シラブルという言葉は誰でも知ってはいるが、いざきちんと定義しようとすると結構難しい。手元の言語学事典でシラブルの項を引くと延々6ページにも渡ってベッタリ説明がなされていて、いかに把握しにくい観念なのかよくわかる。そもそもの出だしからして難しさ全開だ。
Einheit des Redestroms bzw. Sprechkontinuums; Redeabschnitt, der sich durch Intensivierung (der Lautstärke) zwischen zwei Grenzen/Pausen als natürliche Einheit bei der Segmentierung der Rede ergibt – eine intuitiv erfaßte elementare Erscheinungsform der Sprache…
談話の流れまたは発話継続の単位。談話を分節する際強勢(音量)によって二つの境界・休止に挟まれた自然なまとまりとなって現れる談話の一片 - 直感的に把握される基本的な言語現象…
専門用語事典に特有なガッチガチで緻密なスタイルの中に natürliche (「自然な」)や intuitiv erfaßte(「直感的に把握される」)などという(太字にしたのは私)あいまいな言葉がちゃっかり紛れ込んでいるあたり、定義の難しさが見てとれる。この後に主だった音声学者・音韻論学者のシラブルの定義が紹介されているが、そこでさらについ
Eine experimentalphonetische Bestimmung der S. ist nicht möglich
実験音声学でシラブルを確定するのは不可能
と白状さえしてしまっているではないか。シラブルは物理的な測定では検出不可、母語者の脳内に存在する単位ということか。
もっともシラブルが「構造」をなすことはわかっている。上で述べたように学者によって用語などに多少の違いはあるが、中心となる核があってその前に頭と言うか出だし、後ろに尻尾と言うかお尻というかがつくような構造になっている。頭を onset、核を nucleus または peak、尻尾を codaと呼ぶことが多いが、その際 nucleus と coda を rhyme としてまとめる。つまり Sylable = onset + rhyme, rhyme = nuckeus + coda と言う図式だ。なお『43.いわゆる入門書について』で名を出したキパルスキーはセグメント音韻論という一味違った音韻論を展開している。こうやって理屈を並べるとわかりにくいが、要するにシラブルは (C*)V(C*) で表せるということだ。C は子音で V が母音。* をつけたのは子音が連続することがあるからだ。C を括弧でくくったのはオンセットやコーダが存在しない場合がある、つまりゼロ要素がくる場合があるから。例えば Streik(「ストライキ」)というドイツ語のシラブル構造は CCCVC、ʃ - t - r - ei -k である。ei は二重母音だから一つの母音。同じく Ei(「卵」)の構造はあっさり V となる。これに対し日本語は二重母音がなく、母音隣接 hiatus だから「愛」は2シラブルで V-V 。
脳内単位だけあって物理的に同じ言語音連続でも言語によってその切り方、シラブル構造が違ってくる。またネイティブが常に規範文法通りの切り方をするとは限らないようだ。泉井久之助詞がアメリカのニューオーリーンズで、cemetery を辞書にあるようにcem-e-ter-y とは分けず、sím-it-ər-i 的に発音した例をあげている。私も前に一度 Trnka という名前は何シラブルかドイツ人に質問して「2シラブル」と答えられたことがある。ドイツ語ではクロアチア語やサンスクリットと違って r は子音でしかないはずだから Trnka は CCCCV で一シラブルになるはずだが、これが CVC-CV と認知された。ソナントは母音の機能を担いやすいという他に CCCC という4母音連続が引っかかったのかもしれない。3子音の連続ならドイツ語には普通にあるがそれ以上になるとブー音が鳴るということか。
同一言語内でも揺れがあるのだから言語が違えばシラブルの切り方の癖はさらに違ってくる。これも泉井氏の報告だが、general を英語ネイティブは gen-er-al と切るがロシア語母語者は ge-ne-ral とやるそうだ。日本語母語者もロシア語式に解釈するだろう。一方日本人ならCVCCV と母音間に二つ子音が来た時、二つの子音の間にシラブルの境目が来ると考えるのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。CVC-CV である。だからロシア語の никогда(「決して…ない」)は ни-ког-да だと思っていた。ところがレオニード・アンドレーエフの большой шлем という短編を読んでいたら主人公がこの語をゆっくり発音するシーンでシラブル分節してあり、 ни-ко-гда となっていたので真剣に驚いた。上の泉井氏によれば一つの子音が二つの母音に挟まれた場合(つまりVCV)、英語では閉音節解釈(VC-V)、ロシア語では開音節解釈(V-CV)が原則だそうだが、その開音節原則が VCCV でまで保持され、母音が二つとも後ろのシラブルのオンセットになるわけか。どうも外国語には驚かされることが多い。
また形態素とシラブルの境界は一致するとは限らない。Hörer(「聞き手」)、 Sprecher (「話し手」)、Achtung(「注意」)をシラブルと形態素に分析するとそれぞれ Hö-rer 対 Hör-er、Spre-cher 対 Sprech-er、Ach-tung 対 Acht-ung になる。前者がシラブル分析。
しかし日本語で大事なのはシラブルより「拍」(モーラ)のほうだろう。長さに基づく音韻単位で、時々シラブルとごっちゃにされているが、両者の違いは最初から学習者に叩き込んでおかないと聞くのが苦痛な日本語になる。下で書くようにいわゆるヘボン式の日本語表記はモーラを完全に無視したシラブル表記になっているので、非ネイティブが下手にローマ字で日本語を覚えると悲惨なことになるのだ。
日本語は可能なシラブル構造がクソ限られていて基本的に(C)Vのみ。「基本的に」と書いたのは例外が少しあるからで、例えば子音の「ん」はシラブルのコーダになれる。拗音の「きゃ」はCCV、つまりkja(j は英語でなくドイツ語やクロアチア語の j)、促音は後続子音の gemination とみなすから先行シラブルはCVC、同じ母音が二つ続くときは長母音とみなして一シラブル。だから「学校」は gak-ko: 、「逆光」は gjak-ko: 、「神道」は siN-to:、「楽器」は gak-kiと、皆二シラブルである。一方これらの語はモーラで言えば前者3語はそれぞれ「が・っ・こ・う」、「ぎゃ・っ・こ・う」、「し・ん・と・う」の4モーラ、「が・っ・き」は3モーラだ。
このシラブル分けに異議のある人もいなくはないと思うが(実は私も一言ある)、ここの話の筋にはあまり関係ないからこれで行くとして、さてこれらの語をシラブル通りに発音すると「あなたの楽器」が「あなたのガキ」になってしまうことがある。シラブル発音では時々「大野」と「小野」の区別もつかない。「本を」が「本の」になったりする。最後の例は日本語の音素をローマ字表記で覚えてしまい「ん」の調音点が歯茎でなく口蓋垂であることを知らないからだが(いわゆる「独学」の危険性はこういうところにあると思う)、楽器がガキになるのは長子音 gemination の部分の長さが足りないため、日本人には単なる一子音に聞こえてしまうからだ。いわゆる長母音にしても母音二つ分の長さがないと一つの母音としか感じられず、「佐藤さん」がサトさん、「東芝」がトシバになる。さらにアクセントをちゃんとしないと「叔母さん」と「おばあさん」かどちらなのかわからず、とにかく聞いていて本当に神経に触る日本語だ。
問題は「佐藤さん」をサトさんと発音した人本人はきちんと「お」を伸ばしたつもりになっていることで、私が「お」を伸ばせというと「だからちゃんと伸ばしましたよ」と不満顔で抗議される。だが私だってそれしきの抗議で引き下がるネイティブではない。「モーラという単位のことは私説明しましたよね?(嫌味)モーラは整数しかないんですよ。1.0モーラか2.0モーラかのどちらかしかない。1.6モーラの長さで発音していくら伸ばしたつもりになっても日本人が聞いたら2.0に足りないから1モーラとしか思えないんですよ。きちんと2モーラ分に長さまで伸ばさないと伸ばしたことになりません。伸ばすというより母音を二回繰り返すということなんです」と言ってやる(怖えなあ)。大抵の人はそこで引き下がるが、そこからさらに「でもいつか日本人が「コーヒ」と言っているのを見ました」と食い下がって来られたことがある。この手の抗議にも慣れているから、「その人はネイティブですよね?つまりその人はもともと完璧に日本語の発音ができて、モーラと言う観念も頭の中に入っているんですよ。完璧に実行できる人がたまにわざと崩して発音するのとできない人がわざわざ崩した発音をマネして余計できなくなるのとは事情が全然違います」とカウンターを出す。ここまで言われると相手もさすがに黙る(怖えなあ)。
楽器がガキになる人に対しても同様の説明をして「いつまでもヘボン式のローマ字表記なんかを参考にするからですよ。日本語ではちゃんと「っ」と一文字当ててるでしょうが。これは立派に1モーラなんです。母音と同じ長さの時間だけ声門を閉めなさい。でないと日本人にとっては発音しなかったのと同じにしか聞こえません。」この促音は苦手な人が多く、「まだ短い、まだ短い」と何回もやらせるうちに相手の不満顔が爆発しそうになってくる。私はそこでダメ押しをかけてやる。城生伯太郎教授が報告しているが「肩」(2モーラ)と「勝った」(3モーラ)の長さを測定した結果、後者は前者の1.9倍の長さだったそうだ。計算上は1.5倍のはずである。これはずばり「っ」が長いからで、「勝った」の「カ」、「ッ」、「タ」の持続時間はそれぞれ0.095秒、0.123秒、0.085秒だったそうだ。促音を含まない「肩」の両モーラはそれぞれ0.077秒、0.083秒でやはり短く、促音モーラの持続時間はやはり際立っている。つまり促音はむしろ普通の母音モーラより長さがないと1モーラとして感知されないということだ。この実験結果を示して、「だからそっちがいくら不満でもモーラにならないものはならないんだ。もうちょっと持続時間を伸ばせ」と言うとさすがに証拠を見せつけられては私を単なる揚げ足取り扱いするわけにはいかなくなるのだろう。学習者はそこで黙る(怖えなあ)。
一方逆もある。2モーラを1モーラに縮めてしまうその同じ人が1モーラを勝手に伸ばして2モーラにしてしまうのだ。ドイツ人は特に1モーラの語の発音が苦手なようで、「絵が」が「エーガ」、「木から」が「キーカラ」になる。それぞれ「映画」、「Keyから」にしか聞こえない。「50」を「ゴージュ」と発音してしまう人も非常に多い。セロ弾きかよ(ギャグ寒すぎ)。また「コピーする」を「コーピする」と言われると喫茶店にでも行くのかと思う。ここでも上の寸詰まりモーラと同じく、やっている方は事の重大さを全く意識していないという点だ。私が注意するとここでも「そんなことくらいで揚げ足取りすんなよ」と言わんばかりの顔をする人がいる。こっちだってそんな発音じゃコミュニケーションに支障が出るから注意してるんだバカタレ、それしきのことができないんだったら日本語止めれ、あんたにゃ無理だ、などとはもちろん言わない。
とにかく最初から「モーラ」という観念、シラブルとの決定的な違いを叩き込んでおかないと後々まで尾を引く。途中から言い出しても「何を今さら」と真剣に受け取って貰えない。
金田一氏など日本語学者は日本語をローマ字表記する際、「っ」にQ、「ん」にN、「おう」など母音が二倍に伸びる場合にRという特殊モーラ記号を使っている。学校は gaQkoR、逆光は gjaQkoR、神道は siNtoR、楽器は gaQki となる。gakkō なんかよりこちらのほうをつかえばいいのにと思うのだが、まあ一度定着してしまったものは害があっても中々引っ込められないのだろう。大文字と小文字が混ざっている点もちょっと不便だし。
これらの特殊モーラ記号が「特殊音素」とも呼ばれているのを見たことがあるが、Rは果たして音素と言えるかどうか疑問だ。音価というものがないからである。強いて言えばIPAの補助記号 [ : ] だろうが元の音なしの補助記号だけではいくらなんでも音素とは言えまい。そもそも [ : ] は子音につければ長子音を表すのだから(「学校」はIPAでは gak:o: になる)下手をすると促音と同じになってしまう。だからRはあくまで特殊モーラであって特殊音素ではないが、それに対してQとNは本当に音素だ。まず「っ」は厳密に見れば決して長子音などではなく、れっきとした音価があるからだ。声門閉鎖音である(IPAで[?])。「勝って」や「学校」をものすごくゆっくり発音してみろと言われれば少なくとも私は [kat::e] や [gak::oo] にはならない。「勝って」でいえば「か」のあと舌は完全に t の調音点の歯茎から離れて宙に浮く。その間に声門閉鎖が入って、舌が歯茎に触れる、つまりt の調音を開始するのはやっとそれからである。「学校」のほうは k の調音点が奥の方にあるから(軟口蓋)自分で自覚しにくいが、喉ぼとけのあたりに力が入っているのだけは感じられる。声門が閉鎖しているのだろう。k の発音の際は喉ぼとけの緊張が緩むのがはっきり感じられる。ということはt の場合と同様、k の調音が開始されるのは「っ」が終わってからということだ。この、声門から軟口蓋への調音点の移動は「ロンドンっ子」と言ってみるともっとはっきり自覚できる。「っ」にはそれ自身の音価がある。決して長子音などではない。長子音で発音されるとしたら、それはあくまで [?] のアロフォンとしてである。
次に「ん」だが、不幸なことに n とローマ字表記されるので、英語をカタカナ読みする如く、日本語をローマ字読みで独学した人たちが歯茎閉鎖で発音しやがるからウザくてしかたがない。「ロンドンへ」が「ロンドンね」、上でも書いたように「本を」が「本の」になる。「健一」は「ケニチ」である。「ん」の調音点は口蓋垂だ。n の歯茎とはあまりにも調音点が離れすぎている。「本を」、ho-N-o というとき、最初の母音 o を発音した時点で口が大開きになるが、次の N ではその大開きの口のまま、舌の位置も全然移動しないまま、つまり口腔内では何事も起こらないまま、奥の方の口蓋垂が下降して空気を鼻腔に送り、次にその口蓋垂の遮断機が上がり、空気が前の母音の形のままスタンバイしている口腔を通って外に出る。繰り返すがその際口腔内では何も動かない。後ろの口蓋垂が下がって上がるだけだ。ところがローマ字頭の人は「ん」を n だと勘違いしているから二つの母音の間で唐突に舌を動かし歯茎につける。聞いている日本人はどうしてそんな、せっかく口腔が平和に休んでいるところに関係ない音がいきなり侵入してくるのかわからない。明治神宮の森でヒクイドリに遭遇したかの如き違和感がある。「ん」N の音価は「なにぬねの」の n とは全く違うのだとこれも最初に釘を刺しておかないとそれこそヒクイドリだらけの日本語になり、ウザいを通り越してコミュニケーションに支障が出る。「本を」と「本の」では意味が全然違うし、「ケニチ」から健一を再構築するなど普通の日本人はできないからだ。
「ん」(N)は「シラブル形成ソナント」と名付けることもできよう。この記事の始めのほうで出した Trnka の r もその一例だが、その他にも例えばドイツ語の bleiben (「留まる」)はゆっくり発音すると [blaɪ-bən] だが会話ではしばしば [blaɪ-m̩] になる。m の下のほうにくっついた点はソナントの m がシラブルであるという意味だ。だから「ん」もモーラ形成の子音・ソナントと考えて N̩ とすればモーラなどという観念を持ち出さなくても単なるシラブルとして説明できないこともない。Rにしても普通の母音隣接だと解釈してしまえばまあシラブル解釈でやっていけないこともない。が、「っ」はそうは行かない。どう転んでも [?] がシラブルを作ることなど不可能だ。「シラブル」だけでは日本語の発音を教えることはできないのである。それあるに上の言語学事典をみたら、シラブルについては何ページも割いて記述しているのに「モーラ」については項そのものさえない。数行でいいからせめて項くらい作ってほしかった。
もちろん物理的に器具で測定すればあらゆるモーラが全部ぴったり同じ長さになるわけではない。上で出した音声実験もその意図は「モーラが皆一定の同じ長さであるという前提は間違いで、測定してみると結構バラバラだ」と示すことであった。シラブルが「実験音声学で確定するのは不可能」(上述)なのと同様、モーラも純粋に客観的に実験で抽出することはできないのだろう。しかしこれもシラブルと同様、話者の脳内には存在しているのである。こういうのが一番やっかいなのだ。
さらに日本語内でもモーラという観念を知らず、本当にシラブルだけで発音している方言がある。これを「シラビーム方言」と呼んでいる。だからと言ってモーラなんて無視していいということにはならない。モーラ方言の方が大多数だし、標準語発音の元になった東京方言もモーラ方言だからである。
Einheit des Redestroms bzw. Sprechkontinuums; Redeabschnitt, der sich durch Intensivierung (der Lautstärke) zwischen zwei Grenzen/Pausen als natürliche Einheit bei der Segmentierung der Rede ergibt – eine intuitiv erfaßte elementare Erscheinungsform der Sprache…
談話の流れまたは発話継続の単位。談話を分節する際強勢(音量)によって二つの境界・休止に挟まれた自然なまとまりとなって現れる談話の一片 - 直感的に把握される基本的な言語現象…
専門用語事典に特有なガッチガチで緻密なスタイルの中に natürliche (「自然な」)や intuitiv erfaßte(「直感的に把握される」)などという(太字にしたのは私)あいまいな言葉がちゃっかり紛れ込んでいるあたり、定義の難しさが見てとれる。この後に主だった音声学者・音韻論学者のシラブルの定義が紹介されているが、そこでさらについ
Eine experimentalphonetische Bestimmung der S. ist nicht möglich
実験音声学でシラブルを確定するのは不可能
と白状さえしてしまっているではないか。シラブルは物理的な測定では検出不可、母語者の脳内に存在する単位ということか。
もっともシラブルが「構造」をなすことはわかっている。上で述べたように学者によって用語などに多少の違いはあるが、中心となる核があってその前に頭と言うか出だし、後ろに尻尾と言うかお尻というかがつくような構造になっている。頭を onset、核を nucleus または peak、尻尾を codaと呼ぶことが多いが、その際 nucleus と coda を rhyme としてまとめる。つまり Sylable = onset + rhyme, rhyme = nuckeus + coda と言う図式だ。なお『43.いわゆる入門書について』で名を出したキパルスキーはセグメント音韻論という一味違った音韻論を展開している。こうやって理屈を並べるとわかりにくいが、要するにシラブルは (C*)V(C*) で表せるということだ。C は子音で V が母音。* をつけたのは子音が連続することがあるからだ。C を括弧でくくったのはオンセットやコーダが存在しない場合がある、つまりゼロ要素がくる場合があるから。例えば Streik(「ストライキ」)というドイツ語のシラブル構造は CCCVC、ʃ - t - r - ei -k である。ei は二重母音だから一つの母音。同じく Ei(「卵」)の構造はあっさり V となる。これに対し日本語は二重母音がなく、母音隣接 hiatus だから「愛」は2シラブルで V-V 。
脳内単位だけあって物理的に同じ言語音連続でも言語によってその切り方、シラブル構造が違ってくる。またネイティブが常に規範文法通りの切り方をするとは限らないようだ。泉井久之助詞がアメリカのニューオーリーンズで、cemetery を辞書にあるようにcem-e-ter-y とは分けず、sím-it-ər-i 的に発音した例をあげている。私も前に一度 Trnka という名前は何シラブルかドイツ人に質問して「2シラブル」と答えられたことがある。ドイツ語ではクロアチア語やサンスクリットと違って r は子音でしかないはずだから Trnka は CCCCV で一シラブルになるはずだが、これが CVC-CV と認知された。ソナントは母音の機能を担いやすいという他に CCCC という4母音連続が引っかかったのかもしれない。3子音の連続ならドイツ語には普通にあるがそれ以上になるとブー音が鳴るということか。
同一言語内でも揺れがあるのだから言語が違えばシラブルの切り方の癖はさらに違ってくる。これも泉井氏の報告だが、general を英語ネイティブは gen-er-al と切るがロシア語母語者は ge-ne-ral とやるそうだ。日本語母語者もロシア語式に解釈するだろう。一方日本人ならCVCCV と母音間に二つ子音が来た時、二つの子音の間にシラブルの境目が来ると考えるのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。CVC-CV である。だからロシア語の никогда(「決して…ない」)は ни-ког-да だと思っていた。ところがレオニード・アンドレーエフの большой шлем という短編を読んでいたら主人公がこの語をゆっくり発音するシーンでシラブル分節してあり、 ни-ко-гда となっていたので真剣に驚いた。上の泉井氏によれば一つの子音が二つの母音に挟まれた場合(つまりVCV)、英語では閉音節解釈(VC-V)、ロシア語では開音節解釈(V-CV)が原則だそうだが、その開音節原則が VCCV でまで保持され、母音が二つとも後ろのシラブルのオンセットになるわけか。どうも外国語には驚かされることが多い。
また形態素とシラブルの境界は一致するとは限らない。Hörer(「聞き手」)、 Sprecher (「話し手」)、Achtung(「注意」)をシラブルと形態素に分析するとそれぞれ Hö-rer 対 Hör-er、Spre-cher 対 Sprech-er、Ach-tung 対 Acht-ung になる。前者がシラブル分析。
しかし日本語で大事なのはシラブルより「拍」(モーラ)のほうだろう。長さに基づく音韻単位で、時々シラブルとごっちゃにされているが、両者の違いは最初から学習者に叩き込んでおかないと聞くのが苦痛な日本語になる。下で書くようにいわゆるヘボン式の日本語表記はモーラを完全に無視したシラブル表記になっているので、非ネイティブが下手にローマ字で日本語を覚えると悲惨なことになるのだ。
日本語は可能なシラブル構造がクソ限られていて基本的に(C)Vのみ。「基本的に」と書いたのは例外が少しあるからで、例えば子音の「ん」はシラブルのコーダになれる。拗音の「きゃ」はCCV、つまりkja(j は英語でなくドイツ語やクロアチア語の j)、促音は後続子音の gemination とみなすから先行シラブルはCVC、同じ母音が二つ続くときは長母音とみなして一シラブル。だから「学校」は gak-ko: 、「逆光」は gjak-ko: 、「神道」は siN-to:、「楽器」は gak-kiと、皆二シラブルである。一方これらの語はモーラで言えば前者3語はそれぞれ「が・っ・こ・う」、「ぎゃ・っ・こ・う」、「し・ん・と・う」の4モーラ、「が・っ・き」は3モーラだ。
このシラブル分けに異議のある人もいなくはないと思うが(実は私も一言ある)、ここの話の筋にはあまり関係ないからこれで行くとして、さてこれらの語をシラブル通りに発音すると「あなたの楽器」が「あなたのガキ」になってしまうことがある。シラブル発音では時々「大野」と「小野」の区別もつかない。「本を」が「本の」になったりする。最後の例は日本語の音素をローマ字表記で覚えてしまい「ん」の調音点が歯茎でなく口蓋垂であることを知らないからだが(いわゆる「独学」の危険性はこういうところにあると思う)、楽器がガキになるのは長子音 gemination の部分の長さが足りないため、日本人には単なる一子音に聞こえてしまうからだ。いわゆる長母音にしても母音二つ分の長さがないと一つの母音としか感じられず、「佐藤さん」がサトさん、「東芝」がトシバになる。さらにアクセントをちゃんとしないと「叔母さん」と「おばあさん」かどちらなのかわからず、とにかく聞いていて本当に神経に触る日本語だ。
問題は「佐藤さん」をサトさんと発音した人本人はきちんと「お」を伸ばしたつもりになっていることで、私が「お」を伸ばせというと「だからちゃんと伸ばしましたよ」と不満顔で抗議される。だが私だってそれしきの抗議で引き下がるネイティブではない。「モーラという単位のことは私説明しましたよね?(嫌味)モーラは整数しかないんですよ。1.0モーラか2.0モーラかのどちらかしかない。1.6モーラの長さで発音していくら伸ばしたつもりになっても日本人が聞いたら2.0に足りないから1モーラとしか思えないんですよ。きちんと2モーラ分に長さまで伸ばさないと伸ばしたことになりません。伸ばすというより母音を二回繰り返すということなんです」と言ってやる(怖えなあ)。大抵の人はそこで引き下がるが、そこからさらに「でもいつか日本人が「コーヒ」と言っているのを見ました」と食い下がって来られたことがある。この手の抗議にも慣れているから、「その人はネイティブですよね?つまりその人はもともと完璧に日本語の発音ができて、モーラと言う観念も頭の中に入っているんですよ。完璧に実行できる人がたまにわざと崩して発音するのとできない人がわざわざ崩した発音をマネして余計できなくなるのとは事情が全然違います」とカウンターを出す。ここまで言われると相手もさすがに黙る(怖えなあ)。
楽器がガキになる人に対しても同様の説明をして「いつまでもヘボン式のローマ字表記なんかを参考にするからですよ。日本語ではちゃんと「っ」と一文字当ててるでしょうが。これは立派に1モーラなんです。母音と同じ長さの時間だけ声門を閉めなさい。でないと日本人にとっては発音しなかったのと同じにしか聞こえません。」この促音は苦手な人が多く、「まだ短い、まだ短い」と何回もやらせるうちに相手の不満顔が爆発しそうになってくる。私はそこでダメ押しをかけてやる。城生伯太郎教授が報告しているが「肩」(2モーラ)と「勝った」(3モーラ)の長さを測定した結果、後者は前者の1.9倍の長さだったそうだ。計算上は1.5倍のはずである。これはずばり「っ」が長いからで、「勝った」の「カ」、「ッ」、「タ」の持続時間はそれぞれ0.095秒、0.123秒、0.085秒だったそうだ。促音を含まない「肩」の両モーラはそれぞれ0.077秒、0.083秒でやはり短く、促音モーラの持続時間はやはり際立っている。つまり促音はむしろ普通の母音モーラより長さがないと1モーラとして感知されないということだ。この実験結果を示して、「だからそっちがいくら不満でもモーラにならないものはならないんだ。もうちょっと持続時間を伸ばせ」と言うとさすがに証拠を見せつけられては私を単なる揚げ足取り扱いするわけにはいかなくなるのだろう。学習者はそこで黙る(怖えなあ)。
一方逆もある。2モーラを1モーラに縮めてしまうその同じ人が1モーラを勝手に伸ばして2モーラにしてしまうのだ。ドイツ人は特に1モーラの語の発音が苦手なようで、「絵が」が「エーガ」、「木から」が「キーカラ」になる。それぞれ「映画」、「Keyから」にしか聞こえない。「50」を「ゴージュ」と発音してしまう人も非常に多い。セロ弾きかよ(ギャグ寒すぎ)。また「コピーする」を「コーピする」と言われると喫茶店にでも行くのかと思う。ここでも上の寸詰まりモーラと同じく、やっている方は事の重大さを全く意識していないという点だ。私が注意するとここでも「そんなことくらいで揚げ足取りすんなよ」と言わんばかりの顔をする人がいる。こっちだってそんな発音じゃコミュニケーションに支障が出るから注意してるんだバカタレ、それしきのことができないんだったら日本語止めれ、あんたにゃ無理だ、などとはもちろん言わない。
とにかく最初から「モーラ」という観念、シラブルとの決定的な違いを叩き込んでおかないと後々まで尾を引く。途中から言い出しても「何を今さら」と真剣に受け取って貰えない。
金田一氏など日本語学者は日本語をローマ字表記する際、「っ」にQ、「ん」にN、「おう」など母音が二倍に伸びる場合にRという特殊モーラ記号を使っている。学校は gaQkoR、逆光は gjaQkoR、神道は siNtoR、楽器は gaQki となる。gakkō なんかよりこちらのほうをつかえばいいのにと思うのだが、まあ一度定着してしまったものは害があっても中々引っ込められないのだろう。大文字と小文字が混ざっている点もちょっと不便だし。
これらの特殊モーラ記号が「特殊音素」とも呼ばれているのを見たことがあるが、Rは果たして音素と言えるかどうか疑問だ。音価というものがないからである。強いて言えばIPAの補助記号 [ : ] だろうが元の音なしの補助記号だけではいくらなんでも音素とは言えまい。そもそも [ : ] は子音につければ長子音を表すのだから(「学校」はIPAでは gak:o: になる)下手をすると促音と同じになってしまう。だからRはあくまで特殊モーラであって特殊音素ではないが、それに対してQとNは本当に音素だ。まず「っ」は厳密に見れば決して長子音などではなく、れっきとした音価があるからだ。声門閉鎖音である(IPAで[?])。「勝って」や「学校」をものすごくゆっくり発音してみろと言われれば少なくとも私は [kat::e] や [gak::oo] にはならない。「勝って」でいえば「か」のあと舌は完全に t の調音点の歯茎から離れて宙に浮く。その間に声門閉鎖が入って、舌が歯茎に触れる、つまりt の調音を開始するのはやっとそれからである。「学校」のほうは k の調音点が奥の方にあるから(軟口蓋)自分で自覚しにくいが、喉ぼとけのあたりに力が入っているのだけは感じられる。声門が閉鎖しているのだろう。k の発音の際は喉ぼとけの緊張が緩むのがはっきり感じられる。ということはt の場合と同様、k の調音が開始されるのは「っ」が終わってからということだ。この、声門から軟口蓋への調音点の移動は「ロンドンっ子」と言ってみるともっとはっきり自覚できる。「っ」にはそれ自身の音価がある。決して長子音などではない。長子音で発音されるとしたら、それはあくまで [?] のアロフォンとしてである。
次に「ん」だが、不幸なことに n とローマ字表記されるので、英語をカタカナ読みする如く、日本語をローマ字読みで独学した人たちが歯茎閉鎖で発音しやがるからウザくてしかたがない。「ロンドンへ」が「ロンドンね」、上でも書いたように「本を」が「本の」になる。「健一」は「ケニチ」である。「ん」の調音点は口蓋垂だ。n の歯茎とはあまりにも調音点が離れすぎている。「本を」、ho-N-o というとき、最初の母音 o を発音した時点で口が大開きになるが、次の N ではその大開きの口のまま、舌の位置も全然移動しないまま、つまり口腔内では何事も起こらないまま、奥の方の口蓋垂が下降して空気を鼻腔に送り、次にその口蓋垂の遮断機が上がり、空気が前の母音の形のままスタンバイしている口腔を通って外に出る。繰り返すがその際口腔内では何も動かない。後ろの口蓋垂が下がって上がるだけだ。ところがローマ字頭の人は「ん」を n だと勘違いしているから二つの母音の間で唐突に舌を動かし歯茎につける。聞いている日本人はどうしてそんな、せっかく口腔が平和に休んでいるところに関係ない音がいきなり侵入してくるのかわからない。明治神宮の森でヒクイドリに遭遇したかの如き違和感がある。「ん」N の音価は「なにぬねの」の n とは全く違うのだとこれも最初に釘を刺しておかないとそれこそヒクイドリだらけの日本語になり、ウザいを通り越してコミュニケーションに支障が出る。「本を」と「本の」では意味が全然違うし、「ケニチ」から健一を再構築するなど普通の日本人はできないからだ。
「ん」(N)は「シラブル形成ソナント」と名付けることもできよう。この記事の始めのほうで出した Trnka の r もその一例だが、その他にも例えばドイツ語の bleiben (「留まる」)はゆっくり発音すると [blaɪ-bən] だが会話ではしばしば [blaɪ-m̩] になる。m の下のほうにくっついた点はソナントの m がシラブルであるという意味だ。だから「ん」もモーラ形成の子音・ソナントと考えて N̩ とすればモーラなどという観念を持ち出さなくても単なるシラブルとして説明できないこともない。Rにしても普通の母音隣接だと解釈してしまえばまあシラブル解釈でやっていけないこともない。が、「っ」はそうは行かない。どう転んでも [?] がシラブルを作ることなど不可能だ。「シラブル」だけでは日本語の発音を教えることはできないのである。それあるに上の言語学事典をみたら、シラブルについては何ページも割いて記述しているのに「モーラ」については項そのものさえない。数行でいいからせめて項くらい作ってほしかった。
もちろん物理的に器具で測定すればあらゆるモーラが全部ぴったり同じ長さになるわけではない。上で出した音声実験もその意図は「モーラが皆一定の同じ長さであるという前提は間違いで、測定してみると結構バラバラだ」と示すことであった。シラブルが「実験音声学で確定するのは不可能」(上述)なのと同様、モーラも純粋に客観的に実験で抽出することはできないのだろう。しかしこれもシラブルと同様、話者の脳内には存在しているのである。こういうのが一番やっかいなのだ。
さらに日本語内でもモーラという観念を知らず、本当にシラブルだけで発音している方言がある。これを「シラビーム方言」と呼んでいる。だからと言ってモーラなんて無視していいということにはならない。モーラ方言の方が大多数だし、標準語発音の元になった東京方言もモーラ方言だからである。
片仮名と平仮名は原則として1字1モーラだが、拗音は1モーラを2字で表す。これにつられて2モーラ発音してしまう人も多い。ドイツ人は特に子音の口蓋化が苦手なのか、口蓋化しろと言うとうしろに母音の i を入れるか(日本人が子音だけの発音ができず、 und(and)が unto になるとかいって笑えませんな)、子音が妙に伸びて「病院」が「美容院」になる。文字につられているだけかもしれないが、発音そのものも苦手なようだ。これも訂正するとまたしても揚げ足取り扱いを受けるので、「あなた、日本で大怪我したらどうする気ですか?「病院に連れてってくれ」と言ったつもりが美容院に来ちゃったら命にかかわりますよ?」と釘を刺す。こういう調子で常に抗議とそれに対するカウンターの連続なのでだんだん戦争でもやっている気分になってくる(嘘)。音声学を特に専攻していなくて、本来発音に対してはあまりうるさくないはずの私でさえ戦争になるのだから、本チャンの音声学者が日本語を教えたら最後まで発音練習で終わってしまい、ついに文法には進めなかったということになりそうだ。まあ考えようによれば(いわゆる「語学」(『34.語学と言語学の違い』参照)の人は絶対そうは考えないだろうが)、まともな発音もできなかったらどうせ通じないのだから文法なんかやっても無駄、ということなのだろう。そういう考え方もアリだとは思う。怖いが。