アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Oktober 2025

 前にもちょっと触れたが、マカロニウエスタンには二つの源泉がある(『69.ピエール・ブリース追悼』『155.不幸の黄色いサンダル』参照)。一つが当時の西ドイツで何作も制作された西部劇で、原作はカール・マイの(軽い)冒険小説。どの映画もヴィネトウという名のネイティブ・アメリカンが主人公でそれをフランス人のピエール・ブリースが務め、その友人の白人役をアメリカ人のレックス・バーカーがやっている。この一連のヴィネトウ映画は未だに年中ドイツのTVで流している。人気ぶりではテレンス・ヒル、スペンサー組の西部劇と肩を並べるだろう。監督もスタッフもドイツ人だが制作にはドイツ、イタリア、あとユーゴスラビアの三国が関与していて、俳優もドイツ(含オーストリア)やアメリカだけでなくイタリアやユーゴスラビアからも参加している。ロケ地もユーゴスラビアだ。例えばシリーズの第一作目1963年の Winnetou 1. Teil(「ヴィネトウ第一部」)にはウォルター・バーンズやマリオ・アドルフなど後のマカロニウエスタンでお馴染みの顔が見える。「ヴィネトウ第二部」Winnetou 2. Teil(1964)にはクラウス・キンスキー、テレンス・ヒルが登場、やはり一連の一つ Unter Geiern(「ハゲタカの下で」、1964)にはジークハルト・ルップ、ウォルター・バーンズ、テレンス・ヒルが勢ぞろいしていてすでにマカロニウエスタン臭プンプンだ。この Unter Geiern という作品は下で改めて述べるが、割とキーポイントになる作品である。しかしまだある。これも一連映画の一つ、1964年の Old Shatterhand(「シャターハンドおじさん」?)の音楽を担当したのはリズ・オルトラーニだ!どうだ参ったか。
 この一連のヴィネトウ映画に端役で出演していたゴイコ・ミティッチ Gojko Mitić というセルビア、当時のユーゴスラビアの俳優はその後東ドイツに渡ってスターになった。偶然かそれとも西ドイツに対抗してワザとやったのか、60年代後半ごろには東ドイツでも盛んにネイティブアメリカンを主人公にした映画が作られ、ミティッチがその主人公を引き受けたからだ。
 さてマカロニウエスタンのもう一つの源泉はイタリアのサンダル映画である。マカロニウエスタンの監督や俳優には元々サンダル映画を取っていた人が実に多い。そもそもレオーネだって監督第一作目はサンダル映画である。ドゥッチョ・テッサリだってそうだ。

 西ドイツのヴィネトウ映画とイタリアのサンダル映画、この二つが合流してマカロニウエスタンが生まれたわけだが製作面、つまり資金面で西ドイツがかなり関与していたためかマカロニウエスタンでもユーゴスラビアとの関係が続いた。例えばセルジオ・コルブッチが初めて監督を(一部)引き受けた Massacro al Grande Canyon(「グランド・キャニオンの大虐殺」、ドイツ語タイトル Keinen Cent für Ringos Kopf、「リンゴーの首には一セントも出せない」)という西部劇。残念ながら超つまらない作品だがロケ地はユーゴスラビアである。マカロニウエスタンには俳優でもユーゴスラビア生まれの者が流れ込んだ。最も有名なのはクロアチア出身のジャンニ・ガルコ(『130.サルタナがやって来た』参照)だろうが、ガルコは地理的にはクロアチア出身でも政治的にはイタリアの出だ。出生地のザダル市が当時イタリア領だったからだ。しかもこれも前にも言った通りそもそもユーゴスラビアのアドリア海沿岸は何百年もベネチア共和国領で宗教もカトリックだから文化的にもイタリアに近く、ガルコもまあ半分以上イタリア人のようなものだ。
 しかしガルコの他にもう一人、マカロニウエスタンで主役まで行ったユーゴスラビアの出身の俳優がいる。アンソニー・ギドラ Anthony Ghidra という芸名を使っていたドラゴミル・ボヤニッチ Dragomir Bojanić である。『拳銃のバラード』Ballata per un pistolero などの主役を務めた俳優だ。この人はガチのユーゴスラビア人、ギリシャ正教のセルビアのクラグイェヴァツの生まれだ。1933年生まれだから当時は「ユーゴスラビア王国」である。マカロニウエスタンを撮る前からすでにセルビアで俳優としての地位を築いており、主役ではないが出演した1965年の Tri(「3」)という映画は当時のアカデミー外国語映画賞にノミネートされている。最初からイタリアで全キャリアを築いたガルコやそのままドイツで活躍し続けたミティッチと違ってマカロニウエスタン出演のあともイタリアには留まったりせず、セルビアに帰って俳優業を続けた。セルビア側では「イタリアで映画に出ていたことある」とあくまで軽く冷たく紹介されている。要するに正真正銘のセルビア人俳優なのである。
 そのイタリアでの第一作『拳銃のバラード』は、アルフィオ・カルタビアーノ Alfio Caltabiano というスタントマン出身の俳優兼監督で、レオーネやコルブッチ、ヴァレリなどと違って「その他大勢の監督」のカテゴリーに入れられがちだが、複数の西部劇を作っている。『拳銃のバラード』が一番出来がいいという評価だ。この映画はストーリーもテーマもまあマカロニウエスタンの定式通りだし、特に派手でもなく物珍しさもないが非常に堅実な作りで結構面白く、好感の持てる作品だ。マルチェロ・ジョンビーニの音楽も良かった。ジョンビーニは『西部悪人伝』のあの耳にやたらとこびりつくスコアを作曲した人だ。
 悪漢兄弟が徒党を組んで輸送金を狙う。定番通りこの二人にはたんまり懸賞金がかかっていて、これも定番通り謎めいた若い賞金稼ぎ(イタリア人俳優アンジェロ・インファンティ)がこれを追う。その悪漢ボスの兄の方を監督自らが演じている。その若い賞金稼ぎと同時にもう一人の謎めいたガンマンが登場するが、これがアンソニー・ギドラことボヤニッチだ。こちらも兄弟を追っているが金のためではなく復讐が目的だ。そしてまたまたマカロニウエスタンの法式に従って追うほうの二人が微妙にコンビを組んで協力し最後には悪漢二人を倒すのだが、最後になって実はこちらの方も兄弟だったと(観客に)わかる。アシメトリーな兄弟と言う、これもマカロニウエスタンの定番だ。さらに定番としてボヤニッチの主人公は一度敵方の手に落ちて拷問を受ける。
 この『拳銃のバラード』はコルブッチの『グランド・キャニオンの大虐殺』と同じくロケ地がユーゴスラビア。またロケ地ばかりでなく、ギャング団の手下や酒場の客などの小さな役は皆ユーゴスラビア人の俳優が演じている。ロケをするついでに俳優も現地調達したのかもしれない。やはり撮影地がユーゴスラビアだった上述西ドイツのヴィネトウ映画シリーズでも独伊墺俳優に交じってユーゴスラビアの俳優が相当活躍している。そのユーゴスラビア人俳優の名前がヴィネトウ映画と『拳銃のバラード』で結構被っているのが面白い。ボヤニッチもヴィネトウ映画の一つ、上記の Unter Geiern という作品にノンクレジットで出演している。『グランド・キャニオンの大虐殺』でもユーゴスラビアの俳優が小さな役をこなしているが、やはりヴィネトウ映画に出ていた人である。西ドイツの西部劇とマカロニウエスタンの間には浅からぬ繋がりがあるのだ。そもそも『拳銃のバラード』の脚本と製作を担当したのはエルンスト・リッター・フォン・トイマー Ernst Ritter von Theumer というオーストリア人だが、『殺して祈れ』Requiescant の製作もこの人だ。
 しかしたとえ本国ですでに名があったとはいえ、そして映画人たちの間に繋がりがあったとはいえ、ドラゴミル・ボヤニッチはなんでマカロニウエスタンなんかに流れて来たのか、ユーゴスラビアの俳優をいきなり主役につけようという発想は誰が出したのか実に気になる。ジャンニ・ガルコはそもそも俳優としての修業をイタリア映画界で開始しているから何もおかしくないが、ユーゴスラビアの奥の方から来てイタリアで主役というのは相当の縁と言うか偶然が働いているはずだ。推測するしかないのだが上で見たように西ドイツの西部劇を通してやって来たとしか思えない。ひょっとしたらヴィネトウ映画を機にしてセルビア人のミティッチが東ドイツで成功していくのを見て、西ドイツ&イタリア側がじゃあ俺たちはこっちのセルビア人だとの対抗意識からボヤニッチに白羽の矢でも立てたか。とにかくマカロニウエスタンの背後にチラチラしている(マフィアの黒幕かよ)西ドイツ映画の影響を感じる。その西ドイツ西部劇とマカロニウエスタンの繋ぎと言う意味で Unter Geiern という作品は興味深い。映画自体は面白くないのが残念だ。
 さてそのボヤニッチだが、例えばジャン・マリア・ヴォロンテやジュリアーノ・ジェンマ、あるいはジョージ・ヒルトンのような派手な作りの顔ではないし、クラウス・キンスキー、リー・ヴァン・クリーフのように一度見たら忘れられないような強烈なご面相でもない、かといってまたフランコ・ネロ、テレンス・ヒルのような端正な顔でもないのだが、精悍でドスの効いた面構えで画面を引き締めている。完全にマカロニウエスタンとして絵になっていて違和感が全くない。ヴァレリの『さすらいの一匹狼』のクレイグ・ヒルはその点少しハマりきっていない雰囲気があった(『193.トニーノ・ヴァレリの西部劇』参照)。

完全にマカロニウエスタンに溶け込んでいるセルビア人ドラゴミル・ボヤニッチ。『拳銃のバラード』から
bojanic-in-spaghetti
『拳銃のバラード』。ドラゴミル・ボヤニッチ(左)とアンジェロ・インファンティ
bojanic-und-infani
 『拳銃のバラード』のすぐ後に別の監督で L’ultimo killer(「最後の殺し屋」、ドイツ語タイトル Rocco – Ich leg’ dich um「ロッコ、貴様を殺してやる」)という作品が続いたが、ここではボヤニッチが映画そのものを救っている感があった。『拳銃のバラード』と違ってこれは俳優も(ボヤニッチ以外は)全部イタリア人で、ロケ地もイタリアである。主役はジョージ・イーストマン(本名ルイジ・モンテフィオーリ Luigi Montefiori)だが、いくらなんでもこれはミスキャストだったと思う。どうしてこの人を引っ張り出したりしたのだろう。監督のジュゼッペ・ヴァリ Giuseppe Vari はその直前の Un poker di pistole(ドイツ語タイトル Poker mit Pistolen、「ピストルでポーカー」)という映画でイーストマンを使っているから、その引き続きかもしれない。しかしこの映画でのイーストマンの役は貧乏なメキシコ農民の息子である。身長206cmもある上にあの特異な容貌の者に虐げられたメキシコ人の若者をやらせるのは無理があり過ぎだ。この若者は映画のしょっぱなに悪漢に滅茶苦茶に殴られるが、殴るほうはせいぜい身長180cm、イーストマンの顔をぶん殴るには背伸びするかジャンプしないと届かない。そこを何とか撮影でそれらしく切り抜けているが、イーストマンの方が殴らせてやっている感がぬぐい切れていない。また倒れている息子を父親が見つけて助け起こすが、二人並んで馬車に乗っている後ろ姿を見ると息子の背中の頑丈そうな面積が父親の倍くらいあり、助けたのはどっちだよと思う。イーストマンにはやはりちょっとサイコな役をやってもらった方がいい。バルボーニの Ciakmull (『208.バルボーニのカンフル剤』参照)でのこの人はすごく良かった。とにかくこのキャラがあまりにも浮いているので最初いま一つ映画にのめりこめない上に音楽もサンダル映画調で時々急に画面に不釣り合いなファンファーレがかかる。「なんだこれは」と嫌気がさしかけていたのだが、ボヤニッチが登場したら雰囲気が変わった。引き締まったのである。そのハマりぶりによってイーストマンの浮いている感が緩和された感じだ。
 ストーリーはこれもマカロニウエスタンの定番で、メキシコ人の弱小農民の土地をアメリカ人の大牧場主が奪い取ろうと画策する。借金をカタに土地をよこせという日本の時代劇にもよくあるパターンである。メキシコ農民の他にも大企業牧場から嫌がらせを受けている中小規模のアメリカ人たちもいて、その大ボスを始末しようとする。アメリカ人たちはそのメキシコ人親子も誘うが、父親は暴に暴をもって制することを否定して仲間に加わらない。襲撃を受けた大ボスは当然カンカンに怒って生意気な中小企業のやつらに復讐するが、真っ先にその矛先になったのは暴動には加わらなかったメキシコ人の父親で、家を焼かれ父親を殺されたイーストマンが復讐のために立つ。
 その大ボスと言うのがまた大タヌキで、自分に従わない共同経営者や部下を消そうとして殺し屋を雇う。この殺し屋がボヤニッチである。イーストマンがひょんなことからこの殺し屋が後ろから撃たれるのを阻止した代わりに自分は大怪我をしたのを殺し屋が拾って(?)傷の手当てをし、銃の撃ち方を伝授する。
 言われた目的をすべて殺した殺し屋が引退しようとした矢先に、イーストマンが大ボスの一味を射殺したため、大ボスは殺し屋を引き留めて「もう一回だけ」と仕事を頼む。目的はガンマンに成長したイーストマンである。二人は対決して、ボヤニッチを撃ち殺し自分も傷を受けたたイーストマンが大ボスも殺す。『怒りの荒野』かよ。
 さて上でついこき下ろしてしまったキャスティングだが、逆に農民の息子役をイーストマンでなく普通の俳優がやっていたらどうなっていただろう。チクハグ感はなくなるかもしれないが客寄せ要素も消える。監督もそこを考えて多少違和感があってもいいからとにかく目立つ人を前面に持ってこようとしたのかもしれない。

身長206mのイーストマンと189cmのボヤニッチ
Bojanic-und-eastman
 他にもボヤニッチは何人かの監督の下で何作かマカロニウエスタンを撮った。その一つがやはりジュゼッペ・ヴァリの Un buco in fronte(ドイツ語タイトル Ein Loch in der Stirn「額の穴」、1968)だが、これも全く平均的なマカロニウエスタンである。
 大金の在処が3枚のトランプにバラバラに記してある。全部そろわないと判読できないのだがカードをそれぞれ別の人が持っていてそれらが奪い合い、殺し合いをするという実にありがちなストーリーだ。ボヤニッチの役はそのうちの一人の委託を受けたガンマンで、敵側につかまって(定式通り)拷問を受けるがなんとか逃げ出して金の居所をつきとめるというスタンダートと言えばあまりにもスタンダードな展開。もちろんカードの持ち主は全員撃ち殺される。とにかくやたらと人が死ぬ。隠し場所はさる僧院だったが、あおりを食って罪もない僧侶たちもやはり虐殺される。ボヤニッチはその大金を生き残った僧侶たちに与えて去る。
 途中でボヤニッチが機関銃をぶっ放すシーンもあるし、とにかく他のマカロニウエスタンの寄せ集めのような感じで、今の時代ならこんな脚本それこそAIで書けるのではないだろうか。無くても別に誰も困らない映画ともいえようが、ただB級ではあっても駄作ではないことは強調しておきたい。定番マカロニウエスタンと言う安定性はあるからつい惰性で見てしまい、見終わっての感想も「ああつまらなかった」とはならない。例えばコルブッチの『グランド・キャニオンの大虐殺』より遥かに面白いことは私が保証する。

相変わらずドスの効いたUn buco in fronteでのボヤニッチの面構え。
LochinStirn-Bojanic
機関銃のないマカロニウエスタンなんてクリープを入れないコーヒーのようなもの(若者には通じない)
Bojanic-Machinegun
  以上の三作ではボヤニッチは要するにクールな主役キャラだがあとの二つは違う。1968年の…E venne il tempo di uccidere(「殺しの時がやって来た」ドイツ語タイトルEinladung zum Totentanz「死の舞踏への招待」)では落ちぶれたアル中保安官を、同じく1968年のChiedi perdono a Dio… non a me(「俺でなく神に許しを乞え」、ドイツ語タイトルDjango – den Colt an der Kehle「ジャンゴ、コルトを喉に」)では敵役、悪役を演じている。スタッフも俳優もマカロニウエスタンでお馴染みの顔で、例えば前者には後でジュリオ・ペトローニの『復讐無頼・狼たちの荒野』に出ていた子役のルチアーノ・カサモニカ、後者には善玉の相棒役としてペドロ・サンチェスが登場する。さらに前者のスコアはフランチェスコ・デ・マージの作曲で、それを歌うのはもちろんラウールだ。後者では最後にやっぱり機関銃も登場し(ただし撃つのはサンチェス)、ちょっとやり過ぎなんじゃないかと思うくらいバッタバッタと人が死ぬ。しかしどちらも上の3作と同じく「マカロニウエスタンとしてはまあ合格、主役はきちんと渋く役をこなしている作品」である。特に…E venne il tempo di uccidereが印象的で、主役は外からやって来た若い保安官助手、この人がイニシアチブをとって酒飲みのダメ保安官にカツを入れて町の悪漢たちを退治するのだが、金髪碧眼でイケメンの主役俳優をボヤニッチが食ってしまっている。これの英語タイトルは「テキーラ・ジョー」Tequila Joeというのだが、これはボヤニッチ演じたダメ保安官の名前で、つまり主役として把握されてしまっているのだ。そういえば『殺しが静かにやって来る』はドイツでは主演クラウス・キンスキー、助演トランティニャンと把握されているがそれと似たようなものだ。

…E venne il tempo di uccidere。やる気のない飲んだくれ保安官(左)とやる気満々の若い助手
BojanicTotentanz

 さてボヤニッチは…E venne il tempo di uccidere をとった後セルビアに帰った。当時はまだマカロニウエスタンがまだ勢いを失っていなかったからもう少しイタリアに留まっても良かったんじゃないかとも思うが、まあ1968年が潮時だったのかもしれない。セルビアに帰った後はもうイタリア映画には出たりせずに本国で堅実に地位を築いていった。セルビアのベスト俳優とかいう類のリストにはたいてい入っている。1993年、ユーゴスラビア紛争の真っ最中にベオグラードで60歳で亡くなった。

本国セルビアでのボヤニッチ。当然ながら全部セルビア語。

https://www.youtube.com/watch?v=4zV6gd6ffT8

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
人気ブログランキングへ

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 以前バルボーニの話をしていたときに思い出したことがある。バルボーニの風来坊シリーズは客足が遠のきかけていた映画ジャンル(マカロニウエスタン)でコメディ路線を打ち出して観客層を広げることに成功し、本来のハード路線を凌駕さえしてしまった。成功の秘訣は男性だけでなく女子供(差別用語)を観客に引っ張りこんだことだが、そういえば似たようなことが昭和の日本でもあったなと思い出したのだ。
 
 昔日本映画には時代劇という人気ジャンルがあったそうだ。「そうだ」と書いたのは私が物心ついたころには時代劇は事実上テレビに移行してしまっていてわざわざ映画館まで出向いて見るものではなくなっていたからだ。時代劇どころか日本映画そのものが衰退していて、邦画といえばピンクかヤクザ。男性ならともかく、とても女性や、ましてや子供が楽しめるものではなかった。それで邦画と聞くと自動的にパスする癖がついてしまい、映画館でみるのは専ら洋モノだった。時代劇映画なんてものはおじさんのみるものだと思っていた。
 だからいわゆる時代劇映画の俳優で顔と名前が一致するのはたった二人だ。「いわゆる」とわざわざ断ったのは時代劇映画を専門にしていた俳優と言いたかったため。現代劇も普通にこなす俳優が時代劇にも出たからと言って「時代劇俳優」とは呼べまい。だから三船敏郎はこのカテゴリーには属さない。その時代劇俳優だが、時々人の口(もっぱらおじさん連中の口)に上るので名前のほうはどこかで耳にした(ような気がする)が顔は知らない、あるいはその逆というわけで、誰が誰なのかわからない。そういう意味で時代劇俳優は二人しか知らない。一人が『201.我が孫よ、日本語に呼格はあるか』でも出した萬屋錦之介で、もちろんTVシリーズ『子連れ狼』でである。映画は見たことがないのだから中村錦之助のほうは全く知らない。もう一人が近衛十四郎。これもテレビの素浪人シリーズで覚えている。最初が『素浪人月影兵庫』という番組で『素浪人花山大吉』がそのあとに続いた。これらはバルボーニが西部劇をパロったのと同じく時代劇のコメディ版で、とにかくムチャクチャ人気を博した。バルボーニの風来坊と同じく家族全体、特に子供を観客層に引っ張り込めたからだ。「親が見ていたのでお相伴で見た」というパターンである。さらに双方主人公は一人ではなくデュオ、お笑いコンビであることも共通している。一方ではバッド・スペンサーとテレンス・ヒル、一方では近衛と品川隆二の二人組だ。

 そこでこれらを思い出したついでに両者を比較して(バッド・スペンサーと近衛十四郎との比較がそもそも成り立つとしての話だが)家族単位で好かれる二人組の条件は何かちょっと考えてみよう。
 まず二人が全くタイプの違うキャラであるということ。同じような人ならそもそもコンビを組む必要がない。それぞれ一人でやればよろしい。デュオを組むからには両キャラが互いに補いあう、色彩学で言う補色、無理やり言語学の用語をもってくるならば(無理しなくていいよ)相補的分布 komplementäre Distribution(『162.書き言語と話し言語』参照)、あるいは補充形 Suppletion的な、異なる要素が組んでガッチリとした全体を構成しているような関係でないといけない。問題はどう違うのかということで、スペンサー&ヒル組は二人の外見が徹底的に不均衡。前者は髭面、頭はボサボサ、縦にもデカイがとにかく横に大きい。差別用語を使ってよければつまり無骨なデブである。これに対して相棒のテレンス・ヒルはスマートでほっそりしたイケメン。ドッシリと構えたスペンサーの周りをチョロチョロする。そういえば大昔に大成功したお笑いデュオ、オリバー・ハーディとスタン・ローレルもこのデブヤセのパターンだった。またテレンス・ヒルのキャラはドッシリスペンサーと違って性格もチャラく、綺麗な姉ちゃんをみるとすぐデレデレしだすがいわゆる女たらしではない。フラれ専門である。これが他のマカロニウエスタンの男性主人公たちと明確に違う点で、女をモノにするのを誇るマッチョではないのである。私はここが家族受けするかしないかの重要な分岐点だと思っている。
 『素浪人』の近衛&品川組は体つきでなく身分で差をつけた。前者は侍、後者は渡世人で、服装や髪型はもちろん歩き方まで全然違う。俳優の年齢も20歳ほど差がある。年かさの近衛の侍が頼りになるタイプで、品川隆二演ずる渡世人、焼津の半次はチャラくて騒々しく姉ちゃんに弱いがフラれ専門と言う点でテレンス・ヒルと一致する。
 次の点はコンビの結束が確かだということだ。上で相補的分布と言ったのはこの点で、これが危なっかしくては子供は安心して見ていられない。マカロニウエスタンには「二人組」そのものはいくらでもいて、上の「二人は違ったタイプ」という上の条件は満たしていることが多いのだが、この第二点ではねられる場合が大半だ。くっ付いている理由に裏がありそう、互いに相手を利用しあっていそうで、いつ何時どちらかが裏切らないとも限らないという雰囲気が漂いすぎる。まさにそれがマカロニウエスタンの「クールさ」なのだろうが、安心感に欠けては健全な家族の娯楽にはなりにくい。その点でレオーネの作品に出てくるコンビは全部不合格、『怒りの荒野』のジュリアーノ・ジェンマとリー・ヴァン・クリーフもダメ、さらに『新・夕陽のガンマン』の二人も「裏」を感じさせるからこれも不安、『血斗のジャンゴ』のヴォロンテとミリアンはもう論外だろう。喧嘩はするがコンビの結びつきに裏がない風来坊シリーズの二人組がやっぱり一番安定している。
 売れる第三点はコンビが「強い」ことだ。最終的には二人総合で無敵に強ければいいのだが、東西ではその配分が違っていて、近衛品川組では品川も弱い訳では決してないが近衛の剣が一方的に強い。素手戦ではまあ互角に近いだろう。スペンサー、ヒルではその逆で素手戦はスペンサーが文句なく強いが、銃の腕前は完全に互角である。しかしどちらも二人合わさると無敵な点は同じだ。子供は(大人だってそうだろう)強い者に憧れる。強い者には憧れるが強がる者は本能的に見抜いて嫌悪感を抱く。「強がる」と「強い」の最大の違いは強がり屋は内心自分が強くないのをよく承知しているということではないだろうか。そのコンプ抑圧が主たる目的になるからどうしても余裕に欠け、他人に対して優しさがなくなる。ドッシリとした安定感が感じられなくなるのだ。こういうタイプは絶対に女子供には好かれない。品川隆二の演ずるキャラは喧嘩早くてすぐ売り出しにかかるが、別にコンプ解消のためではなく、慌て者なだけだからこの強がりにはあたらない。事実子供にも非常に好かれている。
 第四点。コンビが「正しい人」であることだ。俗に言う「弱きを助け強きを挫く」タイプでないといけない。近衛品川側はこの点が非常にはっきりしている。まさに江戸文学の「人情もの」に沿っているわけだ。スペンサー、ヒルは「売春婦の息子たちで職業は馬泥棒」というヒドイ設定なので一見正義の味方感が漂ってこないが、風来坊第一作『風来坊/花と夕日とライフルと…』の冒頭を見れば弱きを助け路線は明かだ。まずスペンサー演じる偽物保安官は無実の嫌疑をかけられたメキシコ人に妙に優しい。態度はブッキラボウだが親切だ。それに対して有力者の後ろ盾を笠に来たチンピラにやはり牢屋中の仲間を釈放しろと迫られたのには銃でお答えする。その仲間と言うのは強姦の嫌疑なのだが、それを釈放しろと言うヤクザ者にスペンサーは言う;「いいか、あいつは選ぶメンドリを間違ったんだ。誰を選ぼうと人の勝手だが、当のメンドリの方がいやだと言ったらそれは強姦と言う犯罪だ。釈放できんね」。正義感あるじゃん。テレンス・ヒルの方も牧場主に苛められている開拓者たちの味方をする。また二人とも子供には優しい。いくら剣や銃が達者でも弱い者いじめしたり金もうけに汲々としているような輩は子供の憧れの対象にはならない。
 第五点。双方「清く」なければいけない。「色と金」への欲望がないのである。さらに露骨に言うと双方モテない。この、いわゆる「色」を感じさせないというのが家族単位で愛されるかどうかのポイントである。これを勘違いしているプロデュ―サーが当時の映画界には多く、事実東映は観客を引っ張り込もうと色と欲、ついでに暴力満載のヤクザ映画を量産した。日本映画ばかりでなく欧米でもストーリーに関係なく唐突に裸の女を登場させたりしていた。しかし観客層は誰が脱いだの脱がないのということしか頭にない盛りのついた雄ゴリラのような男性だけでは決してない。女性や子供、またその子供のよきパパ層はその何倍もいるのだ。冒頭でも述べたように、この「何倍」を取り込んだほうが興行的には成功する。
 双方コンビの若い方はモテようと必死ではないか、色欲があるではないかと反論する人がいるかもしれないが、よく見て欲しい。テレンス・ヒルも品川も相手に好かれようと必死になるだけで女性を支配しようとか意のままにしようという気は全くない。それが証拠に東西風来坊とも金で商売女を買うことは一度もない。また上でも書いたが双方たまにモテてもすぐフラれる。向こうにフラれなくてもこちらから怖気を感じて逃げる。観客はそうやってすぐフラれるのがわかっているから安心して見ていられる。下手に成就して色恋沙汰が発生してはいけないのである。また向こうが嫌がっているのに金や権力でモノにしようとする定番男はマカロニウエスタンにもよく出てくるが、そのタイプの男は素浪人シリーズでは必ず「色キチガイ」と近衛に罵られている。
 私自身は読んでいないが調べたところによると南條範夫の原作では主人公の月影兵庫は若くて色白の美男子でしかも恋愛相手がいるそうだ。TVのプロデューサーがそれでは売れないことを見抜き(慧眼だ)、主人公を40過ぎの中年男にして女の代わりに渡世人を相棒にした。これが的中した。子供には自分のお父さんくらいの年齢の優しくて強いおじさんの方が絶対受ける。惚れた腫れたで騒ぐようなストーリーは好かれない。しかしついに原作から乖離しすぎると作者の南條からクレームが入り設定を変えて新スタートするハメになった。それが途中から「花山大吉」と新シリーズになった原因だそうだ。
 双方「色」にも縁がないが、さらに金にも縁がない。縁もないが欲もない。金がない、金が欲しいといつもピーピー泣いているわりにはたまに金が入ると困っている人に寄付してしまったり(近衛品川組)、強盗をしようとしたら向こうが生活に困っていることを知ってこちらから金を恵んでしまったり(スペンサー、ヒル組)、まあとにかく欲とは無縁な風来坊ぶりである。
 大当たりの第六点は、コンビがいわゆるエスタブリッシュメント側に属しておらず、かつダサいということだ。そしてコンビの一方が自分のダサさを棚に上げて他方のダサさをあげつらうという展開にする。社会地位や金、権力があってはいけないのは当然だが(だから東西共に宿なし風来坊という設定になっている)、一方反エスタブリッシュメントだからと言って「民衆を導く自由の女神」的な高貴さが醸し出されてもいけない。普通にダサくなくてはいけないのである。上品だったり威厳があったりしたら子供には好かれない。しかしまさにここがさじ加減が必要な部分で本当は強いのにそれを隠していることを見る方が露骨に感じるとかえって嫌味になる。謙遜してはいけない、わざと弱そうに見せたりしてはいけない。それは不正直につながり、ある意味コスイからだ。上で「普通に」ダサいと書いたのはこのためだ。子供はそこらへんを敏感に感じ取るから強がるのと同様弱がるのも好かれない。
 スペンサー&ヒルは双方格好が見事に薄汚くてショボい。生家(?)は掘っ立て小屋で母親は売春婦だ。その二人が互いに相手を汚いのマナーを知らないのといがみ合う。どっちもどっちとはこのことだ。そして互いに相手の邪魔になっている。そのやり取りが実に下らない。確かバルボーニ第二作の『風来坊II/ザ・アウトロー』だったと思うがこんなシーンがあった:例によってチンピラと悶着を起こしたテレンス・ヒルにスペンサーが「また喧嘩をやったのか(影の声:お前だっていつもやるだろ)。本当にしょうがない奴だ」と言うとヒル「だってあいつら俺たちの母ちゃんを年寄りの売春婦とか言いやがったんだぜ」、スペンサー「何?(一瞬間が開いて)しかしその通りじゃないか」、ヒル(これも一瞬詰まって)「しかし母ちゃんはまだ年寄りと言うほどの歳じゃないじゃんかよ」、スペンサー(ちょっと考えて)「確かにそうだな」。このナナメ上というかそこじゃない感というか、とぼけた味が作品中に漂っている。
 近衛品川組は西のマカロニウエスタンよりずっと言葉の芸に重点が置かれ(江戸文学や落語の伝統と引いているのかもしれない)、キツイ掛け合いのオンパレードだ。いつか品川隆二がインタビューで話していたが、素浪人の脚本はセリフの応酬だけでト書きが全然なかったんだそうだ。近衛が品川に「その首の上についている頭は何のためにあるんだ。少しは考えろ」、しかしまた別の時は「無理して頭使うなよ。考えても無駄だ」。品川は品川で「いつもオレの金にたかりやがるが今日はそうは行かないぞ。オレは今スッテンテンのオケラなんだ。どうだ参ったか、ザマアみやがれ」。ロジックになっていない。また近衛は品川を「この騒々しいおっちょこちょいはオレの相棒でなあ」、品川は近衛を「このむさ苦しいのはオレの友だちだ」と悪口をいいながら人に紹介する。これらの掛け合いだけで十分目糞鼻糞感が漂うが、素浪人ではこのうえにさらに双方のキャラにシュールなウィークポイントを付加されて互いにそこをつつきあうからたまらない。抱腹絶倒の域に達している。例えば月影兵庫は猫が怖い。普通の人なら思わず撫でたくなるような可愛い子猫でも出ると叫び声を上げへっぴり腰になって逃げる。その度に品川がブツブツ言いながら猫を追っ払ってやる。その品川は蜘蛛が怖い。蜘蛛を見るとこれも絶叫して逃げ、これもその度に近衛が取り去ってやる。双方「世話が焼けるねえ」と愚痴入りだ。何度か猫と蜘蛛がほぼ同時に出没したことがあるが、二人そろっての絶叫シーンに見る方は「イヨッ、待ってました!」と声をかけたくなった。もう一つの近衛キャラ花山大吉は驚くとシャックリの発作が起きて腰に下げた瓢箪の酒を飲まない限り止まらない。また酒の肴にオカラを出されると理性を失う。酒を入れ忘れた近衛のために品川が酒を買いに走り、ベロンベロンの近衛を見て「いじましいねえ」と呆れる。誰が考え出したのか知らないがほとんど天才的なアイデアだ。大酒のみは月影兵庫も同様で「真の侍なら正気を失うほど酔いはせぬ」とたしなめた『七人の侍』の勘兵衛からそれこそ「このバカタレが」とお叱りを受けそうだ。
 また上でも言ったがスペンサーも素浪人も別に自分の強さを隠しているわけではない。双方ゲンコツや剣の技を変に出し惜しみはせず、バンバン見せてくれる。モッタイをつけて能ある鷹は爪を隠すを気取ったりしないのだ。クサい自慢や売り出しも双方日常茶飯事。子供に好かれたかったらこのようなパーッとした明るさは不可欠だ。
 そのパーッと明るい二人組が突っ込みあう。単独ではこういう絶妙なバランスがとれない。それが補色の関係たるデュオである意味だ。スペンサーとヒルはマカロニウエスタン衰退の後、舞台を現代に移してコンビ映画を撮り続け興行的にある程度の成功を見せた。素浪人の方は逆に『花山大吉』終了後、キャラ的にはその路線を引き継いでコミカルな時代劇、『素浪人天下泰平』『いただき勘兵衛 旅を行く』に移行したが人気は出なかった。コンビの片割れ近衛だけしか出演せず、相棒を品川隆二とは別の俳優が務めたからである。後者は相棒役を近衛の息子の目黒祐樹がやるなど話題性には欠けていなかったはずだが、むしろそれが裏目に出たのかもしれない。私はこの番組を見ていないが、こういうのを元来のデュオに対する不実な裏切り行為ととる視聴者は少なからずいるからである。もう一つ、近衛品川の『素浪人花山大吉』の後半から後の番組にかけてデュオの他に三人目のレギュラーが入った。しかもそれが女性であったので上で述べたようなデュオとしての安定度がぐらついた。『花山大吉』では近衛の病気が悪化し番組そのものの存続のために近衛の負担を軽減するという仕方がない理由があったことと(もっとも私はあそこで若い女なんかより気のいい爺さんでも持ってきた方が子供には好かれたと思う)、近衛品川コンビがそれ以前に不動の地位を築いていたので多少の不要分子は入れる余地があったのだろうが、品川の出ない後続シリーズは違う。デュオが弱いところへ不必要な要素まで加わったら煩雑なだけだ。残念だった。
 さて、『素浪人月影兵庫』には第一シリーズと第二シリーズがある。大ブレークしたのは原作と乖離した第二シリーズの方で、私も第一の方はその存在さえ知らなかった。この歳になって東映の公式サイトで第一シリーズを見たのだが、第二とキャラの雰囲気が全く違う。月影兵庫はあくまで豪放磊落、相棒の焼津の半次もいなせな旅ガラスで、第二でのご両人、たかが二十文三十文に汲々とし、酒をタダで飲めるとなると目の色を変えるようなみみっちさ、さもしさが全くない。トレードマークの蜘蛛や猫なども第二シリーズからの登場である。この第一を見て近衛と品川の持つコメディとしてのポテンシャルを見破り、そちらに路線変更した人(多分プロデューサーだろう)は大した目の持ち主だと思う。そういう意味で『素浪人月影兵庫』の第一シリーズはマカロニウエスタンで言えばジュゼッペ・コリッツィの三部作(『173.後出しコメディ』参照)に対応するのではないだろうか。コリッツィ作品ではスペンサー、ヒルは「普通の」マカロニウエスタンキャラを演じていたのである。そのコリッツィの西部劇は今ではバルボーニ映画のブレークの影に隠れてしまっているが、月影兵庫の方もコメディ転換せず第一の路線のままで番組を続けていたらどうだっただろう。第一シリーズは映画で鍛えた東映時代劇のノウハウがそのまま注ぎ込まれたようで非常に面白かったが、第二シリーズほど人気が爆発しただろうか。
 またこれは余談だが、第二に入って原作者からクレームが来る前にも制作者側に「こりゃ原作と離れすぎだな」という自覚と言うか多少の罪の意識があったのではなかろうか。第二のさるエピソードで、キャラの一人が剣の腕を披露したとき、兵庫が「見事な上段霞切り」と褒めるのである。この「上段霞切り」というのは南條の原作『月影兵庫』の巻の一つで青年(!!)兵庫と腰元とのエピソードが描かれ、上で述べたようにプロデューサーからバッサリ切り捨てられた部分である。散々ストーリーが乖離してきたあとになって取って付けたように原作の用語を持ち出す。ひょっとしたらこの時すでに「このままではそのうち原作者から突っ込まれるな」という嫌な予感があって「原作忘れてませんよ」とアリバイ工作したのかもしれない。あるいはこの時点ですでに南條から水面下で抗議が行っていたのか。

西の風来坊、バッド・スペンサーとテレンス・ヒル
SpencerHill
東の近衛十四郎と品川隆二。互いに相手の懐を当てにして居酒屋で酒を食らったはいいが、実は両方ともスカンピンだったという定番な展開。
TsukikageHyogo
『素浪人』は何作か東映時代劇の公式サイトで見ることができる。『月影兵庫』第二シリーズ後半から『花山大吉』の前半にかけてが何といっても絶頂期だろう。



この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
人気ブログランキングへ

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ