日本語には「語学」とかいう奇妙な言葉があるので言語学者が大迷惑していることは前にも書いたが(『34.言語学と語学の違い』、どうして素直に「外国語」と言わずに「語学」などというのだろう)、「国語」という言葉のおかしさも相当なものだ。実質同じ言語でもネイティブの人が学校でやると国語と呼ばれ、外国人がやると日本語になる。日本の大学で日本語の研究をすると国語学と呼ばれ、ハーバード大学で同じことをすると日本語学になる。では、小学校に日本語のネイティブでもなく日本国籍でもない子供がいたらどうなるのか。その子と日本人のクラスメートとではいっしょに同じ授業を受けていても対象言語の呼び名が違うのか?。それとも「国語」というのはあくまで学校の科目の名前であって、言語そのもの、つまり日本語は二次的に指示しているだけなのか。日本語は「学校の国語という授業で教わる内容」、日本の大学の「国語学」という学科で扱う言語ということか。でもどうして日本国内でだけいちいち「授業の名前」と「その内容」を分けるのだろう?ネイティブ非ネイティブの区別なく、一律「日本語」「日本語学」にしてはいけない理由はなんだろう。現に他の国では小学校の科目は「ドイツ語」「英語」「フランス語」、それを研究する学問は日本人が勉強しようがドイツ人が勉強しようが「ドイツ語学」「英語学」「フランス語学」である。それとも国語とは日本の土着の言語を国内でという意味か?ではアイヌ語も国語なのか?
とにかく、この国語という言葉は気持ちが悪いし(失礼)研究も国際的になった昨今不便なので当時の筑波大学などでは「国語学」「国文学」という学科名を使わず、日本人がやっても「日本語学」「日本文学」と言っていた。もっともこれが命名だけの問題なら実際に害があるわけでもないからどうでもいいといえばいいのだが、困るのは「国語学」と「日本語学」では日本人の学者が日本でやっても内容が微妙に違い、研究者の顔ぶれから用語から論文に掲げてある参考文献から変に分かれてしまっているということだ。「日本語学」の学者は一般言語学をやっているからチョムスキーの樹形図を使って文の構造を図示したりする。別に生成文法が専門でなくてもあの図はわかりやすいからだ。また助詞という言葉を使わず不変化詞 particle あるいは後置詞 postposition と呼ぶことが多い。ごく大雑把に言って「国語学」というのは明治以前にすでに蓄積されていた言葉の研究・文献学の伝統、特にその用語を踏襲し、「日本語学」は明治以降西洋から入ってきた言語学の一環として日本語を分析する学問だといっていい。問題はその二つの分野がまだ完全に統合して例えば「ドイツ語学」のような明確な一つの分野になっていない、変な譬えでいえば水と油がまだ十分に攪拌されていないのでなめらかなクリーム状になっておらず、水の部分と油の部分がはっきりわかり、ちょっと食べにくそうな様相を呈していることだ。その「国語」と「日本語」の戦いが最も泥沼化しているのがいわゆる「学校文法」ではないだろうか。国語学で発展した文語の記述方法を無理やり現在の日本語に当てはめる。だからパラダイムが実際の言語に合致していない。全くの同形を終止形と連体形という二つのカテゴリーに分ける一方明確に異なる形をそれぞれ未然形、連用形という一範疇に放り込む。あまり整合性がとれていない。五段活用、上一段・下一段、カ・サ行変格活用などの用語も「国語」からそのまま持ってきたもので、古語から現代日本語へのパラダイムの変化が掴めるという利点はあるが、共時オンリーの外国人用の日本語ではそれぞれ第一グループ、第二グループ、第三グループとよりわかりやすくスッキリしたグループ分けになっている。古語文法の由緒ある命名を捨てたくない気持ちはわからないでもないが学校の国語の授業でもこちらを取って悪いことはあるまい。もっとも第一、第二、第三という名前もちょっとイメージがわかないのでそれぞれ「あいうえお活用」「いいえ活用(動詞語幹が「い」か「え」で終るから)」、「来る・する活用」とかもっと楽しそうに命名したらどうだろう。
さらに「国語」でやらされる学校文法は規範性を持っている。「学習者にはこう説明しなければいけない」「こういうことになっている」という指示が上から来る。学習要綱がガッチリ決められている。念のため言っておくが私はこの規範性を全面否定する気はない。義務教育の子供たちが相手ならむしろこれは必要だろう。何処でも誰からでも安定して統一的な内容の説明がなされ、ある程度「こうしなさい」と言ってもらわないと子供は混乱する。だがすでに思考力の発達した大人にこれをやるのには私は懐疑的だ。文法というのは本来話者によって一人一人違う。ネイティブは皆自己の中に自分だけの文法体系を持っているといっていい。だから言語にはいろいろと揺れがあり、二言目には「私の言語感覚では」という言葉が出てくるのだ。文法とはその言語感覚を客観的に偏見なく説明記述したものだ。ネイティブAとネイティブBはむしろ違った説明、違ったやり方であるほうがいいと私は思っている。「おやこの説明は前の人と違う」と気付けば、それらの違った説明間の共通点・分母は何かを自分で見つけ出す。説明の仕方は違っても言っていることは同じだと気付く部分がある。ネイティブ誰もが同じことを言っている部分、いわば最重要点とそうではないまあそんなに神経を使わなくていい(できれば使ってほしいが)部分の違いが実感としてわかり、当該言語に対する理解が深まるからだ。私はそれが大人の語学だと思っているので、問答無用でやたらと構文を暗記させるオウムの調教のようなやり方はどうも好きになれない。前にも書いたが、自分の使っている語学の教科書に書いてあることを「これは素人が混乱しないように苦し紛れにやっているウソの説明だ」と初心者の私たちに堂々とチクったロシア語の先生に好感を持った。自分たちが大人扱いされたような気がしたのである。
もっとも大人の学習者の中にも理論や深い理解なんかどうでもいい、手っ取り早く通じればそれでいいという人もいる。それはそれでその人の考えだから批判する気は全くない。また大人相手にそういう授業をする人にイチャモンを付けるつもりも全然ない。ただ日本語に興味をもってやってくる人の中には「こんにちは・さようならなんて挨拶はどうもいい。それより日本語の音素の数を教えてください」とか言ってくる人が実際にいるのだから、そういう人用の授業をやる人がいても害にはなるまい。問題はこうしろタイプの人が学習者でもなく部下でもない他の教え方をしている人に対しても「それではいけない」と言ってきたりすることだ。文法は規範であるという意識がしみついていて、「どちらがより頻繁に使われるか」でなく、二言目には「どちらが正しいか」と言い出すタイプ。これにはさすがに「うっ」と思わざるを得ない。
日本語では例えば「渡る」「走る」「登る」「飛ぶ」といった動詞が「~を」を取ることがある。「アメリカに渡る」対「橋を渡る」、「公園で走る」対「先頭を走る」または「マラソンで走る」対「マラソンを走る」、「富士山に登る」対「富士山を登る」、「月まで飛ぶ」対「空を飛ぶ」などである。これを私は今まで単純に「動詞によっては自動詞と他動詞のどっちにもなるものがあるんですよ」と説明してきた。こういう現象は他の言語にもある。例えばドイツ語の lesen(「読む」)なら
Ich lese jetzt. (私は今読書している)
I + be reading + now
は自動詞だが
Ich lese jetzt das Buch. (私は今その本を読んでいる)
I + be reading + the book + now
は他動詞。sterben(「死ぬ」)など自動詞でしかあり得なさそうな動詞も
Er starb einen schrecklichen Tod
he + died + a + terrible + death
(彼は恐ろしい死を死んだ→彼は恐ろしい死に方をした)
と、他動詞になることがある。またドイツ語では動詞の前にbe-という形態素がつくと意味は変わらないままバレンツだけ変化して自動詞が他動詞になることがある。steigen(「登る」)は自動詞だが、
Sie steigen auf den Berg.
they + climb + up + the + mountain
これにbe-がつくと前置詞がつかず、「山」が対格の直接目的語になる、つまり他動詞に変化するのだ。
Sie besteigen den Berg.
they + climb + the + mountain-対格
英語ではどちらも climb 、つまり動詞が自動詞にも他動詞にもなるわけで、日本語の「山に登る」と「山を登る」に対応している。「同じ動詞に他動詞的用法と自動詞的用法がある(ことがある)」、この説明でまずいことがあるのだろうか?そもそも世の中には他動詞、自動詞の両機能を持つ動詞を表すambitransitive verb(「両義動詞」とでも訳したらいいのか)という言葉が立派に存在するのだ。
ところが前にそんな雑談をしたら日本語の語学教師をしている人から「そういう説明ではいけない」と言われたことがある。曰く:国文法では「登る」や「飛ぶ」、「泳ぐ」は自動詞だから、「空を飛ぶ」「山を登る」の空や山を対格・直接目的語とは説明しないことになっている。この場合は「~を」は対格ばかりでなく場所も表わすのだと言わないといけない。は?つまり「~を」は対格ばかりでなく処格をも表わすと説明しろということか。定義の方向が私と正反対だ。私は(というより普通は)バレンツ構造によって動詞を定義する、言い換えると「「~を」という対格を取るから他動詞、取らないから自動詞」なのに対し件の人は動詞を最初に定義してからバレンツを決め「他動詞だからこの「~を」は対格、自動詞だからこの「~を」は別の格」と決める理屈になる。この発言に対して私が言いたいことは次の2点である。
第一に「~を」のつく対格というのは主格と同様非常に安定した格で、シンタクス上の振舞いもはっきりしている。トピックマーカーや連体格の「~の」との共存は不可(『152.Noとしか言えない見本』参照)、また日常会話では頻繁に省略される。例えば
君、この本もう読んだ?
などの文であるが、これは主格と対格の動詞のバレンツ要素としての力が極めて安定しているからだ。「~に」になるとこうはいかない。与格、奪格、向格、存在処格の4つの格を想定しなければシンタクス上の特徴が説明できない。存在処格の「~に」は省略できるが他はできない。また「~の」との共存も不可能だ。また他の言語を見ても主格と対格には特別なステータスがあることが多い。種々の言語で他の斜格を対格から派生させるメカニズムを持っているのがいい例だ(『65.主格と対格は特別扱い』、『169.ダゲスタンの言語』参照)。つまり対格は安定度が大きく、この対格を基準にして、それを目的語にする動詞を特に他動詞と名付けるのは理屈が通っている。現に英語の辞書を見ても同じ動詞の項に v.i と v.t と分けて意味が列挙してある。さらに同じ動詞でも自動詞としての用法と他動詞としての用法はごっちゃにならない。例えば「飛ぶ」ならば、
空を飛ぶ (他動詞)
か
月に飛ぶ (自動詞)
のどちらかで、
* 空を月に飛ぶ。
とは言えない。それを言いたければ
空を飛んで月に行く。
あるいは
空を通り抜けて月に飛ぶ。
と、バラさなければいけない。要するに両立を許さないような二つの機能が一つの動詞に共存しているということだ。これらは少なくとも機能上では別の動詞といっていい。その機能の全く異なる動詞を無理やり一緒にして他動詞か自動詞かのどちらかに固定しそれを基準にして文要素の格を決めろというのは本末転倒だ。
第二にそもそも他動詞・自動詞という用語は西欧の文法の(ということはもともとはラテン語文法だろうが)の transitive、intransitive の訳語だ。ドイツ語の辞書や言語学事典には transitiv を「対格目的語をとる動詞」とはっきり定義してある。事実上格変化パラダイムを失った英語では受動態が形成できるか否かなども基準に持ってきているが、「対格目的語を取る動詞を他動詞と名付ける」という根本は変わらない。ところがこの最初の明確な定義、これが翻訳語であるということが国語辞典ではないがしろにされ、「他動詞」の項を見ると「他動を表わす動詞」という必殺なトートロジー定義がしてある。私の持っている辞書ではそこにさらに「英語などでは、目的語を必要とする動詞」と付け加わっている。まるで他動詞という用語が本来国語学発祥で、英語などの文法での定義の仕方のほうが邪道ででもあるかのようだ。別の意味でこれも本末転倒である。
その辞書では自動詞は「その語の表わす作用が他に及ばず、目的語をとらない動詞」とあるが、この作用云々というファジーな定義は他でも見かけた。『問題な日本語』という本では他動詞を「その表わす動作・作用が、直接他に及ぶ意味を持つ動詞」、自動詞は「その表わす動作・作用が、直接他に及ばないで、主体の動きや変化として述べられる動詞」としてある。対格目的語という言葉は定義には全く現れない。ではモロ他動詞の「読む」という動詞を使った「本を読む」という動作で、いったいどういう作用が本に及んだのだ説明してもらいたい。なぜ「本を読む」が他動詞で「読書する」が自動詞なのか説明してもらいたい。「映画を見る」もそうだ。見られることで映画が何かの影響を被ったのだろうか?これらは考えようによれば「主体の動きや変化」ではないのか?それによって主体はひとつ賢くなったからである。
そこではさらに「~ヲと言えても、対象を表さず、①移動する場所(道を歩く)、②相対的位置(先頭を走る)、③経過する時間(不遇の一生を送る)、④基準となる境界線(土俵を割る)、⑤離脱点(学校を卒業する)、⑥不在の場所(学校を休む)などを表わすものは自動詞」としてある、だから「街道を行く」は自動詞なのだそうだ。上述の語学教師と言っていることが同じところを見るとこれが国語をもとにした語学教育のコンセンサスなのだろうか。これに対して私の言いたいことは次の3点である。
まずここでは⑥までしかないが、いくらでもこれを意味分けしてさらに項目を増やすことが容易、つまりいつまで経っても定義が終らない。そのうえ例えば「一生を送る」や「土俵を割る」が自動詞で「荷物を送る」や「お皿を割る」が他動詞という差がひとえに名詞の意味の取り方にかかっていて基準が恣意的だ。
これは多分「対象」というこれもまた訳語の意味をハズしたからではないだろうか。これは object のつもりだろうが、ここの話題は言語の文法なのだから、object は「対象」あるいは「モノ」ではなくて「目的語」である。これを「対象」と理解するからいわゆる(手で掴めない?)モノでないものは「対象ではない」と考えたのだろう。時間だの基準だの場所だのは「対象物」ではないかもしれないが、目的語であるという事実は変わらない。
さらに第3点として「~を」のほうをいじり、格の観念を無視して「~を」が「対象」(繰り返すがここは「目的語」というべきだ)を表わさないことがあると言い切ってしまうと「山に登る」と「山を登る」の意味の差がうまく説明できない。『問題な日本語』では別の個所で「山に」は到着点を表わすので、前者は頂上に着いたという意味、後者は山麓から頂上に至る移動の地点を表わす、とある。上の①に相当するということなのだろう。しかし「山を登る」の「山を」と上で挙げた「道を歩く」の「道を」は意味的に大きく違う。後者には明確な出発点も到達点もない。さらになぜ「頂上まで山を登る」、「頂上まで山に登る」がOKで「頂上に山を登る」がダメなのか説明できない。理屈から言えば「頂上まで山に登る」は到達点の表示がダブっているから冗長となり、許容度が落ちるはずだが、私の感覚ではこの文は全く問題がない。逆に「頂上まで山を登る」と「頂上に山を登る」は文の意味は同じはずなのに(どちらも頂上が到達点)後者だとなぜダメなのか?対象の意味を細分化して説明しようとすればするほど「あちらをたてればこちらが立たず」的になっていく。
一方これを動詞のバレンツから説明すれば実にスッキリ行く。「頂上まで山を登る」の「登る」は他動詞的用法で、「山を」が直接目的語である。動詞のバレンツはすでに満たされているが「頂上まで」は補足語だからバレンツ核には触れず、「山を」と共存できる。「頂上まで山に登る」の「登る」は自動詞で向格目的語がバレンツに含まれる。それで先の他動詞と同様バレンツは全てふさがっているがそこにさらに補足語(「頂上まで」)が加わることには何ら問題がない。しかし「山を頂上に登る」や「頂上に山を登る」は別だ。「山を」は他動詞のバレンツ、「頂上に」は自動詞のバレンツで、二つの違ったバレンツ要員、つまり共存不可な要素がセンテンス内でカチあってしまっている。だからこれだけボツなのである。上で挙げた「空を月に飛ぶ」と同じだ。また「頂上まで山を登る」、「頂上まで山に登る」のほうがそれぞれ「山を頂上まで登る」、「山に頂上まで登る」より自然な理由もバレンツで説明できる。動詞とそのバレンツ要素はできるだけくっ付いていた方がいい、間に邪魔者が入らないほうがいいからだ。「田中さんと東京へ行く」のほうが「東京へ田中さんと行く」より自然、「コンビニでおにぎりを買う」のほうが「おにぎりをコンビニで買う」より自然なのも同じ理由。「東京へ」や「おにぎりを」は動詞が要求するバレンツ要素であるのに対して「田中さんと」や「コンビニで」はなくても文が成立するオプショナル要素で、この「いなくてもいいお邪魔虫」がバレンツ間にしゃしゃりこむと自然度が落ちる。一方「頂上に山を登る」と「山を頂上に登る」では「山を」「山に」の双方がバレンツ要素なので自然度の差などなくどちらも一律にボツなのだ。実に簡単な理屈だ。「自動詞」に固執してしまうとこんな簡単な説明さえできない。
さらに「プールで泳ぐ」がOKなのに「山で登る」がいけない理由もバレンツを出発点にすれば説明できる。自動詞としての「泳ぐ」は主語以外の要素がバレンツに含まれない、バレンツ価1の動詞だが、自動詞の「登る」はバレンツ価2,つまり向格が必須である。「山で登る」はその必須の向格が満たされていないのにそれを差し置いて補足語の処格が来ているからNGなのである。
以上の理由で私は対象の意味を細分化する説明はやや非科学的で本末転倒だと思うのだが、そういう説明の仕方をすること自体には全くイチャモンをつける気はない。先にも言ったようにいろいろな説明の仕方があっていいと思うからだ。ただ「一つの動詞が他動詞的用法と自動詞的用法に分かれることがある。「空を飛ぶ」は他動詞だ」と説明している人を「それじゃあダメだ」と上から目線するのは引っかかる。考えてみてほしい。動詞のバレンツから自動詞・他動詞を決めるタイプの講師に学習者が「この「~を」は対格じゃない、つまりこの動詞は自動詞だとしてはいけないんですか?」と質問してきた場合、こちらは上で挙げたような理論を展開して「それではいけないということはないが、こちらの説明の方が整合性がある」と主張できる。さらに他の言語の文法と互換性があるというボーナスまでついてくる。逆に自動詞→非対格タイプの人が「どうして一つの動詞に他動詞用法と自動詞用法がある、これはその他動詞用法だと考えてはいけないんですか?」と聞かれたらどう答えるのだろう。「そういうことになっている」とでも言うのだろうか。
念のため言っておきたいが、私は決して西欧の文法方式や用語をそのまま鵜呑みにしろと言っているのではない。あくまで「どちらの説明方法が説得力があるか」を検討するべきで、頭ごなしに「そういうことになっている」では特に大人は納得しないだろうということだ。