うちに古いロシア語の教科書が何冊かあるのだが、その一つを何気なくまた覗いてみたら例文がレトロで感激した。ドイツのLangenscheit(ランゲンシャイト)社発行で、初版が1965年、私の手元にあるのは1992発行の第9刷である。そこの例文にこういうのがある。

Товарищ Щукин – рабочий. Сейчас он работает. Он работает хорошо, очень хорошо.

同志シチューキンは労働者です。彼は今働いています。彼はよく働きます、とてもよく働きます。

なんという感動的な文だろう。そう、この教科書が書かれた頃はソビエト連邦真っ盛りだったのだ。もう一冊、ドイツ発行でなくソ連で印刷された教科書(1991年発行)にはこういう会話例がのっている。

– Скажите, пожалуйста, коллега, когда был открыт Московский  университет?  – спрашивает Эдвард.
– В 1755 году, его основал великий русский учёный Михаил Васильевич Ломоносов.
– А сколько студентов учится в университете?
– Около 30 тысяч. И здесь работает почти 8 тысяч профессоров и преподавателей, среди них 126 академиков.

「教えてください、同僚の方、モスクワ大学はいつ開かれたのですか?」とエドワルドが尋ねる。
「1755年に偉大なるロシアの学者ミハイル・ワシリエビッチ・ロモノソフが創立しました。」
「ではどれだけの学生がこの大学で勉強しているのですか?」
「3万人くらいです。さらに、ここではほぼ8千人の教授と講師が働いています。そのうち126人がアカデミー会員です。」


こういうのを「シビれる会話」というのではないだろうか。「同僚の方」という呼びかけといい、「偉大なる」という形容詞といい、「ロモノソフ」と苗字だけ言えば済むところをわざわざ「ミハイル・ワシリエビッチ・ロモノソフ」とフルネームを持ち出すところといい、「126人のアカデミー会員」とか妙に正確な数字といい(単に「100人以上」とか言えば十分ではないか)、そしてそもそも会話の内容が完全にプロパガンダっているところといい、もうソ連の香気が充満していてゾクゾクする。

 もっとも言語学の専門論文にも面白い例文は多い。妙に時代を反映しているのだ。1960年代に書かれた論文の例文には「ケネディ」や「フルシチョフ」が時々使ってあったし、1990年ごろは「クリントン」が登場した。Enric VallduvíとElisabet  Engdahlと言う学者が1996年に共同執筆した論文にはGorbatschow ist verhaftet worden(ゴルバチョフが逮捕された)という例文が見える。

 日本人で例文の面白い言語学者というと、ハーバード大の久野暲教授ではないだろうか。私のお奨めはこれだ。以下の2文を比較せよ。

a. 強盗僕の家に入った。 その強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。

b. 強盗とコソ泥僕の家に入った。強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。コソ泥黙って、カメラを取って家から出て行った。

これはマサチューセッツ工科大学が発行している言語学の専門雑誌Linguistic Inquiryで1977年に発表されたものだ。だから原文は英語、そして日本語はローマ字で表記してある。ほとんどダーティ・ハリーの世界だが、後にSenko Maynardという学者が別の論文でこの例文をさらに次のようにバージョンアップしている。

強盗僕の家に入った。
その強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。
その時友達の山中さん部屋に入ってきた。
山中さんドアのそばにあったライフルをつかむと、あたり構わず撃ち出した。

これも英語論文だが、論文本体はどちらも談話を分析、あるいはセンテンスの情報構造を論じている、理詰め理詰めの非常に堅い内容。その本体の堅さと例文のダーティ・ハリーぶりとの間に落差がありすぎて読んでいると脳が悶えだす。考えると学者というのは本論のデータ分析にギリギリの根をつめないといけないし、そこでは実証のできない単なる思弁や想像が許されない、つまり芸術性を発揮できる機会が少ないから、例文作成にここぞとばかり創造力をつぎ込むのではないだろうか。

 あと、外国人のための日本語の教科書にも次のような例文を見つけた。

A: きのう 映画を見ました。
B: どんな 映画ですか。
A: 『七人の 侍』です。 古いですが、とても おもしろい 映画です。

たしかにその通りなのだが、『七人の侍』では当たり前すぎてちょっとインパクトに欠けるきらいがありはしないか。私が日本語教師だったらこうやってやる。

A: きのう 映画を見ました。
B: どんな 映画ですか。
A: 『続・荒野の用心棒』です。 エグいですが、とても おもしろい 映画です。

『続・荒野の用心棒』の代わりに『修羅雪姫』でもよかったかもしれない。これなら一応日本映画だし。


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