アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

März 2025

「一羽のアヒル」と「アヒルが一羽」の違いを考えついたので追加しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 数詞というか数の数え方というか、例えば1から10までを何というのかなどは挨拶の仕方と同じく語学の授業の最初に基本単語として習うことが多いから日本語の場合も字もロクに読めないうちから数を覚えたがる人が結構いる。グッドモーニング、グッドバイときたら次はワン・ツー・スリーに行くのが順序という感覚だ。嫌な予感を押し殺しつつ仕方なく10くらいまで教えると、案の定「にひと」「さんアヒル」とか言い出す。それぞれtwo men、three ducks のつもりなのだ。それではいけない、単なる数字を勘定に使うことはできない、人とアヒルは数え方が違うのだ、人間も鳥も自動車も皆同じくtwo なら two を使えるほど日本語(や中国語)は甘くない、などという過酷な事実をそもそもまだ「私は学生です」という文構造さえ知らない相手に告げるのは(これは確か夏目漱石が使っていた表現だが)徒に馬糞を投げてお嬢様を驚かすようなことになりかねない。もっとも英語やドイツ語にだって例えば a cup of teaなど日本語や中国語に近い数え方をすることがある。日本語ではただそれが広範囲で全名詞にわたっており、単語を覚えるたびに数え方をチェックしておかなければならないというだけだ。ドイツ語で名詞を覚えるたびにいちいち文法性をチェックしておかなければならないのと同じようなもの。基本的に大した手間ではない。中国人だと中国語と日本語では数え方が微妙に違っているのでかえって面白がる。『143.日本人の外国語』でもちょっと言ったように、これしきのことでいちいち驚くのは構造の全く違う言語に遭遇したことがない印欧語母語者に多い。ただ、後になってから初めて「さんアヒル」と言えないと知らせて驚かすのも気の毒なので最近は数字を聞かれた時点で「これらの数字はただ勘定するときだけにしか使えず、付加語としての数詞は名詞によって全部違うから、後でまとめてやります」と言っておくことにしている。ついでに時々、「日本語は単数・複数の区別がなくて楽勝だと思ったでしょう?そのかわり他のところが複雑にできていて帳消しになってるんですよ。どこもかしこもラクチンな言語なんてありませんよ」と言ってやる。
 印欧語の母語者にとってさらに過酷なのは、普通日本語では数量表現が当該名詞の付加語にはならない、ということである。例えば英語なら

Two ducks are quacking.

で、two は ducks の付加語で duck というヘッド名詞の内部にあるが(つまり DP [two ducks])、日本語では数量表現が NP の外に出てしまう:

アヒルが二羽鳴いている。

という文では二羽という要素は機能的には副詞である。これに似た構造は幸いドイツ語にもある。量表現が NP の枠の外に出て文の直接構成要素(ここでは副詞)に昇格するのだ。いわゆるfloating numeral quantifiers という構造である。

Die Enten quaken alle.
the +  ducks + are quacking + all
アヒルが鳴いている。


Wir sind alle blöd.
we + are + all + stupid
我々は馬鹿だ。

ドイツ語だと副詞になれる量表現は「全部」とか「ほとんど」など数がきっちりきまっていないものに限るが、日本語だと具体的な数表現もこの文構造をとる。違いは数詞は付加語でなく副詞だから格マーカーは名詞のほうにだけつけ、数詞の格は中立ということだ。しかしここで名詞と「副詞の数詞」を格の上で呼応させてしまう人が後を絶たない。

アヒルが二羽が鳴いている
池にアヒルが二羽がいる
本を四冊を読みました

とやってしまうのだ。確かに数詞のほうに格マーカーをつけることができなくはないが、その場合は名詞が格マーカーを取れなくなる。

アヒルØ二羽が鳴いている。
本Ø四冊を読みました。

これらは構造的に「アヒルが二羽鳴いている」と似ているようだが実は全然違い、格マーカーのついた「二羽」「四冊」は主格名詞と解釈できるのに対し格マーカーを取らない「アヒル」や「本」は副詞ではない。それが証拠に倒置が効かない。

アヒルが二羽鳴いている。
二羽アヒルが鳴いている。

アヒル二羽が鳴いている。
*二羽がアヒル鳴いている。(「アヒルが二羽鳴いている」と比較)

数詞が名詞になっている後者の場合、「アヒル二羽」が一つの名詞、合成名詞とみなせるのではないだろうか。「ドイツの料理」という二つの名詞が合体して「ドイツ料理」という一つの合成名詞をつくるのと同じである。シンタクス構造が違うからそれが反映されるのか、意味あいも違ってくる。あるまとまりを持った集団に属するアヒルたちというニュアンスが生じるのだ。「アヒルが二羽」だと池のあっち側とこっち側で互いに関係ない他人同士、いや他鳥同士のアヒルがそれぞれ勝手に鳴いている雰囲気だが、「アヒル二羽が」だと、アヒルの夫婦か、話者の飼っているアヒル、少なくとも顔くらいは知っている(?)アヒルというイメージが起こる。ドイツ語や英語で言えば前者は不定冠詞、後者は定冠詞で修飾できそうな感じだ。この「特定集団」の意味合いは「二羽のアヒル」という言い回しでも生じる。

二羽のアヒルが鳴いている。

ここでの「二羽」はシンタクス上での位置が一段深く、上の「アヒルが二羽」のように動詞に直接支配される副詞と違って、NP内である。属格の「の」(『152.Noとしか言えない見本』参照)によって「二羽」がヘッド名詞「アヒル」の付加語となっているからだ。先の「アヒル二羽」は同格的でどちらが付加語でどちらがヘッドかシンタクス上ではあまりはっきりしていないが(まあ「二羽」がヘッドと解釈していいとも思うが)、「二羽のアヒル」なら明らか。いずれにせよどちらも数詞は NP内で副詞の位置にいる数詞とはシンタクス上での位置が違う。そしてこれも「アヒルが二羽鳴いている」と比べると「アヒル二羽」のイメージに近く、つがいのアヒルが鳴いている光景が思い浮かぶ。もっともあくまで「思い浮かぶ」であって、「アヒルが二羽」はバラバラのアヒル、「二羽のアヒル」ならつがいと決まっているわけではない。また後者でもそれぞれ勝手に鳴いている互いに関係ないアヒルを表せないわけではない、あくまでもニュアンスの差であるが、この辺が黒澤明の映画のタイトルが『七人の侍』であって『侍(が)七人』とはなっていない理由なのではないだろうか。あの侍たちはまさにまとまりをもった集団、固く結束して敵と戦うのだ。
 逆に集団性が感じられない、英語ドイツ語なら冠詞なしの複数形になりそうな場面では副詞構造の「アヒルが二羽」「アヒルを二羽」が普通だ。在米の知り合いから聞いた話では、これをそのまま英語に持ち込んでレストランでコーラを二つ注文するとき Coke(s) two といってしまう人がよくいるそうだ。Two Cokes が出てこない。さらにその際 please をつけないからネイティブをさらにイライラさせるということだ。
 さて、確かに二羽以上の複数のアヒルについては「集団性」ということでいいだろうが、単数の場合はどう解釈すればいいのか、つまり「一羽のアヒル」と「アヒルが一羽」の違いである。これも私の主観だが、「一羽のアヒル」というと他の有象無象のアヒルから当該アヒルを区別しているというニュアンス、いわば当該アヒルが他の有象無象に対して自分のアイデンティティを確立しているニュアンスになる。「アヒルが一羽」だとそういう「このアヒル」というアイデンティティがあまり感じられず、有象無象の一員に過ぎない。実はこれが集団性の本質ではないだろうか。単数複数に関わりなく、当該人物(当該アヒル)対他者とを区別すれば集団なのである。そして既述する側が当該対象にこの集団性を持たせたいときには「一羽の」や「七人の」などの付加語形式を使う。

 それで思い出したが、ロシア語には普通の数詞(単純数詞、простые числительные)の他に集合数詞(собирательные числительные )というものがある。その名の如く複数の当該事象を一つのまとまりとして表す数詞、と説明されている(しかし集合数詞という名称がおかしい、という声もある。下記参照)。
Tabelle1-158
形としては一応10まであるが、9と10の集合数詞は事実上もう使われなくなっているそうだ。この集合数詞は単純数詞と語形変化の仕方が違う。全部見るのは面倒くさいので「3」と「5」の単純数詞と集合数詞の変化を比べると次のようになる。集合数詞と単純数詞はそもそも品詞そのものが違うことがみてとれるだろう。
Tabelle2-158
Tabelle3-158
数詞の被修飾語の名詞のほうは『65.主格と対格は特別扱い』『58.語学書は強姦魔』でものべたように、主格と対格では複数生格、その他の格では数詞と呼応する形が来る。
 日本語では数詞は語形は変わらずシンタクス上の位置が違ってくるが、ロシア語のほうは語そのものが違いシンタクス上の位置は変わらない。だから、というのもおかしいが使い方・意味合いも日本語の「アヒルが二羽」と「二羽のアヒル」と違い、なんとなく別のニュアンスなどというあいまいなものではなく使いどころが比較的きっちりと決まっている。例えば次のような場合は集合数詞を使わなければいけない。
1.ロシア語には形として単数形がなく複数形しかない名詞があるがそれらに2~4がついて主格か対格に立つとき。なぜなら2~4という単純数詞には単数生格(本当は双数生格、『58.語学書は強姦魔』参照)が来るのに、その「単数形」がないからである。

двое суток (主格はсутки で、複数形しかない)
two集合数詞 + 一昼夜・複数生格

трое ворот (ворота という複数形のみ)
three集合数詞 + 門・複数生格

четверо ножниц (同様ножницы という複数形のみ)
four集合数詞 + はさみ・複数生格

2.дети(「子供たち」、単数形はребёнок)、ребята(これもやはり「子供たち」、単数形はребёнокだがやや古語である)、люди(「人々」、単数形は человек)、лицо(「人物」)という名詞に2~4がついて主格か対格に立つとき。

двое детей
two集合数詞 + 子供たち・複数生格

трое людей
three集合数詞 +人々・複数生格

четверо незнакомых лиц
four集合数詞 + 見知らぬ・複数生格 + 人物・複数生格

3.数詞の被修飾語が人称代名詞である場合。

Нас было двое.
we.属格 + were + two集合数詞
我々は二人だった。


Он встретил их троих.
He + met + they. 属格 + tree.集合数詞
彼は彼ら3人に会った。



その他は基本的に単純数詞を使っていいことになるが、「も」も何もそもそも単純数詞の方がずっと活動範囲が広いうえに(複数形オンリーの名詞にしても、主格対格以外、また主格対格にしても5から上は単純数詞を使うのである)、集合数詞は事実上8までしかないのだがら、集合数詞を使う場面の方がむしろ例外だ。集合数詞、単純数詞の両方が使える場合、全くニュアンスの差がないわけではないらしいが、イサチェンコ(『58.語学書は強姦魔』『133.寸詰まりか水増しか』参照)によるとтри работника (3・単純数詞 + 労働者・単数生格)とтрое работников(3・集合数詞+ 労働者・複数生格)はどちらも「3人の労働者」(または労働者3人)という完全にシノニムで、трое などを集合数詞と名付けるのは誤解を招くとのことだ。歴史的には本来この形、例えば古スラブ語の dvojь、 trojь は distributive 分配的な数詞だったと言っている。distributive などと言われるとよくわからないがつまり collective 集合的の逆で、要するに対象をバラバラに勘定するという意味だ。チェコ語は今でもこの意味合いを踏襲しているそうだ。

 そうしてみると日本語の「アヒルが3匹」と「3匹のアヒル」の違いとロシア語の集合数詞、単純数詞の違いはそれこそ私がワケもなく思いついた以上のものではなく、構造的にも意味的にも歴史的にもあまり比較に値するものではなさそうだ。そもそも単数にはこの集合数詞が存在しない、という点で日本語とは大きく違っている。まあそもそも印欧語と日本語の構造を比べてみたって仕方がないと言われればそれまでだが。

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 異分析と言う言葉がある。英語で metanalysis(a が一つしかないのは誤植ではない)または resegmentation といい、単語に誤った形態素分析を食らわすことである。試しに英語の言語学事典で metanalysis を引くと metanalysis (hist) A word deriving from a word-boundary error: となっているのでもわかる通り、本来歴史言語学の用語だ。言語変化の主要要因となる現象だ。ただ、この異分析は非常に頻繁に見られ、時に「間違って」ではなくワザとやったりする場合もあるので歴史言語学どころか、言語学の範囲も逸脱して普通の言葉(?)として使われている。専門用語性が薄れてしまったのか、統一でなくバラバラな言葉で表現される。英語は上の二つの他に rebracketing という言い方があるそうだ。ドイツ語でも Metanalyse、Gliederungsverschiebung などいろいろな言い方がある。おかしなことに手元のドイツ語言語学事典にはどれも載っていない。もっともダテに「いろいろな言い方」があるわけではなく、metanalysis はあくまで語レベルの誤分析のみで、文レベルでの誤分析の resegmentation (「再分析」)と区別するそうだ。まあここではあまりうるさく分けないで全部「異分析」と呼んでおこう。
 
 上記の英語事典では a naddre → an adderという例がのっていた。naddre というのは蛇(の一種)で、西ゲルマン祖語では * nadrā、現在のドイツ語ではNatter といい、本来 n- で始まる言葉だった。この頭が中期英語の頃から冠詞の一部と御解釈されてしまい、近代英語ではan adder、つまり adderと語形変化してしまったのである。このn の脱落は純粋な音韻規則では説明できない。面白いのは西ゲルマン語派内の n- の分布状況で、近代英語はn- ナシだが、方言によってはn- つきの nedder という形が残っているらしい。大陸へ飛ぶと、中期低地ドイツ語は nâder とn- があったのが、現在の低地ドイツ語ではAdder になってしまった。オランダ語も中期に n- つきとn- ナシが混在しはじめ、現代オランダ語ではn- ナシのadder が標準。アフリカーンスも同様である。高地ドイツ語でもやっぱり中期に n- ナシ形が現れはしたが、上記のように現在ドイツ語、新高ドイツ語では本来の n- つきを使っている。高地ドイツ語でもルクセンブルク語(『174.三度目の驚き』参照)とその隣のリンブルク方言(南部下フランケン語)では Adder だ。一方で低地ドイツ語のフリースランド語は n- つきである。これをボーッと見た限りでは n- ナシ形は16世紀ごろの英語あるいは中期低地ドイツ語で発生しそこから大陸に広まったが、高地ドイツ語では今一つ押しが足りず、元の形を語変換させるまでには至らなかったという図になりそうだ。アフリカーンスがオランダ語から分離し始めたのは16世紀ごろだから、つまりオランダ語でこの変化が起こってからの分離ということになり計算は合っている。英語以外の西ゲルマン諸語では 不定冠詞がa という形でなく ein(ドイツ語)、een(オランダ語)など子音の前でも n- がついているから a naddre → an adder という図式はそのままでは当てはまらないが、ちょっと変更して een nadder → eenn adder という風に考えればまあ当てはまる。問題は低地ドイツ語のくせになぜフリースランド語に n- がついているのかということだが、英語の一部の方言形と同様、これも波動説で説明可能だ。つまり文化的辺境地には言語のイノベーションが浸透せず古形が残りやすいという理屈だ。
 いろいろ思索は尽きないが、要するに異分析というのは本来歴史言語学の用語であるということが言いたかっただけである。

 ロシア語でも異分析によって語の形が変化する例がある。今ちょっと思いつくのは зонт(「傘」)という語で、これは元来は зонтик という形だった。これはオランダ語の zonnedek からの借用語である。ドイツ語で言えば Sonne-deck で「日覆い」、要するに雨傘・日傘の区別なく「傘」である。ここまでは無事だったのだが、そのうち зонтик の後部 -ик がロシア語の縮小辞 -ик (『97.拡大と縮小』参照)と混同されて зонт-ик と異分析されるようになってきた。本当は зон-тик のはずなのだ。おかげで зонтик は「小さい зонт」と誤解釈され、「小さい」なんて失礼だから(?)とっぱらって本体だけにしろということになり、зонт になってしまった。元のオランダ語が泣いているぞ。  
 もう一丁思いつくのがこれもロシア語の рельс という言葉だ。「線路」という意味で、英語からの借用である。借用であるがどういうわけか複数形 rails を取り入れてしまった。さらにそこで最後の -s が複数マーカーだと意識されず -s のついたまま単数形扱いになったからたまらない。本来の複数形がロシア語ではさらに複数になる。変化形を見てみよう。全形ウザく(本来複数形の) -c-(-s-)が入っている。フツーで面白味に欠ける語形変化だ。
Tabelle1-212
もしここで rail と正しく単数形を借用していればいわゆる軟音変化になるから次のような美しいパラダイムになっていたはずだ。返す返すも残念だ。
Tabelle2-212
 日本語の例としては「あかぎれ」がそこら中で挙げてある。これは新語あるいは新しい形の形成までは行かず、単に誤解釈されている段階だが、この「あかぎれ」を「あか+ぎれ」と解釈する人が後を絶たない(すみません。私もやってしまいました)。しかし本当は「あ+かぎれ」であって、「あ」が「足」、「かぎれ」は本当は「かがれ」で、「ひびがきれる」だそうだ。「あ・かぎれ」を知っていた人は「あか・ぎれ」解釈した人を無知呼ばわりするかもしれない。しかし待って欲しい。「あか・ぎれ」解釈には理由があるのだ。まず足を表す「あ」と言う言葉も、ひびがきれるという意味の「かかる」も共時的には、つまり現在日本語には存在しない。「あ」を足の意味で使っていたのなど上代であるのに加えて、現在では足ばかりでなく手にできても「あかぎれ」で、足との関連性がさらに薄くなっている。つまり「あ」も「かぎれ」あるいは「かがれ」もとっくの昔に廃れた言葉であり、今の私たちにとっては外国語と同じ。そういう意味不明な言語音が並んだ場合はどうしても現在日本語の音韻解釈のメカニズムが働く。『204.繰り返しの文法  その2』でも述べたように日本語はフットと言う単位があり、2モーラでまとまりやすい。その2モーラがまた倍になって4モーラになる。倍々解釈だといわゆる語呂がいいのだ。だから略語など4モーラのものが圧倒的に多いのである。パソコン、あけおめ、ことよろなど皆2モーラ+2モーラの4モーラ構造だ。例えば「非英語」などは形態素の意味がはっきりわかっているから誰も「ひえ・いご」などと分析することはないが、形態素の意味がわからない古代語や外国語など、この語呂追及メカニズム(?)が働いて2+2モーラ解釈になるのは自然なことだ。
 悔し紛れで申し訳ないが「あ・かぎれ」ができたからといって威張っている(失礼)そこの人が「ウラジオストーク」をどう分析するか興味がある。実は私は夏目漱石だったか田山花袋だったかの小説で「浦塩」という表現を見た。つまりウラジオ・ストークと分析しやがった人が少なからずいるということだ。つまり最初の4モーラがまとまったのである。もちろんこれはウラジ・オストーク(ヴラジ・ヴォストーク)が「正しい」のだが、外国語が一旦日本語に入った以上、日本語のリズムや語呂感覚に支配されるのは当然なことだ。
 要するに異分析にはそれなりの理由があるので、必死にそれを矯正しようとしたり知らなかった人に対してベロベロバーしたりしてもあまり意味がない。黙ってその発生メカニズムを調べればそれでいいのである。確かにいわゆる民間語源にはスリルのありすぎる説も多いがそれはそれで味があるのではないだろうか。

 間違った分析をする人が多数派になるとその間違いが正しい方を押しのけて定着してしまい、言語そのものが変化する原動力になる。まさにみんなでやれば怖くないだが、そのように強力に表面上に現れなくても水面下と言うか、個人レベルというか、単発で起こる異分析も日常頻繁にみられる。
 例えばドイツで子供が親に「Abschauer って何?」と聞いてきたことがあるそうだ。そんな言葉はドイツ語にはない。動詞の abschauen ならあるが、これは方言形で標準ドイツ語では absehen(「見て取る」)だ。-er は英語と同じく「~する人、~するもの」だから理屈としては Abschauer という造語は可能ではある。が、その子供は周りで誰かが使っているのを見て意味を聞いてきたのだから自分でそういう「造語」をしたわけがない。一方その子はそんな事実上存在しない語が使われるような特殊な言語環境にはいない。聞かれた親は非常に面喰ってどこでそんな言葉を聞いたのか尋ねてみたら、その子はTVで誰かがAb und zu Schauer と言っていたと答えたそうだ。これは「時々雨」という意味で多分その時天気予報か何かをやっていたのだろう。 Ab und zu は熟語で「時々、折によって」という副詞。Schauer は英語の shower だ。これを Ab- und Zuschauer と異分析したのだ。ドイツ語では(英語やロシア語だってそうだ)後部形態素が同じの単語を並べる場合、エネルギー節約のため共通要素は最後に一回だけ表示、言い換えると最初の単語では違っている部分だけ書いてハイフンでつなく。例えば「国内および国外」は In- und Ausland。これは Inland und Ausland の省略形で、共通形態素 Land(「国」)を最後に一回だけ出す。だからこの子はAb und zu Schauer を Abschauer und Zuschauer と勘違いしたのだ。 Zuschauer という言葉はある。映画や演劇の観客のことで、使用頻度の非常に高い語だ。子供でも知っているだろう。残る Abschauer を知らなかったのだ。知らないはずだ、そんな言葉はないんだから。
 しかしこうやって異分析のメカニズムを追ってみると、異分析(勘違い)ができるためには結構高度な言語能力が必要なことがわかる。まずドイツ語の省略規則をマスターしていなければいけないし、Zuschauer など普通の単語は知っていなければいけない。やっと定冠詞の変化を覚えた程度の初心者などそもそも間違えることさえできないのだ。同様に「あ・かぎれ」を「あか・ぎれ」、「ウラジ・オストーク」を「ウラジオ・ストーク」とやるためには日本語の音韻を完璧にマスターしていなければいけない。「52」と「ご自由に」、「病院」と「美容院」がゴッチャになるような発音の悪い学習者にはできるワザではない。繰り返すが馬鹿には異分析はできないのである。

 子供で思い出したが、そういえば日本語には都市伝説となっている異分析がある。「重いコンダラ」だ。昔流行った『巨人の星』というアニメのテーマソングに「思い込んだら試練の道を」というフレーズがある。ここの画面が主人公星飛雄馬がグラウンド地ならしのローラーを引くものであったためにそれを聞いた子供が地ならし器具を「コンダラ」というのかと勘違いしたというものだ。確かにあのローラーは重いから「重いコンダラ」というわけだ。しかし上で「都市伝説」とはっきり書いたように私はこの話の信憑性には大いに疑問があると思っている。まず私の記憶によればそのフレーズが流れる時ローラーなど出てこない。第二にあの器具は当時小学生でも皆「ローラー」と呼んでいた、つまり誰でも名前を知っていたから仮にどこかに言葉を知らない子供がいて「コンダラ」と思い込んだとしても速攻で周りから修正されて表の話になど出てこなかったはずだ。第三に私がこの話を聞いたのはすでに大人になってからだ。もしこの異分析が本当に当時の子供発祥なら大人になるまでのどこかで当該器具を「コンダラ」と呼んでいたクラスメートに遭遇していたか少なくともそういう子がいると聞いていたはずだ。そんな子はただの一人もいなかったしそんな話も一度も聞いていない。
 だからこれは実はしばらく経ってから大人が小話としてこの異分析を考えつき、話を面白くするために架空の子供をでっち上げたに違いない。新語が子供の間違い、異分析から広まることなど滅多にない。大人が集団で間違えるから言語変化につながるのだ。

この物体の名称はローラーかコンダラか。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/94/Kondara_J09_01.jpg から
Kondara_J09_01
 それに異分析を言葉遊びとしてワザとやるのは決して珍しい事ではない。というより言葉遊びの主要テクの一つである。少し前にロシア語でこんな例をみかけた。
 ウクライナ戦争が始まったころ、爆撃された町で中年の女性がインタビューされていた。戦争中だからいくら外国のTV局のインタビューでも服装なんかに構っていられない、まさに普段着、着の身着のままのTシャツ姿であった。その着の身着のままのTシャツの柄がいくらなんでもあまりにも状況にそぐわず、視聴者の目を射たのである。ラバーダックというのか、黄色い可愛いゴムのアヒルが行列行進している絵に работаю сутками の文字のある白いTシャツだった。あまりにも可愛すぎる、あまりにも平和すぎる図柄だ。これほど状況にそぐわない服装はない。その文字 работаю сутками を私は自動的に работаю с утками と解釈した。 работаю が「働く」という動詞の一人称単数、 с は英語の with で「~と共に」、утками は утка(「アヒル」)の複数造格で、全体では「私はアヒルといっしょに働く」。どうも発話状況が想像しにくい文である。ところがこれはアヒルの絵につられた私の目の錯覚で、よく見ればTシャツに書いてあったのは上記のように работаю сутками だ。с とутками の間にスペースはない。スペースなしの сутками は名詞の сутки (「一昼夜」)の複数造格だ。「複数」と書いたが、この語には単数形がないのでどうせ複数形しかない。それが造格になっているのは場所や時間を表す名詞は造格で副詞化し「~を通って、~の間(中)」という意味を担うことができるからだ。例えば英国の歌手が勝手にパクったため(?)理不尽にも原曲は西欧の曲だと勘違いされることが多い『悲しき天使』という流行歌だが、この原曲はトロイカの旅をモチーフにしたロシア語で、その歌詞には造格名詞がガンガン登場する(inst というのが造格)。

Ехали на тройке …
drive-past.3.pl + on + troika-sg.prep …
Дорогой длинною, да ночкой лунною,
road-sg.inst + long-sg.inst + and + night-sg.inst + moonlit-sg.inst
(遠い道を通り、月明かりの夜をついで、トロイカに乗っていく)

形容詞まで造格形になっているのは修飾先の名詞と呼応しているからだが、その際語尾が名詞と少し違う形をしている(下線)。この語尾は古い形いわば文語形で、名詞につくこともある。だからここでは口語と文語が混ざっているわけだ。スタイル上の工夫だろう。これと比べると件の文は大分文学性に欠けるが、造格の働きは同じだ。

работаю сутками
work-1.sg + day and night-pl.inst
(私は何昼夜もぶっ続けで働く)

発話の文脈など考える必要もない、実にすっと理解できる文だ。

アヒルのTシャツは現在でも発売中。
https://mayki.kz/product/774682/manlong から

sutkami
 これに本来全く無関係なアヒルの絵を付加すれば誰でも目の錯覚を起こしてработаю с утками と異分析してしまう。つまりこのTシャツの柄は異分析を誘発する言葉遊びなのだ。非常に上手い。しかもその後調べてみるとこの「アヒルと働く図」は結構ポピュラーらしく、いろいろな製造元からTシャツばかりでなくこの図柄のマグカップなども出ている。中にはスペースを入れた異分析形の работаю с утками の方をフレーズにしているものも多くみられた。
 なお、работаю сутками  с утками とすれば「私は何昼夜もアヒルといっしょに働く」という意味になる。

スペースをきちんと入れたバージョンもあります。
https://www.ozon.ru/product/futbolka-stavart-921043582/ から

utkami

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