アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Mai 2024

 シラブルという言葉は誰でも知ってはいるが、いざきちんと定義しようとすると結構難しい。手元の言語学事典でシラブルの項を引くと延々6ページにも渡ってベッタリ説明がなされていて、いかに把握しにくい観念なのかよくわかる。そもそもの出だしからして難しさ全開だ。

Einheit des Redestroms bzw. Sprechkontinuums; Redeabschnitt, der sich durch Intensivierung (der Lautstärke) zwischen zwei Grenzen/Pausen als natürliche Einheit bei der Segmentierung der Rede ergibt – eine intuitiv erfaßte elementare Erscheinungsform der Sprache…

談話の流れまたは発話継続の単位。談話を分節する際強勢(音量)によって二つの境界・休止に挟まれた自然なまとまりとなって現れる談話の一片 - 直感的に把握される基本的な言語現象…

専門用語事典に特有なガッチガチで緻密なスタイルの中に natürliche (「自然な」)や intuitiv erfaßte(「直感的に把握される」)などという(太字にしたのは私)あいまいな言葉がちゃっかり紛れ込んでいるあたり、定義の難しさが見てとれる。この後に主だった音声学者・音韻論学者のシラブルの定義が紹介されているが、そこでさらについ

Eine experimentalphonetische Bestimmung der S. ist nicht möglich
実験音声学でシラブルを確定するのは不可能

と白状さえしてしまっているではないか。シラブルは物理的な測定では検出不可、母語者の脳内に存在する単位ということか。
 もっともシラブルが「構造」をなすことはわかっている。上で述べたように学者によって用語などに多少の違いはあるが、中心となる核があってその前に頭と言うか出だし、後ろに尻尾と言うかお尻というかがつくような構造になっている。頭を onset、核を nucleus または peak、尻尾を codaと呼ぶことが多いが、その際 nucleus と coda を rhyme としてまとめる。つまり Sylable = onset + rhyme, rhyme = nuckeus + coda と言う図式だ。なお『43.いわゆる入門書について』で名を出したキパルスキーはセグメント音韻論という一味違った音韻論を展開している。こうやって理屈を並べるとわかりにくいが、要するにシラブルは (C*)V(C*) で表せるということだ。C は子音で V が母音。* をつけたのは子音が連続することがあるからだ。C を括弧でくくったのはオンセットやコーダが存在しない場合がある、つまりゼロ要素がくる場合があるから。例えば Streik(「ストライキ」)というドイツ語のシラブル構造は CCCVC、ʃ - t - r - ei -k である。ei は二重母音だから一つの母音。同じく Ei(「卵」)の構造はあっさり V となる。これに対し日本語は二重母音がなく、母音隣接 hiatus だから「愛」は2シラブルで V-V 。
 脳内単位だけあって物理的に同じ言語音連続でも言語によってその切り方、シラブル構造が違ってくる。またネイティブが常に規範文法通りの切り方をするとは限らないようだ。泉井久之助詞がアメリカのニューオーリーンズで、cemetery を辞書にあるようにcem-e-ter-y とは分けず、sím-it-ər-i 的に発音した例をあげている。私も前に一度 Trnka という名前は何シラブルかドイツ人に質問して「2シラブル」と答えられたことがある。ドイツ語ではクロアチア語やサンスクリットと違って r は子音でしかないはずだから Trnka は CCCCV で一シラブルになるはずだが、これが CVC-CV と認知された。ソナントは母音の機能を担いやすいという他に CCCC という4母音連続が引っかかったのかもしれない。3子音の連続ならドイツ語には普通にあるがそれ以上になるとブー音が鳴るということか。
 同一言語内でも揺れがあるのだから言語が違えばシラブルの切り方の癖はさらに違ってくる。これも泉井氏の報告だが、general を英語ネイティブは gen-er-al と切るがロシア語母語者は ge-ne-ral とやるそうだ。日本語母語者もロシア語式に解釈するだろう。一方日本人ならCVCCV と母音間に二つ子音が来た時、二つの子音の間にシラブルの境目が来ると考えるのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。CVC-CV である。だからロシア語の никогда(「決して…ない」)は ни-ког-да だと思っていた。ところがレオニード・アンドレーエフの большой шлем という短編を読んでいたら主人公がこの語をゆっくり発音するシーンでシラブル分節してあり、 ни-ко-гда となっていたので真剣に驚いた。上の泉井氏によれば一つの子音が二つの母音に挟まれた場合(つまりVCV)、英語では閉音節解釈(VC-V)、ロシア語では開音節解釈(V-CV)が原則だそうだが、その開音節原則が VCCV でまで保持され、母音が二つとも後ろのシラブルのオンセットになるわけか。どうも外国語には驚かされることが多い。
 また形態素とシラブルの境界は一致するとは限らない。Hörer(「聞き手」)、 Sprecher (「話し手」)、Achtung(「注意」)をシラブルと形態素に分析するとそれぞれ Hö-rer 対 Hör-er、Spre-cher 対 Sprech-er、Ach-tung 対 Acht-ung になる。前者がシラブル分析。

 しかし日本語で大事なのはシラブルより「拍」(モーラ)のほうだろう。長さに基づく音韻単位で、時々シラブルとごっちゃにされているが、両者の違いは最初から学習者に叩き込んでおかないと聞くのが苦痛な日本語になる。下で書くようにいわゆるヘボン式の日本語表記はモーラを完全に無視したシラブル表記になっているので、非ネイティブが下手にローマ字で日本語を覚えると悲惨なことになるのだ。
 日本語は可能なシラブル構造がクソ限られていて基本的に(C)Vのみ。「基本的に」と書いたのは例外が少しあるからで、例えば子音の「ん」はシラブルのコーダになれる。拗音の「きゃ」はCCV、つまりkja(j は英語でなくドイツ語やクロアチア語の j)、促音は後続子音の gemination とみなすから先行シラブルはCVC、同じ母音が二つ続くときは長母音とみなして一シラブル。だから「学校」は gak-ko: 、「逆光」は gjak-ko: 、「神道」は siN-to:、「楽器」は gak-kiと、皆二シラブルである。一方これらの語はモーラで言えば前者3語はそれぞれ「が・っ・こ・う」、「ぎゃ・っ・こ・う」、「し・ん・と・う」の4モーラ、「が・っ・き」は3モーラだ。
 このシラブル分けに異議のある人もいなくはないと思うが(実は私も一言ある)、ここの話の筋にはあまり関係ないからこれで行くとして、さてこれらの語をシラブル通りに発音すると「あなたの楽器」が「あなたのガキ」になってしまうことがある。シラブル発音では時々「大野」と「小野」の区別もつかない。「本を」が「本の」になったりする。最後の例は日本語の音素をローマ字表記で覚えてしまい「ん」の調音点が歯茎でなく口蓋垂であることを知らないからだが(いわゆる「独学」の危険性はこういうところにあると思う)、楽器がガキになるのは長子音 gemination の部分の長さが足りないため、日本人には単なる一子音に聞こえてしまうからだ。いわゆる長母音にしても母音二つ分の長さがないと一つの母音としか感じられず、「佐藤さん」がサトさん、「東芝」がトシバになる。さらにアクセントをちゃんとしないと「叔母さん」と「おばあさん」かどちらなのかわからず、とにかく聞いていて本当に神経に触る日本語だ。
 問題は「佐藤さん」をサトさんと発音した人本人はきちんと「お」を伸ばしたつもりになっていることで、私が「お」を伸ばせというと「だからちゃんと伸ばしましたよ」と不満顔で抗議される。だが私だってそれしきの抗議で引き下がるネイティブではない。「モーラという単位のことは私説明しましたよね?(嫌味)モーラは整数しかないんですよ。1.0モーラか2.0モーラかのどちらかしかない。1.6モーラの長さで発音していくら伸ばしたつもりになっても日本人が聞いたら2.0に足りないから1モーラとしか思えないんですよ。きちんと2モーラ分に長さまで伸ばさないと伸ばしたことになりません。伸ばすというより母音を二回繰り返すということなんです」と言ってやる(怖えなあ)。大抵の人はそこで引き下がるが、そこからさらに「でもいつか日本人が「コーヒ」と言っているのを見ました」と食い下がって来られたことがある。この手の抗議にも慣れているから、「その人はネイティブですよね?つまりその人はもともと完璧に日本語の発音ができて、モーラと言う観念も頭の中に入っているんですよ。完璧に実行できる人がたまにわざと崩して発音するのとできない人がわざわざ崩した発音をマネして余計できなくなるのとは事情が全然違います」とカウンターを出す。ここまで言われると相手もさすがに黙る(怖えなあ)。
 楽器がガキになる人に対しても同様の説明をして「いつまでもヘボン式のローマ字表記なんかを参考にするからですよ。日本語ではちゃんと「っ」と一文字当ててるでしょうが。これは立派に1モーラなんです。母音と同じ長さの時間だけ声門を閉めなさい。でないと日本人にとっては発音しなかったのと同じにしか聞こえません。」この促音は苦手な人が多く、「まだ短い、まだ短い」と何回もやらせるうちに相手の不満顔が爆発しそうになってくる。私はそこでダメ押しをかけてやる。城生伯太郎教授が報告しているが「肩」(2モーラ)と「勝った」(3モーラ)の長さを測定した結果、後者は前者の1.9倍の長さだったそうだ。計算上は1.5倍のはずである。これはずばり「っ」が長いからで、「勝った」の「カ」、「ッ」、「タ」の持続時間はそれぞれ0.095秒、0.123秒、0.085秒だったそうだ。促音を含まない「肩」の両モーラはそれぞれ0.077秒、0.083秒でやはり短く、促音モーラの持続時間はやはり際立っている。つまり促音はむしろ普通の母音モーラより長さがないと1モーラとして感知されないということだ。この実験結果を示して、「だからそっちがいくら不満でもモーラにならないものはならないんだ。もうちょっと持続時間を伸ばせ」と言うとさすがに証拠を見せつけられては私を単なる揚げ足取り扱いするわけにはいかなくなるのだろう。学習者はそこで黙る(怖えなあ)。
 一方逆もある。2モーラを1モーラに縮めてしまうその同じ人が1モーラを勝手に伸ばして2モーラにしてしまうのだ。ドイツ人は特に1モーラの語の発音が苦手なようで、「絵が」が「エーガ」、「木から」が「キーカラ」になる。それぞれ「映画」、「Keyから」にしか聞こえない。「50」を「ゴージュ」と発音してしまう人も非常に多い。セロ弾きかよ(ギャグ寒すぎ)。また「コピーする」を「コーピする」と言われると喫茶店にでも行くのかと思う。ここでも上の寸詰まりモーラと同じく、やっている方は事の重大さを全く意識していないという点だ。私が注意するとここでも「そんなことくらいで揚げ足取りすんなよ」と言わんばかりの顔をする人がいる。こっちだってそんな発音じゃコミュニケーションに支障が出るから注意してるんだバカタレ、それしきのことができないんだったら日本語止めれ、あんたにゃ無理だ、などとはもちろん言わない。
 とにかく最初から「モーラ」という観念、シラブルとの決定的な違いを叩き込んでおかないと後々まで尾を引く。途中から言い出しても「何を今さら」と真剣に受け取って貰えない。

 金田一氏など日本語学者は日本語をローマ字表記する際、「っ」にQ、「ん」にN、「おう」など母音が二倍に伸びる場合にRという特殊モーラ記号を使っている。学校は gaQkoR、逆光は gjaQkoR、神道は siNtoR、楽器は gaQki となる。gakkō なんかよりこちらのほうをつかえばいいのにと思うのだが、まあ一度定着してしまったものは害があっても中々引っ込められないのだろう。大文字と小文字が混ざっている点もちょっと不便だし。
 これらの特殊モーラ記号が「特殊音素」とも呼ばれているのを見たことがあるが、Rは果たして音素と言えるかどうか疑問だ。音価というものがないからである。強いて言えばIPAの補助記号 [ : ] だろうが元の音なしの補助記号だけではいくらなんでも音素とは言えまい。そもそも [ : ] は子音につければ長子音を表すのだから(「学校」はIPAでは gak:o: になる)下手をすると促音と同じになってしまう。だからRはあくまで特殊モーラであって特殊音素ではないが、それに対してQとNは本当に音素だ。まず「っ」は厳密に見れば決して長子音などではなく、れっきとした音価があるからだ。声門閉鎖音である(IPAで[?])。「勝って」や「学校」をものすごくゆっくり発音してみろと言われれば少なくとも私は [kat::e] や [gak::oo] にはならない。「勝って」でいえば「か」のあと舌は完全に t の調音点の歯茎から離れて宙に浮く。その間に声門閉鎖が入って、舌が歯茎に触れる、つまりt の調音を開始するのはやっとそれからである。「学校」のほうは k の調音点が奥の方にあるから(軟口蓋)自分で自覚しにくいが、喉ぼとけのあたりに力が入っているのだけは感じられる。声門が閉鎖しているのだろう。k の発音の際は喉ぼとけの緊張が緩むのがはっきり感じられる。ということはt の場合と同様、k の調音が開始されるのは「っ」が終わってからということだ。この、声門から軟口蓋への調音点の移動は「ロンドンっ子」と言ってみるともっとはっきり自覚できる。「っ」にはそれ自身の音価がある。決して長子音などではない。長子音で発音されるとしたら、それはあくまで [?] のアロフォンとしてである。
 次に「ん」だが、不幸なことに n とローマ字表記されるので、英語をカタカナ読みする如く、日本語をローマ字読みで独学した人たちが歯茎閉鎖で発音しやがるからウザくてしかたがない。「ロンドンへ」が「ロンドンね」、上でも書いたように「本を」が「本の」になる。「健一」は「ケニチ」である。「ん」の調音点は口蓋垂だ。n の歯茎とはあまりにも調音点が離れすぎている。「本を」、ho-N-o というとき、最初の母音 o を発音した時点で口が大開きになるが、次の N ではその大開きの口のまま、舌の位置も全然移動しないまま、つまり口腔内では何事も起こらないまま、奥の方の口蓋垂が下降して空気を鼻腔に送り、次にその口蓋垂の遮断機が上がり、空気が前の母音の形のままスタンバイしている口腔を通って外に出る。繰り返すがその際口腔内では何も動かない。後ろの口蓋垂が下がって上がるだけだ。ところがローマ字頭の人は「ん」を n だと勘違いしているから二つの母音の間で唐突に舌を動かし歯茎につける。聞いている日本人はどうしてそんな、せっかく口腔が平和に休んでいるところに関係ない音がいきなり侵入してくるのかわからない。明治神宮の森でヒクイドリに遭遇したかの如き違和感がある。「ん」N の音価は「なにぬねの」の n とは全く違うのだとこれも最初に釘を刺しておかないとそれこそヒクイドリだらけの日本語になり、ウザいを通り越してコミュニケーションに支障が出る。「本を」と「本の」では意味が全然違うし、「ケニチ」から健一を再構築するなど普通の日本人はできないからだ。

 「ん」(N)は「シラブル形成ソナント」と名付けることもできよう。この記事の始めのほうで出した Trnka  の r もその一例だが、その他にも例えばドイツ語の bleiben (「留まる」)はゆっくり発音すると [blaɪ-bən] だが会話ではしばしば [blaɪ-m̩] になる。m の下のほうにくっついた点はソナントの m がシラブルであるという意味だ。だから「ん」もモーラ形成の子音・ソナントと考えて N̩ とすればモーラなどという観念を持ち出さなくても単なるシラブルとして説明できないこともない。Rにしても普通の母音隣接だと解釈してしまえばまあシラブル解釈でやっていけないこともない。が、「っ」はそうは行かない。どう転んでも  [?]  がシラブルを作ることなど不可能だ。「シラブル」だけでは日本語の発音を教えることはできないのである。それあるに上の言語学事典をみたら、シラブルについては何ページも割いて記述しているのに「モーラ」については項そのものさえない。数行でいいからせめて項くらい作ってほしかった。

 もちろん物理的に器具で測定すればあらゆるモーラが全部ぴったり同じ長さになるわけではない。上で出した音声実験もその意図は「モーラが皆一定の同じ長さであるという前提は間違いで、測定してみると結構バラバラだ」と示すことであった。シラブルが「実験音声学で確定するのは不可能」(上述)なのと同様、モーラも純粋に客観的に実験で抽出することはできないのだろう。しかしこれもシラブルと同様、話者の脳内には存在しているのである。こういうのが一番やっかいなのだ。
 さらに日本語内でもモーラという観念を知らず、本当にシラブルだけで発音している方言がある。これを「シラビーム方言」と呼んでいる。だからと言ってモーラなんて無視していいということにはならない。モーラ方言の方が大多数だし、標準語発音の元になった東京方言もモーラ方言だからである。
 片仮名と平仮名は原則として1字1モーラだが、拗音は1モーラを2字で表す。これにつられて2モーラ発音してしまう人も多い。ドイツ人は特に子音の口蓋化が苦手なのか、口蓋化しろと言うとうしろに母音の i を入れるか(日本人が子音だけの発音ができず、 und(and)が unto になるとかいって笑えませんな)、子音が妙に伸びて「病院」が「美容院」になる。文字につられているだけかもしれないが、発音そのものも苦手なようだ。これも訂正するとまたしても揚げ足取り扱いを受けるので、「あなた、日本で大怪我したらどうする気ですか?「病院に連れてってくれ」と言ったつもりが美容院に来ちゃったら命にかかわりますよ?」と釘を刺す。こういう調子で常に抗議とそれに対するカウンターの連続なのでだんだん戦争でもやっている気分になってくる(嘘)。音声学を特に専攻していなくて、本来発音に対してはあまりうるさくないはずの私でさえ戦争になるのだから、本チャンの音声学者が日本語を教えたら最後まで発音練習で終わってしまい、ついに文法には進めなかったということになりそうだ。まあ考えようによれば(いわゆる「語学」(『34.語学と言語学の違い』参照)の人は絶対そうは考えないだろうが)、まともな発音もできなかったらどうせ通じないのだから文法なんかやっても無駄、ということなのだろう。そういう考え方もアリだとは思う。怖いが。

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 今を去る〇十年前、観光旅行でなく初めてドイツに「滞在」したのは9月始めからだったが、最初何週間か太陽光線が嫌に強い感じがした。何というか、太陽が妙にギラついていて日本のようにカッと全体的に照りつけるのでなく、レーザー光線のようにピンポイント攻撃してくる感じなのだ。気のせいかとも思ったのだが、その時サハラ以南の国から来たアフリカ人も「どうもここは陽の光が強いな」と言っていたのを今でも覚えている。赤道直下のアフリカ人に太陽光線が強いと驚かれたら相当終わっていると思うが、とにかくあながち私の気のせいでもなかったようだ。ドイツは日本よりずっと降水量が少ないからその所為だろうと解釈しているうちに体も慣れたらしく、気にならなくなった。
 しかしもう一つ気付いたことがある。なんとなく雲の位置が低い感じなのだ。もちろん雲にもいろいろ種類があるが、日本だったらこの形の雲はもっと高いところにあるんじゃないかというのが頭のすぐ上をたなびいている。天気もとても変わりやすい。日本なら細かい変動はあるにせよ、夏の間はずっと暑く、冬の間は寒い。一旦雨もよいの天気になればまあ2・3日、少なくともその日一日くらいはグジグジしている。それがこちらでは夏でも冬でも一日のうちに10℃くらい気温が変動することもザラだ。天気も一日で猫の目みたいに変わる。日本では雨のあと日が照っても周りの空気や湿っぽいが、こちらは雨の直後でも晴れれば速攻で空気も乾く。おかしな連想だが、まるで「山の天気」なのだ。
 まだある。こちらでは日の出と日の入りの際、日本みたいに太陽が赤くならない。太陽ばかりでなく、周りの雲や空があまり赤く染まらない。もちろん太陽が地平線と接するくらい低いときはさすがに赤っぽくなるが、日本ではそれより高度がずっと高いところですでに太陽も周りも空も赤い。赤いから光線も弱い。こちらは早朝や夕方など、太陽の高度が相当低いのにかかわらず真昼時のような光線を放っていて、非常にまぶしい。今でもこの時間帯の太陽光線攻撃には閉口する。顔にまっすぐ強力な懐中電灯でもあてられている雰囲気だ。情緒というものがない。日本では太陽の色は赤なのに欧州では太陽は黄色で表されるのはこんなところにも原因があるのかもしれない。
 私はつい最近までこれらも要は湿度の差のせいだと思っていた。空気中を漂う水の分子の数が多ければそれだけ光線は進路を邪魔されるはずだなふふんと勝手に納得していたのである。しかしよく考えてみると、東京の冬のカラカラ天気での湿度だって負けずに低いはずだ。それなのに東京の太陽はこんなギラギラ攻撃をしなかった。冬も早朝は太陽は赤く、夕方はそれ以上に赤くなって沈んでいった。なぜだ。
 これを私はドイツの夏と日本の冬では太陽の軌道や頂点の位置が全く違うのだから単純比較はできない、と解釈した。つまり「湿度のせい」で間違いはないのだと。

 今までずっとそう思ってきたところ、ある日見る気もなくボーッと見ていたTVで「もし地球が自転をしなかったらどうなるか」とかいう、子供向け理科教室のような話をしていて、その結果の一つとして「赤道近くの高山にいる住民、アンデスの住民などは息ができなくなる。あそこで4~5000mの高さでも空気があるのは赤道付近では遠心力で大気の層が伸びて厚くなっているからだ」と言っているのを聞いて、「ひょっとして太陽ギラギラの原因はこれか?!」とひらめいたのである。
 東京は千代田区で北緯35度41分、フランクフルトが北緯50度6分だ。そもそもこの緯度というのが一筋縄では行かず、遠心力で地球も楕円になっているから、赤道との角度で決めるか、地球の重心も考慮に入れるかなどでいろいろ違ってくるから細かく言えばキリがないが、これらの数字はもちろんシンプルに地理緯度のことである。とにかく石のように難い地球が変形するくらいだからその周りの気体はさらに甚だしい楕円形になっているはずだ。面倒だから地球を完全な球と見ることにすると、楕円形の中に球体が入っていることになり、赤道辺りは最も空気層が厚く、緯度が高くなるにつれて大気層も薄くなる。層が薄くなれば紫外線もそれだけ邪魔されずに突入し、しかも途中で散らされないからまっすぐ走って来る。太陽の高度が下がっても、低緯度の地域より空気層が薄いから波長の短い光線も生き残り、あまり赤くならない。これで説明がつくような気がしたのだ。北緯35度の日本人が感じるくらいだから0度の空気に慣れた人はさらに違いを感じるはずだ。
 また空気層が薄いということは天井も低いことになる、つまり緯度が低いと天井が高く、緯度が高い地点は天井が低いわけだから、日本で高いところを飛んでいる雲がドイツでは高度が落ちている(感じがした)説明もつく。さらに天井の高い部屋は換気に時間がかかるが、低いと空気の入れ替えもずっと早くできる。天気の変わるスピードの違いはそれではないのか。
 もちろん空気の層は薄くても重力と遠心力のバランスが緯度で変わるわけではないから、同じような海抜にいる人の頭上の気圧は変わらない。太陽光線は強いが空気そのものが薄いとは感じなかったのはそのせいだろう。その点で気圧が実際に低くなる「山の天気」とは異なる。
 これらを我ながら自己嫌悪に堪えないレベルの稚拙な図にするとこうなる。家に分度器などというものがないのでテキトーに目で角度をつけた。
hokui35-50
 しかし「そうかこれでわかったぞ」という私のバンザイ気分に水をさす大きな疑問がある。東京はすでに既に結構北の方にあるし、フランクフルトも別にそれほど北にあるわけではない、たかがハバロフスク程度である。つまり東京とフランクフルトの緯度差なんてちっぽけなもんだということだ。上の図では極端に描いたが、大気層の伸びる距離など地球の大きさと比べたら屁のようなものに違いない。そんな極小差をこの鈍感な私が感じ取れるものなのか非常に疑問だ。ひょっとしたら本当にあっさり湿度の問題だけだったのかもしれない。そのアフリカ人も空気が大して暑くないくせに陽だけは生意気にギラギラ照っていたから光線が強いように錯覚しただけかもしれない。つまり「単なる気のせい」という可能性が捨てきれない。
 この疑問に決着をつけるには北緯36度と50度地点での地球の回転速度と中心からの距離を(厳密にいえばこれも違っているはずだ)調べて遠心力を計算しさらにそれによって空気層が何メートル伸びるか導き出さないといけない。500mくらいでは人間には差が感じられないだろうから「気のせい」あるいは「原因は他にある」ということになろうが、その前にそんな計算をするにはどこから手をつけてどうやったらいいのかが全くわからないのでこれ以上は勘弁してもらいたい。楕円をドイツ語や英語で Ellipse というが、この語はギリシャ語の ἔλλειψις から来ている、実はそもそもそういう話がしたいばかりに話を振っただけなのである。
 ἔλλειψις は本来不足とか不完全とかいう意味で、「細長い」という意味はないから字義通り訳すとしたらEllipse は楕円と言うより欠円だろう。「駄円」とまで言ってしまったら行き過ぎだが。もちろん専門用語などは元の原語に義理立てする必要もないから日本語の造語として「楕円」でもちろんOKで、文句をつけるつもりなど全くない。

 この ἔλλειψις が実は言語学のほうにも使われている。これも『148.同化と異化』で出したような語と同様、自然科学と人文科学の用語が交差している例だろう。言語学では「省略」という専門用語になる。ドイツ語では楕円も省略も同じくEllipse というが、英語では紛らわしいためか楕円は Ellipse、省略は Ellipsis と少し語形を変えている。ちょっと手元の言語学事典を引いてみたら、このEllipseの項では様々な言語学者の様々な定義などが紹介され、説明にベッタリ2ページも割いてあったので驚いた。例としては Wo warst du gestern? In Bonn. (「昨日どこに行ってたんだ?ボン。」)などの文が挙がっている(太字が省略文)。
 私はずっと長い間、この「省略」という観念を、「もとは完全であった文、つまり文の構成要素が全部律儀に埋まっていた文から、文脈から類推できる構成要素が取り外されてできた形」と理解していた。例えば次のような全てガンガンに埋まっているような文が「元」なのだと思っていたのである。その元の形が発話状況によって欠損するのだと。

山田さんが東京へ行きます。

この文が「誰が東京へ行きますか」という問いの答えとして発話される場合普通「東京へ」は省略される。

山田さんがØ行きます。

頭の中には全ての成分が埋まっている完全な文が出来ていたが、発話の過程で「これはいらんだろ」という成分が切り捨てられる、言い換えると東京へ→Øという流れだ。上の言語学事典にも省略文が現れる条件として当該要素が rekonstruierbar(再現可能)であること 書いてある。東京へ→Ø→ 東京へという図だ。後半のØ→ 東京という部分は聞き手が行うわけだ。
  そもそも「完全な文」とは何ぞやということだが、文の必須要素、動詞のバレンツ要素が全部満たされているのが「完全な文」ということになろう。例えば次の文だ。

山田さんが田中さんに花をあげた。

ここでは動詞「あげる」のバレンツ価は3(主格、対格、与格)だが、これが飽和状態だから安定している。このうちのどれかがないと、文脈の助けがない限り文は不安定となる。何もないところからいきなり

山田さんが花をあげました。

と言われるとつい「誰に?」と聞きたくなるのは与格が「あげる」という動詞の必須構成要素だからだ。バレンツ要素が埋まっていないと「いきなり文」は座りが悪い。再現できないからだ。
 なお、自動詞だからと言ってバレンツ価が1(つまり主格のみ)とは限らない。「行く」は自動詞だが、バレンツ価は2である。主格の他に向格(『152.Noとしか言えない見本』参照)が必須だからだ。

山田さんが行きました。

と突然いわれれば、普通の人は「何処に?」と聞き返す。
 だから「完全な文」とは動詞のバレンツが飽和した状態の文、省略文とはバレンツ要素のどれかが削除された文と定義できる。言い換えると「省略」とは飽和文との差のことだ。始めの方で挙げた文の「東京へ」は向格の必須要素だから、この部分が消えているのは当然「省略」と名付けることができる。
 しかし飽和文にはさらに付随要素がくっ付くことができるので注意がいる。共格や動作処格、具格をバレンツとして持っている動詞はない。これらは皆オプションでついているのだ。

山田さんが道端で田中さんに花をあげた。
佐藤さんが地下鉄で東京に行った。

などの「道端で」「地下鉄で」はなくても誰も困らないし、「山田さんが田中さんに花をあげた」と言われても普通特に「何処で?」などと聞いたりしない。これらが拡張要素で文の格となる動詞のバレンツには属していないからだ。「明日」「2月29日に」などの時間表現も任意である。「完全な文」のメンバーではないから、これが消されていても省略ではないことになる。だから「山田さんは明日何で東京へ行きますか?」という問いに

地下鉄で行きます。

と答えたら「東京へ」と「山田さんが」がないのは省略だが、「明日」が消えているのは省略ではないという理屈になる。また同じ問いに

山田さんは地下鉄で東京へ行きます。

というウザい答え方をしたら、「明日」が抜けているのにこれは省略文ではないとしなければいけない。
 
 上でも述べたように私は以前このバレンツ飽和文が出発点で、発話の過程で文脈から見て自明な要素が削除されるのが省略文だと思っていた。それが「あれ、実は逆かな」と最初に思い始めたのは、昔周りの英語学専攻の人たちがやっていた変形生成文法とやらをチラ見したときである。生成文法といってもごく初期の非常に原始的なやつだが(新しいバージョンは難しすぎてよくわかりません)、そこではまず頭の中に作られるのは文法の枠組み、抽象的なセンテンス構造であって、その構成要素はいわばカラの箱だ。その箱に中身を入れる、つまり具体的な単語があてがわれるのは文の生成の最後の段階である。つまり省略文とはもともとあったものが消えたのではなく、文が生焼け(?)のまま出て来てしまったものだという理屈になる。そういえば生成文法系の論文で「構成要素が全部埋まった完全な文」のことを a full-fledged sentence と呼んでいるのを見たことがある。省略文にはまだ全部羽が生えそろっていないのだ。さらに変な譬えだが、半旗のように一旦上まで完全に挙げてから下ろすのではなく、旗が上がる途中で止まっちゃったというイメージ。だから省略されたのは語のほうではなく、語を文のしかるべきシンタクス位置に当てはめるというプロセスそのものである。上の例で言えば「東京へ」がØで代用されたのではなく、Ø が「東京へ」で代用されなかった、という流れだ。上で出したような東京へ→Ø→ 東京へという図式にはならず、前半の東京へ→Ø という部分は最初から存在せず、話者は聞き手に丸投げしているのである。どうもそう考えたほうがいいような気がする。
 なぜなら動詞のバレンツ要素のほうでなくその上位の動詞そのものが出てこないことなどもザラだからだ。上述の事典の例をあげる。
 
Einen schwarzen (Kaffee möchte ich, bitte).
ブラック(コーヒーをお願いします)

Jeden Tag (passiert) ein Streit!
毎日悶着(が起きる)。

バレンツ要素なら再構築が比較的容易だが、動詞が抜けると本来意図していたのと違う動詞が再建される危険性が増す。最初の文も… Kaffee möchte ich, bitte でなく… Kaffee bringen Sie mir, bitte(「(ブラック)コーヒーを持ってきてください」と聞き手が解釈するかもしれない。さらに埋め込み分がスッポリ抜けることもまれではない。ネットで拾った例だが、下の und ob (「って」)というのが省略文だがここで省略されているのは何か。

Hat Liverpool je gegen die SGD (= Dynamo Dresden) gespielt? Und ob, zum Beispiel 1973 und 76 in der Europa League […] oder 1977 in der Champions League […].
リバプールはSGD(ディナモ・ドレースデン)と対戦したことあんの?って、例えば1973年と76年のヨーロッパリーグ(…)とか1977年にチャンピオンズリーグ (…)とか。

省略なしの形は Und ob Liverpool je gegen die SGD gespielt hat(「リバプールがSDGと対戦したことあるのかってあんた」)だが、実はまだこれでも完全な文ではない。これ自体も埋め込み文、つまり文の一部なわけだから、そのまた上位の主文があるはずだ。無理やり再建してみよう。Und ob Liverpool je gegen die SGD gespielt hat, fragst du mich! (「リバプールは SGD(ディナモ・ドレースデン)と対戦したことあんの?ってあんた私に聞くし!」)または Und ob Liverpool je gegen die SGD gespielt hat, weißt du nicht?! (「リバプールは SGD(ディナモ・ドレースデン)と対戦したことあんの?ってあんた知らないの?!」)ということになろうか。
 話者がこんなにデカい要素を一旦心の中で語まで含めて全部構築しておいてから、そのせっかく代入した語を発話の過程で「これは言わなくてもわかるだろう」と改めて抜いたのでは手間も時間も無駄すぎる。シンタクスの枠組みだけ暗示して、語の代入は相手に丸投げした方が早いし、相手にとってもそんなものはお安い御用だ。会話の中で文構造や指示対象などのお膳立てはすでに出来ているからだ。多少の自由裁量もコミュニケーションに支障はもたらさない。
 さらにこんな状況を考えてみよう。例えば自分の机の上に未知の郵便物が置いてあるのを発見したとき人は何というだろうか。

これは?

この発話で最も重要なのはまさにスッポ抜けた「何ですか?」という部分である。また周りに指示対象物が見当たらないのに「これ」の代わりに「あれは?」という質問を発したら日本人は普通「どうなりました?」「どうなっているんですか?」が省略されていると感じる。「山田さんは?」という振り出しだと「何処ですか?」「来ましたか?」などという解釈が自然だが、「田中さんは任天堂の社員です。山田さんは?」と聞かれれば「もうすぐ来ます」などと答える人はいない。「ソニーです」と言うだろう。

 とにかく省略を適切に行うには比較的高度な言語能力が必要だ。昔、「言語学」という学問分野がまだなかったころは省略のテクが修辞学で扱われる一分野だった(現在でもそうだが)のもうなずける。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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