私は英語、ドイツ語、ロシア語などに出てくる再帰代名詞とか言うアレが苦手だ。存在意義が今一つつかめない。機能も玉虫色というか、言語ごとに異なっていてよくわからない。
もちろん自分の行った行為が自分に跳ね返ってくる場合に再帰表現を使うのはわかる。日本語にもそういう場合用に「自分」あるいは「自身」、ときには二つともくっ付けて「自分自身」という言葉がある。「鏡で自分をよく見てみろこの馬鹿」とか「悪い事をすればいずれ自分に帰ってくる」などだ。もう一つ、英語のように、主語も目的語も3人称だと目的語が主語と同じ人物なのか別の人なのかわからないから、主語と同一人物の場合は代名詞に -self をつけるというのもわかる。He saw himself in a mirror だと鏡で見たのは自分の姿だが、He saw him in a mirror なら他の誰かが鏡に映っていたのだ。主語が1人称や2人称ならばこういう区別をする必要がないから I … me、we… us、または人称代名詞なしの I … self、we… self でいいような気がするのだが、myself、ourselves とダブルにしなくてはいけない。ロシア語では主語と目的語が同じ対象である場合1,2,3人称とも再帰代名詞が単独で用いられ、I … self、we… self のパターンになる: я смотрела себя(「私は自分を見た」I saw self)、мы смотрели себя(「我々は自分を見た」we saw self)。ここで人称代名詞を使って я смотрела меня(「私は私を見た」I saw me)、 мы смотрели нас(「我々は我々を見た」we saw us)とやるとはねられる。また英語は目的語では主語との一致・非一致を細かく気にしてダブルまでやるくせに所有名詞だと急にいい加減になる。所有名詞には再帰形がないからだ。だから He saw his son は自分の息子を見たのか他人の息子を見たのかわからない。もちろん own を追加してはっきりさせることはできるがオプショナルである。1、2人称では人称代名詞だけを使って I saw my son、we saw our son になる。ロシア語は所有代名詞にも再帰形があるから I saw self’s son、we saw self’s son といい(それぞれ я смотрела своего сына、 мы смотрела своего сына)、人称代名詞を使って I saw my son、we saw our son(それぞれ я смотрела моего сына、 мы смотрела нашего сына)とやるのは間違いということになっている。「なっている」というのはダメと言われている人称代名詞をネイティブが使ってしまっているシーンを見たことがあるからだ。前に名前を出した Yokoyama 氏は、主語が1,2人称の所有代名詞に人称形を使うのは実は間違いではなく、人称代名詞を使った場合と再帰代名詞を使った場合との間にはニュアンスの差があるとしている。3人称では英語のようなオプショナルでなく、主語の息子なら He saw self’s son、他人の息子なら He saw his son(それぞれ он смотрел своего сына と он смотрел его сына)と区別をつけなければいけない。 とにかくロシア語のほうが英語よりつじつまの合う構造になっていることは確かだ。
それでも英語の再帰代名詞はまだ論理的で、何のために使うのか理由がクリアだ。これがドイツ語の再帰代名詞になるととにかくウザい。パラダイムは不完全なくせにやたらと出しゃばって来る。「不完全」というのは再帰代名詞と言う独自の形としては3人称しかないからだ。himself もthemselves も人称表現ナシのsich である。1、2人称では再帰代名詞の代わりに普通の人称名詞を使って、I … me/ my son、we… us/ our son という(ドイツ語で ich… mich/ meinen Sohn、wir… uns/ unseren Sohn)。ロシア語でボツを喰らったやり方だ。とにかくパラダイムとしては不完全なんだから大人しく隅に引っ込んでいればいいのに声高にしゃしゃり出てくるから腹が立つ。コンプレックスの裏返しなのかもしれない。中でも一番ウザい登場場面はこいつが他動詞にくっついて動詞の意味を自動詞みたいにすることだ。そんな手で誤魔化すくらいなら動詞の方を素直に自動詞にすればいいのに。世の中には ambitransitiv な動詞(「自他両動詞」とでも訳せばいいのか)なんてどの言語にもあるんだ。誤魔化しの最たる例が「思い出す」というドイツ語動詞だ。sich erinnern an etwas といい、 erinnern は「思い出させる」という他動詞、an etwas は on somerhing で、思い出す内容だ。例えば「田中さんが私に昨日の約束を思い出させる」といいたい場合は Herr Tanaka erinnert mich an die Verabredung gestern で、日本語と比べるとわかるように動詞の意味素にすでに使役が含まれているのがすでに癪に障るが、さらにこれが他動詞であるため「思い出す」は「自分自身に思い出させる」になる。素直に「思い出す」という自動詞を作れ馬鹿。そしてその自動詞の方を起点にして他動詞の方を使役形の「思い出させる」にした方がよっぽどロジカルだろよ。もう一つ。「座る」という自動詞がなく、日本語の「座る」は「自分自身を座らせる」になる。それで「私は座る」は ich setzte mich。この動詞は「思い出させる」よりタチが悪く、「座る」という自動詞はないが、「座っている」という自動詞はある(sitzen)。だから「私は座っている」は再帰代名詞ナシの ich sitze。これへの類推もあるからつい「座る」の方も再帰代名詞を抜かして ich setzte とだけやってブー音を喰らう。こちらがおちょくられているとしか思えない。
ドイツ語にはこの他にもワケわかんない再帰表現がたくさんあるが、未だに付き合うのが苦手である。
さて上で見たようにロシア語は再帰代名詞は所有形も備えているし、格変化のパラダイムも完全で、人称代名詞なんかの助けを借りない。その点は立派なのだが、その代わり語形変化の点でも機能の点でもさらに複雑さ・微妙さが増す。まずロシア語には再帰代名詞に二系統あって、ドイツ語の sich や英語の himself にあたる、語としての独立性を保った再帰代名詞と、形が短縮されて形態素のレベルにまで落ちぶれた再帰代名詞との2種に分けられるのだ。
語のほうの再帰代名詞は語形変化を保持しているが、主格形がない。これは当然だろう。指示対象が主格と同じであることを示すのが再帰代名詞の機能なのだから、その起点だけはどうしても人称代名詞か普通名詞できちんと最初に確保しておかなければいけない。ここが日本語の「自分」との大きな違いで、「自分」は立派に主語に立てる。「自分がやります」などだが、私は一人称単数を「自分」というこういう言い方は少し下品な気がして嫌いである。さらにロシア語の再帰代名詞は単数形と複数形の区別もなく、あるのは格変化だけ:主格-なし、生格- себя、与格- себе、対格- себя、造格- собой、собою、前置格- себе。使い方は英語などとよく似ていて、特に3人称の場合、普通の人称代名詞との差がはっきり出る。これも日本語の「自分」は「自分たち」と複数形が作れるが、所詮日本語には人称代名詞と言うものは存在せず、「自分」も「私」も品詞的には普通の名詞なのだからまあ比べても仕方がないだろう。
Он любит себя.
he + loves + self
He loves himself.
Он любит его.
he + loves + him
He loves him.(愛する方と愛される方は別の人物)
ロシア語にはさらに再帰代名詞の所有形、ドイツ語でいえば sichs にあたる言葉がある。英語で時々見かけてしまう hisself は所有形ではない。主格の息子を表すのに he … hisself son だの er … sichs Sohn だのとは言わない。それぞれ he … his own son、er … seinen eigenen Sohn である。つまり所有形は人称代名詞を使うしかない点がロシア語と明確に違う。ロシア語主有再帰代名詞は名詞に対する付加語なので当然ながら被修飾語にくっついて思い切り語形変化する。

使い方は上の себя と似たようなもので、特にわかりにくいことはない。
Я убила своего мужа.
I + killed + self’s + husband
I killed my (own) husband.
Она убила своего мужа.
she + killed + self’s + husband
She killed her (own) husband.
Она убила её мужа.
she + killed + her + husband
She killed her husband. (殺したのは別の人の亭主)
もうひとつの短縮形再帰代名詞だが、これがナリは形態素並みに小さいくせに上のドイツ語の sich erinnern an … の sich と同様動詞の意味と癒着しているから語としての再帰代名詞よりむしろ曲者度がアップしている。元の動詞の意味を変えてしまったり、そもそも「再帰動詞」という、代名詞なしの形が存在しない動詞まで存在するのだ。
この再帰形態素は動詞の語末に付加されてまるで語尾変化の一部のようになるのだが、付加される動詞の部分が母音で終わっていれば -сь、子音であれば -ся という形をとる。例えば上で罵倒したドイツ語の「座る」 sich setzen にあたるロシア語の不完了体動詞は садиться といってドイツ語同様再帰代名詞がつくが(こいつらはグルなのか?)、これは不定形で、動詞本体が -ть と子音で終わっているから -ся 。現在形3人称単数も子音終わりで садится 。一方現在形一人称単数や2人称複数などで本体が母音で終わるからそれぞれ сажусь、садитесь と最後が -сь になる。見ての通り形としては動詞とベッタリ癒着している。
この癒着野郎は機能に点でもドイツ語の sich と被る部分もあり、「互いに」という意味を表すのはこれである:sich umarmen、обниматься(「互いに抱き合う」)。しかし「鏡で自分を見る」などという場合はドイツ語では sich でやるが、ロシア語では上のように себя のほうを使うから、違っている点も多い。大きな相違点の一つは、ロシア語の癒着再帰代名詞が受動態を作る点だろう。ロシア語動詞が完了体・不完了体のペアになっていることは前にも述べたが、それら動詞が受動表現を取る際、完了体動詞はコピュラに受動態分詞をつけるが(英語の be killed と同じだ)、不完了体が再帰代名詞を用いた形になるのだ。「建設する」はстроить(不完了体)と построить(完了体)だが、これらの受動態3人称複数形過去はそれぞれ строилися、 были построены。были がコピュラである。素直に現在形で比較しなかったのは完了体には現在形が存在しないからだ。英語の受動態に出てくるいわゆる by-agens は造格で表される。
Лекция читается профессором.
lecture + read(不完了体)-再帰代名詞 + by professor
講義が教授によって読まれる(なされる)。
動詞が不完了体なのでこれは現在形。もうひとつ、
Поезд останавливался машинистом.
train + stopp(不完了体)-再帰代名詞 + by train driver
列車は運転手によって止められていた。
これに対して動詞が完了体だと受動態は be 動詞+分詞という形になる。
Она была убита им.
she + was + killed(不完了体) + by him
彼女は彼に殺された。
再帰代名詞で受動を表す言語は私の知る限りもう一つある。メキシコのナワトル語だ。ナワトル語にも動詞に受動形という形があるが、これを使うのは主語が生物の場合だけで、主語が無生物のときは能動体動詞(つまりデフォの形)に再帰代名詞をつけて表す。
『213 太平洋のあちらとこちら』でも書いたが、ナワトル語はアイヌ語に似て、動詞の頭に接頭辞をつけて(「接頭辞」に決まってるだろ。頭に接尾辞がつくかよ)人称表現をするのだが、その接頭辞は主語→目的語の順番になる。何言っていることがわからない?具体例を見れば割と簡単なのである。例えば「見る」は itta というが、「私があなたを見る」は nimitzitta。頭の ni- というのが「一人称単数の主語」、その後ろに続くもう一つの接頭辞 -mitz- が「二人称単数の目的語」だ。「私が彼を見る」なら niquitta。qui はナワトル語表記で発音は ki だから、-k-(スペイン語読みで -c-)が「3人称単数の目的語」だ。また3人称(単数でも複数でも)が主語に立つ場合はゼロマーカー、つまり何もつかず、「彼が私を見る」は nēchitta。nēch- が「一人称単数の目的語」である。もちろん自動詞は目的語がないから主語マーカーのみ付加:nimiqui は「私が死ぬ」で、miqui が動詞である。
そこで目的語が主語と一致するときは再帰代名詞、というより「再帰接頭辞」がつくが、
一人称単数が -no-、同複数が -to-、二人称単数 -mo-、同複数 -mo-、3人称単数 -mo-、同複数 -mo- で、要するに一人称以外は皆 -mo- だ。「私が自分を見る」という場合はこの再帰形を使うから nimitzitta ではなく ninotta となる。-no- に続く動詞が i で始まりその後に子音が二つ続くときは i が脱落しているのがわかる。
では普通の名詞が主語に来る場合はどうなるのか。文が拡張するのだ。「私がペドロを見る」は niquitta in Pedro で、in は英語の the にあたるが、-qu-(-c-)と in Pedro が呼応する。「マリアがペドロを見る」は quitta in Malinzin in Pedro で拡張要素が重なる。主語が先に来るのが基本なのでマリアが主語解釈されるが、理論的には「ペドロがマリアを見る」という解釈が全く不可能ではなく、この文は意味が二重に取れる。
さていよいよ受動態だ。受動は動詞の後ろに -lo または -hua をつけて作る。その際本体の動詞がちょっと音を変えることがあるが、-lo、-hua の方も時制、数によって語形変化を起こす。 -lo の例だけちょっと見てみよう。
tlazòtla(「愛す」):
nitlazòtlalo(「私が愛される」)
titlazòtlalô(「我々が愛される」)
nitlazòtlalōz(「私が愛されるだろう」)
lô は母音の後に声門閉鎖音が来るという意味だがこの声門閉鎖音が現在形複数のマーカー、lōz の -zは未来形単数である。もうひとつ、piya(「護衛する」)という動詞の受動態形:
piyalo in malli(「捕虜が護衛される」)
piyalô in māmaltin(「捕虜たちが護衛された」)
piyalōyâ in māmaltin(「捕虜たちが護衛されていた」)
上の「私がペドロを見る」の例と同様、拡張語が入っているのがわかる。malli が「捕虜」の単数形、 māmaltin が /R-tin/ というタイプの複数形である(『200.繰り返しの文法 その1』参照)。lo とlô は上で見たようにそれぞれ現在形単数、現在形複数、最後の lōyâ は未完了形複数だ。
これら受動形は主語が人間の場合に使われる。このナワトル語受動形はちょっと不便なところがあった、英語、ドイツ語、ロシア語、それに日本語のように受動態では動作主を表すことができない。「私が彼に殴られた」のように「彼に」(英語の by him、ドイツ語の von ihm、ロシア語の им)を表すことができないのである。またモノが主語だとこの受動形を使わず、先に述べたように再帰表現を使う。つまり動詞は能動態のままになるのだ。例えば「彼が見られる」(日本語ではまず使わない言い方だが)なら主語が人間だから itta(「見る」)を受動形にして ittalo というが、「これはまだ見られたことがない」は主語がモノだから再帰形を使って
ca ayāic motta in
(statement marker) + never + 再帰接頭辞-see + this
This has never yet been seen.
「見る」itta の i が削除されるメカニズムについては上で述べた通りだ。せっかくだからもう少し例を見てみたい。「知る」 mati という動詞の受動形は macho という不規則な形になる。
Nicān àmo timacho
here + not + 2.sg.-known
You(sg.) are’nt known here.
Macho
3.sg.-known
He is known.
最初の例の主語マーカー ti- は上で出した「我々」と同じ形をしているが、ここでは動詞が単数形なので ti- が「我々」ではなく単数の you だとわかる。下の例は3人称単数だから主語マーカーがない。It’s not known だと主語が人間ではないから再帰形で表現される。
Àmo momati in àzo ōmic, ànozo àmo.
not + 再帰接頭辞-know + that + perhaps + has died, + or + not
in àzo … ànozo àmo はちょうど英語の whether or not だが、in(「それ」)が関係節を受け持つ形式上の主語で、この文の意味は It’s not known whether he has died or not。もちろん形式主語ばかりでなく、実体のあるモノが主語の場合も再帰形が使われる。
Monamacaz xochitl.
再帰接頭辞-3.sg.will sell + flowers
maca が「売る」という動詞、動詞の後ろの形態素 -zは未来形単数を表す(上記)。主語の「花」xochitl が拡張語として動詞の外に出る構造は上でも何回か出した。ナワトル語はモノには複数形がないので、 xochitl は flower とも flowers ともとれる。どちらにせよ動詞は単数形になるわけだ。
もちろん自分の行った行為が自分に跳ね返ってくる場合に再帰表現を使うのはわかる。日本語にもそういう場合用に「自分」あるいは「自身」、ときには二つともくっ付けて「自分自身」という言葉がある。「鏡で自分をよく見てみろこの馬鹿」とか「悪い事をすればいずれ自分に帰ってくる」などだ。もう一つ、英語のように、主語も目的語も3人称だと目的語が主語と同じ人物なのか別の人なのかわからないから、主語と同一人物の場合は代名詞に -self をつけるというのもわかる。He saw himself in a mirror だと鏡で見たのは自分の姿だが、He saw him in a mirror なら他の誰かが鏡に映っていたのだ。主語が1人称や2人称ならばこういう区別をする必要がないから I … me、we… us、または人称代名詞なしの I … self、we… self でいいような気がするのだが、myself、ourselves とダブルにしなくてはいけない。ロシア語では主語と目的語が同じ対象である場合1,2,3人称とも再帰代名詞が単独で用いられ、I … self、we… self のパターンになる: я смотрела себя(「私は自分を見た」I saw self)、мы смотрели себя(「我々は自分を見た」we saw self)。ここで人称代名詞を使って я смотрела меня(「私は私を見た」I saw me)、 мы смотрели нас(「我々は我々を見た」we saw us)とやるとはねられる。また英語は目的語では主語との一致・非一致を細かく気にしてダブルまでやるくせに所有名詞だと急にいい加減になる。所有名詞には再帰形がないからだ。だから He saw his son は自分の息子を見たのか他人の息子を見たのかわからない。もちろん own を追加してはっきりさせることはできるがオプショナルである。1、2人称では人称代名詞だけを使って I saw my son、we saw our son になる。ロシア語は所有代名詞にも再帰形があるから I saw self’s son、we saw self’s son といい(それぞれ я смотрела своего сына、 мы смотрела своего сына)、人称代名詞を使って I saw my son、we saw our son(それぞれ я смотрела моего сына、 мы смотрела нашего сына)とやるのは間違いということになっている。「なっている」というのはダメと言われている人称代名詞をネイティブが使ってしまっているシーンを見たことがあるからだ。前に名前を出した Yokoyama 氏は、主語が1,2人称の所有代名詞に人称形を使うのは実は間違いではなく、人称代名詞を使った場合と再帰代名詞を使った場合との間にはニュアンスの差があるとしている。3人称では英語のようなオプショナルでなく、主語の息子なら He saw self’s son、他人の息子なら He saw his son(それぞれ он смотрел своего сына と он смотрел его сына)と区別をつけなければいけない。 とにかくロシア語のほうが英語よりつじつまの合う構造になっていることは確かだ。
それでも英語の再帰代名詞はまだ論理的で、何のために使うのか理由がクリアだ。これがドイツ語の再帰代名詞になるととにかくウザい。パラダイムは不完全なくせにやたらと出しゃばって来る。「不完全」というのは再帰代名詞と言う独自の形としては3人称しかないからだ。himself もthemselves も人称表現ナシのsich である。1、2人称では再帰代名詞の代わりに普通の人称名詞を使って、I … me/ my son、we… us/ our son という(ドイツ語で ich… mich/ meinen Sohn、wir… uns/ unseren Sohn)。ロシア語でボツを喰らったやり方だ。とにかくパラダイムとしては不完全なんだから大人しく隅に引っ込んでいればいいのに声高にしゃしゃり出てくるから腹が立つ。コンプレックスの裏返しなのかもしれない。中でも一番ウザい登場場面はこいつが他動詞にくっついて動詞の意味を自動詞みたいにすることだ。そんな手で誤魔化すくらいなら動詞の方を素直に自動詞にすればいいのに。世の中には ambitransitiv な動詞(「自他両動詞」とでも訳せばいいのか)なんてどの言語にもあるんだ。誤魔化しの最たる例が「思い出す」というドイツ語動詞だ。sich erinnern an etwas といい、 erinnern は「思い出させる」という他動詞、an etwas は on somerhing で、思い出す内容だ。例えば「田中さんが私に昨日の約束を思い出させる」といいたい場合は Herr Tanaka erinnert mich an die Verabredung gestern で、日本語と比べるとわかるように動詞の意味素にすでに使役が含まれているのがすでに癪に障るが、さらにこれが他動詞であるため「思い出す」は「自分自身に思い出させる」になる。素直に「思い出す」という自動詞を作れ馬鹿。そしてその自動詞の方を起点にして他動詞の方を使役形の「思い出させる」にした方がよっぽどロジカルだろよ。もう一つ。「座る」という自動詞がなく、日本語の「座る」は「自分自身を座らせる」になる。それで「私は座る」は ich setzte mich。この動詞は「思い出させる」よりタチが悪く、「座る」という自動詞はないが、「座っている」という自動詞はある(sitzen)。だから「私は座っている」は再帰代名詞ナシの ich sitze。これへの類推もあるからつい「座る」の方も再帰代名詞を抜かして ich setzte とだけやってブー音を喰らう。こちらがおちょくられているとしか思えない。
ドイツ語にはこの他にもワケわかんない再帰表現がたくさんあるが、未だに付き合うのが苦手である。
さて上で見たようにロシア語は再帰代名詞は所有形も備えているし、格変化のパラダイムも完全で、人称代名詞なんかの助けを借りない。その点は立派なのだが、その代わり語形変化の点でも機能の点でもさらに複雑さ・微妙さが増す。まずロシア語には再帰代名詞に二系統あって、ドイツ語の sich や英語の himself にあたる、語としての独立性を保った再帰代名詞と、形が短縮されて形態素のレベルにまで落ちぶれた再帰代名詞との2種に分けられるのだ。
語のほうの再帰代名詞は語形変化を保持しているが、主格形がない。これは当然だろう。指示対象が主格と同じであることを示すのが再帰代名詞の機能なのだから、その起点だけはどうしても人称代名詞か普通名詞できちんと最初に確保しておかなければいけない。ここが日本語の「自分」との大きな違いで、「自分」は立派に主語に立てる。「自分がやります」などだが、私は一人称単数を「自分」というこういう言い方は少し下品な気がして嫌いである。さらにロシア語の再帰代名詞は単数形と複数形の区別もなく、あるのは格変化だけ:主格-なし、生格- себя、与格- себе、対格- себя、造格- собой、собою、前置格- себе。使い方は英語などとよく似ていて、特に3人称の場合、普通の人称代名詞との差がはっきり出る。これも日本語の「自分」は「自分たち」と複数形が作れるが、所詮日本語には人称代名詞と言うものは存在せず、「自分」も「私」も品詞的には普通の名詞なのだからまあ比べても仕方がないだろう。
Он любит себя.
he + loves + self
He loves himself.
Он любит его.
he + loves + him
He loves him.(愛する方と愛される方は別の人物)
ロシア語にはさらに再帰代名詞の所有形、ドイツ語でいえば sichs にあたる言葉がある。英語で時々見かけてしまう hisself は所有形ではない。主格の息子を表すのに he … hisself son だの er … sichs Sohn だのとは言わない。それぞれ he … his own son、er … seinen eigenen Sohn である。つまり所有形は人称代名詞を使うしかない点がロシア語と明確に違う。ロシア語主有再帰代名詞は名詞に対する付加語なので当然ながら被修飾語にくっついて思い切り語形変化する。

使い方は上の себя と似たようなもので、特にわかりにくいことはない。
Я убила своего мужа.
I + killed + self’s + husband
I killed my (own) husband.
Она убила своего мужа.
she + killed + self’s + husband
She killed her (own) husband.
Она убила её мужа.
she + killed + her + husband
She killed her husband. (殺したのは別の人の亭主)
もうひとつの短縮形再帰代名詞だが、これがナリは形態素並みに小さいくせに上のドイツ語の sich erinnern an … の sich と同様動詞の意味と癒着しているから語としての再帰代名詞よりむしろ曲者度がアップしている。元の動詞の意味を変えてしまったり、そもそも「再帰動詞」という、代名詞なしの形が存在しない動詞まで存在するのだ。
この再帰形態素は動詞の語末に付加されてまるで語尾変化の一部のようになるのだが、付加される動詞の部分が母音で終わっていれば -сь、子音であれば -ся という形をとる。例えば上で罵倒したドイツ語の「座る」 sich setzen にあたるロシア語の不完了体動詞は садиться といってドイツ語同様再帰代名詞がつくが(こいつらはグルなのか?)、これは不定形で、動詞本体が -ть と子音で終わっているから -ся 。現在形3人称単数も子音終わりで садится 。一方現在形一人称単数や2人称複数などで本体が母音で終わるからそれぞれ сажусь、садитесь と最後が -сь になる。見ての通り形としては動詞とベッタリ癒着している。
この癒着野郎は機能に点でもドイツ語の sich と被る部分もあり、「互いに」という意味を表すのはこれである:sich umarmen、обниматься(「互いに抱き合う」)。しかし「鏡で自分を見る」などという場合はドイツ語では sich でやるが、ロシア語では上のように себя のほうを使うから、違っている点も多い。大きな相違点の一つは、ロシア語の癒着再帰代名詞が受動態を作る点だろう。ロシア語動詞が完了体・不完了体のペアになっていることは前にも述べたが、それら動詞が受動表現を取る際、完了体動詞はコピュラに受動態分詞をつけるが(英語の be killed と同じだ)、不完了体が再帰代名詞を用いた形になるのだ。「建設する」はстроить(不完了体)と построить(完了体)だが、これらの受動態3人称複数形過去はそれぞれ строилися、 были построены。были がコピュラである。素直に現在形で比較しなかったのは完了体には現在形が存在しないからだ。英語の受動態に出てくるいわゆる by-agens は造格で表される。
Лекция читается профессором.
lecture + read(不完了体)-再帰代名詞 + by professor
講義が教授によって読まれる(なされる)。
動詞が不完了体なのでこれは現在形。もうひとつ、
Поезд останавливался машинистом.
train + stopp(不完了体)-再帰代名詞 + by train driver
列車は運転手によって止められていた。
これに対して動詞が完了体だと受動態は be 動詞+分詞という形になる。
Она была убита им.
she + was + killed(不完了体) + by him
彼女は彼に殺された。
再帰代名詞で受動を表す言語は私の知る限りもう一つある。メキシコのナワトル語だ。ナワトル語にも動詞に受動形という形があるが、これを使うのは主語が生物の場合だけで、主語が無生物のときは能動体動詞(つまりデフォの形)に再帰代名詞をつけて表す。
『213 太平洋のあちらとこちら』でも書いたが、ナワトル語はアイヌ語に似て、動詞の頭に接頭辞をつけて(「接頭辞」に決まってるだろ。頭に接尾辞がつくかよ)人称表現をするのだが、その接頭辞は主語→目的語の順番になる。何言っていることがわからない?具体例を見れば割と簡単なのである。例えば「見る」は itta というが、「私があなたを見る」は nimitzitta。頭の ni- というのが「一人称単数の主語」、その後ろに続くもう一つの接頭辞 -mitz- が「二人称単数の目的語」だ。「私が彼を見る」なら niquitta。qui はナワトル語表記で発音は ki だから、-k-(スペイン語読みで -c-)が「3人称単数の目的語」だ。また3人称(単数でも複数でも)が主語に立つ場合はゼロマーカー、つまり何もつかず、「彼が私を見る」は nēchitta。nēch- が「一人称単数の目的語」である。もちろん自動詞は目的語がないから主語マーカーのみ付加:nimiqui は「私が死ぬ」で、miqui が動詞である。
そこで目的語が主語と一致するときは再帰代名詞、というより「再帰接頭辞」がつくが、
一人称単数が -no-、同複数が -to-、二人称単数 -mo-、同複数 -mo-、3人称単数 -mo-、同複数 -mo- で、要するに一人称以外は皆 -mo- だ。「私が自分を見る」という場合はこの再帰形を使うから nimitzitta ではなく ninotta となる。-no- に続く動詞が i で始まりその後に子音が二つ続くときは i が脱落しているのがわかる。
では普通の名詞が主語に来る場合はどうなるのか。文が拡張するのだ。「私がペドロを見る」は niquitta in Pedro で、in は英語の the にあたるが、-qu-(-c-)と in Pedro が呼応する。「マリアがペドロを見る」は quitta in Malinzin in Pedro で拡張要素が重なる。主語が先に来るのが基本なのでマリアが主語解釈されるが、理論的には「ペドロがマリアを見る」という解釈が全く不可能ではなく、この文は意味が二重に取れる。
さていよいよ受動態だ。受動は動詞の後ろに -lo または -hua をつけて作る。その際本体の動詞がちょっと音を変えることがあるが、-lo、-hua の方も時制、数によって語形変化を起こす。 -lo の例だけちょっと見てみよう。
tlazòtla(「愛す」):
nitlazòtlalo(「私が愛される」)
titlazòtlalô(「我々が愛される」)
nitlazòtlalōz(「私が愛されるだろう」)
lô は母音の後に声門閉鎖音が来るという意味だがこの声門閉鎖音が現在形複数のマーカー、lōz の -zは未来形単数である。もうひとつ、piya(「護衛する」)という動詞の受動態形:
piyalo in malli(「捕虜が護衛される」)
piyalô in māmaltin(「捕虜たちが護衛された」)
piyalōyâ in māmaltin(「捕虜たちが護衛されていた」)
上の「私がペドロを見る」の例と同様、拡張語が入っているのがわかる。malli が「捕虜」の単数形、 māmaltin が /R-tin/ というタイプの複数形である(『200.繰り返しの文法 その1』参照)。lo とlô は上で見たようにそれぞれ現在形単数、現在形複数、最後の lōyâ は未完了形複数だ。
これら受動形は主語が人間の場合に使われる。このナワトル語受動形はちょっと不便なところがあった、英語、ドイツ語、ロシア語、それに日本語のように受動態では動作主を表すことができない。「私が彼に殴られた」のように「彼に」(英語の by him、ドイツ語の von ihm、ロシア語の им)を表すことができないのである。またモノが主語だとこの受動形を使わず、先に述べたように再帰表現を使う。つまり動詞は能動態のままになるのだ。例えば「彼が見られる」(日本語ではまず使わない言い方だが)なら主語が人間だから itta(「見る」)を受動形にして ittalo というが、「これはまだ見られたことがない」は主語がモノだから再帰形を使って
ca ayāic motta in
(statement marker) + never + 再帰接頭辞-see + this
This has never yet been seen.
「見る」itta の i が削除されるメカニズムについては上で述べた通りだ。せっかくだからもう少し例を見てみたい。「知る」 mati という動詞の受動形は macho という不規則な形になる。
Nicān àmo timacho
here + not + 2.sg.-known
You(sg.) are’nt known here.
Macho
3.sg.-known
He is known.
最初の例の主語マーカー ti- は上で出した「我々」と同じ形をしているが、ここでは動詞が単数形なので ti- が「我々」ではなく単数の you だとわかる。下の例は3人称単数だから主語マーカーがない。It’s not known だと主語が人間ではないから再帰形で表現される。
Àmo momati in àzo ōmic, ànozo àmo.
not + 再帰接頭辞-know + that + perhaps + has died, + or + not
in àzo … ànozo àmo はちょうど英語の whether or not だが、in(「それ」)が関係節を受け持つ形式上の主語で、この文の意味は It’s not known whether he has died or not。もちろん形式主語ばかりでなく、実体のあるモノが主語の場合も再帰形が使われる。
Monamacaz xochitl.
再帰接頭辞-3.sg.will sell + flowers
「花が売られるだろう」
maca が「売る」という動詞、動詞の後ろの形態素 -zは未来形単数を表す(上記)。主語の「花」xochitl が拡張語として動詞の外に出る構造は上でも何回か出した。ナワトル語はモノには複数形がないので、 xochitl は flower とも flowers ともとれる。どちらにせよ動詞は単数形になるわけだ。