アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Juni 2024

前回の続きです。

 今度は動詞に現れる畳音についてふれてみたい。繰り返すが今まで出した日本語の例は「反復」だがこちらは立派な「畳音」である。
 
 例えば古典ギリシア語では完了体をこの畳音によって形成する。直説法能動体一人称単数形で見てみよう。
Tabelle1-205
太字の部分が畳音部だが、そこに音韻規則があって単に頭のシラブルを繰り返せばいいというものではないことがわかる。まず母音が ε(e) になり、子音連続の場合は最初の子音だけが繰り返され、帯気音は対応する無気音になる(θ は今の英語の th の音ではない。帯気の t である)。語頭の子音が ρ(r)だと頭に ε を添えた上子音の ρを繰り返す。表の ίπτω(「投げる」)がその例だ。ριρῑφα とかなんとかにならないあたり、さすがソナントと言おうか、r が母音とみなされているサンスクリットみたいで感動するが、だからと言って ρρῑφα にもなりきれず、頭にε という母音の助走をつけないと走り出せないところが実に面白い。この ε のような現象は加音あるいはオーグメントと呼ばれている。過去完了は全動詞にこのオーグメントが現れているのがわかる。なお「投げる」の過去完了形だけ語尾が違うのであれと思うが他の動詞、例えば「追う」の過去完了にも ἐδεδῐώχη と並んで ἐδεδῐώχειν という形があるので統一はとれている。また「投げる」だけ過去完了で ἐρρῑ́μμην と子音に μ(m)が現れているのはこの動詞の過去完了形が他の動詞のように能動態語幹からでなく中動態語幹から作られるかららしい。どうもやたら細かいところが気になって恐縮だが。
 語頭に母音が来る動詞ではその母音が長音化する。その際音価が変わることがあり、ε 、ι、ο、υ がそれぞれ η、ῑ、ω、ῡ になるのは単なる長音化ということでいいが、α が η になり、αι と ᾳ(つまりᾱ ι )はῃ(つまり ηι)、ε υ は ηυ、ου は ωυ になる。上の「公言する」がそれだ。動詞が長母音で始まる場合はそれ以上伸びない。「若盛りである」が例だが、いろいろ調べてもなぜかこの動詞の過去完了形がみつからなかった。知っている人がいたら教えてきて頂けるとありがたい、この母音を伸ばすやり方もオーグメントである。元の動詞の頭が母音の場合、同じ母音をオーグメントすればそれは要するに母音の畳音ということか。
 もちろん畳音やオーグメントだけで完了体を作るわけではなく、語尾変化もするし過去完了に見られるように畳音にさらにオーグメントが付加されたりする。

 さて、さすが古典ギリシア語と並ぶ印欧語の大御所だけあってサンスクリットでも畳音は大活躍だ。古典ギリシア語と同様完了体(単純完了体)に畳音が現れる。ギリシャ語と統一がとれていなくて申し訳ないが、動詞語幹と能動態完了形3人称単数を示す。さらに私はデーバナーガリーが読めないので(ププッ)ローマ字表記。
Tabelle2-205
ここでもやはり帯気音は無気化する。k や h が口蓋化していたり、やはり単に頭を繰り返すだけではない。「見る」dṛś- と「なす」kṛ- の頭は一見子音連続のようだが、サンスクリットでは ṛ(シラブル形成の r) は母音扱いなので、これらは「子音連続の場合は最初の子音だけ繰り返す」例にはならない。これらは例にはならないが、ギリシャ語同様「最初の子音だけ繰り返す」という原則が働いていることは他の例が示している(下記)。
 サンスクリットにはさらにアオリストにも畳音を使う形成パターンもある:śri-(語幹)→ aśiśriyat(アオリスト能動態三人称複数)(「赴く」)、dru- → adudruvat(「走る」)。「~もある」と書いたのは他にもいろいろアオリストのパターンがあるからだが、とにかくここでは連続子音の最初の子音だけが重なっている。オーグメントが現れているが(黄色)、これはギリシャ語のアオリスト直説法能動態もそうだ。ただしギリシャ語では畳音は出ない:πέμπω(「送る」、一人称単数直説法能動態現在)→ πεμψα(同アオリスト)。
 サンスクリットで面白いのは、畳音で特定のアクチオンスアルト(『194.動作様態とアスペクト その1』参照)を表現する語幹を作ることだ。「強意」と呼ばれ、当該動作が強い強度で、または反復して行われるアクチオンスアルトである。完了体やアオリストと同じく畳音だけでなくそれ用の形態素もつくが、この場合はアクチオンスアルト的に中立な語幹から別の語幹が作られるので、新規作成の語幹も現在形、完了形、アオリストなど思い切りパラダイム変化する。それら新規作成語幹がさらに完了形やアオリストになったらどうなるのかと一瞬心配したが、完了形もアオリストも畳音を使わないパターンを使うそうだ。それはそうだろう、畳音がまた畳音になったら際限がない。
Tabelle3-205
いくつかの動詞はすでに上で挙げているが、母音が変化すること、k や g が硬口蓋化することなど基本原則は同じようだ。「行く」でわかる通り鼻音が畳音部に残っていたり、「落ちる」で畳音と元の語幹の間にさらに -ni- という要素が入ってきたりいろいろ注意点はあるが、全体として畳音性は明確に見て取れる。あまり明確にわからないのは意味の方で、例えば「与える」という動作を強度に行うというのはどういう風になるのかちょっと想像しにくい。贈り物を顔に向かってぶん投げるのかとも思ったが、これらは皆「反復によって強度が強まる」という解釈なのかもしれない。

 サンスクリットからとんでもないところに飛び火するが、実はナワトル語も畳音で「強意」を表す。しかもここの動詞畳音は変な子音変化のない実に明快な畳音だ。『200.繰り返しの文法 その1』で述べたようにナワトル語には名詞、形容詞、数詞にCV: 型、CV’ 型の畳音が現れるが、同じパターンを動詞でも使う。このCV: 型畳音によって強意表現をする。

tzàtzi(「叫ぶ」)
Huel tzā-tzàtzi
(well + R:-shout)
彼は非常に大声で叫んでいる

nānquilia(「答える」)
Mācamo xi-nēch--nānquili
(don’t + optativ-1.sg-R:-answer)
私に口答えするな(積極的に・元気よく答えるな)

nōtza(「呼ぶ、話しかける」)
Àmo, zan ni-mitz--nōtza
(no + just + 1.sg-2.sg-R:-speak to)
いや、私は君に真剣に話しかけているんだ

ichtequi(「盗む」)
N-on-ī-ichitequi in cuezcoma-c
(1.sg-go there-R:-steal + the + corn bin-lokativ)
私はよくトウモロコシの壺の中のものを盗みに行く

à という母音が ā になっている、つまり純粋に a →  ā じゃないじゃないかと思われるかもしれないが、これは表記のせいで à は a の後に声門閉鎖音という子音が来るという意味だから(『200.繰り返しの文法  その1』参照)母音そのものは単なる短い a であって、 ā は CV: ということで間違いない。「叫ぶ」でわかるようにもとの母音が長い場合はそれ以上伸びず長母音が繰り返される。ギリシャ語と同じだ。「盗む」で短母音 i に律儀に長母音 ī が追加されて母音が3つ分になっているのが可愛い。これはまさに「反復による強意」だろう。
 ナワトル語のこれらの意味を見ていると、上のサンスクリットの「強意」の具体的な意味までなんとなくわかるような気がして来ないだろうか。

 次にCV’ 型畳音だが、名詞にこの型の畳音を付加すると分配的意味になるのは『200』で見た。実はこれが動詞にも同じ手が使われる。

Ō-ni-c--tec xōchitl
(perfect-1.sg-3.sg-R’-cut.past)
私はいろいろな花を切り取った

これはいろいろな花をそれぞれチョキンチョキンと切り取ったということだ。この分配動詞を上の CV: 型・強意動詞と意味を比べてみると面白い。それぞれ上が CV: 型、下段が CV’ 型畳音である。

zaca(「運ぶ」)
Ni-tla--zaca
(1.sg-something.sg-R:-transport)
私はたくさんの物を運ぶ

Ni-tla--zaca
(1.sg-something.sg-R’-transport)
私は物をそれぞれ別の場所に運ぶ

xeloa(「分割する」
Ni-c--xeloa in nacatl
(1.sg-3.sg-R:-carve.sg +  the + meat)
私は(大量の)肉を切り分ける

Ni-c--xeloa in nacatl
(1.sg-3.sg-R’-carve.sg +  the + meat)
私は肉を切り分け(てそれぞれ別の人に与え)る

tlaloa(「走る」)
Mo-tlā-tlaloâ
(reflexiv-R:-run.pl)
彼らは懸命に走る

Mo-tlà-tlaloâ
(refexiv-R’-run.pl)
彼らは互いにそれぞれの方向に走(って離れ)る

母音が少しくらい長いか短いか、声門閉鎖が入るか入らないかでこの意味の差だ。たかが l と r の区別くらいで泣いている場合じゃないぞ日本人、と言いたいところだが、驚くなかれナワトル語にも l と r の区別がなく、Maria という名前が Malintzin になる。-tzin というのは大切なものを表す、いわば敬語的接尾辞である。
 まだある。前回ちょっと述べたようにCV’ 型畳音は分配態のほかに弱化態を表すことがあるのだ。ただしこれも畳音を動詞に効かせる点が日本語と違う。

pāqui(「喜ぶ」)
Ni--pāqui
(1.sg-R’-rejoice.sg)
私はとても幸せだ

huetzca(「笑う」)
Àmo tlà-toa, zan huè-huetzca
(negation + something-say + only + R’-laugh)
彼は何も言わないでただ微笑んでいる

さらに日本語の「白」→「白々しい」に似てCV’ 型畳音で元の動詞の意味が変わってしまうこともある。

cua(「食べる」)
Mitz-cuà-cuā-z in chichi
(2.sg-R’-eat.Future + the + dog)
その犬は君を噛もうとしている
(犬が人肉を喰らおうとしているわけではない)

chīhua(「する」)
Mo-chì-chīhua
(reflexiv-R’-do)
彼は準備している、着飾っている

もう一つ、ナワトル語動詞には CV 型畳音というものがある。あるはあるが、これは非常に限られた動詞にしかつかず、しかも畳音の共通な意味機能が特定しにくいのでここではスルーするが、一つだけ笑っちゃう機能がある。動詞でなく名詞につく「フェークを表すCV型畳音」だ。それで conētl(「子供」)にCV型畳音を加えて coconētl にすると子供のフェーク、つまり「人形」という意味になる。

 最後に思い出したがナワトル語も動詞の活用にオーグメントがつくことがある。例えば「見る」は itta の主語が一人称単数、目的語が単数三人称(ナワトル語では動詞が目的語によっても変化する)の過去形は niqtittac で、「私がペドロを見た」は

ni-qu-itta-c in Pedro
(1.sg.-3.sg.-see-Pret + the + Pedro)

だが、ここにさらに ō- というオーグメントをつけて ō-ni-qu-itta-c in Pedro と言うことも頻繁だ。このō- がつくと当該事象が終了し、その結果が現在まで影響しているという意味合いになるそうだ。ロシア語の完了体のイメージである。だからというとおかしいが、いわゆる未完了過去 imperfect には ō- がつかない。

cocoa(「病気にする」)
Yālhua mo-cocoā-ya in Pedro;
in nèhuatl ō-no-c-on-itta-c
(yesterday + Refl-make sick-imperfect + the + Pedro;
augment-1.sg-3.sg-go there-watch-past)

ペドロは昨日病気だったよ。
私が彼んとこ行って会って来たもん。

-ya というのが未完了過去を作る形態素だが、ここにはオーグメントは追加できない。他方私がペドロに会ったという動作は一回きりですでに終了しているから過去形にオーグメントをつけて表すのである。もう少し例を見てみよう。

mati(「知っている」)
Àmo ni-c-mati-ya in āc amèhuāntin.
(negation + 1.sg-3.sg-know-imperfect + that + who + you.pl)
私はあなたたちが誰なのか知らなかった。

mōtla(「石を投げる」)
Inin pilli quim-mōtla-ya in chichi-mè
(this + child + 3.pl-throw stone-imperfect + the dog-pl)
その子は犬たちに石を投げていた。

ロシア語の完了体・非完了体と比べてみると、ナワトル語動詞のこの使い方は実にわかる気がするではないか。

 それにしてもサンスクリット・古典ギリシア語、ついでにロシア語と古典ナワトル語ではお互いこれほど無関係、無接触な言語はないといっていいほど離れている。なのに微妙にチラチラ共通点が顔を出すあたり、やはりあらゆる人類言語には何かしら共通点がある、底を流れるロジックは人類共通なんじゃないかと思わせる。私は昔生成文法で盛んに言われていたいわゆる UG、ユニバーサル文法にはむしろ懐疑的なのだが(あらゆる人類言語に共通するような文法規則をスコンスコン記述するなど人間の頭では不可能だと思っている)、脳という身体器官は人類共通なのだからそこここに比較可能な現象が現れるのもまあ当然と言えば当然だとは思う。
 念のため言っておくが、だからといって「だからナワトル語とサンスクリットは親類言語ナンダー」とか馬鹿なことを言い出すのは絶対慎まなければならない(そういう人が本当にいそうで怖いが)。これはあくまで偶然である。偶然だからこそ面白いのだ。

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ちょっと前の記事の続きです。

 日本語に戻るが、念のため言っておくと日本語の「山々」はあくまで反復であって畳音ではない。シラブルでなく語や形態素が繰り返されるからだ。これも人からの指摘だが、複数表現の他に文語で言えばシク活用タイプの形容詞で頭を反復するものがある。面白いことに繰り返される部分は2モーラである場合が圧倒的に多い。「うやうやしい」「おどろおどろしい」「おもおもしい」「かるがるしい」「ぎょうぎょうしい」「しらじらしい」「すがすがしい」「ずうずうしい」「そうぞうしい」「そらぞらしい」「たけだけしい」「たどたどしい」「どくどくしい」「なまなましい」「にくにくしい」「ばかばかしい」「まめまめしい」「みずみずしい」「ものものしい」「よそよそしい」「よわよわしい」「わかわかしい」などたくさん思いつくが、よく見てみると造語のパターンでグループ分けできそうなことがわかる。まず元の2モーラだけでもそのまま形容詞として成り立つもの。ここでは下線を引いたが、「おもおもしい」に対して「重い」、「かるがるしい」に対して「軽い」など元のイ形容詞が存在する。こういったイ形容詞の語幹反復では、元の2モーラ語幹の形容詞の意味がやや弱まる。「わかわかしい」は本当に若いというより「ちょっと若っぽい」あるいは「若く見える」ということだ。動作様態(『194.動作様態とアスペクト その1』参照)でいえば弱化態 Attenuativ である。第二のグループは元の言葉が存在するが、それがイ形容詞でなくてナ形容詞あるいは名詞であるもの(太字)。「どくどくしい」は明らかに名詞の「毒」からの派生だし、「ばかばかしい」の元はナ形容詞の「馬鹿な」である。これもやはり弱化態で、例えば「ばかばかしい」はズバリ馬鹿なのではなく、「ほとんど馬鹿」「馬鹿に見える」「馬鹿のようだ」だ。第三のグループは今は元のイ形容詞が存在しないが、「シク活用」の時代にはそれがあったもの。太字に下線を引いたが、「すがし」「たけし」という語は存在した。だからこれも造語のメカニズムとしては弱化態形成とみなしていいと思う。最後のグループが反復形でしか存在しない形容詞であるが、これにさらに2種あって、一つはもとの語が存在したかもしれないが、反復形が著しく意味転換を起こして、元の形容詞、名詞(あるいは動詞?)から独立してしまったもの。「うやうやしい」「おどろおどろしい」がこれだろう。もう一つは擬態語から発展してきたんじゃないかと思えるものだが、どちらも元の言葉がわからないのだからこれらのグループの間にきっちり境界線を引くことはむずかしい。その中でも「しらじらしい」は、意味転換しているのに元の語が(「白」)透けて見えるという例だ(黄色でマーク)。
 そういえば色彩名称が繰り返されて「赤々」「白々」「黒々」「青々」といった副詞を作る場合があるが、この反復ができるのは『166.青と緑』でも述べた「元々日本語にあった基本の色彩名称」に限る、というのが面白い。「緑々」「紫々」「黄々」という言葉は存在しない。ここでも「白」はやはり母音交代しているが、さすが音が交代しているだけあって(?)、「白」だけ他の三つとは意味合いが異なる。「赤々」「黒々」「青々」は弱化態でなく分配態と見なせる。「青々」というのは草や木の一本一本、葉の一枚一枚が青(緑)という意味だし、「赤々」は炎の一つ一つが赤い結果全体として火が赤い、あるいは空のここかしこがそれぞれ赤い、つまり each、every という意味合いが明確だ。「黒々」も同じで空だったら一部分、森だったら木の一本一本が黒いというニュアンスだ。しかし「しらじら」は違う。これは「白みがかって」「白っぽく」という弱化態である。少なくとも私の感覚では「空が赤々と燃えている」と言われると空のここかしこに色合いの差、赤さの差がある光景が思い浮かぶが、「空が白々と明るくなる」では空全体が同じような色合いでボーッと白くなっているニュアンスだ。

 このように日本語では反復によって弱化態を表すことがあるが、スリルのあることにナワトル語にも(日本語と違って反復でなく)畳音によって弱化態を形成するメカニズムや畳音によって元の語の意味が変わってしまう例が存在する。ナワトル語の場合は名詞や形容詞でなく動詞に畳音が現れるのだが、その話をする前にここでもうちょっと日本語の擬態語を見てみたい。

 日本語では擬態語にも反復構造が顕著だがここでの反復は複数でも弱化態でもなく、つまり語レベルではなく音韻レベル、2モーラを2つ重ねたフットを重ねて2×2=4モーラ・2フットに整えるというのが主目的なのではないだろうか(厳密にいえばフットは必ず2モーラとは限らないが)。日本語は「パーソナルコンピューター」→「パソコン」、「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」→「あけおめ」「ことよろ」など2フットが大好きだから。その際有声音と無声音のペア構造になっていることがあり、有声音のほうは印象がダントツに悪い。さすが有声音を「汚い音・濁った音」と名付ける日本語だ。昔は日本語の子音は鼻音と流音の他は無声音だけだったのではないかと囁かれるのもむべなるかな。「有声子音がない」のはアイヌ語もそうだし、実はナワトル語もそうである。まあちょっと日本語のペアを見てみよう。

キラキラ:純真な子供の澄んだ瞳が輝く
ギラギラ:血走った強姦犯人が女性を見る時の目の光り方

サラサラ:美しいお肌
ザラザラ:荒れ果てたお肌

コロコロ:軽やかに車輪が回転する
ゴロゴロ:今一つ重そうに回転する

ピチャピチャ:アヒルの子が水をはね散らす
ビチャビチャ:豚の子が泥水をはね散らす

シトシト:恵みの雨
ジトジト:しつこく降るウザい雨

これらの擬態語は品詞としては副詞だが、ナ形容詞に品詞転換することができる。面白いことに元来の副詞でいる時はアクセントが第一モーラに来るのに、ナ形容詞になるとアクセントが中和される。その中和されたアクセントは、ナ形容詞形をさらに連用形にして二次的に再び副詞にしてももう戻ってこない。わかりやすいように高部を、低部を黄色で表してみよう。

まず元の副詞は…

星がラキラ光る。
目が血走ってラギラ光る。
春の小川はラサラ行くよ。
砂まみれで肌がラザラする。

これらをナ形容詞にして付加語に使うと…

ラキラな
ラギラな目つき
ラサラなお肌
ラザラなお肌

付加語だとちょっと不自然な日本語になるものもあるので、述語にしてみよう。アクセントは中和されたままだ。

星がラキラだ
目つきがラギラだ
お肌がラサラだ
お肌がラザラだ

これを「星がラキラだ」と元のままのアクセントで言うとおかしい。おかしくないという人はこれを「「星がキラキラØ」だ」といわば埋め込み文と解釈しているから、言い換えると何らかの動詞が省略されているからである。
 次にこれらのナ形容詞を連用形にして品詞としては副詞に戻してみよう。一番上の元の副詞と比べてみて欲しい。アクセントが相変わらず中和されたままなのがわかる。

星がラキラに光る。
目が血走ってラギラに光る。
春の小川はラサラに流れる。
砂まみれで肌がラザラになった。

これに対して元々の副詞に「~と」をつけてもアクセントは中和されない。

星がラキラと光る。
目が血走ってラギラと光る。
春の小川はラサラと流れる。
砂まみれで肌がラザラとする。

これは要するに「~に」はナ形容詞の一部、つまり語尾であるのに対して「~と」は副詞本体とは別語だからだろう。言い換えると「キラキラに」は一語だが「キラキラと」は「キラキラ+と」の二語。この「~と」は多分 Complementizer、つまり「山田さんはハンサムだと思います」の「と」と同じ語だと思う。「キラキラ」は副詞なのだから共格マーカーの「~と」がつくわけがない。
 またナ形容詞として固定してしまった「繰り返し語」、例えばカツカツなどには語尾のない副詞形が存在しない。下の*マークのついた文は非文である。少なくとも最初のカツカツとは意味がズレる。

予算がツカツになった。
*予算がツカツとなった。
*予算はツカツ減った。

 これらの擬音語も上で見た形容詞もそうだが、日本語にシラブルレベルでの畳音がなく語レベル、形態素レベルでしか反復しないのはもしかしたら日本語ではフットという単位が強固に効いているからかもしれない。そういえば色の繰り返しに「赤」「白」「黒」「青」しかなく、「黄」や「紫」はできないというのも外来語のなんのというより前者の語幹が1フットという単純な発音の問題なのかとも思う。

この項続きます

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以前の記事についてとても面白い話をしてきてくださった方がいるので、ほぼ全面的に記事を書き替えました。ありがとうございました!

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 同じ語や形態素、シラブルなどを二回繰り返して意味を強調するという文体上の作戦はどの言語にもある。例えば日本語では「うわっ、こりゃ危ない危ない」、「山田さん、怒った怒った」など。シンタクス機能も含めて単語を丸ごと繰り返すもので、語の反復というより発話の反復といったほうがいいかもしれない。これはどちらかというとくだけた口語文脈で使われることが多いのではないだろうか。前者では「危ない」の代わりに「危ねえ」と言った方がマッチする感じ。もし文章で使われるとしたら主に口承文学、童話や昔話など「語りかけ」の要素が強いジャンルでだ。「ジャックが種を蒔くと豆の木は大きく大きくなりました」、「おじいさんが捕まえた魚はきれいなきれいな金の魚でした」など語尾も「ですます」のほうが合う。これをモロ文章体にして「おじいさんが捕まえた魚はきれいなきれいな金の魚だった」とやるとあきらかに座りが悪い。
 ロシア語で「とても悲しい」を грусно- грусно と「悲しい」を二つ重ねているのをみたことがある。これも確か童話のテキストだった記憶があるので日本語の「きれいなきれいな」と同じメカニズムかと思うが、よく見てみるとこれはあくまで単語あるいは語幹の繰り返しで、発話の反復とは質が違う。だからなのか大人用の(?)文学でも頻繁に見かける。『33.サインはV』参照)であげたベラルーシ語の з давён-даўна も別に特にくだけた表現というわけではなさそうだし、イリフとペトロフの有名なユーモア小説『12の椅子』でも мало-помало(「ほんの少し」)という表現が出てくる。これらは「大きく大きく」のように文法語尾も含めて全部繰り返すのではなくて語幹だけの繰り返しでシンタクス機能を担う з や по- などの形態素は反復しない。昔話の出だし、「昔々」という言い回しも発話でなく語の反復だと思うが、意味の強調というより単に口調を揃えるためだろう。
 
 「強調」についてはあとでもう一度見てみたいと思うが、日本語では語の反復によって複数を表現することも多い。「人々」が典型だが「村々」「国々」「山々」「木々」「家々」などいくらもできる。当然のことながら不可算名詞にはこの作戦は使えない。「海々」「空々」「川々」という言葉はない。川や海は英語などでは不可算名詞扱いされていないが、島国日本では水は皆繋がっているから川も海も結局一つの水という感覚があるのかもしれない。空も一つだから反復が効かないが、「星々」はOKである。また外来語や漢語にはこれができない。「町々」はいいが「都市々々」はダメ、「村々」がよくて「村落々々」はNG、「家々」は大丈夫なのに「ビルビル」や「建物々々」がありえないのはそのためだろう。さらに見ていくと、ある程度上位の観念、言い換えるとある程度包括的な意味の名詞しか繰り返せないようだ。「木々」はいいが、「松々」「桜々」が許されないのは「松」や「桜」は意味が狭すぎるからだと思う。
 教えてきてくれた方がいるが、米原万里氏のエッセイにこんなエピソードがあったそうだ:日本語を話すロシア人が何人も平気で(?)「話々」という言葉を使うの
で,氏がいぶかって出所を調べたら、いやしくもモスクワ大学の日本語学の教授が「話々」という表現を「反復による複数表現」として「人々」と同列に置いていたとわかったそうだ。ではその教授はいったいどこからそんな例を持ち出してきたのかが気になる。「話」は不可算名詞だから反復は効かない。
 実は反復で表されるのは単なる複数ではない。その際明らかに distributive、分配態的な意味を(『194.動作様態とアスペクト その1』参照)帯びてくる。each あるいは every のニュアンスだ。「日々これ平安」の「日々」は「毎日、日ごと」だし、「月々の生活費」も毎月毎月必ず出ていくから苦労するのだ(ちなみにここの毎月毎月という表現は最初に述べたような発話の繰り返しだろう)。「口々に叫ぶ」も皆が一斉にコーラスしたのではない、各自バラバラに大声を上げるから不協和音MAXとなる。
 「隅々まで点検する」「言葉の端々に感じ取れる」「ところどころに誤字がある」などの表現にも distributive なニュアンスはあきらかだ。さらに元の、繰り返さない前の形態素の意味がすっかり薄れ反復形でしか存在しない言葉もあるが、その場合でも distributive な意味合いだけはしっかり保持されている:時々、たまたま、しばしば、もろもろ、さまざまなど。
 つまり反復によって表される意味は「分配態的複数性」なのである。

 実は日本語と太平洋を渡った対岸にある(あった?)古典ナワトル語(以下単にナワトル語と呼ぶ)も反復による分配態的複数性表現がある。ただしナワトル語は語幹や形態素でなく語の最初のシラブルを繰り返す。つまり繰り返しが文法に組み込まれているので「繰り返し」だの「反復」だのという語レベルの日常用語でなく Reduplication という専門用語を使ってハクをつける。日本語では「畳音」あるいは「重字」と訳されている。ナワトル語はややこしいことに普通の(つまり分配性のない)複数形を畳音で作ることがある。「ことがある」というのはナワトル語では複数形のパターンがいくつかあるからで、畳音を使うのはその中の二つだ。それぞれ /R-’/、/R-tin/と表されるパターンで、Rというのが Reduplication、畳音のことだ。最初のタイプは頭のシラブルを繰り返し、語幹の後に声門閉鎖音を追加する。第二のタイプは、頭を重ねた後 -tin という接尾辞をつける。これら複数形パターンは分配態的複数(下記)とは畳音のしかたが違っている。まず、単なる複数形を見てみよう。
Tabelle4-200
単数形の語尾の -tl は絶対格マーカーといい、「ナワトル」 nahuatl の「トル」もこれだ。この音はしかし日本語の「トル」でないことはもちろんだが tl でさえない。測音破擦音という一つの音なので誤解を避けるために λ で表すことがある。母音に後続すると -tl、子音の後だと -tli だが、先行子音が l だと l になるので本来 piltli になるはずの「子供」が pilli という形をしている。稀にこの絶対格がつかない名詞もある(「魚」、「星」)。ローマ字はスペイン語読みが基本で、cu は ku、ci は si、(ここには出てこないが)qui は ki、z は s。さらに uc、cu はどちらも円唇の kw だが、前者は子音の後(「首長」)または語尾、後者は母音の前で綴られる。同様に uh、hu はどちらも w で、前者が子音の前と語尾、後者が母音の前。âなど語尾の母音に屋根がついているのはその後に声門閉鎖音が来るという意味で、語中の母音の後の声門閉鎖が来る場合は ù、à など逆向きアクセント記号(?)で示す。ìtoa(「言う」)など。また複数形があるのは基本人間や動物など生物に限られ、石だの木(厳密にいえば生物ですけどね)だのには単数形しかないが、例外として「人格化された非生物」が生物扱いされて複数形を作れるも名詞がある。上の「山」「星」などがそれだ。
 ナワトル語の畳音は複雑な音韻規則がなく母音や子音の変化なしで素直に頭のシラブルが繰り返されることがわかる。ただし母音は長母音になる。
 もう一つ、敬意あるいは親愛の情を表すために -tzin という形態素を名詞の語幹と絶対格マーカーの間に挟むことがある。それで「愛しい子」は piltzintli(最後の音が n という子音になるので前対格は -tli)。これを複数にすると語幹とその形態素の頭が両方ダブって pīpiltzitzintin となる。複数マーカーの -tin はそのままだ。
 母音が長母音になるのでこのパターンの畳音を CV: 型畳音と呼ぶが、これが名詞でなく数詞につくと分配態意味になる。 every、each の意味だ。「2」は ōme だが、これに畳音をつけてみよう。

Ca ō-ōme-ntin in to-pil-huān in Pedro
(there + R:-two-pl + the + 2.pl-child-pl + the Pedro)

これは「ペドロも私もそれぞれ2人子供がいる」という意味だ。さらに「1」(cē)を畳音化した cēcem-  という形態素を接頭辞をして「日」「月」「年」(それぞれilhuitl、mētztli、xihuitl)という語につけるとそれぞれ「毎日」「毎月」「毎年」の意味になる。「日」の例だが、次の2文を比べてほしい。わかりやすいように形態素の境目にハイフンを入れてみた。

-cem-ihuitl ni-yauh tiyānquiz-co
(R:-one-day + 1.sg-go + market-to)
私は毎日市場へ行く。

Cen-yohual cem-ilhuitl ō-ni-coch
(one-night + one-day + perfect-1.sg-sleep.Past)
私は一昼夜眠り続けた。

畳音がつかないと「毎~」という意味にならない。

 ナワトル語には CV: 型畳音の他に CV’ 型というパターンがあって、これが(数詞でなく)名詞について分配態的複数を表す。’ というのは畳音の母音の後ろに声門閉鎖音が来るという意味だ。CV: 型と違って母音は伸びない。ちょっと次の文を比較してほしい。二番目の文では chāntli(「住まい」)という名詞に畳音が現れている。

Īn-chān ō-yà-quê
(3.pl-home + perfect-went-3.pl)

Īn-chá-chān ō-yà-quê
(3.pl-R'-home + perfect-went-3.pl)

最初の文は「彼らは彼らの(一軒の)家に行った」という意味だが、二番目のは「彼らはそれぞれ自分の家に行った」である。この分配態的複数は普通の複数形が作れない非生物でもOKなのがわかる。もう一つ。

Qui-huīcâ in tiyàcā-huān in ī-chì-chīmal
(3.sg-bring.pl + the + warrior-pl + the + 3.pl-R'-shield)

これは戦士たちが単に盾を複数持ってきたのではなくて「それぞれめいめい」盾を抱えていたという意味だ。
 この CV’ 型畳音は名詞ばかりでなく形容詞にも付加できる。例えば「大きい」は huēyi だが、これにCV’ 型畳音を重ねてみよう。

Huè-huēyi in cuahuitl
(R'-big + the + tree.sg)

これによって形の上では単数の「木」が複数の意味合いを帯びる。「これらの木々は皆大きい」で、一本一本の木が視野に入っているあたり、やはり分配的だ。さらに日本語の「日々」にあたる「毎~」というニュアンスも形容詞の CV’ 型畳音で表せる。

Ni-tlāhuāna in huè-huēyi ilhui-tl ī-pan
(1.sg-get drunk + the + R'-big + day-Abs + 3.sg-on)

「大きな日」というのは「祝日」のことで、この文は「私は祝日になると毎回酔っぱらう」、I get drunk on every holiday で、上の文より分配性がより鮮明だ。

この項続きます。続きはこちら

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