『13ウォーリアーズ』(The 13th warrior)というアントニオ・バンデラス主演の映画がある。原作はマイケル・クライトンの小説だそうで、10世紀のアラブの旅行家アハマド・イブン・ファドラーンの旅行記とベオウルフをくっ付けた話がベースになっている。一言でいうとアラブの文人が、旅行の途中で謎の戦闘民族に襲われて困っていたノルド人だかスカンジナビア人だかの未開部族の者と会い、彼らの要請でその土地まで出かけて行ってその部族を助けて敵と戦う、という筋なのだが、原作マイケル・クライトン、主演にバンデラスとあと助演にオマー・シャリフ、音楽はジェリー・ゴールドスミスという結構豪華な面子の割には、今ひとつプログラムピクチャーの域を出ていない感じだった。もっとも、映画という映画に全部タルコフスキーとかアラン・レネのような芸術性を発揮されてしまったら、映画一本見るのにもいちいち気合を入れねばならず、それはそれで大変だ。私はこういう、力で(だけ)は勝っているが頭では今ひとつ見劣りのする輩を知性と教養でねじ伏せるタイプの男性主人公(傲慢なのは嫌だが)が好きだし、単純に楽しめた。
 が、一箇所考えさせられてしまったシーンがひとつ。

 遠くアラビアからやってきた主人公はもちろん始めスカンジナビア蛮族の言葉が全く理解できないのだが、一日中彼らといて、彼らの言葉を聴いているうちたちまちその言葉をマスターしてしまい、夜になる頃にはしゃべり出す。蛮族は文人の頭の良さに感心する。
  映画では「一日のうちに」とも取れる描写だったが、これは「その部族の者と出会った地点から、彼らが住んでいる土地に行くまで何日も何日も旅行する間」をシンボル的に表していたのだろう。いずれにせよ、バンデラス演じるアラブの文人はその間受動的に言語を聞いていただけで、一言話してみて通じるかどうか試すとか、どうしてもわからない意味をちょっと聞くとかいうことはしていない。蛮族民はそのアラブ人は全く彼らの言語がわからないと思って好き勝手に彼をからかったところ、突然アラブの文人が彼らの言葉で反論してきたので、大いに驚き、「どうして俺たちの言葉がわかるんだ」と聞く。そこでアラブの文人は「ずっと君達のしゃべるのを聞いていたからね」と涼しい顔で応える。カッコいいぞ、バンデラス!

 確かにバンデラスはカッコいいが、そう簡単に問屋が卸すものだろうか。

 この蛮族の言語を習得する過程の描写自体はうまいと思った。「人間には生得的に言語獲得のメカニズムが脳内に備わっており、幼児は外から入ってくる言語情報、つまり周りで話されている言語を聞いて、それらのインプット情報が質的にも量的にも不完全であるにも関わらず、その言語の文法メカニズムを正確に獲得する。その証拠に幼児はある一定の時期(生後18ヶ月前後だそうだ)になると突然言葉を話し出す。言語獲得が脳神経の発達、つまり身体的な発達と密接に関わっているとしか考えられない」、という「言語の跳躍」がうまく表現されてはいた。監督自身が勉強していたのかスタッフに心理言語学の専門家でもついていたのか、映画製作というのは本当にいろいろな知識がいるものだと感心した。
 問題はこの言語獲得過程は母語についてだということだ。このアラブの文人氏はすでに大人で母語が固定してしまっていたから、彼にとっては蛮族の言葉は少なくとも第二言語、たぶん第三、第四言語以降の言語であったはず。そういう言語が母語と同じ獲得過程をたどるとは思えないのだが。事実、言語学者たちにも「遅くとも思春期までには子供は無意識で自然な母語獲得能力を失う」と言っている人がいる。脳が固まってしまったあとでは「インプットをもとにして言語の内部に備わっているメカニズムを自分で組み立てる」ことはできないのだ。そもそもその「自然な」母語だって組み立てるには、生まれたばかりの新品の脳をフル回転させても何年も何年もかかる。外から入ってくる言語音声を聞いて言語に内在する法則を自ら発見し自分の内部にシステムを構築する、という信じられないほど困難な作業だからだ。言語運用レベルまで勘定に入れれば、思春期以降になっても完全に言語を獲得するまでにはならないだろう。
 母語が固まってから言語をマスターする過程ではその最も肝心な部分、つまり「言語に内在する構造の発見」を自分ですることができないので、人から教えてもらわないといけない、つまりネイティブに説明して貰うか(話せはするがまともな説明は全くできないネイティブなど大勢いるから困るが)、言語学者が身を削るようにして記述した文法書に頼るしかない。ある意味では出来合いを鵜呑みにするわけだから時間は短くて済むだろうが、それでもその言語の内部メカニズムをすべて駆使できるようになるまでどんなに必死にやっても数ヶ月はかかる。いや数ヶ月でマスターできればもう表彰もの、私みたいに頭が悪いと何年いや何十年経っても四六時中文法だろ単語だろを間違える。
 この主人公のように、大人が何日かそばに座って言語音を聞いていただけで知らない言語をマスターするなんてあり得ないと思うのだが。チンパンジーレベルのヨーヘイホー言語だって覚えるの何週間もかかるのではないだろうか。

 前に語学の本の前書きに「外国語は誰にでも覚えられる。程度の差はあっても誰でもマスターできる。その証拠にあなたは日本語ができるだろう。だから他の言葉だってできるようになるのだ。」と書いてあるのを見て強い違和感を持ったことを覚えている。そもそもその「程度の差」というのが大問題で、まったく同じ勉強をし、まったく同じ時間をかけても、できるようになる者とそれこそ物にならない者との差が非常に大きく、これを一くくりにして「誰でも語学はできるようになる」と言い切っていいのかどうか疑問なのだが、この際それは不問にすることにしても、見逃せないのが「あなたは母語ができるだろう、だから外国語だってできるはずだ」というロジックである。これは少し乱暴すぎやしないか。なぜなら母語(私たちにとっては日本語)と外国語では習得・獲得のメカニズムが違うからである。
 その昔源義経だったか誰かが(義仲だったかもしれない)、どこかの合戦の際敵の裏側の断崖から攻め入ろうとすると、崖が急すぎて馬には降りられないと部下から抗議が上がった。すると大将は崖の上から鹿を走り下ろさせ、鹿が全部無事崖を降りきったのを見とどけて「鹿も四つ足、馬も四つ足、よって鹿にできることが馬にできないわけがない」といって作戦を強行した、という話を聞いてなんというアブナイ大将なのだろうと思ったのだが、上のロジックもちょっとこれと似ているような気がする。この合戦では幸い奇襲作戦が成功したからいいようなものの、馬が全部転げ落ちで足を折ったりしていたら、この逸話が「馬鹿」という言葉の語源かとカン違いしていたところだ。(上述の語学発言を「馬鹿な」といっているのではない。念のため)

 理屈から言えばこの映画のストーリーとしては、1.主人公氏は最後まで蛮族の言葉をしゃべらず、ジェスチャーだけ、せいぜい超ブロークンな単語の断片のみによるコミュニケーションを押し通す、2.主人公は蛮族の地にやって来る以前に当該言語の文法を一通りやり終えていた、という設定にする、の二通りしかあり得ないのでは?
 しかし一方、このシーンは映画のターニングポイントとして極めて重要。それまで「奇声をあげて棍棒をぶん回すのが男の価値」だと思っていた単細胞どもが「知は力なり」という事実に目覚める出発点なのだから、そこで主人公が実はすでにこっそり文法をやってズルをしてしまっていたりしたらドッチラケではないか。
 まあ、プロデューサーのほうも、そこまで突っ込んでくるような物好きもいまいと判断したか、バンデラスにずっとジェスチャーばかりやらせておくわけにもいかないと思ったか、そのターニング・ポイントまではラテン語や古ノルド語(実際に映画で使われていたのは現代ノルウェー語のブークモールだそうだ)などが飛び交っていたのにそこからは英語の会話(私が見たのはドイツ語吹き替えだが)でストーリーが進んでいく。ついでに言わせて貰うとバンデラスが最後に妙にまともないわゆる「戦士」になってしまい、結局は棍棒タイプ、剣を持って戦えるタイプの男性像が称賛される形になってしまっているのは残念だ。主人公には最後まで軟弱な学者タイプを貫いてほしかったが、まあそれだと映画になるまい。

 だから私もそういう疑問点には目をつぶることにしたのだが、ただアラブの文人の役をスペイン人のバンデラスがやったのは意味深長だと思った。スペイン語は1492年に解放されるまで600年もの間アラビア語の波を被っていて、単語や言い回しにも地名にもアラビア語起源のものが相当ある。映画『ターミネーター』で使われて以来国際語と化している感の「アスタ・ラ・ビスタ」(Hasta la vista)の「アスタ」ももとは「○○まで」を意味するアラビア語の前置詞hattaだそうだ。つまりこのキャストで製作者は「スペイン人はアラブ人といっしょ」と暗示したかったのか。まさか。
 でもそういえば以前、誰かスペイン語学の学者が、スペイン語をきちんとやるにはアラビア語の知識は不可欠、と言っていたのを覚えている。そんな異次元の言語まで動員しなくてはまともに勉強できないなんてスペイン語学習者も大変だ。それと比べるとドイツ語やロシア語はまだ楽なのではないだろうか。ドイツ語学ならラテン語ができればもうオンの字、ロシア語には古教会スラブ語があれば十分間に合うし、そもそもラテン語も古教会スラブ語も印欧語だから勝手が違って困ることもないだろう。

 ちなみに、映画では「知性の価値」に目覚めた蛮族の頭領が主人公に「音の絵が描けるか?」と聞く場面がある。これは「字が書けるのか?」という意味だ。主人公が砂にすらすらアラビア文字を書いて見せ、発音してやると統領は感心する。つまりこの人も他のノルマン人と同様文盲で無教養なのだが、上で述べたようにバンデラスに自分たちの言葉をしゃべられて周りの者がやったポカーンと口をあけた馬鹿面とはやや趣が違う。さすが統領だけに「知」というものに興味を示しているからだ。私はこの周りがやった顔のほう、「初めて知に遭遇した無教養人の馬鹿面」を見るのが辛かった。実は私も人の話がわからなくてこういう顔をしてしまうことがしょっちゅうだからだ。「私はいま凄い馬鹿面をしているな」と自分でも気づいているのにそういうポカーンとした表情しかやりようがない。完全に自分の鏡を見ているようで身につまされすぎた。


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