同じ語や形態素、シラブルなどを二回繰り返して意味を強調するという文体上の作戦はどの言語にもある。例えば日本語では「うわっ、こりゃ危ない危ない」、「山田さん、怒った怒った」など。シンタクス機能も含めて単語を丸ごと繰り返すもので、語の反復というより発話の反復といったほうがいいかもしれない。これはどちらかというとくだけた口語文脈で使われることが多いのではないだろうか。前者では「危ない」の代わりに「危ねえ」と言った方がマッチする感じ。もし文章で使われるとしたら主に口承文学、童話や昔話など「語りかけ」の要素が強いジャンルでだ。「ジャックが種を蒔くと豆の木は大きく大きくなりました」、「おじいさんが捕まえた魚はきれいなきれいな金の魚でした」など語尾も「ですます」のほうが合う。これをモロ文章体にして「おじいさんが捕まえた魚はきれいなきれいな金の魚だった」とやるとあきらかに座りが悪い。
ロシア語で「とても悲しい」を грусно- грусно と「悲しい」を二つ重ねているのをみたことがある。これも確か童話のテキストだった記憶があるので日本語の「きれいなきれいな」と同じメカニズムかと思うが、よく見てみるとこれはあくまで単語あるいは語幹の繰り返しで、発話の反復とは質が違う。だからなのか大人用の(?)文学でも頻繁に見かける。『33.サインはV』参照)であげたベラルーシ語の з давён-даўна も別に特にくだけた表現というわけではなさそうだし、イリフとペトロフの有名なユーモア小説『12の椅子』でも мало-помало(「ほんの少し」)という表現が出てくる。これらは「大きく大きく」のように文法語尾も含めて全部繰り返すのではなくて語幹だけの繰り返しでシンタクス機能を担う з や по- などの形態素は反復しない。昔話の出だし、「昔々」という言い回しも発話でなく語の反復だと思うが、意味の強調というより単に口調を揃えるためだろう。
「強調」についてはあとでもう一度見てみたいと思うが、日本語では語の反復によって複数を表現することも多い。「人々」が典型だが「村々」「国々」「山々」「木々」「家々」などいくらもできる。当然のことながら不可算名詞にはこの作戦は使えない。「海々」「空々」「川々」という言葉はない。川や海は英語などでは不可算名詞扱いされていないが、島国日本では水は皆繋がっているから川も海も結局一つの水という感覚があるのかもしれない。空も一つだから反復が効かないが、「星々」はOKである。また外来語や漢語にはこれができない。「町々」はいいが「都市々々」はダメ、「村々」がよくて「村落々々」はNG、「家々」は大丈夫なのに「ビルビル」や「建物々々」がありえないのはそのためだろう。さらに見ていくと、ある程度上位の観念、言い換えるとある程度包括的な意味の名詞しか繰り返せないようだ。「木々」はいいが、「松々」「桜々」が許されないのは「松」や「桜」は意味が狭すぎるからだと思う。
教えてきてくれた方がいるが、米原万里氏のエッセイにこんなエピソードがあったそうだ:日本語を話すロシア人が何人も平気で(?)「話々」という言葉を使うの
で,氏がいぶかって出所を調べたら、いやしくもモスクワ大学の日本語学の教授が「話々」という表現を「反復による複数表現」として「人々」と同列に置いていたとわかったそうだ。ではその教授はいったいどこからそんな例を持ち出してきたのかが気になる。「話」は不可算名詞だから反復は効かない。
実は反復で表されるのは単なる複数ではない。その際明らかに distributive、分配態的な意味を(『194.動作様態とアスペクト その1』参照)帯びてくる。each あるいは every のニュアンスだ。「日々これ平安」の「日々」は「毎日、日ごと」だし、「月々の生活費」も毎月毎月必ず出ていくから苦労するのだ(ちなみにここの毎月毎月という表現は最初に述べたような発話の繰り返しだろう)。「口々に叫ぶ」も皆が一斉にコーラスしたのではない、各自バラバラに大声を上げるから不協和音MAXとなる。
「隅々まで点検する」「言葉の端々に感じ取れる」「ところどころに誤字がある」などの表現にも distributive なニュアンスはあきらかだ。さらに元の、繰り返さない前の形態素の意味がすっかり薄れ反復形でしか存在しない言葉もあるが、その場合でも distributive な意味合いだけはしっかり保持されている:時々、たまたま、しばしば、もろもろ、さまざまなど。
つまり反復によって表される意味は「分配態的複数性」なのである。
実は日本語と太平洋を渡った対岸にある(あった?)古典ナワトル語(以下単にナワトル語と呼ぶ)も反復による分配態的複数性表現がある。ただしナワトル語は語幹や形態素でなく語の最初のシラブルを繰り返す。つまり繰り返しが文法に組み込まれているので「繰り返し」だの「反復」だのという語レベルの日常用語でなく Reduplication という専門用語を使ってハクをつける。日本語では「畳音」あるいは「重字」と訳されている。ナワトル語はややこしいことに普通の(つまり分配性のない)複数形を畳音で作ることがある。「ことがある」というのはナワトル語では複数形のパターンがいくつかあるからで、畳音を使うのはその中の二つだ。それぞれ /R-’/、/R-tin/と表されるパターンで、Rというのが Reduplication、畳音のことだ。最初のタイプは頭のシラブルを繰り返し、語幹の後に声門閉鎖音を追加する。第二のタイプは、頭を重ねた後 -tin という接尾辞をつける。これら複数形パターンは分配態的複数(下記)とは畳音のしかたが違っている。まず、単なる複数形を見てみよう。

Ca ō-ōme-ntin in to-pil-huān in Pedro
(there + R:-two-pl + the + 2.pl-child-pl + the Pedro)
これは「ペドロも私もそれぞれ2人子供がいる」という意味だ。さらに「1」(cē)を畳音化した cēcem- という形態素を接頭辞をして「日」「月」「年」(それぞれilhuitl、mētztli、xihuitl)という語につけるとそれぞれ「毎日」「毎月」「毎年」の意味になる。「日」の例だが、次の2文を比べてほしい。わかりやすいように形態素の境目にハイフンを入れてみた。
Cē-cem-ihuitl ni-yauh tiyānquiz-co
(R:-one-day + 1.sg-go + market-to)
私は毎日市場へ行く。
Cen-yohual cem-ilhuitl ō-ni-coch
(one-night + one-day + perfect-1.sg-sleep.Past)
私は一昼夜眠り続けた。
畳音がつかないと「毎~」という意味にならない。
ナワトル語には CV: 型畳音の他に CV’ 型というパターンがあって、これが(数詞でなく)名詞について分配態的複数を表す。’ というのは畳音の母音の後ろに声門閉鎖音が来るという意味だ。CV: 型と違って母音は伸びない。ちょっと次の文を比較してほしい。二番目の文では chāntli(「住まい」)という名詞に畳音が現れている。
Īn-chān ō-yà-quê
(3.pl-home + perfect-went-3.pl)
Īn-chá-chān ō-yà-quê
(3.pl-R'-home + perfect-went-3.pl)
最初の文は「彼らは彼らの(一軒の)家に行った」という意味だが、二番目のは「彼らはそれぞれ自分の家に行った」である。この分配態的複数は普通の複数形が作れない非生物でもOKなのがわかる。もう一つ。
Qui-huīcâ in tiyàcā-huān in ī-chì-chīmal
(3.sg-bring.pl + the + warrior-pl + the + 3.pl-R'-shield)
これは戦士たちが単に盾を複数持ってきたのではなくて「それぞれめいめい」盾を抱えていたという意味だ。
この CV’ 型畳音は名詞ばかりでなく形容詞にも付加できる。例えば「大きい」は huēyi だが、これにCV’ 型畳音を重ねてみよう。
Huè-huēyi in cuahuitl
(R'-big + the + tree.sg)
これによって形の上では単数の「木」が複数の意味合いを帯びる。「これらの木々は皆大きい」で、一本一本の木が視野に入っているあたり、やはり分配的だ。さらに日本語の「日々」にあたる「毎~」というニュアンスも形容詞の CV’ 型畳音で表せる。
Ni-tlāhuāna in huè-huēyi ilhui-tl ī-pan
(1.sg-get drunk + the + R'-big + day-Abs + 3.sg-on)
ロシア語で「とても悲しい」を грусно- грусно と「悲しい」を二つ重ねているのをみたことがある。これも確か童話のテキストだった記憶があるので日本語の「きれいなきれいな」と同じメカニズムかと思うが、よく見てみるとこれはあくまで単語あるいは語幹の繰り返しで、発話の反復とは質が違う。だからなのか大人用の(?)文学でも頻繁に見かける。『33.サインはV』参照)であげたベラルーシ語の з давён-даўна も別に特にくだけた表現というわけではなさそうだし、イリフとペトロフの有名なユーモア小説『12の椅子』でも мало-помало(「ほんの少し」)という表現が出てくる。これらは「大きく大きく」のように文法語尾も含めて全部繰り返すのではなくて語幹だけの繰り返しでシンタクス機能を担う з や по- などの形態素は反復しない。昔話の出だし、「昔々」という言い回しも発話でなく語の反復だと思うが、意味の強調というより単に口調を揃えるためだろう。
「強調」についてはあとでもう一度見てみたいと思うが、日本語では語の反復によって複数を表現することも多い。「人々」が典型だが「村々」「国々」「山々」「木々」「家々」などいくらもできる。当然のことながら不可算名詞にはこの作戦は使えない。「海々」「空々」「川々」という言葉はない。川や海は英語などでは不可算名詞扱いされていないが、島国日本では水は皆繋がっているから川も海も結局一つの水という感覚があるのかもしれない。空も一つだから反復が効かないが、「星々」はOKである。また外来語や漢語にはこれができない。「町々」はいいが「都市々々」はダメ、「村々」がよくて「村落々々」はNG、「家々」は大丈夫なのに「ビルビル」や「建物々々」がありえないのはそのためだろう。さらに見ていくと、ある程度上位の観念、言い換えるとある程度包括的な意味の名詞しか繰り返せないようだ。「木々」はいいが、「松々」「桜々」が許されないのは「松」や「桜」は意味が狭すぎるからだと思う。
教えてきてくれた方がいるが、米原万里氏のエッセイにこんなエピソードがあったそうだ:日本語を話すロシア人が何人も平気で(?)「話々」という言葉を使うの
で,氏がいぶかって出所を調べたら、いやしくもモスクワ大学の日本語学の教授が「話々」という表現を「反復による複数表現」として「人々」と同列に置いていたとわかったそうだ。ではその教授はいったいどこからそんな例を持ち出してきたのかが気になる。「話」は不可算名詞だから反復は効かない。
実は反復で表されるのは単なる複数ではない。その際明らかに distributive、分配態的な意味を(『194.動作様態とアスペクト その1』参照)帯びてくる。each あるいは every のニュアンスだ。「日々これ平安」の「日々」は「毎日、日ごと」だし、「月々の生活費」も毎月毎月必ず出ていくから苦労するのだ(ちなみにここの毎月毎月という表現は最初に述べたような発話の繰り返しだろう)。「口々に叫ぶ」も皆が一斉にコーラスしたのではない、各自バラバラに大声を上げるから不協和音MAXとなる。
「隅々まで点検する」「言葉の端々に感じ取れる」「ところどころに誤字がある」などの表現にも distributive なニュアンスはあきらかだ。さらに元の、繰り返さない前の形態素の意味がすっかり薄れ反復形でしか存在しない言葉もあるが、その場合でも distributive な意味合いだけはしっかり保持されている:時々、たまたま、しばしば、もろもろ、さまざまなど。
つまり反復によって表される意味は「分配態的複数性」なのである。
実は日本語と太平洋を渡った対岸にある(あった?)古典ナワトル語(以下単にナワトル語と呼ぶ)も反復による分配態的複数性表現がある。ただしナワトル語は語幹や形態素でなく語の最初のシラブルを繰り返す。つまり繰り返しが文法に組み込まれているので「繰り返し」だの「反復」だのという語レベルの日常用語でなく Reduplication という専門用語を使ってハクをつける。日本語では「畳音」あるいは「重字」と訳されている。ナワトル語はややこしいことに普通の(つまり分配性のない)複数形を畳音で作ることがある。「ことがある」というのはナワトル語では複数形のパターンがいくつかあるからで、畳音を使うのはその中の二つだ。それぞれ /R-’/、/R-tin/と表されるパターンで、Rというのが Reduplication、畳音のことだ。最初のタイプは頭のシラブルを繰り返し、語幹の後に声門閉鎖音を追加する。第二のタイプは、頭を重ねた後 -tin という接尾辞をつける。これら複数形パターンは分配態的複数(下記)とは畳音のしかたが違っている。まず、単なる複数形を見てみよう。

単数形の語尾の -tl は絶対格マーカーといい、「ナワトル」 nahuatl の「トル」もこれだ。この音はしかし日本語の「トル」でないことはもちろんだが tl でさえない。測音破擦音という一つの音なので誤解を避けるために λ で表すことがある。母音に後続すると -tl、子音の後だと -tli だが、先行子音が l だと l になるので本来 piltli になるはずの「子供」が pilli という形をしている。稀にこの絶対格がつかない名詞もある(「魚」、「星」)。ローマ字はスペイン語読みが基本で、cu は ku、ci は si、(ここには出てこないが)qui は ki、z は s。さらに uc、cu はどちらも円唇の kw だが、前者は子音の後(「首長」)または語尾、後者は母音の前で綴られる。同様に uh、hu はどちらも w で、前者が子音の前と語尾、後者が母音の前。âなど語尾の母音に屋根がついているのはその後に声門閉鎖音が来るという意味で、語中の母音の後の声門閉鎖が来る場合は ù、à など逆向きアクセント記号(?)で示す。ìtoa(「言う」)など。また複数形があるのは基本人間や動物など生物に限られ、石だの木(厳密にいえば生物ですけどね)だのには単数形しかないが、例外として「人格化された非生物」が生物扱いされて複数形を作れるも名詞がある。上の「山」「星」などがそれだ。
ナワトル語の畳音は複雑な音韻規則がなく母音や子音の変化なしで素直に頭のシラブルが繰り返されることがわかる。ただし母音は長母音になる。
ナワトル語の畳音は複雑な音韻規則がなく母音や子音の変化なしで素直に頭のシラブルが繰り返されることがわかる。ただし母音は長母音になる。
もう一つ、敬意あるいは親愛の情を表すために -tzin という形態素を名詞の語幹と絶対格マーカーの間に挟むことがある。それで「愛しい子」は piltzintli(最後の音が n という子音になるので前対格は -tli)。これを複数にすると語幹とその形態素の頭が両方ダブって pīpiltzitzintin となる。複数マーカーの -tin はそのままだ。
母音が長母音になるのでこのパターンの畳音を CV: 型畳音と呼ぶが、これが名詞でなく数詞につくと分配態意味になる。 every、each の意味だ。「2」は ōme だが、これに畳音をつけてみよう。Ca ō-ōme-ntin in to-pil-huān in Pedro
(there + R:-two-pl + the + 2.pl-child-pl + the Pedro)
これは「ペドロも私もそれぞれ2人子供がいる」という意味だ。さらに「1」(cē)を畳音化した cēcem- という形態素を接頭辞をして「日」「月」「年」(それぞれilhuitl、mētztli、xihuitl)という語につけるとそれぞれ「毎日」「毎月」「毎年」の意味になる。「日」の例だが、次の2文を比べてほしい。わかりやすいように形態素の境目にハイフンを入れてみた。
Cē-cem-ihuitl ni-yauh tiyānquiz-co
(R:-one-day + 1.sg-go + market-to)
私は毎日市場へ行く。
Cen-yohual cem-ilhuitl ō-ni-coch
(one-night + one-day + perfect-1.sg-sleep.Past)
私は一昼夜眠り続けた。
畳音がつかないと「毎~」という意味にならない。
ナワトル語には CV: 型畳音の他に CV’ 型というパターンがあって、これが(数詞でなく)名詞について分配態的複数を表す。’ というのは畳音の母音の後ろに声門閉鎖音が来るという意味だ。CV: 型と違って母音は伸びない。ちょっと次の文を比較してほしい。二番目の文では chāntli(「住まい」)という名詞に畳音が現れている。
Īn-chān ō-yà-quê
(3.pl-home + perfect-went-3.pl)
Īn-chá-chān ō-yà-quê
(3.pl-R'-home + perfect-went-3.pl)
最初の文は「彼らは彼らの(一軒の)家に行った」という意味だが、二番目のは「彼らはそれぞれ自分の家に行った」である。この分配態的複数は普通の複数形が作れない非生物でもOKなのがわかる。もう一つ。
Qui-huīcâ in tiyàcā-huān in ī-chì-chīmal
(3.sg-bring.pl + the + warrior-pl + the + 3.pl-R'-shield)
これは戦士たちが単に盾を複数持ってきたのではなくて「それぞれめいめい」盾を抱えていたという意味だ。
この CV’ 型畳音は名詞ばかりでなく形容詞にも付加できる。例えば「大きい」は huēyi だが、これにCV’ 型畳音を重ねてみよう。
Huè-huēyi in cuahuitl
(R'-big + the + tree.sg)
これによって形の上では単数の「木」が複数の意味合いを帯びる。「これらの木々は皆大きい」で、一本一本の木が視野に入っているあたり、やはり分配的だ。さらに日本語の「日々」にあたる「毎~」というニュアンスも形容詞の CV’ 型畳音で表せる。
Ni-tlāhuāna in huè-huēyi ilhui-tl ī-pan
(1.sg-get drunk + the + R'-big + day-Abs + 3.sg-on)
「大きな日」というのは「祝日」のことで、この文は「私は祝日になると毎回酔っぱらう」、I get drunk on every holiday で、上の文より分配性がより鮮明だ。
この項続きます。続きはこちら。