうが、さすがにネイティブ相手だとその論法が効かず、マウント願望が宙に浮いてしまったのか。こういうタイプは大抵次から来なくなる。生活も単位もかかっていないとやめるのも実に早い。
 マウンティングのさらなる発展形として「自分より当該言語が出来るネイティブを邪魔者扱い、敵視する」というのがある。もっともこれは日本の英語教師の帰国子女いじめなどにもみられる通り日本語学習者に限ったことではないが。以前にスペイン語のネイティブも、スペイン語学部を取り仕切っている非ネイティブの教授かなんかに煙たがられたという話をしていた。
 自慰にしてもマウンティングにしても対象がエキゾチックなマイナー言語である場合のほうが程度がはなはだしい。例えば世界言語の英語なら実際にできる人も多いし、できる基準も皆わかっているからさすがにやたらと「英語ができる」とか「英語のオベンキョしてるのよ」などと軽々しく自慢したりはできまい。すぐボロがでるからだ。マイナー言語だと誰もその基準を知らないのでホラを真に受けやすいのだ。「さようなら」が言えずに「ざよなーらー」と無茶苦茶な発音をしても周りの人は感心してくれるのである。中国人や韓国人には相当日本語ができても変に見せびらかす人が少ないのは東アジアでは日本語がエキゾチック言語などではないのと、東アジア人には本気で日本語をやりたい、つまり生活がかかっている人が多いからだろう。「お楽しみ」などではないのである。もちろん語学をダシにしての自慰・マウンティング行為は欧米人の専売特許ではない。上述の帰国子女いじめでもわかるように私も含めた日本人だっていくらもやっている。私自身も振り返ると相当チャライ態度で語学に臨んでいた。今考えると慙愧の念に耐えない。困ったものだ。

 確かに自慰・マウンティングのダシになるのは語学ばかりではない。芸術、スポーツ、あらゆる文化活動が材料にはなる。しかし言語と他の文化活動を比べると一つだけ決定的な違いがある。言語というのはその言語を母語とする民族がその精神活動、文化活動、歴史などをすべてそれをベースにして築き上げてきた、いわば民族の精神の支柱、民族の精神のエッセンスであるということだ。その言語を軽く扱い、いわんやエキゾシズム自慰のダシにする、ロクにできもしないのにできた顔をする、さらにネイティブを煙たがったりするのはその民族の精神活動全体、民族そのものを軽く見るようなものではないのか。
 いうまでもないが、学習者を一絡げに「当該言語を軽く見ている」などというつもりはない。第一にそういう、学習意欲より自慢や自己陶酔願望のほうが前面に出てきているような人は圧倒的少数だし、第二に彼らだって悪気でやっているのではないからだ。言語、特に非母語の学習は一生毎日やっても十分なところまで行き着かないだろう。彼らはその道の遠さが見えていないか、あるいは見ると目がくらむので敢えて見ようとしないかだ。誰だって空しくなるだろうから。だがそこで空しいのは学習者ばかりではない、教えるネイティブのほうだって空しいのである。いわゆる語学アドバイスの類で完全にスッポ抜けている視点がまさにこの母語者に対する配慮であろう。「間違いなど気にするな。発音など気に病むな。勇気をもって話しかけろ」とよく言うが、そういう言語で話しかけられた母語者、自分たちの精神の支柱である母語がボロボロにされているのを見せつけられる母語者のほうがどういう気持ちになるか全然考慮されていない。もちろん普通の人は外国人の言葉が少しくらい不完全でも露骨に嫌な顔などしないだろう。気前よく付き合ってくれるが、でもそれはあくまで向こうが我慢しているのだということをこちらは忘れてはいけない。また向こうが何回も聞き直してくると気を悪くしたりする人。「こっちだって一生懸命しゃべっているんだ。そのくらい聞き取ってくれてもいいだろう」とでも言いたいのか?当該言語を破壊しているのは自分なのに、そのうえ母語者をその破壊言語に付きあわせるつもりか?聞き直すのは向こうだって理解したいから聞き直すのである。つまり向こうはこちらに歩み寄っているのに怒ったりスネたりするのは母語者への思いやりがすっぽ抜けているからだ。
 私が今までに遭遇した「外国語の学び方」の類でその点に言及していたのはたった一つだった。英語の学び方についての本だったが、当地の大学に何年か留学していて、本人は楽に英語が話せるつもり、上級のつもりでおり、そろそろ他の日本人の英語にイチャモンをつけて「オレは他の日本人より英語ができる」と自己陶酔しだすレベルの中級話者は往々にして「自分は気持ちよくしゃべっているつもりでも、その英語が相手に苦痛を与えているということに全く気付いていないから始末が悪い」と指摘していた。実はこの「ネイティブに苦痛を与えるか与えないか」というのがヨーロッパ言語共通参照枠(『123.犬と電信柱』参照)のBレベルとCレベルの違いである。Bの後半になれば学生や研究者として論文を書いたりできるが、語学としてはあくまで中級である。
 もう一つ語学書ではないが、「ハウサ語を勉強する利点」という文脈で松下 周二という人が「利点は全くありません。片言のハウサをしゃべったくらいで胸襟を開いてくれるような甘いハウサは一人もいないでしょう」とニベもないことを言っていた。そういえば、欧米ではあまり見かけないが日本ではちょっとでも日本語を話すと「まあお上手ですね」などとほめられることが多い。私はこの言葉の裏には「さあ褒めてあげましたよ。もう気が済んだでしょう?だからもう私たちの大切な母語をそうやってブロークンに千切って聞かせるのやめてくれませんか?」という母語者のホンネ、ある意味では必死の懇願が隠れているような気がしてならない。

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