何度か書いたように、言語連合という言葉はロシアの言語学者ニコライ・トゥルベツコイが提唱したものである。トゥルベツコイというと普通真っ先に思いつく、というよりそれしか思いつかないのはその著作『音韻論の原理』だろう。ちょうどド・ソシュールの「代表作」『一般言語学講義』が氏の死後出版されたように(ただしこれはド・ソシュール自身の手によるものではない。『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)、『音韻論の原理』もトゥルベツコイの死後出版されたものである。また、ド・ソシュールと聞くと大抵の人はラング・パロールなど構造主義の言語学や記号学しか思い浮かばず、それに優るとも劣らない業績、喉音理論にまで気を回す人はあまりいないように、トゥルベツコイも音韻論の有名さに比べると「言語連合」のほうは思い出す人は少ない。さらに理不尽なことに、言語連合という用語そのものは結構使われているのに、その言い出しっぺがトゥルベツコイであることを知らない人も相当いる。「喉音理論」と言えば一応名前を思い出してもらえるド・ソシュールとの違いはそこだ。
 なぜそんなことになったかというと、言語連合という言葉が最初に使われたのがロシア語の、しかも論文というよりエッセイといったほうがいい著作だったからだ。1923年にブルガリアのソフィアで発表されたВавилонская башня и смѣшніе языковъ『バベルの塔と言語の混交』というテキストである。以下が言語連合を定義してある箇所だが、タイトルからもわかるようにロシア語である上にプーシキンみたいな旧仮名遣い・旧文法だ(現代の正書法に直したテキストをネットで見られる)。

Но кромѣ такой генетической группировки, географически сосѣдящіе другъ съ другомъ языки часго группируются и независимо отъ своего происхожденія. Случается, что нѣсколько языковъ одной и той же географической и культурноисторической области обнаруживаютъ черты спеціальнаго сходства, несмотря на то, что сходство это не обусловлено общимъ происхожденіемъ, а только продолжигельнымъ сосѣдствомъ и параллельнымъ развитіемъ. Для такихъ группъ, основанныхъ не на генетическомъ принципѣ, мы предлагаемъ названіе «языковыхъ союзовъ».

しかしこういった系統によるグループ分けのほかに、地理的に互いに隣接した諸言語をその系統とは関係なくグループとしてまとめられる。そこでは地理的にも歴史文化的にも同じ一つの圏内にあるいくつかの言語が特徴的な類似点を示すことがある。その類似は共通の起源から発生したものではなく、あくまで長期間にわたる隣接関係とそれぞれ言語内部の並行した発展の結果であるにもかかわらずである。このような、親族関係という原則によらない言語群を呼ぶのに「言語連合」という名称を提案する。

この「言語連合」という部分には注がついていて、代表的な例としてバルカン半島を挙げている。またこの箇所はJindřich Tomanという人がMITで出したThe Magic of a common language(1995)という本で英語に訳しているのだが、下線の箇所が微妙に違っている。私の読解が間違っているか、向こうが間違ったかである。それとも私の参照した原本バージョンとTomanの1987年のとはこの部分が違っているのかもしれない。87年にモスクワで出版された「トゥルベツコイ選集」Избранные труды по филологииという本を見かけたらちょっと調べてみてほしい。

...besides such generic grouping, languages which are geographical neighbors also often group independently of their origin. It happens that several languages in a region defined in terms of geography and cultural history acquire features of a particular congruence, irrespective of whether this congruence is determined by common origin or only by an [sic.] prolonged proximity in time and parallel development. We propose the term language union [jazykovyj sojuz] for such groups which are not based on the generic principle.
 
 これを発表して何年か後、やっと1928年になってからトゥルベツコイはプラハで行われた第一回国際言語学者会議で自説を発表し、Sprachbund (言語連合)とSprachfamilie(語族)の観念的な違いを明確にした。そこでも何人か指摘しているが、この言語連合という考え方そのものはトゥルベツコイの創作ではない。以前にも書いたようにバルカン半島の言語状況についてはすでに1829年にスロベニアのコピタルKopitarという学者が報告しているし、当時「バルカン学」の研究はすでに相当進んでいたのである。トゥルベツコイはこの言語接触による類似性、「言語連合」を一般言語学の用語として確立したのだ。
 それを受けてプラーグ学派の面々がこのテーマで研究を開始した。例えばロマン・ヤコブソンは1931年にそのテーマで本を出し、『58.語学書は強姦魔』で名前を出したイサチェンコIsačenkoも1934年に論文を発表しているそうだ。ところが言い出しっぺのトゥルベツコイ自身はごく短い論文をチョチョッと書いただけ。この辺が後の誤解というか無知を生んだ原因だろう。
 また、やはり1920年代から文化交流による言語の混交問題に興味を持っていたHenrik Beckerという人が1948年にズバリDer Sprachbundという本を出版している。時々「言語連合という言葉はドイツ語のSprachbundの訳」と誤解しязыковый союзを完全に無視している人を見かけるのはこれが原因だろう。しかもこのBeckerはMeistersprache「支配言語」など、トゥルベツコイが嫌悪した言語の順位付け思想や西欧中心の世界観・学問観(下記参照)に基づく用語も提唱しているから氏も浮かばれまい。
 とにかくトゥルベツコイは専ら一つの祖語からの分岐としてとらえられていた「印欧語」というものにもこの「文化・地理上の隣接による言語の統合」というアスペクトを適用して、当該言語が印欧語と見なされるには6つの基準を満たさねばならないと提案した。この6つの構造条件を全部満たしていれば印欧語であり、言語の構造が変化してどれか一つの条件でも満たさなくなればいくら共通の単語を引き継いでいても印欧語ではなくなる、というのである。Мысли об Индоевропейской проблеме『印欧語問題に関する考察』という論文で論じている。
 1.母音調和の欠如。
 2.語頭と語尾の子音群に特別な関係があること(語頭に立ち得る子音群のほうが語の内部や語尾よりも制限が厳しい)。
 3.いかなる条件下でも語が語幹だけで始まることがない。
 4.母音交代(アプラウト)の存在。
 5.形態素内で子音が交代する。
 6.能格でなく主格・対格の格システム。

トゥルベツコイが後に発展させた音韻論を髣髴とさせるようだし、特に5はいかにもロシアの言語学者らしく、今日でも(少なくとも私の年代の者は)ロシア語の学習者が必ずやらされる音韻形態論Morphonologieの視点が見えて非常に興味深いが、単純に一つ疑問がわいてくる。もし、地球上のどこかで偶然この条件をすべて満たす言語が現れたら印欧語とみなされてしまうのかということだ。トゥルベツコイはこの質問になんとYesで答えている。印欧語学者の高津氏が攻撃したのもこの点で、トゥルベツコイの定義した印欧語を「空論」とまで言っている:まず第一にこのような特徴を並べても印欧祖語再建にはなんらの貢献もしない。第二に印欧語ばかりでなく、言語には根底に横たわる実体がある。印欧語の場合、諸言語の語彙や形態素の規則的な対応から帰納してもわかるように、その根源となる実体がある。借用によって、その根源を同じくするにもかかわらず言語が印欧語でなくなるなどという定義、構造的な特徴による語族の決定は、高津氏らのような形態の対応から帰納する語族の決定とは両立しえない。私は高津氏が「借用」という用語の持ち出しているところにすでに純粋要素と外来要素の区別、つまりある意味では差別を感じるのだが、当該言語間の語の音韻対応を考慮に入れない「印欧語」にも確かに「うーん」とは思う。
 なお、どうでもいい話ではあるが、ここで高津氏が参照したのは原文のロシア語ではなくドイツ語翻訳である。
 
 実はもちろんトゥルベツコイは「語族」というアプローチを否定しているわけではない。言語の変化を追うには分岐と統合という二つのアスペクトが必要なことを強調しているにすぎない。印欧語学=言語学であった時代からすでに言語の地理的連続性に注目し、波動説を唱えたSchmidtなどの学者はいたのだ。印欧祖語は本当に一つの言語だったのだろうか。印欧語発生地には最初の最初から複数の言語が話されていたのではないのか?それら地理上隣接していた言語が統合されて一つのまとまりを見せているのではないのか?そもそも一つの言語というのは何か。日本語と琉球語、本国ドイツ語とスイスのドイツ語を一つの言語とみなす客観的根拠はどこにもないのだ(『111.方言か独立言語か』参照)。
 このことは印欧祖語を再現しようとした者も心の隅では感じていたことで、「祖語再構」というのは言語を再現するのが目的ではなく、あそこら辺の諸言語を網羅する理論上の言語を創造することが目標であった。この姿勢はド・ソシュールに顕著である。つまり理論のための理論なのだ。そしてこの分岐アプローチに待ったをかけたのも、何も印欧言語学にコペルニクス展開を起こしてやろうとしたからではない、別の見方を示して議論を深めようとした、言い換えればprovocationそのもの、まさに高津氏のいう「空論」がトゥルベツコイの狙いだったのではなかろうか。

 もうひとつ、当時の権威ある印欧比較言語学にトゥルベツコイが待ったをかけた、いや明確にNoを突き付けたのが、当時の印欧語学者の中に言語や文化の優劣を言い出す人が少なからずいたということである。有名なのがアウグスト・シュライヒャーAugust Schleicherで、1850年の論文で、印欧語のような屈折語は言語の最も発達した状態であり、膠着語はその前段階、孤立語は最も未開な言語状態と主張した。それを言ったら名詞の屈折をほとんど失っている英語はロシア語より未開言語なのかとツッコミを入れたくなる。面白いことに上述の高津氏もこのシュライヒャーなどが印欧語学に価値判断・言語発展度などが持ち込んだのを遺憾としている。こういった西欧中心主義(トゥルベツコイは頻繁に「ロマンス・ゲルマンの自己中心主義」という言葉を使っている)をトゥルベツコイは嫌悪した。学問上ばかりでなく文化的にも西欧は無神経に自分たちの基準を押し付けていると見て反論した。氏のこういう思想はその経歴と固く結びついている。

 トゥルベツコイはロシアの公爵家に生まれた。名門で、私は確認していないがトルストイの『戦争と平和』にも大貴族として一家の名前が出てくるそうだ。父も祖父も親戚も大学教授を務めたりした社会的にも教養的にもエリート中のエリートである。そこに生まれたトゥルベツコイも知的に早熟で15歳のころからすでに論文を発表していたという。最初は民俗学が専攻だったが、じきに言語学に転向した。
 言語学者としての業績はフィンランド語のカレワラやコーカサスの言語の研究から始めた。上の条件6にコーカサスの言語を熟知していることが見て取れる。それらの「アジアの言語」の中にロシア語と通ずる要素をみたのである。ロシア語やロシア文化の中にはアジアと根を共にする要素がある、と感ずるようになった。後の「文化や言語に優劣はない」という見方、また言語が「発展する」とか「未発達である」という類の価値付けに対する反発の芽がすでに見て取れるではないか。
 もちろん、当時の言語学者として印欧言語学もきちんと身につけていた。サンスクリットもできたし、1913年から14年にかけてライプチヒに滞在し、カール・ブルクマンKarl Brugmannやアウグスト・レスキーンAugust Leskien(『26.その一日が死を招く』参照)らと席を並べて勉強している。
 1917年に革命が起こった時、トゥルベツコイは療養のため北コーカサスのキスロヴォーツクКисловодск という町にいたが、大貴族でレーニンに嫌われていたため危険すぎてモスクワに帰れなくなった。二年ほどロシア国内(の大学)を転々とした後国外亡命して1920年にまず当時のコンスタンチノープルに逃れ、そこからさらにブルガリアのソフィアに行き、1922年まで大学で教鞭をとった。上述の『バベルの塔と言語の混交』はその時書かれたものである。1922年にはウィーン大学に招聘されて亡くなる1938年までそこで教えていた。そのウィーンから有名なプラーグ学派の言語学サークルに通っていたのである。
 
 当時ソフィアにはロシアからの亡命者が大勢おり、いわゆる「ユーラシア主義・ユーラシア運動」の発生地となった。トゥルベツコイはその中心人物である。この運動はすでに19世紀にロシアの知識人の間に起こったスラボフィル、スラブ主義運動に根ざしているが、非西欧としてのロシアのアイデンティティを確立していこうというものである。この精神を引き継いだユーラシア主義は両大戦間のロシア(知識)人の間に広がっていた。トゥルベツコイが1920年に著したЕвропа и человечесгво『ヨーロッパと人類』はその代表作だ。面白いことにここでは「アジア」や「ロシア」という言葉が使われておらず、西欧対非西欧という対立で論じられている。私は確認していないが(ちゃんと確認しろ!)この著作はいち早く日本語に訳されたという。
 そうやって「アジアとつながったロシア」としての文化的・政治的アイデンティティが模索されていった。トゥルベツコイは皇帝は廃止すべきという立場だったが、ボリシェビキにも反対だった。共産主義は所詮「西欧」の産物だったからである。民主主義にも懐疑的だった。もっともロシアにふさわしいのは民衆から選出された代表が政治を行うのでなくて、教養的にも文化的にもエリート層がまず国としてのイデオロギーを確立して、その路線にのっとって国を作っていく、というものだったらしい。民衆側の機が熟していないのに外来から民主主義を取り入れたら行きつくところは衆愚制だと考えていたのかもしれない。
 トゥルベツコイは敬虔な正教徒だったし、ロシアのアイデンティティを上滑りな西欧からの輸入思想、例えばコスモポリタン思想に受け渡すつもりはなかったのだ。

 この思想は氏の言語観にも反映している。ユーラシア運動そのものについては、のちに何人かボリシェビキ寄りになったりロシア国粋主義に傾いたりしていったので距離をとるようになったが、「ユーラシアとしてのまとまり」という視点は保たれた。この言語観に立って、印欧語も枝分かれして発展していく樹形図としてではなく、連続する鎖(цепьまたцѣпь)のイメージで把握したのだ。コーカサスの言語、印欧諸語、地中海・中東のセム語などがこの地上で鎖のようにつながっている、それぞれの輪の間には必ず重なりあう部分がある、言語が統合している部分がある。文化も言語も上から下に流れるのではない、横につながっているのだ、として言語相対主義・文化相対主義を強調した。
 
 トゥルベツコイのこの思想は当然ナチスには目の敵にされ、ナチス・ドイツがオーストリアを併合すると早速案の手を伸ばし、ゲシュタポがウィーン大学にあった氏の研究論文を押収し自宅まで捜索した。すでに心臓に問題のあったトゥルベツコイはそのため病状が悪化して亡くなった。氏の代表作『音韻論の原理』は家族がなんとか保持していた書き散らしの原稿を言語学者の同僚や学生が校正して死後出版されたものだ。

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