非ネイティブが日本語を学習する場合、日本語基本文法の最後を飾るのが敬語だろう。実はここに日本語の勉強を途中でやめることの危険性がある。動詞の変化形や日常会話の言い回しなどを変に知った段階でやめてしまい、敬語を全く入れずに(まあ「ですます」は使えるが)話される日本語と言うのが一番神経に触るから、いわば完全に「子供の日本語」だからだ。しかし教える方でもこの「子供状態」を肯定するような発言をしている人を見たことがある。外国人に「敬語ができなくてもニコニコして丁寧な態度を取っていれば相手に伝わる」とブレーキをかけていた。ここだけの話だが、そう言われるとマに受けて「じゃあ敬語は使いたい人、使える人だけ使えばいいんだな。私は覚えられないからずっと笑って誤魔化そう」と解釈する人がいる。そういえばアクセントについても「覚えなくていい、無視していい」と言い放つ講師がいたそうだ(『138.悲しきパンダ』参照)。私個人はいくら話者が外国人だからと言って無茶苦茶なアクセント、敬語なしのタメ口日本語に付き合うなんて真っ平だ。一度やっぱり「敬語使用はオプション」と思っていていま一つ覚えようとする熱意に乏しかった人に「敬語なしの日本語なんていい大人が使う日本語じゃないんですが、いつまでも小学生みたいな言葉で話したいというのなら、まあ敬語を覚えるのは止めときましょう」とつい言ってしまった。
もっとも教科書によっては敬語の説明の仕方がわかりにくいのも事実だ。文法体系としての敬語と、それを構築する形態素と各々の形の使い方(言語運用面での問題)がゴッチャになっていてどうもわかりにくい。例えば「丁寧語」と「美化語」を分ける人もいるが、私はこれは不必要、どちらも要は「発話状況に対する敬意」という同じ一つの機能ということでいいと思う。だいたいカテゴリーなどというものはできるだけ少ない数でまとめたほうが覚えやすいのではないだろうか。またカテゴリーの基準はできるだけ明快でないといけない。その辺が玉虫色だと収拾がつかなくなる虞がある。私は文法体系としての敬語の種類は「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3つ、その他の細かい意味合いは言語運用に属するからカテゴリー化の基準にすべきではないと思う。そして日本語の敬語体系を次のように説明している。いわゆる日本語教師文法からは少し外れていることは自覚している。
まず今述べたように日本語の敬語には「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3種がある。尊敬語では動詞の主語に対して話者が敬意を表し、謙譲語は動詞の主語を話者が卑下する。そして丁寧語は現行の言語文脈、発話の場に対する話者の敬意を表すものだ。そしてこれら敬語形を形造るにはそれぞれ3つの方法がある。一つは対応する別語で置き換えるやり方。二つ目が専用の形態素を付加するやり方、そして3つ目が動詞変化による作り方である。だから計算上は次の3×3=9つの敬語形が考えられる。
1.対応する別語での置き換えによる尊敬語形
2.語の付加による尊敬語形
3.動詞変化による尊敬語形
4.対応する別語での置き換えによる謙譲語形
5.語の付加による謙譲語形
6.動詞変化による謙譲語形
7.対応する別語での置き換えによる丁寧語形
8.形態素の付加による丁寧語形
9.動詞変化による丁寧語形
「動詞変化」という言葉を使ったが、これは助動詞の付加のことである。日本語のような膠着語的言語は印欧語より単語と形態素の間に一線を引くのが難しいから助動詞付加をある種の語形変化とみなすことにする。「語の付加」のタイプには助動詞ではなく他の動詞や接頭辞などがベタベタくっ付く点で「動詞変化」と違っている。これらの違いを下のように表にしてみるとさらにすっきりする。横段が敬語の種類、縦が形成方法である。

まずこのように鳥瞰してから一つ一つのパターンを説明していけば楽勝とまでは行かなくとも混沌とした五里霧中状態は避けられるのではないだろうか。しかもこれはあくまで計算上だから中には存在しないパターンもある。例えば6のパターンは存在しない。順番に見て行こう。
まず1だが、特定の動詞には意味自体は同じだが尊敬の念を表す別の動詞とペアになっているものがある。ロシア語のアスペクトペアみたいなものだが、ロシア語ではほとんどの動詞がパートナー持ちであるのに対し、日本語の方はあくまで「特定動詞」であるところが決定的に違う。対応語で置き換えて尊敬形を作れる動詞は非常に数が限られているのだ。以下の動詞がその代表的。それぞれ左が中立動詞、右が対応する尊敬語動詞である。
来る→いらっしゃる
行く→いらっしゃる
いる→いらっしゃる
食べる→召し上がる
飲む→召し上がる
言う→おっしゃる
する→なさる
やる→なさる
くれる→くださる
「山田さんは今日うちにいる」と「山田さんは今日うちにいらっしゃる」とは同じ意味である。またこれは尊敬語全体に言えることだが、自分に対しては絶対に使ってははいけない。
続いて2のタイプは次のように形成する。
接頭辞「お」+動詞マス語幹+与格マーカー「に」+動詞「なる」
私は子音語幹動詞(日本語教師の言う第一グル―プ、『215.終止形か連体形か』参照)の「読ん」と「読み」を「連用形」と一つにまとめるのには反対なので「マス語幹」と言っている。「読みます」からマスを引いた語幹だ。「お読みになる」「お食べになる」などがこのパターンだが、1と違って理論上は全ての動詞から作れる。しかし理論上は可能でも言語運用上の理由で受け入れ難いものもある。例えば「する」から作られた「おしになる」は受け入れがたい。「聾」あるいは「死に」を連想させるからであろう。だからdoを言いたい場合は「する」という動詞を使わず「やる」で代用し、「おやりになる」を使う。また「お来になる」もダメ。これはどうも響きが悪い上に「着る」と混同されやすいからだと思う。理論上は可能なのに存在しない形というのはどの言語にもあって、言語学者はこういう現象が大好きである。
なお、「する」という動詞自体はこのパターンは不可能だが「する」を付加して作られる合成動詞、「帰宅する」「研究する」「勉強する」などでは頭の名詞部分を取ってこのパターンが可能だ。ただし接頭辞は「お」でなく「ご」になるのが普通。これらの名詞部が漢語だからである。
帰宅する→ご帰宅になる
勉強する→ご勉強になる
研究する→ご研究になる
「ご勉強になる」は私の感覚では「お」でもよく、「お勉強になる」でもまあOKだ。OKなのだがそもそも「ご勉強になる」という言い回し自体あまり使われないとは思う。「ご覧になる」もこれだろう。2の亜種として以下のように図式化できる。
接頭辞「ご」+名詞+与格マーカー「に」+動詞「なる」
同じ意味の「やる」という動詞はこの合成語を作ることができないので、亜種も存在しない。
次の3はもちろん動詞のナイ語幹に助動詞レル(子音語幹動詞と「する」)、またはラレル(母音語幹動詞と「来る」)を付加するやり方だが、「ナイ語幹」といっても「する」は母音変化を起こすからナイを取った「し」でなく「さ」という形になる。だから尊敬形は「される」だ。このレル・ラレルは「できる」という意味で使われた場合、母音語幹動詞でラが抜ける傾向が顕著で「ら抜き言葉」と言われて教師から罵られているが、同じ助動詞でも尊敬の意味で使われるとラが抜けない。「読まれる」「食べられる」「行かれる」「来られる」などこのやり方も理論上はあらゆる動詞に使える。2のタイプより制限も少ないが、惜しいかなこの助動詞が尊敬の他に可能、受け身、自発表現という他の機能も担っているため文脈によっては誤解されやすい。
これら1、2、3のどれを使っても尊敬になる、言い換えると「いらっしゃる」「お行きになる」「行かれる」、あるいは「召し上がる」「お食べになる」「食べられる」はそれぞれ同機能である。どれを使うかは個人裁量だ。私の感覚では1のやり方が可能な動詞は素直に1でやるのが一番自然な感じがするが、「いらっしゃる」の代わりに「お行きになる」あるいは「行かれる」と言っても完全にOKである。ただ上で述べた「おしになる」「お来になる」のように使えない形もあるので、その場合は他のパターンを取らないといけないということだ。1または3を使って「なさる」「される」、あるいは「いらっしゃる」「来られる」と言わねばいけない。さらに上で述べたように「する」は様々な名詞と共に合成動詞を形成するが、その場合も例えば「お研究しになる」(これは完全にNG)でなく2でも亜種を使って「ご研究になる」と動詞そのものは抜かすか、パターン1を使って動詞を入れ替え「研究なさる」とする、あるいはパターン3で助動詞レルを使って「する」を語形変化させ、「研究される」としないと日本語にならない。
次に謙譲語だが、尊敬語と同様特定動詞には対応する謙遜語動詞がある。表のパターン4だ。上で「ペア構造」と言ったが正確には中立・尊敬・謙譲動詞という三角関係と言った方がいいだろう。主なものを表にしてみよう。比較のために上で出した尊敬形も繰り返す。

尊敬のほうが穴が多いが、その代わり作成方法が充実している。別語による置き換え表現の他に動詞変化と形態素付加、パターン2と3の二つの方法があるから隙間は埋まる。「貰う」なら「お貰いになる」(パターン2)「貰われる」(パターン3)、「見る」なら「ご覧になる」(パターン2)、「見られる」(パターン3)である。しかし謙譲語には専用の助動詞がないから隙間を埋めるには次の5のパターン、形態素付加によるしかない。
接頭辞「お」+動詞マス語幹+動詞「する」
接頭辞「ご」+名詞+動詞「する」
2番目は尊敬語の場合と同様、「する」を使った合成動詞に適用する亜種である。「読む」→「お読みする」、「書く」→「お書きする」、「同伴する」→「ご同伴する」などがこの例だが、謙譲語のパターン5は対応する尊敬語のパターン2と比べると使用範囲が明らかに狭い。尊敬語の1、2、3はまあほぼ同機能だが、5は4に比べて機能が明らかに弱いのである。
まず5は意味が全くのニュートラルではない。「当該人物へのサービス」というニュアンスが伴う。例えばこんな場面を想像して欲しい:先生に何かの報告を読んでもらいたくて手渡そうとしたら先生は「今両手がふさがっているから誰か読んでくれないか」と言う。そこで私が「あ、私がお読みします」。これは何の問題もない。では次のような場面はどうか:先生が「今度本を出版した」と言う。そこで私が「是非今度お読みします」。これは最初のシーンと比べて明らかに引っかかる。なぜか。「お読みする」という言い回しに「相手へのサービス」、露骨に言うと「本当は興味はないんだが、先生への義理があるから読んでみるわ」というニュアンスが漂ってしまうからではないだろうか。もちろんその差は非常に微妙だし、最初の例の「読む」は「朗読」、2番目の「読む」は「黙読」で、動詞自体の意味が違ってくるから比較にはならないという反論もできよう。しかし「食べる」という動詞だとこのことがさらにはっきりする。例えば次のような状況:先生との会食の際に自分の注文はすぐ来たのに先生のがなかなか来ない。それを見て先生が言う、「あっ、先に食べなさい。冷めるとまずくなるし」。それへの反応として「では失礼して先にお食べします」とは絶対に言えない。「先にいただきます」である。
つまり5には意味が上乗せされていて純粋な謙遜ではないのだ。では純粋な謙遜を表すにはどうするか。「食べる」ならパターン4が効くから言い換えられるが、「読む」のように対応する謙遜動詞を持たない。そういう場合は本動詞を使役形にした上に補助動詞として「もらう」の対応動詞「いただく」を加えればいい。「あっ、本を出版されたんですか!是非今度読ませていただきます」。「食べる」にもこの手は使える:「では失礼して先に食べさせていただきます」。「読む」の方はさらにマス語幹の独立性が高く「読み」が名詞として確立しているから(「君ぃ、そりゃ読みが浅いよ」など)、名詞+動詞「する」という合成動詞のパターンが効くので「お読みさせていただく」と謙譲語の上乗せが可能である。しかしこの「~ていただく」はあくまで非常手段というか代理表現であり、これを「形態素付加による謙譲語形成パターン」と見なすことはできない。なぜならこれのニュートラル形は使役形の入った「読ませてもらう」「食べさせてもらう」であり、「読む」「食べる」そのものではないからだ。
つまり謙譲語は体系としては不完全と言えよう。
次に丁寧語の8だが、尊敬語、謙遜語に比べて大きな違いがある。尊敬・謙遜では動詞を置き換えるのに対し、丁寧語では対応形を持っているのが代名詞とコピュラだということだ。日本語には品詞としても代名詞は指示代名詞と疑問代名詞しかないが、それらが中立形と丁寧形の二重構造になっている。左が中立、右が丁寧形。
ここ→こちら
そこ→そちら
あそこ→あちら
どこ→どちら
誰→どなた
形として丁寧な対応語を持っているのは本来場所を表す代名詞だけだが、その「場所の丁寧形代名詞」がそれぞれ「こ系」「そ系」「あ系」の他の代名詞も代用することができる。
この犬→こちらの犬
その車→そちらの車
あれは誰だ→あちらはどなたですか
誰の本?→どちらの本?
「どちら」は「誰」の代用もできる。「どなたの本?」と言ってももちろんいい。3番目の例で出したようにコピュラの「だ」の丁寧語の対応形が「です」である。気をつけなければいけないのは、この中立コピュラ「だ」はイ形容詞ではゼロ形で現れるからまるで「です」が付加されたように見えるが、実はこれはあくまでゼロ形コピュラの置き換えなのだということだ。私はそう解釈している。えっ、何を言っているかわからない?次のようなことだ。まず名詞+コピュラという文構造では中立コピュラ「だ」が表面に現れるから、「です」は「だ」の置き換えであることがはっきりしている。
私は日本人だ→私は日本人です
つぎにナ形容詞でも終止形に「だ」が来るから、「だ」→「です」と解釈できる。『215.終止形か連体形か』で出したようにナ形容詞の終止形の「だ」はコピュラなのか形容詞の語尾なのか解釈が割れるのだが、まあ「だ」→「です」という置き換えパターンは同じだからいいことにする(割といい加減)。
この花はきれいだ→この花はきれいです
これに対してイ形容詞は終止形で「だ」を取らないから「だ」が「です」に置き換えられたのではなく「です」が付加されたように見える。しかし「付加」と解釈してしまうと「対応する別語による置き換え」という7のパターンから外れてしまう。そこで整合性を取るため中立コピュラ「だ」はイ形容詞ではゼロで現れる、とすればいい。「です」はゼロを置き換えるのだと。
アヒルはかわいいØ→アヒルはかわいいです
(この項続きます)
もっとも教科書によっては敬語の説明の仕方がわかりにくいのも事実だ。文法体系としての敬語と、それを構築する形態素と各々の形の使い方(言語運用面での問題)がゴッチャになっていてどうもわかりにくい。例えば「丁寧語」と「美化語」を分ける人もいるが、私はこれは不必要、どちらも要は「発話状況に対する敬意」という同じ一つの機能ということでいいと思う。だいたいカテゴリーなどというものはできるだけ少ない数でまとめたほうが覚えやすいのではないだろうか。またカテゴリーの基準はできるだけ明快でないといけない。その辺が玉虫色だと収拾がつかなくなる虞がある。私は文法体系としての敬語の種類は「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3つ、その他の細かい意味合いは言語運用に属するからカテゴリー化の基準にすべきではないと思う。そして日本語の敬語体系を次のように説明している。いわゆる日本語教師文法からは少し外れていることは自覚している。
まず今述べたように日本語の敬語には「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3種がある。尊敬語では動詞の主語に対して話者が敬意を表し、謙譲語は動詞の主語を話者が卑下する。そして丁寧語は現行の言語文脈、発話の場に対する話者の敬意を表すものだ。そしてこれら敬語形を形造るにはそれぞれ3つの方法がある。一つは対応する別語で置き換えるやり方。二つ目が専用の形態素を付加するやり方、そして3つ目が動詞変化による作り方である。だから計算上は次の3×3=9つの敬語形が考えられる。
1.対応する別語での置き換えによる尊敬語形
2.語の付加による尊敬語形
3.動詞変化による尊敬語形
4.対応する別語での置き換えによる謙譲語形
5.語の付加による謙譲語形
6.動詞変化による謙譲語形
7.対応する別語での置き換えによる丁寧語形
8.形態素の付加による丁寧語形
9.動詞変化による丁寧語形
「動詞変化」という言葉を使ったが、これは助動詞の付加のことである。日本語のような膠着語的言語は印欧語より単語と形態素の間に一線を引くのが難しいから助動詞付加をある種の語形変化とみなすことにする。「語の付加」のタイプには助動詞ではなく他の動詞や接頭辞などがベタベタくっ付く点で「動詞変化」と違っている。これらの違いを下のように表にしてみるとさらにすっきりする。横段が敬語の種類、縦が形成方法である。

まずこのように鳥瞰してから一つ一つのパターンを説明していけば楽勝とまでは行かなくとも混沌とした五里霧中状態は避けられるのではないだろうか。しかもこれはあくまで計算上だから中には存在しないパターンもある。例えば6のパターンは存在しない。順番に見て行こう。
まず1だが、特定の動詞には意味自体は同じだが尊敬の念を表す別の動詞とペアになっているものがある。ロシア語のアスペクトペアみたいなものだが、ロシア語ではほとんどの動詞がパートナー持ちであるのに対し、日本語の方はあくまで「特定動詞」であるところが決定的に違う。対応語で置き換えて尊敬形を作れる動詞は非常に数が限られているのだ。以下の動詞がその代表的。それぞれ左が中立動詞、右が対応する尊敬語動詞である。
来る→いらっしゃる
行く→いらっしゃる
いる→いらっしゃる
食べる→召し上がる
飲む→召し上がる
言う→おっしゃる
する→なさる
やる→なさる
くれる→くださる
「山田さんは今日うちにいる」と「山田さんは今日うちにいらっしゃる」とは同じ意味である。またこれは尊敬語全体に言えることだが、自分に対しては絶対に使ってははいけない。
続いて2のタイプは次のように形成する。
接頭辞「お」+動詞マス語幹+与格マーカー「に」+動詞「なる」
私は子音語幹動詞(日本語教師の言う第一グル―プ、『215.終止形か連体形か』参照)の「読ん」と「読み」を「連用形」と一つにまとめるのには反対なので「マス語幹」と言っている。「読みます」からマスを引いた語幹だ。「お読みになる」「お食べになる」などがこのパターンだが、1と違って理論上は全ての動詞から作れる。しかし理論上は可能でも言語運用上の理由で受け入れ難いものもある。例えば「する」から作られた「おしになる」は受け入れがたい。「聾」あるいは「死に」を連想させるからであろう。だからdoを言いたい場合は「する」という動詞を使わず「やる」で代用し、「おやりになる」を使う。また「お来になる」もダメ。これはどうも響きが悪い上に「着る」と混同されやすいからだと思う。理論上は可能なのに存在しない形というのはどの言語にもあって、言語学者はこういう現象が大好きである。
なお、「する」という動詞自体はこのパターンは不可能だが「する」を付加して作られる合成動詞、「帰宅する」「研究する」「勉強する」などでは頭の名詞部分を取ってこのパターンが可能だ。ただし接頭辞は「お」でなく「ご」になるのが普通。これらの名詞部が漢語だからである。
帰宅する→ご帰宅になる
勉強する→ご勉強になる
研究する→ご研究になる
「ご勉強になる」は私の感覚では「お」でもよく、「お勉強になる」でもまあOKだ。OKなのだがそもそも「ご勉強になる」という言い回し自体あまり使われないとは思う。「ご覧になる」もこれだろう。2の亜種として以下のように図式化できる。
接頭辞「ご」+名詞+与格マーカー「に」+動詞「なる」
同じ意味の「やる」という動詞はこの合成語を作ることができないので、亜種も存在しない。
次の3はもちろん動詞のナイ語幹に助動詞レル(子音語幹動詞と「する」)、またはラレル(母音語幹動詞と「来る」)を付加するやり方だが、「ナイ語幹」といっても「する」は母音変化を起こすからナイを取った「し」でなく「さ」という形になる。だから尊敬形は「される」だ。このレル・ラレルは「できる」という意味で使われた場合、母音語幹動詞でラが抜ける傾向が顕著で「ら抜き言葉」と言われて教師から罵られているが、同じ助動詞でも尊敬の意味で使われるとラが抜けない。「読まれる」「食べられる」「行かれる」「来られる」などこのやり方も理論上はあらゆる動詞に使える。2のタイプより制限も少ないが、惜しいかなこの助動詞が尊敬の他に可能、受け身、自発表現という他の機能も担っているため文脈によっては誤解されやすい。
これら1、2、3のどれを使っても尊敬になる、言い換えると「いらっしゃる」「お行きになる」「行かれる」、あるいは「召し上がる」「お食べになる」「食べられる」はそれぞれ同機能である。どれを使うかは個人裁量だ。私の感覚では1のやり方が可能な動詞は素直に1でやるのが一番自然な感じがするが、「いらっしゃる」の代わりに「お行きになる」あるいは「行かれる」と言っても完全にOKである。ただ上で述べた「おしになる」「お来になる」のように使えない形もあるので、その場合は他のパターンを取らないといけないということだ。1または3を使って「なさる」「される」、あるいは「いらっしゃる」「来られる」と言わねばいけない。さらに上で述べたように「する」は様々な名詞と共に合成動詞を形成するが、その場合も例えば「お研究しになる」(これは完全にNG)でなく2でも亜種を使って「ご研究になる」と動詞そのものは抜かすか、パターン1を使って動詞を入れ替え「研究なさる」とする、あるいはパターン3で助動詞レルを使って「する」を語形変化させ、「研究される」としないと日本語にならない。
次に謙譲語だが、尊敬語と同様特定動詞には対応する謙遜語動詞がある。表のパターン4だ。上で「ペア構造」と言ったが正確には中立・尊敬・謙譲動詞という三角関係と言った方がいいだろう。主なものを表にしてみよう。比較のために上で出した尊敬形も繰り返す。

尊敬のほうが穴が多いが、その代わり作成方法が充実している。別語による置き換え表現の他に動詞変化と形態素付加、パターン2と3の二つの方法があるから隙間は埋まる。「貰う」なら「お貰いになる」(パターン2)「貰われる」(パターン3)、「見る」なら「ご覧になる」(パターン2)、「見られる」(パターン3)である。しかし謙譲語には専用の助動詞がないから隙間を埋めるには次の5のパターン、形態素付加によるしかない。
接頭辞「お」+動詞マス語幹+動詞「する」
接頭辞「ご」+名詞+動詞「する」
2番目は尊敬語の場合と同様、「する」を使った合成動詞に適用する亜種である。「読む」→「お読みする」、「書く」→「お書きする」、「同伴する」→「ご同伴する」などがこの例だが、謙譲語のパターン5は対応する尊敬語のパターン2と比べると使用範囲が明らかに狭い。尊敬語の1、2、3はまあほぼ同機能だが、5は4に比べて機能が明らかに弱いのである。
まず5は意味が全くのニュートラルではない。「当該人物へのサービス」というニュアンスが伴う。例えばこんな場面を想像して欲しい:先生に何かの報告を読んでもらいたくて手渡そうとしたら先生は「今両手がふさがっているから誰か読んでくれないか」と言う。そこで私が「あ、私がお読みします」。これは何の問題もない。では次のような場面はどうか:先生が「今度本を出版した」と言う。そこで私が「是非今度お読みします」。これは最初のシーンと比べて明らかに引っかかる。なぜか。「お読みする」という言い回しに「相手へのサービス」、露骨に言うと「本当は興味はないんだが、先生への義理があるから読んでみるわ」というニュアンスが漂ってしまうからではないだろうか。もちろんその差は非常に微妙だし、最初の例の「読む」は「朗読」、2番目の「読む」は「黙読」で、動詞自体の意味が違ってくるから比較にはならないという反論もできよう。しかし「食べる」という動詞だとこのことがさらにはっきりする。例えば次のような状況:先生との会食の際に自分の注文はすぐ来たのに先生のがなかなか来ない。それを見て先生が言う、「あっ、先に食べなさい。冷めるとまずくなるし」。それへの反応として「では失礼して先にお食べします」とは絶対に言えない。「先にいただきます」である。
つまり5には意味が上乗せされていて純粋な謙遜ではないのだ。では純粋な謙遜を表すにはどうするか。「食べる」ならパターン4が効くから言い換えられるが、「読む」のように対応する謙遜動詞を持たない。そういう場合は本動詞を使役形にした上に補助動詞として「もらう」の対応動詞「いただく」を加えればいい。「あっ、本を出版されたんですか!是非今度読ませていただきます」。「食べる」にもこの手は使える:「では失礼して先に食べさせていただきます」。「読む」の方はさらにマス語幹の独立性が高く「読み」が名詞として確立しているから(「君ぃ、そりゃ読みが浅いよ」など)、名詞+動詞「する」という合成動詞のパターンが効くので「お読みさせていただく」と謙譲語の上乗せが可能である。しかしこの「~ていただく」はあくまで非常手段というか代理表現であり、これを「形態素付加による謙譲語形成パターン」と見なすことはできない。なぜならこれのニュートラル形は使役形の入った「読ませてもらう」「食べさせてもらう」であり、「読む」「食べる」そのものではないからだ。
つまり謙譲語は体系としては不完全と言えよう。
次に丁寧語の8だが、尊敬語、謙遜語に比べて大きな違いがある。尊敬・謙遜では動詞を置き換えるのに対し、丁寧語では対応形を持っているのが代名詞とコピュラだということだ。日本語には品詞としても代名詞は指示代名詞と疑問代名詞しかないが、それらが中立形と丁寧形の二重構造になっている。左が中立、右が丁寧形。
ここ→こちら
そこ→そちら
あそこ→あちら
どこ→どちら
誰→どなた
形として丁寧な対応語を持っているのは本来場所を表す代名詞だけだが、その「場所の丁寧形代名詞」がそれぞれ「こ系」「そ系」「あ系」の他の代名詞も代用することができる。
この犬→こちらの犬
その車→そちらの車
あれは誰だ→あちらはどなたですか
誰の本?→どちらの本?
「どちら」は「誰」の代用もできる。「どなたの本?」と言ってももちろんいい。3番目の例で出したようにコピュラの「だ」の丁寧語の対応形が「です」である。気をつけなければいけないのは、この中立コピュラ「だ」はイ形容詞ではゼロ形で現れるからまるで「です」が付加されたように見えるが、実はこれはあくまでゼロ形コピュラの置き換えなのだということだ。私はそう解釈している。えっ、何を言っているかわからない?次のようなことだ。まず名詞+コピュラという文構造では中立コピュラ「だ」が表面に現れるから、「です」は「だ」の置き換えであることがはっきりしている。
私は日本人だ→私は日本人です
つぎにナ形容詞でも終止形に「だ」が来るから、「だ」→「です」と解釈できる。『215.終止形か連体形か』で出したようにナ形容詞の終止形の「だ」はコピュラなのか形容詞の語尾なのか解釈が割れるのだが、まあ「だ」→「です」という置き換えパターンは同じだからいいことにする(割といい加減)。
この花はきれいだ→この花はきれいです
これに対してイ形容詞は終止形で「だ」を取らないから「だ」が「です」に置き換えられたのではなく「です」が付加されたように見える。しかし「付加」と解釈してしまうと「対応する別語による置き換え」という7のパターンから外れてしまう。そこで整合性を取るため中立コピュラ「だ」はイ形容詞ではゼロで現れる、とすればいい。「です」はゼロを置き換えるのだと。
アヒルはかわいいØ→アヒルはかわいいです
(この項続きます)





