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 セルジオ・レオーネ監督の代表作にIl Buono, il Brutto, il Cattivo(邦題『続・夕陽のガンマン』)というのがある。「いい奴、悪い奴、嫌な奴」という意味だが、英語ではちゃんと直訳されてThe good, the bad and the uglyというタイトルがついている。この映画には主人公が3人いて三つ巴の絡み合い、決闘をするのだが、ドイツ語タイトルではこれがなぜかZwei glorreiche Hallunken(「華麗なる二人のならず者」)となっていて人が一人消えている。消されたのは誰だ?たぶん最後に決闘で倒れる(あっとネタバレ失礼)リー・ヴァン・クリーフ演じる悪漢がその無視された一人ではないかと思うが、ここでなぜ素直にdrei (3)を使って「3人の華麗なならず者」とせず、zweiにして一人減らしたのかわけがわからない。リー・ヴァン・クリーフに何か恨みでもあるのか。

 もう一人のセルジオという名前の監督、セルジオ・ソリーマの作品La Resa dei Conti(「行いの清算」というような意味だ。邦題は『復讐のガンマン』)は、『アルジェの戦い』を担当した脚本家フランコ・ソリナスが協力しているせいか、マカロニウエスタンなのに(?)普通の映画になっている珍しい作品だが、ここでも人が一人消されている。
 この映画はドイツでの劇場公開時にメッタ切り、ほとんど手足切断的にカットされたそうだ。25分以上短くされ、特に信じられないことに、最重要登場人物のひとりフォン・シューレンベルク男爵という人がほとんど完全に存在を抹殺されて画面に出て来ないという。登場人物を一人消しているのだから当然ストーリーにも穴が開き、この映画の売りの一つであるクライマックスでの男爵の決闘シーンも削除。とにかく映画自体がボロボロになっていたとのこと。ドイツ語のタイトルはDer Gehetzte der Sierra Madreでちょっとバッチリ決まった日本語にしにくいのだが、「シエラ・マドレの追われる者」というか「シエラ・マドレの追われたる者」というか(「たる」と語形変化させるとやはり雰囲気が出る)、とにかく主人公があらぬ罪を着せられて逃げシエラ・マドレ山脈で狩の獲物のように追われていく、というストーリーの映画のタイトルにぴったりだ。でもタイトルがいくらキマっていても映画自体がそう切り刻まれたのでは台無しだ。
 私はもちろんこの映画を1960年代のドイツでの劇場公開では見ていないがDVDを見ればどこでカットされたかがわかる。ドイツ語吹き替えの途中で突然会話がイタリア語になり、勝手にドイツ語の字幕が入ってくる部分が所々あるのだ。これが劇場公開で切られた部分であろう。確かに件の男爵はドイツ語吹き替え版なのにイタリア語しかしゃべらない。
 この切断行為も理由がまったくわからない。ソリーマ監督自身がいつだったかインタビューで言っていたのを読んだ記憶があるが、このフォン・シューレンベルクという登場人物は、ドイツ人の俳優エーリヒ・フォン・シュトロハイムへのオマージュだったそうだ。なるほど人物設定から容貌から『大いなる幻影』のラウフェンシュタイン大尉にそっくりだ。背後には『エリーゼのために』をモチーフにしたエンニオ・モリコーネの名曲が流れる。そこまで気を使ってくれているのによりによってドイツ人がそれをカットするとは何事か。
 
 もう一つ「消された」例として、私も大好きなまどみちおさん作詞の「1年生になったら」という童謡がある。「一年生になったら友達を100人作って100人みんなで富士山に登りたい」というストーリーだ。実は当時から子供心に疑問に思っていたのだが、友達が100人いれば自分と合わせるから富士登山する人数は合計で101人になるはずではないのか。一人足りないのではないか。
 この疑問への答のヒントを与えてくれるのがロシア語のмы с тобой(ムィスタヴォイ)という言い回しだ。これは直訳するとwe with youなのだが、意味は「我々とあなた」でなく「あなたを含めた我々」、つまり「あなたと私」で、英語でもyou and Iと訳す。同様にこの友達100人も「君たち友達を含めた我々100人」、つまり合計100人、言語学で言うinclusive(包括的)な表現と見ていいのではないだろうか。逆に富士山に登ったのが101人である場合、つまり話者と相手がきっちりわかれている表現はexclusive(対立的あるいは排他的)な表現といえる。
 
 言語には複数1人称の人称表現、つまり英語の代名詞weにあたる表現に際してinclusiveなものとexclusiveなものを区別する、言い換えると相手を含める場合と相手は含めない場合と2種類のweを体系的に区別するものが少なからずある。アイヌ語がよく知られているが、シベリアの言語やアメリカ先住民族の言語、あとタミル語、さらにそもそも中国語にもこの区別があるらしい。ちょっと例を挙げてみると以下のような感じ。それぞれ左がinclusive、右がexclusiveの「我々」だ。

アイヌ語:           a-okai      対 chi-okai
アイマラ語:    jiwasa       対 naya
インドネシア語:kita           対 kami
エヴェンキ語: mit         対 bū
グアラニ語:    ñandé       対 oré
ケチュア語:    ñuqanchik 対 ñuqayku
タガログ語:    táyo        対 kamí
タミル語:        nām       対 nānkal
チェロキー語:  inega       対 osdega (双数)
         idega       対 otsega (複数)
中国語: 咱們 (zánmen)  対 我們 (wǒmen)
ハワイ語:     kāua          対 māua (双数)
       kākou         対 mākou (複数)
満州語:        muse          対 be

中国語は体系としてはちょっとこの区別が不完全で、「我們」は基本的にinclusive、exclusive両方の意味で使われるそうだ。他方の「咱們」が特にinclusiveとして用いられるのは北京語も含む北方の方言。満州語の影響なのではないかということだ。そう言われてみると、満州語と同じくトゥングース語群(人によっては「トゥングース語族」といっているようだが)のエヴェンキ語にもこの対立がある(上記参照)。満州語とエヴェンキ語はinclusiveとexclusiveがそれぞれmuseとmit、beとbūだから形まで近いではないか。
 ハワイ語やチェロキー語はご丁寧にも「私達」をさらに双数と複数とで区別している。これらの人称表現体系はさらにいろいろなタイプにカテゴリー化できるらしいが、それをここでやりだすと止まらなくなるのでこうやって大雑把に例を挙げるだけにしておくが、とにかくこの区別をする言語はアジアにも南北アメリカにも広く見られることがわかる。
 
 私の感覚だと、日本語の「私ども」と「私たち」の間にちょっとこのニュアンスの差が感じられるような気がするのだが。「私ども」というと相手が入っていない、つまりexclusive寄りの意味が強いのではないだろうか。もっともこれはinclusive対exclusiveの対立というより、むしろ「ども」を謙譲の意味とみなして、謙譲だから相手が入っているわけがないと解釈、言い換えるとinclusive対exclusiveの対立的意味合いは二次的に派生してきたと解釈するほうがいいかもしれないが。

 いずれにせよ、まどみちおさんが一人抜かしたように見えるのは結構奥の深い現象で、ドイツ人が映画やタイトルをぶった切ったのとは根本的に違うと思う。


Inclusive-exclusive
右がexclusive、左がinclusiveの「我々」である。inclusiveのうち実線が双数のinclusive、点線が複数のinclusive。こうやって「我々」をいちいち細かく区別する言語は多い。


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