こちら昔は「語学」というとラテン語か古典ギリシャ語のことだったから、当然その中心は読み書きにあった。そのうち「書き」をだんだんやらなくなった。ドイツ語やフランス語など自国語の書き言葉が発達して、ラテン語で書く必要がなくなったからである。それでも結構長い間普通高校を出た人ならばラテン語が読める(ことになっている)のが普通だったが、最近はまったく古典語はやらない高校も増えた。現代の言語、フランス語やスペイン語だけやれば卒業できるようになったのである。昔、と言っても私が現実に見聞きしているくらい割と最近までは英語の他に古典語一つ以上現代語二つ以上、合計3つの外国語、例えば英仏羅というのがスタンダードだったが、今は英仏だけで高校を卒業できるのだ。ただラテン語なしで高校は卒業できても入れる大学の学部が限られてはいたところが、その制限もだんだんなくなってきている。最近など英語しか外国語をやったことがない「外国語学部の学生」に会った事があるがさすがにこれは例外である。
 そうやって古典語をやらなくなるにつれて、外国語の授業のやりかたや教科書も変わった。見た目にやたらと子供っぽい教科書が増えたのだ。

 以前にもちょっと書いたが、私が若かりし頃通学していた都立高校には自由選択ではあったが第二外国語の授業があった。高校生用のドイツ語の教科書というのものがなかったので大学の教科書を使っていたが、これが無愛想というか無味乾燥な構成で、まず章の始めにちょっとした会話のテキストがあり、次に単語の説明があり、文法事項があり、最後に練習で〆る。これを延々と繰り返して螺旋階段のごとく次第に高度な文法に進んでいくというものだった。もちろん挿絵などというものはなかったし、当然全部が白黒印刷である。授業形式も学生と教師が面と向かうものであった。

 時が流れてドイツの大学で受けたクロアチア語の授業も教科書もまさにこれであった。表紙は黄土色の超地味な色、中は全て白黒印刷だ。

私たちの使ったクロアチア語の教科書。私の書き込み付きでご紹介。
Kroatisch_1

Kroatisch_2

 ところがロシア語の教科書は違った。全てカラー印刷で値段もそれに従って高い。表紙も派手だが、中身にもやたらとイラストだろ写真だろがあり一見子供の絵本である。絵を見ながらそれをロシア語で描写する練習のためというような意味のあるイラストもあるが、そうでない単なる挿絵、会話のパターンの練習のわきにわざとらしいロシア風の服を着たおじさんやらおねえさんやらが立っているものも多い。こんな要りもしない絵を全部除いたら制作代も節約できるし教科書も薄くてすむだろうにと思った。

書き込みが減ったロシア語の教科書
Most_1

 しかしそれよりド派手なのが日本語の教科書だ。表紙からして日本女性がにっこり微笑んでいる顔のアップ。中を見てもとにかく挿絵がデカい。課の頭には半ページくらい使って日本人のサラリーマンが大きなビルの前でお辞儀をしている写真とか、この年寄りの私でも見たことがないような古臭い日本の祭りの風景などとにかくステレオタイプなドイツ人の異国情緒にこれでもかと訴えるクサい写真のオンパレードである。
 だいたい私は語学の授業でいわゆる文化とか習慣を紹介するのは邪道だと思っている。語学の教科書は旅行案内ではないのだ。そもそも今はその手の異国情緒などインターネットでいくらでも見られる。語学の授業なんかで富士山の写真を見ている暇があったら「現代」と「原題」のアクセントの区別でも練習した方がいい。実際文法規則だろ発音だろ語学そのものでついて来られない者に限ってやたらと日本の正月とかキモノとかそういうことばかり知りたがる。語学そのものができないのに、いやできないからこそ言語外の情緒や憧れにしがみ付いて勉強した気にだけはなりたいのである。これは一種の自己欺瞞だ。私自身が昔よくこの欺瞞をやって語学から逃げていたからよくわかる。問題はそれが自己欺瞞であることにいつ気づくかである。

ここまでエキゾチック・ジャパンを強調する必要があるのか非常に疑問。
Japanisch_1

Japanisch_2

 さらに最近のドイツ語の教科書を見る機会があったが、これも上の日本語路線で総天然色。私のころと比べて隔世の感がある。私だったらこんな絵本みたいな教科書を見せられたらむしろ勉強する気が失せるかもしれない。
Deutsch_1

 しかし比べてみると同じ色つきでも上のロシア語の教科書と日本語・ドイツ語のとでは中身というかコンセプトそのものに違いがあることに気づく。ロシア語の教科書はまあ古い時代のものであるが、挿絵や表紙は派手で会話のテープ(CDやアプリでなくテープである!)がついていたりしても構成そのものは白黒のクロアチア語とさほど変わらない。文法説明があり、会話のパターンがあり、その後チョチョッとその練習をして課を終える。しかしある意味では内容が白黒のとあまり違わないからこそ一層カラー挿絵の無駄さが浮き彫りだ。
 それに比べて時代の下った日本語ドイツ語の学習書では絵が学習内容そのものに組み込まれているのがわかる。まさに上で述べた「絵を見ながらそれを当該言語で描写する練習」になっているわけだ。それなら別に無駄にはなっていないわけだからいいかとも思うが、私の感覚だとその練習部分があまりにもクド過ぎて、後で「文法の説明部分」をちょっと参照しようと思った時などやたらとパラパラ教科書をめくらないと見つからない。その練習課題にしても「楽しく遊びながら学べる」ことを最重要項目にしてあるらしく、クロスワードパズルだろなんだろがあって正直馬鹿にされているとしか思えない。
 語学を始める時は子供にかえったつもりになれとはよく言われることで、もちろんそのこと自体に反対はない。しかし学習者は白黒の無粋な教科書の第一課でdo-bar dan! などと練習させられる時すでに十分自分は子供であると感じているのだ。カラー挿絵やクロスワードでその上さらに子供感覚を強調する必要があるのか?理論物理で理学博士号を持っているが今度ドイツの大学にくることになったのでドイツ語もやっておきたい、という人に対してもこんな教科書をやらせるつもりか?教わる側は全員がその手の「遊びながら楽しく学べる○○語」の類の授業を望んでいるのか?またそういう授業はガチガチの授業に比べて万人に本当に効果的なのか?いろいろ考えてしまう。
 例えば講師は学習者を飽きさせないように30分ごとに授業形式を変えろと言われる。30分対面形式で授業をやったら形式を変え、グループ学習と称して学習者を分け、その中で学習者同士で会話の練習をさせる。その、「隣の人と会話をしてみましょう」という練習のパターン会話が教科書に書いてある。
 古い奴だと思われそうだが、実は私はこの「グループ学習」というのが大嫌いだ。学習者というのはつまり私と同レベルのヘタクソである。その自分レベルのヘタクソなんかと会話するなんて真っ平だ。向こうだってそう思っているはず。対話をするなら是非ネイティブ、つまり講師と練習させてもらいたい。そのための講師ではないのか?

 私はこういうクドい教科書・楽しい教科書は教わる側のためというより教える側をマニュアル化・規格化するためなのだろうと思えてならない。それが証拠に最近の教科書には必ずと言っていいほど「教師の皆様」に向けたアンチョコというか指導法マニュアルがついている。これこれの練習は学習者にこういう練習をさせ、こういうことをマスターさせるためのものです。教師側はその際これこれこういう教えかたをしてください、と詳しく「教科書使用法」が書いてある。その使用法に従ってやれば誰でも日本語やドイツ語が教えられますというわけだ。
 しかしその「教授法マニュアル」というのは市販されているから、学習者側も買えてしまうのである。もっともドイツ語の教科書は使用マニュアルもドイツ語だからまだいい。理屈としては現在そのドイツ語の初歩をやっている学習者が講師用マニュアルなど理解できないだろうから裏がバレる恐れはないが、日本語教育のマニュアルは日本語でなくドイツ語で書いてある。下手をすると講師より学習者の方に通じてしまうのではないだろうか。つまり教える側の手の内が教えられる側に丸見えになる可能性があるのだが、これで学習者はドッチラケないのだろうか?

 そのマニュアル教科書執筆者がさかんにいう。「文法なんて忘れさせなさい。Guten Tagという挨拶を覚える際、これが対格だなんて普通考えますか?語学の授業は言語学者じゃない、unverbildetな学習者のためにあるのです。また自分で説明などあまりしないで市販の教科書に素直に従いなさい。これらの教科書は経験のある言語学者が皆で執筆したもの。これに従っていれば安心です」。unverbildetというのは「学問をしたせいで駄目になったりしていない」という意味である。一瞬、語学屋が言語学専攻者に喧嘩を売っているのかと思うが、こういうことを言っている執筆者自身言語学者なのだからこの発言には裏がありそうだ。
 裏の一は、上でも書いたようにこの種の教科書が「ただネイティブというだけの人にも教えられるように」考案されたマニュアルであるということだ。そんな人に下手にいいかげんな文法説明をされたら困る、知らない事には口をつぐんでいなさい、というまあいわば素人に対する牽制。学習者でなく講師への牽制である。その際講師に「言語学をやってないあんたは所詮素人だから黙って私たちの指示に従え」などとあまり露骨に言ってしまうと相手が怒るから学習者のほうをunverbildetと呼ぶことで間接的に「私たち言語学者はverbildetでございます、余計な知識があって頭でっかちである」と暗示して卑下し語学教師に対して言語学者には抱いている人もいる内心の優越感を隠している。
 裏の二は一の点ともつながるが、最近の語学教授法では実際に理論→実践という昔のやり方はとられなくなって子供が第一言語を獲得するプロセスを真似るようになっていること。当該言語をまず理解するより、使ってみるほうを参考させ理論のほうは自分の内部で構築してもらう方式になってきていることだ。言語発達は心理言語学の分野で抽象度の高い理論が展開されている分野である。ポッと出のネイティブ語学教師なんかはあまりシャシャリ出ないで学者のいう事を素直に聞いていた方が無難といえば無難なのだ。
 裏の三は「文法」という観念である。『34.言語学と語学の違い』でも述べたように言語学で言う文法は記述文法である。ところが普通の学習者にとって文法というとまず規範文法が頭にあるだろう。小説家などにも文法=規範という捉え方をしている人が大勢いる。「文法を間違える」などという言い方をするのがそのいい証拠である。言語学者側もそのことは承知している。だから言語学者が学習者に「文法を気にするな」という時、それは「規範文法を気にするな」という意味なのである。普通の学習者や小説家はそもそも「記述文法」という観念を持たないのでそれでいいが、時々「文法なんて忘れろ」というのをマに受けすぎて言語学で言う記述文法的な文法観念まで「忘れろ」を拡大解釈してしまう人がいるから怖い。「言語には構造がある」という事実まで無視してしまうのである。彼らは「文法(言語の構造)なんて気にすることはない。とにかく単語を勝手にバラバラ発音して通じればいいんだ。これが本当の実践語学だ。とにかく勇気を持つことだ」と、言語の構造を無視して突進する。そして永久にブロークンレベル以上の言葉を話せるようにはならない。こういう本質的な誤解をする人は結構多い。

 さて、これらの裏、特に第二点に注目しつつ上記の日本語の教科書を見てみるとその効果にさらに疑問が湧いてくる。同じような構成のドイツ語の教科書と一つ決定的な違いがあるからだ。ドイツ語のほうはメタ言語というか説明する言語もドイツ語である。そしてこの教科書は現地で毎日毎日数時間勉強する集中的な授業形式を念頭に置いているものだ。学習の言語環境は実際に子供が第一言語を獲得する時のものと近い。すでに周りに当該言語が溢れているところをちょっとプッシュしてやろうというもの。上でコキ降ろしてはしまったが、これならば確かに理論物理学者に対しても有効かもしれない。
 日本語の教科書はそういう「擬似第一言語獲得方式」をなぞってはいるが、言語環境が全く違う。ドイツではあらゆる道端で日本語が聞こえてくるなどということはないし、授業も週に3回一コマずつというのならまだいいほう、下手をすると週に一コマというスッカスカな形式だ。そんな密度の学習環境でクロスワードパズルなんてやっても、遊びながら「学ぶ」ことなどできまい。遊んで終わりである。またドイツ語の教科書は説明もドイツ語だからさらに擬似ネイティブ性が強化されているが、日本語のは説明の方がドイツ語なのでスカスカ性のほうがアップしている。TPOを無視して安易にドイツ語の教科書を真似たのではないか、と思えてならない。

 もしかしたらこのように教科書をランダムに比較するのはフェアではないのかも知れない。いろいろな教科書の構成や挿絵の挿入具合の違いは昔と今の差ではなくて想定された学習者、大学対一般という差なのかもしれない。事実こちらの大学の外国語学部などではprinted in Japanの古典的な構成の教科書を使っている場合が多い。しかし一方そういう、大学で使っている教科書でもイラストが入り、無駄に高いカラー印刷になっていたりするのだから、やはりこれはある程度時代の流れなのだろう。
 私個人は、当該言語が話されていない地域で語学をやるにはある程度咀嚼困難でも「文法」を重点にして言語構造の骨組みをしっかり立て、その後の肉付けは現地に行って各自やってください、という古い方式のほうがむしろ効果的なような気がするのだが、実際どうなのだろうか?

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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