アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

November 2024

10年くらい前の記事ですが足りない部分があったので(私の頭のことか?)大幅に書き加えました。表も画像にしました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 少し前まではコーカサスやシベリア諸民族の言語をやるにはロシア語が不可欠だった。文献がロシア語で書いてあったからだ。今はもう論文なども英語になってきてしまっているのでロシア語が読めなくても大丈夫だろう。残念といえば残念である。別に英語が嫌いというわけではないのだが、何語であれ一言語ヘゲモニー状態には私は「便利だから」などと手放しでは喜べない。どうしても思考の幅が狭まるからだ。
 そのコーカサス地方の言語、タバサラン語についてちょっと面白い話を小耳にはさんだことがある。

 タバサラン語では「本」のことを kitab と言うそうだ。アラビア語起源なのが明らかではないか。よりによってこの kitab、あるいは子音連続 K-T-B は、私が馬鹿の一つ覚えで知っている唯一のアラビア語なのである。イスラム教とともにこの言語に借用されたのだろう。
 そこで気になったので、現在イスラム教の民族の言語で「本」を何というのかちょっと調べてみた。家に落ちていた辞書だのネットの(無料)オンライン辞書だのをめくら滅法引きまくっただけなので、ハズしているところがあるかも知れない。専門家の方がいたらご指摘いただけるとありがたい。その言語の文字で表記したほうがいいのかもしれないが、それだと不統一だし読めないものもあるのでローマ字表記にした。言語名のあとに所属語族、または語群を記した。何も記していない言語は所属語族や語群が不明のものである。「語族」と「語群」はどう違うのかというのが実は一筋縄ではいかない問題なのだが、「語族」というのは異なる言語の単語間に例外なしの音韻対応が見いだせる場合、その言語はどちらも一つの共通な祖語から発展してきたものとみなし、同一語族とするもの。この音韻対応というのは比較言語学の厳密な規則に従って導き出されるもので、単に単語が(ちょっと)似ているだけですぐ「同族言語ダー」と言い出すことは現に慎まなければいけない。時々そういうことをすぐ言い出す人がいるのは困ったものだ。現在同一語族ということが科学的に証明されているのは事実上印欧語族とセム語族だけだといっていい。そこまで厳密な証明ができていない言語は「語群」としてまとめる。もちろんまとめるからにはまとめるだけの理由があるのでこれもちょっと似た点が見つかったからと言ってフィーリングで「語群」を想定することはできない。「テュルク語」については「語族」でいいじゃないかとも思うのだが、逆に似すぎていて語族と言うより一言語じゃないかよこれ、とでも思われたのか「テュルク語族」とは言わずに「テュルク諸語」と呼んでいる。
 話が飛んで失礼。さて「本」をイスラム教国の言葉でなんというか。基本的に男性単数形を示す。
NEU07-Tabelle1
 このようにアラビア語の単語が実に幅広い語族・地域の言語に取り入れられていることがわかる。アラビア語から直接でなく一旦ペルシャ語を経由して取り入れた場合も少なくないようだが。例外はアルバニア語とボスニア語。前者は明らかにロマンス語からの借用、後者はこの言語本来の、つまりスラブ語本来の語だ。ここの民族がイスラム化したのが新しいので、言語までは影響されなかったのではないだろうか。ンドネシア語の buku は英語からの借用だと思うが、kitab という言葉もちゃんと使われている。pustaka は下で述べるように明らかにサンスクリットからの借用。インドネシア語はイスラム教が普及する(ずっと)以前にサンスクリットの波をかぶったのでその名残り。つまり pustaka は「本」を表わす3語のうちで最も古い層だろう。単語が三つ巴構造になっている。しかも調べてみるとインドネシア語には kitab と別に Alkitab という語が存在する。これは Al-kitab と分析でき、Al はアラビア語の冠詞だからいわば The-Book という泥つきというか The つきのままで借用したものだ。その Alkitab とは「聖書」という意味である。クルド語の pertuk は古アルメニア語 prtu(「紙」「葦」)からの借用だそうだがそれ以上の語源はわからない。とにかくサンスクリットの pustaka ではない。

 面白いからもっと見てみよう。「アフロ・アジア語群」というのは昔「セム・ハム語族」と呼ばれていたグループだ。アラビア語を擁するセム語の方は上でも述べたように「語族」といっていいだろうが、ハム語のほうは「族」という言葉を使っていいのかどうか個人的にちょっと「?」がつくので、現在の名称「アフロ・アジア語」のほうも「族」でなく「群」扱いしておいた。
NEU07-Tabelle2
イスラム教徒が乗り出していった地域で話されていたアフリカのスワヒリ語は「イスラム教の民族の言語」とは言いきれないのだが、「本」という文化語をアラビア語から取り入れているのがわかる。ハウサ語の「本」は形がかけ離れているので最初関係ないのかと思ったが、教えてくれた人がいて、これも「ごく早い時期に」アラビア語から借用したものなのだそうだ。ハウサ語の f は英語やドイツ語の f とは違って、日本語の「ふ」と同じく両唇摩擦音だそうだから、アラビア語bが f になったのかもしれないが、それにしても形が違いすぎる。「ごく早い時期」がいつなのかちょっとわからないのだが、ひょっとしたらイスラム教以前にすでにアラビア語と接触でもしていたのか、第三の言語を仲介したかもしれない。ソマリ語にはもう一つ buug という「本」があるが、インドネシア語の buku と同様英語からの借用である。

 インドの他の言語は次のようになる。
NEU07-Tabelle3
最後に挙げたインド南部のタミル語以外は印欧語族・インド・イラン語派で、冒頭にあげたペルシア語、ウルドゥ語、パシュトー語と言語的に非常に近い(印欧語族、インド・イラン語派)がサンスクリット形の「本」が主流だ。ベンガル語 pustok もヒンディー語 pustak もサンスクリットの pustaka 起源。ただ両言語の地域北インドは現在ではヒンドゥ―教だが、ムガル帝国の支配下にあった時期が長いのでアラビア語系の「本」も使われているのはうなづける。これは直接アラビア語から借用したのではなく、ペルシャ語を通したもの。またベンガル語の boi は英語からの借用かと思ったらサンスクリットの vahikā (「日記、帳簿」)から来ている古い語だそうだ。
 インドも南に下るとイスラム教の影響が薄れるらしく、アラビア語形が出てこなくなる。シンハラ語は仏教地域。これら印欧語はサンスクリットから「本」という語を「取り入れた」のではなく、本来の語を引き続き使っているに過ぎない。それに対してタミル語、テルグ語、マラヤラム語は印欧語ではないから、印欧語族のサンスクリットから借用したのだ。これらの言語はヒンドゥー教あるいは仏教地域である。
 とにかく言語の語彙と言うのは階層構造をなしていることがわかる。上のインドネシア語の pustaka も後にイスラム教を受け入れたのでアラビア語系の語に取って代わられたが消滅はしていない。もっともバリ島など、今もヒンドゥー教地域は残っている。そういうヒンドゥー地域では kitab は使わないのかもしれない。
 「本」を直接アラビア語からでなくペルシャ語を通して受け入れた言語も多いようだが、ではイスラム以前のペルシャ語では「本」を何といっていたのか。中期ペルシャ語(パフラヴィー語)を見ると「本」を表す語が3つあったらしい。mādayān、nāmag、nibēg の3語で、なるほどアラビア語とは関係ないようだ。本来のイラニアン語派の語だろう。 mādayān は古アルメニア語に借用され(matean、「本」)、そこからまた古ジョージア語に輸出(?)されている(maṭiane、「本、物語」)。nāmag も namak (「字」)としてやっぱり古アルメニア語に引き継がれたし、そもそも現代ペルシャ語にもnāme として残っている。「字」という意味の他に合成語に使われて「本」を表す: filmnâme(「脚本」)。最後の nibēg も nebiという形で現代ペルシャ語に細々と残っており「廃れた形」ではあるが「経典」「本」。昔はこの語でコーランを表していたそうだ。

 ではそのアルメニア語やジョージア語では現在どうなっているのか。これらの言語はタバサラン語のすぐ隣、つまりコーカサスで話されているが、キリスト教民族である。アラビア語とは見事に無関係だ。
NEU07-Tabelle4
アルメニア語の matyan は上述の古ペルシャ語 mādayān の子孫で、主流ではなくなったようだが、「雑誌」「原稿」「本」など意味が多様化してまだ存命(?)だ。ジョージア語でも maṭiane(「聖人伝」)として意味を変えたが単語としては生き残っている。girk、cigni がアルメニア語、ジョージア語本来の言葉。オセチア語の činyg は古い東スラブ語の kŭniga からの借用だそうだ。道理で現在のスラブ諸語と形がそっくりだ(下記)。オセチア語と上にあげたイスラム教のタジク語は同じ印欧語のイラニアン語派だし話されている地域も互いにごく近いのに語彙が明確に違っているのが非常に面白い。しかしそのタジク語にも上記中世ペルシャ語の nāmag に対応する noma(「字」)という言葉が存在する。

 また次の言語はセム語族で、言語的には本家アラビア語と近いのに「本」を kitab と言わない。アムハラ・エチオピア民族はキリスト教国だったし、ヘブライ語はもちろんユダヤ教。
NEU07-Tabelle5
 アムハラ語はもちろんゲエズ語からの引継ぎだが、後者はヨーロッパのラテン語と同じく死語なので、本当の音価はわからない。ゲエズ文字をアムハラ語で読んでいるわけだから音形が全く同じになるのは当然と言えば当然だ。アムハラ語もゲエズ語もさすがセム語族だけあって「語幹は3子音からなる」という原則を保持している。これもアラビア語と同様 m- の部分は語幹には属さない接頭辞だから差し引くと、この語の語幹は ṣ-h-f となる。その語幹の動詞 ṣäḥäfä は「書く」。このゲエズ語の「本」はアラビア語に maṣḥaf という形で借用され、「本」「写本」という意味で使われている。アラビア語の方が借用したとはまた凄いが、それどころではなく、ヘブライ語までこのゲエズ語を輸入している。ヘブライ語には「聖書の写本」を表す mitskháf  という単語があるが、これは mäṣḥäf の借用だそうだ。なおゲエズ語の動詞の ṣäḥäfä は古典アラビア語の ṣaḵafa に対応していると考えられるが、後者は「書く」でなく「地面を掘る」という意味だそうだ。は? 
 ヘブライ語の sefer(語根はs-f-r、f は本来帯気の p だそうだ)はアッカド語の時代から続く古い古いセム語の単語で、アラビア語にもその親戚語 sifr という「本」を表す語が存在する。ただ使用範囲が限定されているようだ。
 逆にヘブライ語には katáv(「書く」)あるいは ktivá(「書くこと」)という語もある。一目瞭然、アラビア語の k-t-b と対応する形だ。「本」という意味はないようだが、とにかく単語自体はアラビア語、ヘブライ語どちらにも存在し、そのどちらがメインで「本」という意味を担っているかの程度に違いがあるだけだ。
 
 それにしても「本」などという文化語は時代が相当下ってからでないと生じないはずだ。本が存在するためにはまず文字が発明されていなければいけないからだ。当該言語が文字を持っていなかったら(文字のない言語など特に昔はゴロゴロあった)本もへったくれもない。だから当時の「先進国」から本という実体が入ってきたのと同時にそれを表す言葉も取り入れたことが多かったのだろう。普通「その国にないもの」が導入される時は外来語をそのまま使う。日本語の「パン」「ガラス」などいい例だ。
 言い換えると「本」という語は宗教と共にということもあるが文字文化と共に輸入されたという側面も大きいに違いない。イスラム教が来る以前にすでにローマ文化やラテン語と接していたアルバニア、グラゴール文字、キリル文字、ラテン文字など、文字文化にふれていたボスニアで、「本」がアラビア語にとって変わられなかったのもそれで説明できる。そういえばバルカン半島に文字が広まったのはキリスト教宣教と共にで、9世紀のことだ。イスラム教はすでに世界を席捲していたが、バルカン半島にイスラム教が入ってきたのはトルコ経由で14世紀になってからだ。当地にはとっくに書き言葉の文化が確立されていた。
 アルメニア語、ジョージア語、アムハラ語(ゲーズ語)も古い文字の伝統があって、独自の文字を発達させていた。ヘブライ語やサンスクリット、タミル語は言わずもがな、イスラム教どころかキリスト教が発生する何百年も前から文字が存在した。外来語に対する抵抗力があったのだろう。

 まとめてみるとこうなる。イスラムの台頭とともにアラビア語の「本」という語が当地の言語に語族の如何を問わずブワーッと広まった。特にそれまで文字文化を持っていなかった民族言語は何の抵抗もなく受け入れた。
 すでに文字文化を持っていた言語はちょっと様子が違い、イスラム以前からの語が引き続き使われたか、アラビア語の「本」を取り入れたのしても昔からの語は生き残った。ただその際意味変化するか、使用範囲が狭くなった。
 イスラム教の波を被らなかった民族の言語はアラビア語系の語を取り入れなかった。
 その一方、初期イスラム教のインパクトがどれほど強かったのか改めて見せつけられる思いだ。千年にわたる文字文化を誇っていたペルシャ語、サンスクリットという二大印欧語を敵に回して(?)一歩も引かず、本来の語、mādayān などを四散させてしまった。その際ペルシャ語は文字までアラビア文字に転換した。もっともそれまで使っていたパフラヴィ―文字はアラム文字系統だったからアラビア文字への転換は別に画期的と言えるほどではなかっただろうが、その侵略された(?)ペルシャ語は外来のアラビア語をさらに増幅して広める助けまでしたのだ。ペルシャ語のこのアンプ作用がなかったら中央アジアにまではアラビア語形は浸透しなかったかもしれない。
 ボスニア、アルバニアはずっと時代が下ってからだったから語が転換せずに済んだのだろう。

 実はなんとベラルーシ語にもこのアラビア語起源の кітаб (kitab)言う語が存在する。「本」一般ではなくイスラム教の宗教書のことだが、これはベラルーシ語がリプカ・タタール人によってアラビア文字で表記されていた時代の名残である。このアラビア語表記は16世紀ごろから20世紀に入るまで使われていた。そのころはトルコ語もアラビア文字表記されていて、現在のラテン語表記になったのはやはり20世紀初頭だ。
 このリプカ・タタール人というのはベラルーシばかりでなく、ポーランドやリトアニアにもいる。私がヨーロッパ系のポーランド人から自国内のリプカ・タタール人(国籍としてはポーランド人)と間違われたことは以前にも書いた通りだ。自慢にもならないが。

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前回の続きの古い記事を全面的に書き直しました。表も画像にしました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 前回の続きです。

 more にあたる語がplūs かmagis かという他にもう一点気になることがある。スラブ語にはちょっとお休みをいただいてロマンス語派とゲルマン語派の主なものだけもう一度見てみよう。
Tabelle1-N30
 問題は more の位置だ。ほとんど総ての言語で more にあたる語が dollars の後に来ているのに本国ポルドガル語のみ、more が a few dollars の前に来ている。ちょっとこの点を考えてみたい。なおここでは「本国」と「ブラジル」と分けてはあるが、別にブラジルでは本国形を使わない、あるいはその逆というわけではなく、要は「どちらでもいい」らしい。スペイン語もそうで、本国では南米形を使わないという意味ではない。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)や ein paar (a few)が Dollar の前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for + a few + dollars + more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここで mehr (more) を Dollar の前に持ってきた構造

?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけての NG 宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のように mehr (more)を ein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの * 印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more books あるいは some more books という語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員 For a few more dollars はOKだと言った。For a few dollars more のほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱり NG 宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でも más(more)は dólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

*Por unos cuantos más dólares と*Por más unos cuantos dólares の許容度に差があるかどうかは残念ながら聞きそびれてしまった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 次にいわゆる p- 組のフランス語ではスペイン語と同じく、more が名詞の前、ましてや a few の前には出られない。a few more books がフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some + books + of + more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques plus dollars
*Pour plus quelques dollars

の二つはどちらも却下した。
 同じくp-組のイタリア語では più (more) が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a + few + more + of + books

残念ながらネイティブが見つからなかったので Per qualche più dollaro とかなんとか more が dollars の前に出る構造が可能かどうかは未確認である。
 もっともロマンス語を見ると純粋に more にあたる語の位置に加えて前置詞の使い方がポイントになってくるようなので、ちょっと私の質問の仕方が悪かったかもしれない。またネイティブに聞いたといっても偶然そこに居合わせた人に(しかも一人だけ)よもやま話で持ちかけただけなのでとても「調査」などと言えるようなシロモノではない。いつか詳しく知りたいものだ。

 それでもここまでの結果を見てみると問題は実は「more にあたる語が dollars の前に出られるか否か」というよりむしろ「more (にあたる語)が a few (にあたる語)の前に出られるか否か」であることがわかる。言い換えると more (にあたる語。面倒くさいので以下単に括弧にいれて「more」と呼びます )は数量表現の前には出られないのである。シンタクス的には 「more」は数量表現を支配していると解釈できるから、支配要素が非支配要素の数量表現の後に来ていることになる。「支配・非支配」というのはちょっと専門的な用語になるが、いわゆる修飾語は被修飾語に支配されている関係と思っていい。a cute duck という句なら修飾語の cute は非修飾語の duck に支配されている。ついでに a は限定辞 deterniner として cute duck を支配する。
 とにかく「more 」は数量表演を支配するが、その際何を持って数量表現ととするかという点に言語による違いがあるらしい。通貨単位を含めた「a few dollars 」全体を数量表現と見なす、見なせるというのは全言語共通だが、英語はそこからさらに a few を切り離してこれを単独で数量表現とみなせるということだ。ドイツ語も実はそうなのだろう。上で述べたように Für ein paar mehr Dollar の否定に時間がかかったのはそのせいだと思う。その a few more dollars という構造だが、ここでは more は数量表現を支配する一方、後続の普通名詞 dollars  に支配されている、more が dollars  を修飾していることがわかる。違いを図で書くとこんな感じになりそうだ。

for [ [a few dollars] more] N
for [ [ [a few] more]N1 dollars]N2

つまりmore はある意味名詞なわけで、a few more dollars では名詞が別の名詞を修飾している状態、日本語の「母さんアヒル」と同じ構造だ。悔しいことに辞書を見たら more の項にしっかり「名詞」と載っていた。なぜ悔しいのかと言うと「わーい more って名詞じゃん!」というのは私が自分で発見した新事実だと思っていたからである。ちぇっ、もう皆知っていたのか…

 しかし実は「支配する要素は支配される要素の後ろに来なければいけない」という必然性はない。例えばフランス語では形容詞(支配される要素)が名詞(支配する要素)の後ろに来る。「more」が「a few」の前に出られないのか前者が後者をシンタクス上支配しているから、という理屈は成り立たないのである。では「more」はなぜ「a few」の前にでられないのか。私が(ない頭を必死にひねって)考えつく理由はたった一つ。「more」が数量表現の前に来ると「more than」(ドイツ語では mehr als)と紛らわしくなって意味が変わってしまう危険性が高すぎるからではないかなということだ。For more a few dollars あるいは Für mehr ein paar Dollar とやったら For more than a few dollars(Für mehr als ein paar Dollar)かと思われ、しかも more や als が欠けているから意味が違う上に文法的にも間違いということになり、意図した意味と乖離しすぎる。
 そういえばドイツ語には Für ein paar Dollar mehr の他にもう一つ「あともう少しのドルのために」を表す方法がある。副詞の noch を使うやり方だ。これは英語でいえば still とか in addition 、つまり「その上さらに」という副詞だが、als とツルんで「~以上」という意味になったり、他の句を支配したりなどと言う器用なことはできない。混同される虞が全くないので名詞句の前に立てる。

Für noch ein paar Dollar

しかし名詞を支配できないから数量表現と名詞の間に割って入って橋渡しすることができない。

* Für ein paar noch Dollar

またこれが文末、あるいは句の最後尾に来ると何かが大幅に省略されている感じで、そもそも意味が取れないそうだ。

* Für ein paar Dollar noch

では Für noch ein paar Dollar とFür ein paar Dollar mehr は完全に同じ機能かというと「含意が違う。後者の方が言外の意味が広い」そうだ。まず前者だが、含意としては当該人物が例えばすでに100ドル持っている、あるいは賞金稼ぎで100ドルのお尋ね者をゲットした。しかしさらに金が欲しいから働く。その「さらに」は5ドルかもしれないし、110ドルかもしれない。要は元金(?)100にいくらか上乗せされればいいのだ。これが基本の意味で、後者もその意味で解釈していい。しかし後者ではもう一つの意味解釈ができる。前回100ドルの懸賞金を得た当該人物がさらに今度は100ドル以上の賞金のついたお尋ね者を狙う、つまり懸賞金のグレードアップというニュアンスの解釈が可能だそうだ。「これは明らかにレオーネの前作 Per un pugno di dollari (「一握りのドルのために」、邦題『荒野の用心棒』)への暗示だ。」いやネイティブというのは言うことが細かい細かい。

 さて、ではその間違えやすい For more than a few dollars の方は上にあげた言語ではどういうのか、自動翻訳するとこうなった。これを思いついたときは周りにネイティブがいなかったので仕方なくディープ L 先生に頼ってしまったのである。「本国」と「南米」の区別は出来なかったのでスペイン語とポルトガル語の単なるバリエーションということにした。
Tabelle2-N30
 さて、ポルトガル語には mais(more)が数量表現の前に来ても「more than と誤解されない何か」があるのだろうか。他のロマンス語と何か決定的に違う点はあるのだろうか。For more than a few dollarsの意味ではポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順、「more」が「a few」の前に出るという下のようなウルトラCが可能だ(下記太字)。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかは未調査)

上の表をざっと見るとたった一つ思いつくことがある。他のロマンス諸語と違ってポルトガル語には「more than」の「than」を1語でなく do que と2語で表す方法があるということだ。1語しかないとわざと抜かしたのか聞きそびれたのかわからない、つまり more than なのか単なる more なのか紛らわしいが、さすがに2語抜けるとわざとであることが明確、つまり単なる more であることがはっきりするからOKとか。でも一方ポルトガル語にはスペイン語と全く閉口する形、Por mais de alguns dólares という「more」を1語で表す形もあるではないか。そのオトシマエはどうつけたらいいのだろう。無理やり解釈すれば、たとえ mais de という短い形があっても mais do que という存在が背後にあるので「than」をつけないのは意図的と解釈されやすく、短い de のほうを消してもわざとなのかうっかりなのかが混同されにくいとか。しかしそりゃあまりにも禅問答化しすぎなので、方向を変えて mais do que と mais de のどちらが古い形なのかちょっと考えてみた。
 まず、イタリア語の di、フランス語、ポルトガル語、スペイン語の de は同語源、皆ラテン語の前置詞 dē(of, from)から来たものだ。ポルトガル語の do の方はしかしもともとは2語、de  + o で、後者は the である。つまりこの語はポルトガル語内で発生した比較的新しい語だということだ。だから他のロマンス語と並行するポルトガル語形 Por mais de alguns dólares は古い形、やや廃れつつある形なのではないだろうか。もう一つ、スペイン語にもポルトガル語にも「than」に que を使う構造がある。この que はラテン語の quid(that, what)だが、スペイン語の por más que unos pocos dólares が文句なく For more than a few dollars であるのに対し、ポルトガル語の Por mais que alguns dólares は文句大ありの形である。なぜスペイン語に文句がないのかと言うと、この形を英語やドイツ語、果てはフランス語などの逆翻訳すると例外なく For more than a few dollars にあたる形が出て来るからだ。一方ポルトガル語の方は逆翻訳すると英語でもドイツ語でも意味が違って出てくる。どうもこの que だけ使うポルトガル語表現はマージナルなのではないだろうか。これらを要するに、ポルトガル語では「than」に2語使う Por mais do que alguns dólares がメインであるために「more than」と「more」の区別がつきやすく、mais がalguns dólares(a few dollars)の前に出て For a few dollars more の意味を担うことを許したのではないだろうか。
 でもなぜいくら条件が許したからと言って mais は大人しく最後尾に引っこんでいないで前にしゃしゃり出る気になったのか。別に誰も「おい、mais、前に出ろ」とは言っていないのだ。これもわからないのだが、たった一つ私に考えつくのは上でもチョロッと述べたようにロマンス語は本来支配要素が非支配要素の前に立つのが基本だということだ。最後尾に甘んじてはいても実はスペイン語の más もイタリア語の più も以前から前に出たくて出たくてしかたなかったのかもしれない。そうやっていたところポルドガル語で条件が整ったのでヒャッホーとばかり名詞句の前に出たとか。
 もしそうだとするとそのポルトガル語ヒャッホー形は新しい「more than」表現 mais do que よりさらに下った時代のイノベーションということになるが、この記事の冒頭や前回述べたように Por uns dólares a mais がブラジルポルトガル語、Por mais alguns dólares が本国ポルトガル語とされていることが実に興味深い。言語学には波動説というものがあり、「周辺部の形は当該言語の古形を表す」という現象が知られているからだ。例えばいつかオランダ語のネイティブが言っていたが、アフリカーンス語(『89.白いアフリカ人』参照)はとても古風なオランダ語に見えるそうだ。アフリカーンスはいわばオランダ語の周辺バリエーションだから古い形を保持している。この図式をポルトガル語に当てはめるとブラジル・ポルトガル語は「より古い形が残っている」ことになり、Por mais alguns dólares はポルトガル語の比較的新しいイノベーションという見方にマッチする。

 以上が私の考えだが、繰り返すようにこれは超テキトー&穴だらけなネイティブ「調査」に端を発し、あげくはディープL先生のおっしゃったことを鵜呑みにして無理やり出した結論だから、アサッテの方角にトンチンカン砲を放っている虞大ありだ。何か知っている方がいらっしゃったら教えていただけるとありがたい。

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