アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

März 2026

 非ネイティブが日本語を学習する場合、日本語基本文法の最後を飾るのが敬語だろう。実はここに日本語の勉強を途中でやめることの危険性がある。動詞の変化形や日常会話の言い回しなどを変に知った段階でやめてしまい、敬語を全く入れずに(まあ「ですます」は使えるが)話される日本語と言うのが一番神経に触るから、いわば完全に「子供の日本語」だからだ。しかし教える方でもこの「子供状態」を肯定するような発言をしている人を見たことがある。外国人に「敬語ができなくてもニコニコして丁寧な態度を取っていれば相手に伝わる」とブレーキをかけていた。ここだけの話だが、そう言われるとマに受けて「じゃあ敬語は使いたい人、使える人だけ使えばいいんだな。私は覚えられないからずっと笑って誤魔化そう」と解釈する人がいる。そういえばアクセントについても「覚えなくていい、無視していい」と言い放つ講師がいたそうだ(『138.悲しきパンダ』参照)。私個人はいくら話者が外国人だからと言って無茶苦茶なアクセント、敬語なしのタメ口日本語に付き合うなんて真っ平だ。一度やっぱり「敬語使用はオプション」と思っていていま一つ覚えようとする熱意に乏しかった人に「敬語なしの日本語なんていい大人が使う日本語じゃないんですが、いつまでも小学生みたいな言葉で話したいというのなら、まあ敬語を覚えるのは止めときましょう」とつい言ってしまった。
 もっとも教科書によっては敬語の説明の仕方がわかりにくいのも事実だ。文法体系としての敬語と、それを構築する形態素と各々の形の使い方(言語運用面での問題)がゴッチャになっていてどうもわかりにくい。例えば「丁寧語」と「美化語」を分ける人もいるが、私はこれは不必要、どちらも要は「発話状況に対する敬意」という同じ一つの機能ということでいいと思う。だいたいカテゴリーなどというものはできるだけ少ない数でまとめたほうが覚えやすいのではないだろうか。またカテゴリーの基準はできるだけ明快でないといけない。その辺が玉虫色だと収拾がつかなくなる虞がある。私は文法体系としての敬語の種類は「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3つ、その他の細かい意味合いは言語運用に属するからカテゴリー化の基準にすべきではないと思う。そして日本語の敬語体系を次のように説明している。いわゆる日本語教師文法からは少し外れていることは自覚している。

 まず今述べたように日本語の敬語には「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3種がある。尊敬語では動詞の主語に対して話者が敬意を表し、謙譲語は動詞の主語を話者が卑下する。そして丁寧語は現行の言語文脈、発話の場に対する話者の敬意を表すものだ。そしてこれら敬語形を形造るにはそれぞれ3つの方法がある。一つは対応する別語で置き換えるやり方。二つ目が専用の形態素を付加するやり方、そして3つ目が動詞変化による作り方である。だから計算上は次の3×3=9つの敬語形が考えられる。

1.対応する別語での置き換えによる尊敬語形
2.語の付加による尊敬語形
3.動詞変化による尊敬語形
4.対応する別語での置き換えによる謙譲語形
5.語の付加による謙譲語形
6.動詞変化による謙譲語形
7.対応する別語での置き換えによる丁寧語形
8.形態素の付加による丁寧語形
9.動詞変化による丁寧語形

「動詞変化」という言葉を使ったが、これは助動詞の付加のことである。日本語のような膠着語的言語は印欧語より単語と形態素の間に一線を引くのが難しいから助動詞付加をある種の語形変化とみなすことにする。「語の付加」のタイプには助動詞ではなく他の動詞や接頭辞などがベタベタくっ付く点で「動詞変化」と違っている。これらの違いを下のように表にしてみるとさらにすっきりする。横段が敬語の種類、縦が形成方法である。
Tabelle1-223
まずこのように鳥瞰してから一つ一つのパターンを説明していけば楽勝とまでは行かなくとも混沌とした五里霧中状態は避けられるのではないだろうか。しかもこれはあくまで計算上だから中には存在しないパターンもある。例えば6のパターンは存在しない。順番に見て行こう。
 まず1だが、特定の動詞には意味自体は同じだが尊敬の念を表す別の動詞とペアになっているものがある。ロシア語のアスペクトペアみたいなものだが、ロシア語ではほとんどの動詞がパートナー持ちであるのに対し、日本語の方はあくまで「特定動詞」であるところが決定的に違う。対応語で置き換えて尊敬形を作れる動詞は非常に数が限られているのだ。以下の動詞がその代表的。それぞれ左が中立動詞、右が対応する尊敬語動詞である。

来る→いらっしゃる
行く→いらっしゃる
いる→いらっしゃる
食べる→召し上がる
飲む→召し上がる
言う→おっしゃる
する→なさる
やる→なさる
くれる→くださる

「山田さんは今日うちにいる」と「山田さんは今日うちにいらっしゃる」とは同じ意味である。またこれは尊敬語全体に言えることだが、自分に対しては絶対に使ってははいけない。
 続いて2のタイプは次のように形成する。

接頭辞「お」+動詞マス語幹+与格マーカー「に」+動詞「なる」

私は子音語幹動詞(日本語教師の言う第一グル―プ、『215.終止形か連体形か』参照)の「読ん」と「読み」を「連用形」と一つにまとめるのには反対なので「マス語幹」と言っている。「読みます」からマスを引いた語幹だ。「お読みになる」「お食べになる」などがこのパターンだが、1と違って理論上は全ての動詞から作れる。しかし理論上は可能でも言語運用上の理由で受け入れ難いものもある。例えば「する」から作られた「おしになる」は受け入れがたい。「聾」あるいは「死に」を連想させるからであろう。だからdoを言いたい場合は「する」という動詞を使わず「やる」で代用し、「おやりになる」を使う。また「お来になる」もダメ。これはどうも響きが悪い上に「着る」と混同されやすいからだと思う。理論上は可能なのに存在しない形というのはどの言語にもあって、言語学者はこういう現象が大好きである。
 なお、「する」という動詞自体はこのパターンは不可能だが「する」を付加して作られる合成動詞、「帰宅する」「研究する」「勉強する」などでは頭の名詞部分を取ってこのパターンが可能だ。ただし接頭辞は「お」でなく「ご」になるのが普通。これらの名詞部が漢語だからである。

帰宅する→ご帰宅になる
勉強する→ご勉強になる
研究する→ご研究になる

「ご勉強になる」は私の感覚では「お」でもよく、「お勉強になる」でもまあOKだ。OKなのだがそもそも「ご勉強になる」という言い回し自体あまり使われないとは思う。「ご覧になる」もこれだろう。2の亜種として以下のように図式化できる。

接頭辞「ご」+名詞+与格マーカー「に」+動詞「なる」

同じ意味の「やる」という動詞はこの合成語を作ることができないので、亜種も存在しない。
 次の3はもちろん動詞のナイ語幹に助動詞レル(子音語幹動詞と「する」)、またはラレル(母音語幹動詞と「来る」)を付加するやり方だが、「ナイ語幹」といっても「する」は母音変化を起こすからナイを取った「し」でなく「さ」という形になる。だから尊敬形は「される」だ。このレル・ラレルは「できる」という意味で使われた場合、母音語幹動詞でラが抜ける傾向が顕著で「ら抜き言葉」と言われて教師から罵られているが、同じ助動詞でも尊敬の意味で使われるとラが抜けない。「読まれる」「食べられる」「行かれる」「来られる」などこのやり方も理論上はあらゆる動詞に使える。2のタイプより制限も少ないが、惜しいかなこの助動詞が尊敬の他に可能、受け身、自発表現という他の機能も担っているため文脈によっては誤解されやすい。
 これら1、2、3のどれを使っても尊敬になる、言い換えると「いらっしゃる」「お行きになる」「行かれる」、あるいは「召し上がる」「お食べになる」「食べられる」はそれぞれ同機能である。どれを使うかは個人裁量だ。私の感覚では1のやり方が可能な動詞は素直に1でやるのが一番自然な感じがするが、「いらっしゃる」の代わりに「お行きになる」あるいは「行かれる」と言っても完全にOKである。ただ上で述べた「おしになる」「お来になる」のように使えない形もあるので、その場合は他のパターンを取らないといけないということだ。1または3を使って「なさる」「される」、あるいは「いらっしゃる」「来られる」と言わねばいけない。さらに上で述べたように「する」は様々な名詞と共に合成動詞を形成するが、その場合も例えば「お研究しになる」(これは完全にNG)でなく2でも亜種を使って「ご研究になる」と動詞そのものは抜かすか、パターン1を使って動詞を入れ替え「研究なさる」とする、あるいはパターン3で助動詞レルを使って「する」を語形変化させ、「研究される」としないと日本語にならない。
 次に謙譲語だが、尊敬語と同様特定動詞には対応する謙遜語動詞がある。表のパターン4だ。上で「ペア構造」と言ったが正確には中立・尊敬・謙譲動詞という三角関係と言った方がいいだろう。主なものを表にしてみよう。比較のために上で出した尊敬形も繰り返す。
Tabelle2-223
 尊敬のほうが穴が多いが、その代わり作成方法が充実している。別語による置き換え表現の他に動詞変化と形態素付加、パターン2と3の二つの方法があるから隙間は埋まる。「貰う」なら「お貰いになる」(パターン2)「貰われる」(パターン3)、「見る」なら「ご覧になる」(パターン2)、「見られる」(パターン3)である。しかし謙譲語には専用の助動詞がないから隙間を埋めるには次の5のパターン、形態素付加によるしかない。

接頭辞「お」+動詞マス語幹+動詞「する」
接頭辞「ご」+名詞+動詞「する」

2番目は尊敬語の場合と同様、「する」を使った合成動詞に適用する亜種である。「読む」→「お読みする」、「書く」→「お書きする」、「同伴する」→「ご同伴する」などがこの例だが、謙譲語のパターン5は対応する尊敬語のパターン2と比べると使用範囲が明らかに狭い。尊敬語の1、2、3はまあほぼ同機能だが、5は4に比べて機能が明らかに弱いのである。
 まず5は意味が全くのニュートラルではない。「当該人物へのサービス」というニュアンスが伴う。例えばこんな場面を想像して欲しい:先生に何かの報告を読んでもらいたくて手渡そうとしたら先生は「今両手がふさがっているから誰か読んでくれないか」と言う。そこで私が「あ、私がお読みします」。これは何の問題もない。では次のような場面はどうか:先生が「今度本を出版した」と言う。そこで私が「是非今度お読みします」。これは最初のシーンと比べて明らかに引っかかる。なぜか。「お読みする」という言い回しに「相手へのサービス」、露骨に言うと「本当は興味はないんだが、先生への義理があるから読んでみるわ」というニュアンスが漂ってしまうからではないだろうか。もちろんその差は非常に微妙だし、最初の例の「読む」は「朗読」、2番目の「読む」は「黙読」で、動詞自体の意味が違ってくるから比較にはならないという反論もできよう。しかし「食べる」という動詞だとこのことがさらにはっきりする。例えば次のような状況:先生との会食の際に自分の注文はすぐ来たのに先生のがなかなか来ない。それを見て先生が言う、「あっ、先に食べなさい。冷めるとまずくなるし」。それへの反応として「では失礼して先にお食べします」とは絶対に言えない。「先にいただきます」である。
 つまり5には意味が上乗せされていて純粋な謙遜ではないのだ。では純粋な謙遜を表すにはどうするか。「食べる」ならパターン4が効くから言い換えられるが、「読む」のように対応する謙遜動詞を持たない。そういう場合は本動詞を使役形にした上に補助動詞として「もらう」の対応動詞「いただく」を加えればいい。「あっ、本を出版されたんですか!是非今度読ませていただきます」。「食べる」にもこの手は使える:「では失礼して先に食べさせていただきます」。「読む」の方はさらにマス語幹の独立性が高く「読み」が名詞として確立しているから(「君ぃ、そりゃ読みが浅いよ」など)、名詞+動詞「する」という合成動詞のパターンが効くので「お読みさせていただく」と謙譲語の上乗せが可能である。しかしこの「~ていただく」はあくまで非常手段というか代理表現であり、これを「形態素付加による謙譲語形成パターン」と見なすことはできない。なぜならこれのニュートラル形は使役形の入った「読ませてもらう」「食べさせてもらう」であり、「読む」「食べる」そのものではないからだ。
 つまり謙譲語は体系としては不完全と言えよう。

 次に丁寧語の8だが、尊敬語、謙遜語に比べて大きな違いがある。尊敬・謙遜では動詞を置き換えるのに対し、丁寧語では対応形を持っているのが代名詞とコピュラだということだ。日本語には品詞としても代名詞は指示代名詞と疑問代名詞しかないが、それらが中立形と丁寧形の二重構造になっている。左が中立、右が丁寧形。

ここ→こちら
そこ→そちら
あそこ→あちら
どこ→どちら
誰→どなた

形として丁寧な対応語を持っているのは本来場所を表す代名詞だけだが、その「場所の丁寧形代名詞」がそれぞれ「こ系」「そ系」「あ系」の他の代名詞も代用することができる。

この犬→こちらの犬
その車→そちらの車
あれは誰だ→あちらはどなたですか
誰の本?→どちらの本?

「どちら」は「誰」の代用もできる。「どなたの本?」と言ってももちろんいい。3番目の例で出したようにコピュラの「だ」の丁寧語の対応形が「です」である。気をつけなければいけないのは、この中立コピュラ「だ」はイ形容詞ではゼロ形で現れるからまるで「です」が付加されたように見えるが、実はこれはあくまでゼロ形コピュラの置き換えなのだということだ。私はそう解釈している。えっ、何を言っているかわからない?次のようなことだ。まず名詞+コピュラという文構造では中立コピュラ「だ」が表面に現れるから、「です」は「だ」の置き換えであることがはっきりしている。

私は日本人→私は日本人です

つぎにナ形容詞でも終止形に「だ」が来るから、「だ」→「です」と解釈できる。『215.終止形か連体形か』で出したようにナ形容詞の終止形の「だ」はコピュラなのか形容詞の語尾なのか解釈が割れるのだが、まあ「だ」→「です」という置き換えパターンは同じだからいいことにする(割といい加減)。

この花はきれい→この花はきれいです

これに対してイ形容詞は終止形で「だ」を取らないから「だ」が「です」に置き換えられたのではなく「です」が付加されたように見える。しかし「付加」と解釈してしまうと「対応する別語による置き換え」という7のパターンから外れてしまう。そこで整合性を取るため中立コピュラ「だ」はイ形容詞ではゼロで現れる、とすればいい。「です」はゼロを置き換えるのだと。

アヒルはかわいいØ→アヒルはかわいいです


(この項続きます)


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 ドイツはクリスマス時から正月にかけてTVによくマカロニウエスタンが流れてくる。どういう神経なのかよくわからない部分はあるが、大抵テレンス・ヒルとバッド・スペンサーのコメディ路線映画なのでまあ「クリスマスは家族で楽しく」という方針なのだろう。もっともドサクサに紛れて時々レオーネやコルブッチも出てきたりするが。例えば今年2026年の正月から2日にかけての深夜にさる公営放送局で『殺しが静かにやって来る』をやっていた。私個人はこの作品はマカロニウエスタンの最高峰の一つだとは思っているが、絶対正月に流したりしてはいけない。新年早々こんなのを見たらその年一年間ドツボりそうだ。
 というわけで私は見なかったが(私はモリコーネレベルに早寝早起きなので深夜放送と言うのはそもそも超苦手なのである)、その代わりと言っていいのか、何だかまたちょっと見たくなったので昼間にジュリオ・ペトローニの映画を2本連続で見ていた。『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』Da uomo a uomo と『復讐無頼・狼たちの荒野』Tepepa である。この2つはペトローニの代表作と言っていいと思う。ストーリーや作品の雰囲気は全然違うが復讐をモチーフにしている点だけは共通している。もっとも「復讐」はそもそもほぼ全てのマカロニウエスタン作品に共通するテーマなので当たり前と言えばあまりにも当たり前だが。
 『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』(Da uomo a uomo、1967)は見ているとどうもトニーノ・ヴァレリの『怒りの荒野』(I giorni dell'ira、1967)(『193.トニーノ・ヴァレリの西部劇』参照)と比べてしまう。それこそ共通点が多いからだ。どちらも若いガンマンと中年のガンマンの話で、どちらも中年の方をリー・バン・クリーフが演じている。若者の方は前者がジョン・フィリップ・ロー、後者がジュリアーノ・ジェンマで、つまり双方イケメンで売っている俳優だ。そのイケメンの若者が復讐に燃えている。 フィリップ・ローは家族を皆殺しにされた恨みを、ジェンマの方は自分を蔑んでいる町の人たちに対して(下記)。若者が燃えているのに対して中年の方はあまりカッカしていない。『新・夕陽のガンマン』のリー・バン・クリーフは別の個人的理由でフィリップ・ローと同じ人物(4人いる)への復讐を狙っているがあくまで冷静、『怒りの荒野』のオッサン(だんだん呼び方が雑になる)は復讐ではなく町を掌握してボスに収まろうという冷たい目的のために淡々とジェンマをたぶらかすというやっぱり冷静な人である。
 もっとも結末は正反対で、『怒りの荒野』ではジェンマが下剋上(違)でリー・バン・クリーフを倒すが、『新夕陽』は友情が本物へと昇華する。私は後者の方が好きだ。ジュリアーノ・ジェンマは今見るとどうも「毒」が足りない。もっともそこがジェンマのいい点なのだろうが、リー・バン・クリーフはただつっ立っているだけで雰囲気がある。バッド・スペンサーやテレンス・ヒルも何も始めない前から「待ってました」と声をかけたくなる。ジョン・フィリップ・ローも童顔なのに(?)イケメンで、決して名優とは言えないだろうが時々シブい表情をすると思った。ジェンマにはいま一つこれがない気がする。しかし繰り返すがもちろん氏はカッコいいし映画もちゃんと面白い。
 さて『新夕陽…』の脚本はルチアーノ・ヴィンチェンツォーニである。レオーネの『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』を担当した人だ。何かのインタビューで話していたが、レオーネは両親が年を取ってからの一人っ子だったので兄弟とか男同士の友情に憧れていたんだそうだ。西部劇で描きたかったのもそれだと自分で言っていた。『夕陽のガンマン』などまさにその路線。ヴィンチェンツォーニがレオーネの注文でそういうストーリーの脚本を書いたのか、それともヴィンチェンツォーニはそういう男同士の友情を描くのが上手いとレオーネが知っていたから氏に白羽の矢を立てたのかわからないが、とにかくレオーネだけでなくペトローニ監督の『新・夕陽…』も若者とその父親くらいの年齢の中年男との交流の話となっている。一度リー・バン・クリーフがフィリップ・ローに向かって「俺に息子がいないのが残念だ。いつか俺がくたばったら仇を取ってくれただろうに」とボソッと呟くシーンがあり、これがこの映画のキーワードだなと思った。もしかしたら『新・夕陽…』は『怒りの荒野』ではなく『夕陽のガンマン』と比べたほうがいいのかもしれない。
 モチーフが復讐であること、主人公が敵につかまって拷問されることなどマカロニウエスタンの定式で、これ見よがしのウリはないが堅実で好感度の高い作品だと思う。ジャンル全体がまだ若かったころでマンネリにも陥っていない。『怒りの荒野』や『夕陽のガンマン』ほど知名度がないのが残念だ。
 映画はさる家族が強盗団に皆殺しされるシーンで始まる。たった一人生き残った子供は強盗団のメンバー1人1人の特徴を覚えていていつか復讐しようと臥薪嘗胆する。その15年後の若者がフィリップ・ローである。一方その強盗団は仲間の一人を当局側に売り渡して、罪を全部おっかぶせ刑務所に送り込む。そうして自分たちは素知らぬ顔をして町の有力者に成りすましていたが、15年後、刑期を終えたその仲間が出所してくる。復讐戦は必至。これがリー・バン・クリーフである。昔の仲間は当然自分たちの命の危険を感じ、先手を打って刺客を出所者に差し向けるのだが、もちろん刺客の方が殺される。それを検分した保安官がフィリップ・ローの知り合いで、殺された方のブーツについていた拍車が、フィリップ・ローが家族を殺した者の手がかりとして保管しておいた拍車と同じものであることを見て、フィリップ・ローに教えてくれる。当然そいつらに狙われたほう(リー・バン・クリーフ)は皆殺し犯人に関わり合いのある人物に違いないという事で、フィリップ・ローは旅を続けるリー・バン・クリーフについて行こうとする。つまりフィリップ・ローとリー・バン・クリーフは同じ目標を追うことになるのだから素直に協力しあえばいいものを、双方絶対自分自身で相手を殺したいと思っているから何とか相手を出し抜こうと必死。まあマカロニウエスタンの定番な展開だ。結果的には(しぶしぶ)手を貸しあって相手方を全滅させるという復讐劇だが、モリコーネのスコアには文句のつけようがない。
 たった一つ気にかかったのは、最後二人がさるメキシコの村の男たちを総動員して敵の一味と銃撃戦になるのだが、村人があまりに唐突に全滅する点だ。急に主人公の二人以外誰もいなくなる。画面の展開から全滅と察することはできるが、もうちょっと人がバタバタ死ぬシーンを入れたほうが良かったんじゃないかという気はした。映画の出来を損ねるほどではないからまあいいかも思ったが。

復讐に燃える童顔のイケメン、ジョン・フィリップ・ロー
John-Phillip-Law
毎度のことながら決まったポーズのリー・バン・クリーフ
Law-and-Cleef
 二年後の1969年に制作された『復讐無頼・狼たちの荒野』Tepepa は『新・夕陽…』とは全く違ったモチーフで、メキシコ革命を題材にしている。脚本はイヴァン・デラ・メア Ivan Della Mea とフランコ・ソリナス Franco Solinas で、前者は本業はシンガーソングライターで政治的にも活動し、イタリア共産党の党員だったそうだ。ソリナスは言わずと知れた本職の脚本家兼作家で、フランチェスコ・ロージ監督の『シシリーの黒い霧』(Salvatore Giuliano、1963)、コスタ・ガヴラスの『戒厳令』(État de siège、1972)の脚本はこの人だが、何といっても有名なのは1966年の『アルジェの戦い』La battaglia di Algeri だろう。1969年のオスカー脚本賞にノミネートされている。ガチの社会派である。マカロニウエスタンにも手を出していて(『77.マカロニウエスタンとメキシコ革命』『91.Quién sabe?』参照)このペトローニの『復讐無頼』だけでなくダミアノ・ダミアーニの『群盗荒野を裂く』(Quién sabe?、1966)、セルジオ・ソリーマの『復讐のガンマン』(La resa dei conti、1967)、セルジオ・コルブッチの『豹/ジャガー』(Il mercenario、1968)の原作や脚本もソリナスの筆だ。マカロニウエスタンのメキシコ革命モノを総ナメしている感じだが、レオーネの『夕陽のギャングたち』(Giù la testa、1971)は違って、脚本はヴィンチェンツォーニとセルジオ・ドナーティだった。考えすぎかもしれないが、そう言えば『夕陽のギャングたち』もある意味男の友情物語だった。ソリナスのほうは『復讐無頼』を最後にマカロニウエスタンから離れて世界各地の植民地独立戦争を描いた映画の方に移っていっていたから、『夕陽のギャングたち』は時期的に遅すぎたのかもしれない。
 『復讐無頼』は脚本ソリナスと聞けば全て納得してしまうような作品である。もっとも監督のペトローニ自身もムソリーニ時代には抵抗運動に加わり、共産主義思想を支持していたそうだ。マカロニウエスタンの監督にはそういう人が多い。あのレオーネも自分の事を「夢破れた共産主義者」と定義していたのを見たことがある。さてその主役はトマス・ミリアンで、この役は氏のベストオブだと思う。脇役にオーソン・ウェルズも出ていて貫禄抜群。ストーリーも何というか緻密でいてしかも無駄がない。観客をアッと言わせたりモッタイをつけるためだけの変な伏線脱線の類いがないのである。妙にビヨーンと伸ばしたシーンもない。
 さるメキシコの町にジョン・スタイナー演ずる英国人の医師が車でやって来る。そこの刑務所では革命軍の指揮者の一人トマス・ミリアン(役名ヘスス・マリア・モラン)が死刑にされるところだったが、間一髪でスタイナーに救われる。ではスタイナーなメキシコ革命軍の一味かと言うとそうではなく、大地主の娘だった恋人をミリアンに強姦され自殺に追い込まれたため、自分の手でミリアンを殺して復讐しようと救い出したのである。この辺『新・夕陽…』といっしょだ。タイトルのテペパ Tepepa というのはミリアンの役の愛称である。ミリアンを死刑にしようとする政府軍のカスコロ大佐をオーソン・ウェルズがやっている。
 さてそういうスタイナーの事情をウェルズは知らないから当然ミリアンを助け出した氏を革命軍の仲間だと思って二人を追跡する。それに邪魔されてスタイナーはミリアンを殺す最初のタイミングを失っているうちにかえって二人で行動を共にする羽目になり、最後のクライマックスを迎えるのだが、そこに至るまでの社会派ストーリーが面白い。
 まずミリアンは自分への死刑宣告を大統領のマデロ(マドゥロじゃありません)が許可したとは信じられない。大統領は元革命軍の同志で、その指令を伝えるためにミリアンの父は命を落としている。内戦は革命軍側の勝利に終わり、大統領となった同志マデロの命令に従ってミリアンたちは武器を置いた。しかし新大統領の横には以前まさに自分たちが戦った政府軍が同じメンツで控えていた。ミリアンの頭には一抹の疑惑が生じたが、それでも氏は同志大統領の言葉を信じて銃を置いたのである。
 しかし蓋を開けてみると社会は全く変わらなかった、というよりさらにひどく、変わる気配があったのにそれが消えて完全に革命以前に逆行してしまった。以前自分たちを搾取した大地主ウェルズが戻ってきて、小作農には何の発言権もない。ミリアンはウェルズに反抗し、捕まって死刑判決を受けた。大統領が承諾の署名をしたという。前述のようにギリギリのところで救い出されたミリアンはまずその真偽を問いただすために仲間のアジトに戻ってそこから大統領に一筆したためようとする。
 しかしこの「一筆したためる」ことがミリアン自身にはできない。氏は文盲だからだ。以前の仲間で唯一読み書きができた者は盗みを働いて両手を切り落とされていた。もう一人字が書けた知り合いの神父はまさに「ミリアンの知り合い」ということで拷問され殺された。仕方なくミリアンはスタイナーに手紙を書かせる。ウソをかいていないかどうか手のない仲間が見張った(今は書くことはできないが読めはするのである)。
 すると大統領から「会って話がしたい」という知らせが来た。手無しがその知らせを持って帰って来たのだが、実はそれは裏切りで、来いと言われた会見場所には大統領でなく政府軍兵士が銃を持って手ぐすね引いていた。ミリアンはすでにピーンと来ていてまず手無しを殺す。手無しの懐には大統領から貰った大金があった。兵士たちも片づけてアジトに帰ると仲間が大勢政府軍に斬殺されていた。生き残った仲間の一人が「俺たちを売ったのはあの手無しか?」と聞くとミリアンは応える:いや裏切者はあの手無しじゃない、大統領だ。
 そうして今度は大統領が敵となった。まず右腕のウェルズを消すことだ。ミリアンはまた革命軍を組織する。しかしそれにはたくさんの武器がいる。その武器はひょんなことから手に入った。
 ミリアンはスタイナーに「お前の探しているテペパは俺じゃない、そういうあだ名の奴は他にもいる」と言いくるめてスタイナー(恋人が強姦されるのを自分の目で見たわけではなかった。「犯人はテペパ」と聞いただけである)をぐらつかせ、復讐戦の方は休戦状態になっていた。そして例の手無しには息子がいて、まだ子供だった。手無しはその養育費のためにとミリアンを売ったのだが、この子供が非常にミリアンになついている。なついているが子供では戦闘員にならない。そこで軍隊再編成時にスタイナーが去っていく際、子供も連れて行くことになったのである。スタイナーにも結構なついていたのだ。
 スタイナーと子供がいざアメリカへ出発しようとした矢先にウェルズが追いつき、ミリアンの一味として逮捕する。その際ウェルズはスタイナーに、氏の探しているテペパはミリアンであること、証拠も揃っていることを告げる。スタイナーは逮捕者というステータスのままミリアン追跡に協力することになる。それを盗み聞きした子供は自分の有り金を持って逃げだす。偶然以前に手無しともども入れられていた刑務所で知り合った怪しげな中国人の武器商人にあい、武器を大量に購入してミリアンたちのアジトへ向かう。なぜ子供がそんな大金を持っていたのかと言うと、ミリアンが手無しを殺してポケットに大金を見つけたとき、これはお前の金だからと全部その子に渡していたのである。
 武器を手にしたミリアンたちは、わざとウェルズが自分たちを追うように仕向け(中国人がウェルズにチクることを想定してその裏をかく)、おびき出して途中の道で攻撃を開始する。
 政府軍は全滅、ウェルズもミリアンに囚われたが、ウェルズの放った一発がミリアンの胸に命中して重症を負う(ウェルズはミリアンに射殺される)。ミリアンはスタイナーに怪我の手当てを頼むが、傷でうなされながらスタイナーの恋人を死に追いやったのは自分だと告げてしまう。そこで懺悔して許しを乞えばどうにかなったかもしれないが、「男が誰でも女にやっていることをやっただけだ。革命と言う偉業の前には女なんてなんだ」的に口を滑らせてしまい、というより本音を出してしまい、それを聞いたスタイナーがメスをミリアンの心臓に付きたてる。
 ミリアンを心配して外に集まって来た仲間には「死んだ。助けられなかった」といい、ほぼ全員それを信じるが、一人例の子供だけはスタイナーがミリアンを殺したことを見抜いて医者を撃ち殺す。
 ラスト・シーンでは革命がまだ続いていくこと、ミリアンの精神が死んではいないことが暗示され、モリコーネの曲をクリスティが歌って〆る。そういえば歌で思い出したが、ラスト近くに囚われたウェルズを歩かせながらミリアンが口笛を吹く。そのメロディがモリコーネのスコアそのままだった。映画音楽がBGMでなくストーリーそのものの中に入っているのだ。文学理論をやっている人などにはこういうところを面白がるのではないだろうか。
 とにかく『復讐無頼』はいい映画だと思ったし、ペトローニ自身も自分が作った西部劇の中ではこれが一番好きだと言っている。なのにあまり有名でなく、しかもIMDBなどでの評価が意外なほど低い。なぜだろうと考えたのだが、一つにIMDBがアメリカのサイトだということがある。言っちゃ悪いがアメリカ人は共産主義とか革命とかいうものに対してちょっと病的なくらいのアレルギーを持っている人が多い。それが響いてヨーロッパで作られたメキシコ革命モノと聞いただけで拒否反応が起こったのかもしれない。もう一つはこの映画がいわばあまりマカロニウエスタンらしくないことだ。凄腕ガンマンも出てこないし、シュールな決闘シーンも、見ただけでこちらまで破傷風になりそうな拷問シーンもない。つまりまともすぎるのである。セルジオ・ソリーマの作品もまともな映画だったが、それでも待ってました的な決闘シーンはあった。『復讐無頼』はそれがないからつまらなく見えたのかも知れない。
 この映画の撮影地はスペインだが、『拳銃のバラード』(『218.マカロニウエスタンとユーゴスラビア』参照)の場合と同じく俳優やエキストラを現地調達している。メキシコ人役のエキストラとしては現地のロマの人々を起用したそうだ。映画の中でメキシコ農民役を例えばアメリカ人俳優にやられたりするといつもステレオタイプでトンチンカンになるので、メキシコ本国人は怒っているとペトローニに伝わってきていたらしい。そこでロマ起用となった。キューバ出身で英語にもスペイン語訛があるトマス・ミリアンによるメキシコ農民役はメキシコ人にも気に入ってもらえたそうだ。

メキシコ人からOKを貰ったトマス・ミリアンのメキシコ人ぶり
Milian-as-Tepepa
 もう一人出演者で注目すべきは、手無しの息子、最後にスタイナーを撃ち殺した子供を演じたルチアーノ・カサモニカ Luciano Casamonica である。この子役はなんとマフィアのボス、ヴィットリオ・カサモニカVittorio Casamonicaの甥だそうで、 …E venne il tempo di uccidere(『218.マカロニウエスタンとユーゴスラビア』参照)など他にもいくつかマカロニウエスタンに出演している。『復讐無頼』にはルチアーノの兄弟のアルマンド・カサモニカArmando Casamonicaも撃たれ役のエキストラ出演しているそうだ。ルチアーノと違ってアルマンドの映画出演はこれ一本だけとのことである。

マフィアのボスの甥、ルチアーノ・カサモニカ
Luciano-Ca
この後すぐ殺される若きメキシコ革命家たち。左がアルマンド・カサモニカかな?
Erschossene-Bauer
 実はペトローニはこの二つの復讐劇と同時期、1968年にジュリアーノ・ジェンマとマリオ・アドルフとで『暁のガンマン』…E per tetto un cielo di stelle という西部劇を撮っている。「コメディ路線の西部劇」と紹介されることが多い。ジェンマが仇としてその兄と父親(どちらも悪漢)に狙われて避けている(逃げているのではなく、もうこれ以上人を殺したくないからと避けている)道中で気のいい金鉱掘りのアドルフと知り合い、いわばドタバタ珍道中になる話だ。アドルフはドジでやることなすこと裏目に出るのがまあ喜劇調といえるのだろうが、結構残酷なシーンもあってどうも印象がチグハグだ。またジェンマがモテるのはいいのだが、出てくる女性がいわゆるお引きずり的な、言ってよければ尻軽女ばかりでこれも雰囲気が良くない。コンビそのものには結構味があるし、駄作・失敗作というのとはほど遠いのだが、上の二作と比べると劣ることは否めまい。

『暁のガンマン』のジュリアーノ・ジェンマとマリオ・アドルフ。コンビ自体は結構いい味を出しているのだが…
Gemma-und-Adorf

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