アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

März 2024

 記事を二つ一時非公開にしました。目次の当該箇所をクリックすると「このブログは存在しません」とかいう恐ろしいメッセージが出て自分でもビビりますが、単に引っ込めただけで削除はしていません。

63.首相、あなたのせいですよ!
161.雨上がりのジャンゴ

 別にヤバいことが書いてあったわけではなく、以下の事情によります。
 今まではブログ元のライブドアがJASRACと契約を結んでいて、JASRACが著作権を管理している作品は歌詞が引用できました。4月1日に(エイプリル・フールかよ)その契約が切れるそうで、歌の歌詞などを引用している記事は著作権違法になる可能性があります。上の記事では『続・荒野の用心棒』のテーマ曲の歌詞を数行引用しそれに分析まで付け加えていたんで念のため引っ込めます。

JASRAC委託作品のリストをみたら本当にLuis Enrique BACALOV(z が抜けてる気がしますが)の Django がしっかり載っていたんで驚愕しました。JASRAC怖い… うっかり公開し続けて著作権違反と判断され、罰金を取られたりしたら恐ろしいので引いた方が無難と判断しました。誰も見てないこんな辺境ブログの、しかも一部のフリークしか知らないような歌の歌詞のそのまたほんの一部くらい大丈夫なんじゃないかとは思ったんですが、念のため。

というわけで、そのうちこれくらいなら著作権に触れないとはっきりするか、あるいは件の記事を変更するかしたら再公開するつもりです。(って誰も読みたくないでしょうが、こんな記事)

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 私はリアルタイムで覚えている(とかバラすと年がバレる)のだが昔『子連れ狼』という劇画があった。水鴎流の達人拝一刀の陰惨な復讐劇だが、最終回でその一刀が深手を負ったまま宿敵柳生烈堂と対決し、とうとう力尽きて倒れたあと、三歳の息子大五郎が脇に落ちていた槍をとって烈堂に突進し、腹に一突き入れる。烈堂はそれを避けることなく両手を広げて自分の腹を突かせ、あまっさえそこで大五郎を槍ごと抱きしめて切先をさらに深く自分の体に突き入れるのである。その際烈堂は大五郎に向かって「我が孫よ」というのだが、この意味については二通りの解釈がある。一つ目は「大五郎は実は烈堂の孫だった」というもので、一刀の妻薊が烈堂の娘ということになるが、私は個人的にちょっと無理がありすぎると思っている。そうだとすると烈堂が自分の娘を惨殺させたということになるからだ。もちろん「草」と呼ばれる柳生配下の忍びの者のその後の行動をみれば自分の子を殺すくらいやるだろうとは思うが、一方で烈堂は自分の子供たちはそれなりに皆可愛がっており、臨月の実の娘の斬殺までやるかというと疑問が残る。宿敵拝一刀などの所に嫁いだ罰だというのなら、じゃあなぜそもそも娘をそんなところに嫁にやったのか解せない。念のためこの際原作28巻をすべて読んでみたが、「薊は烈堂の娘」などとは暗示さえする場面もない。この解釈はどうも根拠がないと思う。もう一つの解釈は不倶戴天の敵同士とはいえ一刀と烈堂は腕でも根性でも同等なので、烈堂は一刀を自分の息子と見なし、その子大五郎を孫と呼んだというもの。大雑把にはしょると「敵ながらあっぱれ」という烈堂から死んだ一刀に向けてのメッセージだ。私は自然にこちらの解釈をとった。もっとも技量と精神力は同等かもしれないが、その行動・目的にブレなく心に曇りなく、生き方もストイックな点で人間としては一刀のほうが上だろう。ひょっとしたら烈堂もその点で敗北を感じたから自分の腹に槍を突きさせたのかもしれない。
 その一刀は片手に大五郎を抱いてキメたポーズが有名だが、その際常に左手で子を抱いているのがさすがだ。そういえば野球のピッチャーも子供を抱き上げるときは必ず球を投げないほう、つまり利き腕ではないほうで抱いたそうだが、それと同じだろう。剣を持たないほうの手で子を抱くのである。

拝一刀と言えば何といってもこのポーズ。必ず左手で子供を抱く。
小池一夫・小島剛夕、1972~1976年、『子連れ狼』、第8巻、66ページ、東京:双葉社

8-66

同第13巻、92ページ
13-92

『子連れ狼』の最終回を読んでいる時読者はほとんど全員こういう気持ちでいたに違いない。
同第28巻、151ページ
28-151
 もうひとつ「我が孫よ」で気になるのはそこで使われている不変化詞「よ」である。前に日本語の格は13あると書いたが(『152.Noとしか言えない見本』参照)、実はその時不変化詞「よ」を付加して表される「ブルータスよ」などの形を「呼格」として一つの格と見るべき、つまり「よ」を格助詞とみるべきなのではないかと迷った。最終的には否定の方に傾いたのだが、完全にズバッと却下できたわけではない。この機会にちょっと見直してみたい。
 まず「よ」も他の格助詞も頻繁に省略はされる。されるのだがされた際のニュアンスに大きな違いがある。例えば

山田さん来た!
山田さん来た!

あるいは

もうその本読みましたか?
もうその本読みましたか?

のどちらがそれぞれ「正しいか」と聞けば皆最初の方だと答えるだろう。二番目の文では本来あるべきものが省略されていることを明確に感じるのだ、それに対し

ブルータス、お前もか。
ブルータス、お前もか。

のどちらの文が「正しいか」という質問に最初の文の方が正しいと答える人はあまりいまい。「どちらも正しい」「この二つの文はそもそもニュアンスが違うから正しい正しくないなどとは決められない」などという答えが返ってくると思う。ではどんな「ニュアンスの差」かというとこれも割と簡単で、「よ」は明らかに文語調である。だから「烈堂よ、お主も老いたな」とは言えるが「山田さんよ、あなたも年を取りましたね」とは言えない。また下でも述べるように口語の「おいおいお前よぉ」の「よぉ」とこの疑似呼格「よ」とは別単語であると私は思っている。
 そういえば『子連れ狼』は当時萬屋錦之介主演でTVシリーズ化されたが、その最終回での烈堂のセリフは「おお、我が孫よ」といって感嘆詞がついていた。この感嘆詞はあくまで「おお」であって「おう」ではない。「おお」と「おう」では発音は全く同じだが、ニュアンス的に明確な差があり「おお」の方が格調が高い。だから「おう、我が孫よ」だとおかしいし、逆に「おお、この桜吹雪が見えねえか」は文体的にギクシャクしている。「おう、この桜吹雪が見えねえか」でないと座りが悪い。

 この、名詞につく「よ」は文語的というのが第一の注意点だが、口語文法では時々終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」を分けている。「我が孫よ」の「よ」は間投助詞だ。辞書によっては終助詞の「よ」でも間投助詞の「よ」でも「文末の種々の語に付く」と全く同じ説明がしてあってイライラする。終助詞は動詞形容詞の終止形、間投助詞は名詞につくとズバリと言いきっていけないことはないと思うが(中に間投助詞の例として 「君だよ、そこの君。」という文をあげているのがあった。こういうRight Dislocationを持ち出すのは反則だろうし、そもそも「君だよ」の「よ」はコピュラの終止形についているから終助詞ではないのか)、とにかく「よ」ではNPに付くのとCP(またはS)レベルにつくのを区別する。いわゆる体言止めの文でもCPと見なす。たとえば次の文ではそれぞれ二番目の文で動詞に「の」がついて文全体が名詞化されているのでウルサク言えば名詞に接続しているはずだが間投助詞ではなく終助詞とみなす。

昨日東京に行ったよ。
昨日東京に行ったよ。

山田さんは馬鹿だよ。
山田さんは馬鹿なよ。

ここで「山田さんは馬鹿よ」という場合は「馬鹿」の品詞が違う。「馬鹿なのよ」馬鹿はナ形容詞だが、「馬鹿よ」の馬鹿は「馬鹿者」という意味の名詞である。「馬鹿だよ」についてはナ形容詞、名詞の二通りの解釈が可能だ。
 つまり間投助詞は文語時代には普通に使われていたが口語では廃れてしまい、それを使った表現はいわば有標、それに対して終助詞の「よ」は完全に口語体系内に根を下ろしているということになる。それが証拠に終助詞の「よ」を使うと間投助詞の「よ」と逆に格調が下がるのだ。

間投助詞
ブルータス、お前もか。
終助詞
ブルータス、お前もか

だから「ブルータスよ、そなたもか」とは言えるが「ブルータス、そなたもかよ」とは言えない。「ブルータスよ、お前もかよ」は「よ」が二回ついてウザいという以前に二つの「よ」が文体的に相反して互いに排斥しあうのでやはりNGである。
 終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」はシンタクスの面でも機能の面でも異なり、しかも相互排除しあうという点で、完全に別単語だ。さらに「ブルータスよぅ、お前もか」の「よぅ」はそもそも助詞ではなく感嘆詞だろう。「よぅ、ブルータス」の「よぅ」が後置されたものだと思う。文の品が急降下するが「ブルータスよぅ、お前もかよ」という文は問題なく成り立つ。感嘆詞の「よぅ」と間投助詞の「よ」が文体レベルで同類項だからだ。ここでは最後の「よ」は助詞だが、「ブルータスよぅ、お前もかよぅ」だと最後の「よぅ」は感嘆詞で、シンタクス構造が違う。とにかく終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」、感嘆詞の「よ(ぅ)」は別単語であろう。

 さて上述のように文語では間投助詞の「よ」が普通に(つまり無標表現として)使われていたのなら、では文語には「格としての呼格」があったと見なすべきだろうか。例えばロシア語で oh my god を боже мой というが、この боже という形は「神」бог の呼格形だ。ロシア語では語形変化のパラダイムとしての呼格は失われてしまったが、昔あった呼格の名残がまだそこここに残っているのであるわけだ。現代日本語の「よ」もそんな感じなのだろうか。だがこればかりはネイティブを捕まえてその言語感覚にたよるほかはない。つぎの文のどちらが「正しい」と感ずるか、昔の人に聞いてみるしかないのである。

少納言。直衣着たりつらんは、いづら。
少納言、直衣着たりつらんは、いづら。

そこで相手が最初の文が本来正しいと答えたら呼格の存在が濃厚、単なるニュアンスの差と答えたら「よ」は単なる間投助詞ということになろうが、何といっても文語のネイティブはとっくに死に絶えているから調査のしようがない。私はどうも昔の人も今と同様「ニュアンスの差」と答えるような気がするのだが、それはあくまで私の勝手なフィーリングである。
  そのようなわけで私は口語でも文語でも、つまり日本語には呼格という格はない、という見解に傾いてはいるのだが、一つ引っかかる点がある、文語には「よ」という正真正銘の格助詞が存在したということだ。現在の「より」と同じく奪格を表していたが、上代では具格も引き受けていた。今でいう「で」である。

浅小竹原腰なづむ空は行かず足行くな

奪格や具格と呼格では機能が違いすぎるし、いくら形が同じだからと言って間投助詞の「よ」と格助詞の「よ」を同単語あるいは同起源と見るのは乱暴すぎるだろう。第一呼格が吸収される場合は(少なくとも印欧語に限っては)例外なく主格が呼格を飲み込む。対格や奪格、具格などの斜格が呼格を吸収した例はない。斜格が呼格の機能を担うようになるなど前代未聞である。しかし奪格・具格の「よ」とは完全に別単語ならそれでもいいから、間投助詞の「よ」のほうもほうとしてひょっとして太古の昔は何らかの格意識を担っていたりはしなかったのかな、という想いが心の隅の隅でまだしつこく燻っている。もっともそれを言い出すと格とは何ぞや、日本語にそもそも格はあるのかという大問題に発展しそうで私の手に負えなくなるだろうから、あまりこれ以上つつかずにそのまま燻っていて貰うほうが無難だが。

 「我が孫よ」の考察が一段落したところで本題の『子連れ狼』に戻るが、この作品が漫画アクションに連載されていたのは1970年から1976年まで。日本映画界が崩壊し、黒澤明が自殺未遂にまで追い込まれ、そこからまた立ち直って『デルス・ウザーラ』を撮った時期と重なる。
 黒澤監督は漫画を嫌い「手塚治虫以外の漫画は子供には読ますな。特に少女漫画はいけない」と言っていたそうだ(当時の分類に従えば『子連れ狼』は「漫画」ではなく「劇画」だが)。またテレビへの対抗処置として手っ取り早く観客をおびき寄せるため「性と暴力」路線に墜ちてかえって崩壊の速度を高めた当時の映画界とは「断固戦う」とまで言明していたくらいだから、監督が『子連れ狼』の原作を読んでいたということはないだろう。いわんや監督がこの作品の「ファン」だったなどとは絶対あり得ないと思っている。一方また監督も家でTVそのものは結構見ていたようだし、晩年はジブリのアニメなども好きだったらしいので、萬屋の『子連れ狼』のほうは見ていたかも、少なくともこの作品は知っていたかもしれない。
 なぜ私がここまで黒澤明が『子連れ狼』を見た見ないにこだわるかと言うと、実は私は『乱』の一文字秀虎を見てつい柳生烈堂を思い出してしまったからである。そりゃあ妄想がひどすぎると言われればまあそうかもしれないが、逆方向、黒澤から『子連れ狼』への影響のほうははっきりしている。例えば第11巻の十三弦というエピソードでは困窮して当然標準価格の一殺五百両など出せない百姓の頼みを一膳の飯で引き受ける。『七人の侍』そのものだ。この一刀というキャラは生きざまと言い、死にざまと言い、冷酷なようで実は非常に慈悲深い人格と言い、そもそも拝一刀などという名前と言い、文句のつけようがないまさに理想の侍ではないだろうか。『七人の侍』の久蔵をベースに『隠し砦の三悪人』の真壁六郎太を小さじ一杯ほど加え凄みを効かせたような感じ。ただ黒澤はその理想の侍を「刺客」という設定にすることは絶対あるまい。黒澤のヤクザ嫌い、無法者嫌いは有名だ。
 もうひとつ黒澤映画の侍たちと違うのはその死に方だろう。黒澤は理想の侍を銃で死なせた。監督自身「野武士との斬りあいなどで殺させたくはなかった。道端で惨めた死にざまを晒させたくなかった。バーンと撃たれて死んだ方が潔い」と言っていたそうだ。潔く花と散る散華の死に方をさせたかったと。子連れ狼・拝一刀の死に場所はさすがに「道端」などではなかったが延々と続く斬り合いで血を流し、いわばボロボロになりながらも最後まで倒れずに立ったまま死ぬ。確かに凄惨すぎて「花と散る」というイメージではない。一方これはあくまで私の個人的な考えだが、せっかく剣で鍛えたのに結局は飛び道具でイチコロという展開より侍は侍らしく剣で死ぬ方がむしろ散華と言えるのではないだろうか。自分が斬り殺されるわけではないから無責任なことを言って恐縮だが。
 とにかく『子連れ狼』を読んでいると他にも黒澤の時代劇のあの場面・この場面がチラチラする。例えば第3巻16話では千秋実と稲葉義男(『七人の侍』)と藤田進(『隠し砦の三悪人』)を合計して3で割ったような感じの侍が一刀に「刺客なんかを止めろ」と説く。もっともこれらは小池一夫(原作)あるいは小島剛夕(画)が意識的に借用したというより(上述の一膳の飯の場面だけは意識的だろうが)、時代劇を作ろうと思ったら黒澤映画を避けて通ることはできなかったといったほうがいいだろう。何をどう描写しようが黒澤時代劇の中に似たようなキャラが見つかってしまうのである。そういえば『子連れ狼』の連載が始まる前年、1969年には『七人の侍』などの黒澤作品が初めてTV放映もされているから劇場公開で見逃してこの時初めて見たという人も多かったに違いない。
 またこれは徹底的にどうでもいい話だが、小島剛夕は黒澤がただ一人「読むに足る漫画家」と認めた手塚治虫と誕生日が全く同じなんだそうだ。

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