前回の двенадцать стульев に引き続きイリフ&ペトロフの2番目の長編小説 『黄金の子牛』золотой телёнокを読破して(根性だ!)再び驚いた。これは двенадцать стульев のいわば続編なのだが、全然続編にありがちの二番煎じになっていない。それどころか社会へのおちょくりも主役ベンデルの減らず口もパワーアップしている。
 ペトロフの回想によるとこのオスタップ・ベンデルというキャラは前作の двенадцать стульев を書き始めたときはあくまで脇役という構想だったそうだ。それが書き始めるうちに勝手に存在感を増し、小説の登場人物と言うより生身の人間を扱っているような気がし出したとペトロフは言っている。作者ら自身がベンデルのあつかましさに手を焼いたそうだ。こういう、登場人物が作者の手を離れて一人歩きしはじめる現象について述べる作者は非常に多く、黒澤明などもよくそんな話をしていた。

 二作目の золотой телёнок ではそのベンデルが最初から主役として登場する。旧約聖書からとったタイトルが表しているように、拝金主義な物語である。とにかく金のあるところから頂戴しようと手ぐすねを引いている二人の詐欺師の話で、その一人がもちろんベンデル、もう一人がコレイコという公金横領のプロだ。ベンデルがコレイコが横領した金をさらにまた頂戴しようと画策する。つまり二大イカサマ氏の対決である。そもそも社会主義国ソ連で拝金主義者の話を展開するということ自体がすでに風刺MAXで、двенадцать стульев もその路線だったが золотой телёнок ではストーリーにさらに深みが増している。

 さる田舎町の役所に革命戦で大活躍した軍人某シュミット氏の息子だという人物が現れ、金を要求する。役所では市の予算から支出するのだが、よりによって最初の人物がまだ事務室から出て行かないうちにさらにもう一人自称シュミットの息子という人物が飛び込んできて役人はいぶかるが、息子1がとっさに息子2を兄弟扱いして助けてやる。息子1と息子2が役所を後にした後、さらに息子を名乗る人物が役所を訪れ、これはさすがに見抜かれて追い出される。この息子1がベンデルで、息子2、息子3、さらにその市で知り会った車持ちの(当時は車を持っている人はあまりいなかった)運転手と共に、離れた町にいるコレイコと言う超大金持ちの財産を頂戴してやろうと車で出かけるのである。двенадцать стульев と似たロードムービー的な展開で、道中の「生活費」はイカサマでくすねまくる。
 目ざす市に着くとベンデルは息子2、息子3と偽装の店を構え(何か表の活動をしないと一定のところに居住できないからだ。運転手氏は車があるから企業主として別なところに居を構える)、「出張」と称してあちこちへ出かけ、コレイコが各地でやらかした公金横領の証拠書類を収集する。息子2と息子3はそこら辺の頭のキレがないから、年中ベンデルの足を引っ張る羽目になる。読んでいてイライラしてくるほどだ。味方が馬鹿なのに対して敵のコレイコは中々一筋縄ではいかず「敵ながらアッパレ」を地で行くタヌキだ。この、書類を念入りに調査して金づる資料をコツコツ作成と言う展開はゴーゴリの『死せる魂』の暗示ではないだろうか。さらに今になって気付いたが、もしかしたら前作 двенадцать стульев の冒頭で出てくる町の名前が N となっているのもゴーゴリを意識したのかもしれない。
 さてついに調査を終えたベンデルが動かぬ証拠を突きつけてコレイコに「これを百万ルーブルで買わないか」と迫るが(恐喝じゃん)すんでのところで取り逃がす。おまけに息子1(ベンデル)・2・3の住んでいたアパートも全焼。ついでに構えた店は偽装がバレてサツの手入れがはいってダメになる。コレイコの居所を突き詰めたベンデルはさらに追って行こうとするが、運転手氏の車が崩壊。さらにその後息子3が死ぬ。息子2と運転手氏にはもう追う気力がなくなる。そこでベンデルは一人でコレイコの居場所、さる鉄道駅の建設現場に向かう。
 政府の特別列車にタダ乗りして目的地に着き、そこでコレイコと対面して百万ルーブルをゲットする。実はここまで読んだとき、まだ先が大分長いことに気付いていぶかしく思ったのだが、まさにその先が作品に深みを与えている部分で、前作と同様小説を単に面白おかしく笑ってオシマイでは終わらせていない。
 無賃乗車がバレてベンデルは汽車から放り出され、その煽りを食ってコレイコまで砂漠のド真ん中で立往生する羽目になる。金はあるから辺りに住んでいた遊牧民のカザフ人から駱駝と食料を買い、次の居住地までまさに呉越同舟(駱駝は「砂漠の舟」と呼ばれていますしね)の旅をする。その中央アジアの町でコレイコとは別れるのだが、大金を手にしたベンデルはそこで目標消失状態というか、憔悴と虚無感に襲われる。ソ連では金がいくらあっても「公人」というステータスがないと家を建てるどころかホテルで部屋を取ることさえできない。尊敬もされない。ベンデルは最初からソ連を出てリオ・デ・ジャネイロへ移住する夢を持っていたが、いざ金が入るとその気も薄れてしまう。しまいには金を持っていることが負担になり、捨ててしまおうとさえする。しかし一旦放棄してからまた気が変わってあわてて取り戻しに行くという取り乱しぶりだ。
 この不幸感と憔悴はまさに典型的な「余計者」。さらにペチョーリンがかって来ているが、本人は自分をペチョーリンでなくプーシキンのエヴゲニー・オネーギンに譬えている。確かにオネーギンも余計者の典型例とされている。もしかしたら作者ペトロフの名前がエヴゲニーなのでちゃっかり自己宣伝したのかもしれない。
 金で幸せにならないのはベンデル本人ばかりではない。再会した息子2に大金の一部、といっても遊んで暮らせるほどの金を与えるのだが、その直後2は本来の性癖が出てしまい、たった数ルーブリのためにスリを働いてパクられ、何もかもオジャンにしてしまう。運転手氏の方はかつて住んでいた町にまだおり、分解した車をまた組み立て直して働いていると聞いてベンデルは新車を買ってやろうとするが、上記のようにプライベート・パーソン相手に車を売ってくれるところなどない。ただ運転手氏が「欲しい」と2に手紙で頼んできたという部品を買ってやれただけだが、そんなものでも運転手氏は大喜びで受け取る。百万ルーブルで幸せになれなかったベンデルや息子2とはエラい違いだ。
 この運転手氏はアダムという名前で、名前の通りポーランド人、ということはカトリックだが、仲間思いの好人物で住居が焼けて店がパクられ、1・2・3が裸一貫で飛び込んできたとき気の毒がって涙を流しながら両手を広げて迎えるのである。

 ベンデルはそうこうするうちやっぱり初志貫徹、つまりソ連を出ようということになって金を宝石や毛皮に変えてルーマニアとの国境の川を渡るが、ルーマニアの国境兵士に散々殴られた上財産を全て奪い取られ、結局またソ連に押し戻される。悲惨な結末なのだが、ベンデル自身がそれを笑い飛ばして誰ともなく言うフレーズで小説は終わる:
 
Не надо оваций! Графа Монте-Кристо из меня не вышло. Придется переквалифицироваться в управдомы.

(拍手はいらないからな!モンテ・クリスト伯にはなれなかったってことさ。リスキルしてアパートの管理人にならないとな。)

золотой телёнок のラスト。本にはこの後ペトロフによるイリフの回想などが載っている。
last-telenok
erinnerung-petrov
 どうもあまり懲りていなさそうなこの最後の捨て台詞を見ると、ベンデル自身こうなるのを望んでいた、望んでいたとまでは言わずとも予想くらいはしていたのではないかと思えてくる。そもそも最初の目的リオ・デ・ジャネイロも本当に望んでいたことだったのか?「金をとろう」、実はそれ自体が自己目的で、リオ云々はそのミッション追行を鼓舞するため自分に言い聞かせていたいわば付け足しの目的だっただけではないのか?そもそも最初からしてこのリオ・デ・ジャネイロというアイデアはどこからどうやって出てきたのか。なぜニューヨークでもフロリダでもなく唐突にリオ・デ・ジャネイロが出てくるのか引っかかる。実は前作 двенадцать стульев が何回も映画化されているが、その一つレオニード・ガイダイ監督の1971年の作品で、冒頭にベンデルがスタルゴロドを闊歩する場面でリオ・デ・ジャネイロというビヤホールの看板が写る。そうやってこちらの золотой телёнок のほうも暗示したのだろう。

золотой телёнок でなく двенадцать стульев に登場する「リオ・デ・ジャネイロ」。前を行くのがベンデル役のアルチル・ゴミャシヴィリ。ジョージア人の俳優である。
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 こういうストーリーの中で展開されるベンデルの減らず口、脇役のキャラのクレージーさがまた腹筋崩壊モノだ。例えば上記の運転手氏をめぐるエピソードにこんなものがある。
 運転手氏は人がいいだけに洗脳もされやすく、1・2・3が店を構えて奔走している際、カトリックの僧に目をつけられて言いくるめられ、教会のためにタダ働きをするようになる。今でも新興宗教に引っ張り込まれて財産を全て寄付しるまでに洗脳される人がいるのと同じ感じ。それを聞いたベンデルが運転手氏を取り返しに行くのだが、そこで坊さんがベンデルを言い含めようと「息子よ、お前は間違っておる。主の奇跡は本物なのじゃ…」と言い出したのに対して吐いた減らず口;

– Ксендз! Перестаньте трепаться! … Я сам творил чудеса. Не далее как четыре года назад мне пришлось в одном городишке несколько дней пробыть Иисусом Христом. И все было в порядке. Я даже накормил пятью хлебами несколько тысяч верующтх. Накормить-то я их накормил, но какая была давка!

(坊さん、ゴタクはよしなさいよ。… 私だって奇跡くらい自分で起こしましたぜ。まだ4年にはならないなあ、前にね、さる小さな町で何日かイエス・キリストをやる羽目になりましてね。全てOK。どころかパン五つで信者を何千人も食べさせてやりましたわ。食べさせてやりましたよ食べさせて。いやぁもうドッと人が押し寄せて来てね。)

このあつかましさに毒気を抜かれた僧は唖然とし、洗脳されていた運転手氏はショックで(?)正気に返る。しかも周りの野次馬から「いいぞ、もっとやれ!」とベンデルにフォローが入る。
 このキリストというモチーフは小説の最期のほうでもう一度登場する。ペチョーリン状態になったベンデルが自分は33歳であるといい、「もうキリストが死んだ歳なのに、何の偉業も成していない」とふと呟くのである。
    
 次にクレージーな脇役を二人ばかり紹介しよう。まず、「服役代行」を生業とする老人フント Фунт。革命以前からそうだが、ネップのソ連時代になっても、表向きは正規の店や事務所を構え裏では公金チューチューのペーパー企業というのがあった(今だってあるじゃん)。不正がバレた場合、しょっ引かれてムショ行きになるのは経営者だが、このフント氏は表の経営者として自分の名前を登録させ、しょっ引かれる役を全面的に引き受けるのである。つまり裏で不正している真のドンの身代わりに逮捕されることで報酬を得ているのだ。商売は繁盛している。フント氏はネップ時代にすでに老人だった、ということはロシア皇帝時代にもずっとそれで食べて来ていたわけで、自身も服役のプロであることを誇りにしている。ベンデルたちのインチキ企業の責任者もこの人ということになっていて、最期にバレた時、「フントはずっと塀の中だ!」Фунт всегда сидел! と大威張りで捕まっていった。このおっちゃんは自分のことを3人称で呼ぶのが癖なのである。
 もう一人はコレイコが隠れ蓑として務めていた事務所だか企業だかの会計担当者だ。周りに粛清のさざ波がヒタヒタ押し寄せてきていた当時、何でもない従業員が突然どこかへ飛ばされることが多くなり、会計係氏はその不安に耐えられなくなって粛清の波が収まるまで精神病院に入院して嵐をやり過ごそうとする。そして精神錯乱者の真似をして精神病院に担ぎ込まれる。そこで4人部屋に入れられるが、本人は狂人の真似をしているだけだからマジの狂人が怖くてたまらない。戦々恐々としていたが、心配無用、部屋の残りの3人も全員仮病だったのである。しかも会計係氏より上手で予め専門書や論文などを読んでどうやったら本当に狂人に見えるか前々から研究してきている。精神病院に「避難してきた」理由は3者3様だが、そのうちの一人は生活信条からで、「ソ連で自分の政治信条、生活信条に従って生きられるのは精神病院だけだ。ここだったら誰からも社会主義の建設ダーとか命令されない。体制をケチョンケチョンに貶してもキチガイのすることだからと許される。そんなことを外の道端で言ってみろ。大変なことになるぞ。」 しかし結局出張していた精神科の教授が帰ってくると4人とも一発で仮病がバレ、退院させられてしまう。残念でした。

 もう一つ。前作 двенадцать стульев でもフジヤマ、バンザイなどの日本語が登場し、日露戦争にも言及がいくなど、イリフ・ペトロフは割と日本という国を気にしている感じだったが、золотой телёнок ではズバリ日本人が登場する。ベンデルがタダ乗りした特別列車というのは政府が各国のジャーナリストなど(もちろん自国ソ連のも)を招いてソ連国内を旅させ、発展ぶりを知ってもらおうとするために走らせたもので、アメリカ、カナダ、ドイツなどの各国から公使だの記者だのが搭乗しているが、その客の中に日本の外交官がいるのだ。汽車が中央アジアに入り、外国人は砂漠や駱駝、遊牧民のカザフ人というエキゾチックな光景を目にして大喜びするが(底の浅い現代のいわゆる「観光客」と変わりませんな)、その際日本人を次のように描写している。

    Японский дипломат стоял в двух от казаха. Оба молча смотрели друг на друга. У них были совершенно одинаковые чуть сплющенные лица, жесткие усы, желтвя лакированная кожа и глаза, пртпухшие и неширокие. Они сошли бы за близнецов, если бы казах не был в бараньей шубе, подпоясанной ситцевым кушаком, а японец – в сером лондонском костюме, и если ьы казах не начал читать лишь в прошлом году, а японец не кончил двадцать лет  назад двух университетов – в Токио и в Париже. Дипломат отошел на шаг, нагнул голову к зеркалке и щелкнул затвором. Казах засмеялся, сел на своего шершавого конька двинулся в степь.

(日本の外交官はカザフ人から二歩離れて立った。双方黙って互いに顔を見合わせた。まったく同じようなやや平たい顔、こわい毛の髭、黄色い艶のある肌、そして目、少し腫れぼったくて細い目。彼らは双子で通じただろう、もしカザフ人が更紗の太い帯をしめた羊皮の外套を着ているのに日本人はねずみ色のロンドン製の洋服というのでなかったら、そしてカザフ人がやっと去年読み書きを始めたのに日本人はすでに20年前に大学を二つ、東京とパリで出ているということがなかったら。外交官は一歩下がって顔をレフレックス・カメラに向け、バシャリとシャッターを鳴らした。カザフ人は笑い出し、毛のモサモサしたその馬に乗り、ステップのほうに去っていった。)

この観察、鋭くないか?アメリカや西欧の小説なら仮に日本人が出て来ても必ずと言っていいほど中国人といっしょにされる。その欧米特有の超ワンパターン病におかされず、カザフ人と比較するあたりなるほどソ連だとは思う。

 実はもう一カ所日本人が登場する部分がある。ベンデルがコレイコと別れて汽車に乗ったときコンパートメントで他の乗客がよりによって百万ルーブルをゲットした人たちの話に花を咲かせるのだが、その中の一例、某ビグーソフとかいうさる測量士の話に日本人が絡んでくるのである。その冴えない測量士氏はヴォロネジでしがない生活を送っていたが、ある時身なりの立派な日本人が訪れて苗字と父称を尋ね、身体検査をしたあと、氏が実は日本の親王の落とし子であると告げる。なんでヴォロネジなんかに日本の皇族の血筋がいるのかというとこういう事情だという。36年前に日本の親王がお忍びの旅でヴォロネジをご通過になった際、そこの娘と恋に落ちた。親王はその娘との結婚を望まれたが、ミカドが大反対なさり、恋は実らなかった。時は流れて親王は死の床についていたが、嫡子がなかった。そこで親王は遠い昔のロシアに置いてきた落とし子を探し出して日本に呼ぶべく臣下を派遣した。子供がいなければ血筋は絶えるからだ。噂主から「あの馬鹿」とまで形容されるしがない某ビグーソフ氏はそうやって日本に迎えられ、皇太子にたてられて百万円を支給され(それっぽっち?)、上げ膳据え膳の生活をなさる羽目になった、とこういう話だ。なんだこりゃ。「イワンのばか」のソ連版か。
 噂話をしている人たちはその測量士をサムライと呼んでいて、皇族と武家の区別がついていないという重大な事実誤認がある。またここでは一応「親王」と解釈したが、ロシア語では полупринц という言葉を使っていて、親王という意味なのかそれとも皇后とは別腹の皇太子のことなのか、どうも事情がわかりにくい。しかしこれはあくまでその辺のおっちゃんたちがする信憑性MINIの眉唾な噂話という設定なので、ソ連の読者と共に「ないない、それはない」と笑ってやればいい。マジレスするには及ばない。実際私もここで笑ってしまった。
 それにしてもこのヴォロネジという町だが、ソ連になってからの文学ではやたら目につく名前である。ショーロホフの『人間の運命』の主人公もここ出身と言う設定だし、前に述べたプラトーノフはヴォロネジの生まれだ。

ソ連に日本の皇族の血筋がいたという衝撃の事実が語られる。「サムライ」「ミカド」という言葉が見える。武家と皇族の区別くらいしなさい。
samurai-mikado
そしてビグーソフのばかは王子様になりました。メデタシメデタシ。
bigusov-in-Japan
 最後に少し話を戻して、そもそもオスタップ・ベンデルの人となりについてだが、この人は決して無教養で下品なチンピラの類ではない。 двенадцать стульев で言及されているが、父親はトルコ人(ベンデル本人はイェニチェリの子孫だと威張っている)だが、母親は不労所得で生活していた資産家のはしくれである。平均以上の学歴は持っている。このзолотой телёнок では私立のカトリック系ギムナジウムを出て人文科学系の大学を終了したと言っているが、仮にそれがホラだとしても坊さん相手に一応はラテン語の知識を披露しドイツ人にはドイツ語で話しかける。いわゆる労働者階級には属していないのである。この辺も余計者の特徴を備えていると言っていいのではないだろうか。
 上で述べたリオ・デ・ジャネイロもそうだが、1971年の двенадцать стульев の映画にはもう一つこのзолотой телёнок を指している部分がある。冒頭に作者イリフ・ペトロフのカリカチュアが出るのだが、それが牛の首を砲丸投げのようにぶん回している。もちろん『黄金の子牛』の暗示だろう。つまり「どちらか一つじゃそれこそ片手落ち。両方読みなさい」ということか。

牛の首で砲丸投げ。1971年の映画 двенадцать стульев の冒頭のイリフとペトロフ
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